私の経歴 | 中江滋樹の金と女と相場人生
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1954年1月滋賀県近江八幡市に生まれる。父は証券会社の営業マン、兄の克己ものちに証券会社に勤務。中江自身も小学校5年生にしてすでに日活株を1000株買い、1万円を稼いでいた。
1970年高校2年生で、すでに信用取引を始める。
1972年彦根東高校を卒業後、あまりに相場で儲かるので、大学進学がアホらしくなり、家出をして、名古屋市の証券会社で株価の推移を黒板に書く「黒板書き」と呼ばれるアルバイトを始める。
1973年高校生の時から三愛経済研究所(名古屋)の会員であった中江は、三愛経済にちょくちょく顔を出していた。そのうちに、三愛経済の犬塚所長(当時一世を風靡)に、相場観の才能を見出され入所。
朝から晩まで、チャートの研究をするとともにカギ足の秘法を伝授される。
1976年京都で、投資コンサルタント2×2(ツーバイツー)を創業。それと共に、将来の出版物発行を夢見て、ガリ版刷りで、『月刊投資家』を始める。
1978年9月東京・兜町に投資ジャーナルを設立。印刷会社に製造、製本をしてもらっての本格的『月刊投資家』第1号を発行。
1979年4月9日付の朝日新聞朝刊”マネー”欄に中江の記事が掲載される。「弱冠25歳だが、大阪・北浜はもとより東京・兜町でも最近、相場のリード役を果たし、その筋では教祖的存在だ」「二十数人の企業で顧客約3千人、動員できる資金は数百億円」などと報じられ、全国レベルで中江の名が知れ渡る。
1981年2月誠備投資顧問室を主宰し4千人からなる投資家を動員、数々の仕手戦を演じた加藤あきらが脱税で逮捕される。約2年半の取り調べを経て’83年8月、保釈金2億円で保釈。保釈で出てきた誠備の加藤氏に、現金1億円を保釈祝いとして渡す。
1982年袋とじの『週刊投資家』を定価1万円で創刊。マスコミはこぞって”証券版ビニ本”とこれを取り上げた。その頃、投資ジャーナルグループは、月刊誌、週刊誌を含め『兜町大明神』『百億の会』『覆面太郎の百人会』など30を超える。投資顧問業のシェア70% 中江の日々の売買株数(今でいうディーリング)は、当時の証券会社の売買株数(東証)6位~7位に毎日肩を並べていた。しかも一人だけでそれをやってのけた。
1983年1月のちに写真週刊誌に掲載されて物議を醸すことになる歌手・倉田まり子と赤坂の料亭で初めて逢う。
この頃、田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大物政治家に太いパイプを持つ三浦甲子二氏(テレビ朝日の専務で、テレ朝の天皇とまで言われた)の知遇を得ることにより、中江の政界人脈が一気に広がった。『週刊投資家』1周年を記念して行われたパーティーでは、竹下昇、宮沢喜一、河本敏夫といった大物政治家からの祝札が会場に並び、自民党最高顧問・安井謙(当時)が祝杯の音頭を取った。
1983年8月青木建設の仕手戦で中江の力を見せつける。当時200円台そこそこの株価は、9月中旬には1千100円を超える。この間中江はテレビスポットまで流して狂ったように青木建設の宣伝をしまくった。その結果1か月余りで85億円の金が流れ込んだ。

     

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