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キリスト教の性愛観(中篇)、性差と堕罪についてーーハーマンを見捨てたこの世界で未だ弔われぬキルケゴールの亡骸ーー

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~謝辞~

 意図した訳ではないにせよ私に執筆の機会を与えてくれた谷口一平氏に感謝を、日本でのハーマンの思想の火を絶やさぬようお仕事に励まれて来た川中子義勝先生に深い敬意を表します

「奇妙なことだ。 昨日私はヨーエン・ヨーエンセンと話をした。彼は今、ハーマンを熱心に読んでいる。 彼は、ハーマンの著作集の中に、ハーマンがその妻と結婚せず、教会で式を挙げることなしにその妻と暮らした、と述べている箇所を見つけた。つまり内妻としてだ。そして、私はそれをきわめて熱心に探したが、見つけることはできなかった。 それは、私にとって、かの時にはたいそう重要なことだったろう。しかし、やはり私の助けにはおそらくならなかったろう。しかし、ハーマンがそのようなことを敢えてしたということを知っていたら、ことはそのために別な展開を示したであろう。もちろん、私はその可能性を考えたが、ハーマンがそれを実際に行っていたことを知らなかった。けれども私は、そのころ、そうした仕方ではなしえないと確信したのだった」。
一八四七年にキルケゴールは日記にこう記している (Pap.VIII A251)

『ハーマンにおける言葉と身体』p.169川中子義勝

「私の無骨な空想には、これまで創造的な霊を性器を欠いた形で思い描くことがどうしてもできなかった」「神的本性また人間的本性(=自然)の恥部は、両者の一体化の核である」「今や私には、恥部こそが被造物と創造者の間の唯一の絆であると思い当たる」ヨハン・ゲオルゲ・ハーマン

『ハーマンの思想と生涯』p.147ー148川中子

だれ、
だれだったのか、あれは、あの
性器は、あの殺戮された、あの
空に黒く立った
陰茎と睾丸はーー?
(陽根。
アブラハムの陽根。エッサイの陽根。だれでもないものの
陽根ーーおお
ぼくらの)

そう、
さながら石に語りかけるように、さながら
きみが
ぼくのふたつの手で、かなたを、
空無を、つかもうとするかのように、
あるのだ、ここにあるものはーー

『パウル・ツェラン詩集』思潮社p.124飯吉光夫訳

僕は雅歌を実際に地上的愛の歌として読もうと思っている。それが多分最上の「キリスト論的」な解釈ではなかろうか。1944/6/2

『ボンヘッファー選集5、抵抗と信従』p.219

はじめに

 本論は、谷口一平氏の『マイナス内包としての性自認の構成』に触発された論考である。谷口氏の論文内では、彼のキルケゴール解釈のみを問題にする。私には「マイナス内包」なる、どうやら日本の分析哲学上のものらしい概念を、理解し語る能力も意欲も興味もない。

 谷口氏は、キルケゴールの原罪論を精緻に適切に読み解いている箇所もあれば、うまく捉えきれていない(ように私には読める)箇所もある。後者はキルケゴールが明記しているにも拘らずの欠落なので、読み落としと言えそうである。それはある程度は谷口氏側の関心の所在によるのかもしれないが、またある程度は、キルケゴール側の原罪論の聖書に照らしたかなりあからさまな間違いに惹起されているようにも思う。よって、本論では、キルケゴールの間違いを指摘し、聖書の記述に基づく原罪論も正しく伝える。

 のみならず、キルケゴールが犯した間違えの思想史上での意味にも批判的考察を施す。結論を最初に簡潔に述べておけば、キルケゴールも当時蔓延していた異教世俗主義的発想から抜け出せきれなかったのだ。この世俗主義的発想は、日本の西洋思想受容史の中で当地で以上に幅を効かせているので、私達にとっても他人事ではない。

 ゆえにさらに、この発想から抜け出す為の解毒剤として、キルケゴールが影響を受けた思想家、ヨハン・ゲオルゲ・ハーマンを紹介する。解毒のためには聖書や神学だけでは十分ではない。なぜならば、聖書や神学それ自体は、時代及び地域制約的な個々の異教思想と戦わないからである。戦うのは、異教思想の内容を熟知した上で、聖書や神学に基づいて攻撃を繰り出せる宗教思想家である。キリスト教の力が特に弱いこの日本において、世俗的な哲学に通じた上で、聖書や神学をそこまで使いこなせる程の、豊かな教養と冴えた洞察を兼ね備えた人間が、私も含めてそうそういるとは思えない。キルケゴールはこれまで、そのような宗教思想家として、日本の西洋思想受容史上においていまだ越える者のない格別の地位を占め続けて来ていたのだろう。日本だけの話でもなく『不安の概念』の話でもないが、以下の引用を見て欲しい。

S・キルケゴールの仮名著作『おそれとおののき』は極めて大きな影響力を有しており、現代における創世記22章の読みを方向づけてきた。 このように、多くの解釈者において言及参照される読みは、創世記22章の読者にとって魅力的なものだといえる。 しかし、読者にとって魅力的な読みが、創世記22章の解決として優れたものであるかや、テクストに即した適切な読みがなされているかは、別の問題であろう。それにも関わらず、後述するように、これまで一般的な解釈のみならず、 ヘブライ語聖書の専門的研究やそれに基づく解釈においても、学問的反省もなしに、 「おそれとおののき』 に依拠し、それに基づいた解釈を行ってきた。

https://core.ac.uk/download/pdf/143629920.pdf 『問い続ける物語』岩嵜大悟

 誤謬があれば論駁できるだけの識者層が日本に比べ遥かに厚かろう、ユダヤ・キリスト教文化圏を含んですら、キルケゴールの代表作の影響力はかくも甚大らしい。そのキルケゴールが、哲学的名著とされる『不安の概念』の中の「創造と堕落」理解においては、かなりあからさまに間違っているのである。さすがにそれを、欧米やアジアアフリカのキリスト教徒達が何の疑問も抱かず受け入れる心配はなかろうが、しかし我が国は、キリスト教の教勢の弱さで群を抜く日本なのだ。平信徒でも簡単に斥けられる程度の間違いが、偉大な宗教思想家の権威に基づいて、ある種洗練された読解の装いの元まことしやかに浸透し、人々のキリスト教理解を眩ませてしまうような不幸は大いに起こりうる。それは、キリスト教の真の姿を人々に見失わせない事に心血を注いで生涯を捧げ、文字通り途上で倒れ息絶えたキルケゴールの遺志にとっても、本望ではあるまい。

 キルケゴールが失敗したところで失敗しなかった宗教思想家ーーそれこそがハーマンに他ならない。キルケゴールは、死後読まれる事なく埋もれていたハーマンを掘り起こし、思想史上に取り戻した第一功績者でもある(*¹)のだが、18世紀の思想家としては目を瞠るべきハーマンの性思想には、編集事情のせいで資料的に辿り着けなかった(*²)らしい。『不安の概念』に顕著な、実人生にも浸透したとおぼしい、痛ましい(と、私は感じてしまうのだが)キルケゴールの性思想は、ハーマンとの不幸な出会いそびれにより栄養不良のまま早産せざるを得なかった、美しくはあるが脆弱すぎてこの世で生き延びる事ができずすぐに死んでしまった気の毒な未熟児のように私には感じられる。それを思えば、これから見ていく『不安の概念』の冒頭にハーマンの『ソクラテス回想録』からの引用が掲げられているのは歴史の悲しい皮肉である。

 また、ハーマンは、パスカルとキルケゴールの間に挟まる、日本の西洋思想受容史上におけるミッシング・リンクのような思想家でもある(※³)。彼の存在は、キルケゴールによりぼやかされたキリスト教の性思想を明瞭にしてくれるだけではなく、キルケゴールの信奉者であった筈の内村鑑三から南原繁までの無教会系学者達が、ジョン・デューイのプラグマティズムを取り合わず、フィヒテやヘーゲルにも甘い顔をしなかったのは良かったとしても、よりにもよってハーマン最大の論敵イマヌエル・カントに気安く与えてしまった、今日でもその悪影響がキリスト教系大学などにありありと残る支持表明が、日本のキリスト教界及び教外の思想界にとって、どれだけ深刻な閉塞をもたらす過った選択であったかも教えてくれるだろう。

〜脚注〜

(*¹)“ハーマンは読まれることなく埋もれていた。例外はキルケゴールのような発見者である。彼はハーマンを尊敬していた。しかも、その「巨大な天才」という言い方をしていることからして、当時の数少ない真の哲学者の一人とみなしていたという印象を受ける”

『北方の博士J・G・ハーマン』バーリンp.24

(*²)“ハーマンの「身体」と「性」への固執は、被造物としての世界への連帯に由来する。しかし、ハーマンの現実の婚姻とこれに密接に結びついた彼の婚姻論の全体は、(他の人々にとってと同様に)キルケゴールの手の届くところに示されてはいなかった。(略)

 一九世紀の初めにハーマンの最初の著作集をまとめたJ・ロートは、ハーマンの内縁関係やその私生活を暗示する書簡などをことごとく省いてしまった。ロートの友人でもあったヘーゲルは、この著作集の書評として初めての本格的なハーマン論をものし、そこでハーマンの婚姻にも論究した。だが、これも後にヘーゲルの著作集が編まれる際には、社会的な影響をはばかって削除されてしまう。そこに、この問題を巡る当時の雰囲気を感じとることができる。”

『ハーマンにおける言葉と身体』p.192、292川中子

(※³)“デカルトにはパスカル、ヘーゲルにはキルケゴールというふうに、思想史にはいくつか対決の構図がある。カントには? ――カントにはハーマン(一七三〇~一七八八)。そう言うと、久しく「ハーマンて誰?」という怪訝そうな問いが返ってきた。その名前だけはかねてから知られていても、思想の紹介はまだ緒についたばかりである。”

http://www17.plala.or.jp/kawanago/HMN1509.HTM『ハーマンについて』岩波「思想」2015年9月号(No.1097)「思想の言葉」


1:「セックスの哲学」としての忘れられた『不安の概念』

 キルケゴールの『不安の概念』1844は、様々な意味で(その問題含みの点(※¹)まで含めて)非常に重要な哲学書だ。その重要性の一つは、「(罪性としての)性差の成立」の機序究明を中心課題に据えた、西洋近代思想史上最も早い哲学書である事である(※²)。「性の意義についての、個々の領域における性の意義についての全問題が、これまでほんのわずかしかこたえられていないというのは、否むことができない。とりわけ正しい気分で答えられたためしはきわめてまれであった」『不安の概念』p.100(以下全て白水社版著作集)、と著者自身も自著の画期性に自負するところがあったようだ。『不安の概念』に影響を受けた大著として誰でもがタイトルを挙げるだろう、ハイデガーの『存在と時間』1927では、性差についてのこの問題意識はなぜか綺麗さっぱり抜け落ちてしまう(※³)。

 そういう次第で、性の問題を大々的に扱う代表的な思想体系の座は、1856年生まれのフロイトを一応の創始者とする精神分析に奪われたまま、ラカンの様に正統派を以て任じるのであれ、ユング、ランク、フロム、ライヒ、マルクーゼ、クリステヴァやドゥルシラ・コーネル、バトラーのように、修正主義者や、異端者や反抗者、革命児を以て任じるのであれ、大陸哲学及びその鬼子たるアイデンティティポリティクスやウォーキズムの流れの中で、基本的な枠組みを与えてきているように思う。

