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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など 

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ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)
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読めニク屋(新五つ子ショップ)とお知らせ⑭。ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)の内容紹介
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【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-463.html

【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-367.html

【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html

【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html

【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html

【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html






本記事に目次はない。
重要論文である「上田万年「P音考」の学史上の評価について」は「上田万年「P音考」の記述を検討し、従来の学史における評価の問題点を論じた。」からどうぞ。





[本記事に最初に追加したのか以下。いつ追加したのかどうかについては、呟かれた年月日2022年1月4日よりは後だとしか言えない。

https://twitter.com/linglanglong/status/1478328935184494592 と続き
”LingLang@言語学好き
@linglanglong
うちの上の子も3歳頃に同じ戸惑いを見せたことがありました。
一旦気づくと奇妙に思えますが、これは日本語の歴史が関係しています。
古代の日本語では「は行」がパ行音で、「ば行」のバ行音と綺麗に対応していたのです。
引用ツイート
Ippei Oshida
@ippei_oshida
· 1月1日
息子が小さかった頃、「は」に点々をつけると「ば」になるということが、何度教えても理解できなかった。「か→が」や「た→だ」の対応関係はきちんと理解しているのに、なぜか「は→ば」だけが理解できない。「『は』に点々をつけると何になるかな?」「う〜ん、わかんない」の繰り返しだった。
このスレッドを表示
午後8:34 · 2022年1月4日·Twitter for iPhone

「は行」の音は9世紀前半までにはファ行音に変わり、さらに17世紀にはハ行音に変化しました。
しかし、連濁などでの「は行」と「ば行」の対応関係は音が変わっても保たれました。
仮名表記でも「ば行」は「は行」で書かれ、さらに濁点の登場で今の体系になりました。

ハ行音 [h] の有声音は国際音声記号(IPA)では [ɦ] と表記されます。
日本語では独立した音(音素)としては使われませんが、速くぞんざいな発話のときにハ行 /h/ の異音として現れることがあります。
例えば「おはよう」が [oɦajoː] と発音され、「オアヨー」にも近く聞こえることがあります。


他の言語でも、[ɦ] は /h/ が有声音に挟まれたときの異音として現れることが多いです。

例:
イギリス英語 behind [bɪˈɦaɪ̯nd]
韓国語 영화(映画) jeong-hwa [jɔŋɦwa]

これらは日本語話者には /h/ が脱落したようにも聞こえます。
(上海語など、/ɦ/ が独立した音素として存在する言語もあります)

ハ行は(京都では)17世紀までファ行音でしたが、これは両唇で調音する音で、IPAでは [ɸ] と表記され、英語の [f] (上の歯と下唇で調音)とは少し違います。
東京を含む多くの地域では、ウ段のフの子音だけは [ɸ] で留まっていて、かつての名残を残しています。
(京都など一部の地域ではフも [h] に変化)

[ɸ] の有声音は [β] と表記される音ですが、これも速くてぞんざいな発話では、語中のバ行の異音として現れることがあります。
「おばさん」が [oβasaɴ] となるように、バ行のところで唇が完全に閉じない発音です。
スペイン語の /b/ (綴りとしては b, v)の語中における異音としても現れます。

「は行」だけは半濁点が付いて「ぱ行」になりますが、半濁点は16世紀にキリシタン宣教師が使い始めたものです。
ただ、パ行音自体はそれ以前にも擬音語・擬態語や促音の直後などで維持されていたか、一旦全てファ行音になったが上記の環境で復活したと言われていますが、不明な点も多いようです。
午後9:09 · 2022年1月4日·Twitter for iPhone


追加ここまで]



2023年2月18日に追加:
「 上代日本語は 8 母音だと橋本進吉の研究で明らかになったんだよな」
ってメモしたが、これも古い学説扱いらしい。
最新の知見では古代日本語は8母音ではないらしい。


https://twitter.com/amapichannel/status/1626515931819286528
”如木花(木花之阿摩比)
@amapichannel
八母音説というのは上代特殊仮名遣を盲目的に母音の数と同一視しているのだと思われます。現代語でいうなればカとキャで別の母音と数えるようなものです(そういう立場自体はありえないではありませんが)。
午後6:36 · 2023年2月17日
·2,955
件の表示”


上代日本語 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
”上代日本語(じょうだいにほんご、英語: Old Japanese)とは、古墳時代頃から奈良時代頃まで使用されていた日琉語族の言語。のちに中古日本語に発展した。
[…]
母音体系

現代日本語の母音体系は5つの音素からなるが、上代日本語においては万葉仮名の分析から、現代日本語でイ段の「キ・ヒ・ミ」、エ段の「ケ・ヘ・メ」、オ段の「コ・ソ・ト・ノ・モ・ヨ・ロ」にあたる各音とその濁音がそれぞれ2種類に書き分けられていたことが知られている。このことから、上代日本語の母音体系にはi, e, o の各母音がそれぞれ2種類ずつ使い分けられており、一子音につき合計8種の音節が使い分けられていたと考えられる。また中古早期と同様ア行のエ(e)とヤ行のエ(ye)に区別があり、中古と同様ワ行のヰ・ヱ・ヲ(wi, we, wo)とア行のイ・エ・オ(i, e ,o)も対立があった。

松本克己に代表されるオ甲乙を条件異音とする現代と同じ5母音(7対立)説[2]もかつてはあったが、院政期アクセントをも含んだ最小対の存在からもはや受け入れられていない[3]。上代特殊仮名遣の音価の推定は上代日本語の音韻論を記述する上でさして重要ではないので、詳しくは上代特殊仮名遣を参照のこと。
[…]
最終更新 2023年2月12日 (日) 12:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者


上代特殊仮名遣 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)とは、上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた、古典期以降には存在しない仮名の使いわけのことである。 

名称は国語学者・橋本進吉の論文「上代の文献に存する特殊の仮名遣と当時の語法」[1]に由来する。単に「上代仮名」とも呼ばれる。
概要

上代文献には、歴史的仮名遣では区別しない音節(具体的には、コ・ソ・ト・ノ・モ・ロ・ヨ・〈ホ〉、キ・ヒ・ミ、ケ・ヘ・メおよびその濁音)を示す万葉仮名が二通りにはっきりと書き分けられていることが知られている[注 1]。

二種類のうち、片方を甲類、もう片方を乙類と呼ぶ。例えば、後世の「き」にあたる万葉仮名は支・吉・岐・来・棄などの漢字が一類をなし、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」がこれにあたる。これをキ甲類と呼ぶ。己・紀・記・忌・氣などは別の一類をなし、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」がこれにあたる。これをキ乙類と呼ぶ。

イ段・エ段の甲乙の区別は動詞の活用と関係があり、四段活用では連用形にイ段甲類が、命令形にエ段甲類が、已然形にエ段乙類が出現する。上一段活用ではイ段甲類が、上二段活用ではイ段乙類が、下二段活用ではエ段乙類が出現する。

こうした甲乙の区別は、一々の単語ごとに習慣的に記憶されて使い分けられたものではなく、何らかの音韻の区別によると考えられている[注 2]。すなわち、上代日本語にはいろは47字+濁音20の67音でなく、それより20音多い87音[注 3]の区別があった。後世に存在しない音韻がどのように区別されていたかは諸説があって定論がないが、例えば母音が8種類あったなどと推定することが可能である。

8世紀後半になると、まずオ段(コを除く)から区別が失われ始めた。このような中間的な状態は仏足石歌・宣命・正倉院万葉仮名文書・および木簡資料などに見られる。平安時代になるとほとんどの区別は消滅したが、コの区別は9世紀前半まで、エの区別は10世紀前半まで残った。
[…]
橋本進吉

宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが、橋本進吉によって注目され、1917年に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」[13]以降、近代日本の国語学界でさかんに論じられるようになった。なお橋本以後の研究では石塚龍麿が指摘したチの使い分けを認めておらず、エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(および濁音がある場合はその濁音)を古代特有の使い分けと見なし、この使い分けを「上代特殊仮名遣」と命名した。なお、「モ」の使い分けは『古事記』にのみ見られ、これは『日本書紀』などの後世の史料よりもさらに古い時代の使い分けを残存しているものと考えられている。

「野」は国学者の修正によってかつては「ぬ」と読まれていたが、これは「怒」などの万葉仮名が用いられていることによっていた。橋本はこれを戻し「ノ」甲類と位置づけ、「ヌ」に2種あるのではなく「ノ」に2種あるものとした。

橋本は音価の推定にはきわめて慎重で、断定的なことは述べなかったが、「国語音韻の変遷」ではイ・エ・オの片方は [i]・[e]・[o]で、もう一方は [ï]・[əi] または [əe]・[ö] という母音を持っていたのではないかという仮説を示している[14]。また、橋本による再発見については、水谷静夫が『国語学五つの発見再発見』の中でも扱っている。
[注:だから5+3=8母音説っていう情報があるのね。本人は断定は避けたかったのね。
…]
大野晋(母音融合)

大野晋は[19]、万葉仮名の音読みに用いられる漢字の中国語における当時の推定音(中古音)等から、イ段乙類・エ段乙類・オ段乙類は甲類と異なる中舌母音を持っていたと推定した。IPA ではイ乙[ï(ː)]、エ乙[ɜ(ː)](説明では「半狭母音」と言っているので[ɘ(ː)]か)、オ乙[ö][20]。エとオの間に、わずかな発音の差しか持たない母音が2つも挟まり、半狭母音の列に4つもの母音が集中するこの体系は、明らかに不安定であったから、平安中期以降に京都方言など日本語の主要方言が、a, e, i, o, uの安定した5母音となる契機であったと大野は説明する。

また、8母音のうちイ乙・エ甲・エ乙・オ甲の4つは、そもそも発現頻度が相対的に少ない、専ら語中に出現する、という特徴があり、かつ複合語などで母音が連続する際に生じていることが多いことから、連続する母音の融合により生じた二次的な母音ではないか、と(これはすでに多くの研究者にも言われていたことであったが)発想し、次のような母音体系の内的再構を行った。
・上代日本語よりも遥かに古い日本語には本来 *a, *i, *u, *ö (= o₂) の4母音があった。(日本祖語四母音説)

・上代日本語のイ乙・エ甲・エ乙・オ甲は、上述4母音の融合によって生まれた二次的母音であった。具体的には、「ウ+イ甲」および「オ乙+イ甲」がイ乙(*ui, *əi > i₂)、「イ甲+ア」がエ甲(*ia > e₁)、「ア+イ甲」がエ乙(*ai > e₂)、「ウ+ア」がオ甲(*ua > o₁)に、それぞれ融合することで新しく二次的な母音が生まれた。
[注:母音の定義でも諸説あるんだろうな。だから母音の数といっても母音の定義から始めないといけない。
…]
森博達

1991年には森博達が「唐代北方音と上代日本語の母音評価」を発表した。森は『日本書紀』のうちの一部(α群と称する)は日本の漢字音ではなく当時の中国語音を使って表記されていると考え、唐代北方音と切韻を利用した具体的音価の推定を試みた。森の推定では甲類は現在の母音と同様で、イ段乙類は母音 /ï/、オ段乙類は /ə/ を持ち、エ段乙類は二重母音 /əi/ であるとした。したがって二重母音を除くと音素として7母音になる。

森説に対しては、中国語音韻論の専門家である平山久雄との間に「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証す」「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」という論争が『国語学』誌上で行われた。
定説への反論
松本克己

古代日本語6,7,8母音説は半ば定説となっていたが、1970年代に入りこれに異を唱える学説が相次いで登場する。その端緒が松本克己の「古代日本語母音組織考 -内的再建の試み-」[27][28]である。内的再建とは、一つの言語の言語史を他言語との比較からのみ考えるのではなく、その言語内の共時態の研究を通じて求めていこうとするアプローチである。

松本は有坂の音節結合の法則について、「同一結合単位」という概念の曖昧さを指摘した上で甲乙2種の使い分けがある母音だけではなく全ての母音について結合の法則性を追求すべきだとして、1965年の福田良輔の研究をもとに母音を3グループに分けて検証を行なった。その結果、従来甲乙2種の使い分けがあるとされてきたオ段の母音は相補的な分布を示すなどしているために同一音素であり、表記のゆれに過ぎないとした。有坂の法則は松本の再定式化によると「同一語幹内に a と o は共存しない」ということになる。

一方、イ段とエ段の甲類と乙類については、イ段乙類は/ï/であるとしたが、エ段の甲乙の差は音韻的には母音ではなく子音の口蓋性/非口蓋性の対立であり、甲/Cje/、乙/Ce/とした[注 5]。イ段乙類はごく限られた範囲でしか使われず、エ段の甲乙の対立には重要性がなかったので、9世紀になると区別されなくなった。その上で松本は先史時代からの変遷について
1. i, a, u の3母音
2.i, a 〜 o, u の4母音 (aとoの母音交替によりoが生じる)
3. i, e, ï, a, o, u の6母音 (u+iやo+iによりïが、a+iやi+aによりeが生じる)
4. 現在の5母音
[…]
のような見通しを示した。

マーティンによると、オ段の甲乙の区別がもともと音韻的でなかったという説は Paul Sato も主張している[21]。

松本説には実際にはかなりの例外があり、とくに単音節語ではオ段の甲乙による最小対が見られる。松本はこれらも音韻的対立ではなく、語の自立性の高さによって甲類か乙類かのいずれかが現れるなどとしているが、それでも説明できない例も存在する。
森重敏

松本克己の論文の発表は1975年3月(書かれたのはその1年前)であるが、それと時を同じくして同年9月、森重敏は「上代特殊仮名遣とは何か」[29]を発表し、松本とは別の観点から上代特殊仮名遣の8母音説に異議を唱えた。発表は9月であるがこれが執筆されたのは同年2月であり、「定説」であった8母音説に対する反論がほぼ同じ時期に執筆されたことになる。

まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になった[注 6]というのが森重説の要旨である。

森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかった[注 7]ことなどを傍証として挙げている。
[…]
藤井游惟

1980年代以降、松本克己説を巡っての上代日本語が5母音か否かの議論は長らく停滞していたが、21世紀に入って学際研究者の藤井游惟が、2001年国語学会春季大会[30][31]及び2002年日本音声学会全国大会[32]でその骨子を発表した後、2007年に音声学を中心として歴史学・朝鮮語・中国語などの多様な学際的観点を取りいれた単行本『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦 その言語学的証拠』[33]を上梓し、松本とは異なる上代五母音説を唱えた。

藤井の説は端的に言うと、日本語はもともと五母音であり、「上代特殊仮名遣い」とは、663年の白村江敗戦後、日本に大量亡命してきた朝鮮語を母語とする百済文化人達及び日朝バイリンガルに育った二世、早期の三世の帰化人書記官たちが、八種類の母音を持つ朝鮮語の音韻感覚で日本語の条件異音を聞き分け、書き分けたものであるとする「上代特殊仮名遣い百済帰化人用字説」というべきものである。

7~8世紀以往の古代朝鮮語に関する資料は皆無に等しく、朝鮮語の全貌が明らかになるのは1443年の『訓民正音』(ハングル文字)制定からであるが、当時から今日まで朝鮮語には八つの母音、就中日本語話者には判別困難な/오/[o]・/어/[ɔ]という二種類の母音があり、李 基文はその区別は1104年に中国人(宋)の外交官によって編纂された辞書の『鶏林類事』にまで遡ることができるとしている[34][注 8]。故に7~8世紀の朝鮮語にも/오/・/어/を含む八つの母音があったとみなすことは不当ではない、と藤井はしている[35][注 9]。

一方で藤井は、現代日本語、特に現代関西方言のオ段音の発音をビデオなどを用いた音声学的実験によって分析し [注 10]、現代人も無意識のうちに唇の開き方が異なる2種類のオ段音を条件異音(conditional allophone)として規則的に発音し分けており、唇の窄まったオ段音を甲類、唇の開いたオ段音を乙類とすれば、その発現法則は有坂・池上の法則初め上代オ段甲乙の発現法則と一致することを発見した。

甲乙/O/母音の音価については、甲類は[o]としてよいが、乙類は典型的には[ɔ]であるが一定ではなく、声門音→奥舌音→前舌音→両唇音(オコヨロノソトモポ)の順で乙類の唇の開きは狭まり両唇音では甲乙の差が殆どなくなるとし、上代の「コ」の甲乙書分けが遅くまで残ったのは甲乙差の大きい声門音であるため、「モ」「ホ(ポ)」甲乙書き分けが判然としないのは甲乙差が殆どない両唇音であるためだとする[注 11]。

またアクセントとの関係では、/O/母音は高音では唇が開く(乙類になる)、低音では唇が窄まる(甲類になる)という性質があり、「世・代」が乙類、「夜」が甲類である理由は、関西方言では前者がHアクセント、後者がLアクセントであるからであるとしている[37]。

