ブルーマー研究の展望
以下は、私の博士論文である、「社会過程の社会学」東北大学審査学位論文(博士)からの一節です。まず内容を理解して
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序章 問題の所在
一般に、第一次世界大戦から、1930年代中頃までの約20年間のアメリカ社会学の歴史は、事実上、シカゴ大学社会学科の歴史として描くことができると言われている。コーザーによれば、この間、シカゴ大学社会学科は、「社会学的研究の一般的潮流を方向付け、社会学の唯一の専門雑誌〔=『アメリカ社会学雑誌』(American Journal of Sociology)〕を発行した。また、社会学科にその足跡を残し、アメリカ社会学協会〔=アメリカ社会学会〕の会長になったほとんどの社会学者はここで教育を受けた。同学科の教授たちは、もっとも影響力のあるモノグラフや教科書を書いた」(Coser,1978=1981年、91頁)。とはいえ、こうしたシカゴ学派のいわゆる「黄金時代」は、その1930年代中頃までであり、とりわけ、T.パーソンズを中心とする構造機能主義社会学が、アメリカ社会学のメインパラダイムとしての位置を占めるにしたがって、シカゴ学派は、急速に衰退の一途を辿ってゆくこととなり、次第にアメリカ社会学界から忘れられてゆくこととなった(吉原、1994年、53頁、73頁)。その後、戦後数十年におよぶ空白の後に、再びシカゴ学派に脚光があてられることとなる。そうした動向がフェアリスの言う「シカゴ学派の知的遺産の再発見」なる動きに他ならない(Faris,1967=1990年、16頁、17頁)。吉原によれば、そうした動向は、「ポスト・パーソンズの社会学の一潮流に棹さしているということに加えて、現代社会学のフロンティアの領域と多様に交叉する可能性を包蔵している」という点で、「シカゴ・ルネサンス」と呼ばれるに相応しいものであるという(吉原、1994年、53頁)。この「シカゴ・ルネサンス」には二つの流れがある。そのうちのひとつは、M.ジャノウィッツを中心とするシカゴ学派「第四世代」であり、それは都市社会学の領域での理論的・経験的研究の復興に寄与したと言われる。そしてそのもうひとつの流れに位置づけられるのが、ハーバート・ブルーマーに代表されるシンボリック相互作用論(Symbolic Interactionism)に他ならない1)。「群雄割拠、百家争鳴の有様」(青井、1993年、602頁)にあると言われる現代社会学において、シンボリック相互作用論は、「こんにち、現代社会学の主要潮流の一つを形成するものとなっている」(船津、1993年、45頁)との位置づけを有するものとされている。とりわけ、「現象学的社会学、エスノメソドロジー、解釈学的社会学、役割理論、レイベリング理論、ジェンダー論などといった、社会学および社会心理学の諸学派・諸流派」に顕在的・潜在的な影響を与え続けてきたとされている(後藤、1991年、274−275頁)。わが国においてシンボリック相互作用論の社会学理論を、「もっとも精密に、体系的に論じている」(江原、1986年、64頁)と目されている船津 衛によれば、一口にシンボリック相互作用論とは言っても、そこにはたとえば、人間の主体的あり方を理論的に解明しようとする「シカゴ学派」、自己の経験的・実証的研究に取り組んでいる「アイオワ学派」、ミード理論をワトソン流の行動主義との関連において再検討し、独自の社会的行動主義の展開を目指す「イリノイ学派」、人間の行為や社会のあり方を演技やドラマとして捉え、それを具体的な相互作用場面において解明しようとする「ドラマ学派」などがあるが(船津、1995年、4頁)、こうした数あるシンボリック相互作用論のなかでも、「現代のシンボリック相互作用論の特徴を余すところなく表現し、包括性、体系性において、他を凌駕し、今日のシンボリック相互作用論のよるべき大樹」(船津、1976年、40頁)と目されているのが、ハーバート・ブルーマー(Blumer, Herbert George,1900-1987)のシンボリック相互作用論に他ならない。デンジンが「伝統的なシンボリック相互作用論の考え方」を成すものとして挙げているのもまた、このブルーマーのシンボリック相互作用論に他ならない(Denzin,1989b=1992年、viii)。
ハーバート・ブルーマーのシンボリック相互作用論が、T.パーソンズを中心とする構造機能主義社会学や、G.A.ランドバーグを中心とする社会学的実証主義(操作主義)を批判し、それに代わる分析枠組みや研究手法を発展させようとしたことはよく知られている。とりわけその分析枠組みに関しては、これまでのわが国の研究においては、それが提示する「動的社会」観が高く評価されてきた(船津、1976年;1989年、211−247頁;1993年;1995年;1998年b、参照)。すなわち、社会を、「主体的人間」(船津 衛)によって形成・再形成される、「流動的な過程」ないしは「変動的」「生成発展的」なものとして捉える、そうした社会観が高く評価されてきた。たとえば船津は、ブルーマーの主著『シンボリック相互作用論』(Blumer,1969a)の主張を以下のように紹介している。
「・・・・ブルーマーによると、人間は自我を持つことによって『自分自身との相互作用』(self interaction)を行ない、対象を自分に表示し、それを解釈することができる。・・・・ここから、人間は対象に対して積極的に働きかける主体的存在となり、社会は人間によって構成され、変化・変容する動的で過程的なものとなる。・・・・ブルーマーはこのような観点から、機能主義社会学が人間を社会体系や社会構造などの力に単に反応する受身的な有機体とし、また社会を固定的、静的なものとしていると批判する」(船津、1998年b、517頁)。
なお、後藤によれば、戦後アメリカ社会学は、ブルーマーに代表されるこうした社会観を抜きにしては語れない(後藤、1991年、274頁)。
本論は、ブルーマーのシンボリック相互作用論が持つ、分析枠組みと研究手法というこの二つの側面のうち、主として、分析枠組みの側面に焦点を当て、論を展開しようとするものである2)。すなわち本論は、ブルーマーのシンボリック相互作用論が持つ「動的社会」観なる、社会に対するものの見方の内実を検討することをその目的としている。
なお、本論は、ブルーマーのシンボリック相互作用論の主張それ自体をありのままに提示するという意味での学説史研究ではない。かつてブルーマーは、シンボリック相互作用論を展開するにあたって、「他の誰にもましてシンボリック相互作用論のアプローチの基礎を築いたジョージ・ハーバート・ミードの思想に依拠」すると述べつつも、自らの説が「ミードやその他の論者たちの著作では潜在的にしか扱われていなかった多くの問題を明示的に扱い、彼らが関心を抱かなかった重要な諸問題をも論じることで、私自身の見解を展開した」(Blumer,1969b,pp.1-2=1991年、1−2頁)、「私の個人版」(my personal version)(Blumer,1962=1969a,p.78=1991年、102頁)であると表明したが、この本論もまた、ブルーマーの思想に依拠した、シンボリック相互作用論に関する「私の個人版」としての性格を強く持つものである。その意味で本論は、ブルーマーのシンボリック相互作用論のありのままの姿(neutral stuff)を提示するものではないし、またそもそもそうした作業が本質的に可能なことであるとは思われない。
