pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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緑豊かな公園のそばに、こじんまりとして物静かな美術館があった。規模はそれほど大きくないが、定期的に中堅芸術家の作品を展示したり、骨董市を催しているような場所だった。
そこに、ひとりの女性がいた。彼女は、街で本や雑貨を売る仕事の傍ら、絵の勉強をしている。言うなれば画家志望だった。まだ売れている絵はない。販売の仕事も正規の社員ではないので、ボロアパートの家賃を払って、最低限の食事で生活をすることがやっとのことで、都市部近くで暮らしているにしては贅沢とはほど遠い。
そんな女だったが、どうしても妥協できない出費というものがあった。それは、前述の美術館に通うことであった。頻度にして月二、三回程度。国立の美術館ではないにしろ、チケット代もそう安くはない。しかし、女はここで見る芸術家の作品に触れたり、新しいことを発見して自分の作品に生かすことが好きだった。また、そこで働く女よりひとまわり歳が上の女性学芸員と知的な会話をするのも好きだった。
それが、彼女が人生に腐らずに生きていける希望、息抜きでもあった。だから、これだけにかけるお金は渋らない。
今日も、その美術館に出向いた日であった。いつもは、空いた時間にひとりでゆっくりと見に行くことがほとんどだが、この日はひさしぶりに会った古くからの友人と一緒に鑑賞することになった。
受付でチケットを購入し、会場へ入る。
今期は医術誌を中心に挿絵の仕事をしている画家の作品展示だった。理解に易いデフォルメの中でも、確かな知識を携えた画力には圧倒されるものが多かった。
女がひとつひとつの絵に夢中になっていると、気が遠くなるような細かな描写が予想される絵に心を奪われた。
「あっ、ねえ見てみて。これめっちゃ細かくてきれい」
女が近くにいるであろう友人に話しかけたつもりで、それでいて周りの鑑賞者の邪魔にならない声量で声をかけたが、振り向くと、知らない男性が背後に立っていた。
男は、そんな女の様子をにこにこと微笑ましく見たあとで、「そうですね。びっくりするほど細かい絵だ」と、女に答えた。
「す、すみません……友人かと思ってつい……」
「私もちょうどその絵に同じ感想を抱いていたから。ふふふ」
男の身長は女よりも幾分か高く、すらりとした体型に似合うシャツとスラックスを身に着けていた。大きな丸眼鏡がその人を知性的に魅せた。涼しげな目元に、すっと伸びた鼻筋が好男子、という表現がよく似合うだろうと感じるほどだった。
女は恥ずかしくなり、何度か会釈をしながらその場を去った。
後日。女が創作活動に行き詰った頃、これ以上筆を無理やり進めてもしょうがないと考えた女は、またあのお気に入りの美術館へと足を運んだ。
いつもと同じように、チケットを買って、展示会場へ入る。すると、なんの偶然なのか、あの時誤って声をかけてしまった男性がいた。大体似たような恰好で、あの丸眼鏡をかけていたので、はっきりと顔が思い出せなくてもあの時の人だと思った女は、気まずさから流れるようにその男の隣を横切った。
そんなようなことが続いた。月に何回かしか行けない美術館に、例の男がほとんどの時間いる。
そういった出来事が続いたある日。
「今日は一人?」
「あ、はい? えっ?」
ある日、女が美術館に立ち寄った時。一枚の絵画に夢中になっていると、背後から声をかけられた。振り返ると例の男だった。
「ごめんね、不躾に。ここでよく見るから、常連さんなのかと思って」
「あ、いえ……その、はい、だいたいひとりです」
「この絵、いいよね。だいたいいいなー、って思った絵の前に君がいるから」
「あ、あぁ、アハハ……」
色男に声をかけられるなんて経験がなかった女は、柄にもない出来事にしどろもどろと目線が泳いで言葉がどもる。
「お邪魔しちゃったね」
「いいえ、こういうところで声かけられるなんてそうないので」
「うん……私もいつもなら滅多に声かけることはないんだけどね」
「あの、最近よくいらっしゃる?んですね」
「仕事に行き詰まると来るかな?」
「あ、じゃあ私と同じです。仕事に行き詰ってるわけではないんですけど……すごいタイミングですね」
「だね」
