pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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ここ数日間続いた気持ちのいい青空が広がる天気とは打って変わって、今日はバケツをひっくり返したような雨模様だった。空は灰色に曇り、室内は電気を灯していないと、昼間でも暗かった。そんな天気も相まって体調は最悪だった。
元々偏頭痛持ちの頭に更に鞭打つように、頭の中が締め付けられるような痛みが続いていた。私は、市販の痛み止めだとアレルギー反応のように身体が浮腫むので、服用を避けているけど、今日ばかりはかなり身体にこたえるので服用も検討しなければいけないかと考えていた。
重たい身体を持ち上げると、重力が頭を引っ張り、その衝撃で頭の中がずきずきと痛む。
その時、ふと、カフェインが血管に働きかけて頭痛を和らげる話を思い出した。無性にコーヒーが飲みたくなり、キッチンへ向かうことにした。
廊下を歩いていると、大きな雨粒が窓ガラスに強く当たり、ばたばたと音を奏でる。床のカーペットは湿気を吸い込んで、いつもと踏み心地が違う気がした。
カーペット、で思い出したけど、こういう時キティは床の下でじめじめと不快な思いはしていないのだろうか。かびとか、身体に心配だなあ。あとで様子を見て来ようかな。
キッチンに近づくにつれて、コーヒーのすっきりとした香りがどんどん強さを増した。自分以外にも、いまコーヒーが飲みたいと思った住人がいたようだ。さてさて、一体誰だろう、とキッチン入口の珠のれんを除けると、耳のついた黒い帽子を被った男がシンク台にあるコーヒーメーカーの仕事ぶりを見張っていた。ニェンだなあ。
どうやって声をかけようか迷っていると、相手の方が先にこちらの気配に気づいて振り向いた。私の顔を見るなり、ふん、と鼻を鳴らしてにやにやしだしたので、なんなんだ、とつい訝しげになった顔が隠せなかった。
「顔色わる」
やたら耳なじみのいいテノールでそう指摘されたので、急に恥ずかしくなり、頬を触ってなんとなく手の壁をつくる。
「え~……そうかなぁ、そうなのかぁ」
「具合悪いのか」
「うん。お天気のせいか頭痛くて」
会話を交えつつ、自分もコーヒーを淹れるためシンク台に近寄る。ニェンは相変わらず私の顔をじろじろ見ている。そうかと思えば、急にぷいっとそっぽを向いて棚からマグカップを取り出した。
「座ってろよ」
「えぇ?私もコーヒー欲しいの」
「いいから」
ニェンはぶっきらぼうに答えたが、私の今までの経験則からすると、きっとこれは彼がコーヒーを淹れてくれるとみた。
彼は普段、返事が素っ気なかったり、行動に乱暴さが垣間見えたりもするが、基本的に私に危害を及ぼすということはなく、むしろ最近は、何かと気にかけてくれる。
それではお言葉通りに、とダイニングチェアに腰掛ける。ここからだと、シンクに向かうニェンの大きくてたくましい背中が見える。淹れたてのコーヒーの香りに混じって、仄かに煙草のにおいが見え隠れする。雨の音と、あたたかいコーヒーがころころとマグカップに注がれていく音が気持ちいい。
うっとりと背中に見惚れていると、その背中がくるんと方向を変え、マグカップをふたつ手に持ちこちらに歩いてくる。なにも言わないまま、目の前のテーブルにゆっくりとマグカップを置き、私の隣の席に腰をかける。
マグカップにちょうどいい量のミルク入りのコーヒーが注がれており、その温度を示すようにふわふわと湯気がたっている。
「淹れてくれてありがとう」
ニェンはちらりとこちらを見た後、なにも言わずに自分のマグカップを持ち上げてコーヒーを啜る。
せっかくあたたかいコーヒーを淹れてもらったので、冷めないうちにいただこう。ニェンが淹れるコーヒーは、本人が好まないので酸っぱくないのがとても嬉しい。ミルクは、私がいつもそう淹れてるから気遣ってそうしてくれたのだろう。