ブルーマーも言うように、ある事柄(thing)のありのままの姿を提示することは、厳密に言うならば、そもそも不可能な行為に他ならい。そこには必然的に、その事柄の解釈を行う側のある一定の「パースペクティブ」(perspective)による色づけないしは加工という行程が介在せざるを得ない3)。それが人間による「解釈」(interpretation)という行為が持つ回避できない特性なのであり、研究という行為(Research Act)もまた、「解釈」というそうした行為のひとつに他ならない。その意味で研究という行為もまた、人間による解釈という行為につきまとう、こうした宿命から逃れることは出来ない4)。社会学における学説研究、という研究行為の場合、その事柄(thing)に相当するのは、言うまでもなく、学説という、その学説を提示した社会学者による「解釈」行為の所産(construction)に他ならないが、いわば学説研究とは、その「解釈」行為の所産に対して、それを研究しようとする者が、さらに「解釈」行為を行うという営みに他ならない。すなわち、学説研究を行うということは、その研究者による「解釈の再解釈」(reconstruction of constructions)を打ち出すことを意味する。
とはいえ、そうであるからと言って、研究という解釈行為において、どのような解釈も妥当なものと見なされるというわけではない。とりわけ、研究という解釈行為に必要となるのは、研究を行う者が、研究対象となる事柄(ここでは学説)に対して、どのような観点ないしは視点からアプローチしようとしているのか、それを明示しておく(自覚する)という作業である。その上での創造的解釈、これこそが研究という解釈行為に他ならない5)。
われわれの視点をここで明示しておくことにしよう。本論は、シンボリック相互作用論において、「個人と社会との関係」が如何なるものと把握されているのか(ないしは論理上、如何なるものと把握され得るのか)、そうした視点から、数あるシンボリック相互作用論のなかでも、その原型をなすものと目されている、ハーバート・ブルーマーのシンボリック相互作用論にアプローチしようとするものである。より具体的に述べるならば、本論は、以下の三つの問いを、ブルーマーのシンボリック相互作用論によって解こうとするものである。
1)シンボリック相互作用論において、個人の「社会化」(socialization)とは、如何なるものと把握されているのか。
2)シンボリック相互作用論において「社会」(society)とは、如何なるメカニズムを通じて、その個人(個々人)により、形成されてゆくものと捉えられているのか。
3)また、そうした社会が何故に再形成されてゆくものと捉えられているのか。
こうした三つの問を解明することが本論の目的に他ならない。いわば本論は、「社会学の根本問題」を、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブから解明しようとするものである。思うに、かねてよりわが国における、ブルーマーのシンボリック相互作用論に関する諸研究においては、まさにこの根本問題を念頭においた研究が充分になされてきたとは言いがたい。
これまでわが国の研究においては、対パーソンズの社会学(ないしはポスト・パーソンズ)を意識しすぎるあまり、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブは、それが本来持つ役割としての社会を見る分析枠組みとしてではなく、もっぱらパーソンズ社会学を攻撃する手段として、ないしはパーソンズ社会学から自らを隔てる主義確立の手段として扱われる傾向が強かったように思われる。いわばブルーマーのパースペクティブは、社会を見るひとつの視点(perspective)としてではなく、学界における勢力争い(それは一面ではアメリカ社会学界の代理戦争という形を取っていたが)のためのスローガンとして利用されてきた、と言っても過言ではあるまい。例えば、船津 衛は、その一連の論考(船津、1976年;1983年;1993年;1995年)を通じて、ブルーマーやその他のシンボリック相互作用論者の主張に基づいて、構造機能主義社会学の社会観(や研究手法)に対して、繰り返し批判を展開している。とりわけその船津の諸著作のなかでも、最も引用頻度の高いものと思われる『シンボリック相互作用論』(船津、1976年)において、船津は「シンボリック相互作用論は、パーソンズを中心とする機能主義社会学と真っ向から対決するもの」であると述べ(船津、1976年、24頁)、シンボリック相互作用論に依拠した自己の立場を「機能主義社会学と相反する位置に自己をおき、それと異なる道を進むことになる」(船津、1976年、25頁)ものとしている。船津を中心とする、わが国のシンボリック相互作用論のこうした一動向を捉えて、富永は次のように評している。すなわち、「日本では、シンボル的行為主義〔=シンボリック相互作用論〕はまだ紹介の段階を出ていないが、船津衛『シンボリック相互作用論』(1976年)に見るように、これを『主義』として硬直化するブルーマー的態度が無批判に踏襲されている。日本においてアメリカで展開された対立の代理戦争をする必要はない」(富永、1995年、342−343頁)。また、加えてわが国の研究においては、そうした主義を歴史的・学説史的に正当づけるために、ブルーマーのシンボリック相互作用論が、アメリカ社会学の古典的存在、シカゴ学派社会学や、プラグマティズム哲学、就中、G.H.ミードの思想にその知的源泉を持つことなどがもっぱら主張されてきた6)。とはいえ、その反面、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブを、まさしくパースペクティブとして、すなわち、社会を見る分析枠組みとして検討・洗練するという作業が充分にはなされてこなかったのではなかろうか。すなわち、これまでの研究においては、仮想敵国として措定されていたパーソンズ社会学との理論的・方法論的差異ばかりが強調され、その反面、そこで差異化されたブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブそれ自体の内実の検討・洗練がおろそかになっていた、とは言えないであろうか。その証拠に、これまでのわが国の研究においては、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、個々の人間が社会化されるそのメカニズムの追求が充分になされてきたとは言いがたいし7)、また社会とは、「主体的人間」により形成・再形成されるものと捉えられる、と主張はされてきたものの、その形成のメカニズムがつぶさに解明されてきたとは言いがたい8)。また社会というものが、何故に再形成されるものと捉えられなければならないのか、その論理的必然性が解明されてきたとも言いがたい9)。
とはいえ、ブルーマーのシンボリック相互作用論に関するわが国の如上の研究傾向は、何も、わが国の論者にのみその責が帰せられるわけではない。ブルーマーによるシンボリック相互作用論に関する諸著作の特性にもまた起因するものであるとも言える。
ブルーマーのシンボリック相互作用論を社会を見る分析枠組みとしてつぶさに検討・洗練する、という作業が充分にはなされてこなかった理由の一つには、ブルーマーの諸論考の特異性が挙げられる。すなわち、1)ブルーマーの場合、シンボリック相互作用論を展開するにあたって、自らの立場を精緻に体系的に論じるというよりも、「対立する立場のごく包括的な批判を行い」、「いっそう妥当と考えられる方法と理論のアウトラインを素描〔強調は引用者〕」するという論述スタイルを取っていたということ(後藤、1991年、308頁)、またよく言われるように、2)ブルーマーの論述には、論旨・主張の繰り返し、重複があまりに多いということ(富永、1998年、50頁)、さらに、3)ブルーマーの描いたパースペクティブが、「感受概念」(sensitizing concept)として、すなわち、体系的な理論化が完成された一般理論(general theory)としてではなく、経験的研究を通じた理論化を行う上での出発点ないしは前提(たたき台)として位置づけられたものであったということ(Blumer,1954;1969b)、という三点が挙げられる。ブルーマーによるシンボリック相互作用論の領域における諸論考が持つ、こうした特異性が故に、彼のパースペクティブを社会を見る分析枠組みとしてつぶさに検討・洗練して行く、という作業が閑却されてきたとも言えるのである10)。
