「落合莞爾・吉薗周藏手記シリーズ」は、元帥陸軍大将・上原勇作の命による罌粟(けし)の栽培と利用(アヘン)に一生をささげた、“世界最強のスパイ”吉薗周藏が、その過程で得た人脈と、そこから知りえた世界の裏力学、戦前の内外重大事件にまつわる秘史を、落合莞爾氏が京都皇統・國體舎人の助言を得ながら手記の解読を通して明らかにする、世界史上他に類を見ない“珠玉の歴史書”です。
 
それは、これまで巷に流布されてきた陰謀論、オカルト論によるデマ、ねつ造を吹き飛ばし、世界の歴史学の通説を破却せしめ、現代医学薬学までをも覆す驚天動地の内容です。が、その量の膨大さと難解さのため一部の読者を除いて“知る人ぞ知る”の状況を甘受してきました。そこで、数回に分けて「手記シリーズ」のポイントだけを短くまとめ、若干の私見を加えて紹介します。
 
1、モルフィンの純度90%の國體アヘン
 
アヘン末は、厚生労働大臣が定めた医薬品に関する品質規格についての公定書「日本薬局方(にほんやっきょくほう)」で公認された薬物で、それから生成されるモルヒネやヘロインが麻酔薬として全世界の病院で使用されている不可欠な薬剤であるのにもかかわらず、メディアがマイナスイメージを流布するため、一般社会から忌み嫌われているのがアヘンである。
 
アヘンの原料となる罌粟(けし)は園芸用と区別するため「オピアム・ポピー(ソムニフェルム種)」と呼ばれ、❶果実は小さく花が赤いインド罌粟、❷つぼみが大きく花は白か青紫のトルコ系、❸果実が小さく花は白いイラン系、❹果実が大きく楕円形の天山系、❺果実が大きく球形に近い北方系、❻果実が大きく球形ないし卵型の蒙古系がある。
 
なお、「アヘン法」で規制される罌粟にはこれらのほかに❼ソムニフェルム種よりも小ぶりのパパベル・セティゲルム種という北アフリカ産もあり、これはかつて愛知県渥美半島に帰化して大量に繁殖したことから和名を「アツミゲシ」という。
 
罌粟の栽培は規制がある一方で、園芸用には規制がない国家も多数存在しており、米国ではモルヒネ原料となる種を含めて罌粟の栽培も種の販売も自由でネット市場は盛況を呈しており、欧州では英国を始め一面に咲き誇る罌粟畑が風物詩になっている。
 
一方、日本の法制は厳しく、取り扱いにおいて欧米とは格段の違いがあるが、日本の風習に鑑みれば、古くから日常の食用に罌粟の種を使って「松風」と呼ばれるパンやケーキ、焼き菓子や味噌などの土産品、七味唐辛子などに用いられている。
 
東大医学部卒業後、同学部精神科に勤務したのち軍医として応召した経験がある、医師で法学博士の藤井尚治氏は、ハンガリー人のハンス・セリエが唱えたストレス学説の信奉者だが、そんな藤井博士に「アヘンというのはどんな毒ですか」と聞いたら、博士は「わかりきったことをなぜきくのか」とばかりに、事もなげに「いや、とくにないでしょう」と答えた。
 
また、七三一部隊に軍医として所属していた黒沢医師に中毒性について確認したところ、「モルフィンが脳細胞にくっつくので中毒性はあるにはある。しかし、植物を焼いた灰を溶かした上澄みに蜂蜜ないし水飴を混ぜて飲んだら、三日くらいでとれる」とのことである。
 
ところで、アヘンには、❶民間アヘン、❷政体アヘン、❸國體アヘンがあるが、アヘン禁止が法制化されて以来、❶は密造アヘン、❷は法定アヘン、❸は厚生労働省との密約(公正証書)で今日も製造されている“グレーゾーン”アヘンである。
 
我が国が正式に「官営阿片事業(政体アヘン)」を開始した契機は、明治二十八(1895)年の日清講和条約(下関条約)で清国から台湾を割譲されてからである。台湾では風土病マライアの対症療法として住民が盛んにアヘンを用いていた。
 
台湾総督となった児玉源太郎は民生長官に後藤新平を就けたが、後藤はアヘン使用を一気に禁止するのではなく、中毒者に使用を認めながら少しづつ減らしていく漸禁政策をとった。だが、清国からの輸入がなくなり、台湾での罌粟栽培は気候面で無理があったので、日本国内での自給する必要があった。
 
