北村紗衣という「ひと」 : 「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、 フェミニズムが言うところの「女」なのか?
『「ひと」の「首尾一貫性」とか「連続性」というのは、ひとであるための論理的、解剖学的な特性ではなく、むしろ、社会的に設定され維持されている理解可能性の規範なのである。セックスとかジェンダーとかセクシュアリティといった安定化概念によって「アイデンティティ」が保証されるなら、「ひと」という概念が疑問に付されるのは、「首尾一貫しない」「非連続的な」ジェンダーの存在が出現するときである。なぜならそのような存在は、ひとのように見えはしても、ひとが定義されるときの文化的に理解可能なジェンダー規範には合致しないものであるからだ。
「理解可能な」ジェンダーとは、セックスと、ジェンダーと、性的実践および性的欲望のあいだに、首尾一貫した連続した関係を設定し、維持していこうとするものである。換言すれば、連続せず首尾一貫していない奇妙な代物は、連続性と首尾一貫性という既存の規範との関係によってのみ思考可能となるので、こういった奇妙な代物をつねに禁じると同時に生みだしているのは、まさに、生物学的なセックスと、文化的に構築されるジェンダーと、セックスとジェンダー双方の「表出」つまり「結果」として性的実践をとおして表出される性的欲望、この三者のあいだに因果関係や表出関係を打ち立てようとする法なのである。』
(ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』P46)
ひとまずここでは、私は「男のような女」であり「女のような男」であり、「男らしい男」であり「女らしい女」であり、「男でも女でもない、女であり男」であると、そう言っておこう。またこれは、「自賛でも卑下でもない」。
私とは、なかなか「奇妙で不可解な何か」なのである。一一お分かりだろうか?
1、北村紗衣との遭遇
アメリカ大統領がバイデンになる以前に、Twitter(※ 現「X」。以下「Twitter」と表記)のアカウントを凍結され、経営者がイーロン・マスクに替わって、それまで凍結されていたトランプ前大統領のアカウントなども凍結解除するというので、(ネトウヨとの度重なる喧嘩により、先方が管理者に泣きついたために凍結された)私のアカウントも復活されるのかと思いきや、やはり東洋僻島のいち無名人のことなど、まったく忘れ去られていたようで、さすがのイーロン・マスクも、全部まとめて凍結解除という英断はできなかったようである。
そんなわけで、「Twitter」から遠ざかってひさしい私は、斯界がどのようなことになっているのか、まったくもって知らなかったのだが、「Twitter」上の「フェミニズム」界隈では、「ツイフェニ」と呼ばれる人たちが暴れまわり、あるいは、とても活躍したおかげで、「女性の権利」に対して、「男性」がうかつに意見することもできないほどの「言論の萎縮状態」が惹起されているとか。要は、度を越した嫌がらせツイートの集中砲火を浴びたりするようなのだ。そりゃ、どれほどのものなのか、是非とも体験してみたい。
まあ、そのあたりのことは、ぼんやりとながらも、東浩紀や千葉雅也あたりの言説から、多少は聞き及んでいた。
しかし、ウクライナの戦場ほどにも、その現場を見ることの叶わない私としては、彼らが感じているような「言論・表現の危機」については、実感を持っての理解など、したくてもしようのないものだったのである。
ところが数日前、ひょんなことから、その一端に触れることになった。
そこで知ったのが、本稿のタイトルに登場していただいた、「武蔵大学教授」で「フェミニスト」の、北村紗衣先生である。
この先生の専門は「シェイクスピア研究」と「表象文化論」。
つまり、イギリス文学者であると同時に、「映画」なども扱う「表象文化論」の先生だ。
また、先生自身も運営に関わっている「Wikipedia」では、「批評家」という肩書きでも紹介されている。
そんな「偉い先生」さまと、一昨日たまたま「note」上で、ささやかな接触を持つことになったのである。じつに光栄なことではないか。
北村先生は、「Twitter」のフォロワーが、5万人弱もいる人気者で、ブログの記事だけではなく、「Twitter」でも頻繁に発信しておられるのだが、それでもご当人は、自分は「インフルエンサー」ではない、勝手にそう呼ばれたくない、とおっしゃっている。
そもそも、「インフルエンサー」という言葉の適用範囲に厳密な定義などあろうはずもなく、どこからどこまでが「インフルエンサー」なのか、その「定義」は、おのずと人それぞれであろうし、そう「形容する」のに、いちいちご本人の許可を得なければならないこともあるまい。そんな世の中になったとすれば、そらはさぞや窮屈不便なディストピアである。
だから、私のことを「インフルエンサー」だと紹介してもかまわない。的外れだからと言って、「名誉毀損」で訴えたりしないから、どうか安心してほしい。
そんなトンチキな紹介をした人本人が、恥をかくだけの話なのである。
だが実際に、北村先生からの直々の苦情申立てを受けて、「インフルエンサー」だとしていた形容を、ご当人の希望どおりに「シェイクスピア研究者」という形容に差し替えるという事態が惹起されたのだから、東浩紀や千葉雅也などが、どこかで書いていた「深い危惧と憂慮」も、多少の実感を持って、理解できた。
つまり、ごく一部の人の話ではあろうが、「Twitter」界隈においては、「必ずしも間違いではない形容」であっても、ご本人が「それは違う」とおっしゃると、その「形容」は引っ込めた方が「無難だ」という、いかにも過酷な状態にまで立ち至っているようなのだ。そうした「権利の主張」に従っておかないと、どこからともなく湧いてでるゴキブリのような手合に、そこいら中を這いまわられるというのだから、そりゃあ、ぞっとさせられてしまう。昔風に言うなら、そんな「蠱術の使い手」みたいな人が、実在するようなのである。
ともあれ、前々から「インターネットは、酷い世界になってしまった」という話だけは、耳にタコができるくらい聞いていた。
インターネットが一般に開放された当初は、言論の自由と平等を実現するコミュニケーションツールとして期待されたのだが、実際に蓋を開けてみるとたちまち、匿名での「荒らし」だ「炎上」だ「嫌がらせ」だ「袋叩き(バッシング)」だといったことが横行する、見るに堪えない「下卑た欲望の解放区」となってしまったのだ。
もう、ネット上での「真摯な議論」など、滅多なことではお目にかかれない、例外中の例外になってしまっているのである。せいぜいが、本音を隠した、綺麗事の馴れ合いなのである。
いま、私の目の前に積んである未読本の山のなかにも、川本裕司の『裏切られた未来 インターネットの30年』だとか、津田正太郎の『ネットはなぜいつも揉めているのか』なんて本の背がのぞいているのだが、それらだっていつ読めることなのやら…。
しかしながら、そうしたネット世界の中でも、特に酷い状態になっていると言われるのが、なにを隠そう「Twitter」である。
私も「ネトウヨ 」や「維新の会」支持者などと、さんざバトルしたくちから、人のことばかりは言えないのだけれど、しかし、言い訳されていただけば、私は、相手が何者であろうと、真摯な議論を求める者を拒絶したことは、一度としてない。
しかし、それを求めていても、かつて「ネットイナゴ」と形容されたように、匿名と数に頼んで、ただただ嫌がらせの威圧をかけてくるような奴ら、あるいは、真面目に対応しようという人をいじめるために、故意に、愚にもつかない質問を重ねてくるような輩に対しては、先方にその気のない議論などは諦めて、「あなたは卑怯者ですね。」「頭が悪いから、私とは議論できないんでしょう。」「そうじゃないと言うのなら、幼稚な決めつけや質問攻撃ばかりじゃなくて、自分の意見を正直に表明したらどうです? 私の意見はすでに表明してあるし、それが気に入らないから、そうして荒らしに来てるんでしょう?」「だから、意見があるなら、その正当性の根拠を、堂々と語ってご覧なさい。それができないのなら、あなたは卑怯者だし、議論のできない馬鹿なんですよ」といったことを、くり返し「コピペ」して、御札のように貼りつけてやったのだ。
相手が書き込んでくるかぎり、1週間でも1ヶ月でも、「おまえは馬鹿だ」「生まれながらの卑怯者だ」「親の顔が見たいものだ」「子供がいるのなら、そっちが心配だ」と、ペタリペタリとやってやったのである。
そんなわけで、私は、「ネトウヨ 」から、「相手にしても仕方がないキチガイ」認定されて、やっぱり徒党を組んでの「管理者通報」された。
そして、事情関係になどとんと興味のない管理者からの、「ガイドラインに従え」という型どおりの「警告」をうけ、それを無視していたら、案の定、アカウントが凍結されてしまった、という次第である。
まあ、読書家の私としては、「Twitter」は、無駄に時間食いなので、凍結になっても良いという気持ちもあったし、SNSは他にも色々あるから、「Twitterの凍結」は、むしろ話のネタにも出来るだろうと、そういう計算もあった。
実際、最初のアカウント凍結は、数年を経ていつの間にか解除されていたため、その結果として、「Twitter」と「mixi」をそれぞれ2回、アカウントを凍結され、さらに「Amazonのカスタマーレビュー」では、レビューの全削除と投稿制限をかけられるなど、そんな人間は、日本人の中でも、100人はいないはずだ。一一ということは、少なくとも私は「100万人に1人の人材(あるいは、キチガイ)」ということになって、そんじょそこらのインフルエンサーよりも、ある意味では稀少種なのである。
言い換えれば、島田荘司の言う「綾辻行人君」よりも『滅多に出るものではない』稀少種なのだ。「幼形成熟」のウーパールーパーよりも、ずっと珍しいのである。
で、そんな自慢話はこれくらいにして話を戻すと、私が「Twitter」を去る前から、そうだったのかどうかは知らないが、ともあれ今日の「Twitter」では、フェミニズム界隈が、大いに荒れているらしい。
もちろん、それで美味しい思いをしている人もいるのだろうが、多少なりとも「心ある言論人」は、ネット社会、なかんずく「Twitter」の「荒れ果てた言論状況」を憂慮しているらしいのだ。
だが、私の場合、広く「思想」や「哲学」に興味はあっても、「フェミニズム」には、あまり縁がなかった。興味がなかったのではなく、そのあたりの人たちと接点が無かったので、おのずと、勉強するきっかけを掴むこともできなかったのだ。
「ネトウヨ 」と喧嘩したおかげで、必要にかられて、保守思想や日本の近代史や古代史まで勉強できたのとは違い、興味はあっても、私にとって、今ここの問題ではない「フェミニズム」は、どうしたって後回しにせざるを得なかったのである。
また、そんなわけで、私の「フェミニズム」というのは、幼い頃にテレビドラマや映画で見た、戦前アメリカ的な「女性尊重主義」としての「男のフェミニズム」的なものであり、そうした基盤に、せいぜい「ウーマン・リプ」から上野千鶴子あたりまでを本でかじる程度だった。
だから、「ツイフェニ」などと言われても、私の知っている「フェミニズム」とどこがどう違うものなのか、さっぱりわからなかった。さすがに「うっかりフェミニズム」だなどと誤解したりはしなかったのだが。
で、先日書店で、岩波現代新書から、竹村和子は『フェミニズム』が並んでいるのを見て「やっぱり、フェミニズムも、もう少し勉強しておかないとなあ」と思って購入し、そのあと「でも、今から読むのなら、(名前だけは知っていた)イリガライやジュディス・バトラーも読みたいな」と思い、「ブックオフ・オンライン」に、藤高和輝の『バトラー入門』と、バトラーの『ジェンダー・トラブル』を登録しておいたところ、半月ほど前に『ジェンダー・トラブル』を入手したりしたのである。
○ ○ ○
私と、北村紗衣先生との接触は、つい先日(2024年8月26日)のことである。
SNS「note」(ここ)で「ヌーヴェル・ヴァーグ」(映画)関連の記事をチェックしていたところ、私も先日、レビューを書いた映画『イージー・ライダー』に関連するらしい記事が、多くの「スキ」を集めているのが、目についた。
一一それは、「須藤にわか」氏による、
『「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」』
という、タイトルどおりの内容の記事だった。
そして、この須藤氏の批判記事に対して反論したのが、須藤氏に批判された当人である、北村紗衣先生である。
須藤氏によるこの記事がアップされたあと、北村紗衣先生の反論記事が、先生の「はてなブログ」にアップされ、さらに両当事者による「Twitter」上でのやり取りの結果が「Togetter」にまとめられ、さらに、上の「note」記事のコメント欄への、北村紗衣先生の直々の登場など、あれやこれやがあった後、最終的には一昨日に、現在アップされている、上の記事の「改訂版」たる、
『シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕』
に差し替えられて、「北村紗衣先生のご希望」どおりに、「元記事のコメント欄のコメント」も「抹殺」されてしまったのであった。
『なお、北村さんの削除要請理由には「「年間読書人」(※北村さんが誹謗中傷を訴えたユーザー)の誹謗中傷を止めず、それどころか助長するようなコメントを書いている」と記載されておりましたが、俺の「年間読書人」さんに対するコメントは下記の通りで、助長するどころかむしろ止めているので、これは事実無根の虚偽情報か、ものすごいフルスイングの誤読だと思われます。』
(「改訂版」での、須藤にわか氏による註記)
つまり、本件に私がどう絡むのかというと、須藤氏の上の「元記事」の内容に賛同した私は、同記事のコメント欄に、須藤氏の意見への共感を表明した上で、北村先生の意見がいかに誤ったものかという意見を、長文投稿のできないコメント欄ゆえ、7回に分割して連続投稿していたのだ。そしてその最後を、
『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』
(2024年8月25日 05:14付け)
と締めくくっていたのである。
この私の連続投稿は、「元記事のコメント欄」に、北村紗衣先生が直々に登場する前であり、私自身は、この「須藤にわか」氏の記事に対する、北村紗衣先生の反論記事が出ていたことも、両者による「Twitter」上での対論があったことも、知らない段階であった。
と言うか、正確には、私がこの一連のコメントを書き込んで数時間後に、北村先生の反論記事が「はてなブログ」にアップされ、それを「Twitter」でも報告したことで、須藤さんもこれに応答して、「Twitter」上での両者のやりとりがしばらく続き、それが一段落した後、須藤さんが、この関連ツイートを「Togetter」にまとめた。
そしてその後に、北村先生は「note」アカウントを作って、須藤さんの「元記事」のコメント欄についての苦情申し立ての書き込みを当該コメント欄にしてきて、そこで私のコメントについては、ひとこと、
『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』
(2024年8月27日 09:36付け)
と、まるで私が「殺人予告」でもしたかのように、私の文章を都合のよく「要約」して書いてきた。それで私もカチンと来て、
『北村紗衣先生
「通報」ですか、反論ではなく(笑)。
偉い先生は、無名の人間なんて、「同じ人間」としては扱えない、ということですね?