さらに藤井は、オ段甲乙音に充当されている漢字の朝鮮音をハングルが振られた朝鮮最古の韻書『東国正韻』(1447)で調べ、甲類漢字の母音は明確に円唇の/오/[o]、乙類漢字は/어/[ɔ]もしくはそれに近い非円唇母音[注 12]であり、上代特殊仮名遣いの用字者は百済帰化人である証拠だとしている[39]。

そして藤井は「8世紀半ば以降上代特殊仮名遣いが急速に崩壊してゆくのは、八つの母音を聞き分けられた白村江帰化人一世はもとより、日朝バイリンガルに育った二世・早期の三世の百済帰化人書記官達も8世紀半ばには急速に死に絶え、日本語しか話せない後期の三世・四世・五世と世代交代するため」であり[40]、「平安時代に入ると言語的に日本人化した帰化人を含む日本人自身による日本語の研究が進んで平仮名や片仮名が発明され、表音文字体系も日本語本来の五母音に収斂して行ったのだ」としている[41]。

なお藤井は、イ段とエ段の甲乙については、ア行の/イ/・/エ/が甲類、ワ行の/ヰ/・/ヱ/が乙類とする考えを述べ、イ・エ段音の甲乙の発音は、/ki/と/kwi/、/pi/と/pwi/、/mi/と/mwi/、/ke/と/kwe/、/pe/と/pwe/、/me/と/mwe/のように、乙類母音は/u/と/i/、/u/と/e/の二重母音、あるいは子音と母音の間に渡り音/w/や/je/が入った二重母音であろうとしているが、それは/O/の甲乙のような異音(allophone)ではなく、日本人自身が聞き分け、発音し分けられる性質の変音で、百済帰化人記述説などを持ち出さなくても音韻論的に説明できる現象であるとして、この問題はあまり重視していない[42]。
[…]
最終更新 2023年1月3日 (火) 04:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者

追加終わり


2023年9月20日に追加:

くじら
@Whalheyt
ハ行がパって音だったんだよ〜ってやつ、たいてい例が藤原不比等なんだが、「あの人高校の日本史で初めて知ったくらいでそこまで知名度あったっけ…?インパクト重視なのか…?」ってよく思う
午後8:47 · 2023年9月18日
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サイエンター(Scienter)
@scienter_p
単にハ行が4つもあって多いからじゃないですかね?
午後9:13 · 2023年9月18日
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https://twitter.com/linglanglong/status/1703752377679900691 と続き
”LingLang@言語学好き
@linglanglong
既に指摘されているように「ハ行が4つも含まれる」が一番の理由だと思いますが、「ハ行がパ行音だった可能性の高い時代が意外と限られる」という理由もありますね。
842年の『在唐記』には既にファ行音化していたと見られる記述があるので、平安時代初期以降の人物は候補から外れるのです。
引用
くじら
@Whalheyt
9月18日
ハ行がパって音だったんだよ〜ってやつ、たいてい例が藤原不比等なんだが、「あの人高校の日本史で初めて知ったくらいでそこまで知名度あったっけ…?インパクト重視なのか…?」ってよく思う
午後9:46 · 2023年9月18日
·
4.6万
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LingLang@言語学好き
@linglanglong
ハ行がパ行音からファ行音に変化した時代の特定は難しく、842年時点では既にファ行音だったと言えるとしても、いつまでなら確実にパ行音だったと明言することは困難です。
となると、なるべく古い時代の人物ほどパ行音だった可能性が上がるので例として望ましく、659年生まれの藤原不比等は好適です。
午後9:52 · 2023年9月18日
·
9,256
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巫俊(ふしゅん)
@fushunia
垂仁天皇の皇子「祖別命」(おほぢのわけのみこと)の「祖」(おほぢ)の当時の発音が「オポンディ」らしいのですが、日本語離れした音に聞こえて、インパクト強烈でした。
引用
LingLang@言語学好き
@linglanglong
9月18日
返信先: @linglanglongさん
ハ行がパ行音からファ行音に変化した時代の特定は難しく、842年時点では既にファ行音だったと言えるとしても、いつまでなら確実にパ行音だったと明言することは困難です。
となると、なるべく古い時代の人物ほどパ行音だった可能性が上がるので例として望ましく、659年生まれの藤原不比等は好適です。
午後10:05 · 2023年9月18日·3,312 件の表示

追加ここまで



2023年9月26日に追加:

https://twitter.com/nakamurakihiro/status/1706165296481157482 と続き
”なかだち⛰️ネット難民📡さんがリポストしました
中村明裕
@nakamurakihiro
こちらのツイートがバズっていますが、この内容には問題があると思うので、以下、スレッドにて指摘しておきたいと思います。
引用
ひろたつ@読書中毒ブロガー
@summer3919
9月17日
いま読んでる本が最高すぎるのだが。
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午後1:34 · 2023年9月25日
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160.5万
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ひろたつ@読書中毒ブロガー
@summer3919
いま読んでる本が最高すぎるのだが。
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午後11:24 · 2023年9月17日·726.2万 件の表示

こちら本になります。ちなみに「ぼくは」も「ぼくぱ」だったらしい。やば。

『あ゛-教科書が教えない日本語』
amazon.co.jp
あ゛-教科書が教えない日本語 (中公新書ラクレ 772)
「あ゛」「ま゛」といったマンガやネットに溢れる「ありえない日本語」。現代は感情を的確に表現するうえで、発音と表記の間にズレが生じており、それを埋め合わせるべく今日もどこかで前衛的な表現が生まれている。それは「五十音図」が誕生した平安時代さながらの状況であり、一〇〇〇年に一度の転換期なのかもしれない。本書は、古代の万葉仮名、「いろは歌」、江戸~明治の文学、学校の国語教育、現代のマンガにいたるま...
午後11:27 · 2023年9月17日
·
20.7万
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(1)まず、「プディパラのプピティォ」という発音は根拠が薄弱です。
午後1:34 · 2023年9月25日·12.2万 件の表示

奈良時代には、平安時代以降では o と発音される母音に2種類がありました。この2種類は甲類、乙類と呼んで区別されます。「藤原の」の「ノ」と「不比等」の「ト」はいずれも乙類ですから、「の」「ティォ」と区別されるのはおかしいです。
午後1:34 · 2023年9月25日·12.1万 件の表示

特に問題なのは「ティォ」で、乙類の「ト」が「ティォ」という音であったという説は聞いたことがありませんし、少なくとも一般的ではありません。o の乙類は、発音記号で書けば [ə] に近い音であったという説が、有力な説のうちの一つです。
午後1:34 · 2023年9月25日·11.9万 件の表示

その他、当時の「ヂ」の前には前鼻音(「ン」のような発音が少し入る)があったと考えられているなどの問題もありますが、小さな問題なので特に取り上げるまでもないでしょう。
午後1:34 · 2023年9月25日·10.4万 件の表示

(2)問題は、単に「プディパラのプピティォ」が一般的な再構音(再現された昔の発音のこと)と遠い、という点にあるのではありません。面白さを優先して、いいかげんな発音をでっちあげているという点にあります。
午後1:34 · 2023年9月25日·11.2万 件の表示

少しでもまともに日本語学に触れていれば、そして、古い時代の日本語が多くの証拠に基づいて多くの学者の研鑽の積み上げの上に推定されていることを知っていれば、根拠薄弱な音をでっちあげようとは思わないでしょう。この点が言語に対する科学への軽視であり、冒涜なのです。
午後1:34 · 2023年9月25日·12.3万 件の表示

なお、著者の山口氏は他の本では「ぷぴちょ」としているそうです。また、この「ぷぴちょ」という発音は有名なYouTuber「ゆる言語学ラジオ」によって無批判に取り上げられ、有名になってしまいました。
午後1:34 · 2023年9月25日·12万 件の表示

科学の真の魅力というものは、「不比等はプピチョだった」のようなウケ狙いの帰結や、こういうウケ狙いの帰結を伝言ゲームすることにではなく、結論に至るまでの地道な積み重ねや、精緻な道筋にあるものだと私は信じます。
午後1:34 · 2023年9月25日·11万 件の表示

事実、この本の著者の山口氏は日本語学の専門家ではありません。専門は中国文献学であるようです。
午後1:34 · 2023年9月25日·9.2万 件の表示

そして山口氏は書籍の中で日本語学に関する不正確な記述を繰り返しており、日本語学者の矢田勉氏が2020年に『日本語の研究』誌上で発表した「日本語学会の社会的役割と『日本語学大辞典』」の中で厳しく批判されています。
午後1:34 · 2023年9月25日·11万 件の表示

(3)確かに医学や疫学の専門知に比べて、日本語学は誤情報が出回ったところで致命的ではありません。「ぷぴちょ」が出回ったところでそれを聞いた人の生存率が変わったりはしません。
午後1:34 · 2023年9月25日·9.2万 件の表示

人が死ぬような誤情報が氾濫する中で、この程度の「ネタ」一つを取り上げて批判するのは暇人の物好きと思われるかもしれません。しかしながら、全ての科学はどこかでつながっているのであり、あらゆる分野の知見を尊重することが必要なのではないでしょうか。

(終わり)
午後1:34 · 2023年9月25日
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(p音の最新学説ってどうやって調べようかな、「最新学説 日本語 p音」とかかな。
以上のように考えて調べて出たのが以下。

2023.6 (17)「語頭に[p]の音を持つ単語のこと」
https://www.nihongokentei.jp/column/nakagawa-shuta/column-17.php
” 現代日本語における[p]について、城生・松崎(1995)は、「「ぱさぱさ」「ぱあっと」「ぽか」などの、擬音語や俗語以外の和語では、パ行音、ラ行音は語頭にこない」という原則があり、そのことから「パ行音で始まる語は、だいたい外来語か和語の俗語・擬音語である」ことがわかると述べます。この記述を頼りに、語頭が[p]の語全般について、その属性を確かめます。『新選国語辞典 第10版』(以下『新選』)を用い、語頭が[p]の713語を抜き出しました。親見出しの語のみを抜き出し、子見出しの語は対象外とします。「ページ」の略の「ペ」のように、語頭には来ず、接尾辞として使う語も省きます。以下に語種の内訳を示します。
語数 語例
和語 133 ぱあ ぴりぴり ぷっつん
漢語 0
外来語 548 パイナップル ペキン(北京) ポリープ
混種語 32 パナマ帽 プロ野球 ポリ袋

 漢語については、玉村(1991)に「語頭に/p-/が現れないのが、他語種と異なる顕著な事実である」と指摘されていました。
 ここでハ行音の歴史を確認します。古い時代の日本語では、ハ行の子音は[p]であり(「花」は[pana])、その後、[Φ](現在なら外来語で用いるファやフィの摩擦音です)の音を経て、江戸時代に現在と同じ[h]になったと推定されています。[p]から[Φ]への変化は、その時期が確定していません。月本(2015)には「奈良時代8世紀に摩擦音化していたとする説もあれば、11世紀以降の変化と推定する説もある」と記されます。[p]は、子どもが習得しやすい音であり、世界的に見ても、珍しいところのない音ですが、日本語の場合、唇を使って発音することをさける(怠ける)、いわゆる唇音(しんおん)退化という現象により、上記のようなハ行音の変化が生じました。その際、現実の音または様子の模写を本分とするオノマトペでは、パ行音が保たれます。「ぱたん」と「ばたん」、「ぽきぽき」と「ぼきぼき」といった区別がつかなくなるのは困るからです。また、「普通とは異なる異様さ」を本質とする俗語の場合は、[p]があえて利用されます注。それらを除く、普通の日本語、標準的な日本語の中に、語頭が[p]で始まる語が見られないのは、以上の事情があるからです。
 では、和語の133語は、すべてオノマトペと俗語か否か。次に、その点を考えます。多くは「ぱさぱさ」「ぺたぺた」といったオノマトペであり、副詞として用いられます。副詞以外であり、かつ、俗語であるものに「ぱあ」「ぴんしゃん」「ぺら」「ぽか」など14語があります。
 以上のものを除くと、オノマトペ、副詞、俗語のいずれにも当てはまらない語は、「ぱちんこ」「ぴりから」「ぴんぽん」「ぺんぺんぐさ」「ぽち」「ぽちぶくろ」「ぽっち」「ぽっとで」の8語に絞られます。「ぱちんこ」は多く「パチンコ」と書きますが、カタカナで書くことや遊びを表すこと、「ピストル」の意味の俗語であること、などから考えると、日本語話者の意識としては、外来語・俗語(に近い語)として捉えている可能性があります。
 次の「ぴりから」は、「ぴり」が「ぴりり」「ぴりぴり」などと関係がありそうなので、オノマトペと無縁ではありません。「ぴんぽん」は、名詞としての用法があるため、副詞用法のオノマトペとは別扱いとしましたが、インターホンなどの音を模したものであるとすれば、これもオノマトペの仲間です。続いて「なずな」の意の「ぺんぺんぐさ」です。この語は「さやの形が 三味線 のばちに似ているので、三味線の音をとって名づけたもの」(『新選』)であり、「ぺんぺん」は三味線の音を表すオノマトペです。オノマトペの「ぽっと」を構成要素に持つ「ぽっとで」もオノマトペと無関係ではありません。『例解国語辞典 初版』(1956)では俗語として扱っています。「ぴりから」「ぺんぺんぐさ」「ぽっとで」をもとに指摘できることは、[p]を語頭に持つ和語は、オノマトペか俗語であることが多い、細かく言えば、そこにオノマトペを構成要素として持つ複合語も含まれる、ということです。
 残るは「ぽち」「ぽちぶくろ(ぽち袋)」「ぽっち」です。『新選』の「ぽち」には二つの意味が載っています。「①小さな点。ぼち。ぽつ」と「②〔もと関西方言〕雇い人や芸人などへの祝儀。チップ」という意味です。「ぽち」および「ぽち」を含む「ぽち袋」については、橋本(2015)で、その昔に遊里で使われた隠語、俗語に由来することが詳述されています。また、同論文では、「小さな点」の意味の「ぽち」について日本語学者の佐竹秀雄氏が2001年1月15日付の読売新聞(大阪夕刊)で「ポチはもともと小さい点や突起を意味した。「できものがポツッとできる」の擬態語ポツッも関係があると思われる」と述べたことを受けて、「例証は難しいものの、概ね妥当な考えのように思われる」と結んでいます。「ぽち」および「ぽっち」は、語源的にはオノマトペである可能性があるとの指摘です。『新明解国語辞典 第8版』が「ぽち」に小さな点の「口頭語的表現」という注記を施しているのは穏当な判断です。
[中略]
注 俗語の中には、時がたつにつれて、俗語という感じが薄れ、一般的な語になるものもあります。俗語のままか、一般語(「常用語」と呼ぶ人もいます)になるかどうかは、語によって異なります。

参考文献
城生伯太郎、松崎寛(1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社
玉村文郎(1991)「日本語における外来要素と外来語」『日本語教育』74
月本雅幸(2015)『日本語概説』放送大学教育振興会
ニール・ヤング&フィル・ベイカー(2020)『音楽を感じろ』河出書房新社
橋本行洋(2015)「「ぽち」とその周辺語」『日本文芸研究』66
k.m.p.(2015)『k.m.p.の、ハワイぐるぐる。』東京書籍

中川秀太

文学博士、日本語検定 問題作成委員

専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。

最近の研究
「現代語における動詞の移り変わりについて」(『青山語文』51、2021年)
「国語辞典の語の表記」(『辞書の成り立ち』2021年、朝倉書店)
「現代の類義語の中にある歴史」(『早稲田大学日本語学会設立60周年記念論文集 第1冊』2021年、ひつじ書房)など。



2021-12-16
ハ行子音の変遷概要 - だいにっぽんメモ
https://lmemo.hatenablog.com/entry/2021/12/16/212204
”ハ行子音は現在の「ha hi fu*1 he ho」という形に至るまでに大きく分けて2度の変化を経ている。「これまでに(現在の形を含め)3つの発音体系が交代しながらハ行音を担ってきた」と言い換えることもできる。1つ目は文献以前の「pa pi pu pe po」、2つ目は上代~中世の「fa fi fu fe fo」、そして3つ目が近世~現代の「ha hi fu he ho」だ。本記事はこの3つの体系の移り変わりをその根拠となる資料を適宜参照しながら簡単にではあるがまとめたものである。


◯文献以前(~7世紀ごろ)【pa pi pu pe po】

▷「無声/有声」の対応が「p/b」にある

清/濁の対応は音声学上は無声/有声の対応であることが知られているが(k/g、s/z、t/dなど)、ハ行音に関しては現在のh/b間では対応が見られず、p/b間において対応が見られる。

画像省略。画像の着色以外の箇所を再現する。
    清音         濁音
カ行 [k]無声軟口蓋破裂音  [g]有声軟口蓋破裂音
サ行 [s]無声歯茎摩擦音   [z] 有声歯茎摩擦音
タ行 [t]無声歯茎破裂音   [d]有声歯茎破裂音
ハ行 [p]無声両唇破裂音   [b] 有声両唇破裂音