 キルケゴール研究者の江口聡が、『不安の概念』を「セックスの哲学」として紹介しブログで講読記事を上げているのも、https://yonosuke.net/eguchi/archives/6725
紐解けばかなりあからさまにそういう内容であるにも関わらず、そういう受容が十分になされていないーーという現状を踏まえた上での有意義さを見込んでの事だろう。

〜パート1脚注〜

(*¹)私の見るところ、思想史上の意義は別にして、内容面での問題は主に三つある。

 一点目は、堕罪以前の状態理解が全く聖書的ではない事。それについては本論第3章で見ていく。

 二点目は、罪に陥るか否かを究極的には個々人の自由に委ねるその主意主義的理解を、アウグスティヌス以来の西方的な原罪の遺伝的継承の教理(**¹)及び、著者が名目上一応は属していた筈のルター派神学上の奴隷意志説からの逸脱と見なさずに済ますのが難しい事。著者がいかに言い逃れをしようが、それは複数の研究者が指摘せざるを得ない事実である。https://place.asburyseminary.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1481&context=faithandphilosophy “Does Anxiety Explain Hereditary Sin? ”Gregory R. Beabout
しかしそれはいわば教派神学上の逸脱であり、聖書的でないとまで言えるかはより慎重を期す必要がある。研究者の中里巧は、キルケゴールの信仰をルター派よりはギリシャ正教に近いものとして理解している。https://kierkegaard.sakura.ne.jp/kierkegaard/wp-content/uploads/2013/08/05716304e933eb49e375c95adc97a45b.pdf『キェルケゴールとキリスト教正教 ─聖愚者と単独者─』中里巧

 三点目は、その感情論としての妥当性に向けられる、私自身の疑念である。不安は本当に、将来の可能性が惹き起こす感情なのだろうか?寧ろ、不安が直接関係付けられるのは、既成現実としての私達の存在そのものを成り立たせた由来からの離反なのではないだろうか?多くの場合、将来の可能性が由来からの離反を伴うが故に不安が感じられるのであり、不安は、将来の可能性自体が惹き起こすわけではないのではなかろうか?こういった疑議を有する人は多くないというか殆ど私だけのようだし、本論の主旨を逸脱するので、掘り下げは別の場所に譲り、ここでは切り上げる。

(※²)ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』は1819年と『不安の概念』より早いが、利害関心への囚われからの審美的経験を通じた解脱を試みる彼の哲学において、性は生存と共に、人も動物同様その中で苦しみもがく盲目の生物的宿痾の様に描かれ、ある契機を通じた堕落頽廃という歴史的感覚には欠けるように思う。因みに言えば、キルケゴールは死の前年の1854年に『意志と表象としての世界』に触れているらしい
https://muse.jhu.edu/pub/147/oa_monograph/chapter/1573490 “Kierkegaard as Psychologist”: McCarthy, Vincent

(※³)余りにもきれいさっぱり欠落しているので、この欠落はハイデガーの思想的特徴として批判的に考察されるべきだと思うが、因みにいえばこの性への関心の欠落はハイデガーの弟子たるアーレントも共有している。この事は、敵対的な構図で捉えられがちなこの師弟のいかがわしい思想的通底を伺わせる。ハイデガーがその思想においてもナチスと結び付けられて批判されるなら、アーレントもその様な扱いを受けて然るべき、少なくとも嫌疑は掛けられてしかるべきではないかと私は思う。なぜそうなのかは、本論4章で示唆されるだろう。彼女はシモーヌ・ヴェイユではないのだ。ユダヤ系でありかつ女性であるーーという、思想内容にとっては偶然にすぎない被害者的な属性が目眩ましになり思想内実への吟味の眼差しが緩められるなら、差別と言うより他にない。もっとも、当人にとって有利に働く差別は、差別というより優遇を伴う特権というべきかもしれないが。

(**¹)だが、『不安の概念』の後の思想の中には、アウグスティヌス~ルター派的な原罪の遺伝的継承及び奴隷意志説に接近し直していると思しきものも見られる。『不安の概念』が仮名著作であり、著者のヴィギリウス・ハウフニエンシスの実存的立場はキルケゴールと完全に重なるものではない、という点に留意するのも重要だろう。一八五五年九月二五日の日記の中には以下のようにある。

“罪責によって私はこの世に生を受け、神の意志に反して存在するようになった。その責めとは神の眼からすれば、それが私を悪人としているのだろうけれども、ある意味でそれは私のものではない。命を生み出すことである。その責めのために、人生へのあらゆる願いを奪われ、どうしようもない嫌悪へと導かれるという罰を、私は身に受ける羽目になった。人間は、人間を創造することによってではないにせよ、命を生み出すことによって、創造主の手による事物の中に身を置きながらも、創造主のことをないがしろにしてしまう。Papir 591 (SKS 27,695-698)“

『キェルケゴールの日記ー哲学と信仰の間』p.233

2:谷口氏の『不安の概念』読解における、キルケゴールとのズレ

 さて、『不安の概念』のその後の受容史上の位置づけから、テクストそのものに目を向け直そう。著者によれば、この本は「原罪という教義学的問題に向かって、もっぱら心理学的示唆を与えるだけの考察」である。なのであれば、原罪という事態自体は、まずもって聖書及び正統派教義学に基づいて把握されなければならない筈だ。その把握した内容について、心理学的な考察を巡らせよう、と著者は言うのだから。

 ところが、早くも読者にとってもそして私にとっても驚くべきことに、著者の創造と堕落についての理解は、全く以て聖書的ではないのである。いや、全くは言いすぎかもしれない。半分(堕罪)はおおよそ聖書的だが、もう半分(非堕落=無垢)の理解はまるで聖書的ではない。ある程度はその片手落ちぶりに促されてのことかもしれないが、聖書的な方の半分(堕罪)についても、谷口氏は、聖書は一旦置くとしてもキルケゴールの理解そのものを、十分に汲みきれていないのではないかと私は思う。というのは、堕罪はキルケゴールによれば、その帰結として「性差の罪性としての成立」を齎すものであり、単に「性差の成立」を齎すものではない。「罪」とは少なくともある種の尺度・基準に照らしたある種の否定的評価である。キルケゴールは、「性差(性自認)の成立」と「何か良くないものとしてのその成立」を、共起的に捉えている。谷口氏の論考では、前者の成立に後者の評価がなぜ伴うのかが明らかではない。キルケゴールの描く、堕罪によって得た認識とは「僕は男だ!」「私は女よ!」という事だけではなく「僕はどうやら『男』であるらしいぞ。ああ、なんて恥ずかしいんだろう!恥ずかしいのに僕が『男』である事からはどうやら逃れられないみたいだぞ。ああ、困ったなぁどうしよう。とりあえず、僕が男であることを示す部分は隠しておこう。そうしないと落ち着かないからね」「わたしはどうやら『女』〜〜以下同文〜〜」というような認識である。

"羞恥の本来的な意味は、精神が自身を総合の頂点に立っているものとして、いわば自ら言い切る事ができないということである。”

『不安の概念』p.101

“性的なものとは、不滅なるべき精神(※¹)が男性もしくは女性(性ゲーニウス)として規定されるという、かの巨大な「矛盾」に対する表現である。この矛盾が深い羞恥としてあらわれるのだが、羞恥はこの矛盾から眼をそらせ、それをあえて理解しようとしない。”

p.103

 また、谷口氏は、キルケゴールの堕罪論を、「ここに言語の成立を読み取ろうとする誘惑に抗する事は、筆者には難しい」と述べ、「実質的にラカン(*²)」と見なしている。主体性の開設を齎す介入者を、聖書的にのみならずキルケゴール的にも言語そのものと見なして良いかは疑問なので、「何らかの言語的介入を通じた主体性の成立と、それに伴う性差の成立」とやや条件を緩めれば、確かにキルケゴールの堕罪概念はラカンにかなり近い。ラカン的なのであれば、堕罪(≒ラカンの概念に言い直す所の「去勢(*³)」)は、(何らかの言語的介入によって)成立する人間の主体性に追いやられた、「仮想化しきれない残余」領域としての性差の成立なのである。「性関係」は、あるいは「女」は、それ(堕罪、去勢)を通じて単に存在するようになるのみならず、ある意味では「存在しない」ものとして存在(成立)するようになる。

“生まれて間もない赤ん坊は、ママと自分の区別がつかないらしい。この、母子が一体満ち足りた空間は、人間の心のおおもとを育む、原始のスープみたいな混沌だ。でも、まだここには「人間」はいない。赤ん坊は万能の海の中で、なにも知らずに漂っている。ところが、この混沌とした幸せな世界をかき乱すものがあらわれる。 それがパパだ。パパは、赤ん坊とママとの間に割り込んできて、いろいろとジャマをする。 このジャマのことを精神分析では「去勢」って言うんだけど、これもいずれ、ゆっくり説明しよう。 ジャマされた結果どうなるかというと、子どもは「言葉」を獲得するんだ。
 (〜略〜)生後間もない乳児は、母子が一体化した万能感あふれる空間の中で、とても満ち足りた時間を過ごしている。 Lecture 3でもちょっとふれたけど、まだ言葉も知らない、それゆえ「自分」と「母親」の区別もつかないような子どもの経験する世界は、混沌とした原始のスープみたいなものだ(と、想像されている)。そのとき母親は「世界」そのものだ。そこでは、願ったことは何でもかなう。 イメージはすべて実現する。万能感というのはそういうことだ。しかしやがて、この密室的で近親相姦的な関係に、「父親」が割り込んでくる。 ママを独占しちゃいかんとばかりに、ジャマしにやってくるわけだ。
 男の子は、自分の限界を受け入れた。しかしそのことによって、心には豊かで複雑な構造が生まれ、あらたな自由な構造が広がったわけだ。”

『生き延びるためのラカン』斎藤環

 性差は、現実的には確かに存在しているが、何らかの言語的介入によって「開設された主体」(谷口)にとっては、ある意味では存在すべからざるものとして存在している。このある種煮えきらなさを、谷口氏も修辞上は見逃していない。

“蛇は、「お前は谷口一平という一人物として、客観的世界の中に存在しているぞ」と囁いたのである。この時蛇が同時に、そっと教えてくれたことがまだあるはずだーー「おまえは”男”の身体として、客観的世界の中に存在しているぞ」”

『情況、マイナス内包としての性自認の構成』2024年冬号p.83

 谷口氏の言うように、性差を有する事実の教示は「そっと」なされる。それは、彼が客観的世界の中に存在している事と同様のトーンでは、語りづらい事なのである。この、同一人物についての、明け透けに「語り得る」事と、そっとしか「語り得ぬ」事との間の、分裂・葛藤を齎すもの、言い方を変えれば人間の「全一性integrity」を毀すものこそが、「罪」なのである(※³)が、谷口氏は、(1)「(何らかの)言語的介入による主体性の開設」と(2)「それを通じた性自認の成立」は正しく捉えていても、(3)「その性自認の成立が、認めがたい事実としての成立である事」の方には、さほどの意味を認めていないように読める(*⁴)。後述するように、キルケゴールではなくて聖書に基づくのであれば、堕罪のもたらす事態は(2)を抜いた(1)+(3)に近い。