私は別に、先生の「物としての本」を切り刻むと言っているのではなく、その「内容」を「細かく批判的に分析する」という意味で書いているのですが、その意味が取れませんでしたか? それとも、「批評」自体を、否定なさるのでしようか?
あるいは、そんなことは全部承知の上で、わかっていて「管理者権力」に訴え、暴力で、目障りな私を「潰そう」と、お考えなのでしょうか?
また、東浩紀が、そのお言葉を読んだら、どう思うでしょうね?
いずれにしろそういうのは、「弱者の権利」を守るフェミニストとしては、褒められたものではないと思いますよ。
往年の江川卓の言葉、「そう興奮しないでください。落ち着いて話し合いましょうよ」ってことですね。』
(2024年8月27日 09:51付け)
と、少々反論させていただいた、というのが、そこまでの、おおすじの経緯である。
ちなみに、今では削除された、件の「元記事コメント欄」のコメントは、下に示したとおりである。
なお、「(N-01)」と振った私の最初のコメントの前には、「あいあん@サカ温泉」氏の「須藤にわか」氏に共感を示すコメント(2024年8月25日 00:33)と、それに対する須藤氏のレス(2024年8月25日 01:13)の、2つがあるだけである。
投稿者名の前の「(N-01)」などの整理番号は、のちの議論に便利なように、ここで新たに振ったものであり、元のコメント欄には無い。
これは、基本的にはここでのやり取りの中心人物となる、私と「須藤にわか」氏、「北村紗衣」氏の3人に、それぞれ(N-00)(S-00)(K-00)という具合に「頭文字と個別の発言番号」を、コメント欄の最初からカウントして振ったものであり、ここに紹介した「須藤にわか」氏のコメントが(S-02)から始まるのは、そのためである。
また、ここに紹介したコメントログについては、すべて「スクリーンショット」も録ってあることを付記しておく。
必要となれば、その「画像」を追加することもあろう。
下のコメント欄のコメントに張られている「用語等の説明リンク」は、ここで私が読者の理解を助けるために、新たに振ったもので、コメント原文には無いものである。
私が望むのは、事実に即した議論であって、事実を隠蔽したり、捻じ曲げて広報したりすることではない。正々堂々、立ち合おうではないか。
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(N-01)年間読書人
2024年8月25日 04:14
はじめまして。とても面白く読ませていただきました。
この北村紗衣っていう大学の先生、端的に言って馬鹿ですね。もちろん、学力が低いという意味ではなく、知的な謙虚さが無い、という意味です。
専門家の基本というのは、知らないことには謙虚である、ということです。
普通、専門家というのは、専門以外のことには、あまり口出しをしません。なぜなら、なんでも知っている人などいない以上、専門家というのは、専門外のことについては、ヘタにすると素人よりもさらに無知ってことも当たり前にあって、そんなことにヘタに口出しすると、ボロを出してしまい、本業(専門)に関しての信頼性まで損ないかねないからです。
だから、専門以外のことに口出しするときには、そのことについては「素人ですが」と断って(謙って)、その上で率直な意見を言うようにする、くらいのことは、自己防衛のためにも、当然するものです。
なのに、この人は、その程度のことも出来ていないというのは、「自分は知識などなくても、何でもそれなりに適切に判断できる、本質的知性を持っている」なんて、思い上がっているからです。その「勘違い」ぷりが、馬鹿だと言うのです。
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(N-02)年間読書人
2024年8月25日 05:11
また、こういう人が、フェミニストづらするから、無用に反フェミを増やしてもしまう。存在が傍迷惑という意味で、困った人だと思います。
私も、ここ2年ほど前から、映画を意識して見るようになった、映画の初心者ですが、この北村さんみたいに、頭の悪いことは書きません。
と言うか、私は、こういう遠慮のない書き方をする人間ですから、あんな「穴だらけ」なことを書いてたら、袋叩きにされるのは目に見えているからです。だから、その点では、実は慎重なので、よくレビューを書く場合に「この作家の本は初めて読むが」とか、そういう前フリをして、知ったかぶりはしません。あくまでも、現在の自分の立ち位置はこういうものだと示しておくのです。
その上で、その作家なり映画監督なりのWikipediaくらいは参照しますし、他の人の評価なんかも参照します。私とは評価の違う意見には、反論できるくらいのことは、レビューを書く前に考えておくわけですね。
それでこそ、自分の意見を書く意味もあるわけですし。
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(N-03)年間読書人
2024年8月25日 05:12
で、この北村さんに驚かされるのは、「アメリカン・ニューシネマ」について、Wikipediaすら参照せずに、知ったかぶりを語っている点です。しかもこの人、Wikipediaの運営にも関わってるとか。
Wikipediaが全面的に信用できるものだもは思いませんが、まったくの素人にとっては、基礎的な参考情報にならなるというのは確かなのに、どうして覗きもしなかったのか?
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(N-04)年間読書人
2024年8月25日 05:13
Wikipediaを見ていれば、「アメリカン・ニューシネマ」が、主として「ベトナム戦争」を背景とした、当時のアメリカ社会の閉塞感から来ているというのは、すぐにわかることですが、それにも気づいていない様子。
というのも、仮に「暴力やセックス」が前面に出る作品が多かったとしても、それは、それらを、肯定しているとはかぎらないからです。つまり、「暴力や(行きすぎた)セックス」描写とは、それに象徴されるものを否定するためにこそ、露悪的に描くことだって、当たり前にあるからです。
つまり、「暴力やセックス」描写があったとしても、その方向性は真逆である作品などいくらでもあるのに、それを十羽ひと絡げに語ることなどできないのは、わかりきった話です。なのにそれを、この北村さんは平気な顔をしてやっているから、心底呆れてしまう。
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(N-05)年間読書人
2024年8月25日 05:13
それに「アメリカン・ニューシネマ」という言葉の指す範囲が曖昧であり、厳密な定義など無い、というくらいのことは、常識で考えてもわかること。
ならば、「アメリカン・ニューシネマは、こういうものだ」というような断定的な言い方、ましてや否定的な言い方に慎重になるのは、馬鹿でなければ当然するはずの配慮です。
例えば「もちろん例外もあるが、一般的には、これこれといった特徴を持つ作品の指されることが多い」というような書き方をするはずなんですが、それが出来ていない。
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(N-06)年間読書人
2024年8月25日 05:13
これは貴兄も勘違いされているようですが、「ヌーヴェルヴァーグ」だって、厳密な定義なんてありません。
所詮はフランス語の「ニュー・ウェーブ」(新しい波)でしかなく、ゴダールらが出てきた当時に、誰か(新聞か雑誌)が「最近、助監督経験もない若者の作品が出てきて、元気がいいぞ。フランス映画のニュー・ウェーブだ」と、そんなことを言い出したことから、そのあたりの作家の作品を、ふわっと指すようになっただけで、例えば、その範囲を年号で限定するわけでもなければ、フランス国内に限定するわけでもありません。また『カイエ・デュ・シネマ』出身者に限定されるわけでもなければ、ましてや「内容的・形式的」な限定もない。しかしまた、何でもありでは意味がないので、例えば、トリュフォーの作品が全部「ヌーヴェルヴァーグ」の作品だとも言い難い。
つまり、ああした呼称の多くは、最初から自称したグループ名なんかを除けば、たいがいは何となく生まれてきた、便宜的な呼称でしかないんだから、内容的に厳密な定義なんてできないのは、わかりかった話なんですよね。
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(N-07)年間読書人
2024年8月25日 05:14
それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった素人が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。
今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。
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青池
2024年8月25日 10:04
(※ 『にわかさんも北村紗衣さんも大好き』なので、『にわかさんのブログを読めば好意的になるように思います。』という趣旨のコメント。詳細は略)
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(N-08)年間読書人
2024年8月25日 13:16
参考ですが、私が、北村タイプが心底嫌いだというのは、次のレビューに、最もよく表れていると思います。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3af297c50214
「歯に絹を着せぬ」というのは、「馴れ合い」を拒絶する、ということですから、批判されて反論することのない人たちの中でやってても、ぜんぜん自慢にはならず、単なる「勘違い」の一人相撲でしかない、とも言えるでしょう。
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(S-02)須藤にわか
2024年8月25日 14:44
読書人さん
・ヌーベルバーグも厳密な定義はない
すいませんそのとおりです…一応そうわかってはいたんですが、ただまぁカイエの連中が「俺たちも!」と始めたので、新しい映画をという意識はニューシネマの作り手たちに比べて共有されていただろうし交流も強かっただろう、という意味でもっと漠然としたニューシネマと対比させるために雑に書いてしまいました…。
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(S-03)須藤にわか
2024年8月25日 14:45
青池さん
(※ 内容は省略)
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(S-04)須藤にわか
2024年8月25日 14:54
青池さん(その2)
(※ 内容は省略)
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(N-09)年間読書人
2024年8月25日 15:37
昔の作品や人物を評価する場合には、それらが「時代の制約と限界」に中にあったものだという認識と、それへの配慮が必要です。
それが無いというのは、自分自身もまた、見えない「時代の制約」の中にいるということに気づかない、度しがたい愚か者(の傲慢)だと言えるでしょう。
それは、フェミニズムだって同じで、LGBTに代表されるように、すでに「男女二元論」的な認識における女権拡張論は、それ自体が差別的であると見ることもできるようになってきているし、今ではさらには進んで、「aro/ace(アロマンティック/アセクシャル)」の問題を語る立場も登場して、恋愛や生殖自体が疑義をふされている。
つまり、そんな時代に、古い男だけを相手にして、その優位を誇示するような立場というのは、実にくだらないと思うのですね。視野狭窄的に、自分たちの権利のことしか考えていない。
東浩紀が本気で反論しないのも、反論できないからではなく、それをすると、政治的に損だからに過ぎません。論争に勝っても、世間体が悪くなっては、プロの書き手としては「損」だからです。
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(K-01)北村紗衣
2024年8月27日 01:50
よくもまあ思い込みだけでそんなふうに赤の他人のことを言えますね。「ニューシネマ以前のハリウッド女優というのはお姫様だった。みんなの憧れで、美しく、気高く、キュートで、スターだった」なんていうことは私は一度も言っていませんし、私がこれまで高く評価してきたプレコード映画って『紅唇罪あり』(https://note.com/kankanbou_e/n/n9293a3ebd07c)とか『私は別よ』(https://note.com/kankanbou_e/n/n1b999e9f1f8e)みたいな映画で、庶民のヤバい女性が大暴れするみたいな映画が大半なんですが。あなたがやっているような赤の他人をただの思い込みで判断する行為は、『イージー★ライダー』の最後に出てくる田舎の人たちにつながるものですよ。
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(S-05)須藤にわか
2024年8月27日 08:51
北村さんへ①
(※ 内容は省略)
