a)Prompt「プロの社会学者として」:博士論文内容分析依頼
満足できませんが、まぁいいでしょう。では、脚注15の文章を、高校生にも分かるように解説して(分かりやすく比喩なども込めて)。
脚注15: 人間が自分自身という対象を形成するプロセスの3段階
ブルーマーは、ミードの「役割取得」の議論を参考に、人間が自分自身をどのように認識していくか(つまり「自己」を形成していくか)というプロセスを、3つの段階に分けて説明しています。
例え話:
あなたは、RPG(ロールプレイングゲーム)の主人公になったとしましょう。ゲームを進める中で、あなたは自分のキャラクターを成長させ、様々な役割を担うことになります。
プレイの段階(具体的な諸個人の役割):
- ゲームを始めたばかりのあなたは、まだ自分のキャラクターの特徴や能力がよく分かっていません。
- そこで、あなたは、他のキャラクターとの簡単なふれあいや模倣を通して、少しずつ自分のキャラクターを理解していきます。
- 例えば、町の人から「あなたは勇敢な戦士ですね!」と言われれば、「自分は勇敢なんだ」と認識し始めます。
ゲームの段階(具体的な組織化された諸集団の役割):
- ゲームを進めるうちに、あなたはパーティーを組んで冒険に出かけます。
- パーティーの中では、あなたは「回復役」や「攻撃役」など、特定の役割を担うことになります。
- 他のメンバーとの協力や競争を通して、あなたは自分の役割を理解し、それに合わせた行動をとるようになります。
一般化された他者の段階(抽象化されたコミュニティの役割):
- ゲームの世界には、様々なルールや価値観、文化が存在します。
- あなたは、これらのルールや価値観を理解し、それに従って行動することで、ゲームの世界の一員として認められるようになります。
- 例えば、ゲームの世界では「困っている人を助ける」ことが美徳とされている場合、あなたは、困っている人を見かけたら積極的に助けるようになるでしょう。
このように、私たちは、他者との関わりや社会のルール、価値観に触れる中で、自分自身を理解し、社会の一員としての役割を認識していきます。これが、ブルーマーが説明する「自己」の形成プロセスです。
ポイント:
- 他者からのフィードバック: 他者からの評価や反応は、自己認識の形成に大きな影響を与えます。
- 役割の重要性: 社会の中で自分がどのような役割を担っているかを理解することは、自己概念の形成に不可欠です。
- 社会規範の内面化: 社会のルールや価値観を理解し、それに従って行動することは、社会の一員としてのアイデンティティを確立するために重要です。
この3段階のプロセスを通して、私たちは、自分自身を客観的に捉え、社会の中で適切に行動できる「自己」を形成していくのです。
脚注15の文章とは「上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう¹⁵。」ですよね? もう1回。
申し訳ありません、前回の回答で脚注番号を誤って記載しておりました。
ご指摘の通り、脚注15の文章は「上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう。」です。
訂正箇所を反映した、正しい回答を再掲します。
第2節 三つの相互作用 「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている¹。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい²。
周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interation)と呼んでいる³。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。
「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)⁴。
この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている⁵。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている⁶。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)⁷。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている⁸。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている⁹。
とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば¹⁰、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる¹¹。
ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている¹²。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる¹³。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば¹⁴、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう¹⁵。
注釈
- 1: ブルーマーの社会概念の出発点: この文章は、ブルーマーの社会概念の出発点を示しています。ブルーマーは、社会を「社会的相互作用」という概念を通して理解しようとしています。
- 2: 社会的相互作用の検討: この文章は、ブルーマーの社会的相互作用の捉え方を検討することを予告しています。
- 3: 社会的相互作用の二つのレベル: この文章は、ブルーマーが社会的相互作用を「非シンボリック相互作用」と「シンボリックな相互作用」の二つのレベルで捉えていることを紹介しています。
- 4: ミードの知見の援用: ブルーマーは、自身の社会的相互作用の捉え方を説明する際に、ミードの概念を参考にしています。ミードは、社会的相互作用を「身振り会話」と「有意味シンボルの使用」の二つに分類しました。
- 5: ブルーマーの相互作用論の解釈: ブルーマーは、ミードの分類を参考にしながら、人間の相互作用を二つのレベルで捉えています。
- 6: 非シンボリック相互作用: これは、反射的な行動であり、相手を解釈することなく直接的に反応する相互作用です。
- 7: 非シンボリック相互作用の例: ボクサーがパンチをかわす行動は、相手の意図を解釈するのではなく、反射的に反応した結果であり、非シンボリック相互作用の例として挙げられます。
- 8: シンボリックな相互作用: これは、相手を解釈した上で反応する相互作用です。
- 9: ミードの「有意味シンボルの使用」: ミードは、シンボルを用いたコミュニケーションを「有意味シンボルの使用」と呼び、人間社会における重要な相互作用であると考えました。
- 10: 有意味シンボルと共通の定義: ブルーマーは、「有意味シンボル」と「共通の定義」を同じ意味で使っている可能性があります。
- 11: 循環論の問題点: もし「シンボリックな相互作用」と「有意味シンボルの使用」が同じ意味であれば、ブルーマーの議論は循環論に陥ってしまいます。つまり、「有意味なシンボル」を使って「シンボリックな相互作用」をする、という説明になってしまうからです。
- 12: 対象の多様な解釈: ブルーマーは、同じ対象であっても、人によって異なる意味を持つことができると考えています。これは、人々がそれぞれ異なる視点(パースペクティブ)を持っているからです。
- 13: 異なる世界: 人はそれぞれ異なるパースペクティブを持っているため、同じ場所に住んでいても、異なる世界に住んでいるように感じることがあります。
- 14: 共通の定義の成立: 異なるパースペクティブを持つ人々が、どのようにして共通の定義(=有意味シンボル)を作り出すことができるのか、という問いが生じます。
- 15: 循環論の発生: もし共通の定義がシンボリックな相互作用を通じて形成されるとすれば、それは「有意味シンボル」を使って「シンボリックな相互作用」をする、という循環論に陥ってしまいます。
- 16: シンボリックな相互作用の再定義: 「シンボリックな相互作用」には、有意味シンボルが成立していない段階での相互作用も含まれるべきです。
- 17: 社会的相互作用の三つの段階: ブルーマーの「社会的相互作用」概念には、以下の三つの段階が含まれます。
- 非シンボリック相互作用
- 有意味シンボルが成立していないシンボリックな相互作用
- 有意味シンボルの使用と同義のものとしてのシンボリックな相互作用
- 18: ブルーマーの分析対象: ブルーマーは、主にシンボリックな相互作用を分析の対象としています。
- 19: シンボリックな相互作用の定義: ブルーマーは、シンボリックな相互作用を、「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為する」社会的相互作用と定義しています。
- 20: 解釈と定義: ブルーマー