再現は以上。[h]ではなく[p]ってことね。
ニポンよりニフォン(ニホン)の発音の期間の方が長いのに、元々はp音だったことを強調する者の一部は、ニッポン読みへの協力者だろうな。欧米人ならニッポンとかジャパンの方が発音しやすいだろうからね。例えばフランス語などはhを発音しない。

▷唇音退化の現状から逆算

唇音退化とは文字通り両唇音が時代を経て消失していく現象のことであり、「か」のkwa→kaや「を」のwo→oといった変化、さらには後に言及する「は」のfa→haといった変化が分かりやすい例。もし、「は」の変遷について唇音退化を考慮して逆算をするとすれば、fa以前はそれよりも更に両唇音的性格の強い音であったと推定されるためpa→fa→haという変遷が予想される。

▷h音のk字での輸入とp音のh字での輸入

文献以前から使用されていた漢字には中国語音hが日本語字kで、中国語音pが日本語字hで輸入された形跡が認められる。上海の「海(ハイ)」は「カイ」という字として、北京の「北(ペ)」は「ホク」という字として輸入された。このことは当時の日本語にh音が存在しなかったという面からもp音説を補強する。

▷諸方言に残るp音

本土方言のh音との音対応が認められるp音が琉球諸方言およびアイヌ語等に見られ、これらは一般的に古い日本語の形が現在まで残っているものとして扱われる。


◯上代~中世(8世紀ごろ~17世紀ごろ)【fa fi fu fe fo】

▷『在唐記』(858年)の記述

円仁の『在唐記』には梵語のpaという音について「以本郷波字音呼之下字亦然皆加唇音(本郷波字ノ音ヲ以テ之ヲ呼ブ。下ノ字亦タ然リ。皆唇音ヲ加フ。)」(大意で「波という字の音に唇音を加えたものがpaである」となる)とあり、この頃にはすでにp音は失われf音へと変わっていたと考えられる。

▷『なぞだて』(1516年)の記述

『なぞだて』には当時のなぞなぞが多数収録されており、その中のひとつに「はゝには二たびあひたれどもちゝには一どもあはず(母には二度会いたれども父には一度も会わず)」というものがある。このなぞなぞは答えが「くちびる」となっており、「母(fafa)」と発音する際に上下の唇が2回くっつくことにかけたなぞなぞと考えられている。(※画像1最左の2行)
[注:『在唐記』(858年)の記述はきちんと学んでいれば出くわすはず。『在唐記』(858年)のおかげで、ポンよりもフォン(とホン)の期間の方が長いとわかるのでありがたい。
中略]
画像1.『後奈良院御撰何曾』*2(国立公文書館デジタルアーカイブより)

▷『日本大文典』(1604~1608年)の記述

ジョアン・ロドリゲスによって著された『日本大文典』は宣教師のための日本語学書でキリシタン資料*3のひとつ。日本語学についての体系的な記述がなされている中でハ行についてその発音が「Fa Fi Fu Fe Fo」と示されている。


◯近世以降(18世紀ごろ~)【ha hi fu he ho】

▷『リチャードコックスの日記』(1615~1622年)の記述

『リチャードコックスの日記』にはコックス自身が聞き取った日本語の固有名詞が聞こえたままアルファベットで記述されている。多くのh字についてf音での表記がなされているが、h字をh音で表記した例が「Haconey(箱根)」と「Hammamach(浜松)」の2例確認され、この頃にはf→hへの変化が生じ始めていたことを伺わせる。

▷『蜆縮涼鼓集』(1695年)の記述

同書中の「五韻之圖」および「新撰音韻之圖」には当時の仮名(とりわけ子音)の調音位置*4が示されており、旧来の体系を示したと思われる「五韻之圖」ではハ行は「脣」とされているのに対して、当時の最新の体系を示したと思われる「新撰音韻之圖」ではハ行は「變喉」とされている。このことから18世紀ごろまでにはすでにかなりの程度でハ行音のh化が進行していたと推測される。
[画像省略]
画像2.『仮名文字使蜆縮涼鼓集2巻』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

▷取り残された「ふ(fu)」
なお、「ふ」のみは唇音退化の影響を受けずに上代以来のf音を現在でも残している。表音的性格を帯びるヘボン式ローマ字でハ行が「ha hi fu he ho」と表記されるのはそのためである。


◯参考文献

・金田弘,宮腰賢(2017)『国語史要説』(大日本図書,第21刷)

・画像1:https://www.digital.archives.go.jp/item/698746.html

・画像2:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546007



*1:正確には[f]ではなく[ɸ]であるが本記事では便宜上「f」を用いる

*2:『なぞだて』をもとに編纂されたなぞなぞ集

*3:17世紀頃、宣教師によって著された日本語の出版物の総称で、当時の日本語がアルファベット(ローマ字)によって記述されていることから音韻論上重要な位置を占める。

*4:子音は調音位置、調音方法、声門の状態の3つの要素によってその音が決定される。
” 


外国人が発音しづらい日本語とは?記号や種類も紹介!
https://www.sanko-nihongo.com/column/pronunciation/
”英語圏の人が発音しづらい日本語

英語圏の人が発音しづらい日本語としては、「会社(かいしゃ)」や「入る(はいる)」など、「ア」と「イ」のような母音が続く発音があります。

日本語の場合、2つの母音が並んでも別々に発音する言葉が多くありますが、英語の発音は母音が2つ並んだ場合、二重母音といって滑らかで連続して発音する習慣があるためです。

他にも、「学校(がっこう)」や「結婚(けっこん)」など、小さい「っ」が入ると発音がしづらい傾向にあります。

日本語の小さい「っ」は、「促音(そくおん)」という、つまった発音です。

英語では、「hot(hɑ’t | hɔ’t)」のように前の母音を強く発音して、あとの文字を発音しません。

英語の発音では「促音(そくおん)」を使わないことから、日本語では普通に使っている小さい「っ」が入る 言葉を発音することが難しいようです。
フランス語を母語とする人が発音しづらい日本語

フランス語を母語とする人は、「は行」が苦手な傾向にあります。

フランス語では「hotel (otɛl | ɔtɛl)」のように「h」の発音をしないため、hの発音で構成された「は行」の日本語は、意識して発音をしなければなりません。

また、フランス語以外でもイタリア語やスペイン語も「h」の発音をしない言語であるため、イタリア語やスペイン語を母語とする人も、同様に「は行」の発音が難しいと感じるようです。
” 

英語が母国語の人ってニッポンよりニポンとかニホンの方が言いやすいってことだな。

ポルトガル語ではHはほとんど発音しない。が、ハ行はある。

2020-07-28
ポルトガル語は日本語に似ている?-日本語に大きな影響を与えたポルトガル語
https://sumikuni.hatenablog.com/entry/2020/07/28/055545
”Rが「は行」になりHは発音しない

ポルトガル語の特徴として、Rが「は行」になるというものがあります。

例えば、Rosa(バラ)は「ほーざ」と発音します。サッカー選手のロナウジーニョはポルトガル語の発音なら「ほなうじーにょ」です。

また、Hは発音しません。広島なら「いろしま」となります。

このように、ローマ字読みではないところも有るにはあるのですが、基本的にはローマ字読みで対応することができます。


ポルトガル語もフランス語もイタリア語もスペイン語もニッポン読みはありがたいだろうな。外国語で発音されやすい基準で国号なんて決めちゃダメだけどな(どれだけ植民地脳なんだよ)。

H : たま〜に趣味でごがく
https://shuminogo.exblog.jp/473243/
”フランス語でHは発音しないという話はかねてより聞き及んでいたが,スペイン語やイタリア語でもHは読まないということは不覚にも最近まで知らなかった。いずれもラテン語由来の言語なので,「なるほど,ラテン語でHを発音しなかったのでそこから分かれた言語でもHを読まないのだな」と一人合点したら,ラテン語ではHは読む(日本語と同じように「ハヒフヘホ」で読めばいいらしい)のだそうだ。 ??? 書かれているものによれば,ラテン語ではHは読むけれども,弱い音だったのでフランス語などに分かれていく間に消えてしまったとか。フランス語,スペイン語,と言う風に分かれてしまってからの変化ならば,ある言語では消えてもある言語では残っている,という現象があってもいいように思うので,実際にはラテン語が変化した言語(俗ラテン語というようだが)の段階でHが消えて,そこからいくつもの言語に枝分かれした,ということであろう。読まないなら書かなきゃいいのに,と思うのが素人であるが,そこはやはり読まないとHがつくのかつかないのか,当事者も段々わからなくなってくるようである。
英語のhaveにあたる動詞はラテン語でhabereである。スペイン語では持つという意味はtenerにあげてしまってhaberというのは完了を表す助動詞の役割だけになっているようだがhabeoに由来しているようだ。フランス語ではavoirでHがなくなっている(bもvになっている,これは英語と一緒)。ついでにドイツ語ではhabenですね。ほかの言語については調べていません。

フランス語では hotel だろうが holoscope だろうが,Hはとにかく読まないのだが,英語は honor や honest では読まないのに,hotel や holoscope では読んだりする,この不徹底さは何故? (前者はフランスからの外来語で,後者はラテン語から直輸入したのだろうか?)
by xabon | 2005-05-10 22:33



スペイン語初心者のための発音講座 – 日本人が苦手な発音とは
https://www.langland.co.jp/spanish/column/column18.php

1.「h」は発音しない

挨拶の「¡Hola!(オラ)」や「Chihuahua(チワワ)」のように、スペイン語では「h(アチェ)」は無音なので声に出す必要がありません。何百年も前にhを発音していた名残として、文字だけが残されているのです。そのため、hを見つけたら、とりあえず無視しちゃいましょう。
2.「j」と「g」はハ行で発音する

hを発音しない代わりに、スペイン語では「j(ホタ)」と「g(へー)」がハ行の発音となります。日本を「Japón(ハポン)」と呼ぶのはそのためです。またgがiとeの前にある場合も、ハ行で発音されます。そのため、“巨人”を英語ではgiant(ジャイアント)と発音するのに対し、スペイン語ではgigante(ヒガンテ)と発音します。

スペイン語のハ行の発音は、魚の小骨がのどに引っかかった時に、のどの奥で「カッ」とするみたいに、息を震わせるようにすると、上手に発音することができます。



上田万年「P音考」の学史上の評価について
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390296498034637312

抄録
上田万年「P音考」の記述を検討し、従来の学史における評価の問題点を論じた。「P音考」が論拠としているものは近世までの伝統的音韻学に指摘があり、それによって「P音考」より前にハ行子音が〔p〕であったことを主張する学者が存在することを述べた。また、「P音考」は印欧比較言語学の手法を用いていること、「P音考」の結論とグリムの法則との関連性を指摘し、それが後への継承に貢献したことを明らかにした。
(中略)

収録刊行物
名古屋大学国語国文学
名古屋大学国語国文学 97 98-84, 2005-12-10
名古屋大学国語国文学会



内田智子 著の2005年発表の論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」は、
名古屋大学学術機関リポジトリからをダウンロードできる。

以下、基本的に〔 〕は省略。
以下、この論文について、その一部の旨を書く。
上田万年「P音考」での論拠について。
論拠①清音と濁音の音韻関係
清音ハ行と対応するのは無声のpとならなければならない。

②日本語には昔hが存在しなかった
梵漢の二国語におけるhが、日本ではカ行に写されている。アラハンが阿羅漢(かん)、マハが摩訶(まか)など。

論拠③アイヌ語に入った日本語

論拠④熟語的促音の直後と方言には昔の音が残る

①は資料から導き出されていないという点で状況証拠的。
②はhがなかったと主張しているだけで、pであった積極的証拠とはならない。
③はアイヌ語がpとfとhを区別するというのは間違いであり、後に橋本進吉に訂正された。
④はなぜ熟語的促音の直後に昔の音が残るのかという説明がなく、方言に残るというのも間接的な論証である。
全体に、実証性に欠け、理論的にpであると述べている。

「P音考」が論拠するものの多くは、既に伝統的音韻学において指摘されていた。

従来指摘されているように、「P音考」が外国人研究者の影響下で生まれたことに疑いの余地はない。
上田はドイツに留学し、印欧比較言語学を勉強している。
「P音考」が書かれたのは帰国後。

〔p〕→〔f〕へのハ行子音の変遷は、比較言語学の中核的業績とされるグリムの法則の一つである。グリムの法則によれば、印欧祖語でpだったものは、音韻推移によりfへと変化を遂げるのである。
上田がグリムの法則を勉強したことは、『上田万年 言語学』(新村出筆録の講義ノート)の記述から明らかである。

現在では、ハ行子音は、英語などに見られる唇歯音ではなく、両唇音であったと考えられている。しかし「P音考」に両唇音と読み取れる記述はなく、上田は唇歯音のfだと考えていたようである。

ハ行子音の研究は、チェンバレン→上田万年→新村出・橋本進吉という大きな流れを形成している。

【2024年8月2日に追加:ここから「8 三宅米吉・大槻文彦・大島正健の記述と中国漢字音」とそれより後の記述について】
 上田の「P音考」より前に、ハ行子音がpであったと主張した学者が存在する。
三宅米吉、大槻文彦、大島正健である。

〔p〕音説を日本人として最初に述べたのは、前掲の三宅米吉(1884)「蝦夷語ト日本語トノ関係如何」であると思われる。論拠は中国漢字音である。
万葉仮名のハ行仮名が中国漢字音では〔p〕になること、漢字音入声の〔p〕が仮名で表したとき「フ」になることを挙げている。
三宅と同様、漢字音をもって重要な論拠とするのが、大槻文彦(1897)『広日本文典』と大島正健(1889)『音韻慢録』である。
【2024年8月2日に追加:
大槻の記述を引用する。
 波行ノ「は、」ひ、」へ、」ほ、」ノ発声ハ、元トfナリシガ如シ、
(中略。論文を書いた人による省略ではない)。
(中略。論文を書いた人による省略ではない)
波行ノ発声ハ、元来、f(或ハ、p、)ナリシガ、hニ変ジテ、「ふ、」独リ、其旧ヲ存スルナリ。

〔p〕か〔f〕のどちらかであったという論である。この部分ではfの可能性が高いと読み取れるが、『広日本文典』の「半濁音」の項には、「此ノ音、古代ノ波行ノ清音ニテ」(第44節)とあるため、fかpかという点にはこだわらず、唇音ということのみを主張している。ハ行の万葉仮名に当てられた中国漢字音が〔f〕か〔p〕であることが示され(6)、他に音の相通現象、方言におけるfの残存が述べられる。

(注)の(6)
当時は漢字音の推定に『韻鏡』が使用されていた。『韻鏡』は奈良時代より後のものであるため、現在から見れば正確さに欠けるが、ハ行の万葉仮名は全て軽唇音fか重唇音pに対応する。
【2024年8月2日に追加:『韻鏡』は、唐末・五代の作と推測される。唐は618~907年。
唐の滅亡から宋[960年成立]が979年に統一を完了するまでが五代十国時代。

五音相通(ゴインソウツウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E9%9F%B3%E7%9B%B8%E9%80%9A-493715

ごいん‐そうつう〔‐サウツウ〕【五音相通】
昔の音韻学の用語。悉曇学の影響を受け、国語の音韻変化を説明するために、五十音図の同じ行の音は互いに通用するという考え。「スメラギ」と「スメロギ」、「イヲ」と「ウヲ」の類。現在ではそれぞれの変化の由来が明らかになったものが多く、この考え方は行われない。同音相通。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「五音相通」の意味・読み・例文・類語
ごいん‐そうつう‥サウツウ【五音相通】

〘 名詞 〙 ( 五音とは五十音図中各行の五つの音をいう )
① ( ━する ) 昔の音韻学用語。日本古来存在している音韻現象から帰納して発生した、国語の音韻変化を説明しようとする理論。五十音図の同じ行の音が互いに通用し合うという考え。また、それらが互いに通用し合うこと。「さけ・さか(酒)」「ま・み・め(目・見・眼)」の類。今日では音変化の由来が明らかにされるものが多く、全体的にはこの考えは否定されるが、一定の限度内では音韻変化の現象の一つとして認められている。五音竪通(ごいんじゅつう)。
[初出の実例]「さけをさかといふこと五音相通なれば、いづれもたがふべからず」(出典:仙覚抄(1269)一上)
(略)

ごおん‐そうつう‥サウツウ【五音相通】

〘 名詞 〙 =ごいんそうつう(五音相通)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 ”



 大島正健(1889)『音韻慢録』に収められた「ハヒフヘホ古音考」(1896脱稿)も、大槻と同様、万葉仮名の中国漢字音からハ行子音の唇音性を述べ、方言にfが残っていることを示す。また、『韻鏡』の知識から、上田と同様、当時の日本語にはhが存在しなかったことを説く。
 以上三者に共通しているのは、ハ行仮名の中国漢字音への言及であり、上田が「P音考」でいわば理論的にpだとしたのに対し、彼らは実証的に論じている。一方、「P音考」では中国漢字音への言及がほとんどなく、以下がやや注意される表現である。

梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかかはらず

梵語、中国語のpが日本語ではハ行に当たるということである。梵語については、中国経由で漢字に音訳されて日本に入ってくる際、日本語でその漢字をハ行で読むということだろう。つまり、梵語の場合も、中国漢字音pが日本語でハ行となるということだと思われる。これは、三宅・大槻・大島が、ハ行仮名の中国漢字音を考えたのと推定の方向が逆であるというだけで、両者は同じことを言っているように思われる。しかし、ハ行仮名から中国漢字音を導き出した場合、pとf両方の可能性が出てくるのに対し、上田のように、中国漢字音の側から日本語のハ行子音を見るとfの可能性は排除される。
 「P音考」には、もう一箇所、漢字音への言及が見られる。

況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。

これは前述のように、エドキンスの説に依っている。日本語のハ行音を、中国人が音訳した時に、fではなくpで始まる漢字を使用したということは、日本語のハ行がpであったことの有力な証拠となる。当時の中国漢字音にはfは存在しなかったため、『韻鏡』に基づいたこのような議論は無意味であるが、グリムの法則からの類推により、古代のハ行子音がpに遡ることを主張したかったものと思われる。
(「況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。」の箇所は誤りってことね)

韻鏡研究に基づいて三宅、大槻、大島といった人物が、ハ行子音が〔p〕であったことを主張している。
【2024年8月2日に追加:
待て待て。大槻文彦(1897)『広日本文典』では、〔p〕か〔f〕のどちらかであったという論である。この部分ではfの可能性が高いと読み取れるが、『広日本文典』の「半濁音」の項には、「此ノ音、古代ノ波行ノ清音ニテ」(第44節)とあるため、fかpかという点にはこだわらず、唇音ということのみを主張している。ハ行の万葉仮名に当てられた中国漢字音が〔f〕か〔p〕であることが示されたんだから、ハ行子音が〔p〕であったことを主張したってのは限定しすぎだ】

備忘録(メモ)は終わり。実に重要な論文だ。
【この「上田万年「P音考」の学史上の評価について」の箇所については、
2024年8月2日に加筆したり修正したりした。一部のpやfを〔 〕で囲ったりした。
全ての箇所を【 】で囲むとあまりにも読みにくくなるし、全てを覚えているわけでもないので囲ってない箇所あり】

ーーー

https://twitter.com/kzhr/status/14761654811
”Kazuhiro hokkaidonis
@kzhr
内田2005「上田万年「P音考」の学史上の評価について」を読む。もうやめて! 彼のライフはゼロよ!
午後10:04 · 2010年5月26日


追加ここまで


2023年9月28日に追加:

青龍さんがリポストしました
国語科教員
@coda_1984
日本語関係や言語学関係でかなり注意しないといけないものとしては、

①山口謡司の著作
②大野晋とタミル語関係
③金谷武洋と「日本語には主語が~」関係

このあたりですかね。
午後6:33 · 2023年9月27日
·
3.3万
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国語科教員
@coda_1984
黒川伊保子も追加。
午後9:23 · 2023年9月27日
·
4,174
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国語科教員さんがリポストしました
Takumi TAGAWA
@dlit
「脳科学」との合わせ技という感じですが、角田忠信『日本人の脳』の日本人は虫の「声」の聞こえ方が特殊という話が日本語のオノマトペ特殊論みたいな話との組み合わせになっているのに定期的に出会って根強い人気だなと思います(さいきんもたまたま見かけたので
引用
国語科教員
@coda_1984
午後6:33 · 2023年9月27日
·
3.3万
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日本語関係や言語学関係でかなり注意しないといけないものとしては、

①山口謡司の著作
②大野晋とタミル語関係
③金谷武洋と「日本語には主語が~」関係

このあたりですかね。
午後10:13 · 2023年9月27日·5,572 件の表示

追加ここまで



2024年8月26日に追加(ご支援用記事⑭発表後に追加。ただし資料記事とお知らせ記事を公開するよりは前に追加):

この追加箇所は、

https://x.com/kitsuchitsuchi/status/1827722309802819969
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
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困窮しているので売上が一定金額に達しなかったら謀議追及を止める予定。
以上よろしくお願いします。
※関連記事(無料公開)は作成中です。
午後11:58 · 2024年8月25日
·
682
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より後に発見した。見逃していた。見つけられてよかった。念入りに自分の記事(非公開含む)を検索してよかった。


もともとは

【お知らせ数字資料】 PON教 資料また何番目だ此れ  橋本進吉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
という記事だったが、この記事に引っ越した。
「橋本進吉の記事があったような気がする」って思っていたが、この記事だったんだ。
再読した。ご支援用⑭の内容を変える必要が生じなくてよかった。

(ここから開始)


円仁の『在唐記』にある「唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音」という... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1260607167
より
”のびさん

2011/4/21 15:36

1回答

円仁の『在唐記』にある



「唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音」



という文章をひらがなで書いてください。
〔略〕
ベストアンサー

ohagitodaihukuさん

カテゴリマスター

2011/4/23 21:54
「しんおん、ほんごうをもって、は(fa)じのおんにこれをよび、かじもまたしかり、みなしんおんをくわう」



波行とは,fa fi fu fe foを指し、上古では、p音に近かったとされます。本郷とは、我が国、日本語ではという意味です。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:dyB3G_czY00J:www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt+%E5%94%87%E9%9F%B3%E3%80%81%E4%BB%A5%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%B3%A2%E5%AD%97%E9%9F%B3%E5%91%BC%E4%B9%8B&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp


このリンクを開くと、

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:dyB3G_czY00J:www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt+%E5%94%87%E9%9F%B3%E3%80%81%E4%BB%A5%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%B3%A2%E5%AD%97%E9%9F%B3%E5%91%BC%E4%B9%8B&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp
”これは Google に保存されている http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt のキャッシュです。 このページは 2022年2月4日 05:04:54 GMT に取得されたものです。 そのため、このページの最新版でない場合があります。 詳細.
ハイライトされているキーワード:唇音以本郷波字音呼之”

この記事には

波行子音の變遷について 橋本進吉
「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt
の全文が一部色付きで表示されている。


波行子音の變遷について 橋本進吉
「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt
”波行子音の變遷について 橋本進吉
「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日

 國語の波行子音、即ちハヒフヘホの最初の子音は、現在に於てはh音又
は之に近い音であるが、古くはF音であり、更に古くはp音であったらう
といふ事は、Hoffmann, Edkins, Satow, Chamberlain, 上田萬年博士、大
島正健博士、岡倉由三郎氏、金澤庄三郎博士、伊波普猷氏、安藤正次氏な
ど、内外の學者の討究によって、ほゞ明かになった。しかるに、pからF
へ、Fからhへと轉化したのは果して何時であったかといふ年代上の
問題になると、今猶明かでない點が多いのである。そのうち、Fからhへ
の推移については、前にはHoffmanの外國人の書いた資料に基づく提
案があり(1)、近頃また新村出博士の國内の文獻による研究があって(2)、室
町時代の標準的發音はFであり、Fからhに遷ったのは主として江戸時
代に在った事が知られるにいたったが、pからFへの推移の年代につい
ては、上田博士は奈良朝以前にありとせらるるやうであり(3)、安藤氏は奈
良朝を以てその轉換期であららかと説かれて居るが(4)、まだ定説とする事
は出來ないやうにおもはれる。それは、それぞれの時代に於て、たしかに
F又はpと發音した事を證明すべき確實な根據がまだ提出せられて居な
いからである。

註 (1) J. Hoffman; A Japanese Grammer. Leiden, 1868. Introduction p. 15-.
(2) 波行軽唇音沿革考(雜誌國語國文の研究、昭和三年一月號)
(3)國語のため第二(明治三十六年刊)p音考
(4)古代國語の研究(大正十三年刊)162頁以下
 平安朝に於ける波行子音の發音がFであった根據として安藤氏が挙げ
られたのは、平安朝初期から中期にかけて波行音が和行音に變化した事で
ある。和行子音wは両唇の間をせばめて發する摩擦音であって、両唇を閉
ぢて發する破裂音であるpよりも、両唇をせばめて發する摩擦音なるF
によほど近いのであって、pが直にwに變じたとするよりもFがwに
變じたとする方がよほど自然であるから、この點からして波行子音がF
であった事を主張するのは甚有力である。しかしながら、波行音が一般に
和行音に變じたのは、「はる」「ひと」「ふね」「へた」「ほね」のやうに語の
最初に在る場合でなく、「かはる」「こひ」「おもふ」「かへる」「かほ」の如
く、語の中又は終にある場合であって、音の變遷は、語頭音の場合と語中
又は語尾音の場合と、必ずしも同様でない事は、東西古今の言語史に於て
屡遭遇する事實であるから、この二つの場合は、別々に考察するのが當然
である。
 語中語尾の波行音が和行音と同音になってしまったのは、平安朝中期
以前であらうが、そのなり初めたのはかなり古く、奈良朝に於て既にその
痕跡が見られるのである。萬葉集に、「かほ鳥」を「杲鳥」と書いてある如
きが即ちそれであって、この例によれば、カホが、少くとも或場合にカヲ
と發音せられたものと解さなければならないのである。さうして、かやう
にホがヲと同音になったのは、當時の波行子音がFであったからである
とすれば、波行子音は、語中及び語尾に於ては、奈良朝時代に既にF音で
あったと考へなければならない。
それが奈良朝から平安朝に入るに隨っ
て、段々w音に變化し、平安朝の半頃には、すべて和行音と區別がないや
うになったものと思はれる。現に今日まで天台宗に傳はって誦へられてゐ
る古代の佛教讃歌の一なる法華讃歎に
  法華經を我が得し事は薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ得し
とある「事は」の「は」を明にFaと誦へる事となってゐるが、この歌は、
平安朝の中頃(永觀年中、西紀九八三年頃)に源爲憲の作った三寶絵詞の中
に、光明皇后作或は行基菩薩作として載せられ、その用語及び形式からし
ても奈良朝のものとも見得るものであり、又上のやうな「は」は、天台の
聲明でも他の場合にはワと誦へるのに、この歌ばかりにFaと發音するの
は、よほど古い時代の發音を傳へたものと考へられるのであって、奈良朝
の發音でないまでも、平安朝初期の發音をそのまま傳へてゐるのであらう
かと思はれる。果してさうであるとするならば、これも語中語尾の波行子
音が平安朝初期又はそれ以前に於てF音であった事を證するものと觀る
事が出來よう。

 次に語の最初に於ける波行音はどうかといふに、既に安藤氏も指摘して
居られるやうに、この場合にも波行音が和行音に轉じたと見られる例があ
る。「はつか」と「わづか」(共に僅の意味)、「はしる」と「わしる」(走の義)
などがそれである。「はつか」「わづか」は共に平安朝以後のものに見えて
ゐる語であり、「はしる」は奈良朝以前からあるが、「わしる」は平安朝以
後にはじめて見える語である。しかし、古事記及び日本書紀の木梨軽皇子
の御歌の「あしびきのやまだをつくり、やまたかみしたびをわしせ」の「わ
しせ」を「走らせ」の義に解してゐるによれば、「わしる」も奈良朝以前か
らある事となるのである。この「はつか」及び「はしる」が單なる音轉化
によって「わづか」及び「わしる」となったものであるならば、これ等の
「は」が平安朝初期又は奈良朝(或はそれ以前)に於てFaと発音せられた
と考へる事が出來るのであるが、かやうな例は、語中及び語尾の波行音が
ことごとく和行音と同音となったのとはちがって、唯二三の例しか見出さ
れないのであるから、果して單純な音變化によるものか、類推其他心理的
要素の加はって出來たものか、又は全く語源を異にした類義語で偶然語形
が類似してゐるだけのものか、たしかでない。それ故、語頭に於ける波行
子音の發音を推定する根據としては、まだ不十分であるといはなければ
ならない。

 それでは、語頭の波行音の發音を知るべき資料は他に無いかといふに、
必ずしもさうでない。まづ近古から溯って行くに、室町時代の標準的發音
に於て語頭の波行子音がFであった事は耶蘇會士が日本で出版した教義
書語學書等に於ける日本語の羅馬字綴、支那人の作った日本語學書や日本
關係書中の日本語の寫しやう、新村博士が見出された後奈良院御撰の何曾
などによって明である。南北朝頃のものでは、元末明初(日本の南北朝頃)
の人である陶宗儀が著した書史會要卷八に、日本の伊呂波をあげて、漢字
で、その発音を註したものがある。宗儀が親しく日本僧克全(字は大用)に
會って聞いたもので、その當時の發音を寫したものとおもはれるが、その
中波行の假名に關するものは次の通りである。