話の内容なのか、お互いの雰囲気がうまくはいっておさまるものを見つけたのか、立ち話もそこそこに、この後カフェでもう少し話し合いましょう、ということになった。
女はてっきり近くの安いチェーンのお店へ寄るものだと思っていたが、男に連れられてきたのは、個人経営の庭の植物が色とりどりに生い茂るおしゃれなカフェだった。メニュー表を見て、その価格の高さにぎょっと驚く女だったが、まあこれも、いまは必要経費か、と目をつむった。
「急にごめんね。実は前からちょっと話してみたかったんだ」
「私もです。あそこ、ちょっとマイナーな作家の展示とかするのであんまり通い詰める人いないんですよ」
「ああ、そうなんだ。確か、一番最初に行ったときは知り合いの展示だったんで」
「医術誌の……」
「そうそう、そいつだね」
女はふむふむ、と話を聞いていたが、医療関係の仕事でもしているのだろうかと少しわくわくした。
「そういえば名前がまだだったね。私はランダル・アイボリー」
女も続いて自分の名前を名乗る。
「珍しい響きだね」
「日系なんです」
「なるほどね」
ちょうどそのタイミングでウエイターがコーヒーを運んできたので会話は一時中断されたが、男のほうがなだらかに会話を始めて、それに女が受け答えする。最初は美術館の話や、関連づいた話をしていたが、その流れはいつしか個人のことを語る段階に入った。
「結構色んな作家を知っているね」
「はい、自分の創作に生かしたくて」
「じゃあご自身も絵を描いてるんだ」
「そうです。まあ、売れたことはないんですけど……」
「見てみたいな。君の絵」
「あー……自分でいうのもなんですけれども、あんまり人受けするような絵でもないというか……」
「そのうちでいいよ」
そのあたりについて、男は深く追及しなかった。女が僅かに警戒の色を見せたので、もう少し距離を縮めてからこの話の続きをするほうが賢明だと考えた。その後は、他の趣味に関することや、現在の暮らしについてなどを自己紹介して、あとは好きな作家や作品への話でひとしきり盛り上がった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るもので、気が付けば窓から夕陽の光が差し込んでいた。
「だいぶ長い時間拘束しちゃったね」
「いえいえ、私も楽しかったです。また会ったらお話したいです」
男はにこっと微笑んだあと、照れくさそうに下を向いた。近くにいたウエイターに声をかけ、会計を済ませる。女がもたもたと財布を取り出したが、男がかたくなに受け取らなかったので財布を戻してお礼を言った。
「すみません……ありがとうございます。ご馳走様です」
「ううん、今日楽しかったから」
お互い名残惜しい思いを抱えつつ、それぞれの帰路につく。
繰り返しそのような出来事が続いたので、女のほうから男の連絡先を聞き、男もそれに応えた。偶然美術館で会う以外でも約束を取り付け、いろんなところへ出かけた。そうして時間が経過して行く中で、いつしか女が男に対して恋慕の情を抱き始め、男もそれらしい素振りを見せ始めた頃。
男が見たがっていた、女の描いた絵を見る機会が設けられた。それはすなわち、女の家にお呼ばれしたことになる。女は艶っぽい展開を期待しないでもなかった。如何せん、今までの人生を自分の気の向くまま芸術活動に捧げてきたため、三十路の壁が近くなった年だというのに、まるで男女経験がなかった。そのことを考えると、場所や状況を問わず、心臓の動きが速くなり、めまいがしたので、どうしたものかと頭を悩ませた。が、
「うーん、こんなボロアパートで、ないか……ないな……ムードとか、ないし……絵、見に来るだけだし……」
視界に広がるのは12畳の木造。家具は最低限で、お気に入りの丸デスクと椅子を実家から持ってきただけだ。絵具やキャンバスがそこかしこに散らばってて、どちらかといえばアトリエだった。勉強のために買った書籍はそのあたりに積まれている。建付けの悪いベッドが窓のある壁に引っ付けて置かれている。ただ、それだけだった。
やはり、こんな空間でなにか間違いが起ころうということはなさそうだと女は思った。それに、自分が気にかけているからといって、必ず相手がそうであるとも限らない。
ボロのほうはどうにもならないので、人を招くに失礼に当たらない程度に片付けと掃除に力を入れた。
当日は、男が直接、女の家へ訪問するというので、女は時間まで絵を描いていた。遠くで聞こえる街の喧騒をお供に作業を進めていると、古びたチャイムが聞こえたので、女は飛び上がった。除き窓も確認しないで扉を開けると、男が紙袋を携えて立っていた。
