トレイシー 日本人捕虜秘密尋問所(捕虜第一陣)(#8)
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捕虜第一陣
1943年(昭和18年)1月1日、「トレイシー」に日本兵捕虜の第一陣が到着した。合計で10名であった。前年11月中旬に、エンジェル島からアメリカ南部のルイジアナ州リビングストン捕虜収容所に送られたものの中から選ばれた捕虜たちであった。「トレイシー」の完成を待つ間、一時的にリビングストンに拘留されていたのである。
10名のうち7名は,前年10月12日、南太平洋ガダルカナル島攻防をめぐる戦闘で捕らえられた重巡洋艦「古鷹」(ふるたか)の乗組員である。「古鷹」は、アメリカ海軍が初めて使用したレーダーの威力の前に、サボ島沖の夜戦で、集中砲火を浴びて撃沈されていた。マツイショウタロウ以下7名が浮遊物につかまって漂流中に米軍に救助され捕虜となった。
残り3名は、同じくガダルカナル島攻防をめぐる第三次ソロモン海戦で11月15日に撃沈された軍艦「霧島」の乗組員であった。
ミッドウエーの敗者たち
第一陣到着の4日後、1月5日の夜、第二陣となる15名の捕虜たちが護送されてきた。第一陣同様、夜ふけの到着であった。
かれらは前年2月に中部太平洋のウェーク島沖で捕獲された特設哨戒艇「第五富久丸」の1名、6月、ミッドウエー海戦で被弾し沈没した空母「飛龍」の9名、それに、9月にアリューシャン列島のアトカ島湾内で撃沈された潜水艦呂号第61の5名、いずれも海軍の捕虜ばかりである。この三組は、エンジェル島のフォート・マクダウェル駐屯地で合流して以来の捕虜仲間であった。
「飛龍」は1942年6月6日に沈没した。
逃げ道をすべて遮断されてしまった中で、捕虜は機関室に閉じ込められた。「飛龍が受けた爆撃は、甲板を徐々に沈下させていった。捕虜たちは、船舶の隔壁に鏨(たがね)で人が出られるだけの大きな穴をあけた。脱出する方向をみつけて海に飛び込んだ。
生き残った機関室乗組員たちを乗せたカッター(大型ボート)が、2週間、海原の真ん中で漂流した。最初、将校とその部下39名は、オールを漕ぐ位置につき、船の旗をはためかせながら、ウェーク島に向かった。しかしその船には食料の備えがなかった。2ケ―スのビールと少量のビスケット、沈没の直前に急いで船に積み込まれた携帯食料品は、乗組員にほんの少しずつしか分配されなかった。それはあっという間になくなってしまった。空腹に堪えかねて海水を飲んだ4人の機関員は死んだ。・・・・
結局米軍に救助された。
救助したアメリカ側が最も驚いたことは、敵の捕虜になるよりも集団自決を図ろうとする乗組員の心理だけでなく、「飛龍」には救命用具が設置されておらず、救命ボートもわずかしか積載されていなかったことであった。
「飛龍」の奇跡的な生存者の中に、存命の一人の乗組員がいた。機関員の永井未人氏、90歳(2010年当時)である。
戦後、熊本県で警察官として長らく犯罪捜査に携わっていた永井氏は、こう言っている。
「アメリカは、やっぱり紳士的でしたな。拘留所などこでも人権の尊重は徹底しとったです。私がなんぼ暴言はいても、絶対暴力は振るわなかったですよ」
この永井氏の言葉に対して、著書は述べている。
「アメリカの捕虜にたいして紳士的であったことを、かれは何度も繰り返した。「トレイシー」の尋問官たちは、礼儀正しく親切に日本人捕虜を扱うことで、証言を拒むかれらの口をひらくことができると理解していたからである。」
木庵の横槍的な見解
<アメリカは捕虜に対して紳士的であったというのは、あくまでも「トレイシー」での捕虜たちに対してであった。一般的にどうであったかというと、公にされるところはジュネーブ条約を守っているように見せかけている。裏ではそうとう厳しいものがあったようである。
以前に読んだ本によると、アメリカ軍が日本の駆逐艦などを沈めたあと、日本兵が海上に多く浮遊している場合、一斉襲撃して全員を殺してしまったという。捕虜にすると面倒であるので、戦場で殺したことにしたのである。そのような目にあった生き残りの人の証言である。
アメリカは戦勝国であるので、戦時中のこのような出来事においての生き残った人の証言があっても、隠し通すことができた。
証拠となる写真を提示する。艦隊の甲板の上で、裸にされ辱めを受けている一人の日本兵の姿がある。彼は行水のようなことをさせられて、甲板の上にいたアメリカ兵衆人のなかに曝けだされている。彼の近くを取り囲んでいるアメリカ兵の中には、こん棒のようなものをもっているのがいる。このこん棒で殴ることもあったのだろう。この写真は当時のアメリカ兵の日本兵に対する憎しみを表現している。また捕虜への虐待の象徴的なものである。
もう一つの写真も提示する。これは南方での戦いで亡くなった日本兵の髑髏制作の一場面である。切り取った頭を煮て、肉の部分を取り除き、骨だけにする作業である。日本兵の髑髏は土産にされたり、売られたらしい。アメリカの本土では美しい女性が彼女のリビングルームに日本兵の髑髏を飾っていたことがあったという。
キリスト教文化ではないが、死ぬと魂と肉体に分かれるので、髑髏はただのそこらの動物の骨ぐらいにしか考えなかったのだろう。
木庵の知り合いのアメリカ人の証言がある。彼はニューギニアなどで日本軍と戦ったのだが、彼の仲間には日本兵の死体のなかから、シンボルになるところを切り取って、乾かし輪のようになったものを数珠繋ぎにして誇らしげに持っていたという。