は 法(平聲)近排
ほ 波(又近)婆
へ 別(平聲又近)奚
ふ 蒲(又近)夫
ひ 非

 當時の支那語の發音は明でないけれども、現代の發音から推せば、大體、
法はfa、排はp'ai、波はpo、婆はp'o、別はpieh、奚はhi、蒲はp'u、夫はfu、
非はfeiらしく、波行子音を、或はf或はp或はp'(ph)或はhで寫して
ゐるのであって、その間に統一が無いやうであるが、一々の假名について
みれば、一つの假名を、同じ子音ではじまる二つの漢字で寫したものは無
く、いつもfとp'、又はp'とp、又はpとhのやうに、ちがった子音を有
する漢字で寫して居るのである。これは、多分、日本の波行子音が両唇音の
Fであって、歯唇音である支那のf音とも正しくは一致せず、両唇音
のpやp'とは、違ひはあるが、また却って性質の似た點もあるので、いろ
いろ違った漢字の音を併せ擧げて日本のFの發音をあらはさうと企てた
のであらう。又ホヘの如きは、漢字では之に近い發音のものが見當らない
爲、やむを得ずpo又はp'o、pieh又はhiのやうな、やゝ遠い音を有する
漢字を之に宛てたので、やはり波行子音はFであったらうと思はれる。
 次に鎌倉時代に溯ると、宋の羅大經が日本僧安覺から聞いた日本語を、
其の著鶴林玉露の中に擧げてゐるが、そのうち、語頭の波行音はフデ(筆)
を「分直」と書いたものしか見えないが、この「分」もfではじまる語で
ある。安覺は良祐と称し、栄西禅師の俗弟で、在宋十餘年、建保二年(西紀
一二一四年)帰朝した。平安朝末期から鎌倉初期に世に在った人である(寛
喜三年寂、壽七十三)。
 かやうに、支那に存する資料からして、語頭の波行子音が鎌倉初期から
南北朝にかけてF音であった事が推定せられるが、更に溯って平安朝に入
れば、我が國にも有力な資料が見出される。その一つは、平安朝末の悉曇學
者、東禅院心蓮(治承五年寂)の口傳を記した悉曇口傳である。
この書は大
矢透博士が醍醐三寶院から見出されて、古い五十音圖を知るべき資料の一
つとして、音圖及手習詞歌考の中に、梵字口傳の名で引用して居られる。
原本は鎌倉時代の中期建長元年に、醍醐寺の僧深賢の書寫したものであ
る。(その書名は悉曇口傳であって、悉曇の二字を梵字で書いたのが、虫
損の爲大部分失はれて、字形が明でない爲に、大矢博士は之を梵字口傳と
名づけられたのである)この書の初に母音及び五十音の各行について、そ
の發音法を説明してゐるが、單に従來の説を襲踏したものでなく、發音器
官の運動を實際に觀察した結果と見えて、今日の音聲學の知識から觀て
もほゞ正鵠を得たと思はれるものが多いのであって、たとへば加行音を
以舌根付〓[月咢]、呼〓(a)而終開之、則成〓(Ka)音、呼〓(i)〓(u)〓(e)
〓(o)則キクケコヲ成也
と説き、サ行音を
以舌左右端付上[月咢]、開中呼〓(a)、而終開之、則成サ音、自餘如上
と説いてゐる如き、よくそれぞれの音の調音部位と發音法とを明にして居
る。さうして波行音の發音について、この書の説く所は次の如くである。
以唇内分上下合之呼〓(a)、而終開之、則成ハ音、自餘如上
 これによれば、波行子音は疑もなく両唇音である。しかも上下之を合す
といふのであるから、p音であるかのやうに思はれる。もし完全に唇の間
を密閉するならば、必p音でなければならない。しかしながら、この書に
麻行音の發音について、
以唇外分、上下合之呼〓(a)、而終開之、則成マ(ノ)音、自餘如上
と説いて居るを見れば、波行子音と麻行子音との差異は、唇の内方を合せ
るのと、その外方を合せるのとだけに存するのである。然るに、波行子音
をp音であるとすれば、その上下の唇を合せる場所は、m音の場合とさほ
ど差異があるとは考へられない。されば、波行子音は、やはり両唇音のF
であったのであらうとおもはれる。F音の場合は、mよりも、もっと内側
(後方)で唇を合はせるのが常であるからである。勿論、Fの場合は、mの
如く上下の唇を全部密着せしめる事なく、中央にすこしの間隙を剰すけれ
ども、やはり上下の唇を合せるのであるから、「上下合之」と云っても決
して事實に背かない。ただ説明が精密でないだけである。
 かやうに考へれば、平安朝末に於ける語頭の波行子音はF音であった
 のであって、
かの鶴林玉露によって推定した、平安朝末鎌倉初期の發音と
も一致して、少しも不自然な感がないばかりでなく、また、もっと古い時
代の資料の示す所に照しても矛盾する所がないのである。その資料といふ
のは、慈覚大師の在唐記に存する梵字の發音の説明である。
 この在唐記は、慈覺大師(名は圓仁、平安朝初期の人で、天台宗延暦寺の
座主となり、貞觀六年、西紀八八二年、七十一歳で寂した)が入唐中(承和
五年から同十四年まで、西紀八三八年から八四七年)諸師に就いて學び得
た教法の事を集録したものであるが、中に寶月三藏から學んだ梵字の發音
を記録したものがあって、これによって、梵語と當時の支那及び日本の發
音とを對照出來るものがあるのである。そのうち、今の問題に關係のある
のは下の文である。
〓(pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音
〓(pha) 波、斷気呼之
 かやうに、梵字のpa及びpha共に本郷即ち日本の波の字の音に呼ぶと
説いてゐるのであるから(1)、波を當時日本でpaと發音して居たかのやう
に思はれるが、しかし、こゝに注意すべきは、その下にある「皆唇音を加
ふ」といふ一句であって、特にかやうな注意を加へなければならないの
は、日本の波字の音がpaでなくFaであった爲であって、軽い両唇音Fを
重くしてp音に發音させる爲に、この一句を加へる必要があったものと
考へられる。この推定をたしかめるのは、こゝに引用した文にすぐ続く次
の文である。
〓(ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然
〓(bha) 婆、斷気呼之
 ba、bha共に日本の婆の字の音に呼ぶといふのであるが、この婆は何と
發音したかといふに、梵字vaの條に
〓(Va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是輕
とあって、vaの場合の婆はbaの場合の婆に比して軽いといふのであるか
ら、婆の日本の發音は、後世と同じくbaであったと見るべきである。さ
うしてpaの場合には、波と呼ぶと云ひながら、特に「唇音を加ふ」と註
し、baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで、何等の註をも加へてゐな
いのを以て見れば、日本の婆は正しく梵字baの音に相當するが、波は梵
字paの音とは幾分の相違があるのであって、婆がbaであるに對して、
波はFaであったと認められる。かやうにして、語頭の波行子音は、平安
朝初期に於てもやはりFであったと推定せられるのである。
註(1)斷気といふのはaspirated(有気、帯氣)の意味である。
 以上述べた所によって、語頭に於ける波行子音をFと發音した時代は、
平安朝初期まで溯る事が出來たと信ずる。更に一歩を進めて奈良朝に於け
る波行子音の發音はどうであったかといふに、之を斷定すべき資料は、殆
ど全く見出されない。當時の萬葉假名について見ても、波行音に宛てた漢
字の支那音は、重唇音(p系統の音)と軽唇音(f系統の音)とが混同して居
って、F音を寫したものか、p音を寫したものか全く不明である。しかし
ながら、平安朝初期に於て既に語頭の波行子音がFであり、且つ上に述
べた如く語中語尾に於ては奈良朝に於てもFと發音せられた形跡がある
とすれば、奈良朝に於ては波行子音は語頭でも語中語尾でもF音であっ
たのではあるまいかと思はれる。少くともpからFへの變遷は、遲くと
も奈良朝に於ては既に始まって居たと云ふことは出來るであらう。
 奈良朝よりもっと古い時代になると、國語の音を漢字で寫した實例は極
めて少くなるが、推古時代の金石文などにも、波行音に宛てた漢字は、支
那に於て重唇音(p)に發音するものと軽唇音(F)に發音するものとが混じ
用ゐられてゐるのであって、これらは、共にF音を寫したものとも、又
共にp音を寫したものとも考へられる。
もっとも、支那の輕唇音は重唇
音から出たもので(1)、軽唇音の出來たのは隋代又は初唐であって、それま
ではすべて重唇音ばかりであったとの論もあり(2)、又日本に漢字音を傳
へた朝鮮人は、p音ばかりで、f又はF音を用ゐないのであるから、推古
時代の波行音を寫した文字も、その原音は皆pであったかとおもはれる
が、日本の漢字音は、その傳來古く、十分日本化したものであったらうか
ら、
これによって日本の波行子音はFでなくpであったといふ事は出來
ない。魏志倭人傳以來初唐までの支那の史籍に、日本の波行音を「卑」「巴」
「比」などp音ではじまる文字で寫したものも、波行子音の發音を決定す
る據とするには不十分である。支那古代に軽唇音がなかったとすれば、日
本の波行子音がFであっても、之をpで寫したであららからである。

註(1)銭大〓[日斤]、十駕斎養新録卷五、古無輕唇音の條
(2)満田新造博士、支那音韻斷 四頁
 其他、日本語と朝鮮語とに於て意義及び外形の相類似した諸語に於て、
日本語の波行子音が朝鮮語に於てはp音に當る事、アイヌ語に入った日
本語に於て、波行子音がp音になってゐる事なども、朝鮮語はp音のみあ
ってF音なく、アイヌ語はF音もあるが常にuの前にのみ用ゐられて、用
法が甚だ限られてゐるのであるから、此等の事實も、唯古代日本語の波行
音が唇音であった事を示すだけであって、p音であったかF音であったか
を決定する根據とする事は出來ないのである。
又支那語の入聲のp(語尾
音p)を波行音に宛てた例を以て、波行子音がpであった事を證明しようと
するものがある。いかにも、志摩の郡名タフシを「答志」と書き、近江の
地名カフカを「甲賀」と書き、佐渡のサハタに「雑太」を宛て、大隅のアヒ
ラに「姶羅」を宛てたなど、皆字音のtap、kap、sap、asを、タフ、カフ、サ
ハ、アヒに宛てたものであるけれども、此等の漢字をかやうに用ゐた時代
に、入聲のpを果して原音通りpと發音して居たかは疑問であって、恐
らく當時の漢字音は、よほど日本化したものであったらうからして、入聲
音のpもその次に母音を加へて普通の波行音と同じく發音したであらう
事は、平安朝に於ける梵字の發音を觀ても推測せられるのであるから、こ
れも波行子音がp音であった證とするには足らないのである。
 かやうに考へて來ると、波行子音が最初にp音であった確實な證據と見
るべきものは、あまり多くない。その一つは、日本語と同系統の言語とし
て疑なく、日本の方言とも見られる琉球諸島の言語に於て、殊に交通の不
便な辺鄙の地に依て、今猶波行音にpを用ゐてゐる事であり、一つは、「ひ
とびと」「いしばし」の如く所謂連濁の場合に於て、波行子音が、b音にな
る事である。猶、ヤハリがヤッパリとなり、アハレがアッパレとなる如く、
波行子音がpになる事があるのも、また波行音がpであった時代の發音
の名殘と見るべきであらう。
 これ等の事は、従來屡説かれてゐるのであって、今更説明を加へるまで
もないが、只一二注意すべき點のみを擧ぐれば、琉球に於て、波行子音を
一般にpに發音する地方でも、之をpに發音するのは、語頭にある場合
だけであって、語中語尾の波行音は、今日の日本語と同じやうに、和行音
と混同し、
地方によっては、更にその前の母音と合體して一の長母音とな
ってゐる處もあるのである(例へば、アヒはe-,アフはo-)。しかしながら、
語頭のp音が古音を殘して居るものであるべき事は、琉球の諸方言の比
較からも、日本語に於ける波行子音の歴史からも推測せられる。
 次に、波行音が連濁によってバ行音となるが、バ行子音はbであるか
ら、之に對する清音としては、hでもFでもなく、p音であるべきである
といふのは、甚有力な論證であるが、ここに觀過する事が出來ないのは、
バ行子音は古代に於てもやはりb音であったかどうかといふ問題であ
る。もし知り得る限りの古い時代に於て、バ行子音がb音でなかったとす
れば、この論證は根柢から覆らなければならない。しかるに、古代のバ行
子音の發音は、さほど容易に知る事は出來ないのである。奈良朝及それ以
前の萬葉假名では、重唇音(p,b)及び軽唇音(f,v)を語頭に有する漢字で
バ行音を寫して居るのであって、當時のバ行子音は果してbであったか、
又はv(もし日本にあったとすれば、両唇音の〓であらう)であったかを
定める事が出來ない。しかしながら、バ行子音が室町時代に於てbであっ
た事は、耶蘇會士刊行書に之をbで寫して居る事、當時支那人の書いた
日本語に、波行清音の子音は或はf、h或はp,p'で寫してゐるに拘はら
ず、波行濁音の子音は殆んどいつもp,b又はp'を語頭に有する文字で寫
して、f,hを有する文字を用ゐない事によって明かであり、又、鶴林玉露
(前出)にも「御坊」を「黄榜」と寫して居るのを觀れば(榜は音pang)、平
安朝末鎌倉初期でもやはりb音であったと考へられ(猶、この時代に「まも
る」を「まぼる」といふやうに、語中語尾の麻行音でバ行音に變じたもの
が少くない事も參照すべきである)、前に述べた如く慈覚大師の、在唐記に
梵字のbaに婆をあて、vaには婆をあてながらその婆は軽く發音すべき
事を注意してゐるのも、亦平安朝初期に於てバ行子音がbであった事を
證するものと見る事が出來よう。さすれば奈良朝に於てもやはりb音で
あったらしく考へられるのであって、もし奈良朝に於て、v音又は之に類
する音であったとすれば、平安朝以後に於てb音になったのは、之を發
音する時、唇を合せる度が強くなったわけであるが、一方奈良朝から平安
朝にかけて語中語尾の波行音が和行音と同音になったのであって、これは
波行子音fがwに變じたので、前の場合とは正反對に、唇を合せる度合
が少くなり、唇の運動が弱くなったのである。かやうな性質の全く相反し
た音變化が、同じ時代又は近い時代に行はれたとは信ずる事が出來ない
し、國語音聲史の上から観ても、我國の音変化は、Fからhへ、kwから
kへ(kwa,kwi,kweがka,ki,keとなる)。wi we woからi e oへと、唇の
運動を軽くし又は無くする方へ進んでゐるのであるから、
古いv音が平安
朝以後b音に變じたのではなく、バ行子音は古くからbであったらうと
考へられる。さすれば、之に對する清音はpであるべきであって、隨って
波行子音は最初はp音であったと認められる。さうして、このpに對す
る濁音としてbがあったが、p音が變化した後も、b音はそのまま傳はり、
波行音に對する濁音として今日に及んでゐるものと見るべきである。又波
行子音がpであった時代に、之を強めていふ場合、たとへば、アハレ即ち
apareがappareとなったが、波行子音がpでなくなった後も、かやう
な場合にのみ、孤立して、もとのp音が傳はったものと見られるのである。
 かやうにして、波行子音が元來p音であった事は略疑無い事とおもは
れるが、之を一般にpと發音してゐたのは何時頃であったかといふ問題
になると、まだ全く不明である。このpが、語頭の波行音ではFに變じ、後
更にhに變じ、語中語尾の波行音ではFに変じて更にwに変じたのである
が、そのpからFへ變じた時代も明瞭でない。しかしながら、平安朝初
期に於ては、語頭の波行音では既にFとなって居り、語中語尾ではFか
ら更にwに轉じて、平安朝の半以前に全く和行子音と混同し、之と同じ
音変化を受けたのであって、當時語頭では専らFのみ用ゐられたらしく、
語中語尾ではF音から更に轉化の歩を進めて居たのであり、奈良朝に於
ては、語頭の場合はわからないが、語中語尾に於ては既にF音になって、
w音と混同する傾向さへ生じて居たらしく、語頭に於ても既にF音はあ
らはれて居たであらうと考へられるから、pからFへの轉訛は、遅くも奈
良朝の終頃までには大體完了したのであるまいかとおもはれる。しかし、
これは、pからFへの轉換期をなるべく遅く見た場合であって、實際に
於ては、この變化は奈良朝よりも前に既に終って、奈良朝には、語頭にも
語中語尾にもすべてFのみ用ゐられて居たかも知れない。
さうして、こ
のF音は、語中語尾の波行音では、和行音と混同して、平安朝の半頃に
は大體今日の標準語と同じやうな有様になったが、語頭に於ては室町時代
までもそのまま殘って居たのであって、それがh音に変ったのは主とし
て江戸時代に入ってからであらうと思はれる。
 要するに、波行子音にp音が専ら用ゐられた時代については、まだ全く
確める事が出來ず、p音がF音に遷り行った時代については、奈良朝又
はそれ以前であらうといふだけで、十分確實な年代をきめる事は出來ない
が、唯、F音の用ゐられた時代、殊にどの時代まで溯ってF音の存在を
證明出來るかといふ問題については、これまで擧げられて居ない資料に基
づく考察によって、或程度まで之を明め得たと信ずる。

  追記
 此の稿に引用した慈覚大師の在唐記は、典拠とすべき古本が傳はって居るかど
うか明かでないが、梵字の發音に関する部分だけは、かなり古い時代の寫が今に
殘ってゐる。その中最も古いのは、石山寺の座主淳祐(菅原道真の孫、天暦七年、
即西紀九五三年寂、齢六十四)の手書した悉曇字母と題する卷子本(石山寺蔵)の
中にあるもので、その終に「圓仁記」と明記してある。東寺観智院には鎌倉時代
の寫本を蔵してゐるが、表紙に在唐記と題してある。又院政時代の悉曇學者明覚
の悉曇印信(四家悉曇記)には慈寛大師在唐記として引用してゐる。この書が慈覚
大師の著である事は信じてよいと思ふ。

(着色と太字は引用者。改行が変なのは引用元通り。そもそも原文は縦書きだ)

以下、読み進めながら考えたことを記す。

「音の變遷は、語頭音の場合と語中
又は語尾音の場合と、必ずしも同様でない事は、東西古今の言語史に於て
屡遭遇する事實であるから、この二つの場合は、別々に考察するのが當然
である。
 語中語尾の波行音が和行音と同音になってしまったのは、平安朝中期
以前であらうが、そのなり初めたのはかなり古く、奈良朝に於て既にその
痕跡が見られるのである。萬葉集に、「かほ鳥」を「杲鳥」と書いてある如
きが即ちそれであって、この例によれば、カホが、少くとも或場合にカヲ
と發音せられたものと解さなければならないのである。さうして、かやう
にホがヲと同音になったのは、當時の波行子音がFであったからである
とすれば、波行子音は、語中及び語尾に於ては、奈良朝時代に既にF音で
あったと考へなければならない。」


あーそうか、語頭の「ホ」と語中の「ホ」は変化の速度が違うんだ。
語中だと奈良時代の万葉集で語中の「po」が「wo」(foを抜かしたのか経由したのか不明)になっている実例あり。
歌だと声に出すからなおさら発音の都合で変化しやすいだろうな。
語頭よりも語中の方が変化しやすいのだろう。そりゃそうだ。
この「そりゃそうだ」も実例だな。「それはそうだ」の変型。
soreha→sorya。
文頭の「そ」が別の発音には変わっていない。ここを変えたら別の単語になるからもありそうだ。
例えば「こ」や「あ」に変わると別の意味になってしまう。だから、実際

「かやうな例は、語中及び語尾の波行音が
ことごとく和行音と同音となったのとはちがって、唯二三の例しか見出さ
れないのであるから、果して單純な音變化によるものか、類推其他心理的
要素の加はって出來たものか、又は全く語源を異にした類義語で偶然語形
が類似してゐるだけのものか、たしかでない。」

のようになっているんだな。

「琉球に於て、波行子音を
一般にpに發音する地方でも、之をpに發音するのは、語頭にある場合
だけであって、語中語尾の波行音は、今日の日本語と同じやうに、和行音
と混同し、」
琉球言語(方言と呼ばない。標準語は東京語と呼ぶ方がいいと考えている)も語中の方が変化が早いまたはしやすい。

「奈良朝から平安
朝にかけて語中語尾の波行音が和行音と同音になったのであって、これは
波行子音fがwに變じたので、前の場合とは正反對に、唇を合せる度合
が少くなり、唇の運動が弱くなったのである。かやうな性質の全く相反し
た音變化が、同じ時代又は近い時代に行はれたとは信ずる事が出來ない
し、國語音聲史の上から観ても、我國の音変化は、Fからhへ、kwから
kへ(kwa,kwi,kweがka,ki,keとなる)。wi we woからi e oへと、唇の
運動を軽くし又は無くする方へ進んでゐるのであるから、」

唇の運動が軽くなっていく法則。つまり、話すのが楽になるように変化していくということ。
当時の文字資料は識字率を考えると当然だが知識人が記していることに注意。
一般民衆がどう発音していたかがわからないことが多い。
宣教師が現地人の発音を記したとしても、その現地人がどんな現地人かというのが問題。
それと、渡来人系は中国語の影響が大きいだろうからパピプペポ発音またはそれ寄りの発音の人が多くなる傾向だろうな。
それと、厳密にはパでもハでもファでもない発音だったのだろうな、特に渡来人またはそれと交流がある人々は(これがモロに近畿圏の支配層なんだよな)。

