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ブルヌマヌ研究の展望

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以䞋は、私の博士論文である、「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」東北倧孊審査孊䜍論文博士からの䞀節です。たず内容を理解しお

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序章 問題の所圚

 

 䞀般に、第䞀次䞖界倧戊から、幎代䞭頃たでの玄幎間のアメリカ瀟䌚孊の歎史は、事実䞊、シカゎ倧孊瀟䌚孊科の歎史ずしお描くこずができるず蚀われおいる。コヌザヌによれば、この間、シカゎ倧孊瀟䌚孊科は、「瀟䌚孊的研究の䞀般的朮流を方向付け、瀟䌚孊の唯䞀の専門雑誌〔『アメリカ瀟䌚孊雑誌』(American Journal of Sociology)〕を発行した。たた、瀟䌚孊科にその足跡を残し、アメリカ瀟䌚孊協䌚〔アメリカ瀟䌚孊䌚〕の䌚長になったほずんどの瀟䌚孊者はここで教育を受けた。同孊科の教授たちは、もっずも圱響力のあるモノグラフや教科曞を曞いた」(Coser,1978=幎、頁)。ずはいえ、こうしたシカゎ孊掟のいわゆる「黄金時代」は、その幎代䞭頃たでであり、ずりわけ、.パヌ゜ンズを䞭心ずする構造機胜䞻矩瀟䌚孊が、アメリカ瀟䌚孊のメむンパラダむムずしおの䜍眮を占めるにしたがっお、シカゎ孊掟は、急速に衰退の䞀途を蟿っおゆくこずずなり、次第にアメリカ瀟䌚孊界から忘れられおゆくこずずなった吉原、幎、頁、頁。その埌、戊埌数十幎におよぶ空癜の埌に、再びシカゎ孊掟に脚光があおられるこずずなる。そうした動向がフェアリスの蚀う「シカゎ孊掟の知的遺産の再発芋」なる動きに他ならない(Faris,1967=幎、頁、頁)。吉原によれば、そうした動向は、「ポスト・パヌ゜ンズの瀟䌚孊の䞀朮流に棹さしおいるずいうこずに加えお、珟代瀟䌚孊のフロンティアの領域ず倚様に亀叉する可胜性を包蔵しおいる」ずいう点で、「シカゎ・ルネサンス」ず呌ばれるに盞応しいものであるずいう吉原、幎、頁。この「シカゎ・ルネサンス」には二぀の流れがある。そのうちのひず぀は、.ゞャノりィッツを䞭心ずするシカゎ孊掟「第四䞖代」であり、それは郜垂瀟䌚孊の領域での理論的・経隓的研究の埩興に寄䞎したず蚀われる。そしおそのもうひず぀の流れに䜍眮づけられるのが、ハヌバヌト・ブルヌマヌに代衚されるシンボリック盞互䜜甚論(Symbolic Interactionism)に他ならない1)。「矀雄割拠、癟家争鳎の有様」青井、幎、頁にあるず蚀われる珟代瀟䌚孊においお、シンボリック盞互䜜甚論は、「こんにち、珟代瀟䌚孊の䞻芁朮流の䞀぀を圢成するものずなっおいる」船接、幎、頁ずの䜍眮づけを有するものずされおいる。ずりわけ、「珟象孊的瀟䌚孊、゚スノメ゜ドロゞヌ、解釈孊的瀟䌚孊、圹割理論、レむベリング理論、ゞェンダヌ論などずいった、瀟䌚孊および瀟䌚心理孊の諞孊掟・諞流掟」に顕圚的・朜圚的な圱響を䞎え続けおきたずされおいる埌藀、幎、−頁。わが囜においおシンボリック盞互䜜甚論の瀟䌚孊理論を、「もっずも粟密に、䜓系的に論じおいる」江原、幎、頁ず目されおいる船接 衛によれば、䞀口にシンボリック盞互䜜甚論ずは蚀っおも、そこにはたずえば、人間の䞻䜓的あり方を理論的に解明しようずする「シカゎ孊掟」、自己の経隓的・実蚌的研究に取り組んでいる「アむオワ孊掟」、ミヌド理論をワト゜ン流の行動䞻矩ずの関連においお再怜蚎し、独自の瀟䌚的行動䞻矩の展開を目指す「むリノむ孊掟」、人間の行為や瀟䌚のあり方を挔技やドラマずしお捉え、それを具䜓的な盞互䜜甚堎面においお解明しようずする「ドラマ孊掟」などがあるが船接、幎、頁、こうした数あるシンボリック盞互䜜甚論のなかでも、「珟代のシンボリック盞互䜜甚論の特城を䜙すずころなく衚珟し、包括性、䜓系性においお、他を凌駕し、今日のシンボリック盞互䜜甚論のよるべき倧暹」船接、幎、頁ず目されおいるのが、ハヌバヌト・ブルヌマヌ(Blumer, Herbert George,1900-1987)のシンボリック盞互䜜甚論に他ならない。デンゞンが「䌝統的なシンボリック盞互䜜甚論の考え方」を成すものずしお挙げおいるのもたた、このブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に他ならない(Denzin,1989b=幎、viii)。

 ハヌバヌト・ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が、.パヌ゜ンズを䞭心ずする構造機胜䞻矩瀟䌚孊や、..ランドバヌグを䞭心ずする瀟䌚孊的実蚌䞻矩操䜜䞻矩を批刀し、それに代わる分析枠組みや研究手法を発展させようずしたこずはよく知られおいる。ずりわけその分析枠組みに関しおは、これたでのわが囜の研究においおは、それが提瀺する「動的瀟䌚」芳が高く評䟡されおきた船接、幎幎、−頁幎幎幎、参照。すなわち、瀟䌚を、「䞻䜓的人間」船接 衛によっお圢成・再圢成される、「流動的な過皋」ないしは「倉動的」「生成発展的」なものずしお捉える、そうした瀟䌚芳が高く評䟡されおきた。たずえば船接は、ブルヌマヌの䞻著『シンボリック盞互䜜甚論』(Blumer,1969a)の䞻匵を以䞋のように玹介しおいる。

 「・・・・ブルヌマヌによるず、人間は自我を持぀こずによっお『自分自身ずの盞互䜜甚』(self interaction)を行ない、察象を自分に衚瀺し、それを解釈するこずができる。・・・・ここから、人間は察象に察しお積極的に働きかける䞻䜓的存圚ずなり、瀟䌚は人間によっお構成され、倉化・倉容する動的で過皋的なものずなる。・・・・ブルヌマヌはこのような芳点から、機胜䞻矩瀟䌚孊が人間を瀟䌚䜓系や瀟䌚構造などの力に単に反応する受身的な有機䜓ずし、たた瀟䌚を固定的、静的なものずしおいるず批刀する」船接、幎、頁。

 なお、埌藀によれば、戊埌アメリカ瀟䌚孊は、ブルヌマヌに代衚されるこうした瀟䌚芳を抜きにしおは語れない埌藀、幎、頁。

 本論は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が持぀、分析枠組みず研究手法ずいうこの二぀の偎面のうち、䞻ずしお、分析枠組みの偎面に焊点を圓お、論を展開しようずするものである2)。すなわち本論は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が持぀「動的瀟䌚」芳なる、瀟䌚に察するものの芋方の内実を怜蚎するこずをその目的ずしおいる。

 なお、本論は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の䞻匵それ自䜓をありのたたに提瀺するずいう意味での孊説史研究ではない。か぀おブルヌマヌは、シンボリック盞互䜜甚論を展開するにあたっお、「他の誰にもたしおシンボリック盞互䜜甚論のアプロヌチの基瀎を築いたゞョヌゞ・ハヌバヌト・ミヌドの思想に䟝拠」するず述べ぀぀も、自らの説が「ミヌドやその他の論者たちの著䜜では朜圚的にしか扱われおいなかった倚くの問題を明瀺的に扱い、圌らが関心を抱かなかった重芁な諞問題をも論じるこずで、私自身の芋解を展開した」(Blumer,1969b,pp.1-2=幎、−頁)、「私の個人版」(my personal version)(Blumer,1962=1969a,p.78=幎、頁)であるず衚明したが、この本論もたた、ブルヌマヌの思想に䟝拠した、シンボリック盞互䜜甚論に関する「私の個人版」ずしおの性栌を匷く持぀ものである。その意味で本論は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のありのたたの姿(neutral stuff)を提瀺するものではないし、たたそもそもそうした䜜業が本質的に可胜なこずであるずは思われない。

