【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
Posted on 2024.08.26 Mon 22:55:16 edit
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【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-463.html
【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-367.html
【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html
【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html
【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html
【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html
[注:以下はご支援用⑬(無料公開は危険な芥川龍乏介、ノ–ベル文[しんち]学賞、大江健3朗の考察)ができるより前に書いた文章]
日本語(の勉強)で読むべき本ねえ。小説ではないな。芥川ですら大本側(桃太郎が悪で鬼が善の話を書いている。キリシタンものが多すぎ。ご支援用記事候補)だから文豪系は全員駄目だと考える方がいい。なので、漢籍(中国大陸で書かれた書)の和訳(中国古典と仏典と注釈書)だな。
「上代の日本語のハ行がp音である」という説の起源と理由から検討しないと何も言えないので、
シーア兄貴の言う通り、教科書の読み比べをしてみることにした。
必読書である上田萬年(うえだ かずとし)の『P音考』や、橋本進吉の著作も読んだ。
上田 万(萬)年【著】/安田 敏朗【校注】『国語のため』 (平凡社。東洋文庫808)
国語と国語学の確立を唱え続けた上田万年の講演論文集であり、『P音考』も収録されている。
国語のため
東洋文庫808
2011年4月25日 初版第1刷発行
平凡社
東洋文庫 808
p.234から
P音考
此のP音の事に就きては、本居翁などが半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙俚の音なりとし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者など
(のようにメモり始めたのだが、これ全文ネットにあるのではと思ったので調べた。橋本進吉もあったし。
p音考 - PukiWik
http://uwazura.perma.jp/wiki/?p%E9%9F%B3%E8%80%83
にある、
語学創見 上田萬年
第四 P音考
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ueda/P_ON_KOU.TXT
を発見。
なので、これをコピペして修正することでメモを完成させることにした。
上記の内容と、東洋文庫の内容には少し違う箇所がある)
p音考 – PukiWikには
伊波普猷
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993746/187
の方の『P音考』があるのだが大変読みにくいので
https://r.binb.jp/epm/e1_16463_21102015173640/
の方が読みやすい。
上田 万年/著、安田 敏朗/校注『国語のため』
東洋文庫808
2011年4月25日 初版第1刷発行
平凡社
pp.234-240
P音考
”
此のP音の事に就きては、本居翁などが【(204)】半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙俚の音なりとし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者などいふ先生たちは、一図に其説を信じて、何事も他の云ふ事を信ぜざるが如し。其の誠や愛すべきも、其の愚や笑ふべきのいたりなる。茲に予が述ぶる所は、敢てかかる先生たちを相手としてにはあらず、従ひて唯此の上の要旨をのみ述ぶる事と知られたし。
第一 清音と濁音との音韻的関係 もし濁音が清音より出しものなれば、即ちダ行はタ行より出で、ガ行はカ行より出しものなれば、
D=T
G=K
B=(?)=P!!
〔引用者注:ここからp.235〕
B音の出し清音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、即ち純粋なる唇的清音パ行(P)音ならざるべからず。如何となれば、今日のH音は快して唇音にあらず、純粋の喉音なればなり、而して又同時に、濁音Bは Fの如き摩擦的音にもあらざればなり。
故に悉曇韻学の上、支那韻鏡学の上にては、P行は純粋清音の位置に置かれ、B行が其の濁音の位置に立ちしこと、決して疑ふべからざる事実なり。しかるに中古以降、音韻の学衰ふると共に、音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非学者出で来りて、終に半濁音などゝいふ名称までを作り、大に世人を惑はすにいたりたり。仮りに一歩を譲りて、論者のいふが如く、上古よりP音は存在せず、其の原音はH音なりしとせんか、論者は如何にして左記の諸項を説明せんとするか。
(一)古説に波行を唇音とせるは如何なる訳か。
(二)何故に今日の如き喉的H音が濁る必要ありたるか。
(三)よし濁る必要ありたりとするも、喉的H音が濁るに当りて、何故に唇的濁音とはなりたるか。
(四)濁者Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。
これと同時にP音ならで、F音なりしと論ぜんとするものは、
〔引用者注:ここからp.236〕
(一)V音の存在せること。
(二)V音のB音に変ぜること。
等を証明せざるべからず、これ豈に容易に説き了り得べき問題ならむや。
殊にパピプペポの音は、誠に発しやすき音にして、一歳にみたざる小児すらが、能く発し得る所のものなり。現に国中いづれの処にゆくも、オノマトポエチックに用ゐるパチ/\、パラ/\、ピシ/\、ピン/\、ポツ/\、ポン/\等の音は、普通に発音せられ、又理解せらるゝにあらずや。上古の日本国民が、外国音を練習するに当りて、此の発音に苦しみしといふ事は、聊か不思議の至りなりといふべし。よりて思ふに、これは恰も今日のハヒフヘホが、ワヰウヱヲにうつりゆきて発音せらるゝが如く、上古のパピプペボは奈良朝以前にありて、次第にハヒフヘホにうつりゆきたるにはあらざるか。而して其のPよりHに至る階級とも見るべき、ph 或はfの発音は、ふ字発音の上、及び奥羽中国薩摩琉球等の方言の上に徴するを得べきなり。されば是は事実発音難易の論にはあらで、全く流行の結果と見る方適当ならんか。試に今九州人がスナハチといふを聞け。我等の如きスナワチになれたる東京人には、誠に角たちてをかしく聞ゆるにはあらずや。サッパリといひ、シメッポイといふ、もとこれ上古の音のそのまゝに存せるもの、所謂流行後れなるものに相違なきも、しかもこれををかしといひて笑ふ人の方が、後世の流行に浮かされ居る事を、よく/\自省せざるべから〔引用者注:ここからp.237〕ず。これ猶ほ三井仕立の衣服めしたる姫様方が、小原女のなりふり見て笑ひたまふが如し。
第二 H音は古き音にあらざる事 古くP音ありしことを説くに、猶ほ一の証拠となるべきは、梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかゝはらず、梵漢の二国語に於けるH音が、総て我国にては加行に写さるゝ事これなり。試に左の表を見よ。
Sanskrit 漢 音
Ahaha 嘔(候候)
Arahân 阿羅(漢)
Hami (哈)密
Hasara (鶴)薩羅
Maha 摩(訶)
Rohu 羅(胡)
Râhula 羅(睺)羅
Râhula 羅(吼)羅
Râhula 羅(虎)羅
これらの漢字は、以上の梵語を写すに用ゐられたるものにして、現今の支那語よりいふも、又同時に日本朝鮮其他の諸国に入りし支那音よりいふも、皆H音たるべきものなり。然るに此音が、ひとり我国にて加行に発音せらるゝ所以は、(一)当時我邦にHの喉音なかりし事、(二)なかりしかば、其の類似的喉音K音にて写しし事を証してあまりありといふべし。
第三 アイヌに入りし日本語の事 アイヌはPFHの三音を区別する者なるが、其の語を見るに中に左の如き語あり。(バチェロル氏辞書【(205)】百七十九乃至百九十三参照)
〔引用者注:ここからp.238〕
Pachi 針
Pekere 光
Pakari 量
Pera 匙
Pashui 箸
Pishako 柄杓
Pata 蟋蟀
Pone 骨
Panchi 罰
Puri 振
これらは果して古きアイヌに入りし邦語にはあらざるか。もし新しく入りし者なりとせば、何故にFHを有するアイヌは、之を其の音にて伝へざるか。これ尤も疑ふべき点にはあらずや。
況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。
第四 上古の音は熟語的促音及び方言の上に存せる事 すべて上古の音は語の中部に遺存し、或は又方言中に保存せらるとは、言語学の予輩に教ふる所なり。試に
すッぱい しほッぱい
おこりッぽい しめッぽい
ゐなかッぽう さつまッぽう
等の語を解釈し見よ。パイとははゆきなり、ポイとはおほきなり、ポウとはひとの義なるに〔引用者注:ここからp.239〕あらずや。
又かの沖縄薩摩等、九州の南部にかけて、F音の多く存在することを認むるのみか、沖縄語典の吾人に告ぐる処によれば、国頭八重山宮古の諸島には、半濁音の語極めて多しといふなれば、此等の上より見ても、現在流行の音がP Ph(F) H Wの転遷をなし来りし事、昭々たるにあらずや。
現に又H音に発音せられ居るものが、一度熟語となるあかつきには、必ずP音となるも、上古よりの慣習をそのまゝに維持せるものにて、知らず/\其の癖に支配せらるるものなり。これには勿論二種あるべし。
(一)上古よりのP音、熟語の上にそのまゝのこり居るもの。
(二)後世のH音なるものが、熟語法の時だけ、上古の慣習に引きつけられて、P音に変ずるもの。
いづれにしても、熟語法の時に、上古の形態を維持するといふ心理的連想法の大法だけは、恰もPHWの濁音が何時もBの一個にて代表せらるゝといふ事と共に一貫して進みたる者なりと謂つべし。Fが促音を受くれば、英語oftenに於けるFの如くなるべし。Hが促音を受くれば、むしろ濁語ach ich lochに於けるが如き強喉音chに近き音なるべし。これが唇的密閉音となる理由、抑も何処にかある。これ又波行が上古P行たりし一証とすべき点なり〔引用者注:ここからp.240〕とす。
(以上四考明治三十三年一月稿)
“
※「(四)濁者Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。」の「者」は「音」の間違いだろう。
※
「Râhula 羅(睺)羅
Râhula 羅(吼)羅
Râhula 羅(虎)羅」は引用元では「 Râhura」は「羅(吼)羅」の左の1つだけで、これに向かって大きな「{」があり、この「{」が「羅(睺)羅」から「 羅(虎)羅」に渡っている。
※ 「〔引用者注:ここからp.2~〕」は上記の一部を引用する際にどこが何頁か判らないと困るので
挿入した。
※「濁語ach ich loch」の「濁」は「独」の間違いだろう。
※ルビは完全に再現していない。注はルビの位置にあるのだが、再現できないので【 】で代用した。
※初出は明治31年1月(『帝国文学』4-1のp41-46)なのだが、
『国語のため』第二(冨山房、明治36.6)には
(明治三十三年一月稿)
とあるので、発表年を明治33年としている人がいるらしい。
「â」は、
ラテン特殊文字
https://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/character/latin_spec.html
の「サーカムフレックスアクセント(Circumflex Accent)」のところにある。
解説
P.472から
「P音考」はおそらく上田の論説のなかで「国語と国家と」と同じくらい著名なものであろう。それは西洋言語学を導入したはじめての音韻史論考、具体的にはハ行子音が [p]→[f]→[h] という変遷を経てきたことを漢字音やアイヌ語などを傍証としつつ論じたためであると思われる。この論考に対し、「我が国音の如きは一種特別にして、創古にありては言語に濁音あることなく〔……〕半濁音を以つて目せらるゝP音も、古くはなくして」(岡沢鉦次郎「日本音声考 附P音考排斥」『帝国文学』四巻一一号、一八九八年十二月、四四頁)といった反論がすぐさま寄せられたように、反響は大きかった。しかしながら、「その内容は実は決して〔上田〕博士の創見ではなく、少なくとも同じ結論は既に半世紀も早く一八五七年にホフマンにより提出され、ついでエドキンス、サトウ、チエムバレンなどの東洋学者達が同様の説を種々の論拠から述べてゐる」(浜田敦「明治以降に於ける国語音韻史研究」『国語学』第十輯、一九五三年九月、四頁)と、明治初期の外国の東洋学者の影響が指摘されている。もちろん、上田の論考によりこの点が広く知られたわけであるが、上田の立論に即して先行研究から影響を指摘した研究もある(内田智子「上田万年「P音考」の学史上の評価について」『名古屋大学国語国文学』九七号、二〇〇五年十二月)。
以上。
一応書いておくが、死後70年経過しているので著作権的に問題ないから、ほぼ全文引用はまったく問題ない。そもそも表は再現しきれない。ルビも再現していない。
上田萬年(うえだ かずとし)の生存期間は、1867年2月11日(慶応3年1月7日)~ 1937年(昭和12年)10月26日)。死後70年分足すと2007年。よって問題なし。
語学創見 上田萬年
第四 P音考
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ueda/P_ON_KOU.TXT
”語学創見 上田萬年
第四 P音考
此事に就きては、本居翁などが半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙哩の音なり
とし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者など
いふ先生たちは、一図に其説を信じて、何事も他の云ふ事を信ぜざるが如し。其誠や
愛すべきも、其愚や笑ふべきのいたりなる。茲に予が述ぶる所は、敢てかゝる先生た
ちを相手としてにはあらず、従ひて唯此上の要旨をのみ述ぶる事と知られたし。
第一 清音と濁音との音韻的関係 もし濁音が清音より出しものなれば、即ちダ
行はタ行より出で、ガ行はカ行より出しものなれば、
D=T
G=K
B=(?)=P!!
B音の出し清音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、即ち純粋なる
唇的清音パ行(P)音ならざるべからず。如何となれば、今日のH音は快して唇音にあ
らず、純粋の喉音なればなり、而して又同時に、濁音Bは Fの如き摩擦的音にもあら
ざればなり。
故に悉曇韻学の上、支那韻鏡学の上にては、P行は純粋清音の位置に置かれ、B行が
其濁音の位置に立ちしは、疑ふべからざる事実なり。しかるに中古以降、音韻の学衰
ふると共に、音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非学者出て
来りて、終に半濁音などといふ名称までを作り、大に世人を惑はすにいたりたり。
仮りに一歩を譲りて、論者のいふが如く、上古よりP音は存在せず、其の原音はH音な
りきとせんか、論者は如何にして左記の諸項を説明せんとするか。
(一)古説に波行を唇音とせるは如何なる訳か。
(二)何故に今日の如き喉的H音が濁る必要ありたるか。
(三)よし濁る必要ありたりとするも、喉的H音が濁るに望みて、何故に唇的
濁音とはなりたるか。
(四)濁音Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。
これと同時にP音ならで、F音なりきと論ぜんとするものは、
(一)V音の存在せること。
(二)V音のB音に変ぜること。
等を証明せざるべからず、これ豈に容易に説き了り得べき問題ならむや。
殊にパピプペポの音は、誠に発しやすき音にして、一歳にみたざる小児すらが、能く
発し得る所のものなり。現に国中いづれの処にゆくも、オノマトポエチックに用ゐる
パチ/\、パラ/\、ピシ/\、ピン/\、ポツ/\、ポン/\等の音は、普通に発音せら
れ、又理解せらるるにあらずや。上古の日本国民が、外国音を練習するに当りて、此の
発音に苦しみしといふ事は、聊か不思議の至りなりといふべし。よりて思ふに、これ
は恰も今日のハヒフヘホが、ワヰウヱヲにうつりゆきて発音せらるるが如く、上古
のパピプペボは奈良朝以前にありて、次第にハヒフヘホにうつりゆきたるにはあ
らざるか。而して其のPよりHに至る階級とも見るべき、ph 或はfの発音は、ふ字発
音の上、及び奥羽中国薩摩琉球等の方言の上に徴するを得べきなり。されば是は事
実発音難易の論にはあらで、全く流行の結果と見る方適当ならんか。試に今九州人
がスナハチといふを聞け。我等の如きスナワチになれたる東京人には、誠に角だち
てをかしく聞ゆるにはあらずや。サッパリといひ、シメッポイといふ、もとこれ上古の音
のそのままに存せるもの、所謂流行後れなるものに相違なきも、しかもこれををか
しといひて笑ふ人の方が、後世の流行に浮かされ居る事を、よくよく自省せざるべ
からず。これ猶ほ三井仕立の衣服めしたる姫様方が、小原女のなりふり見て笑ひたま
ふが如し。
第二 H音は古き音にあらざる事 古くP音ありしことを説くに、猶ほ一の証拠となる
べきは、梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかかはらず、梵
漢の二国語に於けるH音が、総て我国にては加行に写さるゝ事これなり。試に左の表を見よ。
Sanskrit 漢音
Ahaha 嘔(候候)
Arahan 阿羅(漢)
Hami (哈)密
Hasara (鶴)薩羅
Maha 摩(訶)
Rohu 羅(胡)
Rahura 羅(〓)羅
Rahura 羅(吼)羅
Rahura 羅(虎)羅
これらの漢字は、以上の梵語を写すに用ゐられたるものにして、現今の支那語より
いふも、又同時に日本朝鮮其他の諸国に入りし支那音よりいふも、皆H音たるべき
ものなり。然るに此音が、ひとり我国にて加行に発音せらるる所以は、(一)当時我邦に
Hの喉音なかりし事、(二)なかりしかば、其の類似的喉音K音にて写せし事を証してあ
まりありといふべし。