 堕罪を齎す言語的介入は、言語そのものではないーーという私が留保した点ももう少し見ていきたい。「善悪を分別する知識の木の実」は、「言語」そのものではない。この善悪はヘブライ語ではトーヴとラーと言い、近現代倫理的な意味での善悪のみならず、快楽と苦痛も含むより広い意味の概念であるが、字義的に捉えれば、その木の実は、是非を分かつ評価判定能力ーーそれを理性や合理性と言っても良いかもしれないーーをもたらすとおぼしい。当然ながら、言語の機能は理性に還元しうるものではない。善悪を分別する知識の樹からほんの少しだけ脇目を逸らせば、そこには共にエデンの園の中央に生やされた生命の樹がある。この樹は、一部の神学では予型論的に読解され、キリストの掛けられた十字架を指す(*⁵)とされる。彼もまた「言葉」なのである。「天地万物の創造の以前から、はじめにあった神の言葉」の存在を信じなくとも、理性運用の手段として以外の言葉の機能は沢山あるーーという事実は誰でも認めざるを得なかろう。よって、堕罪で初めて、人間が前言語的な段階から言語的段階に移行した、と考えるのは早計である。

 「善悪を分別する知識の木の実」やその摂取禁止命令以前にもある種の言葉があったことは、キルケゴールも動物の名付けにおいて一応触れている。谷口氏はそのような言葉が「性性の到来」をもたらさないと見なしているし、キルケゴールも間違いなくそう考えている。しかし、堕罪以前の言葉はそのようなものだけではないーーということを、キルケゴールは見落としていると思う。その点は、我々は第4章で詳しく見ていく事になるだろう。

〜パート2脚注〜

(※¹)他にも「完全な精神は、男女の性も持たず、歴史も持たない。だから、性的な差別は復活とともに止揚されてしまう訳である」p.73、「キリスト教においては宗教的なものがエロス的なものを抑制した。これはたんに、倫理的誤解によってそうしたものを罪と見たからばかりではなく、精神的に見れば、男女の別はないからどうでもいいものだということによる」p.105のような、プラトニックでややグノーシス的な傾向がキルケゴールには確かに見られる。しかし、この点については以下の通りである。

“キルケゴールが苛まれた熟考や、その熟考の苦境に倣おうとする者は、間違った知識を与えられていると言わざるを得ない。 キルケゴールにとって性的な事柄はーー全く聖書的ではないのだが!ーー 「不死なる霊が男か女かとして」異性すなわち違う性的特殊性に定められた「途方なき「矛盾」の表現」である。”『ヨーハン・ゲオルク・ハーマン』バイアーp.251

(※²)実はラカン本人は、キルケゴール含むキリスト教神秘主義者の男性たちを、「去勢の去勢」へと進む、通常の男性的な性的アイデンティティを超えるある種女性的な性的アイデンティティを有する特異な男性として評価している(『現代思想2014年2月号特集キルケゴール』)。
 ラカンはその概念で語っていないようだが、神学的にはマルティン・ルターもその流れの中に属する、キリストとの情意的関係を強調する「花嫁神秘主義」https://serve.repo.nii.ac.jp/record/1303/files/2447.pdf(『ヨーロッパ思想と霊性 』金子晴勇)と呼ばれる思想系統にラカンは注目しているのだと思われる。それはそれで既成のジェンダーロールのオルタナティヴとして極めて有意義なものであるのだが、救済論上に登場する概念であり、本論で扱っている創造論上の欠落を補えるものではない。キルケゴールの考える、信仰における男女双方の性的実存のある種の両性具有性については、『死に至る病』も参照。

(※³)以上のキリスト教神学に基づいた人間理解は、理解を実証するサンプルとしては、救済されたキリスト教徒達ではなく、神との繋がりを失った異教徒どもの方が相応しく、恥じらい深い我ら現代日本人はお誂え向きである。私達が職場や学校などの、公的または社会的空間にあっては、男女の差異を捨象してある種普遍的人間として自他を扱うことが良しとされる事は堕落後の世界の徴候である。だからと言って、では公衆の面前で性器を晒すような事をすれば罪から無垢に逆戻りできる(**¹)のか?と誤解される余地は殆んどないと思うが、念を押しておけば、それは骨折をしていなかった時にはギプスを嵌めずのびのび四肢を動かしていたので、確かに鬱陶しいギプスを外して伸び伸び四肢を動かせば健康に戻れる、と考える骨折患者の倒錯と同じである。そんなことをすれば怪我が広がるだけだろう。その種の思考は、キリスト教のみならず、ヘーゲルもマルクスも含む全ての偉大な弁証法的哲学者も取り合わぬ現実逃避的な退行に過ぎない。

 やや話が逸れるが、キリスト教会で度を超えた性的醜聞を起こす神学者達、パウル・ティリッヒとその影響を受けたキング牧師、ジャン・バニエ、ジョン・ハワード・ヨーダーの様な人達は、「愛」や世俗の価値を覆す「価値転換」への深い傾倒に比べて、原罪論を受け止める深刻さが足りないのではないか。その点、原罪論以外特に見るべきところのないラインホールド・ニーバーhttps://serve.repo.nii.ac.jp/record/1272/files/1596.pdf(『ハワーワスのニーバー批判一考』高橋義文)とは正反対に。

(*⁴)もしかしたら、谷口氏は私の言う差異を把握しているかもしれない。類例のない「私」を、「谷口一平」という人物として客観的世界参与させる契機としての言語的介入(去勢、堕罪)があり、それに伴い、「私」が世界の中でそうである所のその「谷口一平」が「谷口一平」であるだけではなく「男性」という類的存在である事を自己認識する、というふうに、「私」「谷口一平」「男性(類的身体)」と3つのアイデンティティの差異を確かに捉えてはいる。しかし、永井均が提唱しているらしい「独在性」や「私が世界の中に実在しているという定位と、私は世界であるという定位」といった独特の概念の意味理解が私には難しい。例えば、「独在性」の意味は、その字面だけ読めば、「各人が『私である』という極めて特殊なあり方をした類例のない存在である」p.80事とニアリーイコールである様に読める。しかし、「『性』とはまた『独在性』の表現でもある」p.83とも言われる。「性」が「類的本質」なのであれば、「類例のない存在たる独在性の表現」にはなりえないように思えるのだが、そうした「表現できなさ」を、谷口氏は「表現」と呼んでいるのだろうか?私は私の不理解を表明してはいるが、ここで回答を得たいのではない。谷口氏の考えへの理解に文章を割くより、理解できる範囲で、私以外に中々出来る人間が居ない仕方で論を進めた方が誰にとっても有益だろうと思うのでこのまま進めさせて貰う。谷口氏にはご寛恕願いたい。

(**¹)“われわれは耳にタコができるくらいよく聞かされてきた――性欲は他の自然的欲求と同じ状態にあるものであり、それを秘密にしようとするあの愚劣なヴィクトリア朝的観念を捨てさえすれば、すべては花ざかりの庭のように美しいものとなる、と。だが、これは嘘だ。宣伝に耳をふさいで事実を直視すれば、それが嘘であることはだれにでも分かる。彼らは言う—セックスが混乱しているのは、それを隠そうとしてきたからだ、と。だがこの二十年間、 それは決して隠されてはこなかった。人びとはひねもすセックスのことを大っぴらにしゃべってきた。にもかかわらず、それは混乱しているのである。もし秘密のうちに閉じこめてきたことが原因であるならば、空気の流通をよくすれば問題はなくなるだろう。ところが、現実にはそうなってはいないのだ。わたしは、話は逆だと思う。われわれの先祖たちがそれを秘密にしたのは、それがたいへんな混乱を生み出したからだと思う。”『キリスト教の精髄』p.162ルイス

“根本的には罪の徴候であるものが、誠実さの外観をもって「自然」 であるかのように受け取られていると思う。このことは、性の問題を公然と語ることと全くよく類似している。ありのままの事実を洗いざらい暴露することが、「真実」というものではない。神御自身が人間に衣服を造られたのである。すなわち、堕罪の状態の中では、人間の中にある多くのことが隠蔽されたままであるべきであるし、悪は、それが当底根絶されえない場合には、とにかく隠されるべきである。つまり、暴露するのはシニカルなのである。シニカルな人間が特別誠実そうに見え、熱狂的な真実の追究者として登場しても、彼は決定的な真実、すなわち、堕罪以後も隠蔽と秘密とがなければならないということは看過するのである。”『信従と抵抗』p.112ボンヘッファー

(※⁵)“世界の中央において、十字架の素材のその場所にいのちの泉が湧き上がる。いのちにかわく者たちはすべてこの水の元へ呼び招かれ、この生命の素材を食べたものは決して飢えかわくことはないであろう。比類なき楽園ではないか。このゴルゴダの丘は……。この十字架は……。このさかれた肉は……。なんと比類ない生命の木ではないか。”

『ボンヘッファー選集9巻、創造と堕落』p.120

3『不安の概念』における、聖書神学とキルケゴールのズレーー「成長発達人間観」の浸透

 谷口氏のキルケゴール理解への批評は概ね以上として、では、キルケゴールが提供する、「ある種の言語的介入による主体の開設を通じた、罪性としての性差の成立」としての「堕罪」理解は、どれだけ聖書神学的に正しいのだろう?