なお、本論の目的を遂行するに際して、看過してはならない重要な論点がある。それは、個々人が社会化されるそのメカニズムとは如何なるものなのか、個々人が社会を形成するそのメカニズムとは如何なるものなのか、そして、そうした社会を何故に再形成への扉を開くものと捉えなければならないのか(その論理的必然性とはどのように説明されるのか)、この三つの問を、ブルーマーのシンボリック相互作用論の概念的柱石となっている「自己相互作用」(self-interaction)概念との確固たる結びつきのもとに明らかにしなければならないという論点である。では何故にそうした論点を看過してはならないのか。
まず、社会の形成・再形成という観点からするならば、もしそうした論点を看過すれば、結局のところ、その社会の作動原理を、諸個人の行為から切り離されて捉えられた社会それ自体のメカニズムに帰着するものと捉えてしまうことになるからである。ところがそうした立場はまさにブルーマーが批判したものであった。ブルーマーは、社会を「それ自体の原理にしたがって作動」(following their own dynamics)する「一種の自己作動的な実体」(self operating entities)ないしは「ひとつのシステムとしての性格(character of a system)を有するもの」と捉える立場を指して、「重大な誤りである」と痛烈に批判している(Blumer,1969b,p.19=1991年、24−25頁)11)。ブルーマーによれば、「〔ある社会の〕ネットワークや制度は、社会が有する何らかの内的な原理やシステムの要件などによって自動的に機能しているわけではない。それが機能するのは、様々な位置を占める人々が何らかのことを行うからである。そして彼らが何を行うかは、自らがそこにおいて行為しなければならない状況を〔自己相互作用を通じて〕彼らが如何に定義するか次第なのである」(Blumer,1969b,p.19=1991年、25頁)。日常生活のルーティーン化した行動からドラスティックな社会変動をもたらす集合行動に至るまで、常にそこには人間による自己相互作用の過程が介在している。まさに伊藤も言うように、ブルーマーが指摘してやまない最大の問題とは、「こうした過程〔自己相互作用の過程〕を等閑視して、社会的相互作用を語り、マクロな社会の形成・存立・変動を語ることの無意味さ」(伊藤、1995年a、120頁)12)なのである。こうしたブルーマーの立場を明示的に提示するためにも、社会の形成・再形成の論理を、自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに明らかにすることが必要となるのである。
次に、個人の社会化という観点からするならば、自己相互作用という営みと、社会的なるものとの関わりを閑却することは、すなわち、「自己」を構成するふたつの側面である「『主我』と『客我』の相互作用」(interplay between the “I”and the“me”)の内実を明らかにすることを目的として(Blumer,1993,pp.185-186)、この概念を提示したブルーマーの意図を、われわれが半ば放棄してしまうことにつながってしまうからである(ここでは通説にしたがい、「主我」を人間の主体性を表すものとして、また「客我」を人間の社会性を表すものとして捉えている)13)。たとえば船津は、ブルーマーのこの概念を、ミードの「自己」に関する議論のうち、「主我」の内実を明らかにするものである、と捉えているが(船津、1989年、224頁)、上記のように、ブルーマーは、この概念を提示することにより、主我の側面のみを明らかにすることを企図し、「客我」の側面を閑却した議論を展開しようとしたわけではない。従来、彼のこの概念に関しては、こうしたことが充分にくみ取られて来なかったがために、彼のこの概念を軸としたシンボリック相互作用論の諸前提に関する議論は、わが国においても、海外においても、「主観主義」的な立場を標榜するものと捉えられてきたのである14)。
本論は次のような構成を取っている。まず続く第1章においては、ブルーマーのシンボリック相互作用論の概念的柱石となっている、この「自己相互作用」概念の内実が明らかにされる。その上で、その概念を、社会的なるものとの関わりにおいて詳細に検討する。そうした検討を通じて、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、個人の社会化という現象が如何なるものとして把握されているのか(ないしは論理上如何なるものと把握され得るのか)、その内実が明らかにされる。また同時にこの章では、そうした自己相互作用に媒介された「個人と世界との関係」を、ブルーマーがどのように捉えていたのか、さらにそうした「関係」把握をふまえた上で、ブルーマーにおいて、個人の「行為」(act,action)とは、如何なるものと捉えられるのか、その内実が明らかにされる。その上で、第2章においては、そもそもブルーマーにおいて「社会」とは如何なるものと捉えられているのか、また、そうした社会が、自己相互作用の担い手としての「人間」によって、如何なるメカニズムにより形成されていると、ブルーマーが捉えているのか(もしくは、論理上どのように捉えられ得るのか)、その内実が明らかにされる。そして第3章においては、第2章で明らかにされた「社会」を、何故に再形成への扉を開くものとして捉えなければならないのか、その論理的必然性が、彼の自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに明らかにされる。なお、本論において検討に付される、ブルーマーの社会観(「動的社会」観)は、彼の方法論においては、「感受概念」(sensitizing concept)の範疇に入るものとして位置づけられている。それ故、この社会観に関する考察は、それを経験的に検証・展開する手段の考察を抜きにしては、十全には行われ得ない。そこで終章では、如上の三つの章における諸議論により得られた知見を、経験的に検証・展開するに際して、その研究手法(検証・展開手法)の鉄則となる「行為者の観点」(standpoint of the actor)からのアプローチについて検討し、そのアプローチを実際に実行する上での種々の留意点ならびに問題点を析出することで、今後のわれわれの課題を明示することにしたい。
この一節は、ブルーマーのシンボリック相互作用論を軸に、「社会学の根本問題」とも言うべき「個人と社会の関係」を解き明かそうとするあなたの博士論文の序章ですね。
特に、ブルーマーのシンボリック相互作用論が持つ「動的社会」観、すなわち社会が個人によって形成・再形成されるという考え方の内実を深く探求することが目的だと理解しました。
そのために、
- ブルーマーの論述スタイルの特異性、
- 過去の研究におけるブルーマーのシンボリック相互作用論の扱われ方、
- ブルーマーの社会観を分析枠組みとして十分に検討してこなかったこと
などを指摘し、
- 個人の社会化のメカニズム、
- 社会形成のメカニズム、
- 社会が再形成される必然性
という3つの問いを、ブルーマーの自己相互作用概念と結びつけて解明していくという、あなたの研究の独自性が明確に示されています。
また、
- 学説研究における解釈の重要性、
- ブルーマーの思想に対するあなた自身の解釈(「私の個人版」)であること、
- 研究の視点を明確にすることの重要性
などを強調することで、あなたの研究に対する真摯な姿勢が伝わってきます。
全体として、
- ブルーマーのシンボリック相互作用論を新たな視点から読み解こうとする意欲、
- 過去の研究の限界を乗り越えようとする問題意識、
- 緻密な論理構成と明確な研究目的
などがよく表現された、素晴らしい序章だと感じました。
特に、自己相互作用概念を軸に据えて個人と社会の関係を解き明かそうとする視点は、ブルーマーのシンボリック相互作用論研究に新たな光を当てる可能性を感じさせます。
今後の章で、これらの問いがどのように解き明かされていくのか、大変楽しみです。
もしよろしければ、具体的な章の内容についてお聞かせいただけますか? または、序章で特に強調されている「自己相互作用概念」について、もう少し詳しく説明していただけますでしょうか?