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(S-06)須藤にわか
2024年8月27日 08:53
北村さんへ②
(※ 内容は省略)
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(S-07)須藤にわか
2024年8月27日 08:55
北村さんへ③
(※ 内容は省略)
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(S-08)須藤にわか
2024年8月27日 09:09
北村さんへ④
(※ 内容は省略)
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(N-10)年間読書人
2024年8月27日 09:15
「思い込みでものを言う」というのは、「アメリカン・ニューシネマ」について、あんなふうにしか語れない、無知な偏見を振り回す、北村紗衣みたいな人間のことを言うのですよね。
古い映画は、みんな男性中心主義に「決まっている」から、「詳しくは知らなくても」容易に批判できる、という雑な感覚で、十羽ひと絡げにして否定的に評価する。
しかし、この「十羽ひと絡げ」というのが、そもそも、個々の作家や個々の作品の「個別性」を無視した、それらにに対する「偏見」に基づく差別的評価なのです。
つまり、ろくに見ていないのであれば、「アメリカン・ニューシネマとは、こう言うものであり、だから」どうだ、などとは言わずに、自分が見た「個々の作品」について「この作品は、ここがどうだから、問題だ」と評価すればいいだけなのです。
そして、それが出来ないのは、前にも書いたとおり「私は見てないけど、本質はわかる」みたいな「傲慢な自意識」を持っているからなのですよ。
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(S-09)須藤にわか
2024年8月27日 09:20
北村さんへ⑤
(※ 内容は省略)
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(S-10)須藤にわか
2024年8月27日 09:21
追伸
(※ 内容は省略)
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(N-11)年間読書人
2024年8月27日 09:25
ちょうど昨日から、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読み始めたのですが、これの冒頭に書かれていることが、私が一昨日書いた『すでに「男女二元論」的な認識における女権拡張論は、それ自体が差別的であると見ることもできるようになってきている』と、そっくりそのままなので、笑ってしまいました。
私は「フェミニズム」そのものについては詳しくありませんが、知っておかねばならないこととして興味は持ち続けてきたので、年に1、2冊程度のペースで読んできて、バトラーも難しそうだけれど読んでおかないといけないかとは思っていたから、すでに買ってあったのを、この機会にと昨日から読み始めて、30ページほど読んだところです。
それでも、「フェミニズム」というのも、すでに一枚岩ではなく、「男」と「女」の「二元論」を自明の前提として、肯定的に定義した「女」の立場から、否定的に評価した「男」を批判するというのは、恣意的なものだという批判が、他ならぬフェミニズムの中から出ているそうです。
そもそも「女」の定義って、そう簡単に決められるのか、って話です。「体は男だけど、心は女」だという人もいるわけですから。
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(K-02)北村紗衣
2024年8月27日 09:36
須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。
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(N-12)年間読書人
2024年8月27日 09:38
映画の話から離れてしまって申し訳ないのですが、しかし、「フェミニズム」の問題は、当然のことながら「映画」も無縁ではいられません。
しかし、だからと言って、政治的に大きな声に媚びて「無難に映画を作る」という姿勢になるのは、明らかに間違い。要は、よく勉強もして、主体的な立場で「人間」を描く、ことが大切なんです。
今は「新自由主義経済」が蔓延して、「売れてナンボ」だから、うるさい奴と喧嘩しては「損だ」という姿勢が目立つのですが、そんな態度は完全に「非人間的」なものです。
須藤さんがお好きなロバート・アルトマンも、「時流に抗った、反骨の映画人」だったのですが、そうした姿勢を、私たちも見習わなければならないし、これはフェミニストこそが支持しなければならない立場でもあるでしょう。
アルトマンは言いましたよね。一一『私はまっすぐ歩んでいるだけ。他の人はよくブレるけどね』
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(N-13)年間読書人
2024年8月27日 09:51
北村紗衣先生
「通報」ですか、反論ではなく(笑)。
偉い先生は、無名の人間なんて、「同じ人間」としては扱えない、ということですね?
私は別に、先生の「物としての本」を切り刻むと言っているのではなく、その「内容」を「細かく批判的に分析する」という意味で書いているのですが、その意味が取れませんでしたか? それとも、「批評」自体を、否定なさるのでしょうか?
あるいは、そんなことは全部承知の上で、わかっていて「管理者権力」に訴え、暴力で、目障りな私を「潰そう」と、お考えなのでしょうか?
また、東浩紀が、そのお言葉を読んだら、どう思うでしょうね?
いずれにしろそういうのは、「弱者の権利」を守るフェミニストとしては、褒められたものではないと思いますよ。
往年の江川卓の言葉、「そう興奮しないでください。落ち着いて話し合いましょうよ」ってことですね。
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(N-14)年間読書人
2024年8月27日 10:24
ちなみに、ここをご覧の皆さんに申し添えておきますと、今のうちに、このコメント欄の「ログ」でも「スクリーンショット」でも、取っておくことをお勧めします。
「証拠隠滅」されてからでは遅いですからね。
記録さえ取っておけば、後からいくらでも検討することが可能です。
誰が「根拠を示しての批判をしたのか」。
誰が「議論(言論)を拒んだのか」。
誰が「問答無用の抹殺を試みたのか」。
「言論弾圧」というのは、必ずしも「国家権力」がやるものだとは限らず、弱者の顔をして「権力」を振るおうとする人だっている。
昔「部落解放同盟」が、暴力的な「総括」をやって、無理やり人を黙らせたために、今でもその「悪印象」が消えておらず、そこを「在特会」などにつけいられて、言いたい放題を許させざるを得なかったという事例は、とても教訓的なものだと思います。
つまり「大義名分」を振り翳して、問答無用で相手を黙らせようとするような態度は、決して「広く理解されることはない」ということです。
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(N-15)年間読書人
2024年8月27日 10:26
一部に「嫌フェミ」が増えているのも、「大義名分」を振り翳して、問答無用で相手を黙らせようとする人が現にいるからでしょう。
そういう自称「フェミニスト」というのは、何より「フェミニズム」のためにも、ならないんですよね。
そうではありませんか、北村先生?
そうではないでしょうか、「note」の管理者様?
「note」は、内容を検討することもなく、「通報だけ」で一方を処断したりはしないですよね?
そんなことしたら、「通報合戦」になるのは、目に見えているんですから。
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(S-11)須藤にわか
2024年8月27日 11:57
これ、個別のコメントにリプライとかできないんですかね?ちょっと見にくい感じになりますけど...。
北村さんは次々と話を変えるので俺としては正直ついていくのが大変です。前の連投コメントで俺が提起したこと(たとえば、二つの文献を接続して論を立てることの妥性)には触れずにまた次の話をする。無理に答えてほしいとは思いませんが、これでは建設的ではないし、終わりがないような気がします。
「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」は素直に俺があの反論文を読んで感じたことを書いただけですので、もし違うというのであれば該ポストに「北村さん本人からそんなことはないと言われました」と追記しておきますが、それでいいですか?
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(S-12)須藤にわか
2024年8月27日 12:19
あと読書人さんはすいませんがここは俺のスペースで俺は平和にやっていきたいので喧嘩をしないでください
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(N-16)年間読書人
2024年8月27日 12:28
須藤さん
お騒がせして、すみません。北村さんの批判に対しては、私の方で、それ専用のページを立ててもいいんですが、たぶん北村さんは乗ってこない(黙殺する)でしょう。
私がここでやっているのは、『マッシュ』でホークアイたちのやっているようなことだとご理解いただければ幸いです。
北村さんはまだお若いから、かっての「言葉狩り」問題の重大性をご存知ないのでしょう。
筒井康隆が「断筆宣言」して、やっと議論のテーブルに乗るようになり、今では「言葉尻をとらえて攻撃する」類いの「言葉狩り」は、「非民主主義的」なものだとも理解されるようになりました。
もちろん、言葉遣いには気をつけなければならないのですが、文学の世界には「毒舌」による批評の伝統があり、「アラーを冒涜した」ので、ラシュディは殺して良いという理屈は、一部狂信者以外には通用しません。
そしてこのことは、シェイクスピアの研究家である北村先生だって、重々ご承知のはずです。「言いたい放題の阿呆(道化)」の口を封じてはいけない、という知恵です。
「言葉狩り」の暴力ではなく、「言論には言論を」というのは、ごく常識的な議論だと思います。
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sasa49m1rou
2024年8月27日 14:42
(※ 須藤氏を支持するコメント。内容は省略)
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SkipAway
2024年8月27日 17:10
(※ 須藤氏を支持するコメント。内容は省略)
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(S-13)須藤にわか
2024年8月27日 17:38
sasaさん
(※ 内容は省略)
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(S-14)須藤にわか
2024年8月27日 17:44
skipawayさん
(※ 内容は省略)
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(N-17)年間読書人
2024年8月27日 18:14
まとめ記事をざっと読みましたが、ここまで酷いとは思いませんでした。
さすがは、何万人もフォロワーがいる北村先生ですね。本人の反論は凡庸ですが、取り巻きのヤジがまさに「数の暴力」で、昔「荒らし」とか言われていた人たちと、まったく同じノリ。
これじゃあ、ウンザリするのもわかります。
私はだいぶ前にネトウヨと喧嘩しすぎて、先方の「集団通報」でアカウントが凍結されたままなんですが、「X」とやらは、もう「プロパガンダ」だけの世界みたいですね。
いや、ご苦労様でした。
以後、私はよそで、個人的に勝手にやらせていただきます。
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怪人
2024年8月27日 18:53
結局のところ、タイトルの「メチャクチヤ」「ウソ」というのは誤りだったわけですよね...?
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(※ この後、この「怪人」氏と「須藤にわか」氏のやりとりが3往復ほどあって、「元記事」の削除と「改訂版」のアップになる。
ちなみに、私がファクトチェックしたところ、この「怪人」氏は、言葉遣いこそ丁寧なものの、そのアカウントは、フォローは「note公式」だけ、記事もフォロワーのゼロという、まさにこのコメント欄へ書き込みをするために作った、捨てアカウントだと推認された。もちろん、スクリーンショットは撮ってある。なお、すでにアカウントは、消されたようだ。)
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見てのとおりである。
なお、ここからは、本件についての「批評」の本文になるので、主たる登場人物のお名前は、基本的に「」氏で統一することとする。
2、北村紗衣とは何者?
