上智大生殺人放火事件は、1996年9月に東京都葛飾区の民家で上智大4年の小林順子さん(当時21歳)が殺害され、自宅に放火された事件である。柴又女子大生殺人放火事件などとも呼ばれる。小林さんは事件の2日後に米国留学を控えていた。警視庁は小林さんの交友関係を中心に捜査を進め、遺族も情報提供を求める活動を積極的に行っているが、有力な手がかりはなく現在も捜査が続いている。
事件概要
事件名 | 上智大生殺人放火事件 |
発生日時 | 1996年9月9日午後3時50分~同4時40分ごろ |
場所 | 東京都葛飾区柴又3の住宅 |
被害者 | 上智大4年の小林順子さん(当時21歳) |
容疑者 | 逃走中(血液型がA型の男) |
動機 | 不明 |
特徴 | 殺害後に現場の住宅に放火 |
上智大生殺人放火事件は96年9月9日(月曜日)の日中に発生した。東京の下町として知られる葛飾区柴又3の住宅2階で、米シアトルへの留学を2日後に控えていた小林順子さんが刃物で首などを刺されて殺害され、自宅が放火されて全焼した。
警視庁は、殺人・放火事件として亀有署に捜査本部を設置(正式名称は柴又三丁目女子大生殺人放火事件特別捜査本部)。現場には犯人のものとみられるA型の血液が残され、男のDNA型も検出されている。捜査本部は延べ11万人以上(2022年現在)の捜査員を投入しているが、発生から四半世紀以上が過ぎても未解決となっている。
被害の状況
事件の発覚は近隣住民からの通報だった。1996年9月9日午後4時40分ごろ、現場の隣に住む人が小林さん宅から出火しているのに気付いて119番した。木造モルタル2階建ての住宅約90平方メートルが全焼。小林さんは2階から運び出されたが、首や顔に数カ所の刺し傷があり、既に亡くなっていた。
司法解剖の結果、死因は失血死だった。遺体の傷痕から凶器は幅約3センチの先端のとがった片刃の刃物とみられており、刃の長さが8センチ以上ある果物ナイフやペティナイフなどと推定されている。
小林さんは2階にある両親の部屋(6畳間)で倒れていた。遺体の上から布団が掛けられており、着衣に乱れはなかった。口と両手は粘着テープで巻かれ、両足はストッキングで縛られていた。手には、犯人から身を守ろうとした際にできたとみられる「防御創」があった。
小林さんに火災の煙を吸った形跡がなく、2階の床が焼け落ちていることなどから、犯人は小林さんを殺害後に粘着テープやストッキングで縛り、1階に火を放って逃走した可能性が高いとみられている。
小林さんは両親と姉の4人暮らし。事件当日、父と姉は外出中で、母親が午後3時50分ごろに勤務先の美容室に出掛けた後は1人で自宅にいた。火災の119番通報が午後4時39分だったため、母親の外出から通報までの約50分の間に事件に巻き込まれたとみられる。
犯人の手がかり
(1)DNA型
1階玄関付近で発見されたマッチ箱に微量の血液が付いており、血液型は家族のものと一致しないA型であることが判明した。このマッチ箱は、犯人が放火する際に使用したとみられている。
2014年、捜査本部が2階で発見された小林さんの遺体に掛けられていた布団に付いた血液を最新の技術で鑑定したところ、家族とは異なるDNA型が検出され、マッチ箱に付いていた血液ともDNA型が一致した。性別が男であることも明らかになった。
捜査本部は、このDNA型は犯人のものとみている。血液は、犯人が小林さんを刺した際に負傷、出血して布団などに付着した可能性がある。
捜査本部は、警察庁のデータベースに登録されている過去の事件の容疑者や、犯行現場の遺留物のDNA型との照合を進めている。小林さん宅の近隣住民などからも任意でDNA型の提供を受けて調べているが、一致するものは見つかっていない。
データベース記事から |
(2)コートを着た不審な男
捜査本部には、事件直前に現場付近で「コートを着た不審な男を見た」という目撃情報が2件寄せられている。
それによると、母親が外出した直後の午後3時55分ごろ、小林さん宅の玄関前で、不審な男が表札か2階あたりを見ていたという。年代や顔の特徴ははっきりしないが、身長約160センチで、体格は中肉か少しやせ形。黄土色っぽい襟付きのコートに黒っぽいズボン姿だった。