第三 アイヌに入りし日本語の事 アイヌはPFHの一二音を区別する者なるが、
其語を見るに中に左の如き語あり。(バチェロル氏辞書百七十九乃至百九十三参照)
Pachi 針 Pekere 光
Pakari 量 Pera 匙
Pashui 箸 Pishako 柄杓
Pata 蟋蟀 Pone 骨
Panchi 罰 Puri 振
これらは果して古きアイヌに入りし邦語にはあらざるか。もし新しく入りし者な
りとせば、何故にFHを有するアイヌは、之を其の音にて伝へざるか。これ尤も疑ふべ
き点にはあらずや。
況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇
を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。
第四 上古の音は熟語的促音及び方言の上に存せる事 すべて上古の音は語
の中部に遺存し、或は又方言中に保存せらるとは、言語学の予輩に教ふる所なり。試
に
すッぱい
おこりッぽい
ゐなかッぽう
等の語を解釈し見よ。パイとははゆきなり、ポイとはおほきなり、ポウとはひとの義
なるにあらずや。
又かの沖縄薩摩等、九州の南部にかけて、F音の多く存在することを認むるのみか、
沖縄語典の吾人に告くる処によれば、国頭八重山宮古の諸島には、半濁音の語極め
て多しといふなれば、此等の上より見ても、現在流行の音がP Ph(F) H Wの転遷を
なし来りし事、昭々たるにあらずや。
現に又H音に発音せられ居るものが、一度熟語となるあかつきには、必ずP音とな
るも、上古よりの慣習をそのままに維持せるものにて、知らず知らず其の癖に支配せら
るゝものなり。これには勿論二種あるべし。
(一)上古よりのP音、熟語の上にそのままのこり居るもの。
(二)後世のH音なるものが、熟語法の時だけ、上古の慣習に引きつけられて、P
音に変ずるもの。
いづれにしても、熟語法の時に、上古の形態を維持するといふ心理的連想法の大法
だけは、恰もPFHWの濁音が何時もBの一個にて代表せらるるといふ事と共に
一貫して進みたる者なりと謂つべし。Fが促音を受くれば、英語oftenに於けるFの
如くなるべし。Hが促音を受くれば、むしろ独語ach,ich,lochに於けるが如き強喉音
chに近き音なるべし。これが唇的密閉音となる理由、抑も何処にかある。これ又波行
が上古P行たりし一証とすべき点なりとす。
初出は明治31年1月(『帝国文学』4-1のp41-46)である。
しかし、『国語のため』第二(冨山房、明治36.6)には
(明治三十三年一月稿)
とあり、発表年をそれによっている人も多い。”
福島邦道(くにみち)『国語学要論』(こくごがくようろん)
昭和48年6月30日 初版発行
p.1から
はしがき
上段は総括的な議論にし、下段は参考文献などを中心にした注記にしたのである。(下段の人名には一切敬称を省かせていただいた。)ついでに、全篇を三十項にわかち、各項をできるだけ平均化し、三十回(もしくは十五回)の時限にわけて教授できるようにした。
国語学概論書は多く刊行され、今さら筆者ごときが書く必要はなさそうである。しかしながら、近年における国語学の進歩はいちじるしく、その領域において、その内容において、今までの概論書では必ずしも十分とは言えないようである。あえて執筆したわけもまずそこにあるのである。
昭和四十八年二月
福島邦道
p.24注記
奈良時代……
特殊仮名遣・母音の鼻音化・母音調和・母音重複忌避・P音とその歴史・古代サ行音
平安時代……
イ・ウ音便の発生・母音融合・語頭ウの鼻音化・拗音・音声破裂音(濁音)・固有日本語の撥音・固有日本語の促音・平安時代の音韻推移・漢字音の日本化
封建時代……
固有日本語の連声・口蓋化・歯音化・漢字音の唇的拗音の消滅・語中ガ行音の完全鼻音化・アクセントの発展
p.25から
(万葉仮名について)
当時はしたがって母音の数が今日より三種類多いことになるのである。なお、この区別は、奈良時代末期までつづくのである。
ア行のオとワ行のヲも、万葉仮名で(略)のように使い分けられ、それぞれ/o//wo/ のちがいといわれていた。この区別も十世紀頃から混同されていった。
以上によって、古代語の母音音素はわれわれが今日考えているよりはるかに多いものであったことがわかるのである。
(
神代文字が嘘である根拠)
p.25から(上記の続き)
子音では、ハヒフヘホの音が(3)問題となる。
注記(3)
ハ行音について、パピプペポのような半濁音は古代にはなかったというのが江戸時代の学者の考えで、たとえば、本居宣長ほどの学者も、「漢字三音考」(本居宣長全集『国語学体系』)で、
又外国ニハ。ハヒフヘホに清濁ノ間ノ音アリ
(中略)此レ殊ニ不正鄙俚ノ音ナリ。皇国ノ古言ニ
此音アルコトナシ。
といっている。
(メモ者注:本書のこの本居宣長の「ハヒフヘホ」の右側に縦長の傍線あり)
上田万年氏は「P音考」においてハ行音は古くパ行音であったことを唱えたが、文献以前はともかく、奈良時代にはハ行音は軽唇音/Φ/とされている。室町時代までそうであって、そのことは外国資料でも実証できるのであり、後奈良院御撰何曽(4)(一五一六年頃)には(ここからp.26)
母には二度あひたれども父には一度もあはず くちびる(唇)
ともある。
p.25から
注記(4)
この「なぞ」の意味について、本居内遠『後奈良院御撰何曽之解』では、
母は歯々の意、父は乳の意にて、上唇と下歯、下唇と上歯とあふは二度なり。我乳はわが唇のと
どかぬ物なれば一度もあはぬ意にて唇と解たるなり、是は変じたる体の何曽にていとおもしろし、
として、よくわかっていなかった。新村出は、前掲論文
(メモ者注:「波行軽唇音沿革考」(『新村出全集 第四巻』。新村出は上田万年の高弟)か、
「国語に於けるFH両音の過渡期」(同右))で、ハハ(母)は、軽唇音で発音するから二度あうが、チチ(父)は、唇が一度もあわないとして、この「なぞ」を正解した。
『後奈良院御撰何曽』より古く、豐原統秋の『体源抄』(一五一二)にあることが浅野健二によって発見され、さらに『聖徳太子伝』(一四五四)にもあることが高橋貞一によって発見された。『国語学辞典』の「国語年表」は、福島が浅野説によって記したが、さらにさかのぼるのである。
(
本書
p.164から
国語略年表
一五一六(永正一三) 『後奈良院御撰何曽』 とある。
つまり、一四五四の頃には謎になるレベルに言葉が変化していたということだな。15世紀。
φではなくΦ表記だなこの本。
英語の「f」と日本語の「フ」 - 滴了庵日録
https://lipoyang.hatenablog.com/entry/20070718/p1
”日本人の多くは英語の f をファ行音(ファ、フィ、フ、フェ、フォ)で発音しています。しかし、英語の f と日本語のファ行音は異なる子音です。発音記号では英語の f は[f]、日本語のファ行音は[Φ]です。どう違うかは口を見れば明らかです。[f]は前歯で下唇を軽くかんで発音しますが、[Φ]は唇を前にすぼめて発音します。
てのひらを口の前にかざしてみましょう。[f]では、あまりてのひらに息があたりませんが、[Φ]では強く息があたります。耳で聴くと[f]のほうがやや乾いた感じの音になります。”
)
p.26
”
平安時代の大きな特色は、音便、(5) すなわち、イ音便・ウ音便・促音便・撥音便があらわれはじめることである。今まではこれらのデータも仮名文からだされていたが、平安鎌倉時代の漢文訓読資料の研究の進展に伴ない、多くの確実なデータがだされるようになった。
”
※「(5)」は引用元では「、」の右側にルビのように表記されている。
(
ニッポン読みの誕生は平安時代以降だということだ)
p.26から
近代語
古代語から近代語にいたる過渡期は室町時代であって、その頃の状態を知るには、外国資料の中、キリシタン資料が最も良い。これらの資料には日本語をローマ字で記したものがあり、その発音がよくわかるからである。キリシタン資料には、古代の規範的な発音がよく守られているところとようやくくずれて、近代化してしまったものとがある。
子音では、問題のハ行音はfで写されているが、キリシタン資料にも喉音/h/で発音するもののあることをのべており江戸時代にかけて喉音化してゆくのである。
(ハングル=おんもん〔諺文〕)
p.39から
ハングル(諺文)(4)
神代文字
漢字が日本に伝来した以前に、神代文字(6)と称する、わが国固有の文字が存在したことを主張するものがあるが、それは信じがたい。
(ここからp.40)
神代文字と言われているものは多く子音と母音から成る、拍を示す文字であり、奈良時代にあったはずの十三の仮名を区別していない。もし日本に固有の文字があったのなら、苦労して万葉仮名を作る要がないわけであって、神代文字は江戸時代一部の学者が唱えだしたものなのである。
p.39注記(4)
ハングルは、朝鮮固有の文字で、李朝の世宗の一四四五年にさだめられた。
(6)
神代文字有無の論は、江戸時代の多くの学者の論争のまととなったものである。神代文字といわれるものは、次の図のようなもので、諺文とよく似ているものである。
国粋主義の平田篤胤は、「神字日文伝」でその存在を主張し、一方、伴信友は、「仮名本末」の付録において、その非存在を主張し、ともにすぐれた学者であったが、そのため両者は絶交するにいたったのである。
p.40に神代文字の画像が載っている(どう見てもハングルがモデルだ)。
(漢字について)
p.45から
日本へは、これらの音書の中では「韻鏡(12)」が伝わり、多くの影響を与えた。
「韻鏡」は中国の音を四十三の図表にしたもので、十世紀前に作られたと言われるが、もとの中国では行なわれず、日本でむしろ広く利用された。昔は音韻研究とは漢字の音を知ることであり、そのために韻鏡がよく研究されたのである。
字音の種類
日本で用いられている字音には、呉・漢音・唐音の三種類がある。
呉音 漢音 唐音
行 行水(ぎょうずい) 行動(こうどう) 行脚(あんぎゃ)
明 明日(みょうにち) 明白(めいはく) 明(みん)の国
のようである。「施工」は呉音では「セギヨウ」であり、漢音では「シコウ」であるが、最近は「セコウ」ともよまれている。
呉音とは、最も古く伝えられた字音で、中国南方の音が朝鮮を経由して伝承したといわれる。仏教関係のことばや古くから国語に入ったことばに用いられている。
金色(こんじき) 殺生(せっしょう) 末期(まつご) 成就(じょうじゅ) 名聞(みょうもん)
漢音とは、呉音についで、隋から唐へかけて伝えられた字音で、中国北方、長安あたりの音で、中国の標準的なものであった。日本の朝廷でも正音として普及に努力したため、漢籍を読んだりするのに用いられ、日常生活にも普及した。
金銭(きんせん) 生殺(せいさつ) 末期(まっき) 就業(しゅうぎょう) 名誉
字音語には、言語(げんご)(漢音・呉音)、正気(しょうき)(呉音・漢音)のように、両方まじったものもある。
唐音とは、宋代以降、日本の商人や禅僧によって伝えられた音で、中国南方の音であった。
栗鼠(りす) 提灯(ちょうちん) 甲板(かんぱん) 饅頭(まんじゅう) 蒲団(ふとん)(布団)
なお、呉音よりさらに古いのではないかといわれる推古朝の音もあった。
p.51から
万葉仮名
万葉仮名とは、国語を書き表すために漢字の音または訓のよみを用いたものであって、音のよみを用いたのを「音仮名」、訓のよみを用いたのを「訓仮名」という。
万葉仮名といわれるのは、万葉集によって代表されるのであるが、古事記、日本書紀をはじめ、宣命、風土記、仏足石歌などにも見られ、平安時代にはいっても用いられ(ここからp.52)た。さらには、古くは、推古朝の遺文にも見られる。
万葉仮名に用いられた字音(3)の種類は古事記や万葉集では呉音が、日本書紀では漢音が用いられている。推古朝の遺文のものは、中国の非常に古い時代の音を用いたと言われている。
p.52
注記(3)
万葉仮名の字音の研究所は次のものがある。
大野晋『上代仮名遣の研究――日本書紀の仮名を中心とし――』(岩波書店 昭和二八)
(「として」じゃないんだ)
馬淵和夫『上代のことば』(至文堂 昭和四三)
これらから万葉仮名の字音研究を進めてゆくとよい。
(下半分で注釈や文献紹介などを書くことで読みやすくしているのが良い。
講義でも使いやすいね)
p53
片仮名
片仮名は、万葉仮名の字画を省略したもので、本来漢文の読み方を明らかにするために発達した文字である。すなわち、仏典の正確な読み方を示すために漢文の行間などに書き込んだもので、平安朝初期、奈良の僧侶の間ではじまった。こうした書き込みの行なわれたものを点本(古点本)と呼ぶが、これらの点本には多くの片仮名の字体が見られるのである。
p54
片仮名字源表
(上段に記載。ハフフヘホの箇所はあるが濁音や半濁音の項目なし。単にその項目がないだけかも)
注記(4)
では、小林芳規による、片仮名字体表がp.54(の下段)に載っている。
小林芳規は、古訓点研究の第一人者であり最近、角筆点といって、布にへらで跡をつけたようなもので、文字のおされているものを発見した。
片仮名字体表(石山寺蔵漢書高帝紀下平安中期点〈角筆点〉
(この表でも濁音や半濁音のハ行はない。ハヒフヘホだけである。濁音や半濁音の項目がないだけかも)
(平仮名について)
p.57
平仮名字源表
(はひふへほ があるが濁音と半濁音なし。単にその項目がないだけかも)
p.58
音符には濁音符・半濁音符などがある。
濁音符は、平安時代、はじめは清音を示すのに。又は、を、濁音を示すのに、。。又は〟を用い、しかも今日のように右肩とは必ずしもきまっていなかった。中世になると、右肩に〟、。。または、、、などを付け近世以後ようやく〟におちついた。
(本書はカギカッコでくくっていないので読みにくい。
清音を示すのに「。」又は「、」を、
濁音を示すのに、「。。」又は「〟」を用い、しかも今日のように右肩とは必ずしもきまっていなかった。
中世になると右肩に「〟」「。。」または「、、、」などを付け、近世以後ようやく「〟」におちついた。
※場所が決まっていないので「゜」ではなく「。」と記した。
日本語における半濁音化をめぐる問題
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26759/2014101615502434461/kamakura_23_816.pdf
)
p.59
半濁音符の。は、室町時代の資料から見え、特にキリシタン資料には顕著であり近世中期以降次第に広く用いられるようになっていった。
その他、引く音を示すーとか、くりかえしの 々 /\(メモ者注:「く」の字のあの記号)なども資料によって間々見られるようである。
p.52から
宣教師たちがローマ字によって日本のことばを書きあらわそうとする時は、ポルトガル語風のつづり方をしたのであり、当時のキリシタン版ローマ字本はそのような綴り方のものとして著名である。
特にアメリカのプロテスタントの宣教師ヘボンは、『和英語林集成』(一八六七年)を著し、英語風のつづり方で日本語を書きあらわした。
p.116から117
(外来語について)
ポルトガル語
室町時代末期、ポルトガル人がキリスト教をひろめるため来日し、あわせて西洋の文物も入ってきた。
カッパ(capa 合羽) コンペイトウ(confeito 金平糖)
サラサ(更紗) ジバン(襦袢) タバコ
デウス(Deus 天主) パン(メモ者注:語頭がp)(蒸餅)
ミイサ(Missa 弥撒)
キリシタンでは当初キリスト教に深く関係あることばは翻訳しない方針であった。
(コンフェイトウだったんだ。pが目立つからパピプペポ表記法として
「半濁音符の。は、室町時代の資料から見え、特にキリシタン資料には顕著」だったのだろうな。
つまり、日本語自体にはパピプペポは少なかったということだ。擬音語・擬態語以外でね)
p.129
古事記の文体の中には、漢文の中に、万葉仮名で日本語を記してあり、さらに宣命の文体では、漢文をはなれ、日本語の助詞や助動詞を小形の万葉仮名で記しているのである。
(略)
こういう書き方は、宣命書き、宣命体と言われ、後世まで用いられた。
p.149から
琉球方言を研究した文献には、古く中国人のものがあり、十九世紀以降、西欧人が研究し、特に、明治にチャンブレン氏がよく研究し、日本語と琉球方言との親族関係を証明したのである。その後、伊波普猷氏(9)の研究などにより、琉球方言の歴史や特色がはっきりするようになったのである。
それなら、琉球方言は、もとの日本語からいつ頃わかれたのかとなると、まだよくわかっていない。琉球最古の文学作品「おもろさうし」は、十六・七世紀ごろ集められたものである。十世紀以前の琉球方言のことはよくわからないのである。ただ、多くの琉球方言で現在でも語頭のハ行音が/p/であって、これが日本の古代の軽唇音にあたることや上代特殊仮名遣のオ列音の使いわけが一部にのこっていることから、そんなに古い時代にわかれたのではないことは明らかである。
p.149の下半分の注(9)より。
伊波普猷(いはふゆう) 沖縄学の祖といわれるべき学者である。
p.149から
日本語と琉球方言とが同系である証拠として、琉球では、母音が、ア・イ・ウの三つで、日本語のエは、ケ(毛)がキーのようにイとなり、日本語のオは、コノ(此の)がクヌのようにウとなって、音韻がぴったり対応し、さらに、アクセントの型の対応もよく似ているといわれている。
p.164から
国語略年表
一五一六(永正一三) 後奈良院御撰何曽
以上。
[2023年4月7日に追加:
伊波普猷(いはふゆう)がエスペラント関係者と知ってうげってなった。世界連邦側なんだろうな。
日本エスペラント運動人名事典
https://www2.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/leksikono_flugfolio1.pdf
”ひつじ書房 新刊のご案内
〔中略〕
■収録人物中の著名人
秋田雨雀、安部公房、井上ひさし、伊波普猷、梅棹忠夫、大杉栄、丘浅次郎、黒板勝美、瑛九、江上不二夫、エロシェンコ、大石和三郎、尾崎行雄、小田切秀雄、川喜田二郎、北一輝、久保貞次郎、栗栖継、小林司、小林英夫、堺利彦、佐々木喜善、佐々木孝丸、ザメンホフ、柴山全慶、周作人、新村出、関口存男、高木仁三郎、高杉一郎、高見順、出口王仁三郎、土井晩翠、土岐善麿、徳冨蘆花、中村精男、西成甫、新渡戸稲造、巴金、長谷川テル、比嘉春潮、二葉亭四迷、宮城音弥、宮沢賢治、八木日出雄、柳田國男、吉野作造、ラムステット、魯迅......
○こんな人も登場
芥川龍之介、暁烏敏、東龍太郎、内村鑑三、梶山季之、神近市子、木下順二、黒岩涙香、小松左京、西光万吉、佐藤春夫、更科源蔵、沢柳政太郎、島木健作、下中弥三郎、芹沢光治良、相馬黒光、高橋和巳、高見順、高村光太郎、田中館愛橘、都留重人、鶴見祐輔、手塚治虫、徳川家達、中野重治、野上弥生子、野間宏、長谷川如是閑、羽仁五郎、福田赳夫、星新一、穂積陳重、正木ひろし、宮沢俊義、宮本百合子、武者小路実篤、矢内原忠雄、山川菊栄、山川均、山田耕筰、湯川秀樹.....”