「美味しいね」
「市販の豆挽いただけだ」
「選んでくれた豆がよかったんだね」
「棚の前の方に出てたやつ取っただけだ」
「も~、素直じゃないなぁ」
こんな他愛ない会話をするのが好きだ。
ここに来てすぐのころは、彼によく威嚇されたものだった。それがすごく怖かったから、なるべく関わらないようにしたいと思って、すれ違いざまは壁に寄って気配を殺して生活してたのも懐かしい思い出になりつつある。いまは過去のきっかけがあって、こうして何気ない会話をすることが可能になった。
会話を繰り返すうちに判明したことだが、ニェンは結構冗談好きだったりする。自分から言って、私を困惑させるのも好きだし、私からくだらないことを話しかけたりすれば、静かにはにかんで爪先で肩のあたりを小突いてくることもある。表情筋をたくさん動かすのは得意じゃないみたいだけど、彼の顔は能面じゃない。
そんな彼と少し会話がしたくて、共通の話題を引き出した。
「そういえば、おすすめの少女漫画全部読んだよ」
「すすめてねえ。そこにあったから渡した」
「うん、あのね、結構面白かったよ」
「ああ、まあそうだろうな」
「ランダルくん、あの漫画日本で人気って言ってたもんね」
「恋愛物語だけで終わらないからな」
「でも恋愛描写もよかったよ」
今日はご機嫌みたいで、よく喋ってくれる。
淹れてくれたコーヒーは、もう半分くらい減っていて、喉を通りやすい温度にまで下がっていた。だけど、飲み切ってしまうともったいないから、意味もなくマグカップを触るだけ触ってテーブルの上に置きっぱなしにしてみたり、ゆらゆらと中身を揺すってコーヒーを躍らせてみたり、私は、まだこの時間が終わらないでいてほしかったけど、ニェンの方はどうなんだろうか。
ちらりと隣の顔を見てみると、すぐそこに置いてあったコーヒー豆のパッケージの裏を眺めていた。
「ニェンは少女漫画読んできゅんきゅんしたくなる?」
「ない」
「つれないねえ」
一刀両断に返事をしたニェンの顔がマグカップで半分隠れている。ふうと一息ついてマグカップを机に置き、ゆっくりとこちらに向き直る。突然、私の顔をじっと見て動かなくなった。ニェンの吊り上がった眼光に捉えられ、私も目が離せなくなり、動けなくなった。
未だ残る頭痛が、ニェンの視線に脳が焼かれて痛んでいるのではないかと錯覚する。
「お前と、こうして過ごすことの方が居心地いいからな」
「ぁ、えっ?」
口を開いたかと思えば、捉えた視線を逃がさないまま、しびれるような低温ボイスで少女漫画のような糖度の高いことを言うので、つい間抜けな声が出てしまった。
しばらく時が止まった。頭の処理が追いついたとき、ようやくいまのは口説かれたと理解した途端、顔に熱が集まった。それをごまかしたくて鼻の頭を掻くと、くっくっく、と笑いを我慢しきれないような声が小さく聞こえた。ニェンがにやにやしている。もしかして……
「お前は少女漫画読んできゅんきゅんできるくらいお子ちゃまなんだからな」
「は、はぁー!?からかったの!?」
あっけらかんと、「はー、おもしろいおもしろい」と破顔するニェンについ小突きたくなった。だけど、席を立ってその場を離れたのでそれは叶わず。ニェンは自分のマグカップを軽く洗って水切りラックに置いてから、去り際に私の頭を大きな手で乱雑にぐちゃぐちゃと撫でて髪を乱した。
「それ飲んだら横になってろ、お子ちゃま」
それだけ残して珠のれんをさっとくぐってキッチンからいなくなってしまった。
学生のときに友人が
嘘をつくとき、
女は信じてほしいから目を見て顔を離さない
男はごまかしたいから視線を逸らす
っていう話をしてくれたのですが、(本当かどうかは置いといて)妙な説得力がありました。
私はこれが好きです。