さて、そもそもどうして、このような「やりとり」が交わされることになったのかといえば、それは、私が、「須藤にわか」氏による元記事「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」を読み、「須藤にわか」氏の紹介する「北村紗衣」氏の「アメリカン・ニューシネマ」理解があまりにも「ひどい」し、「須藤」氏の記事にリンクの張られていた、「太田出版のWebマガジン」である『OHTA BOOK STAND』の、下のインタビュー記事で得々と語られていた「北村紗衣」氏の「アメリカン・ニューシネマ」論が、「須藤」氏の紹介どおりに、酷いものであったからだ。
・「メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た」
それで私は、「須藤にわか」氏の意見への賛同表明だけではなく、私が「北村紗衣」氏の「意見」を、なぜ「酷い」と感じたのかを説明的に語ったのだ(N-01〜07)。
無論、このコメントが7連投になったのは、コメント欄の字数制限のため、否応なく区切らざるを得なかったからであり、もともとは1本のコメントとして投稿したかったものである。
では、どうして「この(程度の)長さ」になったのかと言えば、それは「須藤」氏の意見を「支持するとかしないとか」、「北村紗衣」氏のご意見が「酷いとか酷くない」とかという「評価結果」だけを語るのではなく、その「根拠」を示さないことには、それは、単なる「党派的な感想」と区別のつかないものになってしまうためである。
つまり、私は「どっちの味方でもなく」、ただ「客観的な第三者」としての「判断評価」を語るために、その「評価結果の根拠」を論理的に示したのだ。
言い換えれば、「論理的に根拠を示す」ためには、あの程度の長さ(N-01〜07)は、決して長すぎるわけではなく、むしろ精一杯短く書いて、あの量だった、ということだ。
無論、私のコメントに対してだけ、「須藤」氏のレスポンスが(最低限しか)付かないという対応には、「ああ、私のコメントを嫌がっているんだな」というのは、早々に察していた。
しかし、私としては、意見表明するからには「最低限の説明」はしなければならないと考えていたし、「須藤」氏が、私のコメントを「不当・不正」なものと考えているのであれば、私を「ブロック」するなり「コメントを削除する」なりは出来た。また、私に対し「これ以上はコメントしないでください」と指示要望もしたはずである。
だが、(S-12)の、
『あと読書人さんはすいませんがここは俺のスペースで俺は平和にやっていきたいので喧嘩をしないでください』
というコメントに明らかなとおり、「須藤」氏は、基本的には、コメント欄は私にも開かれており、ただ「喧嘩するのだけは、控えて欲しい」という趣旨で、こう要望なさったのであろう。
だから、私は、(N-16)のコメントで、『お騒がせして、すみません。』と謝罪した上で、しかし、「北村紗衣」氏への私の批判・反論は「言論=意見表明」としての筋は通しているはずだという意味で『(※ 北村氏のよる)「言葉狩り」の暴力ではなく、(※ 私の立場である)「言論には言論を」というのは、ごく常識的な議論だと思います。』とだけは意見表明しておいて、他にも言いたいことは色々あったけれど、しばらくは「静観」したのである。
そしてその間に、「それにしても、この北村紗衣というのは、どういう人なのだろう? この人はどうして、こんなにフォロワーがいるのか、学者としては、さほど有名でもないのに」とそう思い、あらためてネット検索し、ご当人の「Wikipedia」以外の情報を探したのだ。
そして、まずは見つけたのは、次のような「ネットニュース記事」であった。
・「武蔵大・北村紗衣教授を「ツイッターで名誉毀損」男性に220万円の支払い命令 東京地裁」
「ああ、これか」と腑に落ちた。
「これなら、フェミニズム界隈では有名人なはずだ」と納得したのである。
なお、「北村紗衣」氏が「テレビ出演した有名人」だと気づくのは、もう少しあとになる。
ともあれ、私が(N-09)のコメントで、『東浩紀が本気で反論しないのも、反論できないからではなく、それをすると、政治的に損だからに過ぎません。論争に勝っても、世間体が悪くなっては、プロの書き手としては「損」だからです。』と、やや唐突に、東浩紀の名前を出しているのは、その段階で「北村紗衣」氏の「Wikipedia」だけは確認しており、そこに同氏の「Twitter」アカウントへのリンクが張ってあったので、そちらを見てみると、最新のツイートとして、「北村紗衣」氏が、東浩紀を揶揄するようなツイートをしているのを見かけたからである(なお、アカウントが凍結されていても、アカウントトップなどの一部のページを閲覧するだけなら可能である)。
「須藤にわか」氏の「元記事」から推しても、「批評家」としての力量(思考の深さ、犀利さなど)は、東浩紀の方が圧倒的に上であり、討論の相手としては「北村紗衣」氏など、東には、恐るるに足らぬ存在だろうというのは、容易に察しえた。
そして、そんな実力格上の東浩紀に対して、「北村紗衣」氏が、何やら「上から目線で揶揄している」のは、「東浩紀が反論しないというのを見越してのことだろう」と、そう推察した。
というのも、私は以前、東浩紀がネットテレビ番組の鼎談で「最近のツイフェミの跋扈は、憂慮すべき問題だ」という趣旨のことを語っていたのを聞いて「へえーっ、そうなのかあ」と思った記憶があったからである。
一一つまり、東浩紀が「北村紗衣」氏に反論しないのなら、それは「フェミニスト」だと自称している「北村紗衣」氏を、いわゆる「ツイフェミ」でしかないと考えたからだろう、と理解したのだ。
要は、東は「北村紗衣」氏を「冷静な議論のできない人」つまり「話にならない相手」だと考えて、相手にせず敬遠していたのだと、そう察したのである。
だが、上の「裁判」記事を見て、単に「話にならない相手」というだけではなく、「北村紗衣」氏が、合法の「スラップ裁判」を駆使して、それで「成果」を上げている人なのだという事実を知り、「そのため」多くの人は「言葉尻をとらえられ、スラップ裁判を起こされてはかなわない」と、「北村紗衣」氏の言動は、無難に無視黙殺することにしているのだろうと、そのように理解を深めたのである。つまり、こう理解したのだ。
「スラップ裁判とキャンセル・カルチャーは、手をたずさえてやってくる」と。
『キャンセル・カルチャー(英語: cancel culture)は、2010年代後半から使われるようになった用語で、「容認されない言動を行った」とみなされた個人が「社会正義」を理由に法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象を表す。この排斥は対象者の社会的・職業的な領域に及ぶこともあり、有名人に関するものが最も注目されやすい。排斥された者は「キャンセルされた」と言う。』
ちなみに、「ツイッター・フェミニスト」の略称であろう「ツイフェミ」という言葉が、現在(ここ数年)、どのような意味で使われているのかは、なにしろ「Twitter」を使えない私には、よくわかってはいなかった。
ただ、前述の「東浩紀の鼎談」において、「ツイフェミ」という言葉は、通常の「フェミニスト」と区別するために使われており、しかもそこに「嫌悪」が込められていることだけは、ハッキリと感じ取れた。要は、「Twitterの短文」で「わいわい言う、論理的な議論のできないフェミニスト(またはそのシンパ)」というニュアンスであることを感じ取っていたのだ。
で、さらに検索してみると、評論家・与那覇潤による次のような「note」記事も見つけた(この人の著書は、だいぶ前に2冊ほど読んだことがあった)。
・「「北村紗衣・山内雁琳」訴訟の地裁判決を正しく読む」
(※ 以下「正しく読む」と略記)
この記事は、大変に興味深いものだった。
というのも、「一般のニュース記事」の扱いでは、「北村紗衣氏が、ネットで同氏を誹謗中傷した山内雁琳氏を、民事告訴して、その地裁判決で勝訴した」というだけの、わかりやすく「勧善懲悪の物語」にしかなっていないのだが、その内容を詳しく見てみると「そう単純な話ではないのだ」という内容だったのだ。
で、この与那覇による記事「正しく読む」の詳しい内容は、本稿読者各自に読んでいただくとして、私が特に引っかかったのは、この「北村紗衣」氏が原告人となった裁判では、北村・山内両者の「やりとりのすべて(の内容)」が「総合的」に検討されたわけではなかった、という事実である。
つまり、法的に「誹謗中傷」に該当する可能性のある「文言」だけを、長いやりとりの中から「11」個だけ抜き出してきて、その「個々の表現」についてだけ、その妥当性を問題にしたものだった、というのである。
一一つまり、「罵りあい」になった「経緯」や「双方の主張そのものの是非善悪」については、裁判では判断されていない、ということである。
言い換えれば、この裁判は、「どちらが正しいか?」を判断したものではなく、問題視された「11」個についてだけ、「山内雁琳の言葉は、北村紗衣の名誉毀することで、不当に損失を与えたか?」と問われたのである。
要は「理由はどうあれ、問題は、どんな言葉を使ったか」だと、「使われた言葉の社会的な妥当性のみ」が問われ、それについてだけ判断されたのだ。
これは、刑事裁判で争われることになる「名誉毀損罪」(刑法)でも同じことなのだが、たとえば「A社の社長のAは、社員にパワハラを行っている。あいつは、人としてクソだ」と、その「事実」をいきなり「ネットで実名告発」したりすると、「Aのパワハラ」が「事実」であっても、「名誉毀損罪」は成立する。つまり、Aが警察に被害届を出せば、告発者は「名誉毀損罪の容疑者として取り調べを受ける」のである。
こう聞いて「なんて理不尽なんだ」と思った方も多いだろうが、日本の法律ではそうなっている。
要は、「Aのやったことは事実だとしても、だからと言って、公の場で個人の名誉を毀損することをしてはならない。それはそれ、これはこれなのだ」というのが「法的な建前」なのだ。
「いきなり告発するなんて過激な手段は採ってはならず、まずは社内の上司や然るべきところに相談して、まずは社内で、穏便に問題の解消を図ってください」ということなのである。なにしろ、人を罰するのは「国家の専権事項」だから、勝手にやることは、あいならん、ということだ。
で、現在では、まさに現在進行中である「兵庫県知事・斎藤元彦による、部下職員に対するパワハラ疑惑」で、「公益通報制度」が知られるようになったけれども、この制度が「従業員301人以上の会社」で「義務化」された(施行された)のは、なんと「2022年6月1日から」、つまり、ごく最近のことであり、それまでは「筋を通して、おのおのが当事者同士で解決してください」という建前だったのだ。
だが、こんな「ぬるい制度の義務化」や、それ以前から存在していた「公益通報者保護法(内部通報制度)」が、現に、圧倒的な「力関係の非対称性」が存在する「会社をはじめとした組織内」で、まともに機能するわけがないというのは、わかりきった話でしかない。
だからこそ「兵庫県知事にのパワハラ疑惑問題」においては、「内部通報者」が守られることもなく自殺にまで追い込まれてしまい、その事実が露見して初めて、マスコミもやっとその「重い腰」を上げたのである。たぶん、多かれ少なかれ前々から、そうした事情を聞き及んでいたはずであるにもかかわらずだ。
で、話を「北村紗衣・山内雁琳」訴訟に戻せば、法的に認められた「公益通報」でさえ、こうした現状なのだから、ましてや「ネット上の喧嘩」などについて、裁判所が「その内容にまで立ち入って、その内容的な是非を判断する」などということはあり得ず、現に無い。
裁判で問われるのは、あくまでも「どんな言葉を使ったか(名誉を毀損するに足る言葉であったか否か)」であり、与那覇が前記の記事「正しく読む」で紹介しているとおり、「北村紗衣」氏とその弁護士が、山内雁琳氏を提訴するにあたって提出したのは、色々やりとりした中から、山内氏側の言葉「11」個だけ、だったのだ。
しかも、その「11」個すべてが山内氏自身の言葉というわけではなく、同氏が別人のツイートをリツイートしたものも含まれており、それでも、たったそれだけだったのである。