 キルケゴールの原罪論の主な問題は、非堕落の無垢の状態の人間についての理解である。キルケゴールは堕罪以前のアダムをある種の前人間状態(動物、母子癒着の子ども、自然人、どれも大同小異である)のように、そこからの堕罪を人間化の様に描いている。

 “ 負い目なき状態においては、アダムは精神として、夢みる精神であった。したがって綜合は現実的でなかった。なぜかといえば結合するものはまさに精神であり、この精神がまだ精神として措定されていないからだ。 動物の場合には性的差別は本能的に発生しうる。しかし人間はまさに綜合であるから、そうした仕方では性的差別を持つことはできない。精神は自己自身を措定するその瞬間において、綜合を措定する。しかし、綜合を措定するためには、精神はまず綜合のなかへ差別しつつ滲透しなければならない。そして、感性的なものの極限は、まさしく性的なものにほかならない。人間はこの極限に、精神が現実的となるその瞬間にはじめて到達することができる。これより以前には、人間は動物ではないが、実際は人間ではない。人間が人間となる瞬間にはじめて、かれが同時に動物にもなることによって、人間となるのである。”

『不安の概念』p.73

 はっきり言っておくが、これは18世紀以降の極めて多くの著名な思想家達が基本的に陥ってしまう、聖書の中でも特に難解でもないような部分の明示的内容を相当に歪めた妄想である。なぜそんな事が起こるのだろうか?それは18世紀の時代性による。18世紀とはいかなる時代か。「啓蒙」の時代ーー理性の運用により未成年が成人になるという、当事者から見て「成長発達」、指導者から見て「教育」の関心に、ありとあらゆる哲学者が没頭していた時代である。

 以下、お歴々の見事な妄想を例示して行く。まず、おそらくは「ケーニヒスベルクのシナ人」というニーチェの揶揄が的を得たものである事を証明するためなのだろうが、東アジアの一員たる去勢された宦官どものような我々日本の哲学愛好者の皆様が健気にも最も支持を表明し続けてきた、大人気イマニュエル・カント師父の創世記読解を見てみよう。

“ 人類の最初の歴史に関して上に述べたところから、次のことが明らかになる、すなわち人類の最初の居所として、理性が人間に指示したのは無憂の楽園である、それにも拘らず人間がこの楽園から出ていったのは、動物的な被造物の未開状態から人間性へ、本能といういわばあんよ車から理性の指導へ、換言すれば自然の後見から自由の状態への移行にほかならない、ということである。ところで人間はこういう変化を経験したことによって何か得るところがあったか、それとも何かを失ったかという問題は、人類の本分を顧れば、もはや論議の余地はない、人類の本分は、完成に向ってひたすら前進すること以外には存しないからである。多くの世代の人間が、この目標に到達するために相次いで試みた幾多の企ては、最初は不完全な成果しか挙げ得なかったにせよ、しかし人類の本分がここにあるということについてはいささかの疑いも残さないのである。しかし人間の経験したこのような過程は、全体としての人類にとっては、悪しき状態からいっそう善き状態への進歩であるが、しかし個体としての人間にとっては、必ずしもそうでない。

 理性が目覚めぬ内は、まだ命令もなければ禁止命令もなかった、従ってまた違反ということもなかった。しかし理性が一旦はたらき始めて、いかに微力にもせよ、動物性とその全勢力とを相手に力争するとなると、さまざまな害悪が発生し、またもっと悪いことには、 開化された理性の場合だと、いろいろな悪徳が紛起せざるを得なかった、かかる悪徳は、以前の無知な或いは無邪な状態のまったく知らざるところのものであった。それだから未開の状態から脱する第一歩は、道徳的な面から言うと、一種の堕落であった、また人間の生活のいまだつて知らなかった夥しい害悪は、自然的な面では、かかる堕落から生じた結果であり、従ってまた刑罰でもあった。このように自然の歴史は、善をもって始まる、この歴史は神の業だからである。しかし自由の歴史は悪をもって始まる、この歴史は人間の業だからである。”

『人類の歴史の憶測的起源』1786、啓蒙とは何か、岩波文庫p.66

 次はヘーゲル。19世紀にまたがるが、18世紀からの独仏啓蒙の大成者と見なしてよかろう。

“ 堕罪の神話をよく考えてみると、先にも述べたように、精神的生活にたいする認識の一般的な関係がそのうちに表現されているのがわかる。直接態における精神的生活は、まず無邪気および率直な信頼としてあらわれる。しかし精神の本質には、こうした直接的な状態が否定されるということが含まれている。というのは、精神的生活は、その無自覚の状態にいつまでもとどまっていないで、自覚的に存在することによって、自然的生活から、もっとはっきり言えば、動物的生活から区別されるからである。しかし今度はこうした分裂の立場もまた否定されなければならない、そして精神は自分自身の力によって統一へ復帰しなければならない。 この統一は精神的な統一であって、復帰の原理は思惟自身のうちにある。すなわち傷を負わせるものも思惟であり、それを癒やすのも思惟である―堕罪の伝説にはこう言われている。最初の人間、すなわち人間一般であるアダムとエバは、生命の木と善悪を知る知識の木とのあるエデンの園にいた。神はかれらに知識の木の実を食べることを禁じたと言われているが、生命の木についてはそれ以上何も言われていない。したがってこの話には、人間は認識に達してはならず、無垢の状態にとどまっていなければならないという思想が述べられているのである。より深い意識を持った他の諸民族にも、人間の最く初の状態は無垢と調和の状態であったという考えを見出すことができる。こうした考えのうちには、あらゆる人間的なものを貫ぬいている分裂が、決して最後の状態ではありえないという正しい考えがあるが、しかしそれは、直接的な自然的統一を正しい状態とする点では正しくない。精神は単に直接的なものではなく、本質的に媒介のモメントをそのうちに含んでいるものである。子供の無邪気には、たしかに人の心をひき、人の心を動かすものがあるが、しかしそれは、精神によって生み出されねばならないものを、それが思いおこさせるからにすぎない。子供のうちにわれわれが見出す統一は、自然的なものにすぎないが、それは更に精神の労働および形成の成果とならなければならない。キリストは「汝ら幼児のごとくならずば、云々」と言っているが、それは、われわれが何時までも子供でいなければならないという意味ではないのである。 さてモーゼの伝説によれば更に、人間が最初の統一を去るようになった誘惑は、外部から蛇によって) 人間へやってきたことになっている。しかし実際は、対立へ足をふみ入れること、すなわち意識の目ざめは、人間自身のうちにあるのであって、このことは、あらゆる人間のうちで繰返されている歴史である。蛇は、善悪を知ることを、神のようになることだと言っている。そして実際人間がこうした知識に与るようになったのは、かれが禁断の木の実を食べて、自然的な統一と訣別したからである。目ざめた意識の最初の反省は、人間が自分がはだかであることに気づいたということであった。これは非常に率直な深い言葉である。 羞恥のうちには、自然的および感性的存在からの人間の分離がある。動物はこうした分離にまで進んでいないから、羞恥を知らない。羞恥という人間的感情のうちに衣服の精神的および道徳的起源は求むべきであって、単なる自然的要求は二次的なものにすぎない。 さてその次には、神が人間に投げかけた呪いがある。このうちで強調されているのは、主として自然にたいする人間の対立である。男は額に汗して働き、女は苦しんで子を生ねばならない。労働というものをよく考えてみると、それは分裂の結果でもあり、また分裂の克服でもある。動物はその諸要求を満たすに必要なものを直接目の前に見出すが、人間とその諸要求を満たす手段との関係は、人間と人間自身によって作り出されたものとの関係であり、人間はこうした外的なもののうちにあっても、自分自身と関係しているのである。

モーゼの伝説は楽園からの追放で終るのではなく、更に、「神曰いたまいけるは、みよ、アダムわれらの一人のごとくなりぬ。善悪を知ればなり」と言われている。ここでは認識は神的なものと呼ばれていて、以前のように、禁じられたものとは言われていない。われわれはまたこの言葉のうちに、哲学は精神の有限性にのみ属すると言うような、馬鹿話の反駁を見出すことができる。なぜなら、この言葉によれば、神の似姿になるという人間の本源的な使命は、認識によって実現されたのであり、哲学は認識であるからである。更にモーゼの伝説には、 神は人間をエデンの園から追放し、もって人間が生命の木の実をも食べないようにした、と言われているが、この意味は、人間は自然的側面からすれば、有限で死すべきものではあるが、認識においては無限であるということである。人間は生来悪であるというのは周知の教義であり、この生来の悪は原罪と呼ばれている。しかしこの場合われわれは、原罪は最初の人間の偶然的な行為にもとづくというような、外面的な表象を捨てなければならない。実際人間が生来悪であるということは、精神の概念のうちに含まれていて、人間はそれ以外にありようがないのである。”

『小論理学(上)』1808、岩波文庫p.131

 カント、ヘーゲルの理解は、『人間不平等起源論』1755におけるルソーの自然人から社会人への移行を創世記読解に当てはめたものーールソー自身は、自然状態と楽園時代をアナロジカルに捉えるのに懐疑的だったにも関わらずーーだが、ルソーと逆に自然状態の人間を欠陥動物として捉え、欠陥の補償としての反省能力を足がかりに人間が言語を発明した(*¹)、という人間中心主義的な『言語起源論』1772(*²)によりロマン主義運動の嚆矢となった、カントとヘーゲルの橋渡し的存在であるヘルダーの創世記読解も、彼らと同型のようである。

“一七六八年四月のハーマン宛ての書簡がある。この重要な手紙については機会を改めて論ずることにするが、要するに、ヘルダーはここで聖書の「楽園」「喪失」という出来事を解釈し、それは「人間がみずからに選びとった賭」であると記している。人間が智恵の木の実を食べて善悪を知る存在となった、言いかえれば「言語生物」になったのは、決して蛇の誘惑によるものではない、人間みずからの決意によるものであるとされる。 ヘルダーのアントロポギー、人間による言語創造という立場は、この重大な認識、いわばヘルダー自身の人間解釈にのぞむ「あれかこれか」の決断の上に成り立つものであったのだ。”

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/184944/1/dbk01900_%5B001%5D.pdf 〈言葉の起源ーーヘルダーの『言語起源論』についてーー〉芦津丈夫

 即自から対自へ、実体から反省へ、直接性から媒介へ、自然人から社会人へ……ーー何と言い換えても良いがそれらは全て同じ事態を表しており、主客未分化の母子癒着状態から父の介入により引き離されるというフロイトのエディプス構造、それを継承洗練させたラカンの去勢も同型である。心理学や精神分析における例示は、拙論『キリスト教の男女観(前編)』内の『成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語』に、エーリッヒ・フロム、ジョーダン・ピーターソン、間接的ではあるがエリック・エリクソンの影響を受けた江藤淳らの引用を載せてあるので参考にされたい。

 さて、『不安の概念』がどうかといえば、同主旨の記述は数回出てくるのだが、「負い目なさ(無垢)は、無知である。負い目なさにおいては、人は精神ガイストとして規定されず、自然性との直接的な統一において、心ゼーレとして規定さている」p.62と説明しており、ヘーゲルに大いに反対している箇所p.53や、捻りが加えられている記述p55もあるものの、概ね、18世紀的に始まる成長発達人間観におけるプリミティヴ状態として、楽園時代を思い描いていると見なして良い。

 ヘーゲルが、楽園時代の無垢を主にその無労働性において注目した一方、キルケゴールは性差の欠如性において注目したが、二人共、その無垢を一種の疑似幼児的状態として思い描いている事に変わりはない。彼らの発想は私達現代日本人も十分に規定していて、無垢といえば子供であり、子供といえば、「汚らわしい」性生活と「厭わしい」労働生活に、まだ参与していない存在としての無垢な存在なのである。子供の実状がどうであれ、私達は彼らをそのように思い描き、そのように扱う事になっている。

 しかし、聖書における堕落前の人間、無垢な人間は、労働者としてまた性生活者として、そもそも造られている。私達は無垢といえば、厭わしい労働生活、汚らわしい性生活「からの」無垢と考える。しかし、聖書における無垢は、労働生活及び性生活「における」無垢なのだ(*³)。これは一般的な発想に収まらない点だ。だが、聖書は啓示の書であり、その内容は人の思い描く発想を超える。キルケゴールが重視しているのは労働ではなく性なので、引き続きそちらを見ていこう。不安の概念で最も聖書的でないと見なせるのは、キルケゴールが女の創造に積極的な意味を殆ど認めていないように思えるところだ。

“エバはアダムに対して、およそ可能な限り内面的関係にあるが、しかもなおそれは外面的な関係であった。アダムとエバはたんなる数的な反復でしかない。その意味ではひとりのアダムの変わりに百千のアダムがそこにいるとしても、別にかわりはない。これは人類が一対の夫婦から発生するという事を顧慮してのことである。”