” ※着色は引用者
黒表(こくひょう。要注意人物についての帳簿。危険人物一覧。ブラックリスト)(笑)
伊波普猷(いはふゆう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E6%B3%A2%E6%99%AE%E7%8C%B7-31985
”伊波普猷
いはふゆう
(1876―1947)
言語学者、民俗学者。明治初年の琉球(りゅうきゅう)処分に始まり、太平洋戦争の敗戦によってアメリカ軍の統治下になるまでの近代沖縄の激動期を、沖縄とともに生きた愛郷の研究者として知られる。明治9年2月20日(旧暦)那覇に生まれる。素封家の長男として恵まれた幼年期を過ごすが、中学5年生の秋、沖縄尋常中学で起こった校長排斥運動に加担して退学。翌1896年上京。この間、中学時代の恩師田島利三郎(たじまりさぶろう)の影響を強く受けて、『おもろさうし』研究を志す。1906年(明治39)東京帝国大学文学科言語学専修卒業。郷土研究を志して帰郷するが、当時の沖縄の社会的要請にこたえ啓蒙(けいもう)活動に入る。県立沖縄図書館の設立にかかわり、館長嘱託としての活動を続けるかたわら、琉球史の講演を手始めに、キリスト教に関する宗教講演、方言矯正のための音声学講演を続け、読書会を開き、子供の会を始め、組合教会の設立、演劇協会にかかわり、婦人講話会、エスペラント講習会、民族衛生講話を行うなど、多様な啓蒙運動を展開した。しかし1921年(大正10)柳田国男(やなぎたくにお)と出会い、学究に立ち戻ることを決意、『おもろさうし』の研究に打ち込む。1925年上京、以後は東京で研究生活を続け、終戦を迎える。昭和22年8月13日、戦場となった沖縄の地を案じつつ、生涯を閉じた。時代にもまれた一生は、かならずしも平穏でなかったが、いまは、風光の美しい浦添(うらそえ)の丘に霊園がつくられ、顕彰碑が建てられている。
研究活動は、言語、民俗、歴史、文学など広範にわたり、数多くの著作を発表。諸領域の学問を総合して、沖縄という地域社会の特性を明らかにしようとした顕著な傾向は沖縄学として知られる。個々の学問の業績だけでなく、伊波普猷の沖縄学の思想的影響は大きく、現代沖縄のさまざまな活動にも影を投げている。著書に『古琉球』『おもろさうし選釈』『校訂おもろさうし』『をなり神の島』『沖縄考』『沖縄歴史物語』などがある。
[外間守善 2018年10月19日]
『服部四郎他編『伊波普猷全集』全11巻(1974~1976・平凡社)』▽『金城正篤・高良倉吉著『伊波普猷――沖縄史像とその思想』(1972・清水書院)』▽『外間守善編『伊波普猷 人と思想』(1976・平凡社)』▽『外間守善著『伊波普猷論』(1979・沖縄タイムス/増補新版・1993・平凡社)』
[参照項目] | 沖縄学 | 田島利三郎 | 柳田国男
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
” ※着色は引用者
追加ここまで]
阪倉篤義(さかくら あつよし)【編者】『国語学概説』
有精堂(ゆうせいどう)
昭和五十一年二月十日 初版発行
(第1刷が1976年という意味。昭和20年=1945年だけ覚えておくといいよ)
p.1から
はしがき
国語学という学問がわが国で確立されてから、すでに八十年になろうとしている。
国語学とは、一体、日本語のどのような問題を、どのような方法で究明しようとしている学問なのか。こういう点についての基本的な理解を広く人々に求めることは、今や緊要の問題として考慮されなければなるまいと思われる。同時にまた、国語学を専攻する学徒にとっても、自らが選んだ分野や、従っている理論・方法が、国語学全体の中でどのような位置を占めており、いかなる意義を持ち得るものであるかについての反省が、今やいよいよ強く求められるようになったと言うべきであろう。
入門の学徒に対しては、国語学全体についての展望を示し、すでに国語学を専攻中の学徒に対しては、右にいうような反省の資を提供し、そしてまた国語学なるものに関心を抱かれる一般読者に対しても、「そもそも国語学とは何か」についての基本的な理解を得るのに役立つことを意図して、本書は編纂された。
昭和五十年十二月
阪 倉 篤 義
p.137から
日本語の歴史
(執筆者は福島邦道(くにみち)。執筆者と担当箇所の一覧はp.253にある)
p.138
天草版平家物語のもとになったといわれる百二十句本とは、全巻を百二十の章に分けたもので、八坂流の語り本である。平家物語の古態を示すものとして著名な伝本の一つである。
百二十句本の一番はじめの「平家」は、天草版ではfeiqeとなっている。「け」はポルトガル語ではqueのようにつづるので、日本語の「ケ」の音を表わすために、queとつづったり、その省略した形のqeを用いたのである。もっとも問題になるのは、「平家」の「へ」をheでなくfeとつづってあることで、当時の発音が今日のような「へ」でなく、もっと唇を合わせた唇音の「フェ」のような音であったことを物語るわけであって、このようなハ行音の発音のちがい、すなわち音韻の変化については次の章でくわしく論ずることとしたい。
p.139から
音韻史--ハ行子音の変遷
福島邦道「日本語の歴史」(『国語学概説』阪倉篤義編に収録、有精堂出版、1976(昭和51)年)
pp.139-141
”
新しい国語学は上田万年によってはじめられたといわれるが、とりわけ上田の「p音考」(明治31)は著名である。もっとも、上田以前にもハ行子音が古くp音ないしF音であったことを唱えた学者は外国人や日本人が数名いるが、やはり「p音考」がもっとも代表的なものと言えよう。
ハ行子音が古くp音だった理由について、上田は四か条あげている。第一に清音と濁音との音韻的関係、第二に
〔引用者注:ここからp.140〕
H音は古くわが国に存しないで梵語漢語の音をK音で写したこと、第三にアイヌ語などに入った日本古語がp音を伝えていること、第四に熟語的促音および方言に「スッパイ」「シオッポイ」などと古音を保存していることである。しかし、上田のあげた四か条の中には第三のように疑わしいものもあり、p音考の確実な証拠としてはなお検討の余地があるとされている。その後、新しく加えられたものに琉球方言の用例があげられる。
琉球方言【(注1)】では、次のように、首里および奄美大島では、F音であるが、北部の国頭【くんちゃん】および南部の宮古、八重山の方へ行くとp音であって、その変化はp→F→hとたどれるというのである。
首里 | 国頭 | 八重山| 宮古 |大島
墓 faka>haka| paka | paka | paka |haka
羽 fani>hani | pani | pani | pani |hani
畠 hataki | pataki| fataki | pataki|hatake
なお、琉球方言では、本書の「方言」のところでも示してあるように、東京の「ハネ」(羽)、「ハタケ」(畠)を「ハニ」「ハタキ」といって、eの音をiの音にする対応が見られる。
さて、このように琉球方言にはp音のような日本語の古い発音が残っているのであるが、一方、琉球方言には新しいことばも多いとする考えもあり、さらにその反論もあって、琉球方言の研究そのものが、日本語の歴史の研究にどのくらい寄与し得るか、今後の課題であろう。
「p音考」は音韻史の研究上すばらしい発想ではあったが、ハ行子音がp音で発音された時代はいつ頃であったなどもうひとつはっきりしないところが多かったのである。
文献による研究【(注2)】としては、万葉仮名でハ行音をどんな漢字で表わしていたかということである。
〔引用者注:ここからp.141〕
ハ……波・破・播 ヒ……比・悲・斐 フ……不・布・敷 ヘ……敝・弊・反 ホ……保・倍・本
これらの漢字音は韻鏡では重唇音や軽唇音に属するので、p音系統やF音系統の中国音で日本語のハ行子音を表わしていたことになるのであるが、奈良時代のハ行音がパピプペポであったかファフィフゥフェフォであったかはっきりしないのである。
そこでもし平安時代の初期にハ行子音をFと発音した資料があれば、その前の奈良時代もハ行音はファフィフゥフェフォであったということになるが、慈覚大師の在唐記【(注3)】(八世紀中ばのもの)に梵語のpa音に日本の「波字音」で呼ぶが「唇音を加う」とあるので、パを発音するのに軽い両唇音のFを重くしてP音に発音させたのであって、平安時代にはハ行子音は両唇音のFであったといえる。この解釈に異論をとなえるむきもあるが、両唇音説に従いたい。
文献による研究で、著しい成果を収めたのは、さきにあげた天草版平家物語のような外国資料によるものである。すなわち、十六世紀から十七世紀のはじめにかけて外国人が日本語のハ行音をいかに表記していたかということ【(注4)】である。
キリシタンは日本語のハ行子音をすべてFをもって表わしていて、これによって当時のハ行音が両唇音のファフィフゥフェフォのような音であったことは疑いないこととされているのだが、ただポルトガル語などのロマンス語では、日本語のハ行子音をもしhでつづると、サイレントになって、Haはアのように発音されるので、FをもってFaとしたのではないかという解釈もあるが、ほかの証拠もあるし、やはり日本語のハ行音が両唇の摩擦音であったからこそFをもってつづったのであると解すべきであろう。
”
※fc2ブログではルビ表現ができないので、ルビは再現していない。とはいえ文意はほぼ変わらない。ルビは【】で再現した。
p.151
(「日本語の歴史」における)
注
1 伊波普猷「p音考」(『古琉球』『伊波普猷全集』第一巻〈昭49・4、平凡社〉所収)
2 安藤正次『古代国語の研究』『安藤正次著作集 国語学論考Ⅱ』(昭49・7、雄山閣)
3 橋本進吉「波行子音の変遷について」(『国語音韻の研究』〈昭25・8、岩波書店〉所収)
4 新村出「国語に於けるFH両音の過渡期」(『東亜語源志』『新村出全集第四巻』〈昭46・9、筑摩書房〉所収)
(
波行子音の變遷について 橋本進吉
「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt
「慈覚大師の在唐記【(注3)】(八世紀中ばのもの)に梵語のpa音に日本の「波字音」で呼ぶが「唇音を加う」とあるので、パを発音するのに軽い両唇音のFを重くしてP音に発音させたのであって、平安時代にはハ行子音は両唇音のFであったといえる。この解釈に異論をとなえるむきもあるが、両唇音説に従いたい。」
九世紀半ばの間違い。この場合で一世紀違うのは致命的すぎるぞ。
p.217からの
国語関係主要文献年表
より、万葉集は西暦759年と推定され、かつ759年の時期が上限とある。
万葉仮名は8世紀半ば。
p.219より、
八四七 承和 一四 入唐求法巡礼行記(円仁)
八五八 天安 二 在唐記(円仁)
なので入唐求法巡礼行記と 在唐記は著者は同じだが別の記録。
858年。完全に9世紀半ばだ。
万葉集から 在唐記まで意外と間が空いていないな。ほぼ100年しか空いていない。
パピプペポばかりだったのが100年でファ発音になるとは思えないので万葉集が出た時代にはすでにファばかりか、混合だろう。
語中のpは語頭よりも早く変化しただろうし。
仮に「ほほん」という単語を考えてみる(実在しないはずの単語)。
poponが最初の発音で最終的にhohonになったとする。
pofon、fofon、fohon、hohonの順に変化していったであろうということだ。
(
昔のキリシタン文献で「へ」が「ふぇ」だった証拠の1つを見つけた。
「ゐんへるの」(インフェルノ)。
タイトル偏向しているだろうなこれが完成する頃には
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/3/3~/と良呟きや記事の保管庫
Posted on 2022.03.20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-471.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
更新されたので気付いたと思うけど
残りの人生の目標は、奴らの400年間以上続いている魔法陣に「蟻の一突」をすること
その蟻の一突するためにはこ↑こ↓にくるしかなく、それは「天命」でしかないことなんよ
齧られて欠けた・消えた魔法陣は弱体・無効になる、天の理・地の理があるなら後は人だけ
午前4:06 · 2022年3月20日·Twitter for Android
(
このブログ記事を更新〔公開〕したことについて。反応が早い。
私も微力だろうが協力している。本記事の西洋あまねしの箇所など。
もっと後で公開しようと思ったのだが、量がかなり増えてきたのでさっさと公開することにした。
欧米の尻メンバーに翻訳させたのがそもそもの間違いだよなあ。まあ意図的だろうけど。
国語学の教科書を複数読んだ。上田万年(上田萬年)が極めて重要。明治以降の日本語の作成に関わった重鎮。
「昔のハ行はP音だった」という論考を書いた人で有名。この人も超怪しいのだが、訳語を作りまくった人ではない。
ニッポンは上代日本語ではありえない(小さいツの発音がない)が、ニポンだった時期がある可能性はあるってこと。
なお、奈良時代あたりにはすでにF行発音(ニフォン)になっているからあまり気にしてもなあ。
やたら重視しているのが外資の手先とかばかりな印象。
小さいツ(促音)が登場してからはニッポン発音もできたけど、ニフォンと併存。
昭和時代にポン読み推進しても大多数の人々はニホンが主流のままだからな。
にほん語は今もパ行発音は主流ではない言語だとよくわかる。
400年前ぐらいから侵略しに来た宣教師の言語がラテン語とポルトガル語でP音が必須なんだよな(笑)
例えば、パンは耶蘇教ではイエスの肉体だからな〔儀式が必須〕。ぱあてる(パーテル)もだな。
キリシタンと発音で思い出したのだが、インフェルノ(地獄)って昔は「い〔ゐ〕んへるの〔野〕」って書いた〔文献が少なくとも2つはある〕んだけど、これ当時は「へ」はfeだから正しいんだよね。
読めないニックネーム - Wiki
https://img.atwiki.jp/monosepia/attach/3227/9896/%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0.htm
”“あまねくよみがへりたるじゆいぞ‐ぜらるの後は人間二度死(フタタビシス)る事あるまじきと云(イフ)事也。たゞし善悪二(フタツ)の模様(もやう)は変(かは)るべし。其(ソノ)故は、ぜんちよと悪(あ)しききりしたんとは、終(をは)りなくゐんへるのゝ苦(くる)しみを受(う)けてながらへ、がらさにて果てたるよききりしたんは天にをひて楽(たの)しび(ミ)を極(きは)めて、不退(ふたい)の命を持(モツ)べしと云へる儀也。”p.47
不退の命…永遠の命
ぜんちよ…異教徒 Gentio ポ
悪いキリスト教徒と異教徒→永遠にインフェルノで苦しむ
いいキリスト教徒「だけ」→天にて永遠に楽しむ
”
出典は『どちりいな-きりしたん』。
https://twitter.com/TakabatakeKouji/status/1259066579741896704
”高畑耕治 純心花
@TakabatakeKouji
読書メモ「どちりいなーきりしたん」(キリスト者の教義)
「キリシタン書 排耶書」日本思想体系25、H・チースリク他校注、岩波書店
ぱあてるーなうすてるのおらしよ
(主の祈り、最終部)
我等を凶悪よりのがし給へ。あめん。
戦国の1600年頃イエズス会布教者と信仰者の唱える声が聞こえる気がする。
午後7:23 · 2020年5月9日·Twitter Web App”
https://twitter.com/platinum_nerve/status/347447069310590976
”0883
@platinum_nerve
イソップ物語は2600年も前に書かれたのかぁ。江戸時代よりも昔に和訳されたイソップ物語は、「インフェルノ」を「ゐんへる野」って訳したそうだけど、当時の人はいったいどんな野原を想像していたのじゃろう...
午前5:13 · 2013年6月20日·hamoooooon
”
〔こんなの見つけた。
「ゐんへる野」と確かに書いてある。「野」という漢字を当てて「場所」という意味を加えたかったのかもな。
しかしヤソ的な地獄に「野」のイメージがあるかは疑問。
元和古活字版『伊曾保物語』翻字
gennabanisoho_honji.txt
https://www.kashiwadani.jp/gennabanisoho_honji.txt
”元和古活字版『伊曾保物語』翻字
(略)
十六△いそほと二人の侍夢物語の事
△ある時、さんといふ所のさぶらひ二人、いそほを誘引して、夏の暑さをしの
がんため、涼しき所をもとめて到りぬ。その所に着ゐて、三人さだめていはく、
「こゝによき肴一種有。空しく食はんもさすがなれば、しばらくこの臺にまど
ろみて、よき夢見たらん物此肴を食はん」となり。さるによつて、三人同枕
に臥しけり。二人のさぶらひは、前後も知らず寢入りければ、いそほはすこし
もまどろまず、あるすきまをうかゞいてひそかに起きあがり、此肴を食いつく
して、又同ごとくにまどろみけり。
△しばらくありて後、ひとりの侍起きあがり、今一人をおこしていはく、「それ
がしすでに夢をかうむる。そのゆへは、天人二體天降らせ給ひ、われを召し具
して、あまの快樂をかうむると見し」といふ。今一人が云やう、「我夢はなは
だ是にことなり。天朝二體我を介錯して、ゐんへる野へ到りぬと見る」。其時
兩人僉議してかの伊曾保をおこしければ、寢入らぬいそほが、夢の覺めたる心
地しておどろく氣色に申やう、「御邊たちは、いかにしてか此所にきたり給ふ
ぞ。さも不審なる」と申ければ、兩人の物あざ笑つて云、「いそ保は何事をの
給ふぞ。我この所を去事なし。御邊と友にまどろみけり。わが夢はさだまりぬ。
御邊の夢はいかに」と問。伊曾保答云、「御邊は天に到り給ぬ。今一人はゐん
へる野へ落ちぬ。二人ながらこの界にきたる事あるべからず。然ば、肴をおき
てはなにかはせんと思ひて、それがしこと※※く給はりぬと夢に見侍る」とい
ひて、かの肴の入物をあけて見れば、いひしごとくに少も殘さず。その時、ふ
たりの者笑ひていはく、「かのいそほの才覺は、ぐわんのうかがふところにあ
らず」と、いよ++敬ひ侍るべし。
(略)
本稿は、国文学研究資料館編「日本古典文学本文データベース」所収のデータを基に
一部改変して成したものである。”
改行が変になるので話の箇所は文字の大きさを「小」にした。
学校時代に古文をきちんと勉強しておいてよかったとよく思う)”
※引用元と見た目が変わったがこればかりは仕方ないなあ)
p.152から
方言
(執筆者は徳川宗賢。
え、徳川? 気になるので調べてみた。
徳川宗賢 - ブログ版「泥鰌の研究室」
https://blog.goo.ne.jp/dozeu2534/e/2301989c4e07882e007b2f4d7868ef49
”徳川宗賢(とくがわ・むねまさ)
学習院大学人文学部教授。昭和30年に国立国語研究所(国研)地方言語教室に入り、「日本言語地図」(全6巻)をまとめた。
平成10年1月に「社会言語科学会」を設立し、同学会の初代会長となる。平成11年逝去。「日本方言大辞典」、「日本の方言地図」、「新・方言学を学ぶ人のために」、「関西方言の社会言語学」、「方言地理学の展開」等々、言語学・方言学等々に関する著書多数。
中でも「方言地理学の展開」は、「日本言語地図」の調査・作成、「日本方言大辞典」の編集など、方言研究・方言地理学に精力をそそいできた徳川のはじめての論文集で、現在の方言研究・社会言語学の指針となる書である。”
研究者をさがす | 徳川 宗賢 (70000403)
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000070000403/
”1993年度 – 1998年度: 学習院大学, 文学部, 教授
1987年度 – 1992年度: 大阪大学, 文学部, 教授
1989年度: 大阪大学, 文学部
1986年度: 阪大, 文学部, 教授 ”
徳川宗賢 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E8%B3%A2
”徳川 宗賢(とくがわ むねまさ、1930年11月27日 - 1999年6月6日)は、日本の言語学者・国語学者。博士(文学)。日本語の方言研究の第一人者であった。
〔中略〕
東京府出身。田安徳川家9代当主・徳川達孝伯爵の長男徳川達成(のち10代当主、伯爵)の次男として生まれる。
学習院大学文学部文学科国文学専攻卒業。学習院大学大学院人文科学研究科国文学修士課程修了。
大阪大学文学部教授を経て、学習院大学文学部日本語日本文学科教授。国語学会代表理事。第21期国語審議会委員。主な編著書に『日本人の方言』、『日本の方言地図』がある。司馬遼太郎とも、対話「日本の母語は各地の方言」(『日本語と日本人』 中公文庫、のち『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集2』 文春文庫)を行っている。探偵!ナイトスクープのアホ・バカ分布図作成にアドバイスを行った。
妻の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。娘の松方冬子は日本史学者、東京大学史料編纂所准教授。
〔中略〕
最終更新 2022年2月9日 (水) 08:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” (着色は引用者)
マジで怪しいな(笑) それは置いといて本文メモに戻る)
p.161
東京のことばと沖縄県首里の一般方言とを対比してみると、次のような関係が見出される。
東京 首里
アジ(味) アジ
アメ(雨) アミ
