久しぶりに、
LINE限定コラムの配信です。
今日は
「自信」について少し書いていこうと思います。
よく、情報発信をしていると、
「私には自信がない」だの、
「ねこ社長は自信満々」だの、
「あの人は自信に溢れている」だの、
よく「自信」という言葉を目にします。
僕も、
「もっと自信を持ちましょう」とか生徒やフォロワーに言うこともあるんだけど、
一向に自信を持たない人もいるし、
「私なんて」という口癖が治らない人もいます。
一方、
「俺は自信満々だぜ!」みたいな感じ出してるけど、
僕からしたら「うわーこの人自信なさそうだな」と思うこともあるのに、
周りは「あの人自信満々ですよね」と評価してる時もある。
んー、
なんだろう、この違和感は、と僕は思ったわけです。
というのも、
みんな「自信」を勘違いしているなと思ったわけです。
というか、
超強気に言葉を発している人を見て「自信があるなあの人!」
と思っている人が多すぎて、話にならないな、と思うのです。
結論をいうと、
僕は、自信というのは
自分の弱い部分と、強い部分、全てを自分だと認め、
その上で前向きに生きている様を本当の意味での「自信」と呼ぶ
と思っています。
あのね、
大前提、人ってみんな弱いんですよ。
強い人間なんて、存在しません。
超活躍している人だって、
めちゃめちゃ稼いでいる人だって、
一歩何かを間違えれば、全然弱さがボロボロになって、メンタルが壊れることなんていうのも、平気で起きうるものだと、僕は思っています。
例えば、
僕を見て、「ねこ社長は自信ありますもんね」とかいう人いるけど、
まー、
それは全然表面的な部分しか捉えられていないですね。
見る人が見たら、
僕なんか、「あぁ元々自信のない人なんだろうなぁ」と見えるわけです。
もっというと、
「色々過去にあったんやろうなぁ、乗り越えてきたんだろうなぁ」と、
人を見る目がある人は、僕のことをそう評価します。
僕は過去のそういう失敗なり、弱い部分があるんわけですが、
「まー、これも自分だな」と割り切れたときに、
自分に素直に生きることができ、自分に自信を持つことができたのです。
多くの人は、
「自分の弱い部分」に対し、コンプレックスを抱きすぎです。
もっというなら、
「なんて自分はダメな人間なんだ」 と癖をつけることで、なんとか自分を保とうとしてきた歴史が長すぎるのです。
僕も、昔はそうでした。
「なんで僕は兄弟たちに比べて、こんなにも運動も勉強も芸術もできないんだろうか…」
「なんで僕は周りに比べて、頭が悪いんだろうか…」
そんなことを幼少期、めちゃめちゃ思っていました。
とんでもないほどのビビりでしたし、
人見知りだし、赤面症だし、
そういった、自分のそういった特徴をただただそのまま「弱点」とし、「恥ずかしいもの」とし、「人より劣っているもの」とレッテルを貼っていることによって、
心身ともに身動きが取れませんでした。
例えば、
僕は小学校中学校と野球をやっていて、
セカンドを僕は守っていたんですが、
「運動神経は悪くないぞ!」とコーチに言われまくっていたのに、
なぜかエラーをしまくっていました。
ポロポロポロポロと、
ボールをこぼしたりしていた様を見て、
コーチは「なんでお前は技術があるのにエラーが多いか考えろ!!!」
とよく言われていました。
これは完全に「呪縛」です。
親の教育、兄弟の教育です。
「お前は頭が悪いんだ!」
「なんでそんなこともできないんだ!」
「にいちゃんは優秀なのに!」
そんなことを言われすぎて、自分のそういったただの「特徴」を、悪いものであり、よくないことだと教育されすぎた故に起きた、心の呪縛なわけです。
親に悪気はないんですけどね。
だから、
自分の能力以上に、自分の特徴を「悪いもの」とし、そこをコンプレックスと感じてしまい、
認めることができず、心身に影響が現れていたわけですね。
ミルキが、キルアの脳みそに、針を埋め込んだみたいなもんです。
「なんでこんな風に僕は考えてしまうんだろう」
と思っても、いやいや、植え付けたのは身内ですからね。自分のせいではなかったりするのです。
まぁこんな話をすると、
共感をする人もいるでしょうけど、
一方「別に俺はそこまでの体験はなかったな」と思う人もいると思うんですが、
これは視野を広げると、少なからずどの人にも当てはまります。
特に、
この日本社会の教育というのは「良い」「悪い」を数字や順位で決めるつける傾向があります。
社会的評価を気にする人間が出来上がる仕組みが出来上がっているのです。
