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二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 前編

0.はじめに


日本の国産二大RPG、といえば「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」であることに異論がある人は少ないだろう。これは両方ともスクウェア・エニックス社のIPであるが、スクウェア・エニックス社は元々スクウェアエニックスの二社が合併してできたものだ(若い人はピンとこないかもしれない)。

ファイナルファンタジーはスクウェア社側のIPであったが、元々任天堂のファミリーコンピュータ(以下ファミコン)で誕生し、育ったIPだった。任天堂とスクウェアは初めのうちこそ蜜月といって良かったのだが、そこから関係をこじらせ、一時は出禁状態であったことが有名だ。

本記事はスクウェアがどのように歴史を紡ぎ、任天堂と近づき、そして破綻させ、そして再度関係を修復させたかを解説するものである。


1.誕生 スクウェア 



まず、スクウェアの創業から解説しよう。徳島県に株式会社電友社という、電気工事会社があった。四国電力の送電線工事を請け負う会社である。この電友社の社長、宮本國一の息子である宮本雅史は早稲田大学に進学したが、在学中にPCの時間貸しビジネスを行っていた。まだパソコンが高価であったため、時間単位で学生相手に貸し出すことが商売として成り立っていた。40‐50台ほどの多種多様なパソコンをそろえていたという。
その経験を活用し、卒業後の1983年、横浜市に電友社のソフトウェア部門として事業所を構える。ソフトウェア部門、という名前だが、実態としては半分がパソコンショップだったり、相変わらずの会員制パソコン時間貸しルームを行っていたりだった。
これは当時としては珍しくなく、桃太郎電鉄や天外魔境で名を馳せたハドソンもパソコンショップを営んでいたし(客に納めるはずのパソコンを勝手に流用してプログラムを作ってたりした)、42年連続黒字決算という記録を現在進行中の日本ファルコムも、もともとはアップルの販売代理店であった。この時期、光栄(現コーエーテクモ)は同じ横浜市でレンタルレコード店を営む傍ら、「川中島の合戦」を開発・販売したり、パソコンを売ったりもしていた。

宮本雅史はこの時期、パソコンやゲームといったソフトウェア産業に対して強い希望を抱いていた。「きっとこの産業は、短期間に、飛躍的にデカくなる。俺は三井物産よりもデカいソフトウェアメーカーを作ってやるんだ」と言っていた。その第一歩が、まさしくスクウェアの設立だった。宮本はソフトウェアの知識はほとんどなかったが、「ゲームだったら作れないけれどもわかる」という意気込みでゲーム作りを進めた。その第一歩として人材収集をはじめるが、その右腕となって働いたのが鈴木尚である。

鈴木尚は浪人生活を過ごした後の1981年に慶応義塾大学に合格、入学していたが、親が「国立に落ちて私立に行った」という理由で仕送りをしてくれなかった。そのため必死に家庭教師のバイトを続ける貧乏学生であったが、とても家庭教師だけでは生活費を賄えなかった。追加のバイトを探すが、見つからない。浪人時代レンタルレコード屋にてバイトをしていたことがあったため、近所のレンタルレコード屋に飛び込みで「バイトさせてください」と志望した。もちろんその店の店長らしき女性からは断られるが、以前レンタルレコード屋でバイトしていた経験を全面に出した結果、採用が決まった。彼は洋楽にとても詳しかったからだ。

ところがそのレンタルレコード屋はとても奇妙な作りで、店の奥には細長い部屋が別個として存在し、そこに慶応の学生たちが出入りし、パソコンでゲームをつくっていた。鈴木は時給50円アップという条件につられ、そちらの事業のほうも手伝うようになった。具体的には毎日毎日やってくる現金書留の山をチェックし、パソコンで作られたゲームを包装し、配送するという作業だった。

そう、このレンタルレコード屋は光栄であり、その店長らしき女性とは襟川恵子社長だった。鈴木はそのまま信長の野望の移植作業に巻き込まれ、必死にプログラミングの勉強をはじめた。
次第に覚え、移植するたびに40万円、50万円という作業料をもらった。これは光栄の売り上げのほんの僅かであったが、学生であった鈴木にとっては大金だった。当時は「こんなぼろい商売ねーな」と思っていたという。

そんな中、アルバイト仲間に誘われ、その知り合いが開いたパソコンサロンへと顔をだした。そこで宮本と知り合うことになる。

宮本は鈴木のことをすぐに気に入り、店員になるよう誘い、鈴木は鈴木で「この貸しパソコンを勝手に使ってゲームを移植すりゃ一儲けできるんじゃないか?」という不純な動機で店員となった。しかし宮本の「俺は三井物産よりもデカいソフトウェアメーカーを作ってやるんだ」発言を聞き、「こいつはアホだ。危ない」と判断し、店から逃げた。