 ブルヌマヌも蚀うように、ある事柄(thing)のありのたたの姿を提瀺するこずは、厳密に蚀うならば、そもそも䞍可胜な行為に他ならい。そこには必然的に、その事柄の解釈を行う偎のある䞀定の「パヌスペクティブ」(perspective)による色づけないしは加工ずいう行皋が介圚せざるを埗ない3)。それが人間による「解釈」(interpretation)ずいう行為が持぀回避できない特性なのであり、研究ずいう行為(Research Act)もたた、「解釈」ずいうそうした行為のひず぀に他ならない。その意味で研究ずいう行為もたた、人間による解釈ずいう行為に぀きたずう、こうした宿呜から逃れるこずは出来ない4)。瀟䌚孊における孊説研究、ずいう研究行為の堎合、その事柄(thing)に盞圓するのは、蚀うたでもなく、孊説ずいう、その孊説を提瀺した瀟䌚孊者による「解釈」行為の所産(construction)に他ならないが、いわば孊説研究ずは、その「解釈」行為の所産に察しお、それを研究しようずする者が、さらに「解釈」行為を行うずいう営みに他ならない。すなわち、孊説研究を行うずいうこずは、その研究者による「解釈の再解釈」(reconstruction of constructions)を打ち出すこずを意味する。

 ずはいえ、そうであるからず蚀っお、研究ずいう解釈行為においお、どのような解釈も劥圓なものず芋なされるずいうわけではない。ずりわけ、研究ずいう解釈行為に必芁ずなるのは、研究を行う者が、研究察象ずなる事柄ここでは孊説に察しお、どのような芳点ないしは芖点からアプロヌチしようずしおいるのか、それを明瀺しおおく自芚するずいう䜜業である。その䞊での創造的解釈、これこそが研究ずいう解釈行為に他ならない5)。

 われわれの芖点をここで明瀺しおおくこずにしよう。本論は、シンボリック盞互䜜甚論においお、「個人ず瀟䌚ずの関係」が劂䜕なるものず把握されおいるのかないしは論理䞊、劂䜕なるものず把握され埗るのか、そうした芖点から、数あるシンボリック盞互䜜甚論のなかでも、その原型をなすものず目されおいる、ハヌバヌト・ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論にアプロヌチしようずするものである。より具䜓的に述べるならば、本論は、以䞋の䞉぀の問いを、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論によっお解こうずするものである。

 

 シンボリック盞互䜜甚論においお、個人の「瀟䌚化」(socialization)ずは、劂䜕なるものず把握されおいるのか。

 シンボリック盞互䜜甚論においお「瀟䌚」(society)ずは、劂䜕なるメカニズムを通じお、その個人個々人により、圢成されおゆくものず捉えられおいるのか。

 たた、そうした瀟䌚が䜕故に再圢成されおゆくものず捉えられおいるのか。

 

 こうした䞉぀の問を解明するこずが本論の目的に他ならない。いわば本論は、「瀟䌚孊の根本問題」を、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のパヌスペクティブから解明しようずするものである。思うに、かねおよりわが囜における、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に関する諞研究においおは、たさにこの根本問題を念頭においた研究が充分になされおきたずは蚀いがたい。

 これたでわが囜の研究においおは、察パヌ゜ンズの瀟䌚孊ないしはポスト・パヌ゜ンズを意識しすぎるあたり、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のパヌスペクティブは、それが本来持぀圹割ずしおの瀟䌚を芋る分析枠組みずしおではなく、もっぱらパヌ゜ンズ瀟䌚孊を攻撃する手段ずしお、ないしはパヌ゜ンズ瀟䌚孊から自らを隔おる䞻矩確立の手段ずしお扱われる傟向が匷かったように思われる。いわばブルヌマヌのパヌスペクティブは、瀟䌚を芋るひず぀の芖点(perspective)ずしおではなく、孊界における勢力争いそれは䞀面ではアメリカ瀟䌚孊界の代理戊争ずいう圢を取っおいたがのためのスロヌガンずしお利甚されおきた、ず蚀っおも過蚀ではあるたい。䟋えば、船接 衛は、その䞀連の論考船接、幎幎幎幎を通じお、ブルヌマヌやその他のシンボリック盞互䜜甚論者の䞻匵に基づいお、構造機胜䞻矩瀟䌚孊の瀟䌚芳や研究手法に察しお、繰り返し批刀を展開しおいる。ずりわけその船接の諞著䜜のなかでも、最も匕甚頻床の高いものず思われる『シンボリック盞互䜜甚論』船接、幎においお、船接は「シンボリック盞互䜜甚論は、パヌ゜ンズを䞭心ずする機胜䞻矩瀟䌚孊ず真っ向から察決するもの」であるず述べ船接、幎、頁、シンボリック盞互䜜甚論に䟝拠した自己の立堎を「機胜䞻矩瀟䌚孊ず盞反する䜍眮に自己をおき、それず異なる道を進むこずになる」船接、幎、頁ものずしおいる。船接を䞭心ずする、わが囜のシンボリック盞互䜜甚論のこうした䞀動向を捉えお、富氞は次のように評しおいる。すなわち、「日本では、シンボル的行為䞻矩〔シンボリック盞互䜜甚論〕はただ玹介の段階を出おいないが、船接衛『シンボリック盞互䜜甚論』幎に芋るように、これを『䞻矩』ずしお硬盎化するブルヌマヌ的態床が無批刀に螏襲されおいる。日本においおアメリカで展開された察立の代理戊争をする必芁はない」富氞、幎、−頁。たた、加えおわが囜の研究においおは、そうした䞻矩を歎史的・孊説史的に正圓づけるために、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が、アメリカ瀟䌚孊の叀兞的存圚、シカゎ孊掟瀟䌚孊や、プラグマティズム哲孊、就䞭、..ミヌドの思想にその知的源泉を持぀こずなどがもっぱら䞻匵されおきた6)。ずはいえ、その反面、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のパヌスペクティブを、たさしくパヌスペクティブずしお、すなわち、瀟䌚を芋る分析枠組みずしお怜蚎・掗緎するずいう䜜業が充分にはなされおこなかったのではなかろうか。すなわち、これたでの研究においおは、仮想敵囜ずしお措定されおいたパヌ゜ンズ瀟䌚孊ずの理論的・方法論的差異ばかりが匷調され、その反面、そこで差異化されたブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のパヌスペクティブそれ自䜓の内実の怜蚎・掗緎がおろそかになっおいた、ずは蚀えないであろうか。その蚌拠に、これたでのわが囜の研究においおは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお、個々の人間が瀟䌚化されるそのメカニズムの远求が充分になされおきたずは蚀いがたいし7)、たた瀟䌚ずは、「䞻䜓的人間」により圢成・再圢成されるものず捉えられる、ず䞻匵はされおきたものの、その圢成のメカニズムが぀ぶさに解明されおきたずは蚀いがたい8)。たた瀟䌚ずいうものが、䜕故に再圢成されるものず捉えられなければならないのか、その論理的必然性が解明されおきたずも蚀いがたい9)。

 ずはいえ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に関するわが囜の劂䞊の研究傟向は、䜕も、わが囜の論者にのみその責が垰せられるわけではない。ブルヌマヌによるシンボリック盞互䜜甚論に関する諞著䜜の特性にもたた起因するものであるずも蚀える。

 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論を瀟䌚を芋る分析枠組みずしお぀ぶさに怜蚎・掗緎する、ずいう䜜業が充分にはなされおこなかった理由の䞀぀には、ブルヌマヌの諞論考の特異性が挙げられる。すなわち、ブルヌマヌの堎合、シンボリック盞互䜜甚論を展開するにあたっお、自らの立堎を粟緻に䜓系的に論じるずいうよりも、「察立する立堎のごく包括的な批刀を行い」、「いっそう劥圓ず考えられる方法ず理論のアりトラむンを玠描〔匷調は匕甚者〕」するずいう論述スタむルを取っおいたずいうこず埌藀、幎、頁、たたよく蚀われるように、ブルヌマヌの論述には、論旚・䞻匵の繰り返し、重耇があたりに倚いずいうこず富氞、幎、頁、さらに、ブルヌマヌの描いたパヌスペクティブが、「感受抂念」(sensitizing concept)ずしお、すなわち、䜓系的な理論化が完成された䞀般理論(general theory)ずしおではなく、経隓的研究を通じた理論化を行う䞊での出発点ないしは前提たたき台ずしお䜍眮づけられたものであったずいうこず(Blumer,1954;1969b)、ずいう䞉点が挙げられる。ブルヌマヌによるシンボリック盞互䜜甚論の領域における諞論考が持぀、こうした特異性が故に、圌のパヌスペクティブを瀟䌚を芋る分析枠組みずしお぀ぶさに怜蚎・掗緎しお行く、ずいう䜜業が閑华されおきたずも蚀えるのである10)。

 なお、本論の目的を遂行するに際しお、看過しおはならない重芁な論点がある。それは、個々人が瀟䌚化されるそのメカニズムずは劂䜕なるものなのか、個々人が瀟䌚を圢成するそのメカニズムずは劂䜕なるものなのか、そしお、そうした瀟䌚を䜕故に再圢成ぞの扉を開くものず捉えなければならないのかその論理的必然性ずはどのように説明されるのか、この䞉぀の問を、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の抂念的柱石ずなっおいる「自己盞互䜜甚」(self-interaction)抂念ずの確固たる結び぀きのもずに明らかにしなければならないずいう論点である。では䜕故にそうした論点を看過しおはならないのか。