『不安の概念』p.69

 しかし、聖書の記述を読むと、アリスター・マクグラスが指摘するように、基本的に自画自賛的な神が、自分の創造した堕落前の世界で唯一「良くない」とダメ出しをするのが「人が一人でいること」なのである。繰り返すが、堕落前の世界で神が「良くない」と認めるのはこの一点のみである。女の存在は唯の数的な反復などではない!女は、画竜に欠いた点睛の様な存在として、その必要性を十分に認識された上で満を持して聖書の中に登場する(創造される)。この成り立ちを、例えば、女を男だけの牧歌的世界を台無しにするために意地悪な主神から送り込まれた、存在自体がハニートラップのように悪しざまに、画竜点睛と逆の蛇足以下の邪魔者として描く古代ギリシャのパンドラ神話と比べてみれば、いかに好対照をなしているかわかるだろう。若干パンドラ神話に似ていなくもない、そこだけ切り取れば女性差別的な見解も引き出せそうな記述として、女はアダムを誘惑するのみならず、自身が最初に堕落するのも女なのであるから、順序だけで考えれば罪が世界に入って来たのはアダムではなく女によることになり、そこもキルケゴールの考えと異なる。

 更に、女の言わば質料因が男の肋骨である事は、ペトルス・ロンバルトゥスの様な中世の神学者により、男女平等の根拠とされたhttps://www.cbcj.catholic.jp/2009/12/30/7194/(教皇ベネディクト十六世の207回目の一般謁見演説『12世紀の神学者ペトルス・ロンバルドゥス』)。また、女は男に相応しい「助け手」と見なされているが、この称号で呼ばれるのは、女の他には三位一体の第三位格たる聖霊だけであり、古くは正教の宗教思想家セルゲイ・ブルガーコフが、男をキリストの似姿、女を聖霊の似姿とする独特の男女観を展開する根拠になりhttps://www.academia.edu/99924273/Trends_in_Eastern_Orthodox_Theological_Anthropology_Towards_a_Theology_of_Sexuality?email_work_card=title“Trends in Eastern Orthodox Theological Anthropology: Towards a Theology of Sexuality,Philip Abrahamson”、戦後はエリーザベト・モルトマン・ヴェンデルによるフェミニズム神学の論拠の一つになっている。https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%9C%8A%E3%81%AF%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E8%A9%A6%E8%AB%96-21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E2%80%90%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB/dp/4400324613

 繰り返せば、キルケゴールの敗因は、堕罪以前の状態を社会契約以前の(ホッブズ、ロックより特にルソー的な)自然状態が如く思い描く、啓蒙主義時代的な謬見を払拭できなかったことにある。以下の一八四八年の日記の内容にもその行き詰まりは見られる。

 “難しさは、罪の赦しを信じる者がどの直接性へと戻ってゆくのかということ、あるいは、この信仰に続くところの直接性とは何か、その直接性はわれわれが他の場合に直接性と呼ぶものとどのように関係しているのか、ということである。(〜略〜)
 私はそこで、ある人が、 神が文字通り彼の罪をお忘れになったということを、心の底から信じるだけの壮大な信仰の勇気を持ったと想定してみよう――(略)するとどういうことに? いまやこうしてあらゆることが忘れられ、彼はまるで新しい人間であるかのようだ。だが、それがどんな痕跡も残さないということ、つまり、若い人々によく見られる心労のない状態を、人間がふたたび手に入れて生き始めるということ。不可能だ!〜(略)〜
 自分の罪の赦しを信じる者が、性愛的に恋愛するに足るほどまでに若々しくなるなどということが、いったいどのようにして可能だというのか。
 〜(略)〜今になって初めて、三五歳の今、私は、おそらく憂いの苦しみに助けられて、また悔恨の苦々しさによって、世界から死に切ることについて多くを学んだのであり、その結果、罪の赦しの信仰のうちに私の生のすべてと私の救いを見出すということが、可能性として現れてきているのである。けれども実際には、私は今、精神的な強さは以前と変わってはいないものの、女性と恋に落ちるにはあまりにも歳をとってしまっている。
 〜(略)〜子どもと青年は、本質的に言って、ただ心として規定されているにすぎないのであってぬ、それ以上でも以下でもない。キリスト教は「精神」である。子どもを「精神」の規定のもとで厳格に捉えることは残酷なことである。”

『キェルケゴールの日記ーー哲学と信仰の間』p.136ー137

 子どもについての「(精神ではなく)心として規定されているにすぎない」は、『不安の概念』の中の、負い目なき堕落前のアダムについての記述に一致する。キルケゴールはやはり、未堕落状態を子ども時代とアナロジカルに理解しているわけだ。性差の成立を、堕罪による罪性としての性差の成立と同一視視してしまえば、罪の赦しを得た後の、原罪の影響を拭われて無垢を回復した、再創造リクリエーション後の性関係など、思い描きようがなくなってしまうだろう。

“ 課題は、いうまでもなく、それ(性)を精神の規定のなかに取り入れるということである。(ここにエロス的なもののあらゆる倫理的な問題が存在する)。その実現は、精神が勝利をしめ、そのため性的なものが忘れられ、ただ忘れられたものとして想起されるような、人間における愛の勝利である。こうしたことが起こったならば、感性は精神の裡に浄化され、不安は追放されるのである。”

『不安の概念』p.120

 言葉の上ではまことに麗しい。だがこれでは、実際にどのように恋人と交際すればよいのかわからくなってしまっても仕方がないではないか…。私がキルケゴールを痛ましく思うのは、よく言及される彼にとって重要な二人の人物、父ミカエル・ペーターセンから打ち明けられた出生の彼の秘密を通じた、キリスト教の原罪論の実人生上の問題としての引き受けと、元フィアンセのレギーネ・オルセンへの直向きで一途な愛の両立ーーという彼が真剣であればあるほど難しい(*⁴)課題に挑み、生前解決の糸口を掴めないまま生涯を閉じてしまったように見えるからである。「実存主義」の草分けというような、哲学上の功績が十分後代に汲み尽くされた後に、それでもキルケゴールに惹かれる人達は、プロ・アマ問わず、多かれ少なかれ、そうした姿勢に胸を打たれて(*⁵)文字通り道中で倒れた彼の思想的な亡骸の傍から立ち去る事ができずにいるのではないだろうか。そのような点で、彼はやはり、生きざまの余りに不器用な、愛すべきニーチェと相並ぶ思想家であり続けている。

 ヴァルター・ベンヤミンは、彼がその真価を探り当て文学史上での地位向上に寄与したゲーテの傑作『親和力』論1922の中で、道ならぬ恋に囚われ運命に嘲笑われるようにそれぞれが孤独に死んでいく、地方貴族のエードゥアルトと妻の姪オッティーリエが人目を忍び初めてキスをした逢引の夜に、彼らの頭上を星のように流れた希望に思いを馳せている。「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている」。法華宗、共産主義、魔的なものへの感受性ーーと、よく似た構成要素で成り立つ宮沢賢治にとってと同様に、ベンヤミンにとっても、星空は、この地上で日の目を見ぬまま生涯を終えたもの達が昇っていき、儚く散らされたその命の煌めきの記憶が焼き付けられて輝き続ける、無数の無縁仏達の集合墓地のようなものだったのだろう。

 しかし、おそらくは明暗の対照効果をより劇的に演出する目的なのだろう、「愛のなかに己を捨てる事のない美は、死の手に落ちなければならない」と述べるベンヤミンは触れていないが、デモーニッシュな運命の力に絡め取られて滅びゆくオッティーリエの「美」を中心に成り立つ『親和力』本編のロマーンのカップルと様々な点で対照的な、救済する「愛」の担い手たる事を託された作中作のノヴェレ『隣同士の不思議な子どもたち』の幼なじみの恋人同士もまた、人々から祝福で迎えられるのは一時に過ぎない。彼らもやはりこの地上では結ばれずに死別している事を、作者ゲーテの筆は仄めかしている(*⁶)のである。

 オッティーリエとエードゥアルトは、結局は「幸福」を求めて得られなかった(*⁷)にすぎない。彼らの人間的な凡俗ぶりは、彼らへの哀悼の念を表明するベンヤミン自身も鋭く剔出している通りである。その様な者たちにおいてでさえ、彼らがほんの一時でもこの世界で触れかけた幸福の甘美さとそれを喪失する悲しみは、共有する者の胸にも痛ましい余韻を残す。それならば、気高い愛に刺し貫かれながらその成就に至れなかった者たちの姿は、どれだけ強く私達の心を囚えるだろう。わたしは、『キリスト教の修練』1848の中でキルケゴールが語る、大人がお土産に買って来てくれた子供向け英雄イラストの中の一枚に、凛々しく華やかなナポレオンやウィリアム・テルに混じって十字架に掛けられたイエス・キリストの絵を見つけてしまい、その明らかに他と異質な寄る辺なき悲惨な姿に強い印象を受けてしまった、彼についてまだなにも知らない男の子(*⁸)のような気持ちで、キルケゴールを見て来ていたと思う。 キルケゴールだけではない。多くの思想的亡骸が、ある者は弔われもせず野ざらしのまま見捨てられ、ある者は、より酷いことに相応しからぬ身元引受人により辱められている。そんな中の一人であるハーマンにそろそろ移って行こう。彼は野ざらしの方である。

〜〜パート3脚注〜〜

 (*¹)人間を「本能の壊れた動物」とした上で、他の動物と異なる人間の拠り所を言語に求めるジャック・ラカンの人間観も、元を辿ればヘルダーに行き着く。研究者の宮地尚実が、「哲学的人間学はヘルダー以降一歩たりとも進んでいない」『ハーマンの「へりくだり」の言語』p.70というアルノルト・ゲーレンの意見を紹介しているが、ゲーレン存命中の当時としては正鵠を得ていよう。

(*²)ヘルダーと同じように、蛇による誘惑に意味を認める事を拒みながらも「人間自身が言葉の発明者だとは考えられない」『不安の概念』p71と断言したキルケゴールは、ヘルダーに比してその点ではキリスト教的であったとは言えるかもしれない。

(*³)『キリスト教の男女観(前編)』の注でも触れたが、「異性と目も合わせず、労働もしないニートになれ」という仏陀の勧めは、紹介者の魚住氏が見なすような、それほど反時代的なものだろうか?私には全く逆に、時代精神の追い風を受けた加速主義的なものに感じられる。

(*⁴)この難しさは、キルケゴールとの思想内容的な相同性が良く指摘されるほぼ同時代のドストエフスキーが生み出した『カラマーゾフの兄弟』の対極的な二人、ダークサイドヒーローのスメルジャコフと、人々の行き詰まりを打破する使命を帯びてゾシマ長老により俗世に送り込まれる作品全体のキーパーソンのアリョーシャを、人格的に統合させるような難しさである。父フョードルが知的障害者の女性を強姦して生まれてきたらしき庶子であり、カラマーゾフ家の血縁者でありながら家族的な温かみから排斥され、その出生及び育成歴から去勢派異端への傾倒が仄めかされている、自他一切への底知れぬ軽侮と憎悪を秘めたスメルジャコフは、アリョーシャの若々しく清らかな愛の圏域からすら締め出され続けたままで、結局は自ら命を絶ってしまう。木下豊房の指摘に詳しい://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost131b.htm