ところが逃げた数日後、ばったり近所の飲み屋で宮本と遭遇してしまう。しばらく宮本になじられ、鈴木は謝り、結局店にまた出るようになった。

鈴木が宮本に「最初になにをやりましょう?」と尋ねたとき、宮本はこう答えた。

「まずは人を集めてほしい」

当時のパソコンゲームはゲームデザインも、シナリオも、プログラミングも、グラフィックも、基本的に同じ人間が一人で作っていた(先のコーエーでも「信長の野望」、「川中島の合戦」は襟川陽一一人でゲームデザインし、一人でプログラミングを行っているし、「ドアドア」も中村光一がキャラクターデザイン以外は一人でやったし、多数の移植作業も一人で行った)。
それを分業制にし、よりいいものを作っていこうと宮本は語った。この発想で鈴木は宮本のことを「ただのアホと違うな」と見直すようになった(ただ分業でゲームをつくるアイデア自体が宮本が初、というわけではないのでご注意を)。鈴木は人材を集めるべく、当時創刊間もないアルバイト求人募集誌、フロムAに求人広告を出した。その時の枠は資金的な問題で一番小さい枠だった。ところが「時給1500円」という当時の相場の三倍程度の時給が載っていた。

鈴木が思わず「本当にそんなに払うんですか?」と確認したところ、宮本は「出さへん」と答えた。いやいや、詐欺でしょ、と詰め寄ったところ、「開発したゲームソフトが売れたら、それに応じた金額を別途支払う。結果的には時給1500円くらいにはなるはずだ」と宮本は答えた。ようするに、ロイヤリティでの後払いを、時給として載せてしまった──というわけである。

この時給の広告効果は絶大であった。40人ほどの学生が応募してきた。その中の一人に坂口博信がいた。後にファイナルファンタジーを生み出すことになる重要人物である。また同時にファイナルファンタジーのゲームデザインを手掛ける田中弘道も友人である坂口の誘いで応募した。面接の際に「時給1500円は払えません」といわれ、全員が目が点になったが。ただ約束通りロイヤリティはちゃんともらえ、坂口は時給1500円を遥かに超える金額を手にすることができた……らしい。

2.始動 スクウェア



彼らが集まって最初に行ったのは、当時ハマっていたAppleIIのアドベンチャーゲームに近いものをつくること、だった。
この頃のアーケードの人気作はゼビウスといったSTGや、パックマンのようなパズルアクションだった。スクウェアの理想としたゲームはそういったものではなく、腰を据えてじっくりと楽しむ、AVGやRPGだった。鈴木がマネジメントを行い、坂口がチームの中心となってシナリオを書きプログラムを行い、田中もプログラムを書いて……と、アルバイトの学生達含めた11人で作り上げたのが1984年発売の「デス・トラップ」だった。


デス・トラップはコマンド入力式アドベンチャーで、諜報員の主人公を捜査し、敵国に誘拐されたジタン博士を救出するのが目的である。


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画面はPC98版 引用元 https://towerofclassicgame.com/deathtrap  ©スクウェア・エニックス


当時としてはまだ珍しいビットマップ方式の一枚絵を出力し、コマンドは日本語カナでも、ローマ字でも、英語でも受け付ける方式を取っていた(コマンド入力アドベンチャーとは、実際にキーボードに 「ミナミ イケ」「アゲル マッチ」といった具合に入力して展開を進ませるゲームである。この手法は当時一般的であったが、ファミコンであらかじめ使えるコマンドが用意されている「ポートピア連続殺人事件」が発売されてから次第に変わっていく)。

華麗なグラフィックスとハードボイルドなストーリーを売りにしたが、このデス・トラップはあまり売れなかった。総出荷本数は3000本程度。これは当時のPC市場から見ても低い水準だった。

しかしデス・トラップはスクウェアのメンバーに経験値を積ませることに成功した。高画質な一枚絵を、当時の貧弱なCPUでなんとか素早く出力させるため、坂口らは試行錯誤を繰り返し、そして徐々に表示速度をあげていった。デス・トラップ完成後も彼らはそのままプログラミングスキルの向上を続けていった。

デス・トラップの開発段階では一枚を表示させるのに1分間のロードが必要だったが、完成品では5秒程度で済むように改善されていた。改善を続け、0.2秒で表示を切り替えることに成功した彼らはPC上で絵をアニメーションさせることを思いついた。

美大出身のデザイナーにキャラデザを依頼し、美少女ヒロイン・アイシャを書かせ、目パチ、口パクを実装……1985年に発売された「ウィル デストラップⅡ」はそのグラフィックとアニメーションで大きな反響を得ることに成功した。


秋葉原の店頭にてデモをかけると、通行人が皆足を止めた、という伝説をつくるまでに至ったこの作品はスクウェア初のヒット作となった。10万本出荷という記録にいたり、PC系雑誌、ログイン誌上での読者人気投票で1985年度18位を獲得している。