イシ(石) イシ
ウシ(牛) ウシ
ウデ(腕) ウディ
オト(音) ウトゥ
カス(糟) カシ
カズ(数) カジ
キーロ(黄色) チール
キモ(肝) チム
クジ(籤) クジ
クズ(葛) クジ
クチ(口) クチ
クモ(雲) クム
ケ(毛) キー
ケガ(怪我) キガ
サキ(先) サチ
ジ(字) ジー
ス(巣) シー
スミ(墨) シミ
タ(田) ター
タカサ(高さ) タカサ
チ(血) チー
ツキ(月) チチ
ツメ(爪) チミ
テ(手) ティー
テツ(鉄) ティチ
トキ(時) トゥチ
ナツ(夏) ナチ
ハズ(筈) ハジ
ハナ(花) ハナ
ホ(帆) フー
ミチ(道) ミチ
ユ(湯) ユー
(ここからp.162)
アクセントを無視したわずかな例示に過ぎないが、この範囲からでも、いくつかの問題を指摘しうる。
まず、標準語の一拍名詞に対して、首里では長音が現われる。このような場合、標準語の一拍名詞の短母音は首里方言の長母音と対応する、という(それ以外の母音については、この例示の範囲では、標準語=短:首里=短、標準語=長:首里=長の対応関係がみられる)。つぎに、標準語のa・i・uの母音は、スズツの場合を除いてそれぞれ首里のa・i・uに一対一の対応をみせていることがわかる。スズツの場合は標準語=u:首里=iとなる。さらに、標準語のe・oは、首里のi・uにそれぞれ対応していることがわかる。
両言語の母音(長短無視、スズツを除いて)の対応をまとめれば、
首里 i a u
^ | ^
東京 i e a o u
(ズレているかもしれないのでメモ者注:iがiとe。aがa。uがoとuに対応)
となる(この点から沖縄方言は三母音であるということが言われるが、貝はケー、香はコー、大概はテーゲー、当分はトーブンであるから長音のe・oは存在するのである)。
(中略)
ともあれここでは、規則的な関係が見出されるということは、両言語が、歴史的に無関係とはほとんど考えられないことを意味する点に注意したい。
pp217から
国語関係主要文献年表
p.217《例言》
* 推定の時期であることを示す
上 その時期が上限であることを示す
p.218
上*
七五九 天平宝字 三 万葉集
p.219
八四七 承和 一四 入唐求法巡礼行記(円仁)
八五八 天安 二 在唐記(円仁)
(入唐求法巡礼行記と 在唐記は著者は同じだが別の記録。
誤解するところだった、入唐~の別名が在~だと思っていた)
p.234から
国語学参考文献解題
p.238
橋本進吉 キリシタン教義の研究(橋本進吉博士著作集第十一冊)
岩波書店 昭36
もと昭三年刊。室町時代の通俗文語で書かれたローマ字本『ドチリナ・キリシタン』(文禄元年、天草学林刊、東洋文庫蔵)の全文紹介と国語学的研究をなしたもの。
(橋本進吉も怪しいな。キリスト教研究者は優遇されるだろうな)
p.249
上代特殊仮名表
「ひ」と「び」、「へ」と「べ」が区別されている。
p.250から
日本語音節表
p.250
奈良時代における大和地方語の音節表
(清音にて、fa fi fï fu fe fë fo。備考にて「fの音価は[Φ]」とある。濁音の項目がある。半濁音の項目はない。撥音、促音、引き音、拗音の項目もない。母音は5つのみではない。f行の母音は7つあるが、行によってはöが加わり母音が8つある場合もある)
(上代日本語は8母音だと橋本進吉の研究で明らかになったんだよな。神代文字が捏造である根拠の1つ。全ての母音にそれぞれ対応する字を作らないのはおかしいからな)
[2024年8月6日に追加:
最新の知見では古代日本語は8母音ではないらしい。
追加終わり]
室町時代における京都語の音節表
(半濁音と撥音と促音と拗音の項目が加わっている。
清音の内、直音ではfa fi fu fe to〔foの誤字だろう〕
清音の拗音の項目ではfja (fju) fjo。
備考にて「fの音価は[Φ]」とある。
半濁音の項目が加わっており、pa pi pu pe po とある。
母音が5つのみに減っている)
p.251
現代における共通語の音節表
(清音、濁音、半濁音の項目に分かれている。撥音、促音、引き音もある)
メモは以上。
昔の教科書を採用してよかったな。今現在のだと欧米汚染が酷くなっているだろうからな。
小松英雄 『日本語の音韻 (日本語の世界7)』 中央公論社 昭和56
日本語の世界 7
日本語の音韻
昭和五十六年 一月十日印刷
(昭和56年は西暦1981年。1945年=昭和20年、と覚えると計算が楽)
p.29
子音(Consonant)をC、母音(Vowel)をVとして表わせば、streetはCCCVC、treeはCCV、そしてperiod[píəriəd]はCVVCVVCというようになっていて、英語の場合には音節構造が一定しておらず、母音の直前に子音連続が来たり、二重母音、三重母音を含むことも珍しくないが、日本語の音節は、一つの子音(C)に一つの母音(V)が続いた形の単純な構造(CV)でできている。拗音には拗音要素として半母音が入るのでCjVの形をとるし、また、ここでも促音と撥音とが枠外に置かれることになるが、CV=構造が基本になっているということは、いってもよいだろう。
p.173
促音・撥音は、古く日本語に存在しなかったとされている。それらが使われるようになったのは、中国語の影響によるともいわれている。しかし、もしその影響ということを考えるにしても、それは日本語としてまったく存在しなかった音を中国語から借用したということではなく、もともと擬声語や擬態語の中にしか分布していなかったそういう種類の音が、中国語との接触によって顕在化し、正式の音節として一般語の音韻体系の中にも組み入れられたものと理解すべきであろう。
日本語本来のCV=構造の音節群の中にあって、促音・撥音は異質なものであった。そのような異質の音を、先行する形態素の末尾に置いて、それに続く形態素と融合していることの指標としたのは、たいへん効果的であったと評価できる。
(ここからp.174)
p.174
中国語の語彙を日本語に取り入れたことにより、まるで風邪でもうつるように、なんとなく中国語固有の発音が日本語にうつってしまったとか、それに誘発されて、それまではとらえられることのなかった音が、他の音節と対等な地位を獲得するにいたったかとかいう程度の安易なあり方として、中国語の影響を想定するのは誤りである。誘発であれ導入であれ、それが実現したのは、日本語の音韻体系が、まさにそういう種類の異質的な音を、その当時、必要としていたからなのだということを――、あるいはそれを加えることによって日本語の運用を効率化できたからなのだということを――、忘れてはならない。
イ音便は -VV= という、和語として存在しなかった結び付きを作り出したものであり、撥音便・促音便もCVという音節構造とはいちじるしく違った音をそれと同じ位置にもってきたもので、いわば〈異物の挿入による融合の表示〉という点において共通しており、それらの果たす機能もまったく同じであるから、具体的な音そのものはたがいにかけ離れていても、それらを一括して取り扱うことが可能である。換言するならば、同一の目的のために、いくつもの音が適材適所に動員されているということなのである。
p.178
「わたくし」という語形があるからこそ、それとの相対的関係において「あたくし」や「わたし」の表現価値が相対的に決定される。当然、「わたくし」のがわからもそれと同じことがいえる。これらの語形はたがいに支えあっているわけであるから共存しているのが当然である。ここにもまた、例の【見えない】(傍点の代用)糸が張りめぐらされていることに気付かなければならない。
「水」が midu>midzu>mizu と変化して、そのまま、もとの語形が失われてしまうという経路
(ここからp.179)をたどる音韻変化と違って、これは表現価値の多様性を求めた派生なのである。この点をしっかりおさえたうえで、ふたたび主題の音便にもどることにしよう。
音便の表現価値
音便というのは、連接している二つの語が意味的あるいは機能的にひとまとまりとなっていることの指標として、上位に立つ語の末尾の音節を、異質的な音(撥音・促音)、または異質的な音連続(形態素末尾における母音連続)によって置き換える現象である、というのが、さきの検討によって得られた結論であった。ところが、形容詞のウ音便については、こういう規定のしかたが当てはまらない。それはどういう理由によるのかというのが当面の課題である。
文献資料の調査から得られた結果を総合して見ると、音便は平安時代の初期からあらわれている。しかし、当時においては、ある類型を通じていっせいにその現象が見られるわけではなく、特定のことばにかたよりを見せながら、徐々の広がっていったものであることがわかる。それらは、洗練された文体の仮名文学作品でなしに、口頭語における語形変化をかなり忠実に反映すると認められるところの、仏典に加えられた傍訓に主としてあらわれているところから見ても、日常語において音便の動きが始まったのは、おそらく奈良時代、またはそれ以前にまで遡るとみるべきであろう。かなり定着した言い方でなければ、このような文献にも取り入れられなかったはずだからである。
そういう緩慢な進行の、その過渡期においては、新たに生じた音便形と、それが作り出される
(ここからp.180)
もとになった非音便形とが、ある程度の期間、共存していたとみるのが自然である。いわゆるバトン=タッチ式の交代はありえない。もちろん、そのままなら、非音便形は、遅かれ早かれ姿を消すべき運命にあった。しかし、この場合には、もう一つの要因がからんで、もとの形がそのまま保存される結果になったのである。
まったく同じ意味で用いられる二つのよく似た語形があるということになれば、それが用言であるだけに、あらたまった言い方と普通の言い方とに分かれる方向をたどるのは、日本語して自然である。当然、その場合には、伝統的な語形のあらたまった言い方としての役割をになうことになる。すなわち、非音便形は[mizu]に対する[midu]としてではなく、「わたし」に対する「わたくし」と同じ存在理由を持つことになり、姿を消す機会を失ったまま、表現に必要な語形として、その後も維持される結果になったのである。
第七章 促音のはたらき
p.200
ニホンかニッポンか
四国のある高等学校の女生徒から手紙をもらったことがある。その内容は、文化祭で日本の国名を取り上げたいのだが、ついては「ニホン」と「ニッポン」とのどちらが正しいのか、根拠を示して教えてほしいというものであった。丁寧な文面で、
(ここからp.201 )
しかもわざわざ名ざしで聞いてくださったことでもあるので、数枚の便箋に意見を書いてみたが、どうにも収拾がつかず、結局、ほんとうはかなり難しい問題なのですという言いわけを添えて返事を出してしまったのが、後味の悪い記憶として残っている。ここにその返事を、筋を通した形で、あらためて書きなおしてみたい。考えてみると、これまで、言語学の立場からこの問題を解明したものはないようなので、いちおう述べてみる価値はありそうに思われる。
日本の由来
p.202から
日本の国名が中国語で命名されているということも、中国の周辺諸国の一つとしての文化史的背景を考えるならば、特に異とするに当たらない。はじめに「ひのもと」という呼び方があって、それに「日本」という漢字をあてたという解釈もあるが、日本古来の言い方として「ひのもと」があったとするのも理屈に合わない。西の方にある国の存在を強く意識した外国むけの国名であるから、これは最初から音読されることを前提として作られた国名であると見た方が正しいようである。むしろ、「ひのもと」というのは、あとになって「日本」を訓読したものであろう。『唐書』の「東夷列伝」に、
日本ハ古ノ倭ノ奴。倭名ヲ悪(にく)ミテ、更(あらた)メテ日本ト号ス。国日ノ出ヅル所ニ近ケレバ、以テ名ト為ス。
(メモ者注:本書には「一」「二」「レ」があるが、再現せず、読みだけを記した)
とある。「日本」は中国人による命名ではなく、〈順(したが)う〉とか〈醜い〉とかいう意味の「倭」という名前を嫌って付けかえたものである。マルコ・ポーロの『東方見聞録』にZipangu と紹介されているのも、また、英語のJapan、ドイツ語のJapan、フランス語のJaponなども、すべて、この「日本」という文字の中国語読みに由来している。「ニホン」のことを、どうして「ジャパン」などというのだろう、という子どもの疑問はもっともであるが、もとをた
(ここからp.203)
ずねれば、このように同じことばなのである。「日」という文字が「ジツ」とも読まれることを思い合わせれば、その関係はいっそうよくわかる。
七一二年に成立した『古事記』には「日本」という国名が使われていないが、その八年あとに編纂された正史には『日本書紀』という名称が与えられている。ひと口に「記紀」と総称されているが、実際に読んでみれば、格調がまったく違っており、同じ歌謡でも用字の相違は目を見張るばかりである。そこには、中国の正史に比肩できるだけの堂々たる史書を、という意図が明確に読みとれる。
ジッポン
この『日本書紀』という書名は――、そして、その中に用いられている「日本」という国名は――、その当時、どのように読まれたのであろうか。現在、書名は「ニホンショキ」と読みならわされており、また、国名の方は「ニホン」とも「ニッポン」とも呼ばれているが、まず、この八世紀の状態が問題である。
七二〇年は中国の唐代に当たる。遣唐使がしばしば送られ、長安に学んだ人たちが帰国しているし、令制では音博士が置かれた時代である。当然、「日本」という国名も、当時の中国における正統な字音、すなわち、日本で「正音」と呼ばれた系統の字音で名づけられたはずである。といっても、この「正音」というものの実態には、よくわからないところがある。当時の長安音そのもの、すなわち、外国語としての中国標準語のようでもあるが、実際には、かなり日本語化していても、なるべくそれに近づけた読み方という線であったらしい。現在、本人が英語のつもりで
(ここからp.204。
注:本書の記号が検索しても見つからない場合はどんな記号かわかるように記した)
読んでいても、人によって英語そのものとの距離がさまざまであるように、正音にも相当の幅があったのであろう。ともあれ、より古く日本語に入り、すっかり定着していた和音に比べれば、外国語のような読み方であったに相違ない。
そのころの長安の発音で、「日本」は n[zの上に/ ]i[eの上に\/]tpuan であったと推定されている。たまたま音韻変化の過渡期に当たっていたので、「日」の字の頭字音は、それといくらか違っていたかもしれないが、だいたい、そのような音であったと考えておいてよい。そのまま仮名で表わせる音ではないが、日本語の発音に引き寄せれば、[【小さいnが左上にあるz】itpon]というようなところであろうか。[小さいnが左上にあるz]というのは、鼻にかかった[z]の音である。漢和辞典の類では、「日」という文字の音を、漢音「ジツ」、呉音「ニチ」としている。
この「漢音」「呉音」は、それぞれ、「正音」「和音」の系譜に属するものであるから、結局、今の発音に当てはめれば、「日本」は「ジッポン」であり、したがって、『日本書紀』は「ジッポンショキ」だったはずなのである。『日葡辞書』(一六〇三年刊)には ‘Iippon. Fino moto.’ という項目がある。大文字ではJに当たる文字がないのでこういう綴りになるが、発音は [ʒippon]、すなわち「ジッポン」である。後述のように、切支丹資料にはそのほかの形も見えるので簡単に片付けにくいが、ともかく、この‘Iippon’は注目に値する。
ニッポンの成立
僧侶には正音が強制され、また、『史記』『漢書』『論語』『孝経』などの漢籍は博士家の学者たちによって、やはり正音を用いて読まれていたが、所詮、
(ここからp.205)
それは学問の世界のものであり、いわばよそゆきの字音であった。もっと古く日本に伝わり、すっかり根をおろしていた和音の方が、はるかに強かったのである。[【小さいnが左上にあるz】itpon]という【言い方】(傍点の代替表現)を前提として「日本」と名付けられても、それが「日本」という文字で表わされる限り、和音による[nitpon]という【読み方】が可能であり、したがって、[nitpon]という新しい【言い方】が生まれることになる(「日」の字の和音は[niti]でなく[nit]であった)。ただし、いつごろからそういう読みかえが起こり、また、そういう言い方が一般化したかは突きとめにくい。文献資料には、ほとんど「日本」という漢字書きになっているので、それがどう読まれたのかは判断できないからである。
平安時代の仮名文学作品といっても、現存するのは、ほとんどすべて鎌倉時代以後の写本なので、作者自筆本の表記がどうなっていたかはわからない。そういう状態の中にあって、『土佐日記』は唯一の例外である。紀貫之の自筆と信じられる本が室町時代末期までは残されていて、それぞれ別人により四回にわたって書写されている。それらの
(ここからp.206)
うち、藤原為家による写本は、漢字と仮名の区別はもとより、仮名の字母の違いまでも忠実に写し取ったもので、それもまた今では失われてしまったが、為家本をほとんどそのままに写した本が伝存しているので、間接的ながら、九三五年ごろの自筆本の姿をうかがうことができるのである。その冒頭は、つぎのように記されている。
をとこもすなる日記といふものを ゝむなもしてみむとてするなり
この写本では、仮名でそのままに書けない語形を持った漢語や、仮名で書いてはどうにも工合いの悪い語を除いて、すべて仮名書きになっているが、右に見える「日記」は、そういうごく少ない漢字書きの例の一つなのである。「日記」という語の当時の発音は[nitki]であり、実質的には[nikki]と同じであったと思われる。この当時、促音は使われていても、まだそれに特定の仮名をあてる習慣が成立していなかったから、「日記」を無理に仮名で書けば、「にき」とでもするほかになかったであろう。こういう方式を、促音の無表記という。しかし、無表記というのは (略)漢字によりかかって、はじめて可能な方式であり、したがって、仮名文学作品の中には原則としてあらわれない。紀貫之がこれを漢字書きにしたのは、そういう理由によると考えられる。仮名文学作品の場合、[nikki]というような【きつい】発音は嫌われたので、この部分も[niki]と読むべきだとする俗説は、根拠のない独断である。「日本」も、これと同じように[nitpon]から[nippon]に移行し、そのままの形で存続した。これが天草版『エソポの寓話集』(一五九三年刊)に見える
(ここからp.207)
ところのNipponであり、現代語の「ニッポン」なのである。
(メモ注:p.207に『エソポの寓話集』(一五九三年刊)の写真があり、「Nippon」と書いてある)
ニホンの成立
これに対して、「ニホン」の方は、その由来がどうも明らかでない。考えられる一つの可能性は[nitpon]の[t]、あるいは[nippon]の促音部分を表わすための仮名がなかったために「ニホン」という表記をとり、それが綴り字発音(spelling pronunciation)によって[niɸon]と読まれるようになり、さらに音韻変化によって[nihon]になったのではないか、という筋道である。しかし、これは、いかにも理屈に合ったようでありながら、説得力に欠けている。仮名文学作品では、たとえば、
あはれなる古言(ふること)ども、唐(から)のも【やまと】のも書きけがしつつ、草(さう)にも真字(まな)にも、めづらしきさまに書きまぜ給へり。(源氏物語・葵)
というように「やまと」が普通であるし、また、もし平仮名文献の中にそれがでてきたら、「日記」の場合と同じく、「日本」という漢字表記をとることが期待される。もちろん、それに対してわざわざ読み方を書き添えるようなことはしない。「日本」という文字を書くのはきわめ
(ここからp.208)
て容易であり、したがって、仮名書きは稀な例である。綴り字発音が定着するためには、その表記が固定していて、しかも、その語が日常生活から遊離しているという条件がなければならないはずであるが、「にほん」について、そういう条件が存在したとは考えにくい。そこで、ここには、もう一つの可能性を提示してみよう。
現代語についてみると、和語型における促音の分布にはかなりのかたよりがあり、いくつかの類型に分けることが可能であるが、その一つとして、左のような対における、強めの語形がある。
とても――とっても やはり――やっぱり よほど――よっぽど
また、「ただ」という語形では、その間に促音が挿入できないので、第二の「だ」を清音に置き換えて「たった」としたような例まである。このような対を作っていなくとも、「はっきり」「さっぱり」「きっちり」「くっきり」などという副詞は、それ自体として強めの含みを帯びている。それだけに、より口語的であるといってよい。その点は動詞の促音便についても同様である。そして、口語的ということは、同時にまた、それが洗練された文体に用いられる語形でないことをも意味している。
漢語型と和語型とでは音韻法則を異にしているから、同じ結び付きでも、それにともなう語感は必ずしも同じでない。「ニッポン」という語形は促音を含んでいても、漢語型であるから、品位に欠けるということもないので、正式の国号としてそのままに継承された。しかし、それが「やまと」にかわるべき国号になったという事情もあって――、すなわち、和語的なひびきの国
(ここからp。209)
名もまた保持したいという心理が作用して――、和語型についての音韻法則の部分的適用ということが、ここに生じたらしい。
「とても」と「とっても」との関係からいうならば、「ニッポン」という語形は、意味の強めをともなう「とっても」のがわに属している。この強めを除いて普通の語形に戻すためには、促音を脱落させればよい。そのような類推によって、「ニッポン」から作られたのが、、「ニホン」という語形なのではないであろうか。もとより、意図的にということではなく、自然ないきおいとしてである。
