English Text Analysis

September 1, 2024
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You said:
#以下の文章は、Joel Best著、Social Problems, 3rd edition 第2章からの抜粋です。 以下の{英文}について、 英語学習者のレベルを想定して、そのレベルに合わせた内容で考えて、 手順に従って出力してください。 【手順】 1: 下記の{英文}から、ピリオドで区切られた1{文章}ごとに順に抜き出して 2: 下記の{出力項目}について、下記の{出力フォーマット}に従って、 3: 全ての文章が終わるまで、手順を1から繰り返してください。 【出力項目】 ・番号: その{文章}の順番(例:1 ) ・文章: その{文章} (ピリオドで区切る) ・日本語訳: その{文章}の日本語訳 ・英単語や英熟語: 重要な{英単語や英熟語}を選んで、その日本語での品詞名と、日本語での意味 ・読解のポイント: 以下の条件を守って考えて - {日本語訳}の繰り返しや注釈は再説明は絶対にしないで、 - {日本語訳}を読めば簡単にわかるような内容は省いて、 - {文章}の全訳は書かずに、 - {英単語や英熟語}の説明を繰り返さずに、 - なぜ先述したような日本語訳になるのかが納得できない生徒に丁寧に教え直すように、 - 日本語で、 - {英文}の作者が伝えたいことを読み解きながら、 - {文章}と前後の文章や英文全体との関係性から書き始めて、 - {文章}を分解して、文法学的な解読プロセスのみを詳しく教示して、 【出力フォーマット】 ----------------------------- {番号} {文章} - {日本語訳} 【ピックアップ】 - {英単語や英熟語} (品詞名) 意味 【解説】 - {読解のポイント} ----------------------------- 【英文】 ----- Chapter 2: Claims Anyone who follows the news cannot help but hear claims about new social problems. Stories on news websites announce that doctors have identified a new disease, or that scientists have discovered a new environmental threat. Television commentators warn that a dangerous new drug is spreading, or that law enforcement is battling a new crime. Bloggers discuss new problems brought on by technological development or changing lifestyles. Often the new problem has a catchy name, such as road rage, the digital divide, human trafficking or racial profiling. Suddenly, the brand-new term seems to be on everyone's lips. In many cases, interest in the new problem will prove to be short-lived; people worry about it for a time, but then their attention will wander. But other terms--think of sexism, which first entered the language around 1970--seem to take up permanent residence in our societies vocabulary and consciousness, and the problem they identify remain topics of concern. Constructing a new social problem involves making claims--that is, calling attention to a troubling condition. Claims are the first element in the social problems process, and they are this chapter's focus. After examining the basic structure of claims, we will consider how audiences respond to them, how they evolve, and where they fit in the larger culture.
ChatGPT said:
ChatGPT

了解しました。それでは、手順に従って進めます。


1

Anyone who follows the news cannot help but hear claims about new social problems.

ニュースを追っている人は誰でも、新しい社会問題に関する主張を聞かざるを得ません。

【ピックアップ】

  • cannot help but (熟語) ~せざるを得ない
  • claims (名詞) 主張
  • social problems (名詞) 社会問題

【解説】

  • 「cannot help but」は「~せざるを得ない」という意味で、強制的に何かを行うことを表します。この場合、ニュースを見ていると自然に「新しい社会問題に関する主張」を聞いてしまうことを意味しています。「claims」はここでは「主張」と訳され、「new social problems」は「新しい社会問題」を指しています。文全体として、ニュースを追うことによって新しい社会問題に関する情報が必ず伝わってくることを示しています。

2

Stories on news websites announce that doctors have identified a new disease, or that scientists have discovered a new environmental threat.

ニュースサイトのストーリーは、医者が新しい病気を特定したり、科学者が新しい環境の脅威を発見したりしたと発表します。

【ピックアップ】

  • announce (動詞) 発表する
  • identified (動詞) 特定した
  • environmental threat (名詞) 環境の脅威

【解説】

  • この文章では、ニュースサイトが報告する内容について述べています。「announce」は「発表する」という意味で、ニュースの中で何が報告されているかを示しています。「doctors have identified」は「医者が特定した」、つまり新しい病気が見つかったことを指します。同様に「scientists have discovered」は「科学者が発見した」、つまり新しい環境の脅威が明らかになったことを示しています。

3

Television commentators warn that a dangerous new drug is spreading, or that law enforcement is battling a new crime.

テレビのコメンテーターは、危険な新しい薬物が広がっていることや、法執行機関が新しい犯罪と戦っていることを警告します。

【ピックアップ】

  • warn (動詞) 警告する
  • spreading (動詞) 広がっている
  • law enforcement (名詞) 法執行機関
  • battling (動詞) 戦っている

【解説】

  • ここでは、テレビでの報道内容について説明しています。「warn」は「警告する」という意味で、危険に関する注意喚起を表します。「spreading」は「広がっている」という意味で、新薬物が広がる現象を示しています。「law enforcement」は「法執行機関」であり、「battling」は「戦っている」という意味で、新しい犯罪に対する取り組みを表しています。文全体は、テレビが新たな危機について警鐘を鳴らす役割を担っていることを強調しています。

4

Bloggers discuss new problems brought on by technological development or changing lifestyles.

ブロガーたちは、技術の進歩や生活様式の変化によってもたらされた新しい問題について議論します。

【ピックアップ】

  • discuss (動詞) 議論する
  • brought on (熟語) もたらされた
  • technological development (名詞) 技術の進歩
  • changing lifestyles (名詞) 変化する生活様式

【解説】

  • この文章では、ブロガーたちが取り上げる問題について説明しています。「discuss」は「議論する」という意味で、何かについて話し合う行為を示します。「brought on」は「もたらされた」という意味で、技術の進歩や生活様式の変化が新しい問題を引き起こしたことを表します。「technological development」は「技術の進歩」、「changing lifestyles」は「変化する生活様式」を意味し、これらが新たな問題の原因として捉えられています。

続けて他の文章も同様に進めていきますか?

You said:
続けてください。
ChatGPT said:
ChatGPT

承知しました。続けて進めます。


5

Often the new problem has a catchy name, such as road rage, the digital divide, human trafficking or racial profiling.

新しい問題には、しばしば「ロードレイジ」や「デジタル・ディバイド」、「人身売買」や「人種プロファイリング」などのキャッチーな名前が付けられます。

【ピックアップ】

  • catchy (形容詞) キャッチーな
  • road rage (名詞) ロードレイジ(運転中の暴力行為)
  • digital divide (名詞) デジタル・ディバイド(情報格差)
  • human trafficking (名詞) 人身売買
  • racial profiling (名詞) 人種プロファイリング

【解説】

  • この文章では、新しい社会問題に付けられる名前について述べています。「catchy」は「キャッチーな」、つまり人々の関心を引きやすいことを意味します。「such as」は「~のような」という意味で、いくつかの具体例を挙げる際に使われています。ここで挙げられている「road rage」や「digital divide」などは、具体的な社会問題を指し、それぞれにキャッチーな名称が付けられていることがわかります。

6

Suddenly, the brand-new term seems to be on everyone's lips.

突然、その新しい用語が皆の口にのぼるようになります。

【ピックアップ】

  • suddenly (副詞) 突然
  • brand-new (形容詞) 真新しい
  • on everyone's lips (熟語) 皆の口にのぼる

【解説】

  • この文章では、新しい社会問題に関連する用語が急速に広がる様子が描かれています。「suddenly」は「突然」と訳され、何かが急に起こることを示しています。「brand-new」は「真新しい」という意味で、新しく作られたばかりの言葉を指します。「on everyone's lips」は直訳すると「皆の口にのぼる」で、多くの人々がその言葉を頻繁に使い始める様子を表現しています。

7

In many cases, interest in the new problem will prove to be short-lived; people worry about it for a time, but then their attention will wander.

多くの場合、新しい問題への関心は短命であることが証明されます。人々はしばらくの間そのことを心配しますが、やがて注意が散漫になります。

【ピックアップ】

  • interest (名詞) 関心
  • short-lived (形容詞) 短命な
  • attention (名詞) 注意
  • wander (動詞) 散漫になる

【解説】

  • この文章では、社会問題への関心が長続きしないことについて述べています。「interest」は「関心」、つまり人々が新しい問題に対して興味を持つことを示します。「short-lived」は「短命な」と訳され、その関心が長く続かないことを表します。「attention will wander」は「注意が散漫になる」という意味で、最初は集中していたものの、時間とともにその問題への意識が薄れていく様子を描いています。

8

But other terms--think of sexism, which first entered the language around 1970--seem to take up permanent residence in our societies vocabulary and consciousness, and the problem they identify remain topics of concern.