そこで後藤に協力して罌粟栽培の全国的な普及に尽力したのが二反長音蔵(にたんちょうおとぞう)であった。量産品種の一般罌粟を用いた「政体アヘン」だと、モリフィン純度は11%に過ぎないため排便で力んだり、寝起きに力を使うと脳が刺激されて痛覚にスイッチが入り、再び痛みが始まることを周藏は松沢病院でも、陸軍病院でも見てきている。
 
が、音蔵は、実家のある大阪府三島郡福井村で大規模生産に乗り出すとともに品種改良を行い、モルヒネ含有量が30%を越え、既存種の数倍に達する「一貫種」と呼ばれる優良品種を作出した。このアヘンは量産され、その薬効は基本的に外科手術用とマラリア熱の解毒などの対症療法に用いられたほか、鉱山、土木作業などの労務管理用にも用いられた。
 
これに対し、吉薗周藏が参謀総長上原勇作に命令されて、大正元(1912)年から栽培した國體罌粟を用いたのが「國體アヘン」である。國體アヘンのモルフィンの純度は90%に上るうえ中毒にならず、副作用も起こらない。そればかりか心身のストレスを除去して強壮にし、長寿をもたらす効能があるからである。
 
実際、周藏自身の舌癌をはじめとした癌を治した実例が多いが、入手困難な高級品でもあった。が、負傷した軍人の生命を伸ばすことができるため、上原はこれを最重要軍需物資として周藏に作らせたのであった。
 
2、古来より用いられた罌粟
 
ところで、罌粟の原産地は通説では地中海沿岸とされるが実際には不明で、ただ紀元前3400年ころのメソポタミアで栽培していた罌粟から、乳液を採取していたシュメール人のことが当時の楔形文字に刻まれている。
 
古代エジプトでも紀元前1500年ころの「パピルス」には、「泣く子には罌粟のシロップを与えたらいい」と記されており、ギリシャ医学でも麻酔剤として利用されていた。
 
一世紀から十二世紀まで小アジアの特産品であったアヘンは、ブドウ汁、甘草(かんぞう)などの浸出液と調合して喫飲用嗜好品として製造されたが、欧州では476年の西ローマ帝国の滅亡まで盛んに用いられ、さらにアラビア人によりペルシャ、インド、支那にまで広められた。
 
実際、紀元前202年に四面楚歌の中で自刎(じふん)した虞美人(ぐびじん)の墓に生えた罌粟を「ぐびじんそう」と称し、また、六朝の宋から隋にかけて「本草学」の大家であった道士・陶弘景(とうこうけい)が、紀元500年ころ編纂した「本草経集中(ほんぞうきょうしっちゅう)」に、医薬アヘンの記述がある。
 
唐代には罌粟はその花の美しさから観賞用に栽培され(ヒナゲシ、ポピー)、種子は「御米」と称し、粥にして食用に供された。罌粟殻(乾燥果皮)が北宋時代から咳止めに用いられたのは、アヘンの第二成分コデインに鎮咳作用があるからで、元代の朱震亨(しゅしんこう)の著した「本草衍義補遺(ほんぞうえんぎほい)」は、アヘンの主要な薬効を「瀉痢(しゃり=下痢)を止め慢性の咳を治す」と紹介している。
 
漢方の生薬「アヘン末」は、罌粟の未熟果実から採取した乳汁を乾燥して製するが、明代成化十六(1482)年の発行で、支那最古のアヘン製造書とされる「医林類証集要」にも、瀉痢(下痢)止めの薬「阿芙蓉(あふよう)」の処方が記載されるが、のちに「阿片」または「鴉(あ)片」と書かれるようになる。
 
ところで、カレーのルーを作るのにはカレーパウダーが使用されるが、その主成分とされるクルクミンの薬効として、熱帯、亜熱帯地方でのマラリアなどの熱病予防に効能を発揮することが周知であり、実際、インドを始めとした南、東南アジアではカレー味をベースにした料理が多くを占めている。
 
また、発がん率でみても中国人が22%、アメリカ人が25%であるのに対し、インド人は8%、エイズ発症率でいってもサハラ以南のアフリカが4・5%であるのに対しインドは0・1%と他の発展途上国に比べて格段に低くなっている。このカレーパウダーには多種の香辛料が混合しており、その中には罌粟種やアヘンが使われてるといわれている。
 