つまり、この「訴訟」について地裁で検討されたのは、「やりとりの経緯」は別にして、この「11個の文言」を、公の場であるインターネットで、他人に向けて発したのが、相手の「名誉を毀損するして、不利益を与えるものであったか否か」だけだった。「悪いか否か」よりと「どれほどの損失を与えた」のかが、問題だったのである。
なにしろ本件は民事なのだから、問われるのは「犯罪性の有無や程度」ではないんだし、裁判官としても「個人の思想信条の是非までは、裁判所は立ち入らないんだよ」ということなのである。
だから、こうした訴訟で問題にされるのは、結局のところ「言葉尻」なのだ。
要は「つい、カッとなって、言っちゃった」方が負け。
その「カッとなった」動機の是非など、重大犯罪でもない限り、裁判所はいちいち問題にはしない。
そもそも、個人の「名誉」(の保護)とは、犯罪者を含めて、全ての人に保証されたもの(尊厳)なので、それを不当に「毀損」することは許されない。一一ということに、建前上はなっているのだ。
無論、「例外」などいくらでもあって、いま、ネット上に「兵庫県知事」に対する「死ね」等の不適切な言葉を書き込んでも、数が多すぎて、提訴されることなど絶対にないから、このような場合は、そうした言葉が世間に横行していても、おのずと「不問に付される」のである。
しかしまた、だからこそ、こうした問題では、「提訴するための、金と時間に余裕のある者」が、圧倒的に有利にもなる。
まただからこそ、世に「スラップ裁判」なる言葉も存在して、「金と暇のある有力者」たちは、時に「裁判に訴えるぞ」と批判者を威嚇して、力ずくで合法的に「黙らせる」こともできるのだ。
私が住んでいる大阪では、現大阪府知事の吉村洋文が、元は、サラ金業者「武富士」による「スラップ裁判」において、「武富士」側の弁護士の一人であったというのは、有名な話である。
「武富士」の悪どいやり口を告発した記事を書いて、「武富士」から「スラップ裁判」を起こされ、「名誉毀損の賠償請求」裁判の「被告」になったジャーナリスト・寺澤有の証言として、次のような言葉が、この記事で紹介されているが、その言葉からも、「スラップ裁判」というものの性格が、自ずとうかがえると思う。
『「武富士から、私が執筆した記事が名誉毀損に当たるとして、2億円の損害賠償を求める訴訟を起こされました。吉村氏は武富士側の弁護士の中でも、一番の若手でしたね。彼を見たとき『こんな若さでスラップ訴訟に関わって、経歴に傷がつくんじゃないか』と、相手方ながら思ったことを覚えています。結局、裁判中、特に彼が発言することはありませんでした」』
要は、金のある、悪徳サラ金業社が、金のないジャーナリストを「恫喝して萎縮させるために」裁判を起こしたのであり、こういう、主に「金銭的威嚇による萎縮効果」を狙ったような裁判を、「スラップ裁判」と呼ぶのである。
無論、「北村紗衣」氏に、「山内雁琳氏に対する裁判は、スラップ裁判ですか?」と問えば、「そうです」とは絶対に言わないだろう。
だがそれは、「武富士」であっても同じことだったのだ。
さて、ここで考えなければならないのは、「北村紗衣」氏は、著作もあり、公けに発言もし、「Twitter」では5万人弱ものフォロワーを有する「武蔵大学の教授」であり、すなわち「社会的に、大きな影響力を有する言論人」だという事実である。
つまり「政治家」なども含めて、そうした「社会的に影響力のある」いわゆる「公人」的な立場にある人は、それ相応に、その「言動」に責任を持たなければならないし、そうした責任ある立場にあれば、社会からの「監視」や「批評・批判」も、無名の一般人とは違って、一定のところは甘受しなければならない「倫理的責任」を負うのである。負うべきなのだ。その「社会的影響力の濫用」を許さないために。
だから、例えば「政治家」が、ネットで批判されたからといって、それを提訴したりしたら、それは「スラップ裁判」だと言われるし、現・兵庫県知事を選挙で推薦して通し支えた「日本維新の会」の所属だった元・大阪府知事の松井一郎が、タレントの水道橋博士が、松井の「名誉」を毀損する「ネット動画」を「広く紹介した」ということで提訴した際も、水道橋博士当人はもとより、多くの人から「スラップ裁判」だと批判されたのだが、それでも松井は「同様の行為をしたものは、誰でも提訴する」とまで発言したし、実際それは、法的には認められた「権利」だったのである。「権利」の行使は、必ずしも「倫理的なものではない」ということなのだ。
一一で、私は、この松井一郎による「スラップ裁判」に対して、義憤に駆られて「この無名人も、提訴してみせろ。世間の物笑いになるぜ」と、次の記事「松井一郎は、人として〈クソ〉」を書いて、水道橋博士への支持表明をしたのである。
このタイトルで、「〈クソ〉」と、わざわざ括弧付きで強調して、文字どおりに「汚い言葉」を使ったのは、もちろん意識的なものである。「これなら確実に名誉毀損に当たるだろう」と、そういう意図を込めてのものだったのだ。
ちなみに、この裁判でも、水道橋博士の方が「敗訴」している。
・「水道橋博士さん、二審も敗訴 松井・前大阪市長巡るツイッター投稿で」
つまり、こうした裁判では、批判された者が、いかなる「権力者」であろうと「金と暇のある有力者」であろうと、少なくとも「今の日本の裁判」では、「被告」側が不利なのだ。
歴史上には、いくらでもある「権力者に対する、庶民の批判嘲弄揶揄」は、昔と同様に、権力からの規制と弾圧を受けることになる。
それが「社会的に影響力のある人物」に関する「事実の周知的指摘」であろうと、それが「公益に資するもの」と判断されることは滅多にないから、「金と暇のある者」は「権利は行使しないと損」ということになり、「スラップ裁判」が横行することになっている。
それは、当然のことながら「言論の萎縮」を招いて、例えば東浩紀も、「北村紗衣」氏への「反論的痛罵」を差し控える、という事態にも、現に立ち至っているのだ。
私は以前、評論家の小谷野敦を批判して、「こんな男が野放しにされているのは、小谷野が訴訟マニアだからだ」と批判したことがあるのだが、言うなれば「北村紗衣」氏は、女性版の「小谷野敦」なのである。だから、恐れられている。
もちろん、「名誉毀損」の賠償訴訟は、法律で認められた「権利」ではあるから、その意味では「合法的」な行為である。
だから、「動機」が真っ当なものなのであれば、なにも恥じることのないものだ。
しかし、それでも、ひと昔前なら、政治家は「国民の厳しい声に、ありがたく耳を傾ける」というポーズくらいは採ったし、「作家」や「学者」「ジャーナリスト」といった人たちも、「言論には言論で」という建前を持っており、裁判沙汰は「言論の敗北=判断を国家権力の委ねる」自殺的行為だとして、「好ましいことではない」や「恥ずかしい」という感覚を持っていた。
しかし、そんな「武士は食わねど高楊枝」みたいな「プライド」や「美意識」など、今や「一文の得にもならない」と考える、我利我利亡者のごとき人たちが増えてきた。
かつては、世界のNo.2にまで上り詰めた経済大国・日本は、新自由主義経済の荒波の中で、今や見る影もない体たらくだから、「貧すれば鈍する」で、「プライドよりもお金」という身も蓋もない「資本主義リアリズム」に染まりきった日本人が増えてきたのである。
もう日本は「サムライの国」などではなくなった。それどころか、むしろ下手にそんなことを言ったりすると、「時代錯誤の男根主義」だという紋切り型で、ひとつ憶えに批判されることにすらなったのである。
3、与那覇潤と北村紗衣
ちなみに、与那覇がどうして、こんな記事を書いているのかというと、じつは以前に、与那覇は「北村紗衣」氏と「やり合って」、「北村紗衣」氏を撃退している、という経験があるからである。
『私は2021年の11月3日から12月29日にかけて、計13回、「呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える」として、論壇サイト「アゴラ」に連載した。その過程では、原告の北村紗衣氏とも(むろん会ってはいないが)直接論争している。
そしてその間に雁琳氏は、ほぼ毎回に近い形で私の連載を、ツイッターでおおむね好意的に紹介していた。
現に、他人の発言のリツイートまで訴因に含めている以上、もし私の連載内容に誤りや、北村氏への中傷が含まれていれば、「これを紹介・拡散した雁琳のツイートも名誉毀損にあたる」として、原告側は訴えの対象としたはずである。
しかしながら、そうしたことは起きていない。これが示す事態は、明白である。
私の記事内容は原則としてすべて正しく、事実誤認や名誉毀損は含まれていなかったことを、北村紗衣氏とその弁護団は認めたということだ。
したがって今後は、当該の民事訴訟に至る経緯や背景を理解する上でも、それらの拙記事は立場を問わず、「事実の記述」として積極的に参照・引用されることが望まれる(すべての回を読むのは骨が折れると思うので、大意は12回目のまとめと、後に記した番外編の1回分を参照されたい)。
実際、連載の最中に北村氏はツイッターで、私の記事内容に事実誤認があると非難したが、6回目および7回目で反論されると沈黙した。「事実」を踏まえていたのは私(與那覇)であり、勘違いしていたのは本人(北村氏)であることが、証拠と共に提示されたからであろう。
事実を書いた記事を「事実誤認だ」と不当に誹謗するツイートは、名誉毀損や名誉感情侵害に問われる余地がある。私が(いまのところ)北村氏を民事で訴えていないのは、学者や言論人のトラブルはなるべく言論のみによって処理されるのが望ましいと考える、私の個人的なこだわりにすぎない。』
(「「北村紗衣・山内雁琳」訴訟の地裁判決を正しく読む」)
同じことは、私の「著書の内容を徹底的に批判するぞ」という趣旨の発言を、一部切り取って「器物損壊予告およびそれによる脅迫」であるかのように、ネット上に書いた「北村紗衣」氏の言葉は「名誉毀損」に当たる可能性は十分にある、とも言えるだろう。
要は、「犯罪者呼ばわり」されたんだから。
しかし、私も「この程度の誹謗中傷」で、いちいち裁判に訴えるほど、無能な「論客」ではない。直接議論を交わせば、絶対に勝てるという自信があるのだ。
私の場合は、不純な動機で他人を批判したり、本音を隠しての作り事の建前で、他人を批判したりはしないから、やろうと思う時は、勝てるという自信のある時なのである。
ともあれ、上の与那覇の報告からわかるのは、「北村紗衣」という人は、「自分が間違っていた」場合には、こそこそと「沈黙するだけ」であって、いさぎよく「謝罪したりはしない」、そんな性格の持ち主である、という事実だ。
はたして「北村紗衣」氏は、有名になって以降、謝罪したことなどあるのだろうか?
なお、私は無名だからというわけではないが、しばしば謝罪している。
だって、誰にでもミスや勘違いはあることだし、その場合は、謝罪するしか、仕方ないものね。
ともあれ、他人が自分を批判した場合には、その「言葉尻」をとらえて「裁判」を起こし、それで賠償金まで取って痛めつけようとはするが、自分が間違っていた場合には、「賠償金」を払うどころか、無難に「沈黙」して、そのまま頰被りしてしまう(無かったことにしてしまう)というのは、いただけない態度だ。
幸い、与那覇の場合は『学者や言論人のトラブルはなるべく言論のみによって処理されるのが望ましいと考える』人であり、しかもそれを『私の個人的なこだわりにすぎない。』とまで言う「古いタイプの美意識を持つ人」だったから良かったものの、相手が「北村紗衣」氏自身と同種の人間だったなら、「当然の権利」として「北村紗衣」氏を「名誉毀損」で告発したことであろう。
こうした事実から言えるのは、「喧嘩」になった際の「北村紗衣」氏は、相手の「主張の内容」ではなく、その「言葉尻」を捉えにくる人なのだから、まずは「言葉尻」に気をつけなければならない、ということだ。
しかしそれでも、「ごく一部の言葉尻を捉えられて」提訴された場合には、「北村紗衣」氏の発言を細かく検討して、逆にその「言葉尻」を捉えかえす、「逆提訴」も検討すべきであり、それが「言論・表現の自由」を守ることにもなる、ということである。
あくまでも「言論」で片をつけるのが、望ましいというのは言うまでもないことなのだが、しかし、相手がそんな建前に忖度しない輩なのであれば、こちらも「合法的な権利」を、積極的に行使すべきなのだ。
相手のように「言論の萎縮」を狙った「スラップ裁判」ではなく、「言論・表現の自由」を守るため、「スラップ裁判」の横行を許さないための、やむを得ない選択肢として、それは行使する権利なのである。
4、私ならどうするか?