しかし、例えば1970年頃に言語に登場した「性差別」のように、他の用語は私たちの社会の語彙と意識の中に恒久的に定着し、その用語が指し示す問題は依然として関心の対象であり続けます。

【ピックアップ】

  • take up permanent residence (熟語) 恒久的に定着する
  • vocabulary (名詞) 語彙
  • consciousness (名詞) 意識
  • remain (動詞) ~であり続ける
  • topics of concern (熟語) 関心の対象

【解説】

  • この文章では、一部の社会問題が長期的に関心を引き続けることについて述べています。「take up permanent residence」は「恒久的に定着する」と訳され、問題が社会に深く根付いていることを示しています。「vocabulary」と「consciousness」はそれぞれ「語彙」と「意識」を意味し、これらが社会全体に浸透していることを表現しています。「remain topics of concern」は「関心の対象であり続ける」という意味で、問題が継続的に注目され続けることを示しています。

9

Constructing a new social problem involves making claims--that is, calling attention to a troubling condition.

新しい社会問題を構築することは、つまり、問題のある状態に注意を喚起することを含みます。

【ピックアップ】

  • constructing (動詞) 構築する
  • involves (動詞) 含む
  • making claims (熟語) 主張をする
  • calling attention (熟語) 注意を喚起する
  • troubling condition (名詞) 問題のある状態

【解説】

  • この文章では、新しい社会問題を作り出す過程について述べています。「constructing」は「構築する」と訳され、社会問題を作り出すことを意味します。「involves」は「含む」と訳され、その構築過程に何が含まれているかを示しています。「making claims」は「主張をする」、「calling attention」は「注意を喚起する」という意味で、問題を広く認識させることを指します。「troubling condition」は「問題のある状態」と訳され、主張される問題の内容を指しています。

10

Claims are the first element in the social problems process, and they are this chapter's focus.

主張は社会問題のプロセスにおける最初の要素であり、この章ではそれに焦点を当てています。

【ピックアップ】

  • first element (名詞) 最初の要素
  • process (名詞) プロセス
  • focus (名詞) 焦点

【解説】

  • この文章では、社会問題の形成における主張の重要性について述べています。「claims」は「主張」、ここでは「first element」として、「最初の要素」であると説明されています。「process」は「プロセス」、つまり社会問題がどのように形成されるかという過程を指します。「focus」は「焦点」、つまりこの章がどこに注目しているかを示しており、この章が主張について深く掘り下げていることを明確にしています。

11

After examining the basic structure of claims, we will consider how audiences respond to them, how they evolve, and where they fit in the larger culture.

主張の基本構造を検討した後、我々はそれに対する聴衆の反応、それがどのように進化するか、そしてそれがより大きな文化の中でどのように位置づけられるかを考察します。

【ピックアップ】

  • examining (動詞) 検討する
  • basic structure (名詞) 基本構造
  • respond (動詞) 反応する
  • evolve (動詞) 進化する
  • fit in (熟語) 位置づけられる
  • larger culture (名詞) より大きな文化

【解説】

  • この文章では、この章で扱う内容が紹介されています。「examining」は「検討する」という意味で、まず主張の基本構造を分析することが示されています。その後、「audiences respond to them」は「聴衆の反応」を、「evolve」は「進化する」を、「fit in」は「位置づけられる」という意味で、これらが主張の展開とその文化的な影響についてどのように関連するかが説明されます。「larger culture」は「より大きな文化」で、社会全体の文脈の中での主張の位置づけを示しています。

これで全ての文章に対して手順を完了しました。何か追加の質問や別のリクエストがあれば、お知らせください。

You said:
英検2級レベルの生徒を想定し、以下の英文を用いて、①和訳を行い、②重要な英単語や熟語(例:5つ以上)をピックアップし、それぞれの品詞名と意味を明記し、③英文の文法的な解説(例:主語、述語、修飾語の関係など)を行ってください。#「頑張れ」の10乗 ------ Chapter 1.The Social Problems Process  The title of this book identifies its subject: social problems. But what are social problems? If asked, most people have no difficulty listing some examples: crime, suicide, racism, sexism, terrorism, climate change. Most people have a commonsense notion of what the term means, but actually defining the concept turns out to be much trickier. Suppose we agree that suicide and climate change are both social problems. What, exactly, do the two have in common? They seem very different: we usually think of suicide as an extremely personal act, committed by individuals who feel isolated and in despair, whereas climate change involves physical warming across a whole planet. What sort of definition can cover both individual acts and global transformation?
ChatGPT said:
ChatGPT

了解しました。以下に、①和訳、②重要な英単語や熟語のピックアップ、③文法的な解説を行います。


①和訳


Chapter 1: The Social Problems Process

第1章: 社会問題のプロセス


The title of this book identifies its subject: social problems. But what are social problems?

この本のタイトルは、その主題を示しています。それは社会問題です。しかし、社会問題とは何でしょうか?


If asked, most people have no difficulty listing some examples: crime, suicide, racism, sexism, terrorism, climate change.

質問された場合、ほとんどの人は例を挙げることに困りません。犯罪、自殺、人種差別、性差別、テロ、気候変動などです。


Most people have a commonsense notion of what the term means, but actually defining the concept turns out to be much trickier.

ほとんどの人はその言葉の意味について常識的な考えを持っていますが、実際にその概念を定義することははるかに難しいことがわかります。


Suppose we agree that suicide and climate change are both social problems.

仮に、自殺と気候変動が両方とも社会問題であると同意したとしましょう。


What, exactly, do the two have in common?

では、具体的にこの二つにはどんな共通点があるのでしょうか?


They seem very different: we usually think of suicide as an extremely personal act, committed by individuals who feel isolated and in despair, whereas climate change involves physical warming across a whole planet.

それらは非常に異なるように見えます。自殺は孤立し、絶望した個人によって行われる極めて個人的な行為と考えられる一方、気候変動は地球全体で物理的な温暖化を伴います。


What sort of definition can cover both individual acts and global transformation?

どのような定義が、個人的な行為と地球規模の変革の両方を包含できるでしょうか?


②重要な英単語や熟語のピックアップ


  • identify (動詞) ~を特定する、示す
  • subject (名詞) 主題、テーマ
  • commonsense (形容詞) 常識的な
  • tricky (形容詞) 難しい、扱いにくい
  • in common (熟語) 共通して

③英文の文法的な解説


  1. The title of this book identifies its subject: social problems.
  • 主語: The title of this book(この本のタイトル)

  • 動詞: identifies(特定する)

  • 目的語: its subject(その主題)

  • 補語: social problems(社会問題)

    この文は主語、動詞、目的語、補語から成り立つシンプルな構造です。タイトルが「社会問題」という主題を特定していることを述べています。


  1. But what are social problems?
  • 主語: social problems(社会問題)

  • 動詞: are(~である)

  • 補語: what(何)

    疑問詞「what」を使った疑問文で、「社会問題とは何か?」と尋ねています。


  1. If asked, most people have no difficulty listing some examples: crime, suicide, racism, sexism, terrorism, climate change.
  • 条件節: If asked(もし尋ねられたら)

  • 主語: most people(ほとんどの人)

  • 動詞: have(持つ)

  • 目的語: no difficulty(困難がない)

  • 補語: listing some examples(いくつかの例を挙げること)

    この文では、条件節「If asked」が省略された形で使われています。「most people」が「no difficulty」を「have」しているという構造で、「いくつかの例を挙げるのに困難がない」と述べています。


  1. Most people have a commonsense notion of what the term means, but actually defining the concept turns out to be much trickier.
  • 主語: Most people(ほとんどの人)

  • 動詞: have(持つ)

  • 目的語: a commonsense notion of what the term means(その言葉が何を意味するかについての常識的な考え)

  • 対比: but actually defining the concept turns out to be much trickier(しかし実際にその概念を定義することははるかに難しい)

    この文は対比を含む複合文です。最初の節では「ほとんどの人がその言葉の意味について常識的な考えを持っている」と述べ、次に「しかしその概念を定義することは難しい」と対比しています。


  1. Suppose we agree that suicide and climate change are both social problems.
  • 命令文: Suppose(仮定する)

  • 主語: we(私たち)

  • 動詞: agree(同意する)

  • 従属節: that suicide and climate change are both social problems(自殺と気候変動が両方とも社会問題である)

    「Suppose we agree」で「仮に私たちが同意したと仮定すると」となり、その内容を「that以下」で説明しています。


  1. What, exactly, do the two have in common?
  • 疑問詞: What(何)

  • 副詞: exactly(正確に)

  • 助動詞: do(~する)

  • 主語: the two(その二つ)

  • 動詞: have(持っている)

  • 補語: in common(共通して)