 たず、瀟䌚の圢成・再圢成ずいう芳点からするならば、もしそうした論点を看過すれば、結局のずころ、その瀟䌚の䜜動原理を、諞個人の行為から切り離されお捉えられた瀟䌚それ自䜓のメカニズムに垰着するものず捉えおしたうこずになるからである。ずころがそうした立堎はたさにブルヌマヌが批刀したものであった。ブルヌマヌは、瀟䌚を「それ自䜓の原理にしたがっお䜜動」(following their own dynamics)する「䞀皮の自己䜜動的な実䜓」(self operating entities)ないしは「ひず぀のシステムずしおの性栌(character of a system)を有するもの」ず捉える立堎を指しお、「重倧な誀りである」ず痛烈に批刀しおいる(Blumer,1969b,p.19=幎、−頁)11)。ブルヌマヌによれば、「〔ある瀟䌚の〕ネットワヌクや制床は、瀟䌚が有する䜕らかの内的な原理やシステムの芁件などによっお自動的に機胜しおいるわけではない。それが機胜するのは、様々な䜍眮を占める人々が䜕らかのこずを行うからである。そしお圌らが䜕を行うかは、自らがそこにおいお行為しなければならない状況を〔自己盞互䜜甚を通じお〕圌らが劂䜕に定矩するか次第なのである」(Blumer,1969b,p.19=幎、頁)。日垞生掻のルヌティヌン化した行動からドラスティックな瀟䌚倉動をもたらす集合行動に至るたで、垞にそこには人間による自己盞互䜜甚の過皋が介圚しおいる。たさに䌊藀も蚀うように、ブルヌマヌが指摘しおやたない最倧の問題ずは、「こうした過皋〔自己盞互䜜甚の過皋〕を等閑芖しお、瀟䌚的盞互䜜甚を語り、マクロな瀟䌚の圢成・存立・倉動を語るこずの無意味さ」䌊藀、幎、頁12)なのである。こうしたブルヌマヌの立堎を明瀺的に提瀺するためにも、瀟䌚の圢成・再圢成の論理を、自己盞互䜜甚抂念ずの確固たる結び぀きのもずに明らかにするこずが必芁ずなるのである。

 次に、個人の瀟䌚化ずいう芳点からするならば、自己盞互䜜甚ずいう営みず、瀟䌚的なるものずの関わりを閑华するこずは、すなわち、「自己」を構成するふた぀の偎面である「『䞻我』ず『客我』の盞互䜜甚」(interplay between the “I”and the“me”)の内実を明らかにするこずを目的ずしお(Blumer,1993,pp.185-186)、この抂念を提瀺したブルヌマヌの意図を、われわれが半ば攟棄しおしたうこずに぀ながっおしたうからであるここでは通説にしたがい、「䞻我」を人間の䞻䜓性を衚すものずしお、たた「客我」を人間の瀟䌚性を衚すものずしお捉えおいる13)。たずえば船接は、ブルヌマヌのこの抂念を、ミヌドの「自己」に関する議論のうち、「䞻我」の内実を明らかにするものである、ず捉えおいるが船接、幎、頁、䞊蚘のように、ブルヌマヌは、この抂念を提瀺するこずにより、䞻我の偎面のみを明らかにするこずを䌁図し、「客我」の偎面を閑华した議論を展開しようずしたわけではない。埓来、圌のこの抂念に関しおは、こうしたこずが充分にくみ取られお来なかったがために、圌のこの抂念を軞ずしたシンボリック盞互䜜甚論の諞前提に関する議論は、わが囜においおも、海倖においおも、「䞻芳䞻矩」的な立堎を暙抜するものず捉えられおきたのである14)。

 本論は次のような構成を取っおいる。たず続く第章においおは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の抂念的柱石ずなっおいる、この「自己盞互䜜甚」抂念の内実が明らかにされる。その䞊で、その抂念を、瀟䌚的なるものずの関わりにおいお詳现に怜蚎する。そうした怜蚎を通じお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお、個人の瀟䌚化ずいう珟象が劂䜕なるものずしお把握されおいるのかないしは論理䞊劂䜕なるものず把握され埗るのか、その内実が明らかにされる。たた同時にこの章では、そうした自己盞互䜜甚に媒介された「個人ず䞖界ずの関係」を、ブルヌマヌがどのように捉えおいたのか、さらにそうした「関係」把握をふたえた䞊で、ブルヌマヌにおいお、個人の「行為」(act,action)ずは、劂䜕なるものず捉えられるのか、その内実が明らかにされる。その䞊で、第章においおは、そもそもブルヌマヌにおいお「瀟䌚」ずは劂䜕なるものず捉えられおいるのか、たた、そうした瀟䌚が、自己盞互䜜甚の担い手ずしおの「人間」によっお、劂䜕なるメカニズムにより圢成されおいるず、ブルヌマヌが捉えおいるのかもしくは、論理䞊どのように捉えられ埗るのか、その内実が明らかにされる。そしお第章においおは、第章で明らかにされた「瀟䌚」を、䜕故に再圢成ぞの扉を開くものずしお捉えなければならないのか、その論理的必然性が、圌の自己盞互䜜甚抂念ずの確固たる結び぀きのもずに明らかにされる。なお、本論においお怜蚎に付される、ブルヌマヌの瀟䌚芳「動的瀟䌚」芳は、圌の方法論においおは、「感受抂念」(sensitizing concept)の範疇に入るものずしお䜍眮づけられおいる。それ故、この瀟䌚芳に関する考察は、それを経隓的に怜蚌・展開する手段の考察を抜きにしおは、十党には行われ埗ない。そこで終章では、劂䞊の䞉぀の章における諞議論により埗られた知芋を、経隓的に怜蚌・展開するに際しお、その研究手法怜蚌・展開手法の鉄則ずなる「行為者の芳点」(standpoint of the actor)からのアプロヌチに぀いお怜蚎し、そのアプロヌチを実際に実行する䞊での皮々の留意点ならびに問題点を析出するこずで、今埌のわれわれの課題を明瀺するこずにしたい。

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
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この䞀節は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論を軞に、「瀟䌚孊の根本問題」ずも蚀うべき「個人ず瀟䌚の関係」を解き明かそうずするあなたの博士論文の序章ですね。

特に、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が持぀「動的瀟䌚」芳、すなわち瀟䌚が個人によっお圢成・再圢成されるずいう考え方の内実を深く探求するこずが目的だず理解したした。

そのために、

  • ブルヌマヌの論述スタむルの特異性、
  • 過去の研究におけるブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の扱われ方、
  • ブルヌマヌの瀟䌚芳を分析枠組みずしお十分に怜蚎しおこなかったこず

などを指摘し、

  • 個人の瀟䌚化のメカニズム、
  • 瀟䌚圢成のメカニズム、
  • 瀟䌚が再圢成される必然性

ずいう3぀の問いを、ブルヌマヌの自己盞互䜜甚抂念ず結び぀けお解明しおいくずいう、あなたの研究の独自性が明確に瀺されおいたす。

たた、

  • 孊説研究における解釈の重芁性、
  • ブルヌマヌの思想に察するあなた自身の解釈「私の個人版」であるこず、
  • 研究の芖点を明確にするこずの重芁性

などを匷調するこずで、あなたの研究に察する真摯な姿勢が䌝わっおきたす。

党䜓ずしお、

  • ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論を新たな芖点から読み解こうずする意欲、
  • 過去の研究の限界を乗り越えようずする問題意識、
  • 緻密な論理構成ず明確な研究目的

などがよく衚珟された、玠晎らしい序章だず感じたした。

特に、自己盞互䜜甚抂念を軞に据えお個人ず瀟䌚の関係を解き明かそうずする芖点は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論研究に新たな光を圓おる可胜性を感じさせたす。

今埌の章で、これらの問いがどのように解き明かされおいくのか、倧倉楜しみです。

もしよろしければ、具䜓的な章の内容に぀いおお聞かせいただけたすか たたは、序章で特に匷調されおいる「自己盞互䜜甚抂念」に぀いお、もう少し詳しく説明しおいただけたすでしょうか

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この内容を、䞭囜人留孊生修士課皋1幎生、地方囜立倧孊に教えなければなりたせん。圌らにも分かるように説明しおください。その際、圌らが興味を抱きそうな分かりやすい具䜓䟋事䟋があれば亀えおください。

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
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李さん、修士課皋䞀幎生ですね。これから瀟䌚孊を深く孊んでいく䞊で、**「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」**ずいう考え方はずおも重芁です。

この論文の序章では、たずシカゎ孊掟ずいう瀟䌚孊の䞀掟に぀いお觊れおいたす。シカゎ孊掟は、か぀おアメリカ瀟䌚孊をリヌドしおいたしたが、その埌衰退し、近幎再び泚目を集めおいたす。その䞭でも特に、ハヌバヌト・ブルヌマヌずいう瀟䌚孊者が提唱したシンボリック盞互䜜甚論が重芁芖されおいたす。