(*⁵)“結局のところ、私にとっての彼の魅力は、生というものに対する彼のこの上ない真剣さのうちにこそ根を有しているのではないかということに気づく。 つまり、キェルケゴールは、自らの生に対して 「極端」と形容しうるほどにまで真剣に向き合ったのであり、そうであったからこそ、 彼は、さまざまな本質的な洞察を得、それらを著作や日誌に散りばめることができたのだ、ということである。  要するに、 私は、時折不満を抱きつつも、手間暇をかけて、キェルケゴールの生に対する真剣さの果実のいくらかを味わっているのだろうと思う。
 キェルケゴールの魅力の一つと思われる彼の生に対するこの上ない真剣さに全身全霊をもって共感し、 その果実たる彼の思想を心の底から味わうことができる人々がいる。 おそらくたくさんいる”

http://kierkegaard.jp/12suzuki.pdf 『生に対する真剣さ ―キェルケゴールの魅力―』 鈴木 祐丞

(*⁶)『親和力』1809、講談社文芸文庫、訳者解説

(*⁷)ベンヤミンの親和力論については、原著『ゲーテの親和力 ベンヤミンコレクション1』もさることながら、小林哲也の優れた論文https://researchmap.jp/ttykobayashi/misc/32891312を参照。

(*⁸)『キリスト教の修練』p.262

4:ハーマンにおける創造、言葉、霊(精神)、性

 キルケゴールら哲学者達が言うのと違い、非堕落の人間は、心ゼーレと体を総合する精神ガイストの浸透をまだ受けないで、心ゼーレとして自然との直接的な統一として存在しているのではない。聖書に即せば、人間は堕落以前から、ルーアハ(息吹、精神、霊)を神より吹き入れられる事で、人間として創造されている。人間はその成り立ちより、「土と霊とにより成る人間」である。

 “命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。肉体と生命とは、相互に密接な関係をもっている。神は人間のからだに、神の霊を吹きこんだ。この霊は生命であり、人間を生ける者とする。ほかの生物を神は神の言葉で創造した。人間の場合には、ご自分の生命を与える。霊を与える。人間は、人間として、神の霊なしでは生存しない。人間として生きるとは、霊のからだとして生きるということである。肉体からの逃避は、霊からの逃避であるのと同様に、人間存在からの逃避である。霊が肉体の存在形式であるのと同様に、肉体は霊の存在形式である。〜(略)〜人間の肉体はまことに神の霊によって、生存する。これがその本性である。神は、肉体において、まさに人間の肉体という特定の在り方をする肉体において、ご自分に栄光を帰す。 〜(略)〜
 このように創造されたこの人間が、神のかたちをとった人間である。肉体をとるにもかかわらず神のかたちであるのではなく、肉体をとるからこそ神のかたちである。なぜなら、肉体をとることによって、人間は地と関係をもち、また他の肉体とも関係をもつからである。人間は他のためにあり、他に依存して存在する。 肉体をとることによって、人間は兄弟と地とを発見する。かかる被造物として、土と霊とより成る人間は、彼の創造者である神に「似て」いる。”

『ボンヘッファー選集9巻』「創造と堕落」p.57ー58

 この霊性(精神)は、人間に他の動物には欠けた、感性や本能から離反した内省能力、抽象的思考能力、倫理的実践能力、自己規定能力の余地を切り開くものではない。そうではなくて、その「吹き込まれる」「息吹き」としての形象からもうかがい知れるように、取り交わされる交わりの中に人間を呼び起こすものなのである。

“〜(略)〜霊ルーアハの人間への関わりを整理してみる。 霊ルーアハは外的力 Gewalt として人間を捕らえるが、 その力は人間を人間ならぬものに変えるのではなく、むしろ人間をして霊ルーアハに達せしめ、これを所有させる働きをする。 大気を欠くことは窒息を意味するように、霊ルーアハを所有するとは生きることを言う。故に、霊において出会うとは、生命の交わりを得ることである。 神と人との霊における交わりとは、神が人間に神への参与を許すことであり、そこに対話が潜在的に生じたことを意味する。その際に霊の齎す感動的生命は常に、まず神から人間の方向へと向かう運動である。これによって神に向かう人間の営みが人間に与えられ、そこに共感の生じうる場が備えられる。 共感とは、神的なものとの 〈関わり〉の次元に留まらず、〈神の知識〉そのものの成立を指し、これが人間の内に創造されることを言う。それは知識ヤードーアの本義において神が自身を出会いの相手として人間に啓示することである。このように霊は出会いの経験を分有させることによって、人間に応える愛を発見させ、これを激情的に高めるのである。
 〜(略)〜人間存在には霊が委ねられ、対話への可能性が開かれている。人間が自らを開き、彼を守るべく与えられた神の霊に尋ねる時、〈光あれ〉と神の言は語られ、この言葉は暗き無秩序を神の明瞭な秩序へと啓き、形成していく。 神の霊と神の言葉との関わりが的確に語られている。人間存在に神の息吹(霊)が吹き込まれ、生命の息(霊)が形作られたということは、神の言葉に対する潜在的応答を与えられたことを意味する。 人間は対話の場に呼び出された。 <啓き〉かつ〈隠す> 神の〈言葉〉はここに語られる。”

『北の博士・ハーマン』川中子p.90ー92

 言葉ダーバールによって啓示された、霊ルーアハ的な交わりを通じて至る神の知識ヤードーアという時の、知識ヤードーアの語は男女の結合の行為をも指し示す。

“神を〈知る〉という事は、夫婦が互いを〈知る〉ごとき出会いである。神と人間との対話は、聖書において結婚の契約として示され、男女間の全人格的な交わりに準えられる。それは知性的な納得ではない。倫理的な分別でもない。直に相手の内奥へと参入し、瞬時に相手の存在を啓く運動である。神の知識とは、かかる親密な運動を言う。”

『北の博士・ハーマン』川中子p.103

 そのような知を、ハーマンは『婚姻に関するある巫女の試論』1775において示す。

“我らが、かの神との等しさを、盗みとしてあるいは分捕りものとして恥ずるのは、いずれの故か。この恥は、我らの本性(=自然)の密かな汚点にあらずや。それはまた同時に、これを造りし栄光の創造主、唯一頌め讃えられるべき叡知の主の黙せる非難ではないのか。

まどろみの香煙の直中に、我はかの肋(あばら)骨を見ぬ。- かくして感激のあまり(=霊を得て)満ち足れる愛情に促されかく叫びぬ、「これぞ、我が骨の骨、
我が肉の肉。」-

 一つの被造物(性器)のその起源に結びつくがごとく、彼は、肉の救い主としてそのかねて出で来たるところに入り行きぬ。そして、人類(=人間の性)の太古の「反故」をなおも成就すべく、良きみ業を為せる真実の創造主さながら、彼は、肉をもてその所の隙間を塞ぎぬ。-”

『婚姻に関するある巫女の試論』
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 バーリンが「曲がりくねった、しかし一途な思想」『北方の博士J.G.ハーマン』p.33と評する様に、一貫した世界観を有していても一読して理解困難なハーマンの文章を読み解くに、引き続き訳者であり研究者でもある川中子を頼ろう。

“『婚姻試論』の巫女は告げる。人間は、神自身によって神に似た者、神に並ぶ者として創造されている。神の創造の映しとして人間の創造的産出行為にまして深い意味を持つものはないと。そこで人間は性的な存在として、神の型どりを与えられている。かくして性愛(エーロス)は、自分の似姿を造らんとする神のアガペーに支えられている限り、人間の尊厳を表す。
 しかしながら、性愛の現実の姿は、正反対にその尊厳を脅かす死や罪という否定的なものと結ばれている。神の似姿であるはずの身体は、罪の座となっている。それはなぜか。人は、神の形(善悪の知、永遠の生命)を神から〈盗もう〉として、本来備わった神の似姿を失った。 人は死ぬ者となり、その身体(裸)や性を〈恥じる〉者となっている。そこに性愛と罪や死との深い結びつきが生まれた。しかし罪の源は、人間の根源の姿、すなわち人間性(=人間の「性」)にではなく、この〈分捕り〉にこそ帰される。性への羞恥もまた、人間自身の責任によって習得された(*¹)のである。”

『ハーマンの思想と生涯』p.143

 「堕罪」は、確かにキルケゴールの言うように、性差の罪性としての成立を齎すものだが、それは言葉、霊、知識と結びつきそもそも神意の中で成立していた筈の性を削ぎ落とす様な抽象的な知性を通じて、それを歪めてしまうーーという意味で罪性として成立させるものなのだ。堕罪の前に性はなかったのではなく、寧ろある意味で、堕罪によって性は無くなった(あるにもかかわらずないものとして扱われるようになり、その様な無理な扱いを通じて、歪められるようになる)のであり、堕罪以前には、むしろ十全に開花された、或いは開花しうる性があった、と考えるべきだろう(*²)。谷口氏の概念でいえば、「原罪前性自認成立説」が正しいのである。確かに堕罪と去勢はかなり良く似ている。しかし、堕罪以前と去勢以前は全く異なる。その違いは、堕罪論者達(正統派キリスト教神学者)からはよく見えるが、去勢論者達(大陸哲学系の性思想家達の大半)からは良く見えない。それが一切の混乱の元である。

 理解を深める為に、谷口氏の『不安の概念』論を再び頼ろう。堕罪とは、何らかの言語的介入による主体の開設、〈私〉の「谷口一平」という人物としての世界への現れであり、それに伴う、(やや私なりに言い直すと)主体にとっては余剰になってしまう所の恥ずべき性差の成立であった。そして堕落以前は、私は世界参与しておらず、誰でもなく、性差もないーーこれが谷口氏が正しく読み解くキルケゴールの理解だ。

 しかし、聖書的には、堕落以前に人間は既に神の息吹(霊、精神)を吹き込まれている。これはいうなれば、「私(神)はあなた(アダム)を愛している」というメッセージを贈与され受領している事を意味する。全てを削ぎ落とした人間の核は自我ではない。究極的な「私」である神から愛を受けとる「あなた」であることが、人間の始まりなのである。『不安の概念』では見過ごされているかに見えるこの人間理解は、実名著作の宗教的講話群ではキルケゴールも基本的に押さえていると思われる。例えば『愛のわざ』の中では、隣人とは、自己愛の延長たる「他我」ではなく、誰かが神から「あなた」と呼ばれるのと同じように「あなた」と呼ばれる、誰かにとっての「他のあなた(他汝、とでもいうべきだろうか?)」なのだ、と彼は言うのである。

 冒頭に掲げたパウル・ツェランは、『不安の概念』と逆に、世界成立(主体開設)以前の人間のありさまに、性および二人称との強い結び付きを見いだした詩人である。

あらゆるおもいとともに
Mit allen Gedanken

あらゆるおもいとともにぼくは
この世から外へ出ていった―――するときみがいた、
きみぼくの静かなひと、きみ、ぼくらのひらかれたひと、そして――
きみはぼくらをうけいれた。
ぼくらの眼がかすむとき、
すべては死にたえるといったのは
だれか?
すべてが目覚め、すべてが始まった。
おおどかに日輪がひとつただよってきた、あかるくそれを
魂と魂がたちむかえた、はっきりと、
おごそかに、黙ったまま、
軌道をさししめした。
かろやかに
きみの膝がひらかれた、静かに、
息づきが浄気のなかへ昇っていった、
しかもやはりかき曇ったもの、それは
姿ではなかったか、なかったか、ぼくらにとって
それは、
名まえといっていいものでなかったか、なかったか?