「平安朝初
期に於ては、語頭の波行音では既にFとなって居り、語中語尾ではFか
ら更にwに轉じて、平安朝の半以前に全く和行子音と混同し、之と同じ
音変化を受けたのであって、當時語頭では専らFのみ用ゐられたらしく、
語中語尾ではF音から更に轉化の歩を進めて居たのであり、奈良朝に於
ては、語頭の場合はわからないが、語中語尾に於ては既にF音になって、
w音と混同する傾向さへ生じて居たらしく、語頭に於ても既にF音はあ
らはれて居たであらうと考へられるから、pからFへの轉訛は、遅くも奈
良朝の終頃までには大體完了したのであるまいかとおもはれる。しかし、
これは、pからFへの轉換期をなるべく遅く見た場合であって、實際に
於ては、この變化は奈良朝よりも前に既に終って、奈良朝には、語頭にも
語中語尾にもすべてFのみ用ゐられて居たかも知れない。さうして、こ
のF音は、語中語尾の波行音では、和行音と混同して、平安朝の半頃に
は大體今日の標準語と同じやうな有様になったが、語頭に於ては室町時代
までもそのまま殘って居たのであって、それがh音に変ったのは主とし
て江戸時代に入ってからであらうと思はれる。
 要するに、波行子音にp音が専ら用ゐられた時代については、まだ全く
確める事が出來ず、p音がF音に遷り行った時代については、奈良朝又
はそれ以前であらうといふだけで、十分確實な年代をきめる事は出來ない
が、唯、F音の用ゐられた時代、殊にどの時代まで溯ってF音の存在を
證明出來るかといふ問題については、これまで擧げられて居ない資料に基
づく考察によって、或程度まで之を明め得たと信ずる。」

語中が「ポン」だったとしてもそれが「フォン」に変わるのは語頭が変わるよりも早いということだ。
飛鳥時代終わりごろ(奈良時代直前)には語中では「フォン」の可能性が高いんだよな。
飛鳥時代にはpからfへの移行が完了している可能性もある(大多数がという意味)。
それに促音(小さい「つ」)つまり「っ」)が無い時代に語中の「ポン」は発音しにくすぎるだろうから、
仮に「ポン」と読む時期があったとしてもかなり早く「フォン」に変わっているだろう。
それと、最初から「フォン」の可能性もある。
「ニッポン」は促音がないからそれはないので、「ニポン」か「ニフォン」か、そもそも「ニポン」時代があったのかの検討ね。
早口で話したらニフォン発音になるだろうな。
リズムを重視して高らかに声に出すならニッポンは普通にありうるよ(主流つまり日常の言い方じゃないでしょ此れ)。
例えば「にっぽんいちのこうのもの」(日本一の剛の者。『日葡辞書』)ならちょうど7文字だから「にほんいちのこうのもの」よりもリズムが良いでしょ? なおこの表現は当然だが飛鳥時代でも奈良時代でもない。
武士になりきって実際に高らかに読み上げていてほしい。

本論考を読みつつまたは、論考を読んだ後の考察は以上。

上記への追記。
今現在の日本語でハヒフヘホがパピプペポに語中に置いて変わる場合を列挙してみる。
説法(せっぽう)、仏法(ぶっぽう)、末法(まっぽう)、
十把(じっぱ。通常は一把〔いちわ〕二把〔にわ〕三把〔さんば〕)、
一本(いっぽん)、(れいほん、にほん、さんぼん、よんほん、ごほん)、
六本(ろっぽん)、(ななほん〔しちほん〕、
八本(はっぽん、はちほん)、(きゅうほん)
十本(じっぽん、じゅっぽん)。
小さい「つ」がない時代に「小さいツを伴うパ行への変化」が起こることはないだろうな。
あ、リズムの都合で例外的に生じるとかはありうるけど。
となると、ニポンすらなくいきなりニフォンだった可能性が高まるな。
両者とも不正確で、ポとフォが混ざったような発音の可能性もある。これだと当然ニポンでもニッポンでもない。
ニフォンでもニホンでもないけど、語中は変化が早い、変わる動機が強いので足して二で割ったような発音だとしても「フォ」寄りだろうな。【(ポ+フォ)÷2を「フォ」寄りにした音】が一番可能性が高そうなんだよな。


https://twitter.com/linglanglong/status/1013792280698687488 と続き
”LingLang@言語学好き
>RTs
[p] > [f] > [h] ではなく [p] > [ɸ] > [h] とみなされている一番直接的な根拠は現代諸方言のような。南琉球の一部で [f] が見られる以外、[h] や [p] でなければ [ɸ] だ。「フ」は東京も含む大半の方言で [ɸɯ] や [ɸu] だし、「ヒ・ヘ」なども北東北や出雲などで [ɸ] が見られた。午後11:31 · 2018年7月2日·Twitter Web Client

[p] > [ɸ] の年代に関しては、円仁の『在唐記』(840年頃) にある梵字の発音を解説した記述を根拠に、その時点では既に [ɸ] になっていた(つまり変化は9世紀前期よりは前)とみなすのが一般的なはず(古かったらごめんなさい)午後11:35 · 2018年7月2日·Twitter Web Client

『在唐記』の記述

(pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音
(pha) 波、断気呼之
(ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然
(bha) 婆、断気呼之
(va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是軽

これによると、梵字の (pa) は日本語の「波」に「唇音を加える」必要があった。(ba)はそれが無い。午後11:38 · 2018年7月2日·Twitter Web Client


https://twitter.com/anima_solaris/status/1070643034155474946 と続き
”Riku(っ´ω`c)🍋ラテン語+印欧語族ブログ連載中&お仕事募集中
日本語のハ行子音は語頭で*p>ɸ>h、母音間で*p>ɸ>w(>Ø)と変化してきた歴史があると考えられてるけど、さらに[p]>[ɸ]の移行期の異音として破擦音[pɸ]を想定すると面白いと思う午後8:05 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

閉鎖音[p]から摩擦音[ɸ]の移行時期には諸説あって、伝統的には平安時代初期にはすでに摩擦音化していたと考える学者が多い。その根拠としては遣唐使として唐に渡った僧侶・円仁が著書『在唐記』の中でサンスクリット語の発音について次のように記していることが挙げられている。午後8:31 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

प (pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音
फ (pha) 波、断気呼之
ब (ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然
भ (bha) 婆、断気呼之
व (va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是軽

円仁(c.840)『在唐記』(ラテン文字表記は引用者註)午後8:36 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

ここでpaには「我が国の『波』の音である、ただし皆唇音を加える」と特別な注記があるのにbaは「baは我が国の「婆」の音である」とだけ書かれている。これは当時のバ行子音が閉鎖音だったのに対しハ行子音はすでに変異していたからである――というのが多くの研究者の認めるところとなっている午後8:59 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

この説は橋本進吉(1950)『国語音韻の研究』にはすでに現れている説で、大筋では実に見事な解釈といっていい(厳密にいえばバ行子音は起源的に前鼻音化した[ᵐb]だった可能性も唱えられてるけどそれはここでは問わない)午後9:05 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

ただしこの説では中古以降の日本語で[pp]や[mp]という子音連続が出現したこととの整合性が課題になる。「波」や「派」などの漢字音が本来語のハ行子音(語頭で[ɸ]>[h])と同じ変化を受けている以上、子音結合時に[ɸɸ]や[mɸ]にならなかったのはなぜか説明する必要がある午後9:16 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

そこで私案として平安初期のハ行子音は「音素的には/p/、音声的には閉鎖音[p]~破擦音[pɸ]~摩擦音[ɸ]」だったという解釈を唱えたい(細かくいえばこの3音すべてではなく2音を想定すれば十分な可能性もあるかもしれない)午後9:27 · 2018年12月6日·Twitter Web Client


つまり当時の日本語ではハ行子音の変異は進行の途上にあり、破擦音~摩擦音としても発音されたり、古形と新形が並び立ったりする状態にあって、その後/pp/などの並びでは閉鎖音としての性質が維持され、通常の環境では摩擦音化して[ɸ]になったという解釈になる午後9:31 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

言語変化は静的なものではない。音素/p/が/ɸ/になった結果だけを見ると一瞬で摩擦音化したかのように錯覚しそうになるが、実際には「pの閉鎖が不完全になる」「古い発音と新しい発音が並び立ち、徐々に新しいが広まっていく」といった動的な過程があったはずで、その点への配慮は欠かせないと思われる午後9:45 · 2018年12月6日·Twitter Web Client

日本語の[p]>[ɸ]のプロセスの途中に音声としての破擦音化を想定する考えはM.シュービゲル(1982)『音声学入門』に記述があるらしい(未見)。在唐記が書かれた時代に異音として両立していたといった記述があるかどうかは知らない午後10:22 · 2018年12月6日·Twitter Web Client


瞬間的に全員が一斉に発音を変えることはありえないことは常に念頭に置いておかないとな。




ここで一休みも兼ねて、現代日本語の感覚を感じておこう。西洋語と比較することでね。

https://twitter.com/tukare_365/status/1492103462649090051
”點した火は尽きず@tukare_365
こういうのもありますね。スペイン語やポルトガル語など西洋の言語だと日本を指す言葉は発音に「ポ」や「パ」というようにほとんど半濁音が入ります。それもあり、にっぽんという語が外来系の言葉なのが読み取れます。

kotobank.jpヤーパンとは - コトバンク精選版 日本国語大辞典 - ヤーパンの用語解説 - (Japão Japan)⸨ヤパン・ヤポン⸩ 日本。江戸時代、オランダ人やポルトガル人が日本をさしていった語。※西洋紀聞(1725頃)中「ヤアパンは日本也」
午後8:49 · 2022年2月11日·Twitter Web App”

つまり、ニッポンの方が欧米人には発音しやすいと言うことだ。外国人の発音の都合で正式な国号を決める時点で論外。
日本海、日本書紀、日本語、日本語教師、
日本家屋、日本国憲法、日本食、日本蕎麦、
日本庭園、日本刀、日本酒、
西日本、東日本、東日本大震災。

大ニッポン帝国、大ニッポン帝国憲法、ニッポン会議、ニッポンテレビ、ニッポン放送協会、
「ニッポン一の剛(こう)の者」(恐らく武士が大声で言う場合)。

ヤーパンとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3-647473

ヤーパン
(Japão Japan)⸨ヤパン・ヤポン⸩ 日本。江戸時代、オランダ人やポルトガル人が日本をさしていった語。
※西洋紀聞(1725頃)中「ヤアパンは日本也」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉「ヤーパン」の解説
ヤーパン(〈ポルトガル〉Japão/〈オランダ〉Japan)
江戸時代、渡来したポルトガル人やオランダ人が日本をさしていった語。ヤパン。ヤポン。

出典 小学館デジタル大辞泉について”

ニッポンって英語のジャパンにニホンより似ているから採用されたんだろうな。英米系の植民地だし




橋本進吉の文章の一部が青空文庫になっている。

橋本進吉 駒のいななき - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/396_21658.html
” ハヒフヘホは現今ではhahihuhehoと発音されているが、かような音は古代の国語にはなく、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれらの仮名はfafifufefoと発音されていた。このf音は西洋諸国語や支那語におけるごとき歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であって、それは更に古い時代のp音から転化したものであろうと考えられているが、奈良時代には多分既にf音になっていたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思われる。
〔中略〕
底本:「古代国語の音韻に就いて他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
   1950(昭和25)年
” (着色は引用者)

上記の文章は青空文庫以外でも電子化している人がいる。

駒のいななき
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasimoto.html
”# 駒のいななき 橋本進吉
#橋本進吉博士の「駒のいななき」を電子テキスト化したものである。
#橋本博士は、1945年1月30日没。著作権は消失している。
#底本は、
#日本文學報國會編「國文學叢話」青磁社 昭和十九年十一月二十日発行p24-27
#である。この「駒のいななき」は、
#橋本進吉博士著作集第四册『國語音韻の研究』岩波書店(1950.8.25)
#に収められており、その凡例に、
# 一、「駒のいななき」は、(昭和十九年十一月刊行)日本文學報國會編「國
# 文學叢話」の中の一篇として掲載されたものである。
# 以上のうち「駒のいななき」を除く五篇は、自筆の訂正が加へられてゐるの
# によった。
#とあるので、「駒のいななき」は『國文學叢話』と全く同文で著作集に載せられ
#ていると思えるのだが、実際には少し違いがある。その違いは、戦争中のものと、
#戦後のものと云うことが原因となっているのだろうが、ここに注記しておく。
#【】で括った部分が、『國文學叢話』にはあるが、著作集には無い部分である
#仮名遣は原文のママだが、拗音を表す「やゆよわ」促音を表す「つ」は現代仮名
#遣に使う小さな文字を使った。
#GNU準拠ということで御願いします。
# 岡島昭浩
戻る #
駒のいななき 橋本進吉
「兵馬の權」とか「弓馬の家」とかいふ語もあるほど、遠い昔から軍事の要具とせられ【、現下の大東亞戰爭に於ても皇軍將兵と一體となって嚇々たる武功を立て】てゐる勇ましい馬の鳴聲は、「お馬ヒンヒン」といふ通り詞にある通り、昔からヒン/\ときまってゐたやうに思はれるが、ずっと古い時代に遡ると案外さうでなかったらしい。萬葉集卷十二に「いぶせくも」といふ語を「馬聲(イ)蜂音(ブ)石花(セ)蜘〓[虫厨](クモ)」と書いてあって、「馬聲」をイに宛て、「蜂音」をブに宛てたのを見れば、當時の人々は、蜂の飛ぶ音をブと聞いたと共に、馬の鳴聲をイの音で表はしてゐたのである。「いばゆ(嘶)」といふ語の「い」も亦馬の鳴聲を摸した語である事は從來の學者の説いた通りであらう。蜂の音は今日でもブン/\といはれてゐて、昔と大體變らないが、馬の聲をイといったのは我々には異樣に聞える。馬の鳴聲には古今の相違があらうと【は】思はれないのに、之を表はす音に今昔の相違があるのは不審なやうであるが、それには然るべき理由があるのである。
 ハヒフヘホは現今ではhahihuhehoと發音されてゐるが、かやうな音は古代の國語にはなく、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれらの假名はfafifufefoと發音されてゐた。このf音は西洋諸國語や支那語に於ける如き齒唇音(上齒と下唇との問で發する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い兩唇音(上唇と下唇との間で發する音)であって、それは更に古い時代のP音から轉化したものであらうと考へられてゐるが、奈良時代には多分既にf音になってゐたのであり、江戸初期に更にh音に變じたものと思はれる。
 鳥や獸の聲であっても、これを擬した鳴聲が普通の語として用ゐられる場合には、その當時の正常な國語の音として常に用ゐられる音によって表はされるのが普通である。さすれば、國語の音としてhiのやうな音が無かった時代に於ては、馬の鳴聲に最近い音としてはイ以外にないのであるから、之をイの音で摸したのは當然といはなければならない。猶又後世には「ヒン」といふが、ンの音も、古くは外國語、即ち漢語(又は梵語)にはあったけれども、普通の國語の音としては無かったので、インとはいはず、ただイといったのであらう(蜂の音を今日ではブンといふのを、古くブといったのも同じ理由による)。
 それでは、馬の鳴聲をヒ又はヒンとしたのは何時からであらうか。これについての私の調査はまだ極めて不完全であるが、私が氣づいた例の中最古いのは落窪物語の文であって、同書には「面白の駒」と渾名せられた兵部少輔について、「首いと長うて顏つき駒の樣にて鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。ひゝと嘶きて引放れていぬべき顏したり」と述べてをり、駒の嘶きを「ひゝ」と寫してゐる。これは「ひ」がまだfiと發音せられた時代のものである故、それに「ヒヽ」とあるのは上の説明と矛盾するが、しかしこの文には疑があるのである。即ち池田龜鑑氏の調査によれば、ここの本文が「ひゝ」とあるのは上田秋成の校本だけであって、中村秋香の落窪物語大成には「ひう」とあり、傳眞淵自筆本には「ひと」とあり、更に九條家舊藏本、眞淵校本、千蔭校本其他の諸本には皆「いう」となってゐる。その何れが原本の面目を存するものかは未だ判斷し難いが、「いう」とある諸本も存する以上、之を「ひゝ」又は「ひう」であると決定するのは早計であって、寧ろ、現存諸本中最書寫年代の古い九條家本(室町中期の書寫)其他の緒本に於ける如く、「いう」とある方が當時の音韻【の】状態から見て正しいのであるまいかと思はれる。さうして「いう」の「う」は多分現在のンの如き音であったらうから、「いう」はヒンでなく、寧ろインにあたるのである。
 江戸時代に入って、鹿野武左衞門の「鹿の卷筆」(卷三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になった男が贔屓の歡呼に答へて「いゝん/\と云ながらぶたいうちをはねまわった」とあるが、この「いゝん」は落窪物語の「いう」と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で寫す傳統が元祿の頃までも絶えなかったことを示す適例である。
 「お馬ヒンヒン」といふ語は何時頃からあるかまだ確かめないが、一九の東海道中膝栗毛初編には「ヒイン/\」または「ヒヽヒン/\」など見えてゐる。多分もっと以前からあったのであらうが、これはhiの音が既に普通に用ゐられてゐた時分の事であるから、あっても差支無い。