このようにして生まれた[niɸon]という語形は、漢語型の特徴を完全には捨てきっていない。しかし、かりに漢語度というようなことを考えるとしたら、その価は[nippon]の半分以下に落ちているといってよいであろう。いわば、ずっと【かど】のとれた語形になっている。
(p.209に天草版『平家物語』の写真が掲載されており、NIFON NO COTOBA[日本のことば]と書いてある)
天草版『平家物語』に Nifonとあり、また、『平家物語』の譜本などにもそういう読み方になっているから、その段階でこの語形が確実に成立しているが、さきに述べたとおり、この語は、ほとんどつねに漢字で記されており、表記に手がかりが求め
(ここからp.210)
にくいために、この語形がいつの時期まで遡りうるのかは明らかでない。
日本記などは、ただ、かたそばぞかし(=ほんの表面的ナ事柄だけにすぎません)。これら(=物語)にこそ、みち〱しくくはしき事はあらめ。(青表紙本・源氏物語・螢)
というように、『日本書紀』の略称「日本記(紀)」も、古写本においては漢字書きになっており、それを現今では「ニホンギ」と読みならわしているが、明確な根拠があってのことではない。むしろ、仮名で忠実に表わしえない音であったために漢字表記になっているのではないかという疑いもないではない。前引の『日葡辞書』には Nifongui という見出しになっているが、十七世紀初頭までくだれば、「日本」それ自体に「ニホン」という語形がすでに成立しているわけであるから、その当時の読み方として「日本記」が「ニホンギ」であっても不思議はない。
どちらが正しいか
いろいろと調べたり考えたりしてみても、結局は空白の部分が残らざるをえないが、ともかく、ある時期から[nippon]と[niɸon](>[nihon])とが共存するようになっていたことは確かであり、その状態が現在にまで及んでいる。そこで、どちらが正しい国名なのかということになるわけであるが、これは慎重に判断しなければならない。
一般に、正しいことばというときの、その正しさの基準はどこに求めるべきであろうか。その点についての共通理解なしに、いきなり、どういう言い方は間違いであって、どういう言い方に改めなければならないということを主張しても、一部の人たちの共鳴が得られるだけで客観的な説得力がない。ただ、ここでその問題を一般論として正面から取り上げると、それはそれで大き
(ここからp.211)
な議論になってしまうので、さしあたり、「ニッポン」と「ニホン」とにかかわる範囲だけに限って考えてみることにする。
「ニッポン」と「ニホン」とが、どうして択一を迫られるのか、それは、これら二つの語形が明らかに同じ国をさし、しかも、明らかに同一起源の語だからであろう。しかも、それが正式の国号ということになれば、国家意識のような要因まで作用するので、議論が先鋭化しやすい。
同一の事物をさす同一起源の二つの語形という意味でいえば、「ニッポン」と「ニホン」との共存は、「ハンカチ」と「ハンケチ」との共存と同じことであるが、漢字が介在するかどうかという点には質的な開きがある。そしてまた、漢字の介在というだけなら、「洗濯」を「センタク」「センダク」のいずれに言うべきかということと原理的に共通しているといってよさそうでもあるが、重要なことばと些細なことばという点で、一般の関心のあり方に大きな相違がある。
p.213から
p.213
「ニッポン」にせよ「ニホン」にせよ、どちらもいちばん古い形ではないし、いまさら「ジッポン」にももどせない。その前に、そもそも、古い形がすなわち正しい形であるといえるのかどうかという、根本的な問題がある。
語感の相違
正しさを判定する最も有力な基準は、現在、それがどういう語形で通用しているのかということである。個人的なゆれが多少はあるかもしれないが、おそらく、「ニホン」の方が圧倒的に優勢であろう。「日本」という単独の形をはじめ、「日本語」「日本人」「日本猿」「日本社会」その他の熟語も、すべて「ニホン」の方が標準的な言い方であるといってよい。それは間違いだといってみても、いまさらどうなるものでもない。日本銀行券の裏には、すべて NIPPON GINKO と大きく印刷されているのに、権威があるとされている国語辞書にも、「にほん=ぎんこう」という見出しになっている。編集者は承知のうえで実情に合わせたのであろうか。
こういう現実にあるにもかかわらず、「ニッポン」という国号に執着する人たちが少なくないということには、なにか理由がありそうに思われる。考えてみると、こういう国名論争が新聞の投書欄をにぎわしたりするのは、オリンピックが開催されるような年に多い。関係者や選手団は NIPPON を好むようだが、一方にはそれが大嫌いな人たちがいて、NIPPONというのは侵略的、
(ここからp.214)
帝国主義的な言い方だと批判する。戦争経験者たちの中には、「ニッポン」にまつわるいまわしい思い出を持つ人たちが多いから、平和日本は「ニホン」でなければならないという主張には、筆者もその世代に属するひとりとして理屈を越えた共感をおぼえないでもないが、ここでは、もう少し冷静に考えてみよう。
若い読者のために事実を述べておくと、太平洋戦争中には「ニッポン」が好んで使われた。あるいはそれ以前、一九三九年八月に新鋭機「ニッポン」号が国威を世界に示すために羽田から世界一周に飛び立ったことも指摘しておくべきだろう。
戦争中に「ニッポン」が使われたから、それが嫌いだという前に、なぜ、戦争中に「ニホン」でなく「ニッポン」が使われたのかということを、ここで考えてみなければならない。それは、おそらく戦争指導者たちに明確な理論的根拠があったわけではなく、ただ、「ニッポン」なら勝てそうで、「ニホン」では勝算がないような感じが、なんとなくあったからに違いない。それは、いまでも同じことであって、胸のマークが NIHON では、金メダルなどとうていおぼつかないので、NIPPONが選ばれるのであろう。「日本銀行」が NIHON GINKO では国際的な威信にかかわるし、世界中に送られる NIPPON の切手が貼られるということになると、「日出づる国」の姿勢に一脈かよってくる。
これは、さきに述べたような促音の挿入による強めの効果が働いているからであって、そのために「ニホン」は普通の形、そして「ニッポン」はそれを強めて言った形として対比的に把握さ
(ここからp.215)
れているからにほかならない。帝国主義もオリンピックも――、もとよりそれらを同一視したりするつもりはないが――、そしてNIPPON GINKO も郵便切手のNIPPONも、これで統一的に説明できたことになる。
共存の理由
正しい国号は「ニホン」なのか「ニッポン」なのかというような性急な問いかけは、問題を紛糾させるだけで、みのりある解決をもたらさない。それは、最初から、どちらかが正しくない形で、当然、抹消されるべきはずだという前提に立っており、また、こういう場合の〈正しさ〉とは、どういう意味なのかという点についての考慮をまったく欠いているからである。それよりも、どうしてこういう二つの語形が共存しているのかということに疑問をいだき、そこから出発しない限り、ほんとうの解決に到達できるはずがない。二つの同じ【ような】語形が長期にわたって共存し続ける場合には、一般的にいって、なんらかの意味における機能の分担を生じていることが多いから、そういう目で検討してみる必要がある。結局、ここで得られたのは、普通の形と強めの形ということであった。
「とても」と「とっても」とのどちらが正しいかということは問題にされることがない。含みの違いがよくわかり、それぞれの存在意義を容易に認めることができるからである。「ニホン」と「ニッポン」とが、ちょうどそれらと併行的な関係にあるとしたら、たがいに異なる含みを分担しているわけであるから、どちらが正しいという筋合いのものではない。はじめからこういう対比的価値を求めて「ニッポン」から「ニホン」が作り出されている以上、一方が失われてしまっ
([注:「ニッポン」から「ニホン」が作り出されている~というのは原文ママ]
ここからp.216)
たのでは意味がない。その点において、「わたくし」系列の一人称代名詞の共存とあい通じるものがある。ただし、待遇表現にかかわる代名詞などと違って、名詞にこういう共存関係が生じることは珍しい。これは、つぎのように考えれば説明がつくであろう。
国家には国威の宣揚とか示威とかいうことが、しばしば必要になることがある。そのためには、国号についても、強めた形があるのはたいへん好都合である。かつては、「大日本帝国」といういかめしい呼び方が行なわれたこともあるが、わざわざそういう言い方をしなくとも、「ニッポン」という語形は、すでに 【Great】 Britainとか「【大】韓民国」とかいう呼称に通じるものを十分に持っているといってよい。Great British という形容詞は使わないようであるし、また大韓民国で使われている言語は「大韓民国語」ではなくて「韓国語」である。同様に、「ニッポン」で使われている公用語も「ニホン語」でいっこうにかまわない。
日本語の独自性
促音の挿入が強めの機能を持つことを右に指摘した。これは、主として和語型の語に当てはまる法則であって、必要に応じて漢語型の語にも適用されることがある。「ニッポン」もその一つであるが、はたして外国人にまでその含みを理解してもらえるかどうかとなると、はなはだ心細い。オリンピックともなれば世界中から選手が集まるから、この点について日本語と同じ対立を持つ言語を使う人たちがいないと断言できないが、ほとんどの人たちは NIPPON という綴りの中の二つの子音連続がどういうことなのかを理解してくれないであろうし、実際に発音してみせても促音を聞きのがすか、または聞き取っても、その語形
(p.217から)
にこめられた勝利への意気ごみまでを感じとってくれそうもない。要するに、NIPPON は日本選手団の士気高揚に役立っても、他国の選手たちに対する示威効果はほとんど期待できないということなのである。個々の音韻はその特定言語の中において機能しているのであって、別の言語には、またそれと別の規則が働いていることを知らなければならない。
以上が四国の高校生に書きたかった手紙の趣旨である。
(p.217終わり。第七章 促音のはたらき 終わり)
([2022年7月20日記す:]
pp.214-215
”
(前略)促音の挿入による強めの効果が働いているからであって、そのために「ニホン」は普通の形、そして「ニッポン」はそれを強めて言った形として対比的に把握されているからにほかならない。
”
これが結論って感じの箇所だな。本書の著者は「ニホン」が普通だと認めている。
大変勉強になる本だ。国語学者の限界を感じるけどね。国号は政治的問題なんだから日本が明治以降欧米の植民地〔少なくとも実質的には]ってことを考えないとダメでしょ。欧化政策ぐらい知っているでしょうに。欧米での日本を意味する単語ってhではなくpだからね。ジャパンなど。フランス語はhを発音しないからフランスには明らかに配慮しているね。欧米人が発音しやすい国号を採用しているのが欧米の支配下の証じゃん。「ニホン」読みが多数派なのにね。「ニッポン」と読めと支配層が強制しようとしても定着しなかったからな。『正式な国号は「ニホン」だが、外国人向けの便宜的な表記では「Nippon」も許容する』ではなく、正式な国号を「ニッポン」のみにしろって強制力がおかしいんだよ。日本銀行券は便宜的表記はダメなので当然 NIHON表記にすべきだ。
以上は今の日本語のハ行が古代はp音だったか否か以前の問題だよ)
(2022年7月21日追加:
撥音も促音も拗音も日本語の音韻として現れるのは平安時代以降なので国号が決まったとされる天武・持統期(飛鳥時代の西暦673-697年)にニッポン読みは実在しない。
「日本」の国号制定が奈良朝の初頭または直前にあたるのでニッポン読みではない可能性が高い。以上のようなことは一切書いていなかったのが気になるな。促音がない時代にニッポンやそれに似た発音をしている人々がいるとするなら、渡来人系だろうな。
上代日本語[奈良時代ごろまでの日本語]に促音がないと確定したのが本書が出た昭和56年[1981年だから30年以上前]より前か後かわからない、とだけは書いておく。調べたらわかりそうだけど労力に見合う成果がなさそうなので私はやらない)
p.249から
第九章 ハ行音の変遷
現代語のハ行子音
ハ行子音は、文献時代以前に両唇破裂音の[p]であったが、すでに奈良時代には両唇摩擦音の[ɸ]になっており、さらに江戸時代に入って声門摩擦音の[h]に変化した。
こういう知識は、高等学校の教科書などにも取り入れられて、いまではかなり広まっている。「母」という語が、もともと[papa]であったということは、英語のpapaとの食い違いという点で素朴な興味をひくし、「春」なども、[paru]の方がいかにも生き生きとしていて、春にふさわしいような気がしないでもない。しかし、ここでもまた、われわれは知識をすなおに受け入れるまえにその根拠を吟味することが必要である。この章では、右にあげた常識を取り上げ、それを掘り下げることによって、ハ行音に関するさまざまの問題を考えてみたい。
〈ハ行子音が[h]になった〉ということは、とりもなおさず、それが〈現在と同じ音になった〉
(ここからp.250)
という意味である。ここで説明が終っているのは、「ハヒフヘホ」のすべての音節についてこれが当てはまるという含みがそこにあるからにほかならない。説明するがわにも説明されるがわにも、五十音図の構成原理がしみついているので、格別の疑問もなしに通過してしまう。
しかし、それぞれの発音にいくらか注意して観察してみればすぐにわかるとおり、ハ行の子音は[h]だけではない。どういう記号をそれにあてるべきかはともかくとして、「ヒ」の子音は明らかに[h]ではないし、「フ」の子音はさらにそのどちらとも違っている。
ハ行子音が過去において両唇摩擦音の[ɸ]【であった】、という表現は、もちろん、そういう発音がすでに失われてしまっていることを意味している。したがって、[ɸ]などという見なれない記号で表わされた音は、どうやって発音してよいのやらわからない、ということにもなりかねない。しかし、その[ɸ]という音は、まぎれもない現代語の「フ」の子音そのものなのである。
ドイツ語では〈私〉のことをichという。発音記号でそれは[iç]と表わされるが、この[ç]という音には ich-Laut(イッヒ・ラウト)、すなわち〈ichの音〉という特別の名称もあり、ドイツ語特有の発音として教えられる。しかし、このich-Lautこそ、現代日本語の「ヒ」の子音なのである。ドイツ語の方が少し摩擦が強いということはあるが、さほどの違いが認められるわけではない。外国語を習っているという意識が強く働いて、なかなかその類似に気付く余裕がないばかりか、ドイツ語特有の難しいich-Lautを、まるで日本語の「ヒ」と同じような発音でごまかしているという、うしろめたさを感じていたりさえする。日本語の「ヒ」は[hi]なのだと思いこんでいるために、
(ここからp.251)
それが結び付かないのである。発音記号に振り回されると、いよいよわからなくなる。
現代語のハ行音が、[ha], [hi], [hu], [he], [ho]ではなく、 [ha], [çi], [ɸu], [he], [ho]と発音されているという事実を、まずはじめにおさえておく必要がある。
いったん、ɸ>h- という音韻変化が完成したあとになって、「フ」一つだけがhu>ɸu という逆戻りをして現在の形になったと考えるのは、いかにも不自然である。ほかのハ行音節の子音が[ɸ]から[h]に変化しても、「フ」だけはそのままに[ɸu]の状態を保ち続けて現在に至ったとみなすべきであろう。すなわち、[ɸ]は唇の音であり、[u]もまた唇の音であるから、[u]が[ɸ]を支えて[hu]に変化しなかったということなのである。
[中略]
filmは「フイルム」または「フィルム」という。また、その中間的な発音も行なわれている。(中略)実際には[film]でなく[ɸirum]になっていることが多いようである。[f]は唇歯音、すなわち、上の歯と下唇とで調音する音であるが、
(ここからp.251)
[ɸi]というときに唇を意識するので、[fi]になっているように感じるためであろう。
現代語の「ヒ」の発音が[hi]ではなく[çi]となっている理由については、どのような説明が可能であろうか。
「ハ」「ヘ」「ホ」と同じようにして[hi]という発音をしてみると、[çi]のような【きしんだ】(【 】は傍点の代役。メモ注)音にならない。 [h]は【のど】の奥で調音されるからである。[ç]の音にともなう【きしみ】は、それが硬口蓋(歯茎より奥の硬い部分、さらにその奥は軟口蓋)で調音されることを表わしている。すなわち、[ç]の方が [h]よりもずっと前の方に寄っているのである。もとになった音が [ɸi]であったとすると、可能性として考えられるのは、つぎのふたとおりの変化のしかたである。
(1) 直接の変化 ɸi>çi
(2) 間接の変化 ɸi>hi>çi
(中略。
以下はp.253)
各地の方言を調査すると、変化の過渡期にあるさまざまの状態を見いだすことができるので、変化の具体的過程を推定することが可能になる。そういう研究を言語地理学、ないし方言地理学という。
p.256
擬声語・擬態語を除いて、日本語には濁音で始まる語がなかった
(
濁音で始まる単語を思いつくだけ列挙してみる。
バラバラ、べちょべちょ、べったり、ぶるぶる、ボロボロ、ドロドロ、ビンビン、ビリビリ、びり、びびり、バン(擬態語)、バーン(擬態語)、バンバン、ごろごろ、ぎゃあぎゃあ、べらべら。
敏感、便乗、ビンタ、馬鹿、馬脚、馬術などの漢語ありなら沢山ある。
和語[外来語以外の日本列島固有語]だとあまり思いつかないな。
濁音ではなく半濁音つまりパ行だとかなり少なくなるんだよな[欧米からの輸入語は除く]。語頭がパ行の漢語って思いつかないな。
パラパラ、ぺったり、ぺたり、ぺったん、ぺたん、ぺっ(唾を吐くなどの音)、ぺこり、ぺこぺこ、ぺんぺん、パッと、パリン、パリーン、パンパン、パン(食べ物ではなく叩く音や銃声)、ぺらぺら(言葉や薄さ)、ぺちゃくちゃ、
パ行。
明らかに少ないな。日本語でパ行の発音は少数派であり主流ではないとよくわかる。
コラム - 「擬音語・擬態語」にはどんな種類がある? -
https://www2.ninjal.ac.jp/Onomatope/column/nihongo_1.html
” 「ごろごろ」「しんなり」などの言葉は,一般に「擬音語・擬態語」または,「擬声語・擬態語」とも呼ばれていますが,これらはそれぞれどう違うのでしょうか。また,日本語の「擬音語・擬態語」にはどんな種類があるでしょうか。「擬音語・擬態語」の呼び名や分類のし方については,これまで多くの研究者がいろいろな名前をつけたり,分類したりしてきましたが,ここでは,金田一(1978)によるものを紹介します。
金田一は,「擬音語・擬態語」を,その意味から細かく5つに分類して,以下のような名前をつけました。
まず,音を表すもののうち,人間や動物の声を表す「擬声語」と,自然界の音や物音を表す「擬音語」に分けました。次に,音ではなく何かの動きや様子を表すもののうち,無生物の状態を表すものを「擬態語」,生物の状態を表すものを「擬容語」とし,そして最後に人の心理状態や痛みなどの感覚を表すものを「擬情語」としました。以下がそれぞれの語例です。
「擬声語」:わんわん,こけこっこー,おぎゃー,げらげら,ぺちゃくちゃ等
「擬音語」:ざあざあ,がちゃん,ごろごろ,ばたーん,どんどん等
「擬態語」:きらきら,つるつる,さらっと,ぐちゃぐちゃ,どんより等
「擬容語」:うろうろ,ふらり,ぐんぐん,ばたばた,のろのろ,ぼうっと等
「擬情語」:いらいら,うっとり,どきり,ずきずき,しんみり,わくわく等
ここで,ある一つの語が,この5つの意味的な分類のうち2つ以上の意味分類にあてはまる場合があります。例えば「どんどん」というオノマトペは,「太鼓をどんどん叩く」というときには,太鼓という物の音を表す「擬音語」ですが,「日本語がどんどん上手になる」という文では,物事の様子を表す「擬態語」になります。また,「ごろごろ」という語は,この5つの意味的分類のすべてにあてはまる意味を持っています。例えば,「猫がごろごろのどをならす」は「擬声語」,「雷がごろごろ鳴る」は「擬音語」です。そして,「丸太がごろごろ転がる」と言えば「擬態語」ですが,「日曜日に家でごろごろしている」の場合には「擬容語」になります。さらに「擬情語」としては,「目にゴミが入ってごろごろする」という用法もあります。このように,一つの語がたくさんの意味と用法を持つことがあるというのも,日本語の「擬音語・擬態語」の特徴だと言えます。
参考文献:金田一(1978)「擬音語・擬態語概説」浅野編『擬音語・擬態語辞典』所収角川書店”)
[7月22日に追加:
ぴいぴい、ぴちぴち、ぴんぴん、ぴかぴか、ぴりぴり、ぱちぱち、
ぴん(名刺ではない。ぴんと伸ばすなど)、ぴくぴく、ぱりぱり、パッ(と)、
ぴた(っと)、ぴっちり、ぺりっ、(お尻)ぺんぺん(三味線を鳴らす音でもある)、
ぺちん、ぺたぺた、パキパキ、ぱたぱた、ぽきん、ぽきぽき、ぽきっ]
p.258
奈良時代の諸文献のうち、音韻史の資料として利用できるのは、ほとんど歌謡や和歌に限られているので、文体上の理由から、擬声語や擬態語のたぐいはきわめて稀である。その中で例外的に顔を出したもののうち、濁音で始まる語として『万葉集』の中につぎの二例が指摘されている。いずれもバ行音である。
(次のページに登場するのが「鼻びしびしに」の「びしびしに」と、
「いぶせくもあるか」の「ぶ(蜂音)」。
p.259では上記を紹介した後で以下のように続く)