100点満点中の60点かな。まぁいいでしょう。「循環論の発生: もし共通の定義がシンボリックな相互作用を通じて形成されるとすれば、それは「有意味シンボル」を使って「シンボリックな相互作用」をする、という循環論に陥ってしまいます。」をもっと易しく説明して。
- Problem with Gemini
リクエストを処理できませんでした。プロンプトを書き変えて、もう一度お試しください。
もうダメですね。今日はこれで終了します。24時間後にまた。あまりに作業遂行レベルが低すぎます。
お役に立てず、大変申し訳ございませんでした。ご指摘を真摯に受け止め、今後の改善に努めてまいります。
24時間後、またお待ちしております。その際には、より良い回答を提供できるよう最善を尽くしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
以下の非構造化テキストを咀嚼し、
中身を改変すること無く慎重に整理して、
箇条書きや表形式を駆使しながら、
過去最高にわかりやすい
構造化された概要にしてください。
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第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−
ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう。
ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human
group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex
of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。
さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint
action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる。
「私は『ジョイント・アクション』(joint
action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social
act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the
large collective form of
action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。
この意味でまさしく「人間の社会」(human
society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している。
「思うに、ジョイント・アクション(joint
act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing”action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization”of
action)ではない。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)。
なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう。
以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう。
1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する。
2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない。
3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている。
4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる。
5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている。
「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」
(Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)。
6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる。
7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。
8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society
as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。
ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real
form of human
interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。
「人間の集団生活とは、ジョイント・アクションないしはさまざまな個人の個々別々の行為を互いに混ぜ合わせることから成り立ち、それは、人々が言語を用いることによって、換言するならば、ミードの言う『有意味会話』(significant
speech)によって可能となる」(Blumer,1993,p.163)。
なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process
of genuine
communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。
では、ブルーマーにおいては、実際、このトランスアクションなるものは、如何なる性質ないしは特性を持つものとして捉えられているのであろうか。ブルーマーは、トランスアクションの性質について以下のように述べている。
「・・・・トランスアクションというものは(これこそが人間の相互作用の本来的形態であると思われるが)、その生成の過程で構成され組み上げられて行くものだということである。そしてまさにそれ故に、トランスアクションは可変的な経歴(career)を持つことを余儀なくされる。人間の相互作用とは、互いの行為への定義と再定義という運動を通じて流れ行くものである。トランスアクションは、個々人がめいめい相手を何度となく考慮に入れ、また同様に相手によって考慮に入れられる、その都度その都度で組み上げられて行くものである。他者が一定の行為を表出したとき、個々の参与者は、それに注意を向け、判断を下し、他者のその行為を自分自身の行為を方向付けるための要因として用いなければならない・・・・そこにおいて参与者たちが、他者の行為に照らして自己の行為を方向付けているひとつの流動的な過程(flowing
process)という、ここに示した人々の結びつきに関する像が示唆しているのは、トランスアクションというものが、多様な方向へと展開してゆく可能性を多分に秘めているものだということである」(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142−143頁)。
このように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、トランスアクションとは、まず何よりも「可変的な経歴を持つ」「流動的」な特性を有するものとして、すなわち、形成・再形成を繰り返し経験するものとして捉えられているのであり、それ故そうしたトランスアクション(=ジョイント・アクション)から構成される「人間の社会」もまた、等しくこの意味で「流動的」な特性をもつものと捉えられなければならない。
では、何故にトランスアクションないしジョイント・アクションは「流動的」な特性を持つものと捉えられなければならないのか。「流動的」という言葉が含意する二点(「形成」・「再形成」)のうち、ここではまず、その前者の点、すなわち、ジョイント・アクションが形成されてゆくそのメカニズムを明らかにしてゆくことにしたい。