略歴――明治十五年生、東京帝大卒、東京帝大教授、著書「文祿元年天草版吉利支丹教義の研究」その他。
”(着色は引用者)


橋本進吉 - 駒のいななき
http://books.salterrae.net/tuyuzora/html/HASIMOTO010.html
” 底本:「國語音韻の研究」、岩波書店
   昭和25年08月25日
国文学叢話(日本文学報国会、青磁社、昭和19年11月20日)により欠落部分をおぎなった。”


駒のいななきについて
https://japanese.hix05.com/Language_1/lang101.koma.html
"「は」行、「ぱ」行、「ば」行の三者の関係については、現代語の中にも面白い現象を認めることができる。たとえば、「説法」や「気張る」といった言葉を分析すると、「ほう」が転じて「ぽう」となり、「はる」が転じて「ばる」となっている。大方の音韻の法則を基準とすれば、口蓋音が唇音に転化することは考えられない。この現象は、「は」行が唇音であったことの、歴史的な残渣なのである。

さらに、ものを数えるのに、一把二把三把十把などといい、それぞれ、「イチワ」「ニワ」「サンバ」「ジッパ」と発音することがある。これなども同じ転化のプロセスだといえる。この場合には、「は」行が「わ」行に転じているが、「は」を「ワ」と発音するようになる過程については、別のところで論じたい。"


橋本進吉 国語音韻の変遷 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/377_46838.html
"かように、万葉仮名に基づいて推定し得た奈良朝時代の国語の音韻はすべて八十七である。その一つ一つを表わす万葉仮名の各類を、その類に属する文字の一つ(ここでは『古事記』に最も多く用いられている文字)によって代表せしめ、且つ後世の仮名のこれに相当するものと対照して示すと次のようである。
[#ここから2段組み]
阿  あ
伊  い
宇  う
愛┐
 ├ え
延┘
淤  お
加  か   賀  が
伎┐     藝┐
 ├ き    ├ ぎ
紀┘     疑┘
久  く   具  ぐ
祁┐     牙┐
 ├ け    ├ げ
氣┘     宜┘
古┐     呉┐
 ├ こ    ├ ご
許┘     碁┘
佐  さ   邪  ざ
斯  し   士  じ
須  す   受  ず
勢  せ   是  ぜ
蘇┐     俗┐
 ├ そ    ├ ぞ
曾┘     叙┘
多  た   陀  だ
知  ち   遅  ぢ
都  つ   豆  づ
弖  て   伝  で
斗┐     度┐
 ├ と    ├ ど
登┘     杼┘
那  な
爾  に
奴  ぬ
泥  ね
怒┐
 ├ の
能┘
波  は   婆  ば
比┐     毘┐
 ├ ひ    ├ び
斐┘     備┘
布  ふ   夫  ぶ
幣┐     辨┐
 ├ へ    ├ べ
閇┘     倍┘
富  ほ   煩  ぼ

麻  ま
美┐
 ├ み
微┘
牟  む
売┐
 │ め
米┘
母  も
夜  や
由  ゆ
用┐
 ├ よ
余┘
羅  ら
理  り
琉  る
礼  れ
漏┐
 ├ ろ
呂┘
和  わ
韋  ゐ
恵  ゑ
袁  を
[#ここで段組み終わり]
〔中略〕
 ハ行の子音は、現代ではhであるが、方言によってはFであって「は」「ひ」「へ」をファフィフェと発音するところがある。更に西南諸島の方言では、p音になっているところがある(「花」をパナ、舟をプニなど)。ハ行の仮名にあたる音を写した万葉仮名の古代漢字音を見るに、皆pphfなどで初まる音であって、h音で初まるものはない故、古代においては今日の発音とは異なり、今日の方言に見るようなpまたはFの音であったと考えられる。音変化として見れば、pからFに変ずるのが普通であって、その逆は考え難いから、ハ行の子音はp→Fと変化したものと思われるが、奈良朝においては、どうであったかというに、平安朝から室町時代までは、Fであったと認むべき根拠があるから、その直前の奈良朝においても多分F音であったろうと思われる。すなわちファフィフゥフェフォなど発音したであろう。そうしてハ行の仮名は、後世では、語の中間および末尾にあるものは「はひふへほ」をワイウエオと発音するが(「いは」「いへ」「かほ」など)、奈良朝においては語のいかなる位置にあっても、同様に発音したものである。
〔中略〕
 以上のように奈良朝においては、現代よりは音の種類が多かったのであるが、しかし、それはいずれも短音に属するもので、「ソー」「モー」のような長音に属するものはない。またキャシュキョのような拗音に属するものは多少あったかも知れないが、その数も少なく、また性質も違っていたかも知れない。「ン」のような音や、促音にあたるものもない。またパ行音もなく、カ゜行音(ngで初まる音)も多分なかったであろう。ただし、以上述べたのは、当時、おのおの別々の音として意識せられ、文字の上に書きわけられているものの正式な発音であって、実際の言語においてはそれ以外の音が絶対に用いられなかったのではない。現に、「蚊」のごとき一音の語が、今日の近畿地方の方言におけるごとく「カア」と長音に発音せられたことは奈良朝の文献に証拠がある。けれども、正常な言語の音としては、以上のごときものであったろうと思われる。
〔中略。
引用者注:「カ゜」は引用文をコピペすると出る「※(半濁点付き片仮名カ、1-5-87)」を引用元の見た目になるように記すための代役である。「カ゜」「カ゚」を「半濁点付き片仮名カ」と記すと読みにくいからだ

(六) 平安朝において、音便といわれる音変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音がイ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで、キ→イ(「築墻」がツイガキ、「少キ人」がチヒサイヒト、「先立ち」がサイダチとなった類)ギ→イ(「序」がツイデ、「花ヤギ給へる」が「ハナヤイタマヘル」など)、ミ→ム(「かみさし」がカムザシ、「涙」がナンダ、「摘みたる」がツンダルの類。このムはmまたはこれに近い音と認められる)、リ→ン(「盛りなり」がサカナリ、「成りぬ」がナムヌなど。「サカナリ」はサカンナリである。ンの仮名を書かなかったのである)、チ→促音(「発ちて」がタテ、「有ちて」がタモテとなる。ただし促音は書きあらわしてない)。ニ→ン(「死にし子」がシジ子、「如何に」がイカンなど)などは平安朝初期からあり、ミ→ウ(「首」がカウベ、「髪際」がカウギハ)ム→ウ(「竜胆」がリウダウ、「林檎」がリウゴウ)、ヒ→ウ(「弟」がオトウト、「夫」がヲウト、「喚ばひて」がヨバウテ、「酔ひて」がヱウテなど)ク→ウ(「格子」がカウシ、「口惜しく」がクチヲシウなど)はこれについで古く、シ→イ(「落しつ」がオトイツ、「おぼしめして」がオボシメイテなど)ル→ン(「あるめり」「ざるなり」「あるべきかな」が、アンメリ、ザンナリ、アンベイカナとなる類)ビ→ウ(「商人」がアキウド、「呼びて」がヨウデなど)なども平安朝中期には見え、ビ→ム(「喚びて」がヨムデ、「商人」がアキムド)、リ→促音(「因りて」がヨテ、「欲りす」がホス、「有りし」がアシ。促音は記号がない故、書きあらわされていない)、ヒ→促音(「冀ひて」がネガテ、「掩ひて」がオホテ)、グ→ウ(「藁沓」がワラウヅ)などは院政時代からあらわれている。その他「まゐで」がマウデとなり(ヰ→ウ)、「とり出」がトウデ(リ→ウ)となった類もある。かように変化した形は鎌倉時代以後口語には盛に用いられたのであって、それがため、室町時代には動詞の連用形が助詞「て」助動詞「たり」「つ」などにつづく場合には口語では常に変化した形のみを用いるようになり、また、助動詞「む」「らむ」も「う」「ろう」の形になった。
 音便によって生じた音は右のごとくイ・ウ・ン及び促音であるが、そのうちイ及びウは、これまでも普通の国語の音として存在したものである。ただし、ミ・ム及びビから変じて出来たウは、文字では「う」と書かれているが、純粋のウでなく、鼻音を帯びたウの音で、今のデンワ(電話)のン音と同種のものであったろうと思われる。さすれば一種のン音と見るべきもので、音としては音便によって出来た他の「ん」と同種のものであろう(ンはmnngまたは鼻母音一つで成立つ音である)。ただ、「う」と書かれたものの大部分は、後に鼻音を脱却して純粋のウ音になったが、そうでないものは、後までもン音として残っただけの相違であろう。とにかく、かようなン音は、国語の音韻としてはこれまでなかったのが、音便によって発生して、平安朝頃から新しく国語に用いられるようになったのである。また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。
(七) 支那における漢字の正しい発音としてはmnngのような鼻音やptkで終るものいわゆる入声音があった。しかしこれは漢字の正式の読み方として我が国に伝わったのであって、古くから日本語に入った漢語においては、もっと日本化した音になっていたであろうが、しかし正しい漢文を学ぶものには、この支那の正しい読方が平安朝に入っても伝わっていた。しかるにその後支那との公の交通が絶えて、漢語の知識が不確かになると共に、発音も少しずつ変化して、院政時代から鎌倉時代になると、次第にそのmとnとの区別がなくなって「ン」音に帰し(「覧」「三」「点」などの語尾mが「賛」「天」などの語尾nと同じくn音になった)、またngはウまたはイの音になり(「上」「東」「康」などの語尾ウ、「平」「青」などの語尾イは、もとngである)、入声の語尾のpはフ、kはクまたはキになり、tは呉音ではチになったが、漢音ではtの発音を保存したようである(仮名ではツと書かれているが実際はtと発音したらしい)。そうして平安朝以後、漢語が次第に多く国語中に用いられたので、以上のような漢語の発音が国語の中に入り、ために、語尾における「ん」音(nと発音した。しかし後には多少変化したかも知れない)や、語尾における促音ともいうべき入声のt音が国語の音に加わるにいたった。
(八) 漢語には、国語にないキャキュキョのごとき拗音が、ア行ヤ行ワ行以外の五十音の各行(清濁とも)にわたってあり、クヮ(kwa)ク※[#小書き片仮名ヰ、163-1](kwi「帰」「貴」などの音)ク※[#小書き片仮名ヱ、163-1](kwe「花」「化」などの音)およびグヮグ※[#小書き片仮名ヰ、163-2]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-2]などの拗音があったが、これらは第一期まではまだ外国式の音と考えられたであろうが、平安朝以後、漢語が多く平生に用いられるに従って国語の音に加わるようになった。ただし、ク※[#小書き片仮名ヰ、163-4]ク※[#小書き片仮名ヱ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヰ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-4]は鎌倉時代以後、漸次キ・ケ・ギ・ゲに変じて消失した。
(九) パピプペポの音は、奈良朝においては多分正常な音韻としては存在しなかったであろう、しかるに、漢語においては、入声音またはンにつづくハ行音はパピプペポの音であったものと思われる(「一遍」「匹夫」「法被」「近辺」など)。かような漢語が平安朝以後、国語中に用いられるようになりまた一方純粋の国語でも、「あはれ」「もはら」を強めていった「あつぱれ」「もつぱら」などの形が平生に用いられるようになって、パ行音が国語の音韻の中に入った。
〔中略〕
以上、第二期における国語の音韻の変遷の重なるものについて述べたが、これによれば国語の音韻は、奈良朝において八十七音を区別したが、平安朝においてはその中のかなり多くのものが他と同音に帰して二十三音を失い、六十四音になったが、一方、音便その他の音変化と漢語の国語化とによって、ン音や促音やパ行音や多くの拗音が加わり、また鎌倉室町時代における音変化の結果、多くの長音が出来た。「ち」「つ」「ぢ」「づ」の音は変化したけれども、まだ「ぢ」「づ」と「じ」「ず」とは混同するに至らず、oの長音になったものも、なお開合の別は保たれていたのである。
 以上は京都地方を中心とした中央語の変遷の重なものである。他の方言については不明であるが、室町末期における西洋人の簡略な記述によっても、当時の方言に種々の違った音がありまた違った音変化が行われたことがわかるのである。
二 連音上の法則の変遷
(一) 第一期においては語頭音として用いられなかったラ行音および濁音は、多くの漢語の国語化または音変化の結果、語頭にも用いられるようになった。
 ハ行音はこの期を通じてその子音はFであったが、そのうち語頭以外のものはワ行音と同音に帰したため、語頭にのみ用いられることとなった。
 母音一つで成立つ音の中、語頭以外に用いられないものはアだけとなった。
 パ行音は語頭には用いられない(パット、ポッポト、ポンポンのような擬声語は別である)。ただし、室町末期に国語に入った西洋語(主として吉利支丹宗門の名目)にはパ行を語頭にも用いたらしい。
〔中略〕
ハ行音であるものはパ行音となる。「門派」モンパ、「返報」ヘンパウ。ただしかような場合に連濁によってバ行音になるものもある。「三遍」サンベン、「三杯」サンバイ。
 漢語において、上の語の終が入声である時は、
入声の語尾キ・ク(もとk)はカ行音の前では促音となる。「悪口」akkō「敵国」tekkoku
入声の語尾フ(もとp)はカ行サ行タ行ハ行音の前では促音となる。そのハ行音は同時にパ行音となる。「法体」はfottai「合す」gassu「立夏」rikka「十方」jippǒ「法被」fappi
入声の語尾tは、
ア行ヤ行ワ行音の前では促音となり次の音はタ行音に変ずる。「闕腋」ket-eki→ketteki「発意」fot-i→fotti「八音」fat-in→fattin
カ行サ行タ行音の前では促音となる。「別体」bettai「出世」shut-she→shusshe「悉皆」shit-kai→shikkai
ハ行音の前では促音となり同時にハ行音はパ行音となる。「実否」jit-fu→jippu
 以上は漢語の、支那における発音に基づいたものであって、勿論多少日本化しているのであろうが、多分平安朝以来用い来ったものであろう。中に、ンあるいは入声tの次のア行ヤ行ワ行音がナ行音(またはマ行音)あるいはタ行音に変ずるのは、上のn(またはm)あるいはt音が長くなってそれが次の音と合体したためであって、かような音転化を連声という。かような現象は、漢語にのみ見られたのであるが、後には、助詞「は」および「を」がン音または入声のtで終る語に接する場合にも起ることとなって、その場合には「は」「を」は「ナ」「ノ」「タ」「ト」と発音することが一般に行われたようである。(「門は」「門を」は「モンナ」「モンノ」となり、「実は」「実を」は「ジッタ」「ジット」となった)
〔中略〕
(三) ハ行音は、第二期の末までは、ファフィフゥフェフォのようにFではじまる音であったが、江戸時代に入って次第に変化を生じ、唇の合せ方が段々と弱くなり、遂には全く唇を動かさずして、これと類似した喉音hをもってこれに代えるようになった。京都方言では享保・宝暦頃には大体h音になっていたようであるが、元禄またはそれ以前に既にh音であったのではないかと思われるふしもある。しかし、第二期におけるごときハ行音は、遠僻の地の方言には今日でもまだ存している。
〔中略〕
(一) ハ行音が変化して、現今のような音(hではじまる音)になった後も、語頭にのみ用いられることはかわらない(ただし、複合語などの場合には多少の例外がある)。
 パ行音が語頭にも用いられるようになった。第二期においては本来の国語では擬声語のほかはパ行音が語頭に来ることはなかったが、しかし、西洋と交通の開けた結果、西洋語が国語中に用いられたため、多少パ行音ではじまる語が出来たが、この期においてことに明治以後、多くの西洋語を国語中に用いるようになって、パ行音を語頭に用いることが多くなったのである。
 ガ行音が語頭以外において鼻音のガ行音に変化したため、ガ行音は語頭にしか来ないことになった。
(二) 入声の音がツ音に変じた結果、tが語尾に来ることはなくなった。
〔中略〕
(五) 外国語の国語への輸入が音韻に及ぼした影響としては、漢語の国語化によって、拗音や促音やパ行音や入声のtやン音のような、当時の国語には絶無ではなかったにしても、正常の音としては認められなかった音が加わり、またラ行音や濁音が語頭に立つようになった。また西洋語を輸入したために、パ行音が語頭にも、その他の位置にも自由に用いられるようになった
 音便と漢語との関係は、容易に断定を下し難いが、多少とも漢語の音の影響を受けたことはあろうと思う。
(六) 従来の我が国の学者は日本の古代の音韻を単純なものと考えるものが多く、五十音を神代以来のものであると説いた者さえある。しかるに我々が、その時の音韻組織を大体推定し得る最古の時代である奈良朝においては、八十七または八十八の音を区別したのであって、その中から濁音を除いても、なお六十ないし六十一の音があったのである。それらの音の内部構造は、まだ明らかでないものもあるが、これらの音を構成している母音は、五十音におけるがごとく五種だけでなく、もっと多かったか、さもなければ、各音は一つの母音かまたは一つの子音と一つの母音で成立つものばかりでなく、なお、少なくとも二つの子音と一つの母音または一つの子音と二つの母音から成立つものがあったと考えるほかないのであって、音を構成する単音の種類または音の構造が、これまで考えられていたよりも、もっと多様複雑になるのである。これらの音が平安朝においては濁音二十を除いて四十八音から四十七音、更に四十四音と次第に減少し、音の構造も、大体五種の母音と九種の子音を基礎として、母音一つか、または子音一つと母音一つから構成せられるようになって、前代よりも単純化したのである。この傾向から察すると、逆にずっと古い時代に溯れば、音の種類ももっと多く、音を構成する単音の種類や、音の構造も、なお一層多様複雑であったのではあるまいか、すなわち、我々の知り得る最古の時代の音韻組織は、それよりずっと古い時代の種々の音韻が、永い年月の間に次第に統一せられ単純化せられた結果ではあるまいかと考えられるのである。