事件当日は朝から雨が降り、11月初旬並みの寒さだったが、傘を差さずに立っていたという。捜査本部は2004年9月にこの男の似顔絵をつけた人形を公開した。
さらに21年8月には、新たな目撃情報に基づくイラストを公開した。この情報は、20年8月に事件現場付近でテレビ局の取材を受けていた小林さんの父賢二さんが、近くで自分を見つめる女性に声をかけたことがきっかけで提供された。
女性は事件発生当時、小林さんと同じ21歳で、小林さん宅から1・8キロほど離れたところに住んでいた。自転車で友人の家に向かっていた午後3時半ごろ、現場から南に約15メートル離れた交差点に立つ不審な男を目撃したという。
男は身長150~160センチくらいのやせ形で、オーバーサイズの黄土色っぽい襟付きのコートと黒っぽいスエットのようなズボンを身に着けていた。つり目の印象で年齢は50~60代ぐらい、黒い傘を差して立っていたという。捜査本部は男の特徴から、同一人物の可能性が高いとみている。
データベース記事から 上智大生殺害事件、新たな情報提供 被害者父「希望見えた」(2021年9月8日付) 外部リンク |
(3)犬の毛がついた粘着テープ
警視庁によると、小林さんの両手を縛るのに使われた粘着テープは、静岡県の工場で1994年1月以降に製造されたものだった。
布粘着テープと呼ばれるもので、1巻は長さ25メートル、幅50ミリ。値段は700~800円と一般製品よりも高価で、主に梱包(こんぽう)用として販売されていた。全国で流通し、ホームセンターや文具店などで購入できたという。
また、粘着テープには複数の種類の犬の毛が付着していた。小林さん宅では犬を飼っていなかったことから、犯人の服などに付いていた毛がテープに付着した可能性があるとみている。
(4)ストッキングは「からげ結び」
小林さんの両足を縛ったストッキングの結び方は、「からげ結び」と呼ばれる特殊な方法だった。造園業者が竹垣の竹の固定などに使う手法で、和服の着付けなどで使われることもあるという。犯人はこうした仕事に関わる中で、結び方を覚えた可能性がある。
絞り込めない犯人像
捜査本部は当初、小林さんが首を何度も刺されていたことなどから、恨みを持った人物による犯行の可能性が高いとみていた。発見時に布団が掛けられ、玄関にあるはずの家族のスリッパが2階にあったことから、顔見知りの人物が家に上がり込んだ可能性も指摘された。
また、小林さんが事件前、不審な男に後をつけられていたことも明らかになった。家族によると、小林さんは事件約10日前の8月末の午前0時ごろ、最寄りの京成電鉄柴又駅の公衆電話から自宅に電話し、「誰かが後ろを付けてきて、道を曲がっても付いてきた。だから駅まで戻った」と訴えたという。
母親が駅まで迎えに行ったところ、男の姿はなかった。帰宅が遅くなったのは、9月11日に出発予定だった米国留学を前に、大学の友人やアルバイト仲間らが開いてくれた送別会に出席したためだった。
その後、9月に入って歯科医に行った帰りには、小林さんが「私に何かあったら歯の治療痕で分かるね」と話すなど、命の危険を感じているような様子もあったという。
こうした状況から、捜査本部は小林さんと交友関係のある人物の洗い出しを進めたが、トラブルなどは確認されなかった。このため、物取り目的で侵入した犯人が小林さんと鉢合わせになり、突発的に殺害した可能性もあるが、詳しいことは分かっていない。
現場には、小林さんが留学のために準備していたとみられる計14万円程度の日本円や米ドルなどが入ったリュックサック、預金通帳が残されていた。一方で、1階居間の戸棚の引き出しにあった旧1万円札1枚が見つかっていない。これは1986年まで発行された聖徳太子の肖像入りの紙幣で、小林さんの父賢二さんが記念として1枚だけ保管していたものだった。
ジャーナリスト目指した小林さん
小林さんは上智大外国語学部英語学科に在籍し、ジャーナリストを志していた。小林さんの姉は「目標を立てて、決めたことに突き進む妹だった」と話す。
小林さんは事件の2日後、留学先の米シアトル大(ワシントン州)に向けて出発する予定だった。ジャーナリズムを学ぶことを楽しみにしていたという。