ブルーマーによれば、ジョイント・アクションの形成は、先述のシンボリックな相互作用においてなされる。ここでシンボリックな相互作用とは、ブルーマーにおいては、ある「身振り」の呈示と、その身振りの「意味」に対するひとつの反応として定式化されている。ジョイント・アクションの形成において、身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられる個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき、両者は相互に理解し合っている、とブルーマーは捉えている(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。無論、ここで「意味」(meaning)とは、相互作用に従事している個々人が、その身振りに付与したものに他ならないことは、前節の議論で確認済みである。またそうした付与という営みが、その個々人の「自己相互作用」を通じてなされているものであることは、言うまでもない。ブルーマーによれば、こうした身振りは、それを呈示する者とそれが向けられる者の双方に対して次のような三つの意味を有している(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。まず第一に、(a)身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかをあらわす11)。第二に、(b)その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかをあらわす。第三に(c)この両者の行為が接合されることによって生じるジョイント・アクションの形態をあらわす。それをブルーマーは以下のように例示している。
「たとえばある強盗が、被害者に向かって両手を上げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の三つのことをあらわしている。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を上げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取ること、(c)両者の間で形成されようとしているジョイント・アクションの形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969b,p.9=1991年、11−12頁)。
身振りが有するこうした三つの意味を、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が適切に把握し、その意味に基づいて互いに行為し合うとき、そこにジョイント・アクションが成立する、とブルーマーは捉えている。逆に言うならば、「この三つの意味に、どれかひとつでも混乱ないし誤解がある場合には、コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、ジョイント・アクションの形成は障害にぶつかる」ことになる(Blumer,1969b,p.9=1991年、12頁)。すなわち、強盗ないしは被害者のうち、どちらかでも、身振りが持つこうした三つの意味のひとつでも把握し損ねれば、ジョイント・アクションの形成はおぼつかない、ということである。またここで身振りの意味を適切に把握するとは、相互作用に参与している両者が、その身振りに対して同じ意味を付与することを意味している(Blumer,1967=1992,p.52;1993,p.163,p.179)。
では、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が、身振りの「意味」を如上の意味で適切に把握することは、如何なるメカニズムにより可能となっているのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考となる。以下の説明もまた、ジョイント・アクション論の文脈で書かれたものである。
「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint
of the
other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。
人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking
into account of taking into account)12)と名付けておこう。
すなわち、個々人が、互いに相手と相互作用を行い、ジョイント・アクションを形成しようとする際に用いる「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」の内的メカニズムが、実は、この「考慮の考慮」なのである13)。かねてより、わが国のシンボリック相互作用論理解、就中ブルーマーのシンボリック相互作用論理解においては、この「自己相互作用」の内的メカニズムは、もっぱら「表示」と「解釈」からなる、としてしか捉えられてこなかった14)。その原因のひとつとして、これまでのわが国におけるシンボリック相互作用論理解が、対パーソンズの社会学ないしは対構造機能主義社会学を意識しすぎるあまり、社会的相互作用の主体としての人間を、他者や外界に対して解釈を行う「解釈主体」として強調してきた一方で、そうした人間が他者によっても解釈されている客体としても捉えられなければならない、という点を比較的看過してきたということが挙げられる。そうしたわが国の研究動向について、井上は以下のように述べている。
「・・・・シンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕は、行為者の『解釈過程』を重視し、人間が何よりもまず『解釈主体』であることを強調する。・・・・しかし、人間が『解釈主体』であるということは、裏を返せば、他者によって解釈される『客体』でもあるということだ。私が他者を解釈するように、他者もまた私を解釈する。私は、私と同じく『解釈主体』である他者によって『客体』として解釈されることを避けることはできない。・・・・今日のシンボリック・インタラクショニズムは、しかし、私たちが否応なしに他者からの解釈を蒙る側面については、あまり注意を払っていない。それは、ひとつには、この派の『主体性強調のふくみ』からくるバイアスであろう・・・・いずれにせよ、シンボリック・インタラクショニズムにおいては、解釈の裏返しである『被解釈』の問題は、せいぜい、自我の形成過程についての議論のなかで、あるいは逸脱行動に関する『ラベリング・アプローチ』のなかで、部分的に扱われるにとどまっている。いわば『解釈過程の重視』に見合った重みを与えられていないのである」(井上、1988年、33−34頁)。
社会的相互作用に参与する主体を、自ら解釈を行う解釈主体であると同時に、他者からも解釈される客体としても措定するならば、必然的に生じてくるこうした現象を、ブルーマーが1953年の時点で既に指摘していたにもかかわらず、かねてよりのわが国のシンボリック相互作用論理解においては、こうした現象に対する考察があまりなされてこなかったように思われる15)。
ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為に適応(適合)させ合い、トランスアクションないしはジョイント・アクションを形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈的営みを行うことになると言う(Blumer,1953=1969a,pp.109-110=1991年、142頁)。
先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking
another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない
(Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。
この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的に としておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得された と、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world
of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうした を被害者が取得するということは、すなわち、この とは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。
こうした社会的相互作用において、両者ともに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に把握しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りに対して、同じ意味を付与することが出来る。
社会的相互作用に参与する個々人が、それに対して同じ意味を付与しているそうした身振りのことを、ブルーマーは特別に「有意味シンボル」(significant
symbol)と呼んでいる。またこの有意味シンボルのことを「普遍的なるもの」(universal)ないしは「共通の定義(意味)」(common
definition,common meaning)とも呼んでいる(Blumer,1967=1992,p.152)。
以上の議論を踏まえるならば次のように言えよう。すなわち、社会的相互作用に参与する自己と他者とが、如上の「考慮の考慮」を正確に行い、その結果として、両者が互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ、そこで用いられている「身振り」が、その両者に対して同じ「意味」を持つようになるのであり、そうした「身振り」が「有意味シンボル」(「共通の定義」)と呼ばれるものに他ならない。