では、私ならばどうするか? 基本的には「件のコメント欄」に書いたとおり、「言論には言論で」決着をつけたいし、これまでは、事実としてそうしてきた。
私の掲示板への「荒らし」行為や「ネトウヨ」の攻撃に晒された時も、いつも一人でやり合ってきたし、友人のブログが荒らされた時には、そちらへ単身加勢に出張ったりもした。それは、東浩紀の昔の著書にも紹介されている通りの事実である(そこで私は、その座談会参加者の一人から「白馬の騎士みたいな人」と揶揄的に語られている)。
しかし、こちらが「言論には言論を」と言っても、相手がそうさせてくれない場合には、それ相応の対応をしないわけにはいかない。
議論などする気のない「ネトウヨ」の書き込みがあった場合には、私はそんなものとの議論を試みようとはせず、すでに書いたように、相手を言葉イジメで排除するようにした。つまり、「論理」ではないが「言葉」でやり返したのだ。
だから、かつての日本共産党ではないけれど、要は「敵の出方」次第で対応も変わる、ということだ。
議論できる相手とは喜んで議論するし、議論する気にない相手には、言葉イジメで対応する。そして「法的暴力」に訴える者には、ことらも遠慮なく、「法的暴力」で対抗する、ということだ。
幸い、私個人は、すでに退職した当年62歳の「無職」だし、妻も子も親もいないから、そちらを心配する必要もない。
つまり、私が心配しなければならないのは「自分の身ひとつ」なのである。
そして、そんな自由な身分になった私が、あと考えているのは「後悔せずにすむ余生を送って、納得して死んでいく」ということだ。
すでに「蔵書整理」を始めていることからもわかるだろうが、いささか気が早いのではと言われても、私は「いつ死んでも良いように」その準備だけは始めている。
それに、これも、これまで何度も書いてきたことだが、「金を残すべき家族もいないのだから、理想は、死ぬ時には全財産を使い切って無一文になること」だし、「予想以上に長生きしてしまい、金が無くなってしまったら、その時は、生活保護を受けることも全く辞さない」。
また、なにしろ私は「死後も冥福もクソもないと考える徹底した無神論者なのだから、孤独死して腐乱死体になって発見されても全然かまわないし、今の法律が許さないから、私の遺体を山に捨ててもらうというわけにもいくまいが、自分の気持ちとしては、それでも全然かまわない。無論、葬式も墓もいらず、死んだら火葬場へ直送し遺骨も持って帰らなくてもいい」と公言し、弟にもそう伝えてあるような人間なのだ。
だから、私から「裁判で金をむしり取ることで黙らせよう」とするような相手には、逆提訴の「泥試合」だって、ぜんぜん辞する気はない。
つまりは、勝つことだけが、裁判の目的ではない。「ずっとつきあわせてやる」という気持ちでやるのだ。
私は、与那覇のような「紳士」ではなく、「泥試合の取っ組み合い」も辞さない人間で、「note」のフォロワーでもある友人に「私の喧嘩のスタイルは、グレコローマンです」と書いたら「言い得て妙」だとの言葉をいただいたほどである。一一つまり、「派手な空中戦」には止まらず、最後はグチャグチャの絡み合いも辞さないどころか、それだっておおいに得意だよ、ということなのだ。そんな性格じゃなきゃ、30年以上も「ネトウヨ いじめ」を趣味になどできないのである。
5、同種裁判の別事例
さて、「北村紗衣」氏の「名誉毀損」訴訟関係をネット検索していて、また別の面白い記事を見つけた。
・「フェミニズム関連の裁判から浮上する奇妙な共通点【兵頭新児】」
これは、ネットサイト『WILL ONLINE』に掲載された記事で、「北村紗衣の勝訴」にも触れているが、タイトルにもある通りで、それがメインというわけではない。
要は、自称「フェミニスト」の「名誉毀損」訴訟には、気になる「共通点」がある、という趣旨の記事なのだ。
ちなみに、このサイトは、私も、これまで何度も「ネトウヨ向けオピニオン雑誌」だと揶揄し、批判的に紹介してきた、かの『WILL』誌のネット版である。
したがって、記事の内容を鵜呑みにする気はないのだが、読んでもらえばわかるとおり、言っていることは至極まともだし、何より好感の持てるのは、記者の兵頭が、自分はもともとは、フェミニストから攻撃されて右派になった「オタク」であると、その出自や立場を、正直に吐露している点である。一一もしかすると、「美少女エロ漫画の法規制」を訴えて権力にすり寄る「左翼」の一種として、その種の「フェミニスト」を憎むあまり、「右派」に転じてしまった人なのかも知れない。
「フェミニスト」と言っても、そんな単純な人ばかりでもないのだが、その手の人がどうしても目立ってしまうので、「オタク」出身の「右派」というのも、決して少なくはないようなのだ。
で、肝心の記事の内容だが、ここで問題にされているのは「名誉毀損」訴訟における、原告である自称「フェミニスト」のやり口が「汚い」ということである。
要はこれも、「言葉の切り取り」「言葉尻」を捉えての攻撃でしかなく、「金持ち左翼が、貧乏右派を告発し、金の力による権力利用で、力づくで黙らせる」というのは、「やり方として」どうなんだ、という批判なのである。
この記事の筆者、兵頭新児は、原告「北村紗衣」氏側の裁判の進め方を紹介して、次のように書いている。
『 ここまでを読んで、雁琳氏にどのようなイメージをお持ちになったでしょうか。
「フェミニスト叩き」「面白半分」「面白おかしく」などといった(※ 北村側の使用した)ワードを見ていくと、(※ 裁判の内容について)予備知識のない人は、「迷惑系YouTuber」のような存在を想起してしまうのではないでしょうか。例えばですが、道行く女性の姿を隠し撮りし、「ブス」「バカ」などと「誹謗中傷」を「面白おかしく」並べ立てた動画を配信するなど(これはネット黎明期、近いことがあったと記憶しています)。「ビジネスモデル」という言葉からは、配信に伴い、スパチャ(YouTubeのライブ配信時に行われる、配信者への「投げ銭」。スーパーチャット)を受け取っているといった、ふざけた、悪辣(あくらつ)な振る舞いがイメージされるのではないでしょうか。
では果たして、雁琳氏はそうしたことを行っていたのでしょうか。』
(※ 「※」印は引用者補足)
もちろん、「行ってはいなかった」のだ。
では、「北村紗衣」氏側は、どのようなことを「世間に向けて」アピールしたのかというと、山内雁琳氏の発言を、その内容に忠実に問題化して指摘するのではなく、「よくある悪イメージ」に沿うかたちで、レトリックを駆使して、故意に山内氏を「悪魔化」し、故意に「印象操作」しているというのを、この記事は、事実に即して批判的に指摘しているのである。
つまり、こうした手法は、例えば、私が、
『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』
と書いたのを、
『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』
と「書き換える」手口のことである。
いうまでもなく、私の言葉は、「北村紗衣」氏の著作を買って「読んで」、その内容を「微に入り細に穿って、分析的に批判する」という意味である。
例えば、「須藤にわか」氏による件の「元記事のコメント欄」への私のコメント(N-08)でも示しておいた、次のようなレビューが、私の「(膾に)切り刻み批評」の典型だ。
ところが、「北村紗衣」氏の「言い換え」文だけを読むと、そこから、私がどんなことをすると言ったという「イメージ」を受けるだろうか?
たぶん、カッターナイフか大きなハサミなどで、「北村紗衣」氏の著作を「ジョキジョキと切り刻んでいる」サイコ野郎をイメージするのではないだろうか。
また実際、「北村紗衣」氏のコメントは、「そういうことをしかねない危険人物の、危険な犯行予告」に類する文章だから、「note」の管理者は直ちにこれを「削除」するようにと、そういう「趣旨」でなされた、「告発的な通報」だったのだ。
さすがの「北村紗衣」氏だって、第三者である管理者に対し「この人は、私に著書を厳しく批評すると言っているから、そんなコメントは削除してください」とは言わないだろうし、それで削除してもらえるとも思わないだろう。
つまり、「北村紗衣」氏は、「note」管理者や、事情に詳しくない「第三者」に対し、私のことを「危険なサイコ野郎」だという「誤ったイメージ」を植え付けるべく、「わざと」このように「要約して」書いたのである。
そしてこれが、単に「言葉足らずだった」わけではなく、「わざとだった」というのは、上に紹介した記事での中で、「北村紗衣」氏は、同じ手口の「印象操作」を行っていたことからも、明らかなのだ。私が、
『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』
と書いたのを、
『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』
と「書き換えた」のを、「北村紗衣」氏には単に「読解能力がなかった」だけとか「文章表現能力がなかった」だけだなどと考える方が、「シェイクスピア研究家」であり「武蔵大学教授」の「北村紗衣」氏に対しては、かえって失礼なことなのである。
要は、そんな人が、
「シェイクスピアの研究家」になれますか? 「武蔵大学の教授」になれますか?
「表象文化論学会の理事や企画委員長」になれますか?
「表象文化論学会賞 や女性史学賞の受賞者」になれますか?
「白水社や文藝春秋や筑摩書房や書肆侃侃房などなどから本を出す」ことなどできますか?
一一ということなのだ。
つまり、あの「曲解による誤った言い換え」は、明らかに「故意になされたもの」だということである。
でなければ、「北村紗衣」氏を高く評価した人たちの方が、文盲だということにしかならないのである。
6、北村紗衣の批評家的力量
では、実際のところ、「北村紗衣」氏という、「英文学研究者」の「武蔵大学の教授」であり「批評家」でもある人の、その「力量」の程は、どうなのであろうか?
それは、「北村紗衣」氏の、「須藤にわか氏への反論文」を見れば、おおよそわかる。次のものだ。ぜひ読んで欲しい。
・須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
この反論記事が書かれるきっかけの「須藤にわか」氏の「元記事」は、すでに「改訂版」になっているが、この「改訂版」の記事も、趣旨が大きく変わってはいないようなので、それで読み比べてもらえば、どちらが「まとも」かは、明らかである。
「須藤にわか」氏が、「北村紗衣」氏のインタビュー記事での発言内容を批判したのは、「北村紗衣」氏が、映画『ダーティハリー』を取り上げて、何の説明もなく、当たり前のようにこの作品を「アメリカン・ニューシネマ」の内に含め、その上で「アメリカン・ニューシネマ」は、「暴力とセックス」が特徴であり、それがよろしくないと批判していたからである。
つまり、「須藤にわか」氏の認識としては、一般的には『ダーティハリー』は「アメリカン・ニューシネマ」には含まれない。
だが、「アメリカン・ニューシネマ」という概念は、あくまでも「いくつかの、ある種の傾向を持つ映画」を「漠然と指す、大雑把な言葉=便宜的な概念」でしかないから、『ダーティハリー』を「アメリカン・ニューシネマ」に含める人がいても、それはひとつの考え方(立場)として認めても良い。一一しかし、「アメリカン・ニューシネマ」の特徴を「暴力とセックス」だと恣意的に「矮小化」して、そこだけを批判するのは、映画を愛する者として黙っていられない。
なぜなら、「アメリカン・ニューシネマ」の中にも、そういう作品もないではないが、それに当てはまらない作品などいくらでもあるからで、そうした「杜撰なレッテル貼り」は、「偏見を助長する言説」として看過できないと、こういう趣旨のものだったのである。
そして、これに対する「北村紗衣」氏の反論である、上の「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」は、読んでもらえばわかるとおり、ひと言で言えば「私の「アメリカン・ニューシネマ」という言葉に対する定義の方が、学術的に正しい。人は学術研究の成果を尊重して、その言葉を使うべきである」というものである。
だが、この主張は「論外」だ。
なぜなら、研究対象が「映画」などの場合、学者の語る「言葉の定義」も、それはあくまでも学者個々の「個人的な見解」か、作品やジャンルを論じる上での「便宜的な(仮説としての)定義」でしかなく、決して「これが究極絶対の正解だ」「これ以外の立場はすべて間違いであり、そんなものは絶対にあり得ない」というようなものではないからである。
例えば、実験に基づいて堅牢な理論を構築して、物事の「定義」をしている「物理科学」にしたところで、例えば、学者たちが学問の前提とした、物質の最小単位としての「原子」は、最小単位ではないということが判明した。つまり「原子は、物質の最小単位である」というのは、あくまでも「仮説」だったのあり、よく言われるように、「現時点での科学的真相」とは、すべて「仮説」であり、将来的に「例外的事実」が観測されて、その「仮説的真理」に基づく「定義」なども、その都度「より真実に、近いもの」へとバージョンアップされていくだけで、科学の営みは永遠の探究であり、「真理そのもの」には、ついに到達できないのである。また、そこにこそ「迷妄としての宗教」もつけ入ってくるのである。
ともあれ「物理科学」でさえ、常に「新しい物や現象」の「発見」があるゆえに、永久不変の「絶対定義」などできないのに、「映画」などという「概念」に「絶対的な定義」など「あるはずもない」のである。なぜなら、映画は、どんどん作られて言って、研究「対象」が無限に拡大していくからだ。
では、「アメリカン・ニューシネマ」はどうなのかというと、それももちろん「絶対的な定義」など不可能だ。
なぜなら、その「定義」を導き出すための「アメリカン・ニューシネマ」の「作品」を「限定」しなければ、「定義」などできるはずがないのだが、その「概念的定義」以前には、「限定されていない、多様な要素を含んだ、数多くの作品」が「グラデュエーション」をなして存在しているからである。
つまり、無理に線引きをして「限定」すれば「定義」は可能だが、それは「恣意的な定義」であり、個人的な裁断による「個人的な定義」にしかならない。
では、そうした「恣意性」を避けて定義しようとすれば、「大筋の傾向を言い当てている定義」、平たく言えば「ふわっとした定義」しかできないのだ。
で、そうなると、その「定義」もまた「解釈」の範囲を残すものになるし、当然のことながら、その「定義」が指し示す「作品の範囲」も「相対的なもの」にならざるを得ないのである。
したがって、「これが映画だ!」とか「これがアメリカン・ミューシネマだ!」などという「定義」など、所詮は「個人的な定義」であり「個人的な意見」であって、「すべての人は、我々の定義に従って、アメリカン・ニューシネマを語るべし」などというのは、先の戦争中に、植民地になっていた朝鮮半島出身の人たちに対し、「あなた方も、定義として日本人なんだから、日本名を名乗って、日本語を話しなさい」と「命令した」のと、同じ誤ちなのである。言うなれば、「映画の見方についての、植民地主義(支配を目指すもの)」だということになるのだ。
そんなわけで、「北村紗衣」氏のおっしゃる定義が「誰もが従うべき定義である」などと、そんなことを主張するほど頭のおかしい学者など、世界にだって、それほど多くはない。したがって、「これが、決定的な定義で、それ以外は間違いだ」なんて独断的な意見が、「映画研究の学術集団」の中で、主流になるわけもないのである。
当然のことながら、学者の中にも様々な立場や意見の相違があり、それが「時代の各種状況」を反映して、主流・非主流を構成することはあっても、それが即「正解・誤謬」ではない、というくらいの話は、「神の絶対真理を頂く、異端審問官」以外には、わかりきった話なのである。
そして、「異端審問」の本質とは、「カトリック教会における、キリスト教世界の覇権主義」そのものなのだ。
「カトリック」という言葉が意味するのは「公同(普遍)」つまり「いつでも、どこでも同じ(変わらない・例外はない)」という意味だが、その意味での「カトリック教会=公同の教会」とは、この一色ではあり得ない現実世界においては、本質的にそういうもの「覇権主義」的なものであるか、今の教皇フランシスコのような、(本質は変わらないとしつつも、実質的には)「変化を認める」リベラルな立場しか、あり得ないのだ(だから「保守派」の反発も、おのずと強いのである)。
だから、「アメリカン・ニューシネマ」の「定義」をめぐるここでの議論での、「私は専門家として、内外の学術資料に多数あたって、何が定義とされているかを知っている」という言い方は、所詮、素人向けの「(神学者的な)コケおどし」なのだ。
なにしろ、与那覇潤も指摘していたとおり、「北村紗衣」氏は、無いことをあったと確信して、人を公然と批判し、証拠を示されて論破されると、沈黙して誤魔化すような人なのだ。
それに、後で示す「関連ツイートのまとめ記事」においても、著名なベテラン映画評論家である町山智浩が、明確に、次のように断じており、これに対しては、「北村紗衣」氏は、反論していないのである。
『 町山智浩@TomoMachi
『ダーティ・ハリー』がニューシネマとして論争になってるようですが、『ダーティ・ハリー』は狭義の「アメリカン・ニューシネマ」には含まれません。既存のハリウッド・システムとベテランの職人による、むしろ反ニューシネマです。
2024-08-26 8:14:32』
つまり、「北村紗衣」氏は、自身の偏見に満ちた思い込みによる「個人的な定義」を、いくつかの海外の研究家の「個人的定義」を引き合いに出すことで、さもそれが「学術世界での定義となっている」かのように強弁して、ありもしない「学会の常識」の権威で、アマチュアの映画ファンである「須藤にわか」氏に対し「素人は黙っていろ」と、お得意の「上から目線の断言」で、押し潰そうとしただけ、なのである。
しかしこれは「やりくち」が「汚い」だけではなく、「フェミニズム」の基本原則にも反する、典型的な「男根主義」たる「権威主義」的態度であり、しかもそれは、古臭すぎるほどのものだとさえ言えよう。
なぜなら、「フェミニズム」というのは、もともとは「(解剖学的に女性とされていた)女性」が、社会的に差別され、社会的な「弱者」であったから、その「弱者」に寄り添って、少しでも「すべての人の平等」を目指そうというものなのである。
言い換えれば、「フェミニズム」というのは「解剖学的な女性」のための「覇権のための理論=使える兵器」などではないのだ。そもそも「覇権主義」というのが「男根主義」のひとつとして、「フェミニズム」から批判されたものなのである。
したがって、当然のことながら、「アマチュアより、学者・専門家の方が偉いんだ」などというのは、わかりやすい「専門家覇権主義」でしかなく、極めて悪質な「男根主義」の一種でしかない。
なのに、そうしたものを今だに声高に主張する者は、(解剖学的な)男女を問わず、「旧弊な男」であり、ジェンダー的に言っても「パワハラ男」だということになるのである。
だからこそ今どき、どこの学者が、素人に向かって「学者は、無条件に必ず正しいんだ」「だから素人はそれに従うべきなのだ」などと言うだろう?
