許せなかった保育士の言葉
許せなかった保育士の言葉
「大好きなお母さんと一緒に食べれば、なんでもおいしいし、それが一番幸せでしょ」
これだけ聞けば、すごくまっとうで、そうだよね〜と思えるような言葉だけど、
私は、コレを言われて、許せなかったし、もうこの人には何も相談しないと思った。
たぶん、言った人は、聞いた人がこんなに反発するなんて思いもしなかっただろう。
でも、言った状況が悪かった。
どういう状況でこの意見が出てきたかというと、
肢体不自由児施設なんだから摂食指導をしてほしい、
という話が出た時のときの保育士の答えだった。
そして、続けて
「技術ばかりを追いかけても意味がない」とも言った。
菊太郎が2歳児のときから年中の夏まで通っていたこの肢体不自由児通園施設は、
人口200万人を超える政令指定都市の、
しかもセンター的な機能をしている通園施設だったのに、
摂食については実に淡白で、摂食指導をするSTは一人もいなかった。
給食を食べさせるのは、専ら母親で、
月に1回程度、給食の前半の20分間だけ保育士が食事介助をする日があるだけだった。
給食の形態を決めるのも母親で、
その決めた内容に対して、保育士がざっくり相談に乗ることはあっても、
専門的な知識に基づいて、意見をくれる人はどこにもいなかった。
この通園施設では、給食を用意する以外、
重症児が食べることに関して、ほとんどノータッチ。
食事介助の方法についても、
母親は、誰からも指導を受けることはできなかった。
保育士は、研修会などで自主的に勉強することはあっても、
それに基づいて、母親を指導することはない。
たぶん、職域上の制約か何かで、しないようにしていたんだと思う。
保育士は、今日明日の食事についてだけ考えているのかもしれないけれど、
私にとっては、今後の長い期間に、
自分の子がどういうものを食べて生活していくのかが、
重大な関心ごとだった。
そして、どのくらい食べる能力が身に付くかどうかは、
幼児期に勝負がかかっているという気がして、内心すごく焦っていた。
どんなに控えめに考えたって、
どういう形態のものを食べるのか、
食べるのが好きか嫌いか、
食事介助がしやすい人か、しにくい人かは、
この子の生活の質を大きく左右する重要な要素だ。
だいたい親がラブラブで抱っこして食べさせるなんて、
せいぜいできて4〜5才までだろう。
しかも、現実に、母親が膝の上で食べさせたって、
不味いものなんか怒って食べないんだ。
母さんが優しげな声をかけたら、
それだけで不味いものでもうれしがって食べるようになるのか????
そうやって、一生、普通の食事より不味いのを承知の上でペースト食を喰わすんか!????
それがお母さんの愛情いっぱいの食事なの??
親がいなくなったら、ただの不味いペーストだよ。
一生母親だけに食事介助されるわけでもあるまいよ。
上手に食べれるようになるようにするために、
おいしいものを食べられるようにするために、
喜んで積極的にご飯を食べられるようにするために、
どういう食事を用意し、それをどうやって食べさせるのがいいのか、
知識や技術を身につけようとするのだって母親の愛だよ。
それを、「技術ばかり追っても意味がない」ってどうよ。
そのあと、その保育士は、
「大好きな人と一緒に食べれば、何食べたっておいしいでしょ」と言った。
私は、やっぱり
「大好きな人と一緒に食べても、不味いものは不味いよ」と思った。
あぁ、価値観が違いすぎる。
そんな個人的な、普遍的でもない価値観で
公の療育の方向性は影響されてもいいのかい。
別の方法をムゲに否定するほど、正しい考え方かい。
私は、この時、自分の摂食に対する考え方を全面的に否定されたような気持ちになった。
まぁ、そんなつもりはなかったんだろうけど、そう感じてしまった。
なんせ、切羽詰っていた時期だったから。
大好きな人と、たいして美味くもないものを食べるのと、
たいして好きでもない人と、とびきり美味いものを食べるの、
どっちを選ぶ?
と、問われたら、私は後者を選ぶ。
他のお母さん達に聞いた感じでは、半々くらいだったかな。
飯が不味くなるほど嫌な人とは、一緒に食事したくないけど、
そんな人滅多にいない。
ほとんどの人は味にたいして影響しないよ。
この保育士さんは、食いしん坊じゃなかっただけかもしれない。
だけど、それでも、
私の価値観では、
何をどう食べるかは、一生の生活の質に影響する重要な課題なのだ。
技術だけだろうが何だろうが、
美味いものを、美味い状態で食べることは、
不味いものを食べ続けるより、幸せだよ。
うまいものを食べさせようとするのだって愛だ!