そしてこのウィルを開発している最中、スクウェアは当時人気が爆発してきたファミコン向けにソフトを出すため、任天堂とライセンス契約を行った。いくつかの事情が絡んでのことだった。ファミコンが当時年間で1984年で165万台、1985年では374万台出荷されるとんでもないハイペースで売られていた事、それに呼応してソフトも数十万本、百万本と出荷されていたこと、PCと違って単一規格であるため(当時売られていたPCは多種多様だった。NECに限ってもPC80、PC88、PC98などがあり、シャープのX1、富士通のFM-7と、とにかく色々とあった上に、それらに違うバージョンが存在した)、移植の作業量を減らすことができたこと……である。

1985年にはゲームアーツのテグザーをファミコン向けに移植した。が、これのメイン開発は外注である。スクウェアはファミコンのライセンスを7番目に取得した、かなり早期に契約を果たした企業ではあるが、実際に社内で開発を稼働させるにいたるまで少し時間がかかった。ファミコンのスペックと、スクウェアの得意分野がイマイチかみ合わなかったからだ。

スクウェアが得意とするのはビットマップを使った高画質の一枚絵。対してファミコンは、スプライト(背景とは別に動かす図形を描写する方式)を駆使した高速描写だった。スクウェアの源流がPCであるなら、ファミコンは低コストでアーケードゲームを実現するようなハードウェアだった。

シューティングやアクションを遊ぶなら、PCよりも圧倒的にファミコンのほうがいい。しかしそれならゲームセンターで遊んだほうがもっともっと派手なゲームが楽しめる……当時の鈴木はこう考えていて、坂口もアドベンチャーや、RPGこそつくりたいと考えていた。しかしファミコンのスペックではどうしてもミスマッチで、実現は不可能とも思っていた。


3.暗雲 スクウェア



こうしたミスマッチを抱えながら、スクウェアは1986年に独立を果たす。今までは電友社の一部門という立場だったが、株を買い取り、正式に株式会社スクウェアを立ち上げた。社長は宮本で、鈴木は取締役、坂口は取締役企画・開発部長となり、アルバイトの立場にいたスタッフたちの多数が正式な社員になった。本社は銀座の昭和通りに面したビルだった。屋上にはVIP用の展望台があったという。

「なぜいきなり銀座に進出したんだ?」と疑問に思われるかもしれない。これは宮本の「人材を集めるには銀座に構えるのが一番良い」という発想があったからだそうで、実際これを機に新たに人が集まってきた。その中にはアクティブタイムバトルの生みの親、伊藤裕之もいた。

PCゲームである「アルファ」「ブラスティー」を発売し、そのグラフィックとアニメで高い評価を得る、そんな状況だった。

スクウェアに追い風が吹いた。「ディスクシステム」の発売である。任天堂はそもそもファミコンの寿命を2-3年程度と見込んでいた。しかし1983年の誕生から1986年の現在まで、ファミコンの出荷は加速し続けていた。ハードウェア的に拡張させ、寿命をもっと延ばすことができるのではないだろうか、的な思惑を孕んでいた。マスクROMではなく、クイックディスクというメディアをつかうことで、セーブができ、ゲームの容量も3倍まで増やすことができた。

ただこのクイックディスク、マスクROMとは違い、ロードに8秒かかる特性がある。80年代初期の保存メディアであるカセットテープと比較したら比類なき速さではあるが、マスクROMと比較するととにかく長い。その使い方を間違えるとロード地獄になってしまう……というものだった。

スクウェアはこのディスクシステムに乗った。「元々PC畑の俺たちならばディスクは容易に使いこなせる!」。そして伝手をつかい、まだファミコンに未参入だったPCソフトメーカーに声をかけ、一気にディスクシステムにソフトを出そう! と呼びかけた。これによって発足したのがディスク・オリジナル・グループ、DOGである。

スクウェアが発売元となり、DOGに参入した会社のソフトを売り出す。参入した会社はPCゲームの移植や、オリジナルのゲームを作る。流通は任天堂の一次問屋集団、初心会が担当する。そうしてディスクシステムにゲームをどんどん売り出していけば、このファミコンブームで一気に儲かるに違いない……。ざっくりいうとこういう構想だった。

この構想は半分くらいは実現した。ディスクシステムは相応に売れた。それに伴いDOGブランドのゲームも一作で20万本ほど売れた。現在の視点から見ると結構な売れ筋である。ところがこれはスクウェアの目標を大幅に下回っていた。

まず、ディスクシステムは単価が安かった。1985年に発売されたROMカセットのエキサイトバイクの小売価格が5500円であるのに対して、ディスクシステムロンチタイトルであるゼルダの伝説は2600円だったし、スクウェア初のディスクシステム用ゲーム水晶の龍は3400円だ。この年スクウェアがPC向けで発売したブラスティーの小売価格は7900円である。しかもPCでは他社に払うロイヤリティが存在しないのに対し、ファミコン向けタイトルは任天堂に製造委託費を割り増しで支払う必要がある。