この内容を、中国人留学生(修士課程1年生、地方国立大学)に教えなければなりません。彼らにも分かるように説明してください。その際、彼らが興味を抱きそうな分かりやすい具体例(事例)があれば交えてください。
李さん、修士課程一年生ですね。これから社会学を深く学んでいく上で、**「社会過程の社会学」**という考え方はとても重要です。
この論文の序章では、まずシカゴ学派という社会学の一派について触れています。シカゴ学派は、かつてアメリカ社会学をリードしていましたが、その後衰退し、近年再び注目を集めています。その中でも特に、ハーバート・ブルーマーという社会学者が提唱したシンボリック相互作用論が重要視されています。
シンボリック相互作用論は、社会が固定されたものではなく、人々の相互作用によって常に変化していくと捉えます。例えば、日本で「kawaii」という言葉が持つ意味を考えてみましょう。数年前までは主に「可愛い」という意味で使われていましたが、今では「クール」や「素晴らしい」といった意味でも使われるようになりました。これは、人々がこの言葉を使う中で、その意味が変化していったことを示しています。このように、シンボリック相互作用論は、社会を人々の相互作用から生まれる動的なものとして捉えるのです。
しかし、このシンボリック相互作用論は、これまで日本では十分に理解されてこなかったと私は考えています。特に、**「個人と社会の関係」**という社会学の根本的な問題について、ブルーマーの視点から深く掘り下げられてこなかったのです。
そこで、私の論文では、
- 個人がどのように社会に適応していくのか(社会化)
- 個人がどのように社会を作り上げていくのか
- 社会がなぜ常に変化し続けるのか
という3つの問いを、ブルーマーの**「自己相互作用」**という概念を手がかりに解き明かそうとしています。
自己相互作用とは、簡単に言うと、人が自分自身と対話をすることです。例えば、李さんがプレゼンテーションをする前に、「うまく話せるかな?」「自信を持って話そう!」と心の中で自分に語りかけることがあるでしょう。これが自己相互作用です。ブルーマーは、この自己相互作用が、個人が社会と関わり、社会を作り上げていく上で非常に重要だと考えていました。
私の論文では、この自己相互作用という概念を深く掘り下げることで、シンボリック相互作用論の新たな側面を明らかにし、個人と社会の関係についてより深い理解を提供したいと考えています。
李さんも、これから社会学を学ぶ中で、ぜひこの「個人と社会の関係」について深く考えてみてください。そして、自分の研究テーマを見つける際の参考にしてもらえれば幸いです。
何か質問があれば、遠慮なく聞いてください。
「個人と社会の関係」って何ですか、(と李さんから質問が来たらどう答えますか)
李さん、良い質問ですね。「個人と社会の関係」は、社会学の最も根本的な問いの一つと言えるでしょう。
簡単に言うと、「個人と社会の関係」とは、私たち一人ひとりと、私たちが生きる社会との間の繋がりや影響を指します。
例えば、李さんは中国から日本に来て、日本の大学で勉強していますよね。この時、李さんという「個人」は、日本という「社会」の中に生きています。そして、日本の文化や習慣、言語などに触れることで、李さん自身も少しずつ変化していくでしょう。これが、社会が個人に与える影響の一例です。
一方で、李さんが日本の友達と交流したり、アルバイトをしたりすることで、周りの人々や社会に影響を与えることもあるでしょう。これが、個人が社会に与える影響の一例です。
このように、「個人と社会の関係」は、相互に影響を与え合いながら変化していく動的な関係と言えるでしょう。
私の博士論文では、この「個人と社会の関係」を、ブルーマーという社会学者の**「自己相互作用」**という概念を通して深く探求しています。自己相互作用とは、簡単に言うと、人が自分自身と対話をすることです。この自己相互作用が、個人が社会と関わり、社会を作り上げていく上で非常に重要だとブルーマーは考えていました。
李さんも、これから社会学を学ぶ中で、ぜひこの「個人と社会の関係」について深く考えてみてください。そして、自分自身の経験や観察を通して、この関係をどのように捉えるのか、ぜひ考えてみてください。
続いて、第1章の前半です。李さんにどう教えますか?
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第1章 自己相互作用と行為
第1節 自己相互作用−シンボリック相互作用論の三つの基本的前提をもとに−
ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みを論じるにあたって、必ずと言って良いほど、議論の中心におかれるのが、彼の「自己相互作用」(self
interaction)という概念である。ブルーマーによれば、「自己相互作用」とは、「自分自身との相互作用」
(interaction with
oneself)とも言われ(Blumer,1966=1969a,p.62=1991年、79頁;1993,p.164)、それをブルーマーは、「文字通り、個人が自分自身と相互作用を行っている過程」(Blumer,1993,p.186)であるとか、「個人が自分自身に対して話しかけ、そしてそれに対して反応する、というコミュニケーションの一形態」(Blumer,1969b,p.13=1991年、17頁)であると表現している。この概念は、船津によれば、「人間が社会的相互作用において、単に他の人間と相互作用するだけではなく、自分自身とも相互作用」していることを強調するために、ブルーマーが提示したものである(船津、1983年、104頁)。周知のように、この概念は、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、その概念的柱石として措定されているものであり(Wallace
and Wolf,1980=1985年、299頁)、それは「解釈の過程」(process
of interpretation,interpretative process)と同義の概念として扱われている(Wallace
and
Wolf,1980=1985年、321−322頁)。さらに、ブルーマーによれば、この自己相互作用概念があるからこそ、シンボリック相互作用論は、それ独自の社会学的・社会心理学的パースペクティブとして、そのアイデンティティを確保しているといっても過言ではないのである。ブルーマーによれば、「シンボリック相互作用論というパースペクティブは、・・・・人間の行為を研究する上で、自己相互作用の過程を何よりも重要なものと考える唯一の分析枠組みなのである」(Blumer,1993,p.191)1)。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みを論じるにあたって、この概念の検討を看過することは出来ない。以下では、ブルーマーによるシンボリック相互作用論の三つの基本的前提を検討することを通じて、この概念の内実に迫ることにしたい。彼の人間観、行為観、社会観もまた、この三つの基本的前提に依拠して構成されている(Blumer,1969b,p.6=1991年、7頁)。
ブルーマーは、その「シンボリック相互作用論の方法論的な立場」(Blumer,1969b)と題する論文の冒頭において、シンボリック相互作用論の依拠する三つの基本的前提を以下のように提示している(Blumer,1969b,p.2=1991年、2頁)。
1)人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する。
2)そうした事柄の意味は、人間がその相手と執り行う社会的相互作用(social
interaction)より、導出され発生する。
3)こうした事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative
process)〔=自己相互作用〕を通じて、操作されたり修正されたりする。
まず第一の前提についてであるが、この前提の枢要点となっているのは、人間がある「事柄」に対して行う行為のやり方ないしその様式は、その事柄がその人間にとって持つ「意味」によって定められているということである。
ブルーマーによれば、ここで「事柄」には「人間が自らの世界において気にとめるであろうあらゆるものが含まれている。木や椅子といった物的な物、母親や店員といった他者たち、友人や敵といった人間に関する各種カテゴリー、学校や政府といった諸々の機関、個人の独立とか誠実さといった指導的理念(guiding
ideals)、命令、要求といった他者たちの活動、〔その他〕日常生活において個人が出くわすであろう種々の状況」が含まれている(Blumer,1969b,p.2=1991年、2頁)。