かねてよりわが国のシンボリック相互作用論理解をリードしてきた、船津 衛は、「意味」の共有(=「共通の定義」の成立)という現象を以下のように説明して来た。すなわち、「他者にも自己にも同一の反応を引き起こす言葉や身振り」としての「有意味シンボル」(船津の言葉で言えば「意味のあるシンボル」))(船津、1995年、46頁)を用いることにより、相互作用に参与している自己と他者とは、互いのうちに「同一反応」を引き起こすことが出来る(船津、1989年、46頁)。ここで、自己と他者との間に「同一反応」が引き起こされるということは、すなわち、自己と他者とが、ある一定の「意味」を共有することを意味し(船津、1989年、46頁)、そうした「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有がまさに「役割取得」である、と(船津、1989年、46頁)。「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有を説く、という視点は、宝月においても見られる(宝月、1990年、116−119頁、123−129頁)。とはいえ、徳川も指摘するように、こうした議論は一種の循環論法に陥っており(徳川、1987年、83頁)、そもそもそこで用いられている「身振り」が「『意味のあるシンボル』へと転化し、自己にも他者にも『同じ反応』を引き起こすという『有意味性』を帯びるのはいかなるメカニズムによるのか」(徳川、1987年、79頁)を説明し得ていない。また同時にこうした説明は、シンボリック相互作用論の概念的柱石としての「自己相互作用」概念が、「意味の共有」という現象を説明するための分析枠組みとして、果たすべき説明機能を、十分に活用しきれているとは言い難い。
如上のわれわれの考察を踏まえるならば、そのメカニズムとは、次のように説明することが出来る。すなわち、社会的相互作用を通じて、自己と他者の双方が、「考慮の考慮」という解釈的営みにより、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握し、その結果として、ある「身振り」より、同一の「意味」を読みとったとき(換言するならば、同一の「意味」をその身振りに付与したとき)、はじめてその「身振り」が「有意味シンボル」となる、と17)。
ブルーマーによれば、如上の経緯を経て個々人により形成された「共通の定義」が、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性ないしはジョイント・アクションの取るある一定の形態の固定的な反復を保障するという。すなわち「共通の定義によって、〔ジョイント・アクション形成への〕参与者たちには、自分自身の行為を相手の行為と適合させるための、はっきりとした指針が与えられる。この共通の定義ということによって、様々な集団領域にまたがったジョイント・アクションの、規則性、安定性、再起性が最もよく説明される」と(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)。なお、この引用からも分かるように、ジョイント・アクションの形成に従事している参与者たちが、この「共通の定義」に基づいて行為を行っているからといって、彼らが共通の行為を行っている、というわけではない。「共通の定義」とは、あくまで、個々人がそれぞれ従事している自らの個々別々の行為を、相手の行為にかみ合わせる(ないしは組み合わせる)ことを可能にする道具なのであって、共通の行為を行わせるものではない(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。
以上のここまでの議論を要約するならば、次のように捉えられよう。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「人間の社会」とは、まず何よりも、人々が相互作用を通じて形成する「ジョイント・アクション」ないしは「トランスアクション」からなるものと捉えられている。またそうしたジョイント・アクションは、個々人が社会的相互作用を通じて形成した「共通の定義」に支えられることにより、その規則性・安定性・再起性が保障される。この「共通の定義」とは、相互作用に従事する個々人が、各々自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」という解釈的営みをを行うことによって、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ成立するものと捉えられている。
では、個々人によるこうしたふたつの「観点」の適切な把握は、如何にして可能となるのであろうか。
上記にも述べたように、ブルーマーにおいては、如上のふたつの「観点」(「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)を個人が把握するということは、別言するならば、その個人が、相互作用を行っている相手を、自己の「自己相互作用」(「考慮の考慮」)を通じてこれこれの観点を持っている者と解釈・定義することに他ならない。井上も言うように、「・・・・人間は社会のなかで他者とともに生きなければならないので、『他者の経験を理解しようとする試み』を避けることはできない・・・・この試みにおいて私たちは、推測あるいは解釈に頼らざるをえない。他者の言葉、表情、挙動など、私たちにとって知覚可能なデータを解釈することによって、私たちは不可視の他者を少なくとも自分なりに可視化しようと試みる」(井上、1988年、31頁)。ところで、こうした解釈や定義はフリーハンドになされるものではない。そのための道具が必要となる。この点について井上は「・・・・およそ解釈というものは、素手ではできない。解釈の作業には、それなりの用具が必要である。・・・・私たちは何よりもまず、感覚に与えられたデータの内容を整理し単純化するための『要約的カテゴリー』(summary
categories)を必要とする。この種のカテゴリーなくしては、『解釈』はおろか、対象の単なる『記述』さえおぼつかない」(井上、1988年、44頁)と指摘している。ブルーマーのシンボリック相互作用論の場合、その道具にあたるのが「パースペクティブ」ないしは「定義の諸図式」であることは、先に本論第1章において述べた通りである。すなわち、そもそもこのパースペクティブないし定義の諸図式なくしては、人間は外界への解釈・定義という営みを行うことすら出来ないのである。また同様にして、自分自身という対象を形成するためのパースペクティブである「一般化された諸々の役割」なくしては、個人は自分自身との相互作用(=自己相互作用)を行うことすら出来ない。では、このパースペクティブは何処より来るものと捉えられているのか。先にルイスに対するブルーマーの反論を検討するなかで明らかになったように、個人が自らの状況を定義するに際して、前もって「他者たちの集団」から獲得したものであった。そしてそうした二つの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)に方向付けられる形で、個々人は解釈・定義という営みを行うことになる。すなわち、「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問に対する答を提示するならば、それは、個々人がそうした把握(=解釈・定義)を行うに先立って獲得した、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」というふたつの図式にその解釈・定義を方向付けられることで可能となる、とこたえることができる。「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問は、換言するならば、ジョイント・アクションは如何にして成立するのか、もしくは那須の言葉を再度用いるならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「社会はいかにして可能か」と捉えられているのか、という問であると言えるが、上記の議論を踏まえるならば、それは次のようにこたえられよう。すなわち、ジョイント・アクションの成立は、その形成に参与する個々人が、その形成に先立って、解釈・定義を行う道具としての「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式を獲得し、そうした図式にしたがって解釈・定義を行い、その結果として成立する「共通の定義」に基づいて互いに行為し合うことによって可能となる、と。そのことについて、ブルーマーは以下のように述べている。
「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a
background of previous actions of the
participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。