アフリカ、インドと言えば、欧米が行なったのが「奴隷貿易(三角貿易)」である。古くは主として人力で櫓を漕いで推進する「ガレ―船」の漕ぎ手や、厳しく劣悪な鉱山労働はアヘンなくして成り立つものではないことを、当の欧米人が知悉(ちしつ)しており、飯場の食事には香辛料としてアヘンが混入されていた。
 
なお、國體アヘンに限っていえば、単に健康面だけでなく、安定した精神の保持と知的生産にも利用されたようで、例えば、中世文学の『源氏物語』は、石山寺にこもった紫式部がアヘンを混ぜて香を焚きながら、幻想に浸って書き上げたものと聞いている。
 
また、京都皇統からの仄聞によると、「フィボナッチ数列」と「黄金比率」を用いれば、罌粟から黄金ができるそうだが詳細は未詳である。  
 
一方、日本では古来より罌粟は「千代見草」と呼ばれてきた。また、江戸時代の終わりまで真言密教では白護摩・黒護摩とならんで白罌粟・黒罌粟を用いていたが、諸外国のアヘン事情に配慮してか、明治初年に真言宗総本山から末寺に対し「以後は修法に罌粟を使用しないように」との布告がなされている。
 
天応九(779)年、支那の史書・詩文を学ぶ紀伝道を職掌とする政体官僚になった土師(はじ)姓の三氏(菅原・大江・秋篠)は、その裏で土師部ほんらいのスーパーゼネコンとしての古墳造営のほかに、飯場に寝泊まりして激しい肉体労働にいそしむ土建労働者に、心身の鎮痛剤としてアヘンを供給していた。
 
なお、土師氏集団の頭領は伴造土師部で、アマテラスの第二子「アメノヒホ」の子孫となる天孫として土師臣を称したが、立花、井ノ口、堰本、溝口とならぶ“ウバイド修験サエキ”で、古代日本に罌粟をもたらしたといわれている。
中世に入ってからについては、大阪商工会議所・調査部員だった斎藤敏一郎氏が大手製薬会社からの依頼で安楽寺と極楽寺のネットワークに関して行った調査結果がある。
 
それによると、富山の製薬業者から学んだ秘事として、中世に老人介護事業を全国的に展開した安楽寺は、宗派に無関係の寺院ネットワークで、入所者にアヘンを与えて病苦を癒しながら、最後には「無痛尊厳死」に導いたという。また、極楽寺は、安楽寺で出る死体の臓器から人体生薬を製造し、薬師堂で販売していたそうである。
 
安楽寺ネットワークで用いられたアヘンの原料罌粟の栽培と製剤は、菅原氏の同族が行なったとのことだが、菅原道真を祀る天神社の総元締めは太宰府天満宮であるが、当初は天原山庿院安楽寺と称する寺院であったことは、これらの秘事の信ぴょう性を裏付けるものであろう。
 
一方、古来より日本では、各地の温泉やサナトリウム(新鮮な空気と日光とを利用する療養所)である「湯沐邑(ゆのむら)」に多数の癩(らい)病患者が訪れた。「癩病」にはハンセン病に限らず重度の皮膚病や関節障害、神経障害、さらには伝染病やALS(筋萎縮性側索硬化症)のようなものまで含められた。
 
牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)、玉造温泉、道後温泉、土湯温泉、湯村温泉などの古くから知られた温泉がすべて「湯沐邑」であったことは、各地の歴史を少し掘り下げれば容易に判ることである。
 
3、ハンセン病治療に用いられたアヘン
 
もっとも、癩病治療には高温でなくても清浄な冷泉であれば有効で、その施設を「白水」とか「出水」というが、これらは密かに「弁天」と呼ばれ、比叡山園城寺、南都法輪寺、紀州紀三井寺が“天下の三弁天”とされた。が、「弁天」の本当の意味は「癩病患者介護の元締め」と聞く。
 
「弁天」の宗教上の意味はゾロアスター教の中級神で、信仰の対象としては主神アフラマズダーと副主神の太陽神ミトラ(マイトレーヤ)にも劣らない水神アナヒータ―のことである。道教に入って「観音」になった「弁天」は、ゾロアスター教の後身の摩尼(マニ)教では、東南アジアの海洋民族共通の渡海神として「天妃(てんぴ)」となった。これを仏教では「吉祥天」と称している。
 