「大好きなお母さんと一緒に食べれば、なんでもおいしいし、それが一番幸せでしょ」
これだけ聞けば、すごくまっとうで、そうだよね〜と思えるような言葉だけど、
私は、コレを言われて、許せなかったし、もうこの人には何も相談しないと思った。
たぶん、言った人は、聞いた人がこんなに反発するなんて思いもしなかっただろう。
でも、言った状況が悪かった。
どういう状況でこの意見が出てきたかというと、
肢体不自由児施設なんだから摂食指導をしてほしい、
という話が出た時のときの保育士の答えだった。
そして、続けて
「技術ばかりを追いかけても意味がない」とも言った。
菊太郎が2歳児のときから年中の夏まで通っていたこの肢体不自由児通園施設は、
人口200万人を超える政令指定都市の、
しかもセンター的な機能をしている通園施設だったのに、
摂食については実に淡白で、摂食指導をするSTは一人もいなかった。
給食を食べさせるのは、専ら母親で、
月に1回程度、給食の前半の20分間だけ保育士が食事介助をする日があるだけだった。
給食の形態を決めるのも母親で、
その決めた内容に対して、保育士がざっくり相談に乗ることはあっても、
専門的な知識に基づいて、意見をくれる人はどこにもいなかった。
この通園施設では、給食を用意する以外、
重症児が食べることに関して、ほとんどノータッチ。
食事介助の方法についても、
母親は、誰からも指導を受けることはできなかった。
保育士は、研修会などで自主的に勉強することはあっても、
それに基づいて、母親を指導することはない。
たぶん、職域上の制約か何かで、しないようにしていたんだと思う。
保育士は、今日明日の食事についてだけ考えているのかもしれないけれど、
私にとっては、今後の長い期間に、
自分の子がどういうものを食べて生活していくのかが、
重大な関心ごとだった。
そして、どのくらい食べる能力が身に付くかどうかは、
幼児期に勝負がかかっているという気がして、内心すごく焦っていた。
どんなに控えめに考えたって、
どういう形態のものを食べるのか、
食べるのが好きか嫌いか、
食事介助がしやすい人か、しにくい人かは、
この子の生活の質を大きく左右する重要な要素だ。
だいたい親がラブラブで抱っこして食べさせるなんて、
せいぜいできて4〜5才までだろう。
しかも、現実に、母親が膝の上で食べさせたって、
不味いものなんか怒って食べないんだ。
母さんが優しげな声をかけたら、
それだけで不味いものでもうれしがって食べるようになるのか????
そうやって、一生、普通の食事より不味いのを承知の上でペースト食を喰わすんか!????
それがお母さんの愛情いっぱいの食事なの??
親がいなくなったら、ただの不味いペーストだよ。
一生母親だけに食事介助されるわけでもあるまいよ。
上手に食べれるようになるようにするために、
おいしいものを食べられるようにするために、
喜んで積極的にご飯を食べられるようにするために、
どういう食事を用意し、それをどうやって食べさせるのがいいのか、
知識や技術を身につけようとするのだって母親の愛だよ。
それを、「技術ばかり追っても意味がない」ってどうよ。
そのあと、その保育士は、
「大好きな人と一緒に食べれば、何食べたっておいしいでしょ」と言った。
私は、やっぱり
「大好きな人と一緒に食べても、不味いものは不味いよ」と思った。
あぁ、価値観が違いすぎる。
そんな個人的な、普遍的でもない価値観で
公の療育の方向性は影響されてもいいのかい。
別の方法をムゲに否定するほど、正しい考え方かい。
私は、この時、自分の摂食に対する考え方を全面的に否定されたような気持ちになった。
まぁ、そんなつもりはなかったんだろうけど、そう感じてしまった。
なんせ、切羽詰っていた時期だったから。
大好きな人と、たいして美味くもないものを食べるのと、
たいして好きでもない人と、とびきり美味いものを食べるの、
どっちを選ぶ?
と、問われたら、私は後者を選ぶ。
他のお母さん達に聞いた感じでは、半々くらいだったかな。
飯が不味くなるほど嫌な人とは、一緒に食事したくないけど、
そんな人滅多にいない。
ほとんどの人は味にたいして影響しないよ。
この保育士さんは、食いしん坊じゃなかっただけかもしれない。
だけど、それでも、
私の価値観では、
何をどう食べるかは、一生の生活の質に影響する重要な課題なのだ。
技術だけだろうが何だろうが、
美味いものを、美味い状態で食べることは、
不味いものを食べ続けるより、幸せだよ。
うまいものを食べさせようとするのだって愛だ!