しかもこの小売価格の中から他に流通経費がかかった。つまり流通担当の初心会の取り分だ。当時のPC市場では問屋の掛け率はさほど高くなく、高利益で売ることができた。しかしファミコン市場を牛耳っている初心会はそうはいかない。掛け率は悪くなり、いうなれば買いたたかれる羽目になった。初心会はそこから二次問屋を経由し、全国の小売店に流通させているので、ものすごくぼっているわけではない(だからこそ毎回20万本という注文がスクウェアに来た)のだが、スクウェアには当時のファミコン流通に対する知識が足りていなかった。

さらにそこからDOG参加企業に開発費を渡すわけだから、スクウェアの利益は薄利といってよかった。そこに銀座の一等地の高額な賃貸料が絡んでくる。スクウェアの経営はじわじわと危機に近づいていった。

この頃のスクウェアの経営難を示すエピソードがある。鈴木が任天堂に支払う製造委託費(任天堂はソフトメーカーに製造委託費を前払いで徴収していた。これを支払えないメーカーはそもそもファミコンに参入しなくてよい、ということだ)を捻出するため、流通担当の初心会を回ったことがある。

初心会っていう問屋集団が,ある時期は全くファイナンスの役割を果たしてたわけですよ。あまりに量が大きくなると「すみません,お金ないんですよぉ」って言うと手形をくれるわけです。その手形を担保に銀行からお金を借りるわけです。実質的には,ある日突然ファミコン・ブームが終焉しない限りは,返ってくるだろうという。

https://core.ac.uk/reader/12541800  
鈴木尚 インタビュー

当時の任天堂が1メーカーに発売できるソフトの年間本数を制限していた、というのは有名である。しかしディスクシステムにおいてはこの制限がなかったようで、スクウェアは年間で10タイトル以上発売できた。利益を得るためにとにかくタイトルを出した。それらは10万本以上売れ、スクウェアの総売上金額を飛躍的に伸ばすことができたが、同時に支払い金額も伸びたため、経営危機から脱することはできなかった。ほとんど銀座の賃貸料に消えていった、という状況で、家賃を払うためにゲームを作る、という有様だったという。

もちろんそんな自転車操業が長く続くわけがなかった。ディスクシステムは次第に勢いを失い、普及スピードが鈍くなっていった。新しいバンク切り替え技術が導入された結果、マスクROMの容量はディスクシステムを上回り、さらにセーブ機能も実装可能となった。ディスクシステムにメリットは少なくなり、むしろロードのデメリットが目に付くようになってきた。初心会もディスクシステムソフトの発注を絞りはじめ、スクウェアはいよいよ賃貸料を払えなくなった。1987年、スクウェアは銀座を去り、家賃が1/3の上野・御徒町にある古びたビルへ移転した。100人以上いたスタッフの半分はリストラされた。勢いを削がれたDOGは後年に自然消滅している。

この状況下において、坂口は自らの人生を変える一本のゲームソフトと邂逅した。ドラゴンクエストである。


4.誕生 ファイナルファンタジー



当時の坂口は「キングスナイト」「とびだせ大作戦」「ハイウェイスター」と作ってきたものの、どれも自分のなかでは失敗作であったと認識していた。ファミコンというハードの特性と、坂口が目指していた重厚なストーリーものは、やはり一致していなかった。
そんな中にドラゴンクエストと坂口は出会い、衝撃を受ける。

「ファミコンでもちゃんとRPGは実現できるじゃないか!」 

名前を入力でき、そのキャラを操作し、他のキャラと話ができ、買い物があり、ヒントを取得し、鍵をあけ、松明で洞窟を照らし、次の街まで冒険する。そして少ないROM容量を極限まで活用しつくすために圧縮技術がつぎ込まれ、多彩なモンスター達がプレイヤーの目を楽しませた。
「RPGはここまで大衆化できるのか」と唸った。ファミコンを有する小学生が説明書なしでもプレイできるよう、城から出ること自体がチュートリアルになっていた。

坂口は会社に頼み込み、「頼むから一度だけ、好きなモノをつくらせてくれ」と直訴した。この時のスクウェアはまだ銀座に本社があったが、経営危機は社員の周知の事実だった。許可が下り、坂口に新規のRPGプロジェクトへのGOサインが出たが、坂口以外の社員は「これで会社は終わりなんだな」と薄々感じていたという。

幸運なことに、新規RPGプロジェクトに必須な人材が当時のスクウェアにある程度揃っていた。プログラマーにはナーシャ・ジベリ、音楽には植松伸夫。彼らはすでにとびだせ大作戦で坂口と一緒に仕事を行っていた。シナリオはスクウェア副代表(営業部門担当)である斎藤哲の友人である寺田憲史が手がけることになった。