摩尼思想を受け継いだ大本教系の「紅卍会(こうまんじかい)」が、無生老祖(彌勒)とともに奉祀する「観音(南海古仏)」も「弁天」で、「媽祖会(マーツーホイ)」も同じである。
 
帝王制社会主義ともいうべき律令制を隋・唐帝国から輸入した日本では、公地公民制が実行できなかったため、これと抱き合わせの社会福祉制度を実行できなかった。そのため、これを肩代わりしたのが私度僧(しどそう…官許を受けずに出家した僧)の行基集団で、これを学者は民衆宗教というが、福祉をもって救済に当たったことから実質は摩尼教と考えられる。
 
そもそも聖徳太子の飛鳥仏教から聖武天皇の天平仏教までの大乗仏教の実質は摩尼思想である。聖武天皇・光明皇后が発願した国分寺は、摩尼教の経典・大雲経を納めるため、唐の則天武后が全国に建立した大雲寺のチェーンに倣ったもので、実質が摩尼教であったことは、願主の皇后が大雲経にちなむ「光明(こうみょう)」を名乗ることからも分かる。
 
摩尼思想の二大支柱は、「戒律」と「社会福祉」で、律令制の内側では鑑真(がんじん)の律宗が戒律によって国分寺ネットワークを支配し、外では行基集団が社会福祉事業を実行した。換言すれば、政体摩尼教が律宗で、國體摩尼教が行基集団だったのである。
 
当時の農業技術の水準では農地開墾力が不足していたので、律令制の柱である公地公民制が実行できず、やむなく墾田私有制を認めて私的荘園が生まれると、“ウバイド系修験サエキ”から出た空海が導入した密教の大寺院が、その領主となって社会は律令制から荘園制に移行する。
 
ところが、密教僧は物質的に恵まれたためたちまち堕落し、これを憂いた西大寺の叡尊(えいそん)が密教に摩尼思想を入れて真言律宗を開き、忍性(にんしょう)がこれを継いだ。
 
朝廷から「菩薩号」を贈られたのは行基、叡尊、忍性、役小角(えんのおずね)、日蓮の五人であるが、このうち行基、叡尊、忍性は明らかに摩尼思想で、役小角も“ウバイド系修験サエキ”の末裔として摩尼思想に立っていたのは明らかであるが、日蓮だけは未だにわからない(←長髄が日蓮宗関係者から聞いたところによると、護良親王が日蓮宗に関わっているからだと言っていた)。
 
なお、ハンセン病については伝染力が弱いなど、今日では誤解が解かれているが、その特徴の一つに知能が高く、思考力に優れるのも症状の一つと言われている。例えば、弘法大師空海など暗所で修業する密教の高僧や、加藤清正や大谷吉継、山本勘助、黒田官兵衛らがおり、竹中半兵衛、伊地知正治らも可能性が高い。
 
安楽寺を中心とした癩病患者療養ネットワークは、ウバイドに由来する日本列島の伝統であって、聖徳太子が請来した摩尼教と、行基が道昭から学んだ法相宗、および鑑真が大雲寺で学んだ律宗、さらに両者が合流した西大寺流律宗がこれを実践してきた。そして、そこで使われたのが罌粟(國體罌粟)であった。
 
江戸時代に入ってからは、紀州藩が本格的な罌粟栽培を始めていたことが、紀州藩の物産書『十寸穂の簿』の海士郡の条に「芥子菜(けしな)」があることで推定される。紀州で罌粟栽培を始めたのは五代藩主で、のちの八代将軍徳川吉宗である。
 
この罌粟事業はその後も継続され、維新後にこれを継続したのは十四代将軍家茂の正室・静寛院宮(和宮親子内親王)であった。
 
支那の三国時代の名医・華佗(かだ)は麻酔剤の「麻沸散(まふつさん)」を使用したが、紀州の医師・華岡青洲(はなおかせいしゅう)は、手術における患者の苦痛を和らげるための麻酔薬の開発に取り組み「麻沸散」を復元、全身麻酔薬「青洲麻沸散(通仙散)」を完成させた。
 
通説は「マンダラゲにトリカブトなど十種の生薬を配合したもので、罌粟は含まれていない」といっているが、神別橘姓の熊野和田氏から出た青洲は、“修験サエキ”伝来の医学的知見により青洲麻沸散の原料は紀州藩が栽培した國體罌粟であることを知っていた。
 
(次回に続く…)
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