「いつか娘を米国に連れて行きたい」と考えていた父賢二さんと母幸子さんは2007年5月、シアトル大のキャンパスを訪問した。同大で学ぶ上智大の後輩たちが出迎えてくれた。賢二さんらは「娘もここに来るはずだったのに」と思うと涙が止まらなかったという。小林さんの遺髪や家族写真をシアトル大に託し、「キャンパスの片隅でいいから埋めてほしい」と伝えた。
20年には、警視庁に保管されていた小林さんの遺品の一部が遺族に返却された。小林さんは毎年夏休みに、得意の英語を小中学生に教えるボランティアをしていた。遺品には、英語であいさつをする時のフレーズなどを覚えるために作った教材や、ボランティアを終えた際に友人から送られた寄せ書きも含まれていた。
「皆を引っ張る力がある」「明るくすてきな笑顔に救われる」とのメッセージが、事件による火災で一部がすすけた厚紙にびっしりと書かれていた。
警視庁は、現場から回収したネガフィルムと現像した約400枚の写真も遺族に返した。友人との飲み会や旅行などを楽しむ小林さんの笑顔が多数残されていた。遺品を受け取った賢二さんは「これから世界に羽ばたこうとしていた矢先だった。無限の可能性があったのに無念だ」と話した。
データベース記事から |
時効撤廃を実現した遺族
父賢二さんと母幸子さんは、殺人事件の公訴時効撤廃を訴えたり、情報提供を求めるチラシを配ったりするなどの活動を積極的に続けた。
賢二さんは、公訴時効が3年後に迫っていた2008年の命日、「私たち被害者家族の気持ちに時効はあるのでしょうか。逃亡中の犯人に対する憤りは増大するばかりです。死刑に相当する凶悪事件の公訴時効の撤廃をめざして、活動を進めていきたいと考えております」と訴えた。
09年2月には、世田谷一家殺害事件(00年12月に発生)など他の事件の遺族らと「宙(そら)の会」を結成し、代表幹事に就任。約7万6000人分の署名を集め、殺人罪などの時効を撤廃するよう国に要望した。
こうした活動が実り、10年4月27日の衆院本会議で、殺人罪などの公訴時効を撤廃する改正刑事訴訟法が可決・成立し、即日施行された。傍聴席にいた賢二さんは、賛成議員が一斉に立ち上がる光景を目にし、「お父さん頑張っただろ」と天国の小林さんに語りかけたという。
賢二さんは、宙の会会長だった世田谷一家殺害事件の遺族、宮沢良行さんが12年9月に亡くなったことを受け、会長に就いた。18年に2度、がんの手術を受けたが、小林さんの命日に情報提供を求めるチラシを配る活動は今も続けている。
宙の会は、殺人事件遺族に対する民事上の救済制度の創設も求めている。事件の遺族が加害者に損害賠償を求めて提訴し、勝訴しても、支払い能力の問題などから実際に賠償を受け取ることは難しいケースが多いとされる。このため、国が賠償金を立て替えたうえで加害者に請求する「代執行制度」の導入を法務省に要望している。
22年3月には、事件現場に残された犯人のDNAを使い、犯人の似顔絵作成や年代推定などを行うための法整備を国家公安委員会に求めた。賢二さんは記者会見で「犯人に直結するDNAがあるなら、全ての情報を活用して逮捕してほしい」と訴えた。
現場跡地に「順子地蔵」
事件で住宅が全焼した現場は長い間、空き地になっていたが、2010年10月、消防用具を収納する2階建ての格納庫が建てられた。父賢二さんと母幸子さんが「防犯や防災に役立ててほしい」と地元消防署に無償で土地を貸与した。
敷地内には、亡くなった小林さんの冥福を祈る「順子地蔵」も置かれている。地蔵は屋根で覆われ、命日には賢二さんらが事件解決を願い、手を合わせている。
800万円の懸賞金
この事件では、容疑者の特定につながる有力な情報提供者に上限800万円の懸賞金が支払われることになっている。
賢二さんは、まだ公的な懸賞金制度がなかった2003年、犯人に結びつく情報提供者に500万円を支払う私的懸賞金を設定した。記者会見では「犯人像すら浮かび上がってこない。親として亡き娘にしてあげられる最後の手段。わらにもすがる心境です」と訴えた。
4年後の07年、警察庁は公費で懸賞金を原則300万円まで負担する「捜査特別報奨金制度」を導入した。小林さんの事件の懸賞金の上限額は、10年から私的500万円、公的300万円の総額800万円に増えた。
賢二さんは「今、この瞬間も、埋もれた情報があるとすればこれほど残念なことはない。ささいなことでもいいので情報を届けてほしい」と話す。情報提供は警視庁亀有署捜査本部(03・3607・0110)へ。