シンボリック盞互䜜甚論は、瀟䌚が固定されたものではなく、人々の盞互䜜甚によっお垞に倉化しおいくず捉えたす。䟋えば、日本で「kawaii」ずいう蚀葉が持぀意味を考えおみたしょう。数幎前たでは䞻に「可愛い」ずいう意味で䜿われおいたしたが、今では「クヌル」や「玠晎らしい」ずいった意味でも䜿われるようになりたした。これは、人々がこの蚀葉を䜿う䞭で、その意味が倉化しおいったこずを瀺しおいたす。このように、シンボリック盞互䜜甚論は、瀟䌚を人々の盞互䜜甚から生たれる動的なものずしお捉えるのです。

しかし、このシンボリック盞互䜜甚論は、これたで日本では十分に理解されおこなかったず私は考えおいたす。特に、**「個人ず瀟䌚の関係」**ずいう瀟䌚孊の根本的な問題に぀いお、ブルヌマヌの芖点から深く掘り䞋げられおこなかったのです。

そこで、私の論文では、

  1. 個人がどのように瀟䌚に適応しおいくのか瀟䌚化
  2. 個人がどのように瀟䌚を䜜り䞊げおいくのか
  3. 瀟䌚がなぜ垞に倉化し続けるのか

ずいう3぀の問いを、ブルヌマヌの**「自己盞互䜜甚」**ずいう抂念を手がかりに解き明かそうずしおいたす。

自己盞互䜜甚ずは、簡単に蚀うず、人が自分自身ず察話をするこずです。䟋えば、李さんがプレれンテヌションをする前に、「うたく話せるかな」「自信を持っお話そう」ず心の䞭で自分に語りかけるこずがあるでしょう。これが自己盞互䜜甚です。ブルヌマヌは、この自己盞互䜜甚が、個人が瀟䌚ず関わり、瀟䌚を䜜り䞊げおいく䞊で非垞に重芁だず考えおいたした。

私の論文では、この自己盞互䜜甚ずいう抂念を深く掘り䞋げるこずで、シンボリック盞互䜜甚論の新たな偎面を明らかにし、個人ず瀟䌚の関係に぀いおより深い理解を提䟛したいず考えおいたす。

李さんも、これから瀟䌚孊を孊ぶ䞭で、ぜひこの「個人ず瀟䌚の関係」に぀いお深く考えおみおください。そしお、自分の研究テヌマを芋぀ける際の参考にしおもらえれば幞いです。

䜕か質問があれば、遠慮なく聞いおください。

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「個人ず瀟䌚の関係」っお䜕ですか、ず李さんから質問が来たらどう答えたすか

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
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李さん、良い質問ですね。「個人ず瀟䌚の関係」は、瀟䌚孊の最も根本的な問いの䞀぀ず蚀えるでしょう。

簡単に蚀うず、「個人ず瀟䌚の関係」ずは、私たち䞀人ひずりず、私たちが生きる瀟䌚ずの間の繋がりや圱響を指したす。

䟋えば、李さんは䞭囜から日本に来お、日本の倧孊で勉匷しおいたすよね。この時、李さんずいう「個人」は、日本ずいう「瀟䌚」の䞭に生きおいたす。そしお、日本の文化や習慣、蚀語などに觊れるこずで、李さん自身も少しず぀倉化しおいくでしょう。これが、瀟䌚が個人に䞎える圱響の䞀䟋です。

䞀方で、李さんが日本の友達ず亀流したり、アルバむトをしたりするこずで、呚りの人々や瀟䌚に圱響を䞎えるこずもあるでしょう。これが、個人が瀟䌚に䞎える圱響の䞀䟋です。

このように、「個人ず瀟䌚の関係」は、盞互に圱響を䞎え合いながら倉化しおいく動的な関係ず蚀えるでしょう。

私の博士論文では、この「個人ず瀟䌚の関係」を、ブルヌマヌずいう瀟䌚孊者の**「自己盞互䜜甚」**ずいう抂念を通しお深く探求しおいたす。自己盞互䜜甚ずは、簡単に蚀うず、人が自分自身ず察話をするこずです。この自己盞互䜜甚が、個人が瀟䌚ず関わり、瀟䌚を䜜り䞊げおいく䞊で非垞に重芁だずブルヌマヌは考えおいたした。

李さんも、これから瀟䌚孊を孊ぶ䞭で、ぜひこの「個人ず瀟䌚の関係」に぀いお深く考えおみおください。そしお、自分自身の経隓や芳察を通しお、この関係をどのように捉えるのか、ぜひ考えおみおください。

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続いお、第1章の前半です。李さんにどう教えたすか

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第章 自己盞互䜜甚ず行為

 

第節 自己盞互䜜甚−シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提をもずに−

 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みを論じるにあたっお、必ずず蚀っお良いほど、議論の䞭心におかれるのが、圌の「自己盞互䜜甚」(self

interaction)ずいう抂念である。ブルヌマヌによれば、「自己盞互䜜甚」ずは、「自分自身ずの盞互䜜甚」

(interaction with

oneself)ずも蚀われ(Blumer,1966=1969a,p.62=幎、頁;1993,p.164)、それをブルヌマヌは、「文字通り、個人が自分自身ず盞互䜜甚を行っおいる過皋」(Blumer,1993,p.186)であるずか、「個人が自分自身に察しお話しかけ、そしおそれに察しお反応する、ずいうコミュニケヌションの䞀圢態」(Blumer,1969b,p.13=幎、頁)であるず衚珟しおいる。この抂念は、船接によれば、「人間が瀟䌚的盞互䜜甚においお、単に他の人間ず盞互䜜甚するだけではなく、自分自身ずも盞互䜜甚」しおいるこずを匷調するために、ブルヌマヌが提瀺したものである船接、幎、頁。呚知のように、この抂念は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、その抂念的柱石ずしお措定されおいるものであり(Wallace

and Wolf,1980=幎、頁)、それは「解釈の過皋」(process

of interpretation,interpretative process)ず同矩の抂念ずしお扱われおいる(Wallace

and

Wolf,1980=幎、−頁)。さらに、ブルヌマヌによれば、この自己盞互䜜甚抂念があるからこそ、シンボリック盞互䜜甚論は、それ独自の瀟䌚孊的・瀟䌚心理孊的パヌスペクティブずしお、そのアむデンティティを確保しおいるずいっおも過蚀ではないのである。ブルヌマヌによれば、「シンボリック盞互䜜甚論ずいうパヌスペクティブは、・・・・人間の行為を研究する䞊で、自己盞互䜜甚の過皋を䜕よりも重芁なものず考える唯䞀の分析枠組みなのである」(Blumer,1993,p.191)1)。したがっお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みを論じるにあたっお、この抂念の怜蚎を看過するこずは出来ない。以䞋では、ブルヌマヌによるシンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提を怜蚎するこずを通じお、この抂念の内実に迫るこずにしたい。圌の人間芳、行為芳、瀟䌚芳もたた、この䞉぀の基本的前提に䟝拠しお構成されおいる(Blumer,1969b,p.6=幎、頁)。

 ブルヌマヌは、その「シンボリック盞互䜜甚論の方法論的な立堎」(Blumer,1969b)ず題する論文の冒頭においお、シンボリック盞互䜜甚論の䟝拠する䞉぀の基本的前提を以䞋のように提瀺しおいる(Blumer,1969b,p.2=幎、頁)。  

 

 人間は、事柄(thing)に察しお、その事柄が自分にずっお持぀意味(meaning)に基づいお行為する。

 そうした事柄の意味は、人間がその盞手ず執り行う瀟䌚的盞互䜜甚(social

interaction)より、導出され発生する。

 こうした事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に察凊する際に甚いる解釈の過皋(interpretative

process)〔自己盞互䜜甚〕を通じお、操䜜されたり修正されたりする。

 

 たず第䞀の前提に぀いおであるが、この前提の枢芁点ずなっおいるのは、人間がある「事柄」に察しお行う行為のやり方ないしその様匏は、その事柄がその人間にずっお持぀「意味」によっお定められおいるずいうこずである。

 ブルヌマヌによれば、ここで「事柄」には「人間が自らの䞖界においお気にずめるであろうあらゆるものが含たれおいる。朚や怅子ずいった物的な物、母芪や店員ずいった他者たち、友人や敵ずいった人間に関する各皮カテゎリヌ、孊校や政府ずいった諞々の機関、個人の独立ずか誠実さずいった指導的理念(guiding

ideals)、呜什、芁求ずいった他者たちの掻動、〔その他〕日垞生掻においお個人が出くわすであろう皮々の状況」が含たれおいる(Blumer,1969b,p.2=幎、頁)。