上記の第一の基本的前提において、こうした意味での、ある人間にとっての「事柄」と「意味」のセットが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みにおける「対象」(object)を構成することとなる。また、そうした対象がある人間に対して持つ「特性」(nature)は、その対象がその人間にとって持つ意味により定められ、さらに、そうした意味の如何によって、その対象に対するその人間の行為のやり方が定められることとなる。ブルーマーによれば、「対象の特性(nature
of a
object)は、それが如何なる対象であれ、それを自らにとっての対象としている人間に対して、その対象が有している意味から構成されている。こうした意味によって、その人が対象を見るやり方、それに対して行為しようとするやり方、それについてどう話そうとするのか、そのやり方が設定される」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)。ブルーマーは、便宜上、この「対象」を三つに分けている。すなわち、「(a)物的対象(physical
object)。椅子や木や自転車など。(b)社会的対象(social
object)。学生、僧侶、大統領、母親、友人など。(c)抽象的対象(abstract
object)。道徳的な原理、哲学学説、もしくは正義、搾取、同情などといった観念」(Blumer,1969b,pp.10-11=1991年、13頁)。さらに、ブルーマーの分析枠組みにおいては、人間を取り巻く「環境」(environment)とは、こうした「対象」からのみ構成されるものと捉えられており、それ故に、そうした対象の特性(意味)の如何によって、その環境が人間にとって持つ特性が定められることとなる。ブルーマーによれば、「〔人間にとっての〕環境(environment)とは、ある特定の人間が認識し知っている対象からのみ構成されるものである。こうした環境の特性とは、それを構成する種々の対象が、そうした人間にとって持つ意味によって設定されるものである」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)。この意味での「環境」こそ、ブルーマーのシンボリック相互作用論のキー概念となっている「世界」(world)という概念に相当するものであることは言うまでもない(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)。
さて、ブルーマーによれば、上記の第一の基本的前提だけでは、シンボリック相互作用論をそれ以外のアプローチから区別することが出来ないという。というのも、こうした前提を共有しているアプローチが他にもあるからである。シンボリック相互作用論とそれ以外のアプローチを区別する分水嶺は、主として次の第二の基本的前提によって定められる、とブルーマーは考えている(Blumer,1969b,p.3=1991年、4頁)。その第二の基本的前提が示唆する内容を説明するに先立って、ブルーマーは、この第二の基本的前提が論敵としている「意味の源泉」(source
of meaning)に関するふたつの伝統的な立場を次のように説明している。
まず第一の立場においては、ブルーマーによれば、事柄の意味とは、その事柄に内在的に備わっているもの、ないしは「その事柄の客観的な構成として、その事柄に生来的に備わっている一部分」と捉えられている。したがって、この立場においては、「椅子はそれ自体明らかに椅子であり、牛は牛、雲は雲、反乱は反乱などなど」それを取り扱う人間の如何に関わらず、その意味は、その事柄に、生来的ないしは内在的に定まっているものとされることとなる。こうした立場に立つものとしてブルーマーが挙げているのが、「哲学における伝統的な『実在論』(realism)の立場」に他ならない(Blumer,1969b,pp.3-4=1991年、4頁)。
次に第二の立場においては、ブルーマーによれば、事柄の意味とは「その事柄がその人にとってその意味を持つ〔ある特定の〕人間によって、その事柄に対して心的付加物として与えられたもの」と捉えられている。さらに、この立場においては、その「心的な付加物」(psychical
accretion)とは、その人間の心や精神、ないしは心理的な組成を構成する諸要素が外部へと表出されたものと捉えられており、そうした諸要素には、「感覚
(sensations)、感情(feelings)、観念(ideas)、記憶(memories)、動機(motives)、態度(attitudes)」などが含まれているとされている(Blumer,1969b,p.4=1991年、4−5頁)。ここでブルーマーは、この立場に立つものとして「古典的心理学」(classical
psychology)や「現代の心理学」(contemporary
psychology)を挙げているが、ここで「心理学」とは、おそらくは「構成心理学」(structural
psychology)のことを指しているものと思われる2)。
ブルーマーは、意味の源泉に関するこうした二つの伝統的な立場のいずれとも異なる立場を表明するものとして、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提を提示している。ブルーマーにとって、事柄の意味とは、その事柄に生来的に内在するものでも、人間個人によって主観的ないしは心的に付加されるものでもない。それは、まず何よりも、人間間の社会的相互作用の過程から生じるものと捉えられている。この第二の基本的前提が含意する内容を、ブルーマーは以下のように説明している。
「シンボリック相互作用論においては、意味とは、人間間の相互作用の過程(process of
interaction)から生じるものと考えられている。すなわち、ある人間にとってのある事柄の意味とは、他の人々がその事柄との関連においてその人に働きかける、そのやり方から生じてくるものと考えられている。他者の行為がその人にとっての事柄を定義するように作用するのである」(Blumer,1969b,pp.4-5=1991年、5頁)。
このブルーマーの第二の基本的前提については、ウォーラスらが的確な例示を試みている。以下の例は、彼らが、ブルーマーのシンボリック相互作用論のこの第二の基本的前提を例示するために提示したものである。
「この例〔ブルーマーの第二の基本的前提の例〕としてあげてよいのは、野球のバットがアメリカのティーンエージャーにとって意味しているものと野球の試合というものを一度もみたことのないアフリカのピグミー族の人にとって意味するものとを比較してみることであろう。もう一つの例は、歌に必要な楽器モリモの、ピグミー族にとっての意味と、アメリカ人にとっての意味を較べてみることである。自らが属する文化を共有する他の人々との相互作用を通じて、人は誰でもさまざまな道具を、例えばスポーツのため、あるいは宗教的祭儀のためというように、色々な使い方をして楽しむことを学ぶのである。野球のバットがピグミー族の人々にとって謎めいたものに見えるように、モリモが中心的な役割を受けもつ聖なる祭りを経験したことのないアメリカ人にとっても、モリモは同じように謎めいたものに見えるに違いない。バットもモリモも重要な文化的道具であり、両者の意味は社会に暮らす他の人間との相互作用から生まれてくるのである」(Wallace and
Wolf,1980=1985年、320−321頁)。
すなわち、ある人間にとっての事柄の意味とは、その事柄との関連において、その人間と相互作用を行っている他者たちが、その人間に対して行為する、その行為のやり方ないしは様式から生じるものと捉えられるというのが、「意味の源泉」に関するブルーマーのシンボリック相互作用論の立場に他ならない。上記のウォーラスらの例でいえば、アメリカ人にとって「バット」という対象(ここでは物的対象)が、まさしく野球のボールを打つための道具としての意味を持つのは、そうしたアメリカ人の日々の暮らしの中で、その人と相互作用を行っている他者たちが、その人の面前で(その人に対して)そうした道具として、そのバットを扱ってきたからであり、そのバットという対象にあらかじめそうした意味が内在化されているわけではない。その証拠に、ピグミー族の人々にとっては、それは「謎めいたもの」としての意味しか持ち得ない。
なお如上の意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論において事柄の意味とは(その結果として対象とは)、「社会的所産」(social