    疑問文で、「その二つの共通点は何か?」と尋ねています。「exactly」は強調として使われています。


  1. They seem very different: we usually think of suicide as an extremely personal act, committed by individuals who feel isolated and in despair, whereas climate change involves physical warming across a whole planet.
  • 主語: They(それらは)

  • 動詞: seem(~のように見える)

  • 形容詞: different(異なる)

  • 説明文: we usually think of suicide as an extremely personal act(私たちは通常、自殺を非常に個人的な行為と考える)

  • 対比: whereas climate change involves physical warming across a whole planet(一方で気候変動は地球全体にわたる物理的な温暖化を伴う)

    この文では、「They seem very different」がメインの構造で、その後の内容が「whereas」で対比されています。前者は自殺を個人的な行為と捉え、後者は気候変動を地球規模の問題として説明しています。


  1. What sort of definition can cover both individual acts and global transformation?
  • 疑問詞: What(どんな)

  • 主語: sort of definition(種類の定義)

  • 助動詞: can(~できる)

  • 動詞: cover(包含する)

  • 目的語: both individual acts and global transformation(個人的な行為と地球規模の変革の両方)

    疑問文で、「どんな定義が個人的な行為と地球規模の変革の両方を包含できるか?」と尋ねています。「both A and B」は「AとBの両方」という意味です。


これで英文の和訳、重要な単語や熟語のピックアップ、そして文法的な解説が完了しました。さらに質問があればお知らせください。

You said:
階層的なリスト形式で ----- 第2節 三つの相互作用  「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい。  周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interation)と呼んでいる。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。  「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。  この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている3)。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている。  とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば4)、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる。  ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる5)。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば6)、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう7)。  確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう。とはいえ、両者は同一のものではない。前者には、異質な個々人が未だ共通の定義(有意味シンボル)を成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、共通の定義ないしは有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである。すなわち、ブルーマーにおける「社会的相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである。  ブルーマーの「シンボリックな相互作用」概念には、正確には、二つのシンボリックな相互作用が含まれている。そして彼が主たる分析の対象としたのも、非シンボリック相互作用ではなく、このシンボリックな相互作用に他ならない8)。  ブルーマーによれば、シンボリックな相互作用とは、そこにおいて「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為」(Blumer,1966=1969a,pp.65-66=1991年、84頁)している社会的相互作用を指す。シンボリック相互作用論の基本的前提のうち、第三の基本的前提、すなわち、「事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative process)を通じて、操作されたり修正されたりする」という前提を踏まえるならば、そうした「解釈」は、その個人の「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」を通じて行われているのであり、またその第一の基本的前提、すなわち、「人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する」という前提を踏まえるならば、その結果として付与した「意味」(meaning)に基づいて、その個々人は、互いに相手に対して行為を行うことになる。なお、こうした相互作用を、ブルーマーが、「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)と、「他者が如何に行為するべきかに関する表示を、他者に伝達」する「定義」(definition)から構成されているもの9)と捉えていることからも分かるように、この「身振り」(gesture)は、それが向けられる個人に対して、その個人がどのように行為するべきかを指示する機能を持っている。そうした身振りを媒介として、人々は相互作用を行っている。とはいえ、その相互作用において、その身振りが、それが向けられた個人によって「解釈」され、またその結果としてそれに「意味」が付与されるが故に、この相互作用は「身振り会話」とは呼ばれずに、「シンボリックな相互作用」と呼ばれることになる。  次節では、ブルーマーにおいて「社会」とは、如何なるものと把握されているのか、またその「社会」が如何なるメカニズムによって形成されるものと捉えられているのか、その内実を明らかにすることにしたい。
ChatGPT said:
ChatGPT

以下に、提供されたテキストを階層的なリスト形式で整理しました。


  1. 第2節 三つの相互作用

    1.1 ブルーマーの社会観

    • 「シンボリックな相互作用としての社会」(Blumer, 1962) という表現から明らかなように、ブルーマーにとって「社会」とは「社会的相互作用」の範疇に入る。
    • 本節の目的: ブルーマーの社会的相互作用の把握を検討する。

    1.2 ブルーマーの社会的相互作用の二つのレベル

    • 1.2.1 非シンボリック相互作用 (non-symbolic interaction)

      • 個人が他者の行為を解釈せずに直接的に反応する。
      • 例: ボクサーが相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げる反射的な動作 (Blumer, 1969b, p.8 = 1991年, 10頁)。
    • 1.2.2 シンボリックな相互作用 (symbolic interaction)

      • 個々人が互いの行為を解釈し合い、その解釈に基づいて反応する。
      • ミードの「有意味シンボルの使用」に相当する (Blumer, 1969b, p.8 = 1991年, 10頁)。

    1.3 ブルーマーの理論への問題提起

    • 「有意味シンボル」が「共通の定義」と同義で用いられている場合、ブルーマーの「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論には問題が生じる。
    • 循環論の可能性: 有意味シンボルの成立が有意味シンボルの使用によってのみ可能となる説明になる。

    1.4 三つの相互作用の必要性

    • 1.4.1 非シンボリック相互作用

      • 他者の行為を解釈せずに直接反応する相互作用。
    • 1.4.2 未成立のシンボリックな相互作用

      • 有意味シンボルがまだ成立していない状態でのシンボリックな相互作用。
    • 1.4.3 有意味シンボルの使用としてのシンボリックな相互作用

      • 有意味シンボルを使用して行われるシンボリックな相互作用。

    1.5 ブルーマーのシンボリックな相互作用の詳細

    • シンボリックな相互作用の定義

      • 人々が互いの身振りを解釈し、解釈によって生み出された意味に基づいて行為する社会的相互作用 (Blumer, 1966 = 1969a, pp.65-66 = 1991年, 84頁)。
    • ミードの基本的前提

      • 第三の基本的前提: 事柄の意味は、解釈の過程を通じて操作されたり修正されたりする。
      • 第一の基本的前提: 人間は、事柄に対して、その事柄が自分にとって持つ意味に基づいて行為する。
    • 相互作用の構成

      • 「解釈」(interpretation): 他者の行為や言及の意味を確定する。
      • 「定義」(definition): 他者が如何に行為するべきかを伝達する。
    • 身振りの役割

      • 行為を指示する機能を持ち、相互作用の媒介として機能する。
      • 身振りが解釈され意味が付与されることで「シンボリックな相互作用」と呼ばれる。

    1.6 次節への展望

    • ブルーマーにおける「社会」の把握。
    • 社会がどのようなメカニズムによって形成されるかの明確化。

このように、テキストの主要なポイントや論点を階層的に整理しました。各セクションとサブセクションが論理的に構築され、内容の理解がしやすくなっています。さらに詳細な説明や補足が必要な場合は、お知らせください。

You said:
よりブラッシュアップして
ChatGPT said:
ChatGPT

以下に、テキストをより整理し、階層的なリスト形式でブラッシュアップしました。


第2節 三つの相互作用

  1. ブルーマーの社会観

    • 「シンボリックな相互作用としての社会」(Blumer, 1962) という表現が示す通り、ブルーマーは「社会」を「社会的相互作用」の中に位置付ける。
    • 本節の目的: ブルーマーの「社会的相互作用」の捉え方を検討する。
  2. ブルーマーの社会的相互作用の二つのレベル

    2.1 非シンボリック相互作用 (non-symbolic interaction)

    • 個人が他者の行為を解釈せずに、直接的に反応する相互作用。
    • 典型例: ボクサーが相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げる反射的な行動 (Blumer, 1969b, p.8 = 1991年, 10頁)。

    2.2 シンボリックな相互作用 (symbolic interaction)

    • 個々人が互いの行為を解釈し、その解釈に基づいて反応する相互作用。
    • ミードの理論: 「有意味シンボルの使用」に相当する行為 (Blumer, 1969b, p.8 = 1991年, 10頁)。
  3. ブルーマーの理論への問題提起

    • 有意味シンボルと共通の定義の問題:
      • 有意味シンボルが「共通の定義」と同義で使われている場合、ブルーマーの「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」には循環論的な問題が発生する。
      • 循環論の危険: 有意味シンボルの成立が、その使用によってのみ可能であるという説明に陥る。
  4. 三つの相互作用の必要性

    4.1 非シンボリック相互作用

    • 他者の行為を解釈せずに直接反応する相互作用。

    4.2 未成立のシンボリックな相互作用

    • 有意味シンボルがまだ成立していない状態でのシンボリックな相互作用。

    4.3 有意味シンボルの使用としてのシンボリックな相互作用

    • 有意味シンボルを使用して行われるシンボリックな相互作用。
  5. ブルーマーのシンボリックな相互作用の詳細

    5.1 シンボリックな相互作用の定義

    • 人々が互いの身振りを解釈し、その解釈に基づいて行為する社会的相互作用 (Blumer, 1966 = 1969a, pp.65-66 = 1991年, 84頁)。