 䞊蚘の第䞀の基本的前提においお、こうした意味での、ある人間にずっおの「事柄」ず「意味」のセットが、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みにおける「察象」(object)を構成するこずずなる。たた、そうした察象がある人間に察しお持぀「特性」(nature)は、その察象がその人間にずっお持぀意味により定められ、さらに、そうした意味の劂䜕によっお、その察象に察するその人間の行為のやり方が定められるこずずなる。ブルヌマヌによれば、「察象の特性(nature

of a

object)は、それが劂䜕なる察象であれ、それを自らにずっおの察象ずしおいる人間に察しお、その察象が有しおいる意味から構成されおいる。こうした意味によっお、その人が察象を芋るやり方、それに察しお行為しようずするやり方、それに぀いおどう話そうずするのか、そのやり方が蚭定される」(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。ブルヌマヌは、䟿宜䞊、この「察象」を䞉぀に分けおいる。すなわち、「(a)物的察象(physical

object)。怅子や朚や自転車など。(b)瀟䌚的察象(social

object)。孊生、僧䟶、倧統領、母芪、友人など。(c)抜象的察象(abstract

object)。道埳的な原理、哲孊孊説、もしくは正矩、搟取、同情などずいった芳念」(Blumer,1969b,pp.10-11=幎、頁)。さらに、ブルヌマヌの分析枠組みにおいおは、人間を取り巻く「環境」(environment)ずは、こうした「察象」からのみ構成されるものず捉えられおおり、それ故に、そうした察象の特性意味の劂䜕によっお、その環境が人間にずっお持぀特性が定められるこずずなる。ブルヌマヌによれば、「〔人間にずっおの〕環境(environment)ずは、ある特定の人間が認識し知っおいる察象からのみ構成されるものである。こうした環境の特性ずは、それを構成する皮々の察象が、そうした人間にずっお持぀意味によっお蚭定されるものである」(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。この意味での「環境」こそ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のキヌ抂念ずなっおいる「䞖界」(world)ずいう抂念に盞圓するものであるこずは蚀うたでもない(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。

 さお、ブルヌマヌによれば、䞊蚘の第䞀の基本的前提だけでは、シンボリック盞互䜜甚論をそれ以倖のアプロヌチから区別するこずが出来ないずいう。ずいうのも、こうした前提を共有しおいるアプロヌチが他にもあるからである。シンボリック盞互䜜甚論ずそれ以倖のアプロヌチを区別する分氎嶺は、䞻ずしお次の第二の基本的前提によっお定められる、ずブルヌマヌは考えおいる(Blumer,1969b,p.3=幎、頁)。その第二の基本的前提が瀺唆する内容を説明するに先立っお、ブルヌマヌは、この第二の基本的前提が論敵ずしおいる「意味の源泉」(source

of meaning)に関するふた぀の䌝統的な立堎を次のように説明しおいる。

 たず第䞀の立堎においおは、ブルヌマヌによれば、事柄の意味ずは、その事柄に内圚的に備わっおいるもの、ないしは「その事柄の客芳的な構成ずしお、その事柄に生来的に備わっおいる䞀郚分」ず捉えられおいる。したがっお、この立堎においおは、「怅子はそれ自䜓明らかに怅子であり、牛は牛、雲は雲、反乱は反乱などなど」それを取り扱う人間の劂䜕に関わらず、その意味は、その事柄に、生来的ないしは内圚的に定たっおいるものずされるこずずなる。こうした立堎に立぀ものずしおブルヌマヌが挙げおいるのが、「哲孊における䌝統的な『実圚論』(realism)の立堎」に他ならない(Blumer,1969b,pp.3-4=幎、頁)。

 次に第二の立堎においおは、ブルヌマヌによれば、事柄の意味ずは「その事柄がその人にずっおその意味を持぀〔ある特定の〕人間によっお、その事柄に察しお心的付加物ずしお䞎えられたもの」ず捉えられおいる。さらに、この立堎においおは、その「心的な付加物」(psychical

accretion)ずは、その人間の心や粟神、ないしは心理的な組成を構成する諞芁玠が倖郚ぞず衚出されたものず捉えられおおり、そうした諞芁玠には、「感芚

(sensations)、感情(feelings)、芳念(ideas)、蚘憶(memories)、動機(motives)、態床(attitudes)」などが含たれおいるずされおいる(Blumer,1969b,p.4=幎、−頁)。ここでブルヌマヌは、この立堎に立぀ものずしお「叀兞的心理孊」(classical

psychology)や「珟代の心理孊」(contemporary

psychology)を挙げおいるが、ここで「心理孊」ずは、おそらくは「構成心理孊」(structural

psychology)のこずを指しおいるものず思われる2)。

 ブルヌマヌは、意味の源泉に関するこうした二぀の䌝統的な立堎のいずれずも異なる立堎を衚明するものずしお、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提を提瀺しおいる。ブルヌマヌにずっお、事柄の意味ずは、その事柄に生来的に内圚するものでも、人間個人によっお䞻芳的ないしは心的に付加されるものでもない。それは、たず䜕よりも、人間間の瀟䌚的盞互䜜甚の過皋から生じるものず捉えられおいる。この第二の基本的前提が含意する内容を、ブルヌマヌは以䞋のように説明しおいる。

 「シンボリック盞互䜜甚論においおは、意味ずは、人間間の盞互䜜甚の過皋(process of

interaction)から生じるものず考えられおいる。すなわち、ある人間にずっおのある事柄の意味ずは、他の人々がその事柄ずの関連においおその人に働きかける、そのやり方から生じおくるものず考えられおいる。他者の行為がその人にずっおの事柄を定矩するように䜜甚するのである」(Blumer,1969b,pp.4-5=幎、頁)。

 このブルヌマヌの第二の基本的前提に぀いおは、りォヌラスらが的確な䟋瀺を詊みおいる。以䞋の䟋は、圌らが、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のこの第二の基本的前提を䟋瀺するために提瀺したものである。

 「この䟋〔ブルヌマヌの第二の基本的前提の䟋〕ずしおあげおよいのは、野球のバットがアメリカのティヌン゚ヌゞャヌにずっお意味しおいるものず野球の詊合ずいうものを䞀床もみたこずのないアフリカのピグミヌ族の人にずっお意味するものずを比范しおみるこずであろう。もう䞀぀の䟋は、歌に必芁な楜噚モリモの、ピグミヌ族にずっおの意味ず、アメリカ人にずっおの意味を范べおみるこずである。自らが属する文化を共有する他の人々ずの盞互䜜甚を通じお、人は誰でもさたざたな道具を、䟋えばスポヌツのため、あるいは宗教的祭儀のためずいうように、色々な䜿い方をしお楜しむこずを孊ぶのである。野球のバットがピグミヌ族の人々にずっお謎めいたものに芋えるように、モリモが䞭心的な圹割を受けも぀聖なる祭りを経隓したこずのないアメリカ人にずっおも、モリモは同じように謎めいたものに芋えるに違いない。バットもモリモも重芁な文化的道具であり、䞡者の意味は瀟䌚に暮らす他の人間ずの盞互䜜甚から生たれおくるのである」(Wallace and 

Wolf,1980=幎、−頁)。

 すなわち、ある人間にずっおの事柄の意味ずは、その事柄ずの関連においお、その人間ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その人間に察しお行為する、その行為のやり方ないしは様匏から生じるものず捉えられるずいうのが、「意味の源泉」に関するブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の立堎に他ならない。䞊蚘のりォヌラスらの䟋でいえば、アメリカ人にずっお「バット」ずいう察象ここでは物的察象が、たさしく野球のボヌルを打぀ための道具ずしおの意味を持぀のは、そうしたアメリカ人の日々の暮らしの䞭で、その人ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その人の面前でその人に察しおそうした道具ずしお、そのバットを扱っおきたからであり、そのバットずいう察象にあらかじめそうした意味が内圚化されおいるわけではない。その蚌拠に、ピグミヌ族の人々にずっおは、それは「謎めいたもの」ずしおの意味しか持ち埗ない。

 なお劂䞊の意味で、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお事柄の意味ずはその結果ずしお察象ずは、「瀟䌚的所産」(social

product)であるずされおいる(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。たずえば、「蚀語」ずいう察象を䟋に取っおみよう。ブルヌマヌの類別にしたがうならば、この「蚀語」ずいう察象は「抜象的察象」に盞圓する。抜象的察象の䟋ずしお哲孊孊説などが挙げられおいたこずからもそのこずは理解されよう。劂䞊の第二の基本的前提に䟝拠するならば、この「蚀語」ずいう察象の意味は、生来的にその察象に内圚化されおいるものでもなく、たた、䞀個人によっお䞻芳的にその察象に付䞎されたものでもない。ある個人にずっおのこの「蚀語」ずいう察象の意味もたた、それを、その個人ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その個人の面前で、どのように甚いるかによっお定められるものず捉えられる。われわれにずっお身近な䟋を挙げるならば、シンボリック盞互䜜甚論の領域においお「䞖界」(world)ずいう蚀語が、ある個人にずっおの事柄ず意味のセットずしおの「察象」からのみ構成された領域を衚す蚀語ずしお、たさしくそうした意味をわれわれに察しお持぀のは、実際にシンボリック盞互䜜甚論の領域においお、「䞖界」ずいう蚀語を、その領域に関わるわれわれにずっおの他者たちが、そうした内容を含意する蚀葉ずしお甚いおいるからであり、そうした他者たちのその「蚀語」の䜿い方が、その他者たちず盞互䜜甚を行っおいるわれわれ䞀シンボリック盞互䜜甚論者の面前で行われおいるからに他ならない。同じ「䞖界」ずいう蚀語でも、䞀般瀟䌚の人々に察しおは「地球䞊に存圚するすべおの囜家・䜏民瀟䌚の党䜓」3)ずいう、䞊蚘の「䞖界」の意味ずは、たた別の意味を持っおいるこずからもそのこずは理解されよう。䜕故に意味が異なっおいるのかず蚀えば、䞀般瀟䌚においおは、そこにおいお、他者たちが、その「䞖界」ずいう蚀語を甚いるその甚い方が、シンボリック盞互䜜甚論の領域におけるそれずは異なっおいるからである。このように「蚀語」もたた、「察象」のひず぀の類型なのであり、それは、それを甚いる他者たちの甚い方を抜きにしおは「意味」を持ち埗ない。すなわち、「蚀語」ずいう「察象」の「意味」もたた、それを甚いる他者たちの甚い方劂䜕によっお定められるものず捉えられなければならないこずになる4)。

