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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

地球科学者

猿橋 勝子

Katuko Saruhasi

科学技術は、人類の幸せのために役立てなければならない

 2017年のノーベル平和賞は、「核兵器廃絶国際キャンペーン」ICANが受賞しました。核兵器の終わりを訴える活動が称えられたものですが、今から60年以上前に核兵器実験の放射能汚染を実証し、世界にいち早く警鐘を鳴らしたのは、日本の地球科学者・猿橋勝子でした。

 猿橋勝子は1920(大正9)年に、東京の白金で生まれました。兄から9歳離れた待望の女の子でした。ひ弱な甘えん坊で、雨降りの日には「雨はどうして降るのだろう?」と素朴な疑問を持つ少女でした。そんな内気な勝子も小学校6年の学芸会では「一生懸命勉強して、社会に役立つ人になりたい」と、堂々と抱負を述べるまでに成長します。

 女学校卒業後、一旦就職します。しかし、勉学への思いを断ちがたく、医者を目指し難関の東京女子医専(現・東京女子医科大学)を受験。見事合格しますが、方向性が合わないと感じた勝子は、新設されたばかりの帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)に進学したのです。

 物理と数学が大好きで、卒業時は戦時中とあって理系女子は軍関係に高給で引く手あまたの頃。でも、勝子は「戦争に協力するのは嫌」と、後の気象研究所に就職します。周囲から非国民扱いされますが、雨に好奇心を抱いた勝子には天職でした。

「一生懸命に勉強すると、はじめは幾重ものベールの向こうにあった複雑な自然現象が、一枚ずつベールをはがし、からみあっていた自然の神秘が次第に解き明かされてくる」――紫外線やオゾン層、さらに海水中の炭酸物質の研究へと進み、勝子はいち早く地球温暖化問題に取り組みます。そして、自ら微量分析装置も開発。「微量分析の達人」として知る人ぞ知る存在となります。

 1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行いました。間もなく、実験場から160㎞離れた海域にいたマグロ漁船「第五福竜丸」に白い灰が雪のように降り注ぎました。強い放射能を帯びた「死の灰」でしたが、誰も正体が究明できません。最終的にけし粒ほどの灰が勝子に持ち込まれます。

 分析の結果、巨大珊瑚礁が一瞬にして灰になったものでした。あまりの破壊力にショックと憤りを覚える勝子…。しかし、東西冷戦時代、米ソの核実験は加速していきます。1958年にウィーンで開かれた世界婦人集会で、勝子は核兵器の人体に対する影響を訴え、大きな反響を呼びました――「核兵器とそれのもたらす災害について、最もよく知るのは科学者であり、科学者は等しくそれを全人類に伝える義務を持つ」

 さらに、海水の分析に着手。海流に乗って放射能汚染が広い範囲に拡散していることを突き止めます。しかし、アメリカは「安全だ」と反論。「道場破りというところ」――19 62年、42歳の勝子はたった一人で渡米。化学分析の権威であるアメリカ人博士に勝負を挑みます。半年に渡る分析競争の結果、勝子が正しいことが認められたのです。

「科学技術は、人類の幸せのために役立てなければならない」という信念を貫いた勝子は、1980年に定年退官。その退職金で「女性科学者に明るい未来をの会」を設立し、女性科学者を顕彰する「猿橋賞」も創設。男性優位の封建的な科学界での男女格差を憂え、後に続く後輩女性たちを励まし続けたのでした。

Profile

1920~2007年。地球科学者。東京生まれ。23歳で中央気象台(後に気象研究所、現・気象庁)に入る。オゾン層や海水中の炭酸物質を研究。1957年、東京大学より女性第一号の理学博士を授与される。1954年の第五福竜丸事件をきっかけに核実験による大気・海洋の放射能汚染を追究。核兵器廃絶を訴える。男女格差にも声を上げ、女性研究者の活躍のために尽力した。