このような考えられないような趣味はカーター先生にもある。先生の家に人間の髑髏が置いてあったのである。それは南米などのインディオの髑髏で、おそらく発掘によって出てきたものであろう。時代が古いとはいえ、髑髏を家に飾る感覚がいまだに理解できない。
もう一つ、ベトナム戦争でのアメリカ軍のベトナム人の捕虜の扱い方について書く。これは日系人で実際にベトナム戦争に行った人の証言である。
戦場で捕まえたベトコンを尋問するのだが、ベトコンの基地をなかなか白状しない。そこで、
尋問している捕虜をヘリコプターに乗せ、地上を離れ数十メートルに到達すると、その捕虜の中の一人を突き落としたという。「次はお前の番だ」という恐怖のあまり白状したという。おそらく白状したあと、秘密のうちに殺されたことであろう。生き残ったベトコンが戦後そのようなことを喋られると問題になることは分かっているからである。
このようなことをしなければ自分たちも殺されるというような戦場の過酷さがあったのだろうが、木庵が信じる日本軍はそこまでするのはほんの稀しかなかったようだ。
捕虜虐待をおこなっていたのは連合軍であり、日本軍はジュネーブ条約を守り、絶対的とは言わないが捕虜の扱い方はまともであったようである。言うことをきかすために、殴るようなことはあっただろうが・・・
「トレイシー」での日本兵への扱い方が紳士的であったのは前述したように重要な情報を得たいためである。東京大空襲などの一般市民を殺すための情報を紳士的な態度で入手したのである。結果としては、紳士的に空から一般市民を皆殺しにしたのである。それがアメリカ軍の実態である。木庵>
「飛龍」機関長相宗邦造海軍中佐の供述
「飛龍」の捕虜の最高位であった機関長の相宗邦造海軍中佐は、戦争捕虜の心理状態を問われて、次のように供述している。
≪日米の間で戦争捕虜に関する考え方は大きく違う。われわれ捕虜たちの立場は大きく三つに分かれる。
(1)自分が今後どうなるか、戦争中と戦争終結後、ここに収監しつづけるのか、日本に送還されるのか気にすることなく、従って恥辱という感覚を持たない者。
(2)「生きて虜囚の恥を受けず」という意識を常に持ち、機会さえあれば自決すると思われる者。
(3)生きて日本に帰り、恥辱の意識とともに生きながらえるべきか、日本に送還される前に自決の道を選ぶべきか、強い精神的葛藤に苛まれている者。
自分自身はこれらの中でどのタイプなのか、この捕虜が明言することはなかった≫
相宗中佐は45歳、海軍機関学校卒業、鎌倉の留守宅に妻と三人の子どもがいた。
≪ガダルカナル島から日本軍が撤退したことを知らされると、捕虜は非常に驚いた様子を見せたが、それについて何も語ることはなかった≫
こう報告書に付記されているように、相宗中佐が「トレイシー」で尋問を受けていた1943年2月は、まさに日本軍がガダルカナル島から撤退していた時期にあたり、その速報にかれは大きな衝撃を受けている。相宗中佐はこの後、捕虜となった責任を一身に背負って何度もの自決をはかった。だがすべて失敗した。やがて重い精神障害に陥り、苦悩の歳月を送ることになる。
潜水艦乗組員の悲劇
1942年(昭和17年)9月6日、アリューシャン列島の東端、ウナラスカ島ダッチハーバーの米海軍基地で撮影された数枚の写真がある。ものものしい警備隊にかこまれて衆人監視の中を、アメリカ本土へ護送されようとする5名の日本兵捕虜たちである。白布で目隠しをされ、手錠、ロープで数珠繋ぎにされて軍艦のタラップに向かう様子は痛々しい。
9月といえば、この地方は初冬である。すでに雪をみた。
捕虜たちは、9月1日に、米駆逐艦「レイド」に撃沈された潜水艦呂号第61の乗組員だった。
砲長の牧野一則上等兵曹(26歳)以下、内門義雄二等兵曹(23歳)、略 の5名である。
潜水艦呂号第61は、1924年竣工の旧式潜水艦である。開戦以来、日本海軍12番目に
喪失した艦であった。牧野上等兵曹以下5名は、真珠湾攻撃時に特殊潜航艇で捕虜第一号となった酒巻和男少尉をのぞいて、日本海軍の潜水艦乗組員として初めての捕虜となったのである。
5名の生存者のうち内門義雄氏はこの本が書かれたときには91歳で健在であった。
内門の「トレイシー」での尋問調書はすべて今日残されている。
戦後、1968年(昭和43年)にしるした「呂號第61潜水艦沈没状況報告書」という内門の手記が現在、防衛省防衛研究所図書館におさめている。
潜水艦には徳富利貞艦長以下64名が乗り組んでいた。応戦すべくただちに浮上、だが、「レイド」の砲撃の前になすすべもなかった。・・略・・
水温9度、凍てつく海に、身体は数分ももたなかった。体温をうばわれ身体がこわばってきた。先に飛び込んだものから順々と力尽きていった。乗組員たちは、母や妻の名を呼びながら次々に海中に沈んでいった。徳富艦長もすぐに力尽きた。その横を泳いでいた内門は「艦長ーッ、 艦長ーッ」と二度、大声で叫んだ。かれは泳ぎが得意だった。何とか艦長を助けようと懸命に手をさしのべた。しかし、まもなく徳富艦長は、内門の足元を真っ青な海底深くに吸い込まれていった。熊本県水俣市出身の徳富利貞艦長は、徳富蘇峰.蘆花兄弟の家系につながる跡取りだった。
写真:アメリカ軍により日本兵への虐待の様子、日本への死体から髑髏を制作中のアメリカ兵。
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