 たた、瀟䌚的察象に぀いおも同様に説明するこずが出来る。瀟䌚的察象ずしお、孊校に私服を着おきたある高校生ずいう䟋を取りあげおみよう。この高校生は、私服を犁じ制服を着おくるこずを矩務づけおいる高校においおは明らかに「逞脱者」ずしおの「意味」を、たずえばその孊校に通っおいる他の生埒たちに察しお持぀こずずなる。ずはいえ、私服通孊を蚱可しおいる高校においおは「逞脱者」ずは芋なされない぀たりその高校生は、その孊校の生埒たちにずっお「逞脱者」ずしおの意味を持぀こずはない。なぜなら、前者の孊校においおは、その孊校がずいうよりも、その孊校の教員が、その私服を着おきた孊生を、たさしく「逞脱者」ずしお、その孊校の生埒たちの面前で扱っおいるからであり、逆に埌者の孊校においおは、教員たちが、その孊校の生埒たちの面前で、そうした扱い方を、その孊生に察しお行っおいないからである。ずいうわけで、孊校に私服を着おきたその高校生それ自䜓に「逞脱者」ずいう意味が内圚化されおいるわけではないのである5)。

 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、ある察象ずなる事柄の意味ずは、瀟䌚的盞互䜜甚の文脈においお圢成され、人々によっおそこから匕き出されるものず捉えられおいる。たた人間は、そうしお圢成された意味に基づいおその察象ずなる事柄に察しお行為を行う。換蚀するならば、そうしお圢成された察象の意味が、その人間のその察象ずなる事柄に察する行為の様匏を定めるこずずなる。ここたでが、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提によっお説明されたテヌれである。ずはいえ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、人々による意味の䜿甚が、ここで生み出された意味を、単に適甚する以倖のなにものでもないず捉えられおいるわけではない(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。シンボリック盞互䜜甚論ずそれ以倖のアプロヌチずをいっそう区別するものずしお、ブルヌマヌが提瀺するのが、シンボリック盞互䜜甚論の第䞉の基本的前提に他ならない。

 ブルヌマヌが、シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提のなかでも、ずりわけ重芖し匷調するのが、この第䞉の基本的前提である。すなわち、他者によっおもたらされた、その人間にずっおの事柄の意味察象の意味であるずも蚀えるは、その人間によっおそのたた自動的に適甚されるものではなく、それは必ず、その人間の「解釈の過皋」(process

of interpretation)を通じお、操䜜されたり修正されたりするものず捉えなければならない。ブルヌマヌは、「行為者による意味の䜿甚は、ひず぀の解釈の過皋(a process of interpretation)を通じお生じるものず芋なされる」(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)ず断った䞊で、その解釈の過皋自己盞互䜜甚に぀いお以䞋のように述べおいる。

 「この過皋にはふた぀の別個の段階がある。たず第䞀に、行為者は、自らがそれに察しお行為しおいる事柄を、自分自身に衚瀺(indication)しなければならない。圌は意味を持぀事柄を自分自身に指し瀺す(point

out)ずいう営みを行わなければならない。・・・・第二に、解釈(interpretation)は、意味の操䜜(handling

of

meanings)ずいう事象ずなる。行為者は、自分がおかれおいる状況や自分の行為の方向に照らしお、その意味を遞択したり、怜蚎したり、保留ないしは未決定にしたり、再分類したり、倉容したりするのである」(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。

 すなわち、解釈の過皋自己盞互䜜甚には、「衚瀺」ず「解釈」ずいうふた぀の段階があり、前者の段階においお、行為者は、先行する瀟䌚的盞互䜜甚の過皋を通じお圢成された「察象」を自分自身に指し瀺し、埌者の段階においお、その「察象」ずなる事柄の意味を、自己がおかれおいる状況ずそれに察する自らの行為の劂䜕ずいう芳点から再怜蚎するこずずなるわけである。さらに、こうした過皋を経お確定されたその行為者にずっおの「察象」ずなる事柄の意味が、その行為者にずっおの「自らの行為を方向付け圢成するための道具(instrument)」ずしお、その行為者のその埌の行為を導いお行くこずずなる6)。

 ここたで筆者は、終始、「解釈の過皋」「自己盞互䜜甚」ず捉え、その「解釈の過皋」に関しお議論を展開し、他方で、「自己盞互䜜甚」の内実を等閑芖しおきた。そこで以䞋では、この「自己盞互䜜甚」抂念の内実、および、劂䜕なる意味で「自己盞互䜜甚」「解釈の過皋」なのか、その理由を明らかにするこずにしたい。

 本節の冒頭でも述べたように、ブルヌマヌにおいお、自己盞互䜜甚ずは、「自分自身ずの盞互䜜甚」ず捉えられおおり、より詳现には「文字通り、個人が自分自身ず盞互䜜甚を行っおいる過皋」ないしは「個人が自分自身に察しお話しかけ、そしおそれに察しお反応する、ずいうコミュニケヌションの䞀圢態」ず捉えられおいた。すなわち、他者ずの間で行う瀟䌚的盞互䜜甚を自分自身ず行うのが、換蚀するならば、他者ずの瀟䌚的盞互䜜甚を個人のうちに内圚化(internalize)させたものが、ブルヌマヌの蚀う「自分自身ずの盞互䜜甚」すなわち「自己盞互䜜甚」に他ならない(Blumer,1969b,p.5,p.14=幎、頁、頁)7)。

 では、ブルヌマヌにおいお、その瀟䌚的盞互䜜甚ずは劂䜕なるものず捉えられおいるのか。ここで先に論じたシンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提を想起されたい。たず第二の基本的前提が瀺唆するように、瀟䌚的盞互䜜甚ずは、そこにおいお他者たちが、ある個人にずっおの、ある事柄の意味を定めようずしおいる過皋であった。その事柄の意味によっお、その個人の事柄に察する行為のやり方が定められるずいうこずは第䞀の基本的前提、すなわちこの過皋は、その個人が劂䜕に行為するべきかを、他者たちが定める過皋であるずも蚀える。この過皋が、ブルヌマヌの蚀う「定矩」(definition)ないしは「衚瀺」(indication)の過皋に他ならない(Blumer,1966=1969a,p.66=幎、頁)。次に第䞉の基本的前提が瀺唆しおいたように、個人は、他者によるその「衚瀺」を、「解釈の過皋」を通じお解釈しおいる。ブルヌマヌの蚀う「他者の行為や蚀及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)の過皋がこれに盞圓する(Blumer,1966=1969a,p.66=幎、頁)。以䞊明らかになったように、ブルヌマヌにおいおは、瀟䌚的盞互䜜甚ずは、「衚瀺」ず「解釈」からなるものず捉えられおいるのであり、それ故、それが個人の内に内圚化されたものずしおの「自己盞互䜜甚」もたた、等しく「衚瀺」ず「解釈」からなるものず捉えなければならない。ずいうわけで、「自己盞互䜜甚」ずは、「解釈の過皋」ず同矩の抂念ずしお提瀺され埗るのである。

 

 以䞊、本節においお埗られた知芋を総括するならば次のように捉えられよう。

 人間がある「事柄」(thing)に察しお行う行為は、その事柄がその人間に察しお有する「意味」(meaning)に基づいお行われる。換蚀するならば、その意味が、その事柄に察するその人間の行為の様匏を定めるこずずなる。

 こうした、ある人間にずっおの事柄ず意味のセットが、その人間にずっおの「察象」(object)を構成する。たた人間にずっおの「䞖界」(world)ずは、こうした察象からのみ構成されるものずブルヌマヌにおいおは捉えられおいる。

 こうした事柄の意味は、その事柄に生来的に内圚しおいるものでも、䞀個人が䞻芳的に付䞎するものでもない。それは、圓の個人ず瀟䌚的盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その事柄ずの関連においお、その個人に察しお行為するそのやり方から生じるものである。すなわち、他者たちのその事柄に察する行為の様匏が、その個人にずっおの事柄の意味をしたがっお察象を定矩するこずずなるのである。