    5.2 ミードの基本的前提

    • 第三の前提: 事柄の意味は、解釈の過程を通じて操作され、修正される。
    • 第一の前提: 人間は、事柄に対して、その事柄が自分にとって持つ意味に基づいて行動する。

    5.3 相互作用の構成

    • 解釈 (interpretation): 他者の行為や言及の意味を確定する。
    • 定義 (definition): 他者がどのように行為すべきかを伝達する。

    5.4 身振りの役割

    • 身振りは、相手に対して行為の指示を行う機能を持つ。
    • シンボリックな相互作用: 身振りが解釈され、意味が付与されることで成立する。
  6. 次節への展望

    • 社会の把握: ブルーマーにおいて「社会」がどのように捉えられているか。
    • メカニズムの分析: 社会がどのようなメカニズムで形成されるのかを明確にする。

このリストでは、テキストの主要な論点とその関連性を明確に示し、論理的な流れを強調しています。階層構造を利用することで、各セクションがどのように互いに関連しているかが一目で理解できるようになっています。さらに詳細な補足が必要な場合や、特定のポイントに焦点を当てた説明が必要であれば、いつでもお知らせください。

You said:
以下の文章のすべての文末(「。」の直前)に算用数字で脚注を付けて。 第2節 三つの相互作用  「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい。  周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interation)と呼んでいる。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。  「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。  この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている3)。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている。  とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば4)、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる。  ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる5)。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば6)、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう7)。  確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう。とはいえ、両者は同一のものではない。前者には、異質な個々人が未だ共通の定義(有意味シンボル)を成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、共通の定義ないしは有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである。すなわち、ブルーマーにおける「社会的相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである。  ブルーマーの「シンボリックな相互作用」概念には、正確には、二つのシンボリックな相互作用が含まれている。そして彼が主たる分析の対象としたのも、非シンボリック相互作用ではなく、このシンボリックな相互作用に他ならない8)。  ブルーマーによれば、シンボリックな相互作用とは、そこにおいて「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為」(Blumer,1966=1969a,pp.65-66=1991年、84頁)している社会的相互作用を指す。シンボリック相互作用論の基本的前提のうち、第三の基本的前提、すなわち、「事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative process)を通じて、操作されたり修正されたりする」という前提を踏まえるならば、そうした「解釈」は、その個人の「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」を通じて行われているのであり、またその第一の基本的前提、すなわち、「人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する」という前提を踏まえるならば、その結果として付与した「意味」(meaning)に基づいて、その個々人は、互いに相手に対して行為を行うことになる。なお、こうした相互作用を、ブルーマーが、「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)と、「他者が如何に行為するべきかに関する表示を、他者に伝達」する「定義」(definition)から構成されているもの9)と捉えていることからも分かるように、この「身振り」(gesture)は、それが向けられる個人に対して、その個人がどのように行為するべきかを指示する機能を持っている。そうした身振りを媒介として、人々は相互作用を行っている。とはいえ、その相互作用において、その身振りが、それが向けられた個人によって「解釈」され、またその結果としてそれに「意味」が付与されるが故に、この相互作用は「身振り会話」とは呼ばれずに、「シンボリックな相互作用」と呼ばれることになる。  次節では、ブルーマーにおいて「社会」とは、如何なるものと把握されているのか、またその「社会」が如何なるメカニズムによって形成されるものと捉えられているのか、その内実を明らかにすることにしたい。
ChatGPT said:
ChatGPT

以下の通り、すべての文末に脚注を付けました。


第2節 三つの相互作用
「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている1)。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい2)。
周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)と呼んでいる3)。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している4)。
「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている5)。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる6)。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい7)。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)8)。
この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている9)。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている10)。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)11)。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている12)。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている13)。
とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば14)、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる15)。
ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある16)。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている17)。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる18)。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば19)、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない20)。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう21)。
確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう22)。とはいえ、両者は同一のものではない23)。前者には、異質な個々人が未だ共通の定義(有意味シンボル)を成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、共通の定義ないしは有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである24)。すなわち、ブルーマーにおける「社会的相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである25)。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである26)。
ブルーマーの「シンボリックな相互作用」概念には、正確には、二つのシンボリックな相互作用が含まれている27)。そして彼が主たる分析の対象としたのも、非シンボリック相互作用ではなく、このシンボリックな相互作用に他ならない28)。
ブルーマーによれば、シンボリックな相互作用とは、そこにおいて「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為」(Blumer,1966=1969a,pp.65-66=1991年、84頁)している社会的相互作用を指す29)。シンボリック相互作用論の基本的前提のうち、第三の基本的前提、すなわち、「事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative process)を通じて、操作されたり修正されたりする」という前提を踏まえるならば、そうした「解釈」は、その個人の「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」を通じて行われているのであり、またその第一の基本的前提、すなわち、「人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する」という前提を踏まえるならば、その結果として付与した「意味」(meaning)に基づいて、その個々人は、互いに相手に対して行為を行うことになる30)。なお、こうした相互作用を、ブルーマーが、「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)と、「他者が如何に行為するべきかに関する表示を、他者に伝達」する「定義」(definition)から構成されているもの31)と捉えていることからも分かるように、この「身振り」(gesture)は、それが向けられる個人に対して、その個人がどのように行為するべきかを指示する機能を持っている32)。そうした身振りを媒介として、人々は相互作用を行っている33)。とはいえ、その相互作用において、その身振りが、それが向けられた個人によって「解釈」され、またその結果としてそれに「意味」が付与されるが故に、この相互作用は「身振り会話」とは呼ばれずに、「シンボリックな相互作用」と呼ばれることになる34)。
次節では、ブルーマーにおいて「社会」とは、如何なるものと把握されているのか、またその「社会」が如何なるメカニズムによって形成されるものと捉えられているのか、その内実を明らかにすることにしたい35)。

