最低賃金では人が来ない現実 引き上げの決め手は「隣県意識」
全都道府県の最低賃金(時給)の改定額が、激しい引き上げ競争の末に決まった。ただ、最低賃金水準ではもはや働き手が確保できず、最低賃金を大きく上回る時給での募集も目立つ。
全国有数の観光地・神奈川県箱根町。今月のお盆期間中、箱根湯本駅前の商店街は国内外の観光客でにぎわっていた。「2019年以降、地震や台風の被害、新型コロナと続いた。ようやく長いトンネルを抜けつつある」。同町観光協会の佐藤守専務理事はそう評価しつつ、「コロナで離職者も多く、今は人手不足が深刻だ」と語る。
箱根町を管轄するハローワーク小田原の求人(6月分)で最も多いのはサービス業で、パートの有効求人倍率は3倍近い。募集時給の下限は平均1311円で、現状の最低賃金(1112円)より199円も高い。
神奈川県の最低賃金審議会は今回、国側の目安通り50円増の1162円に引き上げた。審議の場で、使用者側は大きな不満を述べるというよりも、「仕事が目の前にあっても見送らざるをえないことがある」と人手不足を訴えた。
採決でも、使用者側は一人も反対しなかった。10年度以来、14年ぶりの全会一致だった。
政府は30年代半ばまでの早い時期に全国加重平均を1500円にする目標を示している。神奈川県経営者協会の関口明彦事務局長は「50円に納得したわけではないが、(政府目標を)どう実現するかに議論を集中した方が建設的だ」という。
小田原から在来線で約20分。県をまたいだ静岡県・熱海も有数の観光地だ。
熱海市を管轄するハローワーク三島が熱海地区の求人情報をまとめた冊子(8月号)には、観光やサービス業を中心とする求人(時給制)が83件載った。いまの最低賃金が984円のところ、80件は時給の下限が1千円を上回り、65件は今回の改定を受けて10月に発効する新しい最低賃金1034円をも上回った。
求人動向に詳しいリクルートの宇佐川邦子ジョブズリサーチセンター長は「人を採用できなければ企業は存続できない。最低賃金が経営に影響するのは確かだが、引き上げに抵抗するよりも、きちんと賃金を払って多くの利益を生み出すことに力を注ごうと考える経営者も増えている」と指摘する。(編集委員・沢路毅彦)
経済意識より隣県を意識、実証研究からも裏付け
隣県を意識した最低賃金の引き上げ競争は、経済学の実証研究からも裏付けられる。
九州大の浦川邦夫教授(福祉政策)らは、03~16年に政府が公表した統計をもとに、都道府県の最低賃金に影響を与えた要素を計量的に分析し、21年に結果をまとめた。
最低賃金法は①労働者の生計費②一般的な賃金水準③通常の事業(企業)の支払い能力の3要素を考慮して決めると定める。研究では、①に対応する指標として、家計消費支出や消費者物価指数、②として平均賃金に対する最低賃金の比率、1人当たりの県民所得、失業率、③として営業利益に減価償却費などを加えた製造業の「粗付加価値額」を採用。さらに隣県の最低賃金も数式に当てはめ、最低賃金とのそれぞれの相関関係を調べた。
すると、隣県の最低賃金とは強い相関があったのに対し、多くの経済指標との相関はあまりないことが分かった。
浦川氏は「隣県との整合に配慮して政治的に最低賃金の水準が決まるというプロセスがよく見えた」という。「地域の経済状態が異なるのに、隣接しているからといって支払い能力以上に引き上げれば、労働者の雇用を抑える会社が増えて失業率が上がるリスクはある」とする一方、「地方経済にとって労働者の流出をとどめ、企業の生産効率を高めるメリットがある」と話す。
その上で、「現在は人手不足を背景に思い切った引き上げとなっているが、雇用環境の変化などで局面が変わることも想定される」と指摘する。
1500円を目指すとする日本に対し、欧州連合(EU)は労働者全体の賃金分布の中央値の6割を最低賃金の目安にしている。浦川氏は「1500円といった絶対額だけでなく、平均賃金に対する比率がどの水準になるかを目安や地域の比較に採り入れるなど、多面的な指標で引き上げを支えていく必要がある」と述べた。(北川慧一)
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- 北川慧一
- 経済部|労働キャップ
- 専門・関心分野
- 労働政策、労働組合、マクロ経済