寺田はアニメ・特撮の脚本を手がけていた男で、ゲームにはあまり詳しくなかった。詳しくなかったが、坂口との酒の席にて、熱を帯びた口調で「ゲームで人を泣かしてみたい」と言われたことで火が付いた。未知のメディアで面白そうな世界が描けるのではないかと思った。
スクウェアの依頼を受け、ストーリーを作り上げながら、坂口に映画技巧を教えていった。そして寺田はアニメで一緒に仕事をしたことがある(といっても面識があるわけではなかったが)、天野喜孝に連絡をとり、キャラクターデザインを依頼した。天野喜孝は快諾し、いよいよ以て新規RPGプロジェクトが動き出した。坂口はこれに「ファイナルファンタジー」というタイトルをつけた。

坂口は略称が「えふえふ」になるようなタイトルを付けたいと考えていた。だからこそ「Final Fantasy」と命名したわけだが、それとは別に、スクウェアの内情は危機的状況だった。よく言われる「これでもう駄目だったら最後になるから、ファイナルファンタジー」という説は、正しくはないものの、このときのスクウェアの状況的には完全に正しいといえる。

ファイナルファンタジーの開発期間はおよそ10ヶ月だった。これは当時の開発事情からみるとかなりの長期になる。ドラゴンクエスト1から2はおよそ7ヶ月で作られた。ファイナルファンタジーは新規IPのRPGとしては大作だった。

そうして作られていったファイナルファンタジーだが、当初会社側としては「そこまで売れない」と見込まれていた。坂口一人だけが「これは50万本売れるから50万本作ってくれ」と頼み込んでいた。ファイナルファンタジーはROMカセットである。前述の通り、50万本作るためには前金で云億円という金を任天堂に支払う必要があった。その上初心会から注文が来なかった場合は、その在庫を自社で確保する必要がある。リピート発注がくればいいが、来ない場合は給料が現物支給の可能性が生まれる。ほとんど博打といっていい話だった。

坂口は営業活動にも全力を尽くした。この時代、様々なゲーム雑誌が生まれていたが、その編集部にそれぞれファイナルファンタジー実物を送りつけたのである。営業トップである斎藤も初心会を毎晩駆け回って営業活動を行った。毎日、ではなく毎晩であるのは……つまりそういうことだ。

坂口らに幸運な出来事が一つ起きた。この時期、本来87年12月発売予定だったドラゴンクエスト3が来年2月に延期してしまったのだ。初心会は一番売れる年末商戦に、売るための商材を減らしてしまった。かわりになる商材を探し、そしてファイナルファンタジーの存在に気がついた。ドラゴンクエストっぽいRPGで、出来映えは良さそうだった。まあまあ売れるんじゃないか。初心会からの好意的印象があり、40万本の注文がスクウェアにやってきた。そのままスクウェアは任天堂に40万本の発注をかけることにした。これは大きな数字であった。

さらに幸運は続いた。ファミコン通信が、スクウェアから送られてきたファイナルファンタジーの出来に感銘をうけ、発売前の12月25日号で特別付録の特集を組んでくれた。その上、クロスレビューは8.9.9.8点で、同時期発売のウィザードリィの8.8.9.8点より上だった。この広告効果は絶大だった。

結果、ファイナルファンタジーは大量に売れ、リピート販売がかかった。最終的な出荷本数は51万本で、小売金額換算で約30億円売り上げることができた。社員一同が「息を吹き返した」と感じた。坂口は成功を喜び、さっそく続編である2の制作にかかった。次第にユーザーからも「スクウェアというなかなか面白いRPGメーカーがあるぞ」と周知されはじめた。

初心会からも次第にスクウェアは特別視されだしてきた。ファイナルファンタジー2には最初から多くの注文が集まり、在庫管理が大変になった。そしてゲームボーイが誕生し、そこでもゲームボーイ初のRPG、魔界塔士Sa・Gaがスクウェア初のミリオンヒットを刻むと、スクウェアの名声は確立された。ファイナルファンタジー3では100万を超える注文がスクウェアにやってきた。スクウェアは一流メーカーの仲間入りを果たし、そして任天堂からも特別な待遇を受けるメーカーとなった。

5.羨望 ファイナルファンタジー



90年2月にはスクウェアは御徒町のオンボロビルを退き、港区赤坂へ移転した。同時に大阪にも開発部を新設。その規模を拡大していった。この頃からスクウェアは「ドラクエのエニックス、FFのスクウェア」として二大RPGメーカー扱いをされ出してきた。販売本数的にはまだドラクエに見劣りするものの、クオリティは並ぶレベルであった。ゲームボーイにはサガシリーズ、スーパーファミコンにはFF本編と、それぞれ出すソフトが次々にミリオンヒットとなる、という驚異的なメーカーに成長した。