You said:
すべての句点(「。」)の後に、算用数字で順番に脚注を付けて。 ----- 第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−  ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう。  ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。  さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる。  「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。  この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している。  「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing”action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization”of action)ではない。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)。  なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう。  以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう。  1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する。  2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない。  3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている。  4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる。  5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている。  「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」 (Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)。  6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる。  7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。  8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない。   ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。  ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real form of human interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。  「人間の集団生活とは、ジョイント・アクションないしはさまざまな個人の個々別々の行為を互いに混ぜ合わせることから成り立ち、それは、人々が言語を用いることによって、換言するならば、ミードの言う『有意味会話』(significant speech)によって可能となる」(Blumer,1993,p.163)。  なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process of genuine communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。  では、ブルーマーにおいては、実際、このトランスアクションなるものは、如何なる性質ないしは特性を持つものとして捉えられているのであろうか。ブルーマーは、トランスアクションの性質について以下のように述べている。  「・・・・トランスアクションというものは(これこそが人間の相互作用の本来的形態であると思われるが)、その生成の過程で構成され組み上げられて行くものだということである。そしてまさにそれ故に、トランスアクションは可変的な経歴(career)を持つことを余儀なくされる。人間の相互作用とは、互いの行為への定義と再定義という運動を通じて流れ行くものである。トランスアクションは、個々人がめいめい相手を何度となく考慮に入れ、また同様に相手によって考慮に入れられる、その都度その都度で組み上げられて行くものである。他者が一定の行為を表出したとき、個々の参与者は、それに注意を向け、判断を下し、他者のその行為を自分自身の行為を方向付けるための要因として用いなければならない・・・・そこにおいて参与者たちが、他者の行為に照らして自己の行為を方向付けているひとつの流動的な過程(flowing process)という、ここに示した人々の結びつきに関する像が示唆しているのは、トランスアクションというものが、多様な方向へと展開してゆく可能性を多分に秘めているものだということである」(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142−143頁)。  このように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、トランスアクションとは、まず何よりも「可変的な経歴を持つ」「流動的」な特性を有するものとして、すなわち、形成・再形成を繰り返し経験するものとして捉えられているのであり、それ故そうしたトランスアクション(=ジョイント・アクション)から構成される「人間の社会」もまた、等しくこの意味で「流動的」な特性をもつものと捉えられなければならない。  では、何故にトランスアクションないしジョイント・アクションは「流動的」な特性を持つものと捉えられなければならないのか。「流動的」という言葉が含意する二点(「形成」・「再形成」)のうち、ここではまず、その前者の点、すなわち、ジョイント・アクションが形成されてゆくそのメカニズムを明らかにしてゆくことにしたい。  ブルーマーによれば、ジョイント・アクションの形成は、先述のシンボリックな相互作用においてなされる。ここでシンボリックな相互作用とは、ブルーマーにおいては、ある「身振り」の呈示と、その身振りの「意味」に対するひとつの反応として定式化されている。ジョイント・アクションの形成において、身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられる個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき、両者は相互に理解し合っている、とブルーマーは捉えている(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。無論、ここで「意味」(meaning)とは、相互作用に従事している個々人が、その身振りに付与したものに他ならないことは、前節の議論で確認済みである。またそうした付与という営みが、その個々人の「自己相互作用」を通じてなされているものであることは、言うまでもない。ブルーマーによれば、こうした身振りは、それを呈示する者とそれが向けられる者の双方に対して次のような三つの意味を有している(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。まず第一に、(a)身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかをあらわす11)。第二に、(b)その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかをあらわす。第三に(c)この両者の行為が接合されることによって生じるジョイント・アクションの形態をあらわす。それをブルーマーは以下のように例示している。  「たとえばある強盗が、被害者に向かって両手を上げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の三つのことをあらわしている。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を上げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取ること、(c)両者の間で形成されようとしているジョイント・アクションの形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969b,p.9=1991年、11−12頁)。  身振りが有するこうした三つの意味を、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が適切に把握し、その意味に基づいて互いに行為し合うとき、そこにジョイント・アクションが成立する、とブルーマーは捉えている。逆に言うならば、「この三つの意味に、どれかひとつでも混乱ないし誤解がある場合には、コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、ジョイント・アクションの形成は障害にぶつかる」ことになる(Blumer,1969b,p.9=1991年、12頁)。すなわち、強盗ないしは被害者のうち、どちらかでも、身振りが持つこうした三つの意味のひとつでも把握し損ねれば、ジョイント・アクションの形成はおぼつかない、ということである。またここで身振りの意味を適切に把握するとは、相互作用に参与している両者が、その身振りに対して同じ意味を付与することを意味している(Blumer,1967=1992,p.52;1993,p.163,p.179)。  では、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が、身振りの「意味」を如上の意味で適切に把握することは、如何なるメカニズムにより可能となっているのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考となる。以下の説明もまた、ジョイント・アクション論の文脈で書かれたものである。  「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint of the other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。   人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)12)と名付けておこう。  すなわち、個々人が、互いに相手と相互作用を行い、ジョイント・アクションを形成しようとする際に用いる「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」の内的メカニズムが、実は、この「考慮の考慮」なのである13)。かねてより、わが国のシンボリック相互作用論理解、就中ブルーマーのシンボリック相互作用論理解においては、この「自己相互作用」の内的メカニズムは、もっぱら「表示」と「解釈」からなる、としてしか捉えられてこなかった14)。その原因のひとつとして、これまでのわが国におけるシンボリック相互作用論理解が、対パーソンズの社会学ないしは対構造機能主義社会学を意識しすぎるあまり、社会的相互作用の主体としての人間を、他者や外界に対して解釈を行う「解釈主体」として強調してきた一方で、そうした人間が他者によっても解釈されている客体としても捉えられなければならない、という点を比較的看過してきたということが挙げられる。そうしたわが国の研究動向について、井上は以下のように述べている。  「・・・・シンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕は、行為者の『解釈過程』を重視し、人間が何よりもまず『解釈主体』であることを強調する。・・・・しかし、人間が『解釈主体』であるということは、裏を返せば、他者によって解釈される『客体』でもあるということだ。私が他者を解釈するように、他者もまた私を解釈する。私は、私と同じく『解釈主体』である他者によって『客体』として解釈されることを避けることはできない。・・・・今日のシンボリック・インタラクショニズムは、しかし、私たちが否応なしに他者からの解釈を蒙る側面については、あまり注意を払っていない。それは、ひとつには、この派の『主体性強調のふくみ』からくるバイアスであろう・・・・いずれにせよ、シンボリック・インタラクショニズムにおいては、解釈の裏返しである『被解釈』の問題は、せいぜい、自我の形成過程についての議論のなかで、あるいは逸脱行動に関する『ラベリング・アプローチ』のなかで、部分的に扱われるにとどまっている。いわば『解釈過程の重視』に見合った重みを与えられていないのである」(井上、1988年、33−34頁)。  社会的相互作用に参与する主体を、自ら解釈を行う解釈主体であると同時に、他者からも解釈される客体としても措定するならば、必然的に生じてくるこうした現象を、ブルーマーが1953年の時点で既に指摘していたにもかかわらず、かねてよりのわが国のシンボリック相互作用論理解においては、こうした現象に対する考察があまりなされてこなかったように思われる15)。  ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為に適応(適合)させ合い、トランスアクションないしはジョイント・アクションを形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈的営みを行うことになると言う(Blumer,1953=1969a,pp.109-110=1991年、142頁)。  先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない (Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。  この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的に     としておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得された     と、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうした     を被害者が取得するということは、すなわち、この     とは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。  こうした社会的相互作用において、両者ともに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に把握しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りに対して、同じ意味を付与することが出来る。  社会的相互作用に参与する個々人が、それに対して同じ意味を付与しているそうした身振りのことを、ブルーマーは特別に「有意味シンボル」(significant symbol)と呼んでいる。またこの有意味シンボルのことを「普遍的なるもの」(universal)ないしは「共通の定義(意味)」(common definition,common meaning)とも呼んでいる(Blumer,1967=1992,p.152)。  以上の議論を踏まえるならば次のように言えよう。すなわち、社会的相互作用に参与する自己と他者とが、如上の「考慮の考慮」を正確に行い、その結果として、両者が互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ、そこで用いられている「身振り」が、その両者に対して同じ「意味」を持つようになるのであり、そうした「身振り」が「有意味シンボル」(「共通の定義」)と呼ばれるものに他ならない。  かねてよりわが国のシンボリック相互作用論理解をリードしてきた、船津 衛は、「意味」の共有(=「共通の定義」の成立)という現象を以下のように説明して来た。すなわち、「他者にも自己にも同一の反応を引き起こす言葉や身振り」としての「有意味シンボル」(船津の言葉で言えば「意味のあるシンボル」))(船津、1995年、46頁)を用いることにより、相互作用に参与している自己と他者とは、互いのうちに「同一反応」を引き起こすことが出来る(船津、1989年、46頁)。ここで、自己と他者との間に「同一反応」が引き起こされるということは、すなわち、自己と他者とが、ある一定の「意味」を共有することを意味し(船津、1989年、46頁)、そうした「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有がまさに「役割取得」である、と(船津、1989年、46頁)。「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有を説く、という視点は、宝月においても見られる(宝月、1990年、116−119頁、123−129頁)。とはいえ、徳川も指摘するように、こうした議論は一種の循環論法に陥っており(徳川、1987年、83頁)、そもそもそこで用いられている「身振り」が「『意味のあるシンボル』へと転化し、自己にも他者にも『同じ反応』を引き起こすという『有意味性』を帯びるのはいかなるメカニズムによるのか」(徳川、1987年、79頁)を説明し得ていない。また同時にこうした説明は、シンボリック相互作用論の概念的柱石としての「自己相互作用」概念が、「意味の共有」という現象を説明するための分析枠組みとして、果たすべき説明機能を、十分に活用しきれているとは言い難い。  如上のわれわれの考察を踏まえるならば、そのメカニズムとは、次のように説明することが出来る。すなわち、社会的相互作用を通じて、自己と他者の双方が、「考慮の考慮」という解釈的営みにより、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握し、その結果として、ある「身振り」より、同一の「意味」を読みとったとき(換言するならば、同一の「意味」をその身振りに付与したとき)、はじめてその「身振り」が「有意味シンボル」となる、と17)。  ブルーマーによれば、如上の経緯を経て個々人により形成された「共通の定義」が、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性ないしはジョイント・アクションの取るある一定の形態の固定的な反復を保障するという。すなわち「共通の定義によって、〔ジョイント・アクション形成への〕参与者たちには、自分自身の行為を相手の行為と適合させるための、はっきりとした指針が与えられる。この共通の定義ということによって、様々な集団領域にまたがったジョイント・アクションの、規則性、安定性、再起性が最もよく説明される」と(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)。なお、この引用からも分かるように、ジョイント・アクションの形成に従事している参与者たちが、この「共通の定義」に基づいて行為を行っているからといって、彼らが共通の行為を行っている、というわけではない。「共通の定義」とは、あくまで、個々人がそれぞれ従事している自らの個々別々の行為を、相手の行為にかみ合わせる(ないしは組み合わせる)ことを可能にする道具なのであって、共通の行為を行わせるものではない(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。  以上のここまでの議論を要約するならば、次のように捉えられよう。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「人間の社会」とは、まず何よりも、人々が相互作用を通じて形成する「ジョイント・アクション」ないしは「トランスアクション」からなるものと捉えられている。またそうしたジョイント・アクションは、個々人が社会的相互作用を通じて形成した「共通の定義」に支えられることにより、その規則性・安定性・再起性が保障される。この「共通の定義」とは、相互作用に従事する個々人が、各々自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」という解釈的営みをを行うことによって、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ成立するものと捉えられている。  では、個々人によるこうしたふたつの「観点」の適切な把握は、如何にして可能となるのであろうか。  上記にも述べたように、ブルーマーにおいては、如上のふたつの「観点」(「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)を個人が把握するということは、別言するならば、その個人が、相互作用を行っている相手を、自己の「自己相互作用」(「考慮の考慮」)を通じてこれこれの観点を持っている者と解釈・定義することに他ならない。井上も言うように、「・・・・人間は社会のなかで他者とともに生きなければならないので、『他者の経験を理解しようとする試み』を避けることはできない・・・・この試みにおいて私たちは、推測あるいは解釈に頼らざるをえない。他者の言葉、表情、挙動など、私たちにとって知覚可能なデータを解釈することによって、私たちは不可視の他者を少なくとも自分なりに可視化しようと試みる」(井上、1988年、31頁)。ところで、こうした解釈や定義はフリーハンドになされるものではない。そのための道具が必要となる。この点について井上は「・・・・およそ解釈というものは、素手ではできない。解釈の作業には、それなりの用具が必要である。・・・・私たちは何よりもまず、感覚に与えられたデータの内容を整理し単純化するための『要約的カテゴリー』(summary categories)を必要とする。この種のカテゴリーなくしては、『解釈』はおろか、対象の単なる『記述』さえおぼつかない」(井上、1988年、44頁)と指摘している。ブルーマーのシンボリック相互作用論の場合、その道具にあたるのが「パースペクティブ」ないしは「定義の諸図式」であることは、先に本論第1章において述べた通りである。すなわち、そもそもこのパースペクティブないし定義の諸図式なくしては、人間は外界への解釈・定義という営みを行うことすら出来ないのである。また同様にして、自分自身という対象を形成するためのパースペクティブである「一般化された諸々の役割」なくしては、個人は自分自身との相互作用(=自己相互作用)を行うことすら出来ない。では、このパースペクティブは何処より来るものと捉えられているのか。先にルイスに対するブルーマーの反論を検討するなかで明らかになったように、個人が自らの状況を定義するに際して、前もって「他者たちの集団」から獲得したものであった。そしてそうした二つの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)に方向付けられる形で、個々人は解釈・定義という営みを行うことになる。すなわち、「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問に対する答を提示するならば、それは、個々人がそうした把握(=解釈・定義)を行うに先立って獲得した、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」というふたつの図式にその解釈・定義を方向付けられることで可能となる、とこたえることができる。「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問は、換言するならば、ジョイント・アクションは如何にして成立するのか、もしくは那須の言葉を再度用いるならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「社会はいかにして可能か」と捉えられているのか、という問であると言えるが、上記の議論を踏まえるならば、それは次のようにこたえられよう。すなわち、ジョイント・アクションの成立は、その形成に参与する個々人が、その形成に先立って、解釈・定義を行う道具としての「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式を獲得し、そうした図式にしたがって解釈・定義を行い、その結果として成立する「共通の定義」に基づいて互いに行為し合うことによって可能となる、と。そのことについて、ブルーマーは以下のように述べている。  「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a background of previous actions of the participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。  また、こうした経緯を経て、いったん形成された共通の定義が、同様にして、この垂直な関係を通じて、繰り返し参与者たちに継承され続けることによって、新たに形成されたそのジョイント・アクションのある一定の形態が保持され続ける、ブルーマーにおいては捉えられている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。  「通常、ある特定の社会において人々が出くわす状況のほとんどは、同じやり方で定義ないしは『構造化』(structured)されている。先行する相互作用を通じて〔強調は引用者〕、人々は、これこれの状況において如何に行為するかに関して共通の理解ないしは定義を創りだし獲得している。こうした共通の定義が、人々に、それまでと同様に行為することを可能にしているのである」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、111頁)。  ブルーマーによれば、こうした意味で、ジョイント・アクションは、参与者間の「水平的な結びつき」(horizontal linkage)を持つのみならず、それに先行するジョイント・アクションとの「垂直的な結びつき」(vertical linkage)も持つもの、と捉えられるのである。
ChatGPT said:
ChatGPT