また、こうした経緯を経て、いったん形成された共通の定義が、同様にして、この垂直な関係を通じて、繰り返し参与者たちに継承され続けることによって、新たに形成されたそのジョイント・アクションのある一定の形態が保持され続ける、ブルーマーにおいては捉えられている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。
「通常、ある特定の社会において人々が出くわす状況のほとんどは、同じやり方で定義ないしは『構造化』(structured)されている。先行する相互作用を通じて〔強調は引用者〕、人々は、これこれの状況において如何に行為するかに関して共通の理解ないしは定義を創りだし獲得している。こうした共通の定義が、人々に、それまでと同様に行為することを可能にしているのである」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、111頁)。
ブルーマーによれば、こうした意味で、ジョイント・アクションは、参与者間の「水平的な結びつき」(horizontal
linkage)を持つのみならず、それに先行するジョイント・アクションとの「垂直的な結びつき」(vertical
linkage)も持つもの、と捉えられるのである。
第2節 三つの相互作用
「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている¹。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい²。
周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interation)と呼んでいる³。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。
「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)⁴。
この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている⁵。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている⁶。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)⁷。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている⁸。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている⁹。
とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば¹⁰、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる¹¹。
ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている¹²。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる¹³。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば¹⁴、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう¹⁵。
注釈
- ブルーマーの社会概念の出発点: この文章は、ブルーマーの社会概念の出発点を示しています。ブルーマーは、社会を「社会的相互作用」という概念を通して理解しようとしています。
- 社会的相互作用の検討: この文章は、ブルーマーの社会的相互作用の捉え方を検討することを予告しています。
- 社会的相互作用の二つのレベル: この文章は、ブルーマーが社会的相互作用を「非シンボリック相互作用」と「シンボリックな相互作用」の二つのレベルで捉えていることを紹介しています。
- ミードの知見の援用: ブルーマーは、自身の社会的相互作用の捉え方を説明する際に、ミードの概念を参考にしています。ミードは、社会的相互作用を「身振り会話」と「有意味シンボルの使用」の二つに分類しました。
- ブルーマーの相互作用論の解釈: ブルーマーは、ミードの分類を参考にしながら、人間の相互作用を二つのレベルで捉えています。
- 非シンボリック相互作用: これは、反射的な行動であり、相手を解釈することなく直接的に反応する相互作用です。
- 非シンボリック相互作用の例: ボクサーがパンチをかわす行動は、相手の意図を解釈するのではなく、反射的に反応した結果であり、非シンボリック相互作用の例として挙げられます。
- シンボリックな相互作用: これは、相手を解釈した上で反応する相互作用です。
- ミードの「有意味シンボルの使用」: ミードは、シンボルを用いたコミュニケーションを「有意味シンボルの使用」と呼び、人間社会における重要な相互作用であると考えました。
- 有意味シンボルと共通の定義: ブルーマーは、「有意味シンボル」と「共通の定義」を同じ意味で使っている可能性があります。
- 循環論の問題点: もし「シンボリックな相互作用」と「有意味シンボルの使用」が同じ意味であれば、ブルーマーの議論は循環論に陥ってしまいます。つまり、「有意味なシンボル」を使って「シンボリックな相互作用」をする、という説明になってしまうからです。
- 対象の多様な解釈: ブルーマーは、同じ対象であっても、人によって異なる意味を持つことができると考えています。これは、人々がそれぞれ異なる視点(パースペクティブ)を持っているからです。
- 異なる世界: 人はそれぞれ異なるパースペクティブを持っているため、同じ場所に住んでいても、異なる世界に住んでいるように感じることがあります。
- 共通の定義の成立: 異なるパースペクティブを持つ人々が、どのようにして共通の定義(=有意味シンボル)を作り出すことができるのか、という問いが生じます。
- 循環論の発生: もし共通の定義がシンボリックな相互作用を通じて形成されるとすれば、それは「有意味シンボル」を使って「シンボリックな相互作用」をする、という循環論に陥ってしまいます。
お手本
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構造化された概要
1. シンボリック相互作用論における社会
ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会は「進行中の活動の複合体」として捉えられる。
社会とは、個々人の行為の適合から成り立ち、ジョイント・アクション(共同行為)の連結により形成される。
2. ジョイント・アクションの定義と特徴
定義: 個々別々の行為が適合して形成される大きな集合的行為。
実例: 商取引、家族の晩餐、結婚式、裁判、戦争などが含まれる。
特徴:個人や組織が関与し、単純な協力から複雑な相互調整まで多様な形態を持つ。
社会全体はジョイント・アクションの無数の連結から構成される。
3. ジョイント・アクションのプロセス
プロセスとしての組織化: ジョイント・アクションは組織化されていく過程であり、完成されたものではない。
過程の観点: ジョイント・アクションは形成のプロセスであり、分析者の視点によってその性質は異なる。
シンボリックな相互作用: 言語や有意味なシンボルの使用を通じて、行為者間で意味が共有され、行為が適合されてジョイント・アクションが成立する。
4. トランスアクション(=ジョイント・アクション)の本質
可変的・流動的な性質: トランスアクションは、常に形成・再形成を繰り返し、流動的な過程を持つ。
相互定義の動き: 人々の行為は、他者の行為に応じて定義・再定義されながら進行する。
行為の方向性の調整: 各参与者は他者の行為を考慮しながら自己の行為を方向づける。
5. シンボリックな相互作用とジョイント・アクションの関係
本来的な人間の相互作用: ジョイント・アクションは「本来的形態」としてのシンボリック相互作用であり、トランスアクションとも呼ばれる。
有意味なシンボルの使用: シンボリック相互作用は、有意味な会話を通じて成り立ち、相互の身振りや行動の意味を共有することが求められる。
6. ジョイント・アクションの形成メカニズム
身振りと意味の共有: 身振りは、行為者とそれが向けられた者の双方に意味を持ち、両者がその意味を共有することでジョイント・アクションが成立する。
三つの意味:対象者が行うべき行為
身振りを行う者の意図
形成されるジョイント・アクションの形態
例: 強盗が被害者に「手を上げろ」と命じる場合、これらの三つの意味が関係している。
7. 相互理解の重要性
相手の観点から見ること: 相互作用する個々人は、相手の行為や意図を理解し、自分の行為を方向づける。
ジョイント・アクションの成功: 双方が身振りの意味を適切に理解し、共有できればジョイント・アクションは成功するが、誤解があれば障害が生じる。
8. ジョイント・アクションの流動的特性
形成と再形成: ジョイント・アクションは常に変化し、適応する過程であり、社会も同様に流動的である。