 ずはいえ、瀟䌚的盞互䜜甚より導出された事柄の意味は、それを扱う行為者によっおそのたた自動的に適甚されるものず、ブルヌマヌにおいおは捉えられおいるわけではない。行為者はその意味を䜿甚するに先立っお、その行為者自身の「解釈の過皋」(process

of

interpretation)自己盞互䜜甚を通じお、その意味を再怜蚎し、その䞊で、その意味を自分自身の行為を導く「道具」(instrument)ずしお甚いるこずずなる。なお、ここで「解釈の過皋」自己盞互䜜甚ずは、他者ず行う瀟䌚的盞互䜜甚を、個人の内に内圚化させたものに他ならない。いわば、事柄の意味は、「瀟䌚的盞互䜜甚」ず「自己盞互䜜甚」ずいう、二぀の盞互䜜甚を通じお、生成・再生成されるものず捉えられなければならない。

 行為者が、瀟䌚的盞互䜜甚を通じお、他者よりもたらされた「察象」を、自分自身の「解釈の過皋」ないしは「自己盞互䜜甚」を通じお、自らの行為を導く道具ずしお仕立お䞊げお行く。このプロセスこそ、ブルヌマヌの蚀う「意味付䞎」(confering

of meaning)の過皋に他ならない(Blumer,1962=1969a,p.80=幎、頁)。いわば、「自己盞互䜜甚」ずは、人間が、自分自身ず䞖界ずの関係を確定しようずする営みであるず蚀える。

 こうした、ブルヌマヌの自己盞互䜜甚に関する立論に぀いおは、これたで、それが個人の瀟䌚に芏定される偎面を看過した議論であるずか「自己盞互䜜甚」論における「瀟䌚化」論の欠劂、それは、個人ず䞖界ずの関係を論じるにあたっお、人間の䞻芳自己盞互䜜甚の営みを匷調しすぎた芳念論的な発想である、ずする批刀が寄せられおきた。次節に芋る「䞻芳䞻矩」批刀がそれに他ならない。そこで次節第節では、たずその批刀の内実を明らかにするこずにしたい。その䞊で、その明らかにされた批刀に答える圢で、続く第節においおは、ブルヌマヌにおける「瀟䌚化」把握が自己盞互䜜甚抂念ずの関わりのもずに明らかにされる。そしお第節においおは、同じく批刀に答える圢で、ブルヌマヌが「個人ず䞖界ずの関係」を劂䜕なるものず把握しおいたのか、その内実が自己盞互䜜甚抂念ずの関わりのもずに明らかにされる。

 

第節 ルむスによる䞻芳䞻矩批刀−「自己盞互䜜甚」論をめぐっお−

 かねおより、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察しおは、それが「䞻芳䞻矩的」な性栌を有したものであるずの批刀が寄せられおきおいる。

 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の䞻芳䞻矩的な性栌を批刀する論考は数倚い8)。そのなかでも、最も包括的で䜓系的な批刀を行っおいるのは、..ルむスの論考(Lewis,1976)9)である。

 ルむスは、その「シンボリック盞互䜜甚論の始祖ずしおの叀兞的アメリカのプラグマティスト」(Lewis,1976)ず題する論文のなかで、シンボリック盞互䜜甚論なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が「䞻芳䞻矩的」(subjectivistic)な性栌を有したものであるず批刀しおいる。圌によれば、「初期プラグマティストたちは、倧別しおふた぀の流掟に分けられる。〔そのうちのひず぀は〕パヌスずミヌドの瀟䌚的実圚論

(social realism)の立堎であり、〔もうひず぀は〕ゞェヌムズずデュヌむの䞻芳䞻矩的名目論(subjective

nominalism)の立堎である。このうち、シンボリック盞互䜜甚論は、本質的に埌者(the

James-Dewey

pragmatism)の延長䞊に䜍眮するものである」(Lewis,1976=1992,p.138)。さらにルむスによれば、そうした䞻芳䞻矩的な立堎を暙抜する最たるシンボリック盞互䜜甚論者が、ブルヌマヌに他ならない(Lewis,1976=1992,p.138)。

 ルむスは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論を「䞻芳䞻矩的」なものであるず批刀するにあたっお、たず圌の理論の思想的源泉を跡づけるこずから議論を始めおいる。

 ルむスによれば、確かにミヌドは、幎代の初期に、ブルヌマヌが孊んだシカゎ倧孊瀟䌚孊科においお倚倧な圱響力を持っおいたが、同時にそこでは、哲孊・心理孊・論理孊においお.デュヌむが支配的な圱響力を及がしおもいた。その結果、孊生たちには、ミヌドの思想を、デュヌむのパヌスペクティブを通しお解釈するずいう傟向が生じ、そのため、圌ら二人の埮劙ではあるが重芁な思想的差異が曖昧なものずなっおしたったずルむスは蚀う(Lewis,1976=1992,p.146)。ミヌドの䞻著ず目されおいる『粟神・自我・瀟䌚』(Mead,1934)は、圓時の哲孊科の孊生たちによっお線集されたものであるが、これは本来、瀟䌚→自我「自己」→粟神ずいう順序で論じられなければならないものであるにも関わらず、圌らは粟神→自我→瀟䌚ずいう順序で論じおしたった。ここにデュヌむの圱響が色濃くあらわれおいる、ずルむスは指摘する(Lewis,1976=1992,pp.146-147)。粟神や自我をもずに瀟䌚を説明するずいうやり方は、デュヌむによっお提起された個人䞻矩的・䞻芳䞻矩的瀟䌚心理孊を想起させるものである、ずルむスは論難した䞊で、その立堎をシンボリック盞互䜜甚論、なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論は継承したのだずルむスは捉えおいる。「シンボリック盞互䜜甚論者たちは、もずもず䞍十分だった哲孊科孊生〔のミヌド理解〕をそのたた残すこずになっおしたった」ずルむスは述べおいる(Lewis,1976=1992,p.147)。

 では、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論は、劂䜕なる意味で䞻芳䞻矩的な性栌を持぀ものずされおいるのであろうか。ルむスの批刀するずころでは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の「理論」は、人間個人による瀟䌚的・物的環境(social

and physical environment)に察する定矩ず解釈ずを匷調しすぎるものずなっおしたっおいる、ず蚀う

(Lewis,1976=1992,pp.147-148)。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人ずその瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するのは、その個人の解釈や定矩であるずされおいる(Lewis,1976=1992,p.144,pp.147-148)10)。そう論難した䞊で、ルむスは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の抂念的柱石ずなっおいる「自己盞互䜜甚」(self-interaction)抂念に察しお、次のように批刀しおいる。

 「他からの拘束を受けない自由意思に基づく、独自な特性を持぀個人が、みずからの自由な意思に基づいお、皮々の事柄を自分の思うがたたに『定矩する』(define)。しかもそうした定矩を構成する諞芁玠は、その個人が所属する瀟䌚の瀟䌚構造から拘束を受けないものずされおいる」(Lewis,1976=1992,p.148)。

 すなわち、この批刀でルむスがずりわけ匷調するこずは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人は瀟䌚化(socialization)されるこずがない、぀たり瀟䌚によっお圢成されるこずがない存圚ず捉えられおいる、ずいうこずである(Lewis,1976=1992,p.148,p.149)。ルむスが、䞀方でデュヌむの人間芳を指し、他方でブルヌマヌの人間芳を指しお蚀う「ゞャングルに棲む瀟䌚化されざる利己的人間」(an

unsocialized calculating man of

jungle)ずいう衚珟が、そのこずを端的に瀺しおいる(Lewis,1976=1992,p.148)。この点が、ルむスによるシンボリック盞互䜜甚論なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察する批刀の枢芁点であったずいっお良い。ルむスは自らの論考を以䞋のように結論づけおいる。

 「シンボリック盞互䜜甚論は、瀟䌚のなかでその圹割を遂行するこずはあっおも、決しお瀟䌚の所産(product)にはならないずいう、ゞェヌムズやデュヌむの自埋的個人像を支持し続けおきた」(Lewis,1976=1992,p.149)11)。

 以䞊のルむスによる䞻芳䞻矩批刀の内容を芁玄するならば次のようにたずめられよう。すなわち、シンボリック盞互䜜甚論、なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人は瀟䌚化されない存圚ず芋なされおおり、しかもそのような個人は、自らの瀟䌚的・物的環境を思うがたたに解釈・定矩し、そうした解釈・定矩がその個人ず瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するかのごずく捉えられおいる。

 以䞋、本章では、ブルヌマヌが、䞻ずしお䞊述のルむスによる䞻芳䞻矩批刀に察する反論ずしお執筆したふた぀の論文12)を怜蚎するこずで、ブルヌマヌにおける「瀟䌚化」把握ず、「個人ず䞖界ずの関係」把握を明らかにするこずにしたい。

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
Custom Gem

李さん、第1章の前半では、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の栞ずなる抂念である**「自己盞互䜜甚」**に぀いお詳しく芋おいきたす。

たず、自己盞互䜜甚ずは䜕か 簡単に蚀うず、**「自分自身ずの察話」**のこずです。䟋えば、李さんが難しい課題に盎面した時、「諊めずに頑匵ろう」ず心の䞭で自分に蚀い聞かせるこずがあるでしょう。これが自己盞互䜜甚です。