底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
   1950(昭和25)年
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※本作品の入力作業には、前記の底本とは別に、福井大学教育地域科学部の岡島様よりご提供いただいた電子テキスト(このテキストは旧表記で、「国語音韻の変遷」『国語と国文学』昭和十三年十月特別号1938.10.1を底本としています)を利用させていただきました。
入力:久保あきら
校正:久保あきら、POKEPEEK2011
1999年11月16日公開
2014年5月22日修正
” (着色と太字による強調は引用者。
ただし「二 連音上の法則の変遷」は引用元でも太字であり、他の箇所より少し文字が大きい)

しっかりと神代文字を否定する橋本氏。


橋本進吉 古代国語の音韻に就いて - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/510_46839.html
”古代の音韻と題しておきましたが、現今の言語研究の上に「音韻」と「音声」とを区別して使うことがございますけれども、先ずこのお話では、格別そういう厳密な区別を設けないで、ただ音韻と言っておいたので、つまり言語の音のことでございます。
 言語の音は、現在の言語であれば直接我々が耳に聴いて判るものでありますが、昔の言語になりますと、昔の人が話していたのを我々は直接に耳に聴くことは出来ませぬ。今の言語であれば、直接耳に聞える音を対象として研究することが出来ますが、昔の言語でありますと、自然、言語の音を文字で写したもの、すなわち音を代表する文字に基づいて研究するより仕方がない訳であります。
 全体この言語の音を研究するについて先ず第一に大切なことは、どれだけの違った音でその言語が組立てられているかということ、つまりその言語にはどれだけの違った音を用いるかということであります。我々が口で発することの出来る音は実に無数であります。随分色々の音を発することが出来る訳でありますが、言語としては、その中の幾つかの或るきまった音だけを用いその他のものは用いないというようにきまっているのであります。
〔中略〕
本居宣長翁は『古事記』について詳しい研究をせられ、その仮名についても詳しく調査せられたのでありまして、その結果が『古事記伝』の初めの総論の中に「仮字の事」という一箇条として載っております。その中に、『古事記』の仮名の用法に関することとして二つの注目すべきものがあるのであります。一は『古事記』には仮名で清濁を区別して書いてあるというのであります。例えば「加」に対して「賀」という字がある、「加」は清音で「賀」は濁音である。「く」の音でも「久」に対して「具」という濁音の仮名がある。あるいは、「波」に対して「婆」であるとか、「都」に対して「豆」であるとかいう風に、字を見ればすぐ清音か濁音かが判る。『日本書紀』や『万葉集』においては大体書き分けてはあるが、しかし幾分か厳重でない所がある。ところが『続日本紀』以下はそれが書き分けてない。かように言っておられるのであります。こういう風に、『古事記』には清濁を書き分けてあるけれども、たまたまそうでないものもあるように見えることもある。しかしそれは、濁るべき所と清むべき所が語によって古今の違いがあるので、今我々が濁って読む語でも昔の人は清んで読んでおった。だから、ちょっと見ると濁るべき所を濁らない文字で書いてあるように見えるけれども、そうではない。例えば、宮人を今は「みやびと」と読むけれども昔は「みやひと」である。『古事記』の中に宮人という語は清音の仮名で書いてあって、濁音の仮名で書いてあるものは一つもない。それは「みやびと」といっておったのを清音の仮名で書いたのではなく、「みやひと」と言っておったから清音の字で書いたのである。「島つ鳥」も「しまつどり」と今はよく読みますけれども『古事記』には決して濁音の仮名では書いていない。だから「しまつとり」と読んだものと認められる。清濁は古今で違うものがあるから、ちょっと見ると「しまつどり」の「ど」に当る所に清音の仮名が書いてあるから、昔は清音の仮名で濁音を書いているように見えるけれども、そうでなく、昔は清んでおったのだ。こういう考えであります。枕詞の「あしびきの」は「あしびき」と読みますが、これも「あしひきの」であって「ひ」というのは皆清音の仮名で書いてある。そういうことを宣長翁が発見されたのであります。つまり、昔は清濁を厳重に書き分けてある。だから、どういう仮名で書いてあるかということを見れば、昔清音であったか濁音であったかということが判る。そうして、言語としては、昔清音であった語を後世濁音に発音するというような古今の違いがあるということが明らかにせられたのであります。清濁というと純粋に音に関することのようであります。また事実、それはそうに違いない。しかしながら、この宣長翁の取られた方法は、一々の仮名について、この仮名はどんな所に使うか、「久」なら「久」はどういう所に使うか、「具」はどういう語に使っているかという風に、あらゆる例を調べて、そうして「久」は「く」と清む音に使い、「具」は「ぐ」と濁る音に当る所にいつも使っているということを見付けた訳であります。さすれば、やはり仮名の用法の研究であると言ってよいのであります。
〔中略〕
「キ」と「ヤ」とを合せて「キャ」と書く拗音というようなものもあります。かような拗音は、恐らく漢語として古くから学んだものであろうと思われますから、奈良朝においても正式に漢文を読む時には多分拗音があったろうと思います。漢文というものは、今日における英語とかドイツ語と同様に、支那語の文でありますから、支那語を学んだ奈良朝時代においては無論拗音も発音しておったろうと思われます。また支那語では「ン」に当るような音があった。すなわち「n」とか「m」とか「ng」とかいう音が語の終にあらわれますが、こういうものも無論あったと思います。これは今日我々が外国語を学ぶ時には日本語にないような音も外国語として発音します。それと同じように、当時支那語を学んでいたのでありますから、漢文の読み方を学ぶ場合には支那音で発音しておったと思われます。現に大学寮に支那人が来ておったのでありますから、そういうことはあったと思います。かような外国語式の発音が、日本語の中に普通に用いられるようになったのはいつ頃からかというと、これは非常にむずかしい問題で容易に断言は出来ませぬけれども、まず普通の言語に現れるようになったのは多分平安朝になってからであったろうと思います。殊に純粋の国語の中に、撥ねる音すなわち「ン」で表わす音とか、つまる音、すなわち促音、そういうものが現れるようになったのは、やはり平安朝以後――平安朝には既にあったと思いますが――平安朝以後のものであろうと考えております。昔の学者は平安朝においては撥音とか促音などがなかったように考えていた人もありますけれども、これは仮名でそういうものを書く方法が発達していなかったからでもありましょう。『土佐日記』に「ししこかほよかりき」とありまして、これは死んだ子が器量好しであったという意味であります。「ししこ」と書いてあるのは「死にし子」で、「し」は過去を表わす助動詞、「死にし」が音便で「しんじ」となったものと思われます。ところがこういう場合に、仮名で書き表わすのに「ン」を表わす仮名がなかった。ですから「ン」を書かなかったと考えられます。平安朝の末でありますが、長明の『無名抄』に、こういう書きにくい音は省いて書くとありますが、この場合も多分そうであろうと思います。それから「日記」を「にき」と書いてあるのも、これはすこぶる疑問でありまして、文字通り「ニキ」であったか「ニッキ」であったか、「ニッキ」というような促音は、これを書きあらわす方法がなかったものでありますから「にき」と書いていたのか、これは大分疑問だと思います。この「にき」は疑問ですが、平安朝の中頃には促音は多分使われたであろうと思います。また「ン」の音もあった。物語の中に「なめり」「あめり」と書いてありますが、これはこれまでの伝統的の読み方としては「ナンメリ」「アンメリ」と読んでいる。昔の註釈書には片仮名の「ン」の字が入れてあります。明治以後になって文字通りに読むのだというので「ナメリ」「アメリ」とよむようになりましたが、昔は「ナンメリ」「アンメリ」といったろうと思います。でありますから「天地の詞」の四十八とか、伊呂波歌の四十七とか、あるいはその中の同じ音を除いた四十四というものは、その当時にあったあらゆる音を代表するものではありませぬけれども、まず普通の音はそれで代表しておったと思うのであります。
 こういう風にして、音から言えば普通の短音は後になるほど段々少なくなって来た。そのほかに新しく拗音や長音が出来て「キャ」「チャ」や「コー」「ソー」などの音が新に加わりましたけれども、短音は昔よりは減って来たのであります。全体の数から言えば今の方が多いのでしょうけれども、ずっと古くからあった音は段々減って来たのであります。
 以上、奈良朝における諸音の実際の発音はどんなであったかというに、これはかなりむずかしい問題で、いろいろ考証が必要ですし、またまだわからない点も少なくありませんが、今日は時間がありませぬから今までの研究の結果だけを簡単に申しておくに止めたいと思います。
〔中略〕
ずっと古い時代には、ハ行音はむしろ「パ、ピ、プ、ペ、ポ」であったろうと思われるのでありまして、それが「ファフィ……」となり、更に後に今のような音になったと認められます。パピプペポと発音したのはいつであったかよく判りませぬが、奈良朝ではもうファフィフフェフォになっていたのではないかと思います。パピプペポと発音するのは、今でも沖縄の田舍に残っております。
〔中略〕
もう一つ最後に言っておきたいと思うのは、これまで述べたような後世には知られない仮名の遣い分けが古代にあったという事実からして、我々が古い時代の書物の著作年代をきめることが出来る場合があることです。『古事記』について、数年前偽書説が出て、これは平安朝初期に偽造したもので、決して元明天皇の時に作られたものでないという説が出ましたが『古事記』の仮名を見ますと、前に述べたように、奈良朝時代にあった十三の仮名における両類の仮名を正しく遣い分けてあるばかりでなく、『古事記』に限って、「モ」の仮名までも遣い分けてあります。そういう仮名の遣い分けは、後になればなるほど乱れて、奈良朝の末になると、その或るものはもう乱れていると考えられる位であり、平安朝になるとよほど混同しています。もし『古事記』が、平安朝になってから偽造されたものとすれば、これほど厳重に仮名を遣い分けることが出来るかどうか非常に疑わしいと言わなければなりません。そういう点からも偽書説は覆すことが出来ると思います。また近年出て来た『歌経標式』でありますが、奈良朝の末の光仁天皇の宝亀年間に藤原浜成が作ったという序があって、歌の種類とか歌の病というようなことを書いたもので、そんな時代にこんな書物が果して出来たかどうか疑問になるのであります。しかし、その中に歌が万葉仮名で書いてあります。その仮名の遣い方を見ますと、オ段の仮名の或ものは乱れているようでありますけれども、大抵は正しく使いわけてあって、ちょうど、奈良朝の末のものとして差支ないと認められます。そういう点から、この書は偽書でなかろうということが出来るのであります。
〔中略〕
先ずこれでもって私の講義を終ります。忙しいため十分纏める暇もありませぬし、時間も足りなくて急いだものですから、不徹底な所があったろうと思います。これで終ることに致します。
(大尾)


講演速記であるため、読んでは意味の通じない所が多く、かなり手を加えたが、十分の暇を得なかったので、まだ不満足な所が少なくない。用字法や送仮名なども、大概もとのままにしたので、不穏当なものや不統一な所もある。
(昭和十六年二月校訂の時しるす)
本書は昭和十二年五月内務省主催第二回神職講習会における講義を速記したものであって、昨年三月神祇院で印刷に附して関係者に頒布せられたが、今回書肆の請により同院の許しを得て新たに刊行したものである。前回はかなり手を加えたが、今回は誤字を訂正したほかは、二、三の不適当な語句や用字法を改めたのみである。
  昭和十七年三月
橋本進吉
刊行委員附記 この昭和十七年のはしがきは、明世堂刊行の際、巻首に掲げられたものである。今かりにここに移す。
〔中略〕
底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年8月20日第8刷
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
   1950(昭和25)年
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※本作品の入力作業には、前記の底本とは別に、福井大学教育地域科学部の岡島様よりご提供いただいた電子テキスト(このテキストは旧表記で、明世堂書店『古代國語の音韻に就いて』昭和17年6月20日初版の昭和18年1月10日再版を底本としています)を利用させていただきました。
入力:久保あきら
校正:久保あきら、POKEPEEK2011
1999年11月9日公開
2012年1月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
” (着色は引用者)

墓が見つかってもわかったのは実在したってだけで古事記の元となる朗誦をした根拠にはならないんだよなあ。
日本書紀は講義の歴史的記録まであるのにな。公式の歴史書が理解できないのは国の運営においてまずいからな。
古事記についてだが当時の文法に沿っていたとしても、それをもとに偽書を作った可能性は残るんだよなあ。


(古事記伝の現代語訳がネットにあって驚いた)
『古事記傳』(現代語訳)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html


(日本書紀と古事記の原文と、原文検索機能があるサイト)
日本書紀について
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
”日本書紀は、日本紀とも呼ばれ、720年に勅修された日本の歴史書。いわゆる正史であって、神代から持統天皇までをその記述対象としています。 通常、古い和風の訓読みがなされていますが、原文は純粋な正統的漢文であって、漢文として読む方が文意を取りやすい面があります。
このサイトでは、日本書紀の原文(漢文)を読み・検索できるようにしてみました。底本は岩波古典文学大系本(卜部兼方・兼右本)/1990年発行版で、表示フォントの不足などの理由により一部異字体に差替えするなどしています。また、見やすくするため、段落分けを多用し句読点の位置変更などを施しています。 ”

古事記について
http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html
”古事記は、712年に太安万侶(おおのやすまろ)が完成させた日本の歴史書。神代から推古天皇までをその記述対象としています。 太安万侶が記述した古事記の原文は漢文ですが、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた口調を重視したものとなっていて、読み易い漢文とは言えません。ただ、文献として熟読・研究する上では、漢文として「読む・見る」ことも必要でしょう。
このサイトでは、古事記の原文(漢文)を検索できるようにしました。底本は岩波古典文学大系本(訂正 古訓古事記)です。なお、読みやすくするために、段落分けの多用・句読点の位置変更などを施しています。 ”


https://twitter.com/nekonoizumi/status/497025965684305920
”猫の泉@nekonoizumi
講談社選書メチエ9月。「煩雑・厖大であるがゆえに誰もが名のみ知り、ふれることのすくない『古事記伝』の世界を全44巻すべて、読み、解説する、という画期的なシリーズです。第4巻で、ついに完結」
⇒神野志隆光『本居宣長『古事記伝』を読む 4』http://comingbook.honzuki.jp/?detail=9784062585859


日本紀講筵とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5-110114

日本紀講筵
にほんぎこうえん
平安時代前期に朝廷で行われた『日本書紀』の講読。『書紀』の講読は養老5 (721) 年以来行われたが,平安時代になってからは,弘仁3 (812) 年,承和6 (839) 年,元慶2 (878) 年,延喜4 (904) 年,承平6 (936) 年,康保2 (965) 年などに行われた。講筵には宣旨によって博士らが定められ,大臣以下列座のもとに行われる。講読が終ると,竟宴 (きょうえん) があり,『書紀』に登場する人物などを題として和歌を詠じた。これを日本紀竟宴和歌という。

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世界大百科事典 第2版「日本紀講筵」の解説
にほんぎこうえん【日本紀講筵】
主として平安時代前期に,数回にわたり宮廷で公式の行事として行われた《日本書紀》の講読・研究の会。《釈日本紀》開題に引く〈康保二年外記勘申〉によれば,養老5年(721),弘仁3‐4年(812‐813),承和10‐11年(843‐844),元慶2‐5年(878‐881),延喜4‐6年(904‐906),承平6‐天慶6年(936‐943),および康保2年(965)以後に行われたが,そのうち養老度は完成した《書紀》の披露のためとみられ,弘仁以後が講究を主とするもので,元慶度に至って形式・内容ともにほぼ完成の域に達し,承平度から熱意が薄れて衰退に向かった。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について


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