未来への展開: ジョイント・アクションは、その特性により、さまざまな方向へ展開していく可能性がある。
表: ジョイント・アクションの構造
項目説明定義個々別々の行為が適合して形成される集合的行為実例商取引、家族の晩餐、結婚式、裁判、戦争など担い手個人、大規模な組織や機関特徴単純な協力から複雑な相互調整まで含まれる形成メカニズム身振りの意味を共有し、行為を適合させることで成立流動性常に形成・再形成を繰り返す流動的なプロセスである社会との関係社会はジョイント・アクションの無数の連結から構成される相互理解の重要性相手の行為や意図を理解し、行為を適切に方向づけることが必要成功条件身振りの三つの意味が正しく共有されていること
第2章 相互作用から社会へ−形成されるものとしての社会−
第2節 三つの相互作用
社会の捉え方
- ブルーマーは、「社会」を個々人の行為の観点から捉え、「進行中の活動の複合体」と表現しています。
社会的相互作用のレベル
- 非シンボリック相互作用: 言葉やジェスチャーなどの象徴的なコミュニケーションを介さずに、反射的な行動によって起こる相互作用です。
- 例:ボクサーがパンチをかわすために無意識に腕を上げる、熱いものに思わず手を引っ込めるなど。
- シンボリックな相互作用: 言葉やジェスチャーなどの象徴的なコミュニケーションを介して、お互いの意図や意味を理解し合いながら行われる相互作用です。
- 例:会話、アイコンタクト、握手など。
- 非シンボリック相互作用: 言葉やジェスチャーなどの象徴的なコミュニケーションを介さずに、反射的な行動によって起こる相互作用です。
「シンボリックな相互作用」概念の再検討
- ブルーマーは当初、シンボリックな相互作用を「有意味なシンボルの使用」と同じ意味で使っていましたが、後に、より広い概念として捉え直しました。
ジョイント・アクションの特性
- ジョイント・アクションとは、複数の人々が協力したり、調整したりしながら、共通の目標に向かって行動することです。
- 例:チームでスポーツをする、一緒に食事を作る、バンド演奏など。
- ジョイント・アクションとは、複数の人々が協力したり、調整したりしながら、共通の目標に向かって行動することです。
ジョイント・アクションとシンボリックな相互作用の関係
- ブルーマーは、社会をシンボリックな相互作用の集まりとして捉えています。そして、シンボリックな相互作用の本質的な形が、まさにジョイント・アクション(=共同行為)であると考えています。
トランスアクション(=ジョイント・アクション)の本質
- トランスアクションとは、人々が互いの行動を解釈し合いながら、その場で作り上げていく相互作用のプロセスです。
- 例:初対面の人と会話を始める時、最初は緊張してぎこちなくても、お互いの反応を見ながら、徐々に打ち解けていくような状況がこれに当たります。
- トランスアクションとは、人々が互いの行動を解釈し合いながら、その場で作り上げていく相互作用のプロセスです。
社会の特性
- 社会は、常に変化し続けるものです。それは、人々の相互作用が絶えず変化し、新しい意味や行動が生み出されるからです。
次の論点
- 次の節では、ジョイント・アクションや社会がなぜ流動的で変化し続けるのか、そのメカニズムについて詳しく説明していきます。
すべての文末に脚注を付ける。そのお手本。
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第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−
ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう1)。
ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった2)。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる3)。換言するならば、人間集団(human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない4)。
さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている5)。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる6)。
「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい7)。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである8)。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある9)。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる10)。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる11)。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる12)。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである13)・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた14)。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)15)。
この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる16)。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である17)。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している18)。
「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing” action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization” of action)ではない19)。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)20)。
なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)21)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう22)。
以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう23)。
1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する24)。
2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ25)。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない26)。
3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている27)。
4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる28)。
5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない29)。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている30)。
「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」(Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)31)。
6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる32)。
7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう33)。
8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない34)。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている35)。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる36)。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)とも表現している37)。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない38)。
ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、またシンボリックな相互作用とは、「社会的行為」(social act)とも呼ばれるものである39)。すなわち、これらは同じ対象を指している40)。ブルーマーによれば、ジョイント・アクションとは、シンボリックな相互作用の相互接合によって形成される社会的現実である41)。社会とは、こうしたジョイント・アクションの相互連結の所産に他ならない42)。この点についてブルーマーは、シンボリックな相互作用の観点から、社会的行為とジョイント・アクションの関係性を以下のように説明している43)。
「シンボリック相互作用という観点から捉えるならば、社会的行為とは、シンボルやシンボル形成のプロセスによって結びついた諸行為の複合体のことである44)。諸個人の行為は、シンボリックな相互作用を通じて、遂行中のジョイント・アクションへと接合される」(Blumer,1966=1969a,p.76=1991年、98頁)45)。
ブルーマーの言わんとしていることは、要するに、ジョイント・アクションは、シンボリックな相互作用によって組織される行為の一層大きな集合的形態に他ならず、また人間の社会は、このジョイント・アクションの相互連結から成り立っている46)。すなわち、社会とは、ジョイント・アクションとしての社会であると同時に、シンボリックな相互作用としての社会である47)。
以上のようにブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「ジョイント・アクションとしての社会」という「社会」の概念が、その中心に据えられている48)。
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第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−
ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう1)。
ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった2)。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる3)。換言するならば、人間集団(human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない4)。
さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている5)。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる6)。
「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい7)。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである8)。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある9)。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる10)。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる11)。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる12)。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである13)・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた14)。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)15)。
この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる16)。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である17)。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している18)。
「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing” action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization” of action)ではない19)。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)20)。
なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)21)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう22)。
以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう23)。
1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する24)。
2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ25)。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない26)。
3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている27)。
4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる28)。
5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない29)。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている30)。
「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」(Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)31)。
6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる32)。
7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう33)。
8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない34)。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている35)。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる36)。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)とも表現している37)。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない38)。
ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、またシンボリックな相互作用とは、「社会的行為」(social act)とも呼ばれるものである39)。すなわち、これらは同じ対象を指している40)。ブルーマーによれば、ジョイント・アクションとは、シンボリックな相互作用の相互接合によって形成される社会的現実である41)。社会とは、こうしたジョイント・アクションの相互連結の所産に他ならない42)。この点についてブルーマーは、シンボリックな相互作用の観点から、社会的行為とジョイント・アクションの関係性を以下のように説明している43)。
「シンボリック相互作用という観点から捉えるならば、社会的行為とは、シンボルやシンボル形成のプロセスによって結びついた諸行為の複合体のことである44)。諸個人の行為は、シンボリックな相互作用を通じて、遂行中のジョイント・アクションへと接合される」(Blumer,1966=1969a,p.76=1991年、98頁)45)。
ブルーマーの言わんとしていることは、要するに、ジョイント・アクションは、シンボリックな相互作用によって組織される行為の一層大きな集合的形態に他ならず、また人間の社会は、このジョイント・アクションの相互連結から成り立っている46)。すなわち、社会とは、ジョイント・アクションとしての社会であると同時に、シンボリックな相互作用としての社会である47)。
以上のようにブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「ジョイント・アクションとしての社会」という「社会」の概念が、その中心に据えられている48)。
第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−
社会とは何か?
