答えではなく、会話が欲しい。
坂爪さんに会う人は悩んでいる人が多いんですかと聞かれる。その聞き方に違和感を覚える。悩みとは何か。悩みと関係のある人とない人がいるのか。悩む人は弱いのか。悩む人はダメなのか。悩みとは、個人の問題ではなく、全体の問題、文化や時代の問題だと思う。悩みに向き合うことは、個人と向き合うだけではなく、全体、時代や文化と向き合うことになる。悩みとは、物語や、詩、芸術みたいなものだと思う。
インターネットの世界では「充実している風に見せなければいけない」という、不思議な圧力が働く。その反動として、SNS疲れなどと言った言葉も生まれた。インターネットの世界に限らず、リアルな人間関係でも「充実している風に見せなければならない」となると、SNS疲れは人間社会疲れになり、生きることそのものが疲労になる。常に笑顔でいなければいけない、常に人当たりよくいなければいけないなどと言った規制は、自分の心を傷つける。「充実している風に見せなければいけない」という規制が、芸術を、生命を、全体を損なっている。
検索をすれば答えがヒットするのは、パソコンの話。機械の話。私に会う人も、私をパソコンのように扱い、検索をかける。まるで、検索をかけたら一発で答えが出てくるかのように、人と話をしたり、インターネットで動画を漁る。一時的な答えは、一時的には満足する。だが、その効果は比較的薄っぺらで、長続きしない。頭の中がいっぱいになると、心の中はからっぽになる。人間関係には答えがない。答えがないからこそ、ちゃんと見ること、ちゃんと聞くことが大事になる。答えがある人は、人格を見ない。答えがあるから、いちいち人格を見る必要がない。ちゃんと見ること、ちゃんと聞くことのステップを無視して、小手先のテクニックだけで与えられた答えは、時に人格を破壊する。
不登校のこどもを持つ親が、こどもに「なんで学校に行かないんだ」と問い詰める。それは本人もわからない。本人だって、行けることなら行きたい。だけど行けない。行けないことに一番苦しんでいるのは、自分だ。そのことを詰められると困る。自分を責めるしかなくなる。自分をダメ人間だと思う。自分を知りたい。学校云々ではなく、学校に行けないということが、一体何を語ろうとしているのかについて、語り合える誰かを求めている。学校なんて行かなくてもいいんだよと、前向きな答えを与えられることも違う。答えではなく、会話が欲しい。答えは会話を拒絶する。会話させてくれる、誰かを求めている。悩みは、繋がりを求めている。
ちゃんと見ること、ちゃんと聞くことのステップを踏むことなく、小手先のテクニックだけで与えられた答えは、関係者全員の人格を破壊する。見ると監視するは違う。聞くと問い詰めるは違う。コミュニケーションとコントロールは違う。傾けられている心の質が、真逆になる。そこには、相手に対する信頼がない。人間に対する信頼がない。答えを優先し、うまく行かないことに苛立ち、人間を軽く扱うことになる。答えは、私たち一人一人の内側にある。困っている人を見た時に、何かをやりたくなるのは人間の情だ。何もしないこと、余計なことをしないことは、この世で一番難しい。何もせずに、それでいて、心を傾けること。ちゃんと見ること。ちゃんと聞くこと。監視するのではなく、温かな眼差しで見守ること。問い詰めるのではなく、相手の奥底の気持ちが湧き上がるまで、余計なことを言わないこと。その人が、その人を生きる邪魔をしないこと。人間に対する信頼の欠如が、様々な症状となって現れている。金は、信頼の代わりにはならない。ちゃんと見ること。ちゃんと聞くこと。答えではなくて、目の前の人間を見ること、目の前の人間と全人格的に関わることを、諦めないで欲しいと思う。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
コメント