この頃、任天堂がスクウェアとエニックスを特別扱いした理由は「ミリオンメーカーだから」という以外にもう一つある。この二社は任天堂以外にこの主力IPを供給していないのだ。スクウェア、エニックスともに80年代はPCにも注力していたが、ドラゴンクエストは2を最後にPCに展開することは止めてしまったし、ファイナルファンタジーも1はMSXにて展開したが、2以降はPC向けの展開を中止した。スクウェアはPC向けの展開を止め、任天堂機オンリーのメーカーとなり、エニックスもPC向けは展開しないわけではないものの、ドラゴンクエストは任天堂機オンリー、となって任天堂から優遇措置を確保した。

この優遇措置とはどういうことか? ファミコンでは自社生産のROMカセットというものが存在した(ナムコやコナミがその権利をもっており、独自形状のカセットを作って売ることが許された)が、スーパーファミコンでは認められておらず、全て任天堂製だった。任天堂は日本製のマスクROMにこだわり、しばしば自社製品とサードパーティの要求するROMの合計が、取引工場の総生産量を上回るため、欠品することを余儀なくされた。

この場合任天堂は何をするか? 自社含めサードパーティの生産を少しずつ減らして調整……なんてことはしない。自社の分の生産を優先し、サードパーティの生産量を全体的に減らすのだ。任天堂は各社とも注文は受け付けるが、その注文数を左右する権利を有していた。つまり好きなように好きな分だけ減らして調節することができたのだ。

ところがドラゴンクエスト・ファイナルファンタジークラスとなると流石の任天堂でも手を付けられる領域ではなかった。任天堂は公平に、きちんと全てのソフトを吟味し、優先すべきソフトと、そうではないソフトとを区分けした。そしてスクウェアは優先すべきソフトメーカーだった。そうではないソフトメーカーからは、羨望と嫉妬のハーフアンドハーフな視線で見られることになった。

そして他社から複雑な視線を送られる事情がもう一つあった。

この時代、初心会と呼ばれる任天堂の一次問屋が流通の要になっていたことは前述のとおりである。他の、各社メーカーお抱えの問屋もちゃんと別個に存在していたが、やはり初心会の力は凄まじいものがあった。二次問屋を含め、取引する小売店の数は2万5千店とも言われている。

それらの問屋・小売はファイナルファンタジーがでるぞ、とアナウンスがかかると、他のソフトの注文数を絞り、余剰資金を作ろうとするのだ。そしてファイナルファンタジーの注文を一気に入れる。つまり、市場の金をスクウェアが総取りする形になってしまうのだ。その発売日の前後は他のメーカーは受注活動を行っても、大した注文に繋がらなかった。初心会に頭を下げて注文を掴んできたかつてのスクウェアは、次第にその立場を変えていった。

それを他社から見た場合はどうなるか? 「奴らは任天堂のお気に入りであるばかりか、俺らの商売の邪魔をしているぞ」ということになる。ROMの生産数が減らされ、問屋の注文数すら削られる、というわけだ。その当時のスクウェアは競争相手として分が悪すぎた。ファイナルファンタジー5は1992年の12月発売、年末商戦の真っ只中に投下された。これに巻き込まれた他社の営業はたまったものではなかったのではないだろうか。

そんな最中、スクウェアは新たなる体制をつくっていく。創業者宮本が社長から退いたのだ。1991年12月、スクウェア社長の座を協和銀行(後のあさひ銀行、現在りそな銀行)出身の水野哲夫に譲る。本人はスクウェア株を50%以上保有したまま、以前から強い関心を抱いていたアパレル業界に進出することになった。水野社長を開発部門副社長の坂口、管理部門副社長の鈴木が支える集団指導体制となった。


6.混乱 ファイナルファンタジー



スクウェアは1994年、株式店頭公開を果たした。その間もスーパーファミコンでミリオンヒットを連発する。それは他社からの羨望と嫉妬を加速させる羽目になった。それを裏付けるような怪しい噂を一つ紹介しよう。

1993年、スクウェアから聖剣伝説2が発売された。その際、あまりにバグが多すぎたため回収し、再生産する羽目になった。これの負債がとてつもなく大きく、スクウェアは経営難に陥った。もう終わりだ……。

実態としてはそもそも回収などされておらず、そのまま消費者のもとに届けられた(小売店にはボスを撃破したあとにはセレクトを押さないよう指導すること、と書かれたFAXが届いた)。一部でこの噂が広まり、他のメーカーのスタッフに届き「スクウェアは危ないらしい」という認識に繋がった。それは事実ではなく願望であった。とにかくこの時代、真偽不明の噂が流通を使って広まっていった。

そんなスクウェアであったが、一つ問題が発生した。任天堂がこの時期トラブルを引き起こしたプレイステーション0に巻き込まれていたのである。プレイステーション0は、もともとソニーが発売予定のスーパーファミコン用CD-ROM拡張機器である(本来はプレイステーションであるが、後に発売されたプレイステーション1と区別をするため、プレイステーション0と呼称する)。