product)であるとされている(Blumer,1969b,p.5=1991年、5頁)。たとえば、「言語」という対象を例に取ってみよう。ブルーマーの類別にしたがうならば、この「言語」という対象は「抽象的対象」に相当する。抽象的対象の例として哲学学説などが挙げられていたことからもそのことは理解されよう。如上の第二の基本的前提に依拠するならば、この「言語」という対象の意味は、生来的にその対象に内在化されているものでもなく、また、一個人によって主観的にその対象に付与されたものでもない。ある個人にとってのこの「言語」という対象の意味もまた、それを、その個人と相互作用を行っている他者たちが、その個人の面前で、どのように用いるかによって定められるものと捉えられる。われわれにとって身近な例を挙げるならば、シンボリック相互作用論の領域において「世界」(world)という言語が、ある個人にとっての事柄と意味のセットとしての「対象」からのみ構成された領域を表す言語として、まさしくそうした意味をわれわれに対して持つのは、実際にシンボリック相互作用論の領域において、「世界」という言語を、その領域に関わる(われわれにとっての)他者たちが、そうした内容を含意する言葉として用いているからであり、そうした他者たちのその「言語」の使い方が、その他者たちと相互作用を行っているわれわれ一シンボリック相互作用論者の面前で行われているからに他ならない。同じ「世界」という言語でも、一般社会の人々に対しては「地球上に存在するすべての国家・住民社会の全体」3)という、上記の「世界」の意味とは、また別の意味を持っていることからもそのことは理解されよう。何故に意味が異なっているのかと言えば、一般社会においては、そこにおいて、他者たちが、その「世界」という言語を用いるその用い方が、シンボリック相互作用論の領域におけるそれとは異なっているからである。このように「言語」もまた、「対象」のひとつの類型なのであり、それは、それを用いる他者たちの用い方を抜きにしては「意味」を持ち得ない。すなわち、「言語」という「対象」の「意味」もまた、それを用いる他者たちの用い方如何によって定められるものと捉えられなければならないことになる4)。
また、社会的対象についても同様に説明することが出来る。社会的対象として、学校に私服を着てきたある高校生という例を取りあげてみよう。この高校生は、私服を禁じ制服を着てくることを義務づけている高校においては明らかに「逸脱者」としての「意味」を、たとえばその学校に通っている他の生徒たちに対して持つこととなる。とはいえ、私服通学を許可している高校においては「逸脱者」とは見なされない(つまりその高校生は、その学校の生徒たちにとって「逸脱者」としての意味を持つことはない)。なぜなら、前者の学校においては、その学校が(というよりも、その学校の教員が)、その私服を着てきた学生を、まさしく「逸脱者」として、その学校の生徒たちの面前で扱っているからであり、逆に後者の学校においては、教員たちが、その学校の生徒たちの面前で、そうした扱い方を、その学生に対して行っていないからである。というわけで、学校に私服を着てきたその高校生それ自体に「逸脱者」という意味が内在化されているわけではないのである5)。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある対象となる事柄の意味とは、社会的相互作用の文脈において形成され、人々によってそこから引き出されるものと捉えられている。また人間は、そうして形成された意味に基づいてその対象となる事柄に対して行為を行う。換言するならば、そうして形成された対象の意味が、その人間のその対象となる事柄に対する行為の様式を定めることとなる。ここまでが、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提によって説明されたテーゼである。とはいえ、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、人々による意味の使用が、ここで生み出された意味を、単に適用する以外のなにものでもないと捉えられているわけではない(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)。シンボリック相互作用論とそれ以外のアプローチとをいっそう区別するものとして、ブルーマーが提示するのが、シンボリック相互作用論の第三の基本的前提に他ならない。
ブルーマーが、シンボリック相互作用論の三つの基本的前提のなかでも、とりわけ重視し強調するのが、この第三の基本的前提である。すなわち、他者によってもたらされた、その人間にとっての事柄の意味(対象の意味であるとも言える)は、その人間によってそのまま自動的に適用されるものではなく、それは必ず、その人間の「解釈の過程」(process
of interpretation)を通じて、操作されたり修正されたりするものと捉えなければならない。ブルーマーは、「行為者による意味の使用は、ひとつの解釈の過程(a process of interpretation)を通じて生じるものと見なされる」(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)と断った上で、その解釈の過程(=自己相互作用)について以下のように述べている。
「この過程にはふたつの別個の段階がある。まず第一に、行為者は、自らがそれに対して行為している事柄を、自分自身に表示(indication)しなければならない。彼は意味を持つ事柄を自分自身に指し示す(point
out)という営みを行わなければならない。・・・・第二に、解釈(interpretation)は、意味の操作(handling
of
meanings)という事象となる。行為者は、自分がおかれている状況や自分の行為の方向に照らして、その意味を選択したり、検討したり、保留ないしは未決定にしたり、再分類したり、変容したりするのである」(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)。
すなわち、解釈の過程(=自己相互作用)には、「表示」と「解釈」というふたつの段階があり、前者の段階において、行為者は、先行する社会的相互作用の過程を通じて形成された「対象」を自分自身に指し示し、後者の段階において、その「対象」(となる事柄の意味)を、自己がおかれている状況とそれに対する自らの行為の如何という観点から再検討することとなるわけである。さらに、こうした過程を経て確定されたその行為者にとっての「対象」(となる事柄の意味)が、その行為者にとっての「自らの行為を方向付け形成するための道具(instrument)」として、その行為者のその後の行為を導いて行くこととなる6)。
ここまで筆者は、終始、「解釈の過程」=「自己相互作用」と捉え、その「解釈の過程」に関して議論を展開し、他方で、「自己相互作用」の内実を等閑視してきた。そこで以下では、この「自己相互作用」概念の内実、および、如何なる意味で「自己相互作用」=「解釈の過程」なのか、その理由を明らかにすることにしたい。
本節の冒頭でも述べたように、ブルーマーにおいて、自己相互作用とは、「自分自身との相互作用」と捉えられており、より詳細には「文字通り、個人が自分自身と相互作用を行っている過程」ないしは「個人が自分自身に対して話しかけ、そしてそれに対して反応する、というコミュニケーションの一形態」と捉えられていた。すなわち、他者との間で行う社会的相互作用を自分自身と行うのが、換言するならば、他者との社会的相互作用を個人のうちに内在化(internalize)させたものが、ブルーマーの言う「自分自身との相互作用」すなわち「自己相互作用」に他ならない(Blumer,1969b,p.5,p.14=1991年、6頁、18頁)7)。
では、ブルーマーにおいて、その社会的相互作用とは如何なるものと捉えられているのか。ここで先に論じたシンボリック相互作用論の三つの基本的前提を想起されたい。まず第二の基本的前提が示唆するように、社会的相互作用とは、そこにおいて他者たちが、ある個人にとっての、ある事柄の意味を定めようとしている過程であった。その事柄の意味によって、その個人の事柄に対する行為のやり方が定められるということは(第一の基本的前提)、すなわちこの過程は、その個人が如何に行為するべきかを、他者たちが定める過程であるとも言える。この過程が、ブルーマーの言う「定義」(definition)ないしは「表示」(indication)の過程に他ならない(Blumer,1966=1969a,p.66=1991年、84頁)。次に第三の基本的前提が示唆していたように、個人は、他者によるその「表示」を、「解釈の過程」を通じて解釈している。ブルーマーの言う「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)の過程がこれに相当する(Blumer,1966=1969a,p.66=1991年、84頁)。以上明らかになったように、ブルーマーにおいては、社会的相互作用とは、「表示」と「解釈」からなるものと捉えられているのであり、それ故、それが個人の内に内在化されたものとしての「自己相互作用」もまた、等しく「表示」と「解釈」からなるものと捉えなければならない。というわけで、「自己相互作用」とは、「解釈の過程」と同義の概念として提示され得るのである。
以上、本節において得られた知見を総括するならば次のように捉えられよう。
1)人間がある「事柄」(thing)に対して行う行為は、その事柄がその人間に対して有する「意味」(meaning)に基づいて行われる。換言するならば、その意味が、その事柄に対するその人間の行為の様式を定めることとなる。