これは、
社会性が高く、集団の中で協調性を大事にする人間を育てるための教育で、
政府や国が都合よく、こういう教育を、知らず知らずのうちに、我々に植え付けているのです。
つまり、
僕が何を言いたいかというと、
自分の弱点、弱みと思っているものは、別に本来弱みでも弱点でもないのに、
社会がそれを弱み、や弱点、としているだけでなのに、
その埋め込まれた「針」の呪縛から、解き放たれていない大人が多すぎるが故に、
「弱い部分」である自分を認められずに自信が持てない
ということを言いたいわけです。
これは、
別に自信なさそーにしている人だけに当てはまることではないです。
ふんぞり帰って、自信満々にしている風の人も、結構これです。
「あー、自分の弱い部分を隠したいから強く見せてるんだな、かわいいな」
と僕は見て思うわけです。
Xの情報発信者の有名な人も、
見ていてこんなひとばっかでおもろないな、と僕は思って見ています。
あー、弱いんだろうなーって思って見ています。
自分の特徴に、目を向けたくない、耳を傾けたくない、認めたくない。
それは、僕からしたらその行動自体が「弱さ」であり、
そこを認めずふんぞり帰って自信満々にしても「弱そう」にしか見えないのです。
プライドが高い人も大体これです。
本当にプライドが高い人は、どんな年下だろうと、
どんなに自分より年収が下だろうと、
「この人は学びになるな」と思ったら、耳を傾けます。
なぜなら、
「自分の全てを許諾している状態」だからなんです。
色々言いましたが、
つまり、
弱い部分を否定したくないから強く見せる = 自信があるでもない
ということなわけです。
もう一度言いますが、
自信がある = 弱い部分も自分だと認めるだけ
です。
この考えが許せたときに、本当に人は解放されます。
自信満々で生きることができるわけです。
そして、
弱い部分を認めた自信のある人は、とんでもなく魅力的に映るし、
多くの人を救える存在となれる
のです。
これらを、
「陰と陽」、と表現することもありますが、
この「隠」が全く感じられない人や、
「隠」を必死に隠そうとする人は、ダサいのです。
しょっぼって思う。
東京グールみたいなコンテンツが世の中にウケたり、
エヴァンゲリオンみたいなコンテンツが世の中にウケたりする理由がなんでかって、
もっとちゃんと考えた方が良いです。
あれは、凄まじい数と質の「隠」に惹かれているのです。
「隠」と「陽」は必ず人間にはあるはずなのに、
「隠」を隠そうとしたり、嘘をついて「隠」を見せなかったりするからややこしいのです。
これは、発信者は全員理解しておいた方が良いです。
「隠」なんだよ。人は。
そこに共鳴したり、惹かれたりしたときに、本当のファン化が完了する。
ストーリーテリングってのも、
結局そういうことなんですよね。
ただし、
「隠」が強すぎると、困った現象が起きます。
それは、
妙に「隠」を強く持った人ばかりが寄ってくるわけです。
それだと、結構ビジネスが大変です。
扱いは注意が必要だったりします。
僕は、この「隠」の発信の割合が絶妙だから、
ちょうどいい人たちが僕のところに集まってくるようになってきます。
「隠」を持ちつつも、
「陽」に憧れ、強くあろうとする人たちが寄ってくる。
だから、魅力的な人ばかりが寄ってきます。
しかし、
こういった「隠」「陽」が使い分けられていない、というか、自分の中でそれを享受できていない人の周りは、
魅力の乏しい人が寄ってくるようになっています。
結果、
あんまりおもろそうではない人を集めてしまう。
せっかく、
発信っていうのは、
集めたい人を集められるという特性を持つのに、
上手く使えていなくてもったいないな、と思ってしまうわけです。
極論をいうと、
今回の話は「人間理解」の話なんですね。
人、というのを理解しているようでしていないんだな、
と、多くの発信者を見ていて、僕は思うわけです。
と、
「自信」の話から「隠」の話へと展開してきましたが、
いかがでしょうか。
少し難しい話もあったかもしれませんが、
結構大事ですし、
このへんの話を解像度高く理解している人は、
ファンを作るのが早かったりします。
人から「学ばせてください!」と言われるのが早かったりするんですよね。
実績だけでゴリゴリ言わせているだけの人よりも、
はるかにビジネスが楽だったりするのです。
参考になった方は、
ぜひ感想などください。
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