『パウル・ツェラン詩集』思潮社p.114-5

 性の領域は、「世界」を主体参与する歴史的―公現領域とした場合は、前世界的―脱世界的領域として、秘密の領域として成り立っている。それが私秘であれ神秘であれ。私秘と神秘は異なるが、共に秘密の領域であるがゆえ、公言できず、区別がつきづらい。『おそれとおののき』で考察されるように、美感的なものと宗教的なものは、倫理的観点からは共にいわばただの身勝手としてしか扱えない。キリスト教は「律法主義」を超えるが、それは律法以上のものを齎すためであり、律法以下のものを正当化するためではない。しかしその2つの区別は容易ではないのである。

“二人称言語の「関係志向性」が「関係規定性」へと移行するとき、そこに反省・考察が生じる。 反省意識の一人称と、相手を対象として叙述する三人称が分化する。”

『詩学講義』p.191川中子

 未堕落の無垢はツェランの抒情性に近く、堕罪は言語論的には川中子の指摘する事態に近い。谷口氏のいう、「無の主体への開設」を齎す様相化装置としての言語装置とは別の言語のあり方が、あるのだと思われる。私は分析哲学や言語哲学には通じていないので示唆に留めるが、鍵はやはり「我汝関係」あるいは「対話性」という事なのだろう。ところで、『情況』の筆者紹介欄によると、谷口氏には「存在と抒情ー短歌における〈私〉の問題〉」という論文があるようだが、川中子の『詩学講義』の副題は“「詩の中の私」から「二人称の詩学へ」”であり、ご存知でないならご参考になるかもしれない。谷口氏の思考の深化と詩情世界の豊穣化に繋がれば幸いである。

〜パート4脚注〜

(*¹)「婚姻を愛に基づく関係と捉えた最初の哲学者である」と理解されているフィヒテhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/268ぬ933/1/Scientia_2_8.pdf(『婚姻をめぐる女性の分断―カントとフィヒテにおける 内縁と売春』岡崎佑香)には、愛に対する羞恥の不純さを見抜く感覚は欠けている。それは彼がキリスト教哲学者ではないことの証拠である。

“恥羞心は、道徳的衝動であって、「かかる衝動は愛と呼ばれる。愛はその根源的統一において自然であり、理性である」”

https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/2479/files/KJ00002451888.pdf 『フィヒテの道徳論における諸問題』菅谷正貫

(*²)“セックスそのもの、あるいはその快楽に問題があるのではない。昔のキリスト教の先達はこう言っているのである――もし人類の堕落ということがなかったなら、性の快楽は、今よりも小さいどころか、現実にもっと大きなものとなっていただろう、と。 クリスチャンの中には、キリスト教はセックスを、あるいは肉体を、あるいは快楽を、 それ自体悪と考えている、というようなことを主張するとんまな連中がいることを、わたしも知っている。だが、彼らは間違っている。”

『キリスト教の精髄』ルイスp.162

5:蛇を踏み殺すハーマンのメタ・クリティーク

 再び『婚姻試論』に戻ろう

"婚姻とは、社会全体の貴重な根底また礎石なるが故に、我らの世紀の人間愛の霊は、婚姻法において最も強く啓示される。されど、立法者の側の憐れみが、人間の心の頑なさにおもねり、公然たる罪や悪徳に特権を授けるものであるからには、世の審き主の側からの至高の義とは、その「尊厳」を「汚すもの」をして、自然に背けるところの己が身の濫用に委ねしめることとなる。"

http://www17.plala.or.jp/kawanago/EHE01.HTM 『婚姻試論』

“婚姻の「理性的」 基礎付けと称して恣意的な人間の結びつきが奨められ、婚姻の神的起源とその宇宙的目的が忘れられることに並行して、「人間性」の本義が欠落してしまう事態を、彼は見過ごさなかった。その時代精神が、何よりも、この「啓蒙の時代」の導き手と目されるフリードリヒとその「理性的」国家政策によって涵養されていることを、彼は見抜いていた。啓蒙を志向する君主は人間性への愛を標榜する。しかし彼がそこで恣意的な仕方で高く掲げる理性的立法とは、かの「分捕り」の精神に他ならない。〜略〜
 ハーマンは、この君主の治下の啓蒙主義者の理性追求に潜む不遜を、男女の「自然の用」を捨て、同性愛に耽る行為として暴き出す。ローマ人への手紙一章二六節以下に描かれるその倒錯は、人間をその欲するままの姿に委ねてしまう神の審きの決定的段階に他ならない。彼らは、その恣意的な理性偏重によって身体・感性的激情・性を虐げ、すすんで男女の自然の用に役立たぬ不能者となった。己が自然・肉体を捨象する啓蒙主義の「理性の純化」志向は、わが身の「去勢」に陥る他はない。しかしその場合にも、人間「性」そのものが無とならぬ限り、 いくら無視しても彼らが性的存在である事態は変わらぬ。そこで、彼らの性は彼身に復讐し、非常に歪んだ発現をすることになる。 創造の起源を切り捨てて、いたずらに産出力のみ追求される。人間の本義を見失ったまま、学問・芸術が奨励される。それがハーマンの描くフリードリヒ体制下の啓蒙主義者の姿である。 不能者同士、互いに媚びを売る文化の男色三昧、その姿は、人間がその背きのあり方に捨て置かれる、審判の極致とされるのである。”

『ハーマンの思想と生涯』p.143川中子

 ハーマンが糾弾する「男色」は、今日の概念でいうと「ホモセクシャル」よりは「ホモソーシャル」に近いだろう。ハーマンは、フリードリヒ大王の御用哲学者、イマヌエル・カントの啓蒙合理精神を、性差を削ぎ落とし、人を責め苛む、堕罪をもたらす蛇の唆し(*¹)であるかのように厳しく批判した。

 実はカントが未成年に対して述べたホラティウスの有名な「敢えて賢くなれ!」は、元々は、現代でこそありふれているが当時としては画期的な試みであった子ども向け教材の共同企画時に、方向性で対立したハーマンがカントに対して述べた格言である。

「子供と乳飲み子の口によりて誉め称えを備えること!〔詩篇八・二〕かかる野心と趣味に関わることは、決して並みの営みではありません。それ故それは、多彩なペンの略奪によって始めるべきではなく、年齢と知恵とにおける全ての優越の自発的放棄をもって、またかかる優越を誇る全ての思い上がりの否定をもって始めねばなりません。それ故に、子供たちのための哲学書を書くとしますならば、それは、人間のために書かれている一つの神の書のごとく、素朴で愚かしく無趣味な見栄えとならざるを得ないでしょう。さて貴兄は、素朴で愚かしく無趣味な自然学の著者たらんとする心を十分に備えておられるか、顧みられよ。もしその心あれば、貴兄はまた、子供達の哲学者でもあられます。ごきげんよう、そして《敢えて賢くあられよ》」p.154

「こうして、子供を相手にする最大の法則とは、彼らの弱さに遜るということです。彼らの教師たらんとするなら、彼らの下僕となり、彼らを治めんとするなら、彼らに尋ね、彼らを動かして我々の言葉を真似させようと欲するなら、彼らの言葉と魂を習得することです。しかし、巷に語られているごとく、子供に心底惚れ込み、理由も言えぬほど彼らを愛することなくしては 、この実践的法則の理解も、実際にこれに則る振舞いもできません。貴兄がその内なる素質に於てのような弱さ、子供への愛を覚えるのであれば、かの《敢えて》は貴兄に甚だたやすく、《賢くあること》もまた速やかに為されましょう」p.155

『北の博士ハーマン』川中子

 ところがカントは、教育者である自己へ向けられた訴えを学習者・未成年者側に向け直して自省を回避し、あまつさえ、弟子達の罪を被って罰を引き受けるイエス・キリストと全く逆に、彼らを身代わりの生け贄に捧げて保身を図るかのように「自己責任(sclbstver−schuldet)」と責め苛む

“ 啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。

 この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。

 したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。

 なぜ彼ら〔多くの人間〕は生涯をとおして未成年状態でいたいと思い、またなぜ他人が彼らの後見人を気取りやすいのか。

 怠惰と臆病こそがその原因である。未成年状態でいるのはそれほど気楽なことだ。”

(福田喜一郎訳、『カント全集 14』、岩波書店、2000年、25頁。)

 その高を括った態度から覗く完全に気の抜けきった自己特権化を、ハーマンが見逃す筈がない。「彼の積極的な主張はいつも、なんらかの虚偽を根こそぎにするべくしかけられたすさまじい猛攻撃から派生したものである。知的な寛容なるものを信ぜず、また、実行もしなかった点で、ハーマンにまさる人物はいなかった。」(バーリン)

「誤って責めを負わされた未成熟者の無力ないし責任 (罪)とは、どの点にあるのか。 彼自身の怠惰と怯儒に存するのか。いな、それは、自ら見えると言い張るがゆえにすべての責め (罪)を負わねばならぬ後見人の盲目に存するのだ〔ヨハネ九・四一〕」

“ハーマンは、責任はむしろ後見人のカント自身のうちにあると指摘する。 カントの思考は道徳的・崇高な世界へと高く舞い上がっていく。その際に彼は、一方で、 未成熟者と共通の困難、国家の強制力の前での思考の無力を否定し、他方、彼の現存在の実存的負荷を無視しようとする。しかし、真の自己認識を欠いては、隣人に対する正しい共感も望みえない。それゆえに、カントはついに、 彼の現代また将来の認識を誤ってしまうとされる。”

『ハーマンにおける言葉と身体』p.169川中子

 カントは、ここ二十数年ばかり日本人の口によく上るようになった「自己責任」概念の紛う事なき創発者であり、ハーマンは、そのいかがわしい用法への世界最初の批判者なのである。この概念を正当にも批判する左派が、カントまで射程に収める例は日本では私は見たことがない。バーリンの言うように「彼の洞察しえたことを無視したために、人間は重い代償を支払わねばならなかった」一例と言えよう。

 ハーマンのメタ・クリティーク精神に火をつけたカントの著作のタイトル『啓蒙とは何か』1784は、実は元々は、プロイセンの啓蒙主義雑誌『ベルリン月報』上の論文『婚姻の絆をもはや宗教によって認可しないことは推奨されるべきか』1783の中で筆者のフリードリヒ・ツェルナーが発した問いであった(*²)。 ツェルナー自身は何気なく発したにすぎなかったらしい、啓蒙の本質を巡るこの問いは、モーゼス・メンデルスゾーンとカントという当代屈指の大御所達の反応を引き出し、哲学思想史上の表舞台に輝かしく刻みつけられる事になった。かたや、今や忘れられた結婚の本質に迫る大本の問いに、その世界観の内奥から答える事のできた思想家は、その後の歴史の中で問いと同じ様に見失われていく事になる、ハーマンだけだったのかもしれない。