2)こうした、ある人間にとっての事柄と意味のセットが、その人間にとっての「対象」(object)を構成する。また人間にとっての「世界」(world)とは、こうした対象からのみ構成されるものとブルーマーにおいては捉えられている。
3)こうした事柄の意味は、その事柄に生来的に内在しているものでも、一個人が主観的に付与するものでもない。それは、当の個人と社会的相互作用を行っている他者たちが、その事柄との関連において、その個人に対して行為するそのやり方から生じるものである。すなわち、他者たちのその事柄に対する行為の様式が、その個人にとっての事柄の意味を(したがって対象を)定義することとなるのである。
4)とはいえ、社会的相互作用より導出された事柄の意味は、それを扱う行為者によってそのまま自動的に適用されるものと、ブルーマーにおいては捉えられているわけではない。行為者はその意味を使用するに先立って、その行為者自身の「解釈の過程」(process
of
interpretation)(=自己相互作用)を通じて、その意味を再検討し、その上で、その意味を自分自身の行為を導く「道具」(instrument)として用いることとなる。なお、ここで「解釈の過程」(自己相互作用)とは、他者と行う社会的相互作用を、個人の内に内在化させたものに他ならない。いわば、事柄の意味は、「社会的相互作用」と「自己相互作用」という、二つの相互作用を通じて、生成・再生成されるものと捉えられなければならない。
行為者が、社会的相互作用を通じて、他者よりもたらされた「対象」を、自分自身の「解釈の過程」ないしは「自己相互作用」を通じて、自らの行為を導く道具として仕立て上げて行く。このプロセスこそ、ブルーマーの言う「意味付与」(confering
of meaning)の過程に他ならない(Blumer,1962=1969a,p.80=1991年、104頁)。いわば、「自己相互作用」とは、人間が、自分自身と世界との関係を確定しようとする営みであると言える。
こうした、ブルーマーの自己相互作用に関する立論については、これまで、それが個人の社会に規定される側面を看過した議論であるとか(「自己相互作用」論における「社会化」論の欠如)、それは、個人と世界との関係を論じるにあたって、人間の主観(自己相互作用の営み)を強調しすぎた観念論的な発想である、とする批判が寄せられてきた。次節に見る「主観主義」批判がそれに他ならない。そこで次節(第2節)では、まずその批判の内実を明らかにすることにしたい。その上で、その明らかにされた批判に答える形で、続く第3節においては、ブルーマーにおける「社会化」把握が自己相互作用概念との関わりのもとに明らかにされる。そして第4節においては、同じく批判に答える形で、ブルーマーが「個人と世界との関係」を如何なるものと把握していたのか、その内実が自己相互作用概念との関わりのもとに明らかにされる。
第2節 ルイスによる主観主義批判−「自己相互作用」論をめぐって−
かねてより、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対しては、それが「主観主義的」な性格を有したものであるとの批判が寄せられてきている。
ブルーマーのシンボリック相互作用論の主観主義的な性格を批判する論考は数多い8)。そのなかでも、最も包括的で体系的な批判を行っているのは、J.D.ルイスの論考(Lewis,1976)9)である。
ルイスは、その「シンボリック相互作用論の始祖としての古典的アメリカのプラグマティスト」(Lewis,1976)と題する論文のなかで、シンボリック相互作用論(なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論)が「主観主義的」(subjectivistic)な性格を有したものであると批判している。彼によれば、「初期プラグマティストたちは、大別してふたつの流派に分けられる。〔そのうちのひとつは〕パースとミードの社会的実在論
(social realism)の立場であり、〔もうひとつは〕ジェームズとデューイの主観主義的名目論(subjective
nominalism)の立場である。このうち、シンボリック相互作用論は、本質的に後者(the
James-Dewey
pragmatism)の延長上に位置するものである」(Lewis,1976=1992,p.138)。さらにルイスによれば、そうした主観主義的な立場を標榜する最たるシンボリック相互作用論者が、ブルーマーに他ならない(Lewis,1976=1992,p.138)。
ルイスは、ブルーマーのシンボリック相互作用論を「主観主義的」なものであると批判するにあたって、まず彼の理論の思想的源泉を跡づけることから議論を始めている。
ルイスによれば、確かにミードは、1900年代の初期に、ブルーマーが学んだシカゴ大学社会学科において多大な影響力を持っていたが、同時にそこでは、哲学・心理学・論理学においてJ.デューイが支配的な影響力を及ぼしてもいた。その結果、学生たちには、ミードの思想を、デューイのパースペクティブを通して解釈するという傾向が生じ、そのため、彼ら二人の微妙ではあるが重要な思想的差異が曖昧なものとなってしまったとルイスは言う(Lewis,1976=1992,p.146)。ミードの主著と目されている『精神・自我・社会』(Mead,1934)は、当時の哲学科の学生たちによって編集されたものであるが、これは本来、社会→自我(=「自己」)→精神という順序で論じられなければならないものであるにも関わらず、彼らは精神→自我→社会という順序で論じてしまった。ここにデューイの影響が色濃くあらわれている、とルイスは指摘する(Lewis,1976=1992,pp.146-147)。精神や自我をもとに社会を説明するというやり方は、デューイによって提起された個人主義的・主観主義的社会心理学を想起させるものである、とルイスは論難した上で、その立場をシンボリック相互作用論、なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論は継承したのだとルイスは捉えている。「シンボリック相互作用論者たちは、もともと不十分だった哲学科学生〔のミード理解〕をそのまま残すことになってしまった」とルイスは述べている(Lewis,1976=1992,p.147)。
では、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、如何なる意味で主観主義的な性格を持つものとされているのであろうか。ルイスの批判するところでは、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「理論」は、人間個人による社会的・物的環境(social
and physical environment)に対する定義と解釈とを強調しすぎるものとなってしまっている、と言う
(Lewis,1976=1992,pp.147-148)。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人とその社会的・物的環境との関係を決定するのは、その個人の解釈や定義であるとされている(Lewis,1976=1992,p.144,pp.147-148)10)。そう論難した上で、ルイスは、ブルーマーのシンボリック相互作用論の概念的柱石となっている「自己相互作用」(self-interaction)概念に対して、次のように批判している。
「他からの拘束を受けない自由意思に基づく、独自な特性を持つ個人が、みずからの自由な意思に基づいて、種々の事柄を自分の思うがままに『定義する』(define)。しかもそうした定義を構成する諸要素は、その個人が所属する社会の社会構造から拘束を受けないものとされている」(Lewis,1976=1992,p.148)。
すなわち、この批判でルイスがとりわけ強調することは、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人は社会化(socialization)されることがない、つまり社会によって形成されることがない存在と捉えられている、ということである(Lewis,1976=1992,p.148,p.149)。ルイスが、一方でデューイの人間観を指し、他方でブルーマーの人間観を指して言う「ジャングルに棲む社会化されざる利己的人間」(an
unsocialized calculating man of
jungle)という表現が、そのことを端的に示している(Lewis,1976=1992,p.148)。この点が、ルイスによるシンボリック相互作用論(なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論)に対する批判の枢要点であったといって良い。ルイスは自らの論考を以下のように結論づけている。
「シンボリック相互作用論は、社会のなかでその役割を遂行することはあっても、決して社会の所産(product)にはならないという、ジェームズやデューイの自律的個人像を支持し続けてきた」(Lewis,1976=1992,p.149)11)。