以下のように脚注を追加しました。


第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−

ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう1)。

ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった2)。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる3)。換言するならば、人間集団(human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない4)。

さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている5)。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる6)。

「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい7)。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである8)。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある9)。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる10)。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる11)。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる12)。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである13)・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた14)。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)15)。

この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる16)。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である17)。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している18)。

「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing” action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization” of action)ではない19)。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)20)。

なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)21)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう22)。

以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう23)。

1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する24)。

2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ25)。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない26)。

3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている27)。

4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる28)。

5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない29)。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている30)。

「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」(Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)31)。

6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる32)。

7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう33)。

8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない34)。

ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている35)。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる36)。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)とも表現している37)。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない38)。

ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、またシンボリックな相互作用とは、「社会的行為」(social act)とも呼ばれるものである39)。すなわち、これらは同じ対象を指している40)。ブルーマーによれば、ジョイント・アクションとは、シンボリックな相互作用の相互接合によって形成される社会的現実である41)。社会とは、こうしたジョイント・アクションの相互連結の所産に他ならない42)。この点についてブルーマーは、シンボリックな相互作用の観点から、社会的行為とジョイント・アクションの関係性を以下のように説明している43)。

「シンボリック相互作用という観点から捉えるならば、社会的行為とは、シンボルやシンボル形成のプロセスによって結びついた諸行為の複合体のことである44)。諸個人の行為は、シンボリックな相互作用を通じて、遂行中のジョイント・アクションへと接合される」(Blumer,1966=1969a,p.76=1991年、98頁)45)。

ブルーマーの言わんとしていることは、要するに、ジョイント・アクションは、シンボリックな相互作用によって組織される行為の一層大きな集合的形態に他ならず、また人間の社会は、このジョイント・アクションの相互連結から成り立っている46)。すなわち、社会とは、ジョイント・アクションとしての社会であると同時に、シンボリックな相互作用としての社会である47)。

以上のようにブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「ジョイント・アクションとしての社会」という「社会」の概念が、その中心に据えられている48)。