社会は行為から生まれる: ブルーマーは、社会を個々人の具体的な「行為」の集まりとして捉えます¹。人々の行動や相互作用そのものが社会を形作っているという考え方です。
社会は進行中の活動の複合体: ブルーマーは、社会を「進行中の活動の複合体」とも表現しています²。これは、社会が静的なものではなく、人々の絶え間ない活動によって常に変化し、発展していくものであることを強調しています³。
ジョイント・アクション(共同行為)
- ジョイント・アクションの定義: 簡単に言うと、複数の人々が協力し合って何かを行うことです⁴。
- ジョイント・アクションの例: 日常生活の中には、たくさんのジョイント・アクションがあります。例えば、友達と遊ぶ、買い物をする、会社で会議をする、スポーツの試合をする、選挙に参加するなども、すべてジョイント・アクションです⁵。
- ジョイント・アクションの特徴:
- 様々な人や組織が参加できる⁶。
- 簡単な共同作業から、複雑な組織の連携まで、様々な規模や形態がある⁷。
- 社会全体は、無数のジョイント・アクションが複雑に絡み合って構成されている⁸。
- 社会の基本単位: ブルーマーは、ジョイント・アクションを社会を理解するための基本的な単位だと考えています⁹。つまり、ジョイント・アクションを分析することで、社会の仕組みや特徴を明らかにできると言えるでしょう¹⁰。
- 過程としてのジョイント・アクション: ブルーマーは、ジョイント・アクションを、人々が協力して何かを作り上げていく「過程」として捉えることが重要だと強調しています¹¹。
ジョイント・アクションとシンボリックな相互作用の関係
- ジョイント・アクションと社会的行為: ブルーマーは、ジョイント・アクションをミードの「社会的行為」と同じ意味で使っています¹²。また、シンボリックな相互作用は「社会的行為」とも呼ばれます¹³。つまり、これらは同じものを指す別の呼び方です¹⁴。
- 社会の構成要素: ブルーマーは、社会は、人々がシンボリックな相互作用を通じて形成するジョイント・アクションの集まりだと考えています¹⁵。
- シンボリック相互作用とジョイント・アクションの関係: ブルーマーは、シンボリックな相互作用を通じて、個人の行為が結びつき、ジョイント・アクションが形成されると説明しています¹⁶。
- 社会の二つの側面: ブルーマーの考えでは、社会はジョイント・アクションの集まりであると同時に、シンボリックな相互作用の集まりでもあります¹⁷。
- 本章の中心概念: ブルーマーの社会理論においては、「ジョイント・アクションとしての社会」という考え方が中心に据えられています¹⁸。
注釈
- ブルーマーの社会概念の出発点: この文章は、ブルーマーの社会概念の出発点を示しています。ブルーマーは、社会を「社会的相互作用」という概念を通して理解しようとしています。
- 社会を行為から捉える: ブルーマーは、社会を個々人の具体的な「行為」の集まりとして捉えます。人々の行動や相互作用そのものが社会を形作っているという考え方です。
- 社会は進行中の活動の複合体: ブルーマーは、社会を「進行中の活動の複合体」とも表現しています。これは、社会が静的なものではなく、人々の絶え間ない活動によって常に変化し、発展していくものであることを強調しています。
- ジョイント・アクションの定義: 簡単に言うと、複数の人々が協力し合って何かを行うことです。
- ジョイント・アクションの例: 日常生活の中には、たくさんのジョイント・アクションがあります。例えば、友達と遊ぶ、買い物をする、会社で会議をする、スポーツの試合をする、選挙に参加するなども、すべてジョイント・アクションです。
- ジョイント・アクションのさらなる説明: ブルーマーの社会理論において、ジョイント・アクションは非常に重要な概念であり、この後の文章で詳しく説明されます。
- ミードの社会的行為: ミードは、哲学者であり社会心理学者でもあり、ブルーマーに大きな影響を与えた人物です。「社会的行為」は、ミードが用いた概念で、ブルーマーはそれを「ジョイント・アクション」という言葉で表現しています。
- ジョイント・アクションの定義: ブルーマーは、ジョイント・アクションを「個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態」と定義しています。
- ジョイント・アクションの実例: ブルーマーは、ジョイント・アクションの例として、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争などを挙げています。
- ジョイント・アクションの形態: ブルーマーは、ジョイント・アクションは、参加者たちの行為の組み合わせによって様々な形態を取りうると指摘しています。
- ジョイント・アクションの多様性: ジョイント・アクションは、二人の個人による単純な共同作業から、大規模な組織や機関による複雑な相互調整まで、様々な規模や形態を持つことができます。
- 社会におけるジョイント・アクション: ブルーマーは、人間の社会のあらゆる場面で、人々が様々なジョイント・アクションに従事していると述べています。
- 社会の構成: ブルーマーは、社会は、無数のジョイント・アクションが複雑に絡み合い、結びつき合うことで構成されていると考えています。
- ミードにおける社会的行為: ミードは、社会的行為を社会の基本単位として捉えていました。
- 社会的行為の分析: ブルーマーは、ミードの考え方を引き継ぎ、ジョイント・アクションを分析することで、社会の本質的な特性を明らかにできると考えています。
- 社会の存在: ブルーマーは、「人間の社会」とは、人々の具体的な行為(ジョイント・アクション)の中に存在するものだと捉えています。
- ジョイント・アクションの二つの側面: ブルーマーによれば、ジョイント・アクションは、それを観察する人の視点によって、二つの側面から捉えることができます。
- 形成過程としての側面:個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程。
- 完成形としての側面:各々の行為が相互に適合し合ったもの。
- ブルーマーの説明: ブルーマーは、ジョイント・アクションを「行為を『組織化してゆくこと』」だと説明しています。
- 過程としてのジョイント・アクション: ブルーマーは、ジョイント・アクションを、形成されていく「過程」として捉えることを重視しています。
- 「組織化されたもの」: ブルーマーは、ジョイント・アクションは、後から振り返って見たときに初めて「組織化されたもの」として認識できると述べています。
- ブルーマーの視点: ブルーマーは、ジョイント・アクションを「過程」として捉える視点を採用しています。
- 那須の見解: 那須は、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると指摘しています。
- ブルーマーの議論の整理: 以上のブルーマーの議論を整理すると、以下のようになります。
- ジョイント・アクションの定義: ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味します。
- ジョイント・アクションの形成: そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立ちます。
- 行為の適合: 別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければなりません。
- ジョイント・アクションの担い手: ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれています。
- ジョイント・アクションの多様性: したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれます。
- 社会の構成: こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。
- ブルーマーの別の箇所での説明: ブルーマーは、別の箇所でも、社会はジョイント・アクションからなるものと述べています。
- ミードの図式: ミードは、社会をシステムではなく、ジョイント・アクションからなるものと捉えていました。
- ジョイント・アクションの分析: したがって、ジョイント・アクションを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされます。
- 社会の特性: 別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。
- 過程としてのジョイント・アクション: そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければなりません。
- 社会の捉え方: ブルーマーのシンボリック相互作用論
Gemini may display inaccurate info, including about people, so double-check its responses.