スピリチュアルにはまると貧乏になる。
スピリチュアルは嫌いではないが、スピリチュアルにはまって貧乏になったり、過度に太ったり、過度に痩せたり、自分が解決できていない問題を周囲にアドバイスしている人を見ると、本当にこれでいいのだろうかと思う。「これをやれば豊かになれます!」と言っている人の顔面が貧相に見えるのだが、これはギャグなのだろうか。ギャグだったら面白い。一緒に笑うことができる。だけど、笑ったら怒られそうだから、笑えない。笑えないと言うことは、由々しき事態である。私は、笑えないものに興味がない。笑えないものには余裕がない。スピリチュアルとのヘルシーな付き合い方に興味がある。
スピリチュアルにはまると貧乏になる。お金持ちの方々とたくさん会ったが、お金持ちの方々もスピリチュアル大好きな人はたくさんいた。彼らの付き合い方はヘルシーに見えた。先にスピリチュアルがあると言うよりは、先に仕事があって、仕事の補佐的なものとしてスピリチュアルを愛用していた。まず先に「生きる」があったのだが、スピリチュアルにはまって貧乏になる人は、生きるが抜けているように見えた。自分が生きることを抜きに、概念だけを育てるから、骨抜きにされている印象を受けた。問題はここなのかなと思った。野宿しろと思った。
自分の家庭はめちゃくちゃなのに、周囲に「家庭をうまくやる秘訣はこれですよ」と指南する人たちは大量にいる。なんだかな、と、思う。誤解されると困るが、自分の問題を解決できなければ、他人の問題も解決できないと言いたい訳ではない。ヨガの先生が不健康なライフスタイルを送っていたり、精神科医のこどもが精神病だったり、大富豪の親類が大不幸になることは、異常ではない。普通であり、当たり前のことだ。それを隠すから問題になる。本当は幸せじゃないのに「私は幸せで満ち足りています」と嘘をつくとズレる。仮面ばっかり綺麗に整えて、内面がグチャグチャになると貧乏になる。
日本の大変さは「世間」だと思う。同調圧力と言ってもいい。世間様にご迷惑をかけてしまうと、村八分の憂き目に遭う。世間に貢献したいから生きるのではなく、世間に潰されないために生きる。だから、必然、ネガティブになる。出過ぎた真似をすると打たれるから、無難に、無難に、普通に、普通に、私はちゃんとやってますよ的なアピールをしながら、見せられないものは隠して生きる。ちゃんとやれなくなった人は、自分を恥ずかしい存在だと思い込むようになり、自分の家に自分を隠す。引き籠りになる。誤解を恐れずに言うと、我々の急務は「世間で暴れること」だと思う。同調圧力の中に自由はない。自由とは、同調圧力の破壊である。
家庭に問題のある人は「夫(妻)のため」とか「こどものため」とか言って、自分のためを忘れる。海賊になろう。誰かを悪人に仕立て上げるのではなく、潔く、自分が悪人になろう。一文無しになった時は「一文無しになりました!ワッハッハ!」と笑おう。笑えたら、笑える。成功者とは、たくさんの失敗をした人だ。誰だって最初はみんなダサかった。おしゃれさんとは、ダサい服を買いまくる達人である。ダサい服を着よう。そこから微調整がはじまるのだ。失敗しないように生きるのではなく、失敗しよう。自分の「好き」を更新しよう。私は昨日東京の高級ホテルでパスタをご馳走になった。実に優雅な気分になった。窓の大きさと天井の高さは大事だと思った。結果、体調が悪化した。元気な人が羨ましい。輝いて見える。誰か私を看病してください。元気になったら野宿をしたい。しまなみ海道を自転車で渡ったりしたい。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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