そんなことを言う学者は、間違いなく「ナチスドイツ」では「ユダヤ人が劣等人種なのは、学会での常識です。だから、それを自明の前提とした議論をしなさい」なんて言うだろうし、日本であっても「学問で証明された遺伝の法則にかんがみて、障害者は断種すべきだ」と主張するだろうし、そう主張した学者は現にいて、国家権力の力を背景に「有識者」として威張っていたのである。
「ヨーゼフ・メンゲレ」なんかが、その典型なのだ。
そんなわけで、そうした輩は、「専門家・学者」の意見を少しでも批判した者に対しては、「学的に根拠のない批判は、私に対する誹謗中傷だ」として、法律に訴え、裁判において、刑罰や罰金を課すなどして、論敵を弾圧し排除したのである。
そしてこれは「歴史的な事実」なのだ。
言うまでもないことだが、法律がすべて、いつでも正しいとは言えないのである。
だから、まともな学者なら、こうした過去の誤ちに学んで、個人的な覇権のために、権力を利用しようとなどとはせず、専門学者であろうが、素人であろうが、その学説主張の内容においてのみ、「なるほど、それは最も正しく意見だ」というような、より完成度の高い理論の構築を目指すのだ。
だから、まともな学者なら「あの学者もこの学者も、私と同じことを言っているから、私は学会での主流であり、だから真理を体現しているのだ」などと、ケチな「多数派の一人」をアピールしたりはしない。なぜなら、そもそもそれは、その学者が、掃いて捨てるほどいる「凡庸な学者」にすぎないということを、自己申告しているようなものだからである。
まただからこそ、知的にも精神的にも「余裕のある」一流の学者ならば、かえって「アマチュアの意見」にも真摯に耳を傾けて、学者には気づき得ないものを、そこから汲み取ろうとするだろう。
したがって、「北村紗衣」氏の、「須藤にわか氏への反論文」に見られる、偏狭かつ居丈高で「大人げ無い態度」は、まさに「父権主義的な古い男」にこそ似つかわしい、悪い意味での「男っぽさ」なのだ。
そして、そんな「古いくさい男っぽさ=男根主義的な覇権主義(文化帝国主義)」を、自称「フェミニスト」である「北村紗衣」氏が、完璧に「内面化」しているのだとしたら、もはや「北村紗衣」氏は「フェミニスト」ではなく、「フェミニズムから批判されるべき男」だと評されるべきなのだ。「内面的には、批判され、乗り越えられるべき男そのもの」なのである。
『 フェミニズム批評は、男中心の意味機構がおこなう全体化の主張を子細に検討する必要があるが、同時に、フェミニズム自身の全体化の身ぶりについても、終始一貫して自己検証をおこなっていかなければならない。敵を単数形で見てしまうことは、抑圧者とべつの条件を提示することにはならず、抑圧者の戦略をこちらが無批判に模倣する裏返しの言説になってしまう。そういった戦法が、フェミニズムの文脈でも反フェミニズムの文脈でも同様に作用しうることは、植民地化の身ぶりそのものが、そもそも、あるいは最終的に、男中心主義のものではないことを示している。そういった戦法はジェンダー以外の場所でも作用して、二、三例を挙げてみるだけでも、人種差別や階級差別や異性愛主義における隷属関係をもたらすために作用している。しかもここで明らかなことに、今述べたようにさまざまな抑圧構造を列挙することは、それらの抑圧がひとつの水平面に隣合わせにつながっていると考えるものだが、この考えでは、それらの抑圧が社会のなかで折り重なって存在している様子を説明することはできない。
だが垂直モデルもまた、じゅうぶんではない。さまざまな抑圧を要領よくランクづけ、それらの因果関係を説明し、それらを「起源」と「派生」の各場所に分布させることなど不可能である。弁証法的な取り込みという帝国主義の身ぶりによってある部分構造化される権力の磁場は、性差の軸をのりこえ、またそれを取り巻いているものである。それはまた、さまざまな差別が互いに交錯している地図を描くが、この地図上のさまざまな差別は、男根ロゴス中心主義であれ、「抑圧の根源的条件」の位置につける他のどんなものであれ、その内部で簡単に階層づけられるものではない。弁証法的な取り込みや《他者》弾圧は、男中心の意味機構のみがおこなう戦法ではない。たしかにおもに男中心の領域を拡大し、それを理論づけるために機能してはいるが、それだけのために配備されているのではない他の多くの戦法のひとつにすぎない。』
(ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』P 40〜41)
そして、さらに言えば、「Twitter」上での「須藤にわか」氏と「北村紗衣」氏の「直接的意見交換」に対し、「北村紗衣」氏の取り巻きである「フォロワー」たちが、「北村」氏の「おかしな絶対定義」を支持して一斉に「そうだそうだ」と声を上げ、一方「須藤にわか」氏の「常識的な定義」に対しては「個人的なお気持ち」だの「出典は俺です」だのと、悪意ある嘲弄を繰り返すことで介入したのは、ネットではよくあることだとは言え、やはり「問答無用の、イジメ的な袋叩き」であり「集団的暴力」として、決して許されない行為であることは、明白なのだ。
だからこそ、後で論じるとおり、真の問題は、こうした「取り巻きの有象無象」ではなく、その跳梁跋扈を知っていながら、そうした「敵手に対するイジメ行為」をありがたく黙認して利用した「北村紗衣」氏の方だと言えるのだ。
ともあれ、そんな集団暴行的な「外野の声」の、あまりの大きさに、多勢に無勢の「須藤にわか」氏の心がすっかり折れてしまい、「これでは議論にならない」と、「北村紗衣」氏との議論の場からの退却したのは、ごく当たり前の判断であって、「北村紗衣」氏の取り巻き連中が考えたような「北村紗衣の勝利」などでは、金輪際あり得ないのである。
それこそ、「北村紗衣氏の取り巻き」たちのやったことは、「北村紗衣」氏自身が、「須藤にわか」氏による批判に対して放った言葉(K-01)、
『『イージー★ライダー』の最後に出てくる田舎の人たちにつながるもの』
そのものなのである。
なぜなら、「北村紗衣氏の取り巻きの、匿名の有象無象」とは、要は「北村紗衣」的な価値観に凝り固まっており、それに従わない者には、覆面(匿名)による集団暴行も辞さないのだから、それは『イージー★ライダー』に描かれた、偏見に凝り固まった「南部の田舎者」そのものだからである。
一一しかしながら、こうした事情をまだ知らなかった当時の私は、個人的にはやる気十分だったので、「件のコメント欄」へ忌憚のない「北村紗衣」評価を書き込んだわけだが、「須藤にわか」氏にしてみれば、すでに当人がやる気を失っているのに、側の人間がしゃしゃり出てきたなら「もう、これ以上ひっかき回さないでくれ。そっとしておいてくれ」という気持ちなったのは、致し方のないことだったのだ。
だから、「北村紗衣」氏との直接対話での解決を諦めた「須藤」氏がその後に、「北村紗衣」氏との対話が「実際にどのようなものであったか」をまとめた「Togetter」を、やっと見つけて読んだ私は、そのコメント(N-10)として、
『まとめ記事をざっと読みましたが、ここまで酷いとは思いませんでした。
さすがは、何万人もフォロワーがいる北村先生ですね。本人の反論は凡庸ですが、取り巻きのヤジがまさに「数の暴力」で、昔「荒らし」とか言われていた人たちと、まったく同じノリ。
これじゃあ、ウンザリするのもわかります。
私はだいぶ前にネトウヨと喧嘩しすぎて、先方の「集団通報」でアカウントが凍結されたままなんですが、「X」とやらは、もう「プロパガンダ」だけの世界みたいですね。
いや、ご苦労様でした。
以後、私はよそで、個人的に勝手にやらせていただきます。』
と、こう書いて、「件のコメント欄」からの完全撤退を表明したのである。
・「北村紗衣さんとツイッターでニューシネマのお話をしたのでまとめました(編集なしの完全版)」
で、次の問題は、この「Togetter」のまとめ記事に見られる、「北村紗衣氏の取り巻き」たちによる、タチの悪い「数の暴力」による、理屈も何もあったもんじゃない「圧力」の掛け方そのものもさることながら、むしろ、それを見ていて止めようともしなかった、「北村紗衣」氏の「意図」である。
「言論には言論で」と考えるような、私ような人間なら、討論なり喧嘩なりに「加勢しようか」と言うような友人が仮にいても「私は正々堂々と一対一でやりたいから、決して口出ししてくれるな」と言うだろうし、現にそのようにしてきた。
ところが、「北村紗衣」氏の場合は、たぶん「他の人にも、自由に意見を表明する権利がある」といったほどの小理屈で、こういうものを「積極的に黙認」したのであろう。
昔の言葉で言えば「使えるものなら、親でも使え」という、姑息に功利主義的な「思想」だ。
なお、この点については、何らかのかたちで、「北村紗衣」氏の「公式見解」を、ご当人の口から明らかにしてもらう必要がある。
なぜなら、それがないかぎり「北村紗衣氏の黙認」が、どのように「解釈」されても仕方がなく、自業自得ということになってしまうからである。
ともあれ、こうした一連の「やりくち」は、単なる「個人的な思想や倫理観の問題」には止まらず、ほとんど積極的に「方法化されている」という点にある。
与那覇潤は、この問題について、次のような記事を書いている。
・「ファンネル・オフェンスの諸問題(前回の記事を一部訂正します)」(※ 以下「諸問題」と略記する)
『これは一般には「ファンネルを飛ばす」として知られる現象である。インフルエンサー的な著名アカウントが、SNSで誰かと論争状態に入った場合、本人ではなくそのファンが暴走ないし便乗して、論争相手に下品な罵声を浴びせる例が多い。
私自身、ある知名度の高い学者と論争した際に随分そういうことをされたし、(私の勝利で)論争自体が閉じられた後も今日に至るまで、ファンネルの一部をなしていた歴史学者から執拗に中傷されている。それについては、以前こちらの記事でご報告した。
細谷氏(※ 細谷雄一)が評価する東野氏(※ 東野篤子)の「オフェンス能力(※ の高さ)」に、こうしたファンネル的なオフェンスがどこまで含まれていたのかは、わからない。しかし一般論として、次のことが言える。
自身のフォロワーが暴走して、上記写真のような不当な攻撃を論争の相手にぶつけ始めたとき、インフルエンサーが「そういうことはやめてください」とツイートするか否かは、事態の収拾を左右する決定的な要因になる。私はフォロワーを抑制する人の方が立派だと思うが、その場合SNSでの「オフェンス能力」は落ちざるを得ない。』
本稿読者の皆さんは「ファンネル・オフェンス」という言葉をご存じだっただろうか?