「いらっしゃいませ、わざわざありがとうございます」
「こちらこそ。よかったらどうぞ」
男が手に持っていた紙袋を女に渡す。中身は小綺麗な箱で身を包んだクッキーだった。
「あっ、私ここのパン好きなんです。クッキーは食べたことないのでうれしいっ」
「よかった。バターの香りがすごくおいしそうでね」
「お茶淹れますから、一緒に食べましょう」
女がどうぞどうぞと男を部屋に招き入れる。男もうやうやしく中へ入る。
「おお、すごいね。どこもかしこもキャンバスだらけ」
「ちょっと散らかってますが……」
「ふうん、すごいすごい……人の肌が生々しく描かれている」
小さな部屋に立ち並ぶ絵画は、ちょっとした美術館のようにもなっていた。
特に男の目を惹いたのは、正面を向いているが、視点が定まっていないように見える女の顔の絵だった。こちらを見ているようで、どこか不安定な視線にグロテスクな美しさを見出した。肌の色をよく見ると、血色の赤だけではなく、くすみの青や緑が透けて見えて、実に見事な筆さばきだった。
男があたりを見渡すと、様々な角度で描かれた顔の絵がたくさん連なっている。
「ふふ、顔描くのうまいね」
「えへへ、ありがとうございます」
「モデルは誰かいい人がいるのかな」
「そうですね、友人だったりが多いですかね」
「へえ……いいな、私もその友人だったらな」
「えっ!?」
女がいままでにないくらいの熱量で声をあげたので、男はつい驚いて肩を跳ねさせる。
「わ、わ、私、ランダルさんのお顔、描かせていただきたいです!」
というのも、女は常々男の顔を美しいものとして認識していた。周りの人間にはなかなかいないタイプの顔であることも相まって、いつかきっとこの人の顔をモデルにした絵を描いてみたいと願っていたものだった。そう思うことが、決して褒められたことではないと理解していたので、その思いを打ち明けられずにいた。
「あっ!すみません、つい……クロッキーだけでも、ランダルさんが嫌じゃなければ」
「いいよ別に。こういうのしたことないからちょっと恥ずかしいけど」
女が顔を綻ばせて喜ぶので、男はもっとそういう顔が見たくなった。
椅子を向かい合わせに並べて、膝を突き合わせるように座ったふたり。女がスケッチブックを広げて早速さらさらと鉛筆を紙の上で走らせる。男は顔を見つめあうのもなんだ、と思い、向かいの壁を見ていることにした。
視界の端で、女性が自分の顔を熱心に凝望している。いままでにない経験に男の心拍数が上がった。
部屋にはふたりの呼吸音と、秒針が時間を刻む音、鉛筆の鉛が紙の凹凸で削られる音が響くだけであった。
男がじっとしていることにも慣れて来た頃、女が椅子から立ち上がって椅子の位置を変えた。
「よ、横顔も描いていいですか?」
「いいよ、お好きなように」
女ははにかんだ。男の右側に椅子を置き、腰を落ち着かせ、再び紙に向かい合う。
「ああ、やっぱりきれい……」
「ん?」
「な、なんでもないです」
男は黙って聞こえないふりをした。
このふたりのことは、美術館の学芸員の間で噂になっている話があった。最近一緒に行動しているところをよく見る、実は前から交際が始まっている、などの浮いた話が行き来していた。誰から見ても好い関係に見えたふたりだった。
男はそれを理解していた。外堀を埋めて、あとは虎視眈々と、彼女の心に入り込む機会を狙っていた。
「夢中になっちゃってました。終わりにしましょうか」
考え事をしていた男の顔が、どんどん険しくなっていく様子に、女はそれを、疲れて退屈しているものだと受け取って、こわごわと声をかけた。
「ああ、ごめん。考え事していただけだよ」
男は女の手元にあるスケッチブックに目を移した。
「よければ見せてほしいな」
「あ、はい、どうぞ」
女はスケッチブックを男に手渡す。それを受け取って、はらはらとページを捲ると、上手に観察された顔が現れた。今日描いたものだけではなく、おそらく前から描き溜めていたものたちも数ページに渡って記されている。
「そういえば、身体のスケッチはあんまりないね」
「あぁ~……あんまり描くの得意じゃなくて……顔のほうが情報量が多くて画面が埋まるから楽しいんです」
女は痛いところを突かれて正直に答える。
「そうかな」
男はうーんと顎に手を当てて、瞼を閉じてじっと黙った。女はなにか気に障るようなこと言ったのかと心配になり、やたら髪を触ったりしてそわそわしていた。