もともとスクウェアはCD-ROM計画に前のめりであり、プレイステーション0用ソフトとして「マルトリ」というプロジェクトを進めていた。鳥山明をキャラクターデザインとして起用し、ジャンプ編集長鳥嶋和彦の協力を得て坂口が指揮を取るRPGで、これがプレイステーション0第一弾になる予定だった。

ところが肝心のハードがでない。いつになってもでない。それどころか任天堂はソニーを見切ったようで、フィリップスと提携し自前でハードを出すという。

ソフトメーカーに混乱が起きた。いったいどうすればいいのか。この辺りの混乱は拙記事にて解説を行っているので興味のある方はこちらも読んで頂きたい。


スクウェアは取り急ぎ開発を続けていたが、やはり出ない。出ない。出ない。しかたなく「完成している分を切り離して、ROMカセットソフト用として発売しよう」という結論にいたった。こうして元の「マルトリ」プロジェクトから離され、完成したのが「聖剣伝説2」である。

聖剣伝説2はミリオン売れ、それとは別にマルトリプロジェクトも進行していた。ところがやはりCD-ROM機はでない。1993年発売予定と1992年時点でアナウンスされたが、93年8月に聖剣伝説2が発売されたあとでもCD-ROM機は姿形を見せなかった。終いにはソニーが自前でCD-ROMを活用してゲーム機を作る……なんて話も聞こえてくる。ここでスクウェアはマルトリプロジェクトを方針転換し、聖剣伝説2と同じようにROMカセットへと転換した。こうして発表、発売されたのが「クロノ・トリガー」である。

このように任天堂のゴタゴタにスクウェアは巻き込まれていたが、次第にCD-ROMの大容量と、3Dポリゴンの描写に興味が向かっていった。90年代当初、アーケードではポリゴンをつかったレースゲームが人気を加速しはじめていた。任天堂もスターフォックスという3DポリゴンSTGを出していた。

この表現方式はゲームに新たな地平を切り開くのではないか……。任天堂はCD-ROM機でゴタゴタしていたが、同時にスーパーファミコンの後継機はしっかりとしたビジョンを見せていた。SGI(Silicon Graphics International Corp。当時の業務用CGワークステーション最大手兼最高性能の会社)と提携し、3Dポリゴン処理機能を前面に押し出す。スクウェアもすぐに3D技術の習得に乗り出した。SGIからワークステーションを購入した。

その習作として当時発売されたばかりのファイナルファンタジー6が選ばれた。そのキャラを3D化し、戦闘するデモを作っていった(これは1995年8月のコンピュータグラフィックスの国際コンベンション、シーグラフにて公開された)。そして同時にスーパーファミコン最後のファイナルファンタジーとなるファイナルファンタジー7も開発を始めていった。

3Dポリゴン技術習得のためにスクウェアは人材獲得に動く。橋本和幸がここで合流した。彼はNHKの『驚異の小宇宙 人体』にて、そのCGを構築するマシンを担当したスペシャリストだった。

問題がいくつか発生した。任天堂が次世代機用の開発キットを用意してくれないのだ。その上送られてくる仕様表の内容もコロコロと変わっていく。橋本は悩みながらもよくある標準的な仕様で、どんなことができるのか坂口らと検討していった。こうして3Dについて深く研究していくと、次第にスーパーファミコンの2D処理で新しいことをするのはもう無理なのではないか、という考えも浮かんできた。その頃、クロノトリガーの開発が難航していたので、とりあえず開発を凍結し、チームをそちらに合流させようということになった。最終的にスーパーファミコン版ファイナルファンタジー7の開発は正式に中止された。

遅れて任天堂から正式な次世代機の開発キットが届いた。坂口らはさっそく何ができるか、模索はじめた。クラウド、バレット、レッドXIIIといったキャラクターがデモ用にデザインされた。

しかし坂口は次第に任天堂の次世代機……ニンテンドウ64に対して不満を抱くようになっていった。これはCD-ROMではなく、スーパーファミコンの延長線上にあるROMカセットだった。容量が足りないのだ。

同時期、SCEがスクウェアに接近していった。是非ともプレイステーションに参入して貰いたい、というのだ。これにたいして坂口やスクウェア経営陣は「我々は任天堂と協力するのが基本姿勢です」とやんわりとしたお断りの態度で済ませた。しかしSCEの態度は堂々としていた。「このことを任天堂に伝えてもよろしいですか?」と聞くと「もちろんです。どうぞ彼らに見せて下さい。我々は私たちが何をしているのか、あなた方に知ってもらいたいだけなのです」と答えた。最終的にプレイステーションの開発キットを置いていった。

スクウェアは本格的に3D用のベンチマークソフト(ハードの性能を測る実演的ソフト)を作り上げ、プレイステーション、ニンテンドウ64両方で実行した。これは2Dのスプライトが画面上で跳ね返る単純なものだったが、結果は驚くべきものだった。プレイステーションの描写性能の半分にも、ニンテンドウ64は達していなかった。

