私的な体験が「証言」になる時 語ることで与えられる意味 安東量子

有料記事福島季評

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福島季評 安東量子さん

 米国の西海岸ワシントン州にリッチランドという町がある。ここは、第2次世界大戦中の核開発拠点の一つ、ハンフォードサイトで働く人たちが居住するためにつくられた都市として知られている。2018年9月、アメリカ原子力学会が主催する会議に出席するために、私はこの町を訪れた。

 約1週間の滞在中、原子力技術者の自宅にホームステイをした。ホストファミリーは熱心な民主党支持者で、たまたま近くの公園で開かれていた小さな集まりに私を案内してくれた。広い遊歩道に沿って設営されたテント、テーブルには参加者が持ち寄ったらしい色んな料理が見える。めいめいに紙皿に取り分けた料理を食べながら、周りの人たちと会話を交わす、そんなカジュアルな集まりだった。そこで、私は一組のカップルと出会った。

 日系アメリカ人1世と2世だという夫婦は、80歳は超えていたように思う。ずっとこの町に暮らしていたが、この集まりに来るのは初めてだという。日本語はもうあまり話せないと言う彼らに、会議に参加するために私が福島から来ていることを、ホストファミリーが英語で説明した。短い自己紹介の中で、妻の方は、私と同じ広島県出身であることがわかった。

 そこから先、会話は不思議な方向に展開していく。誰が促したわけでもなく、夫婦は身の上話を始めたのだ。それも、初対面の相手に話す内容とは思えない、ずっしりとした話を。

 子どもの頃、夫は米国の西海…

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