数のうえではわずかに二例にすぎないが、和歌の用語上の制約の中にあって偶然に残されてたこれらの語は、奈良時代の擬声語・擬態語に、濁音に始まるものが豊富に存在したことを暗示している。あえていうならば、その状態は現在とさほど違っていなかったと思われる。
p.263
唇音退化というような言語学の術語があって、両唇
(ここから
p.264)
音というものは、唇の緊張がゆるむ方向に不可避的に変化しなければならないかのように、それを理解している人たちがいるように見える。しかし、唇音退化というのは、そういう方向で音韻変化が進行した場合について、結果をそのように呼ぶだけのことであって、決して、音韻変化の必然的方向などというものではない。現に、語頭のバ行音には唇音退化が起こっていない。
[p]か[ɸ]か
すでにこれまでにも、いつの時期のどの音がどうであったかということを、あたかも、それが既定事実ででもあるかのように述べてきたが、音声というものは、それが発音された瞬間に消滅してしまうのであるから、過去の状態を直接に確認できるはずがない。それらはすべて推定である。ある手順に従って過去の言語の発音を理論的に推定することを《再構(reconstruction》という。再構の手順に誤りがあれば、再構された発音は実際と異なってくるし、また、その手順に飛躍があれば、当然、再構の結果に信頼がおけない。音韻には体系があ
(ここからp.265)
り、それぞれの再構は相互依存の関係にあるので、一つの誤りは他へも連鎖的に影響を及ぼすことが多い。こういうわけで、過去における発音について論じる場合には、つねに、そこに示された音がいかなる根拠と手順とにもとづいて再構されたものであるかということへの配慮を忘れてはならない。ハ行音もまた、もちろんその例外ではありえない。
これまでにあげられた諸例の、そのすべてについて吟味を加える余裕はないが、ここでは、p>ɸ>h(ç)という変化のうちでも、はじめの段階が大きな問題なので、その点を中心にまず考えてみることにしよう。
第五章にとり上げた慈覚大師円仁の『在唐記』(八四二)に左の一項がある。
pa
唇
音
、
以
二
本
郷
波
字
音
一
呼
レ
之
、
皆
加
二
唇
音
一
。
(横書きなら、
pa 唇音、以二本郷波字音一呼レ之、皆加二唇音一。
これ、唇音、以2本郷波字音1呼レ之、皆加2唇音1。 と表記したら読みやすいね)
すなわち、[pa]という音節は、日本語の「ハ」に相当するが、それよりももっと唇音らしく発音するというのである。それを逆にとらえれば、[pa]の唇音性を弱めると日本語の「ハ」になるということでもある。サンスクリットの字母は子音だけを単独に表わさないので、[pa]として説明を加えているが、「【皆】加二唇音一」といっているところから知られるとおり、他の母音が付いても、それと同じであったらしい。[pa]の唇音性を弱めた音というのは、[ɸa]ということになるであろう。
『古今和歌集』巻十九にある「誹諧歌」の、その最初に左の和歌が見える。
梅の花 見にこそ来つれ うぐひすの ひとくひとくと いとひしもをる (一〇一一)
(ここから
p.266)
「誹諧歌」とはユーモラスな和歌のことである。
(中略)
〈自分は梅の花を見に来ただけで、別にうぐいすをつかまえようなどというつもりはないのに、うぐいすが、「人が来る、人が来る」といっていやがっている〉ということだけでは、「誹諧歌」としてのおもしろみなど、まったくない。そこで、ここに一つの解釈が提出された(亀井孝)。
小鳥の鳴き声は、小鳥の種類によってさまざまであるが、それを一つで代表させるなら「ピーチク」である。母音を除けば p-t-k となる。「ひとく」とは、まさにこの p-t-k に相当するというのがその解釈である。すなわち、「ピーチク。ピーチク」といううぐいすの鳴き声を「人来、人来」という意味に聞き取ったところに、この和歌のおもしろみがあるというのである。これなら、まさに「誹諧歌」になっている。このように紹介してしまうと、手品の種明かし程度の解釈にすぎないようでもあるが、実は、きわめて示唆に富んだ論証なのである。これに従えば、当時のハ行子音は――、あるいは、少なくとも「ヒ」の子音は――、[p]としてとらえうる範囲の音であったと考えるのが妥当である。
『古今和歌集』の右の歌は詠人知らずとなっているので確実な年代の推定が困難であるが、『在唐記』とさほど隔たらない時期のものとみなしてよいであろう。したがって、当時のハ行音が前
(ここから
p.267)
者によると[p]のはずであり、後者によると[ɸ]でなければならないというのは、いかにも都合が悪い。この矛盾はどのように解決したらよいのであろうか。
たとえば、小鳥の鳴き声は p-t-k ではなく ɸ-t-k としてとらえられていたのではないかと考えてみる。すでに p> ɸ という変化が起きていたのなら、当然、そうでなければならない、という主張がでてくるかもしれない。小鳥の鳴き声それ自体は、日本語の音韻変化と無関係に相違ないが、その聞き取り方が変わったと見るわけである。
ハ行音にそのような変化が起こったことは、すでに一般の常識にまでなっているにもかかわらず、実のところ、 p> ɸ という変化がいつの時期に生じたのかについての裏付けは、なかなか見いだしにくい。この章のはじめに、〈すでに奈良時代には両唇破裂音の[ɸ]になっており……〉という通説を紹介し、そのあとにも、この前提を認めたうえでバ行音のことを考えてみたが、それは、 p> ɸ の変化がいつ起こったにしても、全体の筋道に影響を及ぼさないから、そのままにしておいたまでのことである。中国語に[ɸ]の音はなく、また、p>f;p‘>f‘>f という変化によって[f]を持つようになったのも、ずっと後の時期になってのことであるから、ハ行音を表わす真仮名として用いられた文字の中国原音は[p]または[p‘]であって、いまの場合、手がかりにならない。明らかなのは、ただ、〈奈良時代のハ行子音は中国語の[p]と同じであったか、あるいはそれに近い音であった〉ということだけである。[ɸ]は〈それに近い音〉と認められる範囲内にあったと考えてよいであろう。
(ここから
p.268)
九世紀後半ごろのハ行子音は、[p]であったのか[ɸ]であったのか、あるいは p>ɸ という変化の過渡期にあったのか、その三つの場合のいずれかであった。『在唐記』と『古今和歌集』誹諧歌との食い違いを無理なく説明するためには、第三の場合を想定するのが最も好都合のように見えないでもない。しかし、それにしては、「皆加二唇音一」という『在唐記』のことばが落ち着かない。それは[p]であったと考えても同じことである。では、[ɸ]であったと仮定してみたらどうなるであろうか。
ハ行音の分裂
ハ行子音が p>ɸ という変化を起こしたことは事実であるとしても、その変化が完成して以後、日本語から[pa]とか[pi]とかいう音節が完全に失われてしまったのかどうかが、ここでの最大の問題である。
(中略)擬声語・擬態語の場合には、音声そのものの印象が重要であるから、[batabata]と対をなすのは、どうしても[patapata]でなければならない。濁音の表現効果は、それと【音声的】特徴をもって対をなす清音があって、はじめて発揮できるものなのである。したがって、そのよう
(
p.269)
な語においては、一般の語におけるp>ɸ という変化にひきずられずに[p]が保存されたであろうし、また、もしそうであれば、濁音形とは対をなさない擬声語・擬態語においても、[p]が容易に存続しえたはずである。
このp>ɸ という変化は、唇の緊張をゆるめることによって生じたもので、一般に〈唇音退化〉と呼ばれていることは、さきに述べたとおりである。しかし、それは、緊張をゆるめても支障を生じない条件にある語についてそれが起こったということであって、ゆるめることの許されない語にまでは及ばなかったのである。したがって、実際に起こったのは、p>ɸ という全面的移行ではなく、左図に示すような分裂だったと推定される。通例、このような分裂は、母音間に挟まれるとか、ある種の母音の前に立つとかいう条件、すなわち、音韻論的環境の相違によって生じるものであるが、この場合には語の性質にもとづいているところに大きな特徴が認められる。その意味において、日本語独特といってよいかもしれない。
p――擬声語・擬態語
p<
ɸ――一般語
(後略)
p.270から
[p]が存続した証拠
擬声語・擬態語における[p]の存続については、「ひとくひとく」のほかにも、いくつもの微証をあげることができる。
『落窪物語』には兵部少輔という、馬のように滑稽な顔をした人物が登場する。あだ名は「面白の駒」である。その彼に向かって、「どうして私のところにも、いっこうに顔を見せないのですか」と少将が聞いたところ、彼は、
人の【ほほと笑へば】、はづかしうて (巻二)
と返答している。
(メモ注:さらに
p.270「この兵部少輔に見なしては、え念ぜず(=こらえきれずに)【ほほと笑ふ】中にも、蔵人の少将は、はなばなと物笑ひする人にて、笑ふこと限りなし。 (巻二)」を引用して、どのように笑ったのかについて論じている)
p.271
この兵部少輔なる人物は、よほどおかしな顔をしている。人の顔を見て笑ったりしてはいけないことぐらい、常識のある人間ならだれしも十分に心得ているが、それにもかかわらず、どうにも我慢できずに、「ほほ」と笑ってしまうのである。この「ほほ」とは(中略)「プッ、プッ」と吹き出してしまうことなのである。「え念ぜず」という言い方が生きている。蔵人の少将が無遠慮に大笑いするのとは対照的である。「ポッ」と吹き出すよりも、「プッ」と吹き出す方が現代語の感じからすると自然なので、この部分も「ふふと笑ふ」とあれば、いっそうわかりやすいかもしれないが、どちらにしても、結局、同じことである。
(後略)
p.272
(①『宇治拾遺物語』(巻一)「一度に【はと】笑ひたる」(第五話)、
②『大鏡』の「道隆」の条「【はと】一度に笑ひたりし声」、
③『枕草子』「【ほうほう】と投げ入れ」(うちとくまじきもの)を引用し論じている。
①は、〈ぱっと笑った〉すなわち、〈どっと笑った〉。
②は①の説明の補足としての実例。「は」は擬声語でなく擬態語。
③[pompom]を表わしているとみなしてよいであろう)
(中略)
p.273
(前略)
以上の諸事実を総合するならば、それらの語における語頭の[p]が p>ɸ という音韻変化と関係なく、継続的に存在したことは明らかである。
(後略)
p.274
[p]が[ ɸ]に移行したこと自体は、唇音退化として説明可能である。
(中略)
音素は語の識別に役立つ音の単位である。(中略)定義からそうなるのが当然のことながら、同一音素を構成する異音間には、このような対立関係が成立しない。[p]が[p]と[ɸ]とに分裂したその初期の段階においては、これらの対立によって語が識別されるようなことはなかったであろう。『古今和歌集』の誹諧歌において、鳥の鳴き声の[pitoku]と、「人来」という意味の[ɸitoku]とがかけことばになっているのは、「ひとく」という仮名がきが両者に共通しており、かけことばは、仮名のレヴェルにおける技巧なのであるから、それをもって[p]と[ɸ]との音韻論的関係までを論じるのは妥当でない。仮名に清濁の書き分けがないので、かけことばでは、その違いさえも無視されているのである。
(後略)
p.275
(前略)
漢語の[p]
「人品」「折半」「分配」「突風」……のように、現代語では鼻音や入声音のあとに続く漢字音形態素が、[p]の形をとってあらわれる。和語型の場合と異なり、漢字音には濁音に始まるものが豊富にあるので、下位要素が濁っていても、本来の濁音なのか連濁によるものなのかが明らかでない。
(後略)
p.276
(前略)
ハ行で写される漢字音の頭子音は、中国原音において、無気音の[p]、および有気音の[p‘]であった。
(後略)
(中略)
p.282
(前略)本来は、ハ行音とともに、バ行音に対する清音としての役割りを分担していたが、濁音が受け持つべき領域にまで部分的に手を広げてしまったために、性格づけが難しくなってきたわけである。半濁音という名称それ自体は、ある意味で、うってつけのようでもあるが、そこまで見通しての命名ではないし、むしろ、かえって誤解を招きやすい。なお、ハ行の仮名の右肩に小さな「゜」を付して、「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」のようにそれを示す方式は、切支丹文献に始まるとされているが、ポルトガル人宣教師たちによる独創的な表記というわけではなく、当時の文献に見える不濁点、すなわち、濁ってはならない仮名の右肩に付
(ここからp.283)
けた「゜」印、の転用ということなのであろう。その意味においては、清音と同列にとらえられているということができる。
三者の関係
ハ行子音が両唇破裂音の[p]から両唇摩擦音の[ɸ]に移行したにもかかわらず、バ行子音が両唇破裂音の[b]のままであり続けたのは、そこになんらかの支えがあったためと考えなければならない――。こういう観点からその候補として浮かび上がってきたのがパ行子音の[p]であった。ある時期に、ハ行子音の[p]がすべて[ɸ]に移行したのではなく、[p]が[ɸ]と[p]とに分裂したのである。機能上の要請として破裂音の状態を維持する必要のあった擬態語・擬声語のそれを[p]のままに残して[ɸ]に移行したといってもよい。
(後略)
(このp.283で 第九章 ハ行音の変遷 は終わる)
p.291
【いろは】四十七字の仮名は、その成立当時において、すべて読み方が違っていたし、また、これら以外に、ほかの読み方をする仮名はなかった。
p.307
切支丹文献
(前略)一五九三年、天草で刊行された『エソポの寓話集』(ESOPONO FABVLAS)から、その冒頭の一部を抜き出してみよう。
(中略。ここから
p.310)
⑦fuxiguina――不思議な。
(中略)
ハ行子音は一貫してfで表記されている。この範囲にも左の諸例が指摘できるが、fu, fe は、たまたま出てこない。
人 fito 瞳 fitomi 頬 f[oの上に^] 腹 fara 腫れ fare
豊原統秋の『体源抄」(一五一二年)に、つぎのようにあることが、この当時におけるハ行音の発音を知るうえでの重要な手がかりとして指摘されている。
ナゾダテニ曰、母ニハ二度アフテ、父ニハ一度モアハズ クチビルトトク
「ハハ」(または「ハワ」)というときには唇が二度合い、「チチ」というときには唇が一度も合わないというのである。ポルトガル語のfは、本来、唇歯音を表わすが、これによって、「母」は[ɸaɸa]または[ɸawa]であったことが知られる。
本書のメモは以上。
(変換で出ない記号を使うために活用したのが以下)
国際音声記号の文字一覧 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%97%E4%B8%80%E8%A6%A7
山口謠司『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社)
日本語を作った男
上田万年とその時代
2016年2月29日 第一刷発行
はじめに
p.3
我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、「作られた」日本語である。
(メモ者注:メモは横書きである。本書は縦書きであるから1900年は一九〇〇年と表記されている。しかし、意味は変わらないし、読みにくいので漢数字をアラビア数字に改めてある。ダッシュ記号や伸ばす記号と見間違いそうだからなのと、メモ時間の短縮のためだ)
p.4から
万年は、言文一致を行なおうとして旗を振った。
本書では、読みやすさを優先するために、旧漢字はすべて常用漢字に直し、また漢字カタカナ交じり文も、必要なものを除いて、すべて漢字ひらがな交じり文に直した。さらに、旧仮名遣いも現行の仮名遣いに直してある。
p.20
この明治四十一(1908)年を境に、日本語は、確実に、大きく変わろうとしていた。
上田万年たちは、ふつうに話して、できるだけ多くの日本人が分かる日本語を「国語」として、分かりやすい発音主体の「新仮名遣い」で書かれた新しい教科書を作ろうとしたのである。
日本語の変化の波をだれも抑えることはできない。
漱石は、これから十年、胃を悪くしながら新しい日本語という波の先頭に立って言語表現を行っていく。そして万年や芳賀は、これを支えるように日本語の歴史的研究や児童教育のための唱歌の制作などにも関わっていく。
結局、これからほぼ四十年後、戦後昭和二十一(1946)年の「現代かなづかい」が告示されるまで、万年たちの夢の実現は待たなければならなかった。
さて、漱石による「吾輩ハ猫デアル」が現れるまでの日本語、あるいは「国語」とはどのようなものだったのであろうか。
p.197
グリム童話で知られるドイツのおとぎ話は、ヤーコプとヴィルヘルムというグリム兄弟によって編纂されたものであるが、じつは、この二人はドイツ文献学、言語学の専門家であった。とくに兄のヤーコプは1819年に『ドイツ語文典』を著したが、十一年後にはこれを全面的に改訂したものを出版する。
この改訂は、書信での交流もあったラスクの影響を受けたためで、改訂版の第一巻には「文学論」が新しく書き足されている。
p.198
そして、この改訂版には「文字論」に加えて、上田万年にも大きな影響を与えることになる「音韻推移(グリムの法則)」と呼ばれるものが記されるのである。
「グリムの法則」の代表的なものについてだけ記そう。実際の発音を意味するものではなく、ある言語の音声を音韻論的に考察して得られた単位となる音素は//で記される。
たとえば、印欧祖語の無声閉鎖音/p/ /t/ /k/は、ゲルマン語では無声摩擦音の/f/ /th/ /h/になる。
たとえば、サンスクリット語、古代ギリシャ語、ラテン語では「父」を表す言葉はそれぞれpitar、pater、paterであるが、これがドイツ語、英語、デンマーク語、オランダ語のゲルマン語になるとVater、father、Far、vaderに変化する。ドイツ語、オランダ語の表記では「v」で書かれるが、実際の
(ここから
p.199)
発音はいずれも「f」である。ゲルマン祖語は、こうした例によって*fadērが導き出される(語の前の*は理論上の推定であることを示す)。
pp.198-199
”
そして、この改訂版には「文字論」に加えて、上田万年にも大きな影響を与えることになる「音韻推移(グリムの法則)」と呼ばれるものが記されるのである。
「グリムの法則」の代表的なものについてだけ記そう。実際の発音を意味するものではなく、ある言語の音声を音韻論的に考察して得られた単位となる音素は//で記される。
たとえば、印欧祖語の無声閉鎖音/p/ /t/ /k/は、ゲルマン語では無声摩擦音の/f/ /th/ /h/になる。
たとえば、サンスクリット語、古代ギリシャ語、ラテン語では「父」を表す言葉はそれぞれpitar、pater、paterであるが、これがドイツ語、英語、デンマーク語、オランダ語のゲルマン語になるとVater、father、Far、vaderに変化する。ドイツ語、オランダ語の表記では「v」で書かれるが、実際の発音はいずれも「f」である。ゲルマン祖語は、こうした例によって*fadērが導き出される(語の前の*は理論上の推定であることを示す)。
”
(上記をメモ[基本的に本の写しだが、誤りがないか確認していなかったり、要約したりする]ではなく引用したのは「pからfに発音が変化する」法則の箇所だから。万年はこれを根拠の1つにしてP音考を書いたんだな)
p.200
万年はこの「グリムの法則」を用いて、明治三十一年、留学から帰国して四年後に、「P音考」という日本語学史上画期的な論文を発表する。
pp.299-303 「母」は「パパ」だった――「P音考」
(メモ者注:原文の引用箇所は省略)
この論文は、本居宣長が、古代日本語にはP(パピプペポ)ではじまる言葉がなかったと言ったことをそのまま信じる和学者を批判する攻撃的な筆致で書き出される。
(「音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非[えせ]学者」について)
まさに、ラスクやグリムが指摘した、書かれた文字は必ずしも実際の発音を反映しているものではない、ということが、日本語に当てはめても言えることを、述べたものであろう。
古代日本語は「針」「光」「箸」「骨」などすべて「P」で発音されていたものであった。だからこそ、アイヌ語で「P」で書かれるのだという。
万年は、上古の日本語では「はひふへほ」が「パ・ピ・プ・ペ・ポ」と発音されていて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」となり、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」と変化したと言うのである。
もちろん、この説は、現在では正しい学説として認知されている。まさにグリムの法則に従って、万国語に共通して現れる現象だからである。
(pからfの発音に変わることをグリムが書いたことが根拠の一つなので著者はこう書いているのだろう)
メモは以上。
[2024年7月6日に追加:
第8回 なぜ「グリムの法則」が英語史上重要なのか
https://www.kenkyusha.co.jp/uploads/history_of_english/series/s08.html
”グリムの法則とは,紀元前1000~400年頃にゲルマン語派に生じたとされる一連の子音変化に付された名前です.これに先立つ時代に,印欧祖語はいくつかの語派へと分岐していましたが,そのなかでゲルマン語派へ連なる経路において,上記のタイミングでこの変化が生じたとされます.別の言い方をすれば,ゲルマン語派が発達していく過程で固有に生じた変化であり,印欧語族の他の語派,例えばイタリック語派やケルト語派やスラヴ語派には無縁の変化です.
「グリムの法則」という名前について触れておきましょう.そもそも,なぜ「法則」と呼ばれるのでしょうか,印欧諸語のルーツや相互関係を明らかにしようとしていた19世紀の言語学者たちは,言語における発音の変化がつねに規則的であり,例外がないことに気づきました.彼らは数々の事例研究によりその確信を深め,ついに「音韻法則に例外なし」と宣言するに至りました.音変化は,彼らにとって法則 (law) そのものとなったのです.
次に,なぜ「グリム」なのでしょうか.それは,この音変化(=法則)を体系的に提示した人物がヤーコプ・グリム(Jacob Grimm [1785-1863年])というドイツの言語学者だったからです.彼は『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄その人であり,実は本職は言語学者でした.ドイツ語辞典を編纂し,ドイツ語文法書を著わすほどの専門家でした.グリムは,1822年に改版したドイツ語文法書のなかで,問題の音変化を定式化しました.実のところ,この音変化は先立つ1818年に,デンマークの言語学者ラスムス・ラスクによって発見されていましたが,グリムはその一連の変化が互いに独立して生じた現象ではなく,音声学的に一貫した性質を示し,決まった順序をもち,他の音変化にもみられる原理を内包していることを明確に提示したのです.後にグリムの功績が評価され,「グリムの法則」という名前が与えられることになりました.なお,グリムの法則は,それと密接な関係にあるもう1つの「ヴェルネルの法則」と合わせて「第1次ゲルマン子音推移」と称されます.
3 グリムの法則とは
では,グリムの法則そのものの解説に移りましょう.詳しく理解するには音声学の知識が必要となりますが,ここではなるべく専門的になりすぎないように概説していきます.
グリムの法則の示す一連の子音変化は,印欧祖語の「閉鎖音」の系列に生じました.閉鎖音とは,口の中のどこかで呼気を一度せきとめ,それを勢いよく開け放つときに発せられる子音です.具体的にいえば,下の左側の表で示したように,印欧祖語における9つの子音に作用しました(これらの音は理論的に再建されたものなので,言語学の慣習に従って * を付します).
[表省略。
印欧祖語の唇音p(無気・無声・閉鎖音)
→ゲルマン祖語の唇音f(無気・無声・摩擦音)]
この表で隣り合う行や列どうしは,発音の方法や発音に用いる器官が互いに僅かに異なっているにすぎず,音声学的には類似した音とされます.例えば,表を縦方向に見てみると,bh(ブフ)と b(ブ)の違いは,h で表わされる空気の漏れがあるかないか(帯気音と無気音)の違いだけであり,ぞんざいな発音では区別が曖昧になる場合もあったでしょう.同様に,b と p の対立は,英語にも日本語にもありますので,私たちには明確に異なる音と感じられますが,実は声帯が震えるか否か(有声音と無声音)の違いにすぎず,口構えや呼気の止め方などは完全に同一です.さらに p と f の違いについていえば,呼気を両唇で完全に止めて破裂させるのか,あるいは両唇(あるいは下唇と歯)のあいだに僅かな隙間を空けて,そこへ呼気を通すのか(閉鎖音と摩擦音)という違いです.つまり,唇の閉鎖の程度という問題にすぎません.
さらに,表の横方向の違い,例えば p と t と k の違いも,音声学的にはそれほど大きいものではありません.まったく異なる3音に思われるかもしれませんが,発音の方法は同一であり,用いる発音器官が異なっているにすぎません.p は両唇を合わせる「唇音」,t は歯や歯茎と舌を合わせる「歯音」,k は口蓋の後部と舌の後部を合わせる「軟口蓋音」と呼ばれます.
このように,子音というものは,表の形できれいに整理されるほど体系的なものです.それゆえに,子音が変化するときにも,しばしば体系的な変化のパターンを示します.上掲の右側の表は,グリムの法則を通り抜けた後,結果として生じたゲルマン祖語の子音体系を示します(なお,最下行真ん中の þ は th 音,すなわち [θ] を表わします).
左右の表を比べてみれば,何が起こったかは明らかでしょう.グリムの法則とは,印欧祖語の各行の音がすぐ下の行の音へと規則正しくシフトした変化を指すのです.変化の仕方が体系的であることは一目瞭然です.
では,変化の順序はどうだったのでしょうか.3行すべてが「イッセーノーセ」で1つ下の行へシフトしたわけではなく,おそらく最下行から順番にシフトしたと考えられています.つまり,まず印欧祖語の最下行 *p *t *k が,それぞれ *f *þ *h へ変化したとされます(閉鎖音の摩擦音化).音変化は一律かつ規則的に作用するので,今や印欧祖語のあらゆる単語に現われていたすべての *p *t *k は例外なく *f * þ *h に置き換わったことになります.この時点で,*p *t *k はこの言語から消えました.次に,真ん中の行の *b *d *g が今や空席となった *p *t *k のスロットを埋めるかのごとく,そこへ移動してきました(有声音の無声音化).そして最後に,最上行の *bh *dh *gh が今や空席となった *b *d *g のスロットを埋めるかのごとく,移動してきたというわけです(帯気音の無気音化).
もちろん,このシフトは一夜にして起こったわけではなく,数世代という期間を経てゆっくりと進行しましたので,当該の話者たちは自分たちの発音がこのように変化していることに気づきすらしなかったでしょう.古今東西,音変化というものはたいてい無意識に生じるものです.それでいて一律かつ規則的に生じるというのは実に不思議なことのように思われますが,むしろ無意識だからこそ,音変化はそのような体系的な振る舞いを示すのだと考えたほうがよいでしょう.
4 ラテン語やフランス語からの借用語
前節で,グリムの法則の示す一連の音変化を音声学的に解説しました.しかし,約2500年も前にこの変化が生じたことはわかったとしても,それがいかにして現代英語の理解を深めてくれるというのでしょうか.
グリムの法則はゲルマン語派において一律かつ規則的に生じた音変化なので,後にそこから分化した英語,ドイツ語,オランダ語などのゲルマン諸語には,その痕跡が確認されるはずです.例えば,印欧祖語の段階で *p をもっていたすべての単語において,その *p はゲルマン諸語では f になっていると予想されます.確かに,その後の個々の言語の歴史において他の音変化を経るなどして,グリムの法則の効果が見えにくくなっている場合もありますし,問題の単語が死語となり消えていった例も多々あります.しかし,原則として,この予想はみごとに的中します.
ここで思い起こすべきことは,グリムの法則はゲルマン語派においてのみ生じたという点です.この変化は,印欧語族の他の語派では生じていません.例えば,イタリック語派に属するラテン語やフランス語では,(各々の言語で後に生じた他の音変化に巻き込まれていない限り)印欧祖語の *p は相変わらず p のまま残っていることになります.かりに印欧祖語に同一の語源をもつ英語とフランス語の対応語ペアを横に並べてみると,英語の f に対してフランス語の p がきれいに対応するはずです.事実,語頭子音だけに注目すれば,英語 father に対してフランス語 père,fish に対して poisson,foot に対して pied というように,英語の f 対フランス語の p という対応は明らかです.
”
「グリムの法則とは,紀元前1000~400年頃にゲルマン語派に生じたとされる一連の子音変化に付された名前です.これに先立つ時代に,印欧祖語はいくつかの語派へと分岐していましたが,そのなかでゲルマン語派へ連なる経路において,上記のタイミングでこの変化が生じたとされます.別の言い方をすれば,ゲルマン語派が発達していく過程で固有に生じた変化であり,印欧語族の他の語派,例えばイタリック語派やケルト語派やスラヴ語派には無縁の変化です.」
「グリムの法則はゲルマン語派においてのみ生じたという点です.この変化は,印欧語族の他の語派では生じていません.」
なので、日本語の「p→f」説の根拠に使っちゃ駄目だな。漢字の音で判断しないとね。
日本大学
書評 山口謠司『日本語を作った男 上田万年とその時代』
(集英社インターナショナル 2016 年) 柴 田 秀 一*
Journalism & Media No.11 March 2018
https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/journalism/journalism_11/each/20.pdf
”もう四十数年前の事だった。第二次大戦中の疎開の様子がテレビ画面から流れていた。その当時の、勿論白黒のフィルムで、蒸気機関車が着いた駅の名が平仮名で書かれていたのに、中学生の私
は何処の駅名だか分からなかった。「ふふか」いや、この時代右から読んだ筈だ。すると「かふ
ふ」。どこの事だろう。
駅は「甲府」であった。ひらがなだと「かふふ」と書く。「甲」は文字で書くと「かふ」とな
る。「ましょう」は「ませう」と書いた。「文字として書く言葉」と、「喋る言葉の音」が何故昔は
違っていたのか。「旧仮名遣い」である。どうしてそんなに面倒臭い、分かりにくいことを終戦までずっとやっていたのかと感じた瞬間だった。そして高校生となって文学史の時間に「言文一致」
運動を知った。運動を広めた小説家の二葉亭四迷、坪内逍遥、山田美妙、尾崎紅葉・・・。
本書はそういう人達が執筆活動をした時代に、日本語を言文一致で国家として統一することに奔走した日本人初めての博言学(言語学)者である上田万年(うえだ・かずとし 1867~1937 年)の
生きた明治の時代を描いた、言文一致運動の記録である。と同時に、明治時代に言葉を記した書物
の出版と流通の様子を記したメディア史の本でもある。
(中略)
*しばた しゅういち 日本大学法学部新聞学科 教授
(中略)
【明治の国作りと言葉作り】
「舞姫」「高瀬舟」等を著し、立派な八の字の鼻髭を蓄えた陸軍の森凜太郎(鴎外)医学博士(46)
が、1908(M41)年「臨時仮名遣調査委員会」第 4 回会合で、2 時間に亘り言文一致に反対する演
説をぶったところから本書は始まる。「鴎外」は当時、仮名では「あうぐあい」と書いた。だれの名前か分からない。鴎外はゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1792~1832)のことを「ギヨオテ」と書いた。
「ギヨエテとは俺の事かとゲーテ云い」との「変な表記」の代表のような川柳を覚えていたが、万年の憧れた斎藤緑雨が(1)鴎外を揶揄した言葉として本書中後半に出てくる。
日本語を記すには、明治時代は大きく分けて 3 通りの方法があった。平安時代から通じる「和文脈」、それまで公文で使われていた「漢文訓読体(漢文訓読体に間に和語を加えた雅俗折衷体もあ
る)」と「言文一致体」である。
何故、明治時代「喋る言葉」と「書く言葉」が一緒になった方が良かったのかを著者は、明治維新=近代国家への道として、分かり易く書く。
「方言改良論」(1888・M21 年 青田 節 あおた・せつ著)のエピソードを引いて、「東京から福島に行く汽車内で、青田のほかには英国人と仙台出身の女性がいた。仙台出身の女性の話す言葉(方言)は全く理解できず、それに対し、英国人とは少しばかり英語ができるだけで話が通じた」という。東京の人間は同じ日本なのに東北の方言が全く理解できず。わずかな英語の知識で外国人のほうに話が通じるという、なんとも笑えない状況だった。
では、江戸時代、参勤交代で来ていた大名同士は意思が通じたのか、江戸城に行って言葉が分かったのか。それは、共通の教養として「能楽」を嗜んでいたからで、それは候文(そうろうぶん)で記されており、彼らには共通する分かる言葉があったのだ。ところが市井の人には共通語がなく容易に意思の疎通が図れなかった。もし軍隊で兵に命令する隊長の言葉が分らなければ、統率が取れない。
近代国家、中央集権国家として国が発展するためには、言葉の統一が不可欠であった。
【外国人から日本語を習う、そして留学、国家主義の言語】
上田万年は東大で、いわゆる「お雇い」英国人のバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850~1935)から博言学(現在の言語学)を学ぶ最初の日本人となるヂェンバレンは日本人の学生に日本語文法を教えた。外国人に日本語を教わるのは、滑稽ともとられるが、当時日本には比較言語学などもない。チェンバレンは 11 か国語を習得した語学の天才であり、「古事記」の英訳をしたことで知られるが、アイヌ語の研究もし、アイヌ語が完全に独立した言葉で日本
語とは同系統の言葉ではないと書き、このことは後にアイヌの研究をする金田一京助(1882~1971)もその説に誤りがないと明らかにしている。
そうした優秀な師から教えを受けた万年は、政府の命で 1890(M23)年から 1894(M27)年ドイツに留学する。大日本帝国の国語の創設と博言学的な日本語研究の推進という二つの目的を持
ち、ベルリンで研究をした。
ドイツでは大出版社(ノーベル文学賞受賞作家を 3 人出した S・フィッシャー)が出来、印刷・
出版が文化の形成に大きな役割を果たしていた。また、そこで万年は、国家と国の言葉の統一が必
要との考えを持つ。それは、ドイツが鉄血宰相ビスマルクによって領土を拡大し、その間「ドイツ
語浄化運動」と呼ばれる母国語の統一活動をし、ゲーテや、日本人には「ベートーヴェン交響曲第
9 番合唱付き」の歌詞で良く知られるシラー(Johann Christoph Friedrich von Shiller ヨハン=クリストフ=フリードリヒ=フォン=シラー 1759~1805)達がそれを広めた。そうした歴史の後
にドイツ留学をした万年は言語が国家をつくり、その言語の統一を見ることが必要であると考え
た。フランスでも同じように言語の統一が図られていた。
今であれば、多様化、グローバル化の世の中であるが、明治時代にはこうした国粋主義的思想は
ごく普通に考えられ、急進的な人たちもまたいた。
果たして、万年の帰国後 3 年の 1900(M33)年、文部省はこれまであった、「読書」「作文」「習字」の 3 つをまとめて「国語」という科目を作る。著者は、まさに「朝廷─幕府─藩」という旧体
制を脱して「大日本帝国」という国家の体制が「国家」「国民」「国語」という新しい次元に変化し
たことを意味するものでもあったと述べている。
【言文一致と新しい仮名遣いに向けての努力】
1897(M22)年、万年は「国字改良会」を発足させ、「国家こそが言語に責任をもって対処する
べき」との主張を展開する。
万年は古代日本語では「はひふへほ」が「パピプペポ」と発音されて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」になり「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」に変化したとの説を比較言語学の立場から述べた。これは、のちに万年の最も大きな記念碑的論考となる。
そして、更に 1900(M33)年 3 月「言文一致会」を作り、万年は「卒業」を「そつぎょー」、「入学」を「にゅーがく」と「ー」のばす音、長音符(音引きともいう)のルビを初めてふった。
この長音符を含む字音仮名遣いは 1900(M33)年、文部省が小学校令施行規則で定めた字音仮名遣い表で使われている。「ちゅう、ちゃう、てう、てふ」はすべて「ちょー」とするという。
これには漢文の素養のある人たちは反対した。つまり漢字によって「灯」は「チャウ」、「召」は「テウ」、「蝶」は「テフ」ときちんと書き分けてきたのだと合理性を主張する。
更に、1903(M35)年文部省内に「国語調査委員会」が設置される。万年が描いていた「国語会
議」の具現化であった。その後、新旧仮名遣い対照表が発表されると、今よりもっと言文一致が進
んでいて、「仮名遣いの改訂わ、国語教育の重大な問題である」と主格の「は」はすべて発音と一
致して「わ」と書かれていたのだ。
こうして、文部省は、国語の仮名遣いを発音主義で改定することを決め、手続きが行われ、高等教育会議で賛成多数で可決された。これで、新仮名遣いは、教科書に載る手筈であったが、文部省
参事官をはじめ、枢密院、貴族院に反対者が出た為、時の牧野文相は西園寺首相と相談し「臨時仮名遣調査委員会」を設置し直し討論が行われた。その第 4 回、上田万年が司会をした回が本書の書
き出し(序章)で、万年が言文一致の字音仮名遣いを通そうとしていた会議での森林太郎・鴎外の
新字音仮名遣いの反対論の演説なのであった。
この委員会では賛成、反対あり委員会としてどちらに決するという空気ではなかったにもかかわ
らず、政府は委員会に対する諮問を撤回し、新仮名遣いではなく旧仮名遣いに戻す決定をした。こ
こに言文一致の仮名遣いの改訂はとん挫したのである。
(中略)
上田万年とその時代との副題の通り、木版刷りの瓦版や浮世絵が発達したため、日本では金属活
字導入が遅れたという特殊事情と、古くから日本橋にそうした木版の出版・書店があったが、銀座
の大火で版木ごと燃えてしまい、専門学校等が多くあった神田神保町に新書店が移ってきた事など
メディア史の一端を見る興味深い事柄が書かれている。
また、1890(M23)年 帝国議会開催で議事録をとる為、日本独自の速記開発されそれが、録音
機などない時に落語の芸を書きとることに役立ち、更には、言文一致に窮した二葉亭四迷が坪内逍遥に相談に行くと、坪内は三遊亭円朝(1839~1900 年)の落語通りにやってみたらいい。と言ったという。それで速記起こしの文章のように書いたので、実は言文一致のルーツは意外にも落語であった。だが、知識人たちの和文(和歌、古典)でもなく、公文の漢文書き下しでもない、誰が聞いても分かる表現であったから笑えるのは至極当然のことで、意味が分からなければ笑いも起きない訳なのだ。
万年の主張通り明治時代後半に言文一致が確実に行われていれば、どうであったろうか。
小職は、新聞協会にある用語懇談会で 10 年ほど幹事を務めていたが、戦後も外来語の字音主義が統一されていないのに苦労した。「ウオツカ」「マネジャー」「パーカ」「コンピュータ」はそれぞれ「ウォッカ」または「ウオッカ」「マネージャー」「パーカー」「コンピュター」としか言ってい
ないではないかと数年間協議して、ようやく用語集の改訂が認められた覚えがある。この時も本書
中にある「ギヨエテとは・・・」の川柳を引き合いに出して字音主義をとるべく説得したのだが、簡単にはいかなかった。活字は一字でも少なく表現したいという意見も根強かった。
言葉は移ろいやすいものであるが、意識的に変えようとすると時間と労力がかかるものであるのは万年の 100 分の 1 の努力もしていない小職にも少しは理解できる。
( 1 ) 斎藤緑雨 (1867~1904 年)「東西新聞」「今日新聞」「萬朝報(よろずちょうほう)」等新聞ジャーナリズムを渡り歩いた。戯文批評に才筆を振るい文壇人を辛辣に揶揄・批判した。(日本百科全書ニッポニカより抄)
著者 山口謠司(やまぐち ようじ)大東文化大学准教授 博士(中国学)
1963 年長崎生まれ 大東文化大学卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研
究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究院などを経て、現職。専門は中国及び
日本の文献学。「ん 日本語最後の謎に挑む」(新潮新書)、「てんてん 日本語究極の謎に迫る(角川選書)」、「となりの漱石」(ディスカバー携書)
”
「ヂェンバレンは日本人の学生に日本語文法を教えた。」は原文ママ。
三遊亭円朝が思わぬところで大きな影響を与えている。
https://x.com/shinrekishikan/status/1671056437488009216
”新歴史観ブックス
@shinrekishikan
6月20日は何があった日?
1887年(明治20年)の今日、二葉亭四迷(画像)の長篇小説『浮雲』の第一篇が刊行されました。
同作は日本で初めて日常に用いられる話し言葉に近い口語体による『言文一致体』の小説。四迷は執筆にあたり当時人気だった落語家の初代三遊亭圓朝の落語を参考にしたそうです。
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午後4:24 · 2023年6月20日·208 件の表示”
https://x.com/NAKAOKA_2009/status/1805836090231996617
”中岡潤一郎
@NAKAOKA_2009
櫻庭由起子「落語速記はいかに文学を変えたか」。言文一致の文章を構築するにあたって、演芸速記がいかに大きな影響を与えたかを軽妙な文体で記している。言文一致の文章を構築するにあたって、さまざまな試行錯誤があったこともまとめてあって、興味深かった。
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午後2:30 · 2024年6月26日
·696 件の表示”
余が言文一致の由來
二葉亭四迷
https://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/901_16059.html
” もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。
自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。
(中略)
自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいゝ。併し擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。日本語でも、侍る的のものは已に一生涯の役目を終つたものであるから使はない。
”
https://x.com/6161kurota/status/1336809152312557568
”黒太
@6161kurota
初代三遊亭圓朝(1839-1900)が、このグリム童話を元に落語「死神」を翻案。さらには圓朝の『牡丹燈籠』口述筆記本が、二葉亭四迷『浮雲』や現代まで続いている言文一致体(書き言葉≒話し言葉)運動に多大な影響を与えた凄い人です。あじゃらかもくれん、あるじぇりあ、てけれっつのパ!
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引用
青空文庫新着情報
@aozoranow
2020年12月10日
グリム ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール/グリム ヴィルヘルム・カール:死神の名づけ親(第一...: びんぼうな男が、子どもを十二人もっていました。それで、その子どもたちにパンをたべさせるために、男は、い… https://ift.tt/2KcOpP6 青空文庫 #青空文庫
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午前8:05 · 2020年12月10日”
死神の名づけ親(第一話)
ヤーコップ、ウィルヘルム・グリム Jacob u. Wilhelm Grimm
金田鬼一訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/60030_72302.html
https://x.com/yahachi3/status/1160637613503422464
”命日の本棚
@yahachi3
三遊亭圓朝(1900年8月11日没)
その名人ぶりを妬まれ、出番の前に同じ演目をやられるという嫌がらせを受けた圓朝は、対策として多くの新作落語を創作した。それが新聞に筆記掲載され、二葉亭四迷『浮雲』の文体に大きな影響を与えた。言文一致へ。落語中興の祖は文学界変革の礎でもあった。61歳没。
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午前4:42 · 2019年8月12日”
https://x.com/Bunmei_bungaku/status/1293058845678243841
”群馬県立土屋文明記念文学館
@Bunmei_bungaku
【圓朝忌】
本日は初代三遊亭圓朝の命日です。
落語の口述筆記によって明治の言文一致運動に大きな影響を与えた圓朝は、日本近代文学史における最重要人物の一人です。
圓朝の噺は怪談が有名ですが、『塩原太助一代記』『後開榛名の梅が香』『霧隠伊香保湯煙』など、群馬が舞台のものもあるんですよ!
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午後2:37 · 2020年8月11日
”
2024年7月6日の追加ここまで]
[2024年8月14日に追加:
「ん」という平仮名はもともと無かった!
https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=185
”私たちは子供の頃から「ん」は平仮名として認識していました。ですが、古い時代の日本では漢字仮名交じり文は公式の場では使わない日本語表記だったんです。そのため、平安時代前半に平仮名が成立しても600文字くらいの仮名が使われていました。
しかし、そこには「ん」という文字はあっても、今のような発音はしていませんでした。時代は仮名が発明された時代よりも下がり、室町時代の「東寺百合文書」の中に「たまかき書状」という文書があります。
[中略]
ここには、「にんき」「しゅんけ」と書いて「にっき(日記)」「しゅっけ(出家)」を意味する言葉で出てきます。
[中略]
あくまで、私的な書状(手紙)の中ですが、詰まって発音する促音便の場所を示す記号として「ん」が使われていることがわかります。そうすると、「ん」は音便を表わすところに使用されていますので、今私たちが「ん」と読んでいる文字は、もう一つの撥音便の記号として使われたのかもしれませんね。
ただ、『高野切』や『枡色紙』などの平安時代の仮名の古筆では、和歌の終わりに良く出てくる「~かも」などの「も」に、「ん」の字を当てている例が数多くあります。また、鎌倉時代以降の例では、「ん」を「む」と読むべきところに出てきます(下の文書など)。「ん」を仮名文字の「も」や「む」と読ませている例も多く存在しています。
[中略]
これらの例から考えると、現在の「ん」は、撥音便を表わす記号の可能性と、「む」と発音すべき文字のところを、撥音便になるべきか所に「ん」を用いたかのどちらかということになるでしょう。どちらが正しいと言うことでもなく、ひょっとしたら、両方が融合して今の「ん」になっていたことも考えられます。「ん」一つでこんなことも考えられますので、中世の日本語を探る上でも重要な資料になっていますので、興味のある方はこのWEBで全点公開していますので、是非いろいろお読みください。
(土橋 誠:歴史資料課)
”
「ん」とはいったい何者なのか。どこからやってきたのか。かつてはなかった日本語「ん」の奥深い歴史 | ダ・ヴィンチWeb<
更新日:2017/11/14
https://ddnavi.com/news/310934/a/
”(前略)
実は「ん」という文字はかつて日本語にはなかったらしい。少なくとも『古事記』や『日本書紀』『万葉集』など上代の書物に「ん」を書き表す文字が見当たらないという。では、「ん」とはいったい何者なのか。どこからやってきたのか。そのミステリーを解き明かすのが、『ん 日本語最後の謎に挑む』(山口謠司/新潮社)である。本書を読むと、普段いかに「ん」をナメていたのかがよくわかる。
「ん」は言葉によって発音が違う?
まず疑問に思うのは、文字がなければ「ん」という発音もなかったのかということである。その答えはNO。唐の文化を盛んに取り入れていた当時の日本としては、漢字に「安(アン)」や「万(マン)」などいくらでも「ン」と発音するものがあるのに、「ン」を発音できないなんてことはなかっただろう、というのが本書の見解である。では、文字にできない「ン」の音をどうやって書き表したのか。私たちが英語を習うとき単語の発音をカタカナで書いていたように、当時の日本人も中国語を習うにあたりフリガナを付けていたはずだ。
その説明の前に、みなさんはお気づきだろうか? 「ん」は言葉によって発音が違うことに。例えば、「案内」と「案外」。「案」の「ん」は、前者の場合口の中の前方で発音している。一方、後者は喉に近いところで発音している。本書によると、当時の日本人はこれらをきちんと聞き分け、主に次の3種類の発音を行っていたそうだ。
●「舌内撥音(ぜつないはつおん)」(―n)
口内から流れ出る音を、舌を使って止める。
●「喉内撥音(こうないはつおん)」(―ŋ)
喉の奥から鼻にかけて息を抜くように発音。
●「唇内撥音(しんないはつおん)」(―m)
上下の唇を閉じて、前の音がこの唇の部分で閉鎖されたもの。
おそらく、「案内」の「ん」は「舌内撥音」、「案外」の「ん」は「喉内撥音」だと思われる。
話は元に戻るが、「舌内撥音」は「ニ」、「喉内撥音」は「イ」、「唇内撥音」は「ム」と表記することが多かった。ほかにも「レ」「リ」「ゝ」などなど、古い書物に先人たちの試行錯誤の跡が見られるらしい。こうして文字の表記の必要性に迫られた結果、生み出されたのが「ん」という新たな文字である。
空海がインドの仏典から学んだ「吽」がヒントに
さて、ではいつ、誰が「ん」を生み出したのだろう? この歴史的大発明に関わったのが、真言宗を打ち立てた空海。中国語にも「ン」だけを表す文字はなかったが、804年に遣唐使として中国に渡った空海は、インドのサンスクリット語で書かれたオリジナルの仏典を学び、「ン」を書き表せる文字を持ち帰った。それが「吽」である。ただし、これは世界が「阿」で始まり「吽」で終わるという思想を表そうとしたもので、空海も「ン」と書こうとしても「ニ」としか書けなかったとか。
仏教を通して生まれた「ん」は、平安時代から江戸時代にかけて庶民の間でも広まった。江戸時代には本居宣長や上田秋成らによって盛んに研究され、さらに明治以降も研究者たちによる日本語研究の結果、現在のところカタカナの「ン」が現存する最古の例が1058年の『法華経』、ひらがな「ん」の初出は1120年の『古今和歌集』といわれている。
今では当たり前のように表記し、発音している「ん」。優れた耳の持ち主は「ん」のみで10種類以上の音の違いを聞き分けているという研究報告も。
(後略)
” ※着色は引用者
(山口謠司は要注意人物であることに注意。なのでもっと調べる必要あり)
三内撥音尾(さんないはつおんび)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%86%85%E6%92%A5%E9%9F%B3%E5%B0%BE-2044392
”さんない‐はつおんび【三内撥音尾】
〘 名詞 〙 古代の日本の韻学で、中国字音の韻尾を、喉内・舌内・唇内の三つの発音部位(これを三内という)によって分類した呼称で、すなわち、ng・n・mのこと。ngで終わるのを喉内撥音尾、nで終わるのを舌内撥音尾、mで終わるのを唇内撥音尾という。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
”
撥音(ハツオン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%92%A5%E9%9F%B3-114897
”
撥音
はつおん
「はねる音」ともいう。「どんな」「シンブン」のように、今日、平仮名「ん」、片仮名「ン」で表記する音韻。記号《N》で示される。実際の発音を音声学的にみると、後続する子音の違いに応じて、[m](p,b,mが後続)、[n](t,d,n,rが後続)、[ŋ](k,g,ŋが後続)、[【注:「u」の上に「ノ」みたいな線](a,o,uなどが後続)などに分かれる。歴史的にみると、本来日本語にはなく、一つは漢字音として、一つは和語の音便として、平安時代以後に日本語の音韻体系のなかに定着したものである。平安後期から院政期の文献では、漢字音の唇内撥音-mを有する字は「金(キム)」「森(シム)」のように仮名「ム」で、舌内撥音-nを有する字は「民(ミン)」「文(ブン)」のように仮名「ン」で、それぞれ表記し分けられている。和語の音便でも、「件(クダ)ンノ」「何(ナ)ンゾ」のように「リ」や「ニ」からの撥音便は「ン」、「摘ムダル」「選ムデ」のように「ミ」や「ビ」からの撥音便は「ム」で表記し分けられている。これは、当時、音韻として唇内撥音≪-m≫と舌内撥音≪-n≫とを区別していたことを物語るもので、のち鎌倉時代に入ってその区別が失われ、今日に至ったと考えられる。
[沼本克明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
” ※着色は引用者
橋本進吉 国語音韻の変遷
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/377_46838.html
”二 第一期の音韻
第一期は奈良朝を下限とする各時代である。当時は文字としては漢字のみが用いられたので、当時の音韻の状態を知るべき根本資料としては、漢字をもって日本語の音を写したものだけである。そうしてかような資料は、西紀三世紀の頃の『魏書』をはじめとして、支那歴代の史書や、日本の上代の金石文などの中にもあるけれども、それらはいずれも分量が少なく或る一時代の音韻全般にわたってこれを知ることは出来ない。奈良朝にいたって、はじめてかような資料が比較的豊富に得られるのであるから、第一期の音韻を研究しようとするには、どうしても先ず奈良朝のものについてその時代の音韻組織を明らかにし、これを基礎として、それ以前の時代に溯るのほかないのである。
一 奈良朝の音韻組織
奈良朝時代の文献の中に、国語の音を漢字(万葉仮名)で写したものを見るに、同じ語はいつも同じ文字で書いているのではなく、種々の違った文字をもって写している。例えば、「妹」という語は「伊毛」とも「伊母」とも「以母」「移母」「異母」「伊慕」「伊茂」「伊暮」とも書いている。同じ語の音の形はいつも同じであったと思われるから(もっとも、活用する語にはいくつかの違った形があるが、それでも、その一つ一つの活用形は、いつも同じ形である)、これを写した万葉仮名は、いろいろ文字が違っていても、皆同じ音を表わすものと認められる。すなわち、当時は、その音(読み方)が同じであれば、どんな文字をもって国語の音を写してもよかったのである。そうして、右の「妹」という語は、二つの文字で書いてあるのを見れば、その音の形は二つの部分から成立っているのであって、その初の部分は「伊」「以」「移」「異」のような種々の文字で書かれ、後の部分は「母」「毛」「慕」「茂」「暮」のような文字で書かれているから、「伊」「以」「移」「異」は皆同じ音を表わす同類の仮名であり、「母」「毛」「慕」「茂」「暮」も、また同じ音を表わす同類の仮名であって、しかも「伊」の類と「母」の類とは、その間に共通の文字が全くない故、それぞれ違った音を表わしたものと認められる。
かような調査を、あらゆる語について行うと、当時用いられた万葉仮名のどの文字はどの文字と同音であるかが見出され、一切の万葉仮名をそれぞれ同音を表わすいくつかの類にわけることが出来るようになる。かような万葉仮名の類別こそ、当時の音韻の状態を知るべき基礎となるものであって、その類の一つ一つは、それぞれ当時の人々が互いに違った音として言いわけ聞きわけた一つ一つの音を代表し、その総体が当時の国語の音韻組織を示すものとなるのである。
(略)
かように、万葉仮名に基づいて推定し得た奈良朝時代の国語の音韻はすべて八十七である。その一つ一つを表わす万葉仮名の各類を、その類に属する文字の一つ(ここでは『古事記』に最も多く用いられている文字)によって代表せしめ、且つ後世の仮名のこれに相当するものと対照して示すと次のようである。
[#ここから2段組み]
(略)
波 は 婆 ば
比┐ 毘┐
├ ひ ├ び
斐┘ 備┘
布 ふ 夫 ぶ
幣┐ 辨┐
├ へ ├ べ
閇┘ 倍┘
富 ほ 煩 ぼ
(注:ぱぴぷぺぽの項目がない。
略)
和 わ
韋 ゐ
恵 ゑ
袁 を
(注:「ん」がない。
略)
奈良朝においては、以上八十七の音が区別され、当時の言語は、これらの諸音から成立っていたのであるが、それでは、これらの諸音の奈良朝における実際の発音はどんなであったかというに、これは到底直接に知ることは出来ないのであって、種々の方面から攻究した結果を綜合して推定するのほかない。それにはこれらの音を表わす為に用いられた万葉仮名が古代支那においてどう発音せられたか(勿論その万葉仮名は、漢字の字音をもって国語の音を写したものに限る。訓によって国語の音を写したものは関係がない)、これらの音が後の時代にいかなる音になっていたか、これらの音に相当する音が現代の諸方言においてどんな音として存在するか、これらの音がいかなる他の音と相通じて用いられたかなどを研究しなければならないが、今は、かような研究の手続を述べる暇がない故、ただ結果だけを述べるに止める。その場合に、奈良朝の諸音を、当時の万葉仮名によって「阿」の音(「阿」の類の万葉仮名によって表わされた音の意味)、「伊」の音など呼ぶのが正当であるが、上述のごとく、当時の諸音は、それぞれ後世の伊呂波の仮名で書きわけられる一つ一つの音に相当するものが多く、そうでないものでも、当時の二つの音が、後の一つの仮名に相当する故、奈良朝の「阿」の音、「伊」の音を、「あ」の仮名にあたる音、「い」の仮名にあたる音ということが出来るのであって、その方が理解しやすかろうと思われるから、そういう風に呼ぶことにしたい。そうして、五十音図は後に出来たものであるけれども、五十音図で同行または同段に属する仮名に相当する奈良朝の諸音は、その実際の発音を研究した結果、やはり互いに共通の単音をもっていたことが推定せられる故、説明の便宜上、行または段の名をも用いることとした。
「あ」「い」「う」「え」「お」に相当する諸音は、大体現代語と同じく、皆母音であってaiueoの音であったらしい。ただし、「え」に相当する当時の音は「愛」の類と「延」の類と二つにわかれているが、そのうち、「愛」の類は母音のeあり、「延」の類はこれに子音の加わった「イェ」(ye、yは音声記号では〔j〕)であって、五十音図によれば、「愛」はア行の「え」にあたり「延」はヤ行の「え」に当る。(このことは、これらの音に宛てた万葉仮名の支那・朝鮮における字音からも、また、ア行活用の「得」が「愛」の音であり、ヤ行活用の「見え」「消え」「聞え」等の語尾「え」が「延」の音であることからも推測出来る。)
以上、「あ」「い」「う」「お」にあたる音および「え」にあたる音の一つは母音から成立つものであるが、その他の音は子音の次に母音が合して出来たものと認められる。まず、初の子音について考えると、カ行、タ行、ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行の仮名にあたる諸音は、それらの仮名の現代の発音と同じく、それぞれk t n m y r wのような子音で初まる音であったろうと思われる。
(略)
また「つ」は現代語のようなツ(tsu、tsはタ行の子音tと、サソなどの子音sとの合したもの)でなくしてtu(独逸語などの発音。仮名ではトゥ)であったと考えられる。またヤ行には、前に述べた「延」の音(ye)が加わり、ワ行には、現代語にない「ゐ」「ゑ」「を」にあたる音(wiwewo)があったのである。
(略)
ハ行の子音は、現代ではhであるが、方言によってはFであって「は」「ひ」「へ」をファフィフェと発音するところがある。更に西南諸島の方言では、p音になっているところがある(「花」をパナ、舟をプニなど)。ハ行の仮名にあたる音を写した万葉仮名の古代漢字音を見るに、皆pphfなどで初まる音であって、h音で初まるものはない故、古代においては今日の発音とは異なり、今日の方言に見るようなpまたはFの音であったと考えられる。音変化として見れば、pからFに変ずるのが普通であって、その逆は考え難いから、ハ行の子音はp→Fと変化したものと思われるが、奈良朝においては、どうであったかというに、平安朝から室町時代までは、Fであったと認むべき根拠があるから、その直前の奈良朝においても多分F音であったろうと思われる。すなわちファフィフゥフェフォなど発音したであろう。そうしてハ行の仮名は、後世では、語の中間および末尾にあるものは「はひふへほ」をワイウエオと発音するが(「いは」「いへ」「かほ」など)、奈良朝においては語のいかなる位置にあっても、同様に発音したものである。
(略)
三 連音上の法則
(一) 語頭音に関しては、我が国の上代には、ラ行音および濁音は語頭音には用いられないというきまりがあった。古来の国語においてラ行音ではじまるあらゆる語について見るに、それはすべて漢語かまたは西洋語から入ったもので、本来の日本語と考えられるものは一つもない。これは、本来我が国にはラ行音ではじまる語はなかったので、すなわち、ラ行音は語頭音としては用いられなかったのである。また、濁音ではじまる語も、漢語か西洋語か、さもなければ、後世に語形を変じて濁音ではじまるようになったものである(例えば、「何処」の意味の「どこ」は、「いづこ」から出た「いどこ」の「い」が脱落して出来たもの、「誰」を意味する「だれ」は、もと「たれ」であったのが、「どれ」などに類推して「だれ」となったもの、薔薇の「ばら」は、「いばら」から転じて出来たものである。)これも、濁音ではじまる語は本来の日本語にはなかったので、濁音は語頭音には用いられなかったのである。しかしながら、漢字は古くから我が国に入っていたのであって、我が国ではその字音を学んだであろうし、殊に、藤原朝の頃からは支那人が音博士として支那語を教えたのであるから、漢字音としてI音や濁音ではじまる音を学んだであろうが、しかし、それは外国語であって、有識者は正しい発音をしたとしても、普通の国民は多分正しく発音することが出来なかったであろうと思われ、一般には、なお右のような語頭音の法則は行われたであろうと思われる。
また、アイウエオのごとき母音一つで成立つ音は語頭以外に来ることはなかった。ただし、イとウには例外がある。しかしそれは「かい(橈)」「まうく(設)」「まうす(申)」のごとき二、三の語と、ヤ行上二段の語尾の場合とだけで、極めて少数である。
(二) 語尾音については、特別の制限はなかったようである。しかし、当時の諸音はすべて母音で終る音であって、後世の「ん」のような子音だけで成立つ音はなかったから、語尾はすべて母音で終っていたのであって、子音で終るものはなかった。支那語にはmnngやptkのような子音で終る音があり、日本人もこれを学んだのであるが、しかしこれは外国語としての発音であって一般に用いられたものではなく、普通には漢語を用いる場合にも、その下に母音を加えてmをmuまたはmi、nをniまたはnuなどのように発音したのであろうと思われる。(万葉仮名として用いた漢字において、mで終る「南」「瞻」「覧」をナム(またはナミ)、セミ、ラムに宛て、kで終る「福」「莫」「