〜パート5脚注〜

(*¹)ちなみにいえば、カントはキリストの受肉を認めていない。

https://core.ac.uk/download/pdf/227191712.pdf 『カントとヘルダー : 美と摂理をめぐる論争』村上隆夫

(*²)(〈啓蒙とは何か : 『ベルリン月報』誌上の議論を中心 に〉津田保夫)

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/73809/gbkp_2000_d01_001.pdf 

6:ロマン主義以降の性関係「欲望・恋着・結婚」

 その後現れる、カントの余りに味気ない結婚観(『人倫の形而上学』1797)に反抗するF・シュレーゲルらロマン主義者達のリベルタン的恋愛観も、フィヒテ(『自然法の基礎』1796)が切り開きヘーゲル(『法の哲学』1820)によって大成されるドイツ観念論の結婚観も、両者ともが、創造、堕落、救済を見失なっていたーーそこにあるのは自然の本能(後期ロマン派的に「自然への欲望」と言う方がより正確だが、ここでは便宜上区別しない)、個人間の恋着、制度的な承認としての結婚であり、こんにちの我々の性関係観もいまだにこの時代に強固に規定されている。左右保革の差は、あくまでこの枠内での立脚点、強調点の違いにすぎない。そしてこの中に「愛」の入り込む余地は実はどこにもない。彼らが愛の装いで己を偽りたがるとしても、それはオッティーリエの亡骸に聖女じみた装いを施すゲーテのまやかしを越えるものではない。

 彼らをそれぞれ、実存の美感的段階、倫理的段階として『あれか、これか』1843で整理したキルケゴールは、ゲーテが『親和力』1809の中で描いた、倫理的な結婚の足場を瓦解させて行く美感的な恋情の御しがたい威力、救済をもたらす宗教的な愛だけが打ち勝てるその威力に、ベンヤミンよりも早く気付いた(*¹)点でも先鋭的な思想家だった。だが、美感的なものへの対決姿勢を取ったキルケゴールの立脚する実存の宗教的段階における性愛の可能性は、ハーマンとの出会い損ねのせいで閉ざされたまま彼は世を去ってしまう。ゲーテが『親和力』の中にさりげなく埋め込み、ベンヤミンの慧眼にして初めてその重要さを指摘できた作中作のノヴェレ、『隣同士の不思議な子どもたち』に託された宗教的な性愛は、あくまでオッティーリエの美しさを陰影と儚さのエフェクトでもって引き立てる照明装置として利用されているだけであり、作者ゲーテからのみならず批評家ベンヤミンからも、実存的な共感を寄せられる事はない。

 宗教的な性愛の回復の兆しは、ジル・ドゥルーズが指摘するように超人をアリアドネとディオニュソスの夫婦として素描したニーチェ(*²)、そしてニーチェの文学者版たるホーフマンスタール(*³)の成功したとは言い難い試み、また英国におけるD・H・ロレンスの散発的事例の後で、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『創造と堕落』1937(*⁴)を待たなければならない。だが、神学者である彼の著作がこの国で広く読まれる事は今後もないのだろう。

〜パート6脚注〜

(*¹)美は結局の所、個体の可滅性と引き換えに自然から施される死化粧であり、人を命から死へと運ぶものである。対して救いをもたらす愛は死から命へと人を引き上げる。下記の引用は、道ならぬ恋の報いを受ける人身御供を捧げるように幼子を湖で溺死させてしまうオッティーリエと、川に身投げした恋人の蘇生に成功したノヴェレの若者を対照的に描くゲーテーベンヤミンの視点に酷似している。

"詩がジュリエットを死なせるのは素晴らしいことなのだ。~宗教的講演はジュリエットをあくまでも死んだ者として受け止め~、ジュリエットにむかって新しき世の新しき生命に甦れと命ずることによってまさしく奇蹟ぎりぎりのところに肉薄する"

『哲学的断片への結びとしての後書き(中)』キルケゴールp.111

(*²)川中子は「『大地・身体』の意義を唱えた点において、ハーマンはむしろニーチェの先駆となった」と指摘している

『ハーマンにおける言葉と身体』p.231

(*³)ニーチェとホーフマンスタールの通底が今日余り言われないのは、ニーチェの亡骸もまた、大陸哲学と分析哲学という相応しからぬ身許引き受け人達による争奪戦の中で、元の相貌もわからぬ位ひどく損壊されてしまっているからだろう。『この人を見よ』の常軌を逸した内容は人のよく知る所だが、遺作『搭』における、キリストに準えられる主人公ジギスムントの「誰も私のことを知らなかったけれども私が存在したということを証してくれ」という言葉には、よく似た響きがある
https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/records/22259(『ホーフマンスタールの悲劇「塔」に関する一試論』園田尚弘)

(*⁴)『創造と堕落』については、岡野彩子の論文を参照。
http://jare.jp/admin/wp-content/uploads/2017/02/religion-ethics07.pdf
私が見る所、ボンヘッファーの創世記読解はカール・バルトに影響を与え、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールを経て、第二バチカン公会議に影響を与えた「婚姻神秘主義」につながるものである。
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E7%A5%9E%E5%AD%A6-%E6%96%B0%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%B8-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%B9-%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4764273314

おわりに:『WEIRD』から『Remaking the world』へ。ハーマンを見捨てた時代に、ドン・キホーテ左翼とノートン1世保守が戦うおとぎの国日本の性思想

 キリスト教と文明や発展といえば、アーレントと並んで実証的な検証をせずに俗物どもが鵜呑みにしやすいマックス・ウェーバー的な文化プロテスタンティズムの貢献のイメージが、一般にはまだ強いだろう。しかし最近、中世カトリックの婚姻制度が進歩的文明の基礎を築いたのだーーという着眼点を実証データで裏付けていく内容の、社会進化学者ジョセフ・ヘンリックによる『WEIRDウィアード』の邦訳が刊行された。WEIRDは「風変わりな」という意味の単語だが、ヘンリックはその中に西洋の(Western)、教育水準の高い(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義の(Democratic)の意味を込めている。

https://note.com/hakuyo_sha/n/n97801db12744

 一方、こちらは邦訳される見込みは薄かろうが、『WEIRDウィアード』の内容を踏まえた『Remaking the world』の著者アンドリュー・ウィルソンは、WEIRDの5つの特徴に、脱キリスト教ex-Christianity とロマン主義Romanticismを加えた、世俗的な現代社会に至る変革の転換点を1776年に見出している。世界がその後キリスト教なしでやって行く時代精神を形成する決定的な舵取りをする多くの歴史的事件が生じた年であり、今の時代もその流れの中にあるーーとウィルソンは考えているようだ。

 1776年はハーマンの婚姻試論の丁度一年後だが、本論は、ウィルソンが唱える時代の移り変わりの縮図的な一場面をある程度垣間見れる内容になったのではないだろうか?実はウィルソンも、世俗の時代に対抗した世界最初の思想家としてハーマンへの注目を促している。

 婚姻制度を通じて進歩的社会の基礎を作った『WEIRDウィアード』のキリスト教時代も、長きに渡るキリスト教の支配から脱した『Remaking the world』のポストキリスト教時代も、その担い手たちが互いに反目しあうこともあるにせよ、どちらにも目を瞠るべきものがある。前者には文明発展のための極めて稀有な条件を守り通した掛け替えのなさが実際にあり、後者には権威をものともせず新たな世界を切り開いて行く勇敢さが実際にあったのだから。

 しかし、そもそもキリスト教が力をもった事が基本的にないこの日本で、ex-Christianity脱キリスト教化しロマン主義Romanticismに染まる西洋文化を摂取する意義は、西洋人にとってとはまるで異なる。それは今日に至るまで、内実は旧態依然の中でぬくぬくと己を甘やかしながら、自意識上は前衛や刷新者を気取れるという、下らない自己欺瞞者どもを多く生み出して来てしまっている。ハーマンはカントの思想を、ギリシャ神話の老婆バウボの不毛な自慰の披露に準えてもいるが、カントに学ぶ我々は、カント以上にバウボではないだろうか?あるいは、彼やヴォルテールらの啓蒙主義者達ならばまだ実際に存在していた教会権力との緊張関係の中で開拓していった思想を私たち日本人が取り入れる時、それは丁度、物語の中で竜と戦う騎士の姿に憧れて、竜の存在しないこの現実世界で竜を倒す為の旅に出て、竜でないものを竜に見立てて戦いをしかけるドン・キホーテのような、自惚れを満足させる為だけに世を騒がす、はた迷惑でもある人生の無駄遣いではなかろうか?

 誤解しないでもらいたいのだが、私はよく自称保守派(*¹)や自称右翼が言うような、日本には日本に馴染む思想があるので西洋思想の押し付けは御免被り願いたい(*²)、というような事を言っているわけではない。日本には日本なりの旧弊とそれに対する対抗があり、ウィルソンが1776年に境を見出す新西洋人の旧西洋人に対する対抗思想ではその用をなさないーーと言っているのだ。

 キルケゴールは、「人々はキリスト者であることを通り抜けてしまって(だれも彼もすでにキリスト者なのだから)キリスト教的なものにお添えものをつけて口あたりをよくした美的で知的な異教の方へ逆戻りをやっている」『我が著作活動の視点』p92「キリスト教の仮面をかぶって、人は異教の中に生きている」『瞬間』p59と、当時のキリスト教会の欺瞞を糾弾するに最後まで筆を緩めなかった。多くの場合キリスト教徒ではない我々日本人がキルケゴールの精神を引き継ぐとは、例えば自分は彼と違い仏教文化圏の人間なのでキルケゴールの実存主義の仏教版を試みるーーといった気安い事ではないと私は思う。知識人達が実像にまるでそぐわぬ虚像に浸って生きているという点では、「我々が生きている所は、言わば訳のわからない所なのだ」という当時のデンマークに下した彼の診断は現代日本にも十二分以上に通用する。その虚像を粉々に砕く事は、キリスト教信仰を持たぬ我々も共有できる、知的誠実さの要求でもあるだろう。

(終)

(*¹)保守派は保守派で、古代ギリシャと違いアリストテレスの様な強力な経験論的思想家の居なかった古代中国の思想的影響圏にあるこの島国で、バークの真似事をして保守やら伝統やらと言っている。左派革新派が居もしない敵と戦うドン・キホーテなら、こちらは有りもしないレジティマシー(正統性)を主張する僭称皇帝ノートン1世どもである。

(*²)普遍主義的お仕着せを拒むこの思想はハーマンの弟子ヘルダーに端を発する。本論ではヘルダーに余り触れられなかったが、西洋現代世界が脱キリスト教且つロマン主義に特徴づけられるとすれば、それは世界がハーマンではなくヘルダーを相棒として選んでしまった事を意味する。ヘルダーについてはテイラーの研究に詳しい。日本を愛する普通の日本人の皆様も、情けないことに西洋の画期的思想家の出涸らしどもである。

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キリスト教の性愛観(中篇)、性差と堕罪についてーーハーマンを見捨てたこの世界で未だ弔われぬキルケゴールの亡骸ーー|sagtmod
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