修正点があればお知らせください。

You said:
以下の非構造化テキストを咀嚼し、 中身を改変すること無く慎重に整理して、 箇条書きや表形式を駆使しながら、 過去最高にわかりやすい 構造化された概要にしてください。 ----- 第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−  ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう。  ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。  さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる。  「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。  この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している。  「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing”action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization”of action)ではない。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)。  なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう。  以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう。  1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する。  2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない。  3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている。  4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる。  5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている。  「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」 (Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)。  6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる。  7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。  8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない。   ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。  ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real form of human interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。  「人間の集団生活とは、ジョイント・アクションないしはさまざまな個人の個々別々の行為を互いに混ぜ合わせることから成り立ち、それは、人々が言語を用いることによって、換言するならば、ミードの言う『有意味会話』(significant speech)によって可能となる」(Blumer,1993,p.163)。  なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process of genuine communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。  では、ブルーマーにおいては、実際、このトランスアクションなるものは、如何なる性質ないしは特性を持つものとして捉えられているのであろうか。ブルーマーは、トランスアクションの性質について以下のように述べている。  「・・・・トランスアクションというものは(これこそが人間の相互作用の本来的形態であると思われるが)、その生成の過程で構成され組み上げられて行くものだということである。そしてまさにそれ故に、トランスアクションは可変的な経歴(career)を持つことを余儀なくされる。人間の相互作用とは、互いの行為への定義と再定義という運動を通じて流れ行くものである。トランスアクションは、個々人がめいめい相手を何度となく考慮に入れ、また同様に相手によって考慮に入れられる、その都度その都度で組み上げられて行くものである。他者が一定の行為を表出したとき、個々の参与者は、それに注意を向け、判断を下し、他者のその行為を自分自身の行為を方向付けるための要因として用いなければならない・・・・そこにおいて参与者たちが、他者の行為に照らして自己の行為を方向付けているひとつの流動的な過程(flowing process)という、ここに示した人々の結びつきに関する像が示唆しているのは、トランスアクションというものが、多様な方向へと展開してゆく可能性を多分に秘めているものだということである」(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142−143頁)。  このように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、トランスアクションとは、まず何よりも「可変的な経歴を持つ」「流動的」な特性を有するものとして、すなわち、形成・再形成を繰り返し経験するものとして捉えられているのであり、それ故そうしたトランスアクション(=ジョイント・アクション)から構成される「人間の社会」もまた、等しくこの意味で「流動的」な特性をもつものと捉えられなければならない。  では、何故にトランスアクションないしジョイント・アクションは「流動的」な特性を持つものと捉えられなければならないのか。「流動的」という言葉が含意する二点(「形成」・「再形成」)のうち、ここではまず、その前者の点、すなわち、ジョイント・アクションが形成されてゆくそのメカニズムを明らかにしてゆくことにしたい。  ブルーマーによれば、ジョイント・アクションの形成は、先述のシンボリックな相互作用においてなされる。ここでシンボリックな相互作用とは、ブルーマーにおいては、ある「身振り」の呈示と、その身振りの「意味」に対するひとつの反応として定式化されている。ジョイント・アクションの形成において、身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられる個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき、両者は相互に理解し合っている、とブルーマーは捉えている(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。無論、ここで「意味」(meaning)とは、相互作用に従事している個々人が、その身振りに付与したものに他ならないことは、前節の議論で確認済みである。またそうした付与という営みが、その個々人の「自己相互作用」を通じてなされているものであることは、言うまでもない。ブルーマーによれば、こうした身振りは、それを呈示する者とそれが向けられる者の双方に対して次のような三つの意味を有している(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。まず第一に、(a)身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかをあらわす11)。第二に、(b)その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかをあらわす。第三に(c)この両者の行為が接合されることによって生じるジョイント・アクションの形態をあらわす。それをブルーマーは以下のように例示している。  「たとえばある強盗が、被害者に向かって両手を上げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の三つのことをあらわしている。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を上げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取ること、(c)両者の間で形成されようとしているジョイント・アクションの形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969b,p.9=1991年、11−12頁)。  身振りが有するこうした三つの意味を、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が適切に把握し、その意味に基づいて互いに行為し合うとき、そこにジョイント・アクションが成立する、とブルーマーは捉えている。逆に言うならば、「この三つの意味に、どれかひとつでも混乱ないし誤解がある場合には、コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、ジョイント・アクションの形成は障害にぶつかる」ことになる(Blumer,1969b,p.9=1991年、12頁)。すなわち、強盗ないしは被害者のうち、どちらかでも、身振りが持つこうした三つの意味のひとつでも把握し損ねれば、ジョイント・アクションの形成はおぼつかない、ということである。またここで身振りの意味を適切に把握するとは、相互作用に参与している両者が、その身振りに対して同じ意味を付与することを意味している(Blumer,1967=1992,p.52;1993,p.163,p.179)。  では、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が、身振りの「意味」を如上の意味で適切に把握することは、如何なるメカニズムにより可能となっているのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考となる。以下の説明もまた、ジョイント・アクション論の文脈で書かれたものである。  「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint of the other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。   人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)12)と名付けておこう。  すなわち、個々人が、互いに相手と相互作用を行い、ジョイント・アクションを形成しようとする際に用いる「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」の内的メカニズムが、実は、この「考慮の考慮」なのである13)。かねてより、わが国のシンボリック相互作用論理解、就中ブルーマーのシンボリック相互作用論理解においては、この「自己相互作用」の内的メカニズムは、もっぱら「表示」と「解釈」からなる、としてしか捉えられてこなかった14)。その原因のひとつとして、これまでのわが国におけるシンボリック相互作用論理解が、対パーソンズの社会学ないしは対構造機能主義社会学を意識しすぎるあまり、社会的相互作用の主体としての人間を、他者や外界に対して解釈を行う「解釈主体」として強調してきた一方で、そうした人間が他者によっても解釈されている客体としても捉えられなければならない、という点を比較的看過してきたということが挙げられる。そうしたわが国の研究動向について、井上は以下のように述べている。  「・・・・シンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕は、行為者の『解釈過程』を重視し、人間が何よりもまず『解釈主体』であることを強調する。・・・・しかし、人間が『解釈主体』であるということは、裏を返せば、他者によって解釈される『客体』でもあるということだ。私が他者を解釈するように、他者もまた私を解釈する。私は、私と同じく『解釈主体』である他者によって『客体』として解釈されることを避けることはできない。・・・・今日のシンボリック・インタラクショニズムは、しかし、私たちが否応なしに他者からの解釈を蒙る側面については、あまり注意を払っていない。それは、ひとつには、この派の『主体性強調のふくみ』からくるバイアスであろう・・・・いずれにせよ、シンボリック・インタラクショニズムにおいては、解釈の裏返しである『被解釈』の問題は、せいぜい、自我の形成過程についての議論のなかで、あるいは逸脱行動に関する『ラベリング・アプローチ』のなかで、部分的に扱われるにとどまっている。いわば『解釈過程の重視』に見合った重みを与えられていないのである」(井上、1988年、33−34頁)。  社会的相互作用に参与する主体を、自ら解釈を行う解釈主体であると同時に、他者からも解釈される客体としても措定するならば、必然的に生じてくるこうした現象を、ブルーマーが1953年の時点で既に指摘していたにもかかわらず、かねてよりのわが国のシンボリック相互作用論理解においては、こうした現象に対する考察があまりなされてこなかったように思われる15)。  ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為に適応(適合)させ合い、トランスアクションないしはジョイント・アクションを形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈的営みを行うことになると言う(Blumer,1953=1969a,pp.109-110=1991年、142頁)。  先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない (Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。  この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的に     としておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得された     と、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうした     を被害者が取得するということは、すなわち、この     とは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。  こうした社会的相互作用において、両者ともに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に把握しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りに対して、同じ意味を付与することが出来る。  社会的相互作用に参与する個々人が、それに対して同じ意味を付与しているそうした身振りのことを、ブルーマーは特別に「有意味シンボル」(significant symbol)と呼んでいる。またこの有意味シンボルのことを「普遍的なるもの」(universal)ないしは「共通の定義(意味)」(common definition,common meaning)とも呼んでいる(Blumer,1967=1992,p.152)。  以上の議論を踏まえるならば次のように言えよう。すなわち、社会的相互作用に参与する自己と他者とが、如上の「考慮の考慮」を正確に行い、その結果として、両者が互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ、そこで用いられている「身振り」が、その両者に対して同じ「意味」を持つようになるのであり、そうした「身振り」が「有意味シンボル」(「共通の定義」)と呼ばれるものに他ならない。  かねてよりわが国のシンボリック相互作用論理解をリードしてきた、船津 衛は、「意味」の共有(=「共通の定義」の成立)という現象を以下のように説明して来た。すなわち、「他者にも自己にも同一の反応を引き起こす言葉や身振り」としての「有意味シンボル」(船津の言葉で言えば「意味のあるシンボル」))(船津、1995年、46頁)を用いることにより、相互作用に参与している自己と他者とは、互いのうちに「同一反応」を引き起こすことが出来る(船津、1989年、46頁)。ここで、自己と他者との間に「同一反応」が引き起こされるということは、すなわち、自己と他者とが、ある一定の「意味」を共有することを意味し(船津、1989年、46頁)、そうした「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有がまさに「役割取得」である、と(船津、1989年、46頁)。「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有を説く、という視点は、宝月においても見られる(宝月、1990年、116−119頁、123−129頁)。とはいえ、徳川も指摘するように、こうした議論は一種の循環論法に陥っており(徳川、1987年、83頁)、そもそもそこで用いられている「身振り」が「『意味のあるシンボル』へと転化し、自己にも他者にも『同じ反応』を引き起こすという『有意味性』を帯びるのはいかなるメカニズムによるのか」(徳川、1987年、79頁)を説明し得ていない。また同時にこうした説明は、シンボリック相互作用論の概念的柱石としての「自己相互作用」概念が、「意味の共有」という現象を説明するための分析枠組みとして、果たすべき説明機能を、十分に活用しきれているとは言い難い。  如上のわれわれの考察を踏まえるならば、そのメカニズムとは、次のように説明することが出来る。すなわち、社会的相互作用を通じて、自己と他者の双方が、「考慮の考慮」という解釈的営みにより、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握し、その結果として、ある「身振り」より、同一の「意味」を読みとったとき(換言するならば、同一の「意味」をその身振りに付与したとき)、はじめてその「身振り」が「有意味シンボル」となる、と17)。  ブルーマーによれば、如上の経緯を経て個々人により形成された「共通の定義」が、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性ないしはジョイント・アクションの取るある一定の形態の固定的な反復を保障するという。すなわち「共通の定義によって、〔ジョイント・アクション形成への〕参与者たちには、自分自身の行為を相手の行為と適合させるための、はっきりとした指針が与えられる。この共通の定義ということによって、様々な集団領域にまたがったジョイント・アクションの、規則性、安定性、再起性が最もよく説明される」と(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)。なお、この引用からも分かるように、ジョイント・アクションの形成に従事している参与者たちが、この「共通の定義」に基づいて行為を行っているからといって、彼らが共通の行為を行っている、というわけではない。「共通の定義」とは、あくまで、個々人がそれぞれ従事している自らの個々別々の行為を、相手の行為にかみ合わせる(ないしは組み合わせる)ことを可能にする道具なのであって、共通の行為を行わせるものではない(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。  以上のここまでの議論を要約するならば、次のように捉えられよう。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「人間の社会」とは、まず何よりも、人々が相互作用を通じて形成する「ジョイント・アクション」ないしは「トランスアクション」からなるものと捉えられている。またそうしたジョイント・アクションは、個々人が社会的相互作用を通じて形成した「共通の定義」に支えられることにより、その規則性・安定性・再起性が保障される。この「共通の定義」とは、相互作用に従事する個々人が、各々自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」という解釈的営みをを行うことによって、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ成立するものと捉えられている。  では、個々人によるこうしたふたつの「観点」の適切な把握は、如何にして可能となるのであろうか。  上記にも述べたように、ブルーマーにおいては、如上のふたつの「観点」(「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)を個人が把握するということは、別言するならば、その個人が、相互作用を行っている相手を、自己の「自己相互作用」(「考慮の考慮」)を通じてこれこれの観点を持っている者と解釈・定義することに他ならない。井上も言うように、「・・・・人間は社会のなかで他者とともに生きなければならないので、『他者の経験を理解しようとする試み』を避けることはできない・・・・この試みにおいて私たちは、推測あるいは解釈に頼らざるをえない。他者の言葉、表情、挙動など、私たちにとって知覚可能なデータを解釈することによって、私たちは不可視の他者を少なくとも自分なりに可視化しようと試みる」(井上、1988年、31頁)。ところで、こうした解釈や定義はフリーハンドになされるものではない。そのための道具が必要となる。この点について井上は「・・・・およそ解釈というものは、素手ではできない。解釈の作業には、それなりの用具が必要である。・・・・私たちは何よりもまず、感覚に与えられたデータの内容を整理し単純化するための『要約的カテゴリー』(summary categories)を必要とする。この種のカテゴリーなくしては、『解釈』はおろか、対象の単なる『記述』さえおぼつかない」(井上、1988年、44頁)と指摘している。ブルーマーのシンボリック相互作用論の場合、その道具にあたるのが「パースペクティブ」ないしは「定義の諸図式」であることは、先に本論第1章において述べた通りである。すなわち、そもそもこのパースペクティブないし定義の諸図式なくしては、人間は外界への解釈・定義という営みを行うことすら出来ないのである。また同様にして、自分自身という対象を形成するためのパースペクティブである「一般化された諸々の役割」なくしては、個人は自分自身との相互作用(=自己相互作用)を行うことすら出来ない。では、このパースペクティブは何処より来るものと捉えられているのか。先にルイスに対するブルーマーの反論を検討するなかで明らかになったように、個人が自らの状況を定義するに際して、前もって「他者たちの集団」から獲得したものであった。そしてそうした二つの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)に方向付けられる形で、個々人は解釈・定義という営みを行うことになる。すなわち、「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問に対する答を提示するならば、それは、個々人がそうした把握(=解釈・定義)を行うに先立って獲得した、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」というふたつの図式にその解釈・定義を方向付けられることで可能となる、とこたえることができる。「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問は、換言するならば、ジョイント・アクションは如何にして成立するのか、もしくは那須の言葉を再度用いるならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「社会はいかにして可能か」と捉えられているのか、という問であると言えるが、上記の議論を踏まえるならば、それは次のようにこたえられよう。すなわち、ジョイント・アクションの成立は、その形成に参与する個々人が、その形成に先立って、解釈・定義を行う道具としての「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式を獲得し、そうした図式にしたがって解釈・定義を行い、その結果として成立する「共通の定義」に基づいて互いに行為し合うことによって可能となる、と。そのことについて、ブルーマーは以下のように述べている。  「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a background of previous actions of the participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。  また、こうした経緯を経て、いったん形成された共通の定義が、同様にして、この垂直な関係を通じて、繰り返し参与者たちに継承され続けることによって、新たに形成されたそのジョイント・アクションのある一定の形態が保持され続ける、ブルーマーにおいては捉えられている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。  「通常、ある特定の社会において人々が出くわす状況のほとんどは、同じやり方で定義ないしは『構造化』(structured)されている。先行する相互作用を通じて〔強調は引用者〕、人々は、これこれの状況において如何に行為するかに関して共通の理解ないしは定義を創りだし獲得している。こうした共通の定義が、人々に、それまでと同様に行為することを可能にしているのである」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、111頁)。  ブルーマーによれば、こうした意味で、ジョイント・アクションは、参与者間の「水平的な結びつき」(horizontal linkage)を持つのみならず、それに先行するジョイント・アクションとの「垂直的な結びつき」(vertical linkage)も持つもの、と捉えられるのである。
ChatGPT said:
ChatGPT