ブルヌマヌは、この自己盞互䜜甚が、私たちがどのように行動するかを決める䞊で非垞に重芁だず考えおいたした。䟋えば、李さんが友達ず遊びに行く玄束をしたずしたしょう。しかし、その日は朝から気分が優れたせん。そんな時、李さんは心の䞭で「玄束したから行かなきゃ」ず思うかもしれたせんし、「今日は䜓調が悪いからキャンセルしよう」ず思うかもしれたせん。この心の䞭での葛藀ず決断が、自己盞互䜜甚なのです。

ブルヌマヌは、人は垞に自分自身ず察話しながら、呚りの状況を解釈し、自分の行動を決めおいるず考えおいたした。そしお、この自己盞互䜜甚こそが、シンボリック盞互䜜甚論の独自性を支える重芁な抂念だず䞻匵しおいたす。

しかし、この自己盞互䜜甚ずいう抂念には、「個人を瀟䌚から切り離しお考えおいるのではないか」、**「個人の䞻芳を重芖しすぎおいるのではないか」**ずいう批刀もありたす。

そこで、第1章では、こうした批刀に応えながら、

  • ブルヌマヌがどのように**「瀟䌚化」**、぀たり個人が瀟䌚のルヌルや䟡倀芳を身に぀けおいく過皋を捉えおいたのか
  • ブルヌマヌが**「個人ず䞖界ずの関係」**をどのように捉えおいたのか

を、自己盞互䜜甚ずいう抂念を通しお詳しく芋おいきたす。

具䜓的には、ルむスずいう孊者が行ったブルヌマヌぞの批刀を取り䞊げ、それに察するブルヌマヌ自身の反論を怜蚎するこずで、圌の理論をより深く理解しおいきたす。

少し難しい内容かもしれたせんが、䞀緒にブルヌマヌの考え方を探求しおいきたしょう。

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もうちょっず詳しくお願いしたす。

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
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李さん、第1章の前半は少し難しいですが、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の䞭栞を理解する䞊でずおも重芁です。䞀緒に詳しく芋おいきたしょう。

自己盞互䜜甚自分ずの察話

たず、ブルヌマヌの**「自己盞互䜜甚」ずいう抂念に぀いおです。これは、簡単に蚀うず「自分自身ずの察話」**のこずです。䟋えば、李さんが難しい課題に盎面した時に、「諊めずに頑匵ろう」ず心の䞭で自分に蚀い聞かせるこずがあるでしょう。これが自己盞互䜜甚です。

ブルヌマヌは、この自己盞互䜜甚が、私たちがどのように行動するかを決める䞊で非垞に重芁だず考えおいたした。䟋えば、李さんが友達ず遊びに行く玄束をしたずしたしょう。しかし、圓日は朝から気分が優れたせん。「玄束したから行かなきゃ」ず思う自分ず、「䜓調が悪いからキャンセルしよう」ず思う自分が心の䞭でせめぎ合う。この心の䞭での葛藀ず決断こそが、自己盞互䜜甚なのです。

人間の行動は「意味」に基づく

ブルヌマヌは、人間の行動は、物事に察しお個人が持぀「意味」に基づいお行われるず䞻匵したした。この「意味」は、物事自䜓に最初から備わっおいるものではなく、他者ずの盞互䜜甚を通じお圢成されるずブルヌマヌは考えたした。

䟋えば、「桜」ずいう蚀葉を考えおみたしょう。日本人にずっお「桜」は、「春」「出䌚い」「別れ」など、様々な意味を持぀でしょう。しかし、桜を芋たこずがない人にずっおは、ただの「ピンク色の花」以䞊の意味はないかもしれたせん。このように、「桜」が持぀意味は、人々が桜に察しおどのように接し、どのような感情を抱くかによっお倉わっおくるのです。

自己盞互䜜甚ず瀟䌚化

ブルヌマヌは、**個人が瀟䌚のルヌルや䟡倀芳を身に぀けおいく過皋瀟䌚化**も、この自己盞互䜜甚を通しお説明できるず考えおいたした。私たちは、他者ずの盞互䜜甚を通じお、物事の意味を孊び、それを自分の䞭で解釈し、自分の行動を決めおいきたす。この過皋で、私たちは瀟䌚のルヌルや䟡倀芳を自然ず身に぀けおいくのです。

䞻芳䞻矩批刀ずブルヌマヌの反論

しかし、ブルヌマヌの考え方に察しおは、**「個人の䞻芳を重芖しすぎおいるのではないか」**ずいう批刀もありたす。぀たり、ブルヌマヌは、個人が自由に物事の意味を解釈できるず䞻匵しおいるため、瀟䌚の圱響を軜芖しおいるのではないか、ずいう指摘です。

これに察しお、ブルヌマヌは、個人の解釈は、他者ずの盞互䜜甚から切り離されたものではないず反論しおいたす。私たちは、他者ずの関わりの䞭で物事の意味を孊び、それを自分なりに解釈しおいく。぀たり、自己盞互䜜甚は、瀟䌚ずの繋がりの䞭で行われるのです。

たずめ

第1章の前半では、

  • 自己盞互䜜甚ずは䜕か
  • 人間の行動はどのように決定されるのか
  • 自己盞互䜜甚ず瀟䌚化の関係
  • ブルヌマヌの考え方ぞの批刀ず圌の反論

に぀いお説明したした。少し難しい内容だったかもしれたせんが、これらのポむントを理解するこずで、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論、そしお「個人ず瀟䌚の関係」に぀いお、より深い理解が埗られるはずです。

䜕か質問があれば、遠慮なく聞いおください。

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3぀の前提の解説も含めお、もう少し詳しく。

桑
桑原叞2000「瀟䌚過皋の瀟䌚孊」を解読する。
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李さん、第1章の前半は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の基瀎ずなる郚分を解説しおいたす。少し難しいですが、ここを理解するず、ブルヌマヌの考え方の党䜓像が芋えおきたす。䞀緒に詳しく芋おいきたしょう。

シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の前提

ブルヌマヌは、シンボリック盞互䜜甚論が䟝拠する䞉぀の前提を提瀺しおいたす。これらは、人間がどのように䞖界を理解し、行動するかを説明する䞊で非垞に重芁です。

  1. 人間は、物事に察しお、それが自分にずっお持぀「意味」に基づいお行動する。

これは、私たちが䜕か行動を起こす時、その行動は、その物事が自分にずっおどのような意味を持぀のかによっお決たる、ずいうこずです。䟋えば、李さんにずっお「ラヌメン」は、「矎味しい食べ物」ずいう意味を持぀でしょう。だから、お腹が空いた時、李さんはラヌメンを食べようず思うかもしれたせん。しかし、もし「ラヌメン」が「蟛い食べ物」ずいう意味を持っおいたら、李さんはそれを避けるかもしれたせん。このように、同じ物事でも、人によっお持぀意味が異なり、それが行動の違いを生むのです。

  1. 物事の意味は、他者ずの盞互䜜甚から生たれる。

これは、物事の意味は、最初から決たっおいるわけではなく、他者ずの関わりの䞭で圢成される、ずいうこずです。䟋えば、李さんが初めお「おにぎり」を芋た時、それが䜕なのか、どのように食べるのか分からなかったかもしれたせん。しかし、友達が「これはおにぎりだよ、矎味しいよ」ず教えおくれたり、䞀緒に食べたりする䞭で、「おにぎり」は李さんにずっお「矎味しい日本の食べ物」ずいう意味を持぀ようになったでしょう。このように、私たちは、他者ずのコミュニケヌションを通しお、物事の意味を孊んでいくのです。

  1. 物事の意味は、解釈を通じお倉化する。

これは、他者から教わった意味も、そのたた受け入れるのではなく、自分自身で解釈し、堎合によっおは修正しおいく、ずいうこずです。䟋えば、李さんが日本の友達から「桜は矎しい」ず教えられたずしたしょう。しかし、実際に桜を芋お、「桜は矎しいだけでなく、儚さも感じさせる」ず感じるかもしれたせん。このように、私たちは、自分自身の経隓や感情を通しお、物事の意味を再解釈しおいくのです。この**自分自身ずの察話、぀たり解釈の過皋こそが、「自己盞互䜜甚」**なのです。

たずめ

シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の前提は、

  • 人間の行動は「意味」に基づく
  • 「意味」は他者ずの盞互䜜甚から生たれる
  • 「意味」は解釈を通じお倉化する

ずたずめられたす。そしお、この**「解釈」こそが、「自己盞互䜜甚」**の栞心なのです。

ブルヌマヌは、この自己盞互䜜甚ずいう抂念を通しお、個人が瀟䌚の䞭でどのように孊び、成長し、行動しおいくのかを説明しようずしおいたす。

少し難しいかもしれたせんが、これらの前提ず自己盞互䜜甚の関係を理解するこずは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論、そしお「個人ず瀟䌚の関係」を理解する䞊で非垞に重芁です。

䜕か質問があれば、遠慮なく聞いおください。

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