私はまったく知らなかったのだが、先に紹介した与那覇の記事「正しく読む」の中に、この記事へのリンクがあり、私は「ファンネル・オフェンス」という言葉を知らなかったので、「これはなんだろう?」と思って、このリンク先を読んで見たら、やはりこれも、「北村紗衣」氏への言及こそないものの、だからと言って、内容的に「無関係」だとは言い難いものだったのである。
「ファンネル」とは、『インフルエンサー的な著名アカウントが、SNSで誰かと論争状態に入った場合、本人ではなくそのファンが暴走ないし便乗して、論争相手に下品な罵声を浴びせる』こと(行為)を言い、「オフェンス」とは、無論「攻撃」である。「ディフェンス(防衛)」の反対語だ。
つまり、「ファンネル・オフェンス」とは、自分の取り巻き(フォロワーなど)による「ヤジ」などを、それも「自身の攻撃力」の内だとして、自覚的かつ積極的に利用する、ことである(当然、普通はそれを公言したり、認めたりはしない)。
だが、そんな「攻撃力」の高さを、思わず自慢げに語ってしまう人も、現にいるのである。
「須藤にわか」氏との「Twitterでの直接対論」において、この種の「北村」側の立場から発せられた「ファンネル(罵声や嘲弄)」の数々の存在を、もちろん「北村紗衣」氏は知っていた。
そうした事実を知っていながら、あえて「黙認した」のだから、これは「黙認した」としか言いようのない振舞いだし、これらの「ヤジ=ファンネル」は「北村紗衣氏のファンネル・オフェンス」だと認めるしかないだろう。
したがって、与那覇が言うとおり、そのような態度は、まったくもって「立派」ではない。それどころか、私に言わせれば「見下げ果てた、倫理的頽廃」だということにもなろう。
要は、「主張の正しさ」で相手を屈服させるのではなく、「数の力」「声のデカさ」により、「問答無用」で相手を屈服させれば、それで良しという、頽廃の極みたる態度なのだ。
一対一の正々堂々の理論的な勝負であるべき場に、子分を多数ひき連れてきて、「数による威圧」で相手を退けようとする、そんな「卑怯」きわまりない態度なのである。
私は、今回の体験を通じて「いよいよ日本は、ここまで性根が腐ってしまったか」の感を、否応なく強くさせられてしまった。
たしかに「こんな人」たちが、日本人の多数派だとは思わないし、思いたくもない。
だが、こうした輩が、匿名の陰で大手を振り、我が物顔で暴れ回るのを、「教育者の端くれ」であるはずの「大学教授」たる者が黙認し、ましてや利用するなどということは、少なくとも昔なら、あり得ないことだった。
仮に、本音では「そうだったら、ありがたいな」なんて思っていたとしても、そのような本音が見透かされかねない状況に直面すれば、ポーズだけでも「君たち、恥ずかしいことは止めたまえ」くらいのことは言ったはずなのだ。
だが、今の日本では、そうした見栄や建前や世間体といった程度のものすら機能せず、臆面もない「やったもん勝ちの、半グレ的な世界」になってしまっているのである。
私が、これまで何度も何度も引用してきた、「心の師」と仰ぐ作家・大西巨人の言葉とは、次のようなものである。
果たして「勝てば官軍」か。
果たして「政治論争」の決着・勝敗は、
「もと正邪」にかかわるのか、
それとも「もと強弱」にかかわるのか。
私は、私の「運命の賭け」を、
「もと正邪」の側に賭けよう。
(大西巨人「運命の賭け」より)
「現実政治的な勝負」において、「汚い手」を使えない者は、「手段を選ばない」ゲスに、敗れることが多いのかもしれない。
しかし「それでもやはり、私は良心に恥じないよう、筋を通そう。私は、筋論の方に、自分の運命を賭けよう」というのが、この言葉の意味である。
だからこれまで私は、これも大西巨人の言葉「俗情との結託」を使って、「それは卑怯な、俗情との結託だ」と、たびたび批判を行ったりもしてもきた。
要は、多数派の欲望に媚び、その多勢の力を借り、それを利用することで、他者に優ろう、勝とうという態度は、あまりにも「人としての倫理と美意識」を欠いて、見るに堪えない存在、と言うしかないのである。
だから私は、「俗情との結託」という言葉を、「恥を知れ」という趣旨で使ったきたし、この言葉を差し向けられれば、多くの者が少しは「良心の痛み」と「羞恥」を感じるだろうと期待してきたのだ。
だが、「ファンネル・オフェンス」なんて言葉が作られたのは、「それのどこが悪いの? サッカーだって何だって、応援団の声を力にしてるじゃないですか」などと、臆面もなく「問題のすり替え(屁理屈)」を口にしたり、そんな人が「インフルエンサー」として持て囃されたり、社会的な責任を負うべき立場の人が、「自民党の裏金政治家」よろしく「やらなきゃ損だ」などと、当たり前のように考えるようになったのでは、いよいよ「世も末」なのである。
そんな、世の中では、「弱者の味方」を装う人でも、結局は「党派利益」に預かるための「ポジション・トーク」をしているだけで、「公正さ(フェアネス)」なんてものには、鼻もひっかけないのであろう。
子供を持つ、東浩紀のような思想家は、こうした現実を、「どうにもならない」と諦めてしまうわけにはいかず、なんとか、そんな状況を乗り越えるための思想を練ろうとし、その成果を語るものとして、『訂正する力』とか『訂正可能性の哲学』なんて著作を物したりもしたのだろう。
これらの著書が続けざまに刊行された昨年後半、書店でこれらの著書を見ても、私は呑気に「東浩紀は、何を訂正するというのだろう?」などと思ったのだが、今の私なら、その意味するところもよくもわかる。
それは、自らの間違いは決して認めず、ひたすら強弁と自己正当化を繰り返し、同時に、状況が自身に不利になった場合には、その状況を、「数の力」や「法的暴力」など、使えるものなら何でも使って、手段を選ばずに、状況をひっくり返そうとするような「破廉恥漢」が、今やネットでは当たり前に跋扈しており、むしろそんな輩が、「インフルエンサー」であったり「知識人」を名乗っていたりする状況が、現にあるからなのであろう。
だから東浩紀は「反省する力を取り戻さなければ、私たちに未来はない」ということを語りたかったのではないだろうか。
『日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。(…)とくにネットではこの傾向が顕著です。かつての自分の意見とわずかでも異なる意見を述べると、「以前の発言と矛盾する」と指摘され、集中砲火を浴びて炎上する。そういう事件が日常的に起きています。(…)そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。(「はじめに」より)』
(Amazon『訂正する力』紹介ページより)
理屈はそうだ。だが、そんなことが本当にできるだろうか?
この、まるで「悪霊に憑かれて断崖へと突っ走る豚の群れ」のような「世界」で、「日本」で、ましてや「ネットの世界」で、そんなことが可能だろうか?
私には、どうにもそんな希望が持てない。
やっぱり、人間はこの先200年とは持たずに、滅びるのではないだろうか。
だがまあ、子供も孫もいない私には、「それもまあ仕方がない」で済ませることもできる。
ただ、あと20年ももてばよいところの私の生においては、いまさら「晩節を汚して」まで、生き永らえようとは思わない。
つまり、黙って「卑怯者」たちの「卑怯未練な暴力」の前に、膝を屈してまで生き延びようとは思わない。
私は若い頃、NHKなどでよくやっていた「戦時中の思想弾圧」に関する番組などを見て、「自分があの立場におかれたら、それでも節を屈することなく信念を貫けただろうか?」とか「小林多喜二のように、死ぬまで拷問に耐えることなどできただろうか?」とか「もしもこの先、日本が戦争になったら、その時は、拷問と入獄を覚悟しての徴兵忌避ができるだろうか?」などと考えて、どうにも自信が持てなかった。
だからこそ、そうした人たちの記録を、傷口に塩を擦るつけるようにして、何度も読んできたのである。
そしてそんな私であれば、もはや思い残すことが無くなってきた今となっては、名誉毀損で告訴されて、数百万の賠償金をむしり取られるくらいのことなら、なんとか耐えられそうに思う。
しかし、そうなったときは、あらゆるマスコミに訴えて、マスコミにやる気がないと見れば「私を、自殺した兵庫県の元県民局長みたいにしたいのだな。私が自殺してから、わざとらしく大騒ぎして見せるのだな」と恫喝してもいいし、最後は「大学の校門の前で、抗議の焼身自殺してやる」と予告するくらいのことはするだろう。
他人を傷つけるというような犯行予告は、決して許されないが、自分の自殺予告なら、人にとやかく言われえる筋合いなどないからだ。
それに、葬式代と、マスコミ向けの「告発的な遺書」くらいは、ちゃんと遺しておく。
ともあれ、それが実行できれば、「ベトナム戦争に抗議して焼身自殺した仏教僧」のように、歴史に名を刻むこともできるだろうし、悪しき法律を変えることだってできるだろう。
まあ、それが出来なくても、派手にひと暴れできるというのは間違いない。
私はすでになかばは、ひろゆきが言うところの「無敵の人」状態なんだから、やられっぱなしで黙っていたりはしないのである。
また、そうであってこそ、独身のまま歳をとった甲斐もあろうというものではないだろうか。
今回の経験で私が「ああ、似ているな」と感じたのは、先日読んだ、山本おさむの漫画『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』(全10巻・ビッグコミックス)に描かれた、日本でもあった、かの「赤狩り」である。
その「ハリウッドにおける赤狩り」に抵抗した、私の尊敬するダルトン・トランボは、妻子のある身でありながら、理不尽な国家権力に真っ向から抵抗した。
それに比べれば、私の置かれた状況は、どんなに事を荒立てても、高が知れておろう。
だから私は、トランボほどの見事な生き様はできないまでも、少なくとも、危機意識の無さから、最初はトランボら「ハリウッド・テン」を支持しながら、ちょっとヤバいとなると途端にフェードアウトしていった、ジョン・ヒューストンやハンフリー・ボガートなどのような醜態は晒したくない。
ましてや、「なし崩し的に権力に屈して」ゆき、あげく最後は開き直って積極的な告発者に転じた、「裏切り者」エリア・カザンのような、生き方・死に方だけはしたくないと思う。
どうせ、この世は遠からず滅ぶんだし、死後の名声など欲しいとは思わないけれど、死後に「卑怯者」だと、うしろ指を刺されるような、晩節にはしたくないのである。
【追伸】
親愛なる北村紗衣先生、私自身は「Twitter」でこの記事を宣伝することができないので、できれば先生の方で宣伝していただけると、大変ありがたく存じます。
そうすれば、賛辞も誹謗中傷も含めて、大いに反響を得ることができると思うからです。
いずれにしろ、どんな「正論」であれ、読まれないことには、お話になりませんからね。
【二伸】
みなさま、この記事の「ログ」なり「スクリーンショット」なり「魚拓」なりを採っておかれることをお奨めいたします。
もしも、この記事や私が「note」から消えたら、それなりに使い道もあると思いますから、ここで、このページに関しては「著作権フリー」を宣言しておきたいと思います(笑)。
(2024年8月31日)
○ ○ ○ 【本稿関連リンクまとめ】
○ ○ ○ 【フェミニズム関連レビュー】
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