男が再び目を開け、レンズ越しに女の顔を見る。
「人体も神秘的だと思うな。今、描いてみたら?」
「いま、とは」
女が真意を掴めないでいると、男は椅子に座ったままの姿勢でシャツのボタンをぷちぷちと外し始めた。
「あっ、あっ!な、なにを」
「私は君の絵が好きだと思ったから、君が描いた人体も見てみたいんだ」
ダメかな?と顔を傾げて伺う姿に、女は、こどものおねだりを連想して心臓がきゅうっとなにかに射貫かれた。
女が目の前で起きている状況に追いつかないでいると、男のほうはあっという間に、上半身に身に着けていたものをすべて取り払ってしまっていた。
男の身体は薄く、食が細いのだろうと思わせる程度のものだった。身体の中心に胸骨が浮いていて、肩の骨が張っている。女にはそれが酷く美しいものに見えた。
男性といえば、筋肉で覆われてがっしりと大きな体型をしているほうが魅力があるだろう。それなのに、骨の太さで男らしさと、女性的な形容詞である”華奢”な身体が融合して、どちらにも属さないゆらゆらとした不安定な様がとにかく女の心を鷲掴みにした。くらくらとめまいが引き起こされた。
単に、男の身体を生身で見たことがなかった女が、極端にその姿に興奮しただけとも取れるが。
男が、脱いだものを椅子の背もたれに掛けて立ち上がる。向かい側の椅子に寄ってしゃがみ、女の手を取り鎖骨のあたりを撫でさせる。
「どう? 自分のものとは随分違うんじゃない?」
「あっ、あ、えっと、」
「このあたりも、影を意識して描いたら画面が埋まって楽しいんじゃないかな」
催眠術のように低く語りかけ、身体に手を這わせる。男の姿は蠱惑的だった。
「知らないから描けないだけ。解像度が上がれば、もっと創作の幅は広がるよ」
「は、はい……」
「どう? 人の身体のことも知りたくなってきた?」
熱のこもった頭では、判断力を低下させ、好奇心を優位にさせた。黙ってしまうと、逆にそれらしい雰囲気になってしまうので、何か喋って誤魔化したかったが、女の頭は艶めきだったことでいっぱいになってしまった。
男が女の頬を撫で、そのまま顔を寄せて柔らかくキスをした。
「私は、君が自由に絵を描けるような援助がしたいな」
「え、えんじょ……」
「いまパトロンっていうとあんまり印象よくないんだっけ?」
「……それって、お金で助けてあげるから、その、代わりに……」
「ううん、そういうことじゃない」
「ではなぜ……」
「好きになっちゃっただけだよ」
男は、自分がいま持ちうる財力と、様々な経験を女に分け与えて不自由ない生活を送ってほしい。ただそれだけだったが、言葉が足らず、それが女には伝わりづらい。
「よく、わかってないんですけど……ただ」
「ただ?」
「ただ、私は、人間の美しさをえがきたいだけなんです」
目を覚ましたのは、日が落ちて月の明かりが、貧しい部屋と、ふたりの肌を照らした頃だった。
シングルベッドに大人ふたりでは過密だったが、いまはこのくらいが心地よかった。
「なんか、こじつけちゃったな」
男がぼそっと呟き、その後続けて内側を吐露する。
「それらしい理由つけて襲っちゃった。捕まるかな」
「アハハ、なんですかそれ」
「君に、好きに絵描きを続けてほしいのはホントのことだから」
「……ありがとうございます。でも、お金のことは自分でなんとかしますから」
女の言葉を聞いた男はがばっと起き上がり、月明かりだけを頼りに女の顔をしっかりと見る。
「好きなのは本当だから! 好きだから、助けてあげたいと思うのは不自然なことじゃないでしょう? 君は? 君は私のこと好きじゃない?」
この男は、つんと澄ましてしゃなりと歩いていたかと思えば、子どものように駄々をこねてわがままを言ってみせたりと忙しない。
女はくすくすと笑う。
「私も……ランダルさんこと好きですよ。だから、だと思います」
「よ、よくわかんないよ」
不安げな顔を見せていた男だったが、突然閃いたように目を見開いた。
「支援者じゃなくて、夫……ならいい!?」
「えっ!?」
女はいつの間に自分はそんなに惚れられていたんだ、と驚いた。
「プロポーズはちょっと早いかと」
「本気度を示したかった」
「……んふふ」
「な、なによ」
「傍若無人で貧乏で空想家な私でもよかったら」
「妻?」
「あっ、とりあえず彼女からで……」
直接表現ありませんが、性描写を匂わせてるので苦手な方はご注意ください。