「ハードウェアが標準にも達していない。明らかにパフォーマンスが足りない」

スクウェアから任天堂に何度も要望が送られた。任天堂はそれを貴重な意見として受け止めた……はずだったが、後になって送られてきた改良版でも、パフォーマンスはたいして変わらなかった。

スクウェア内でベンチマークの最適化が行われた。もう少しポリゴンがでるようにならないか、創意工夫がなされた。結果は散々だった。坂口ら、スクウェアの技術陣はニンテンドウ64に失望しはじめた。

スクウェアはこの事実を任天堂に伝えることにした。「CD-ROMを採用すべきです。容量が全く(全く!)足りません」「このN64は帯域幅が足りていません。これでは我々が作りたいと思っているRPGを表現することができません」それらの訴えに任天堂は耳を傾けたが、傾けただけだった。大幅な仕様変更は、結局なかった。

そしてもう一つ、価格にも問題を抱えていた。ファイナルファンタジー6の小売価格は11400円(税抜き)だった。これ以上価格を上げるのは無理なのではないか、という考えがスクウェアにはあった。

この小売価格にはいくつかの事情があった。この時代、任天堂に委託してROMカセットを作って貰ったわけだが、そのROMの容量によって価格は変わっていた。容量が大きければ大きいほど高いのだ。それにセーブ機能を足すと、それ用のSRAMの代金が余計にかかった(なお、この時期拡張用コプロセッサをROMに内蔵するゲームもでてきたが、それもオプション代金を取られた)。

ファイナルファンタジー6は24Mbit(=3MB デジカメの写真一枚分である)だった。それでも容量は足りていると坂口は思っていなかった。ニンテンドウ64で発売予定のマリオ64の容量は8MB。CD-ROMの容量は650MB。その差はあまりに圧倒的であり、これ以上小売価格を上げることも不可能だった。

それに小売価格にはROMカセットだけではなく、流通事情が絡んでいた。初心会や小売店、その他二次問屋といった流通の取り分が半分近くを占めていた。1万円を超える小売価格ではあるが、およそ三割を任天堂に製造委託費として支払い(当時サードパーティ毎に製造委託費は違っていたので、もしかしたらスクウェアはもっと優遇されていたのかもしれない)、半分を流通経費として払えば、スクウェアとしての取り分は2割程度しか残っていなかった。次第にスクウェアは初心会との取引を疑問視するようになっていった。自分たちが直接小売店に卸せば、もっと取り分を増やしたり、小売価格を下げることができるではないか。

ただし任天堂のもとでは流通改革は難しかった。任天堂と初心会の結びつきは95年時点ではなおも強固であった。なにせバーチャルボーイという問題児を初心会に引き取って貰っているのだから。小売店に直接物を卸す、直流通をしたい……と任天堂に申し出ても、OKが出るとは思えない。

以前、任天堂が行ったニンテンドーエンターテインメントというフランチャイズを真似し、小売店にスクウェアブースが設置できるようなシステムを構築しようとした。5万円で特約店として契約できる、というものだったが、任天堂が待ったをかけてそのシステムは空中分解した……という噂があった。この時点ではスクウェアは任天堂の支配下からは脱することができていなかった。

坂口らと、スクウェアの上層部は博打を打つことにした。スクウェアの未来のため、新しいゲームの地平を切り開くため、任天堂の支配下から今こそ飛び立つべきなのだ。

SCEと交渉の席についた。その時に提示したロイヤリティや、数々の条件は驚くほどスクウェア優位だった。SCEの宣伝枠を使って広告してくれることも約束してくれた。さらに国外の広告も二人三脚で行ってくれることも約束した。

スクウェアは1986年の独立以来、海外事業部をつくり、海外に対して力をきちんと注いでいたが、実はセールスはイマイチ振るわなかった(FF1よりも坂口が失敗作とみなしたハイウェイスターのほうが売上は上だった)。これはスクウェアだけではなく、ドラゴンクエストの海外版DRAGON WARRIORも振るわなかった。あまりに売れなかったので、FFシリーズはFF6まで出ているのに、アメリカでは三作しかローカライズされなかった。そのためFF6はアメリカではFF3として発売された。その海外版FF3も日本国内ほど売れなかった。

SCEは信頼たるパートナーだ。スクウェアはそう判断した。そう判断したあと行わなければならなかったのは、任天堂との決別だった。

――中編へ続く

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参考文献

ルーカスを越える 寺田憲史

ゲーム立国の未来像 矢田真理

ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち デヴィッド・シェフ

証言。「革命」はこうしてはじまった  赤川良二

久夛良木健のプレステ革命  麻倉怜士

ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 滝田誠一郎

ファミコンとその時代 上村雅之


参考Webサイト

https://core.ac.uk/reader/12541800


http://maximum.minimum.me/m/index.php?FrontPage


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