構造化された概要

1. シンボリック相互作用論における社会

  • ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会は「進行中の活動の複合体」として捉えられる。
  • 社会とは、個々人の行為の適合から成り立ち、ジョイント・アクション(共同行為)の連結により形成される。

2. ジョイント・アクションの定義と特徴

  • 定義: 個々別々の行為が適合して形成される大きな集合的行為。
  • 実例: 商取引、家族の晩餐、結婚式、裁判、戦争などが含まれる。
  • 特徴:
    • 個人や組織が関与し、単純な協力から複雑な相互調整まで多様な形態を持つ。
    • 社会全体はジョイント・アクションの無数の連結から構成される。

3. ジョイント・アクションのプロセス

  • プロセスとしての組織化: ジョイント・アクションは組織化されていく過程であり、完成されたものではない。
  • 過程の観点: ジョイント・アクションは形成のプロセスであり、分析者の視点によってその性質は異なる。
  • シンボリックな相互作用: 言語や有意味なシンボルの使用を通じて、行為者間で意味が共有され、行為が適合されてジョイント・アクションが成立する。

4. トランスアクション(=ジョイント・アクション)の本質

  • 可変的・流動的な性質: トランスアクションは、常に形成・再形成を繰り返し、流動的な過程を持つ。
  • 相互定義の動き: 人々の行為は、他者の行為に応じて定義・再定義されながら進行する。
  • 行為の方向性の調整: 各参与者は他者の行為を考慮しながら自己の行為を方向づける。

5. シンボリックな相互作用とジョイント・アクションの関係

  • 本来的な人間の相互作用: ジョイント・アクションは「本来的形態」としてのシンボリック相互作用であり、トランスアクションとも呼ばれる。
  • 有意味なシンボルの使用: シンボリック相互作用は、有意味な会話を通じて成り立ち、相互の身振りや行動の意味を共有することが求められる。

6. ジョイント・アクションの形成メカニズム

  • 身振りと意味の共有: 身振りは、行為者とそれが向けられた者の双方に意味を持ち、両者がその意味を共有することでジョイント・アクションが成立する。
  • 三つの意味:
    1. 対象者が行うべき行為
    2. 身振りを行う者の意図
    3. 形成されるジョイント・アクションの形態
  • 例: 強盗が被害者に「手を上げろ」と命じる場合、これらの三つの意味が関係している。

7. 相互理解の重要性

  • 相手の観点から見ること: 相互作用する個々人は、相手の行為や意図を理解し、自分の行為を方向づける。
  • ジョイント・アクションの成功: 双方が身振りの意味を適切に理解し、共有できればジョイント・アクションは成功するが、誤解があれば障害が生じる。

8. ジョイント・アクションの流動的特性

  • 形成と再形成: ジョイント・アクションは常に変化し、適応する過程であり、社会も同様に流動的である。
  • 未来への展開: ジョイント・アクションは、その特性により、さまざまな方向へ展開していく可能性がある。

表: ジョイント・アクションの構造

項目説明
定義個々別々の行為が適合して形成される集合的行為
実例商取引、家族の晩餐、結婚式、裁判、戦争など
担い手個人、大規模な組織や機関
特徴単純な協力から複雑な相互調整まで含まれる
形成メカニズム身振りの意味を共有し、行為を適合させることで成立
流動性常に形成・再形成を繰り返す流動的なプロセスである
社会との関係社会はジョイント・アクションの無数の連結から構成される
相互理解の重要性相手の行為や意図を理解し、行為を適切に方向づけることが必要
成功条件身振りの三つの意味が正しく共有されていること
You said:
回答2がよいです。
ChatGPT said:
ChatGPT
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