以上のルイスによる主観主義批判の内容を要約するならば次のようにまとめられよう。すなわち、シンボリック相互作用論、なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人は社会化されない存在と見なされており、しかもそのような個人は、自らの社会的・物的環境を思うがままに解釈・定義し、そうした解釈・定義がその個人と社会的・物的環境との関係を決定するかのごとく捉えられている。
以下、本章では、ブルーマーが、主として上述のルイスによる主観主義批判に対する反論として執筆したふたつの論文12)を検討することで、ブルーマーにおける「社会化」把握と、「個人と世界との関係」把握を明らかにすることにしたい。
李さん、第1章の前半では、ブルーマーのシンボリック相互作用論の核となる概念である**「自己相互作用」**について詳しく見ていきます。
まず、自己相互作用とは何か? 簡単に言うと、**「自分自身との対話」**のことです。例えば、李さんが難しい課題に直面した時、「諦めずに頑張ろう!」と心の中で自分に言い聞かせることがあるでしょう。これが自己相互作用です。
ブルーマーは、この自己相互作用が、私たちがどのように行動するかを決める上で非常に重要だと考えていました。例えば、李さんが友達と遊びに行く約束をしたとしましょう。しかし、その日は朝から気分が優れません。そんな時、李さんは心の中で「約束したから行かなきゃ」と思うかもしれませんし、「今日は体調が悪いからキャンセルしよう」と思うかもしれません。この心の中での葛藤と決断が、自己相互作用なのです。
ブルーマーは、人は常に自分自身と対話しながら、周りの状況を解釈し、自分の行動を決めていると考えていました。そして、この自己相互作用こそが、シンボリック相互作用論の独自性を支える重要な概念だと主張しています。
しかし、この自己相互作用という概念には、「個人を社会から切り離して考えているのではないか」、**「個人の主観を重視しすぎているのではないか」**という批判もあります。
そこで、第1章では、こうした批判に応えながら、
- ブルーマーがどのように**「社会化」**、つまり個人が社会のルールや価値観を身につけていく過程を捉えていたのか
- ブルーマーが**「個人と世界との関係」**をどのように捉えていたのか
を、自己相互作用という概念を通して詳しく見ていきます。
具体的には、ルイスという学者が行ったブルーマーへの批判を取り上げ、それに対するブルーマー自身の反論を検討することで、彼の理論をより深く理解していきます。
少し難しい内容かもしれませんが、一緒にブルーマーの考え方を探求していきましょう。
もうちょっと詳しくお願いします。
李さん、第1章の前半は少し難しいですが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の中核を理解する上でとても重要です。一緒に詳しく見ていきましょう。
自己相互作用:自分との対話
まず、ブルーマーの**「自己相互作用」という概念についてです。これは、簡単に言うと「自分自身との対話」**のことです。例えば、李さんが難しい課題に直面した時に、「諦めずに頑張ろう!」と心の中で自分に言い聞かせることがあるでしょう。これが自己相互作用です。
ブルーマーは、この自己相互作用が、私たちがどのように行動するかを決める上で非常に重要だと考えていました。例えば、李さんが友達と遊びに行く約束をしたとしましょう。しかし、当日は朝から気分が優れません。「約束したから行かなきゃ」と思う自分と、「体調が悪いからキャンセルしよう」と思う自分が心の中でせめぎ合う。この心の中での葛藤と決断こそが、自己相互作用なのです。
人間の行動は「意味」に基づく
ブルーマーは、人間の行動は、物事に対して個人が持つ「意味」に基づいて行われると主張しました。この「意味」は、物事自体に最初から備わっているものではなく、他者との相互作用を通じて形成されるとブルーマーは考えました。
例えば、「桜」という言葉を考えてみましょう。日本人にとって「桜」は、「春」「出会い」「別れ」など、様々な意味を持つでしょう。しかし、桜を見たことがない人にとっては、ただの「ピンク色の花」以上の意味はないかもしれません。このように、「桜」が持つ意味は、人々が桜に対してどのように接し、どのような感情を抱くかによって変わってくるのです。
自己相互作用と社会化
ブルーマーは、**個人が社会のルールや価値観を身につけていく過程(社会化)**も、この自己相互作用を通して説明できると考えていました。私たちは、他者との相互作用を通じて、物事の意味を学び、それを自分の中で解釈し、自分の行動を決めていきます。この過程で、私たちは社会のルールや価値観を自然と身につけていくのです。
主観主義批判とブルーマーの反論
しかし、ブルーマーの考え方に対しては、**「個人の主観を重視しすぎているのではないか」**という批判もあります。つまり、ブルーマーは、個人が自由に物事の意味を解釈できると主張しているため、社会の影響を軽視しているのではないか、という指摘です。
これに対して、ブルーマーは、個人の解釈は、他者との相互作用から切り離されたものではないと反論しています。私たちは、他者との関わりの中で物事の意味を学び、それを自分なりに解釈していく。つまり、自己相互作用は、社会との繋がりの中で行われるのです。
まとめ
第1章の前半では、
- 自己相互作用とは何か
- 人間の行動はどのように決定されるのか
- 自己相互作用と社会化の関係
- ブルーマーの考え方への批判と彼の反論
について説明しました。少し難しい内容だったかもしれませんが、これらのポイントを理解することで、ブルーマーのシンボリック相互作用論、そして「個人と社会の関係」について、より深い理解が得られるはずです。
何か質問があれば、遠慮なく聞いてください。
3つの前提の解説も含めて、もう少し詳しく。
李さん、第1章の前半は、ブルーマーのシンボリック相互作用論の基礎となる部分を解説しています。少し難しいですが、ここを理解すると、ブルーマーの考え方の全体像が見えてきます。一緒に詳しく見ていきましょう。
シンボリック相互作用論の三つの前提
ブルーマーは、シンボリック相互作用論が依拠する三つの前提を提示しています。これらは、人間がどのように世界を理解し、行動するかを説明する上で非常に重要です。
- 人間は、物事に対して、それが自分にとって持つ「意味」に基づいて行動する。
これは、私たちが何か行動を起こす時、その行動は、その物事が自分にとってどのような意味を持つのかによって決まる、ということです。例えば、李さんにとって「ラーメン」は、「美味しい食べ物」という意味を持つでしょう。だから、お腹が空いた時、李さんはラーメンを食べようと思うかもしれません。しかし、もし「ラーメン」が「辛い食べ物」という意味を持っていたら、李さんはそれを避けるかもしれません。このように、同じ物事でも、人によって持つ意味が異なり、それが行動の違いを生むのです。
- 物事の意味は、他者との相互作用から生まれる。
これは、物事の意味は、最初から決まっているわけではなく、他者との関わりの中で形成される、ということです。例えば、李さんが初めて「おにぎり」を見た時、それが何なのか、どのように食べるのか分からなかったかもしれません。しかし、友達が「これはおにぎりだよ、美味しいよ」と教えてくれたり、一緒に食べたりする中で、「おにぎり」は李さんにとって「美味しい日本の食べ物」という意味を持つようになったでしょう。このように、私たちは、他者とのコミュニケーションを通して、物事の意味を学んでいくのです。
- 物事の意味は、解釈を通じて変化する。
これは、他者から教わった意味も、そのまま受け入れるのではなく、自分自身で解釈し、場合によっては修正していく、ということです。例えば、李さんが日本の友達から「桜は美しい」と教えられたとしましょう。しかし、実際に桜を見て、「桜は美しいだけでなく、儚さも感じさせる」と感じるかもしれません。このように、私たちは、自分自身の経験や感情を通して、物事の意味を再解釈していくのです。この**自分自身との対話、つまり解釈の過程こそが、「自己相互作用」**なのです。
まとめ
シンボリック相互作用論の三つの前提は、
- 人間の行動は「意味」に基づく
- 「意味」は他者との相互作用から生まれる
- 「意味」は解釈を通じて変化する
とまとめられます。そして、この**「解釈」こそが、「自己相互作用」**の核心なのです。
ブルーマーは、この自己相互作用という概念を通して、個人が社会の中でどのように学び、成長し、行動していくのかを説明しようとしています。
少し難しいかもしれませんが、これらの前提と自己相互作用の関係を理解することは、ブルーマーのシンボリック相互作用論、そして「個人と社会の関係」を理解する上で非常に重要です。
何か質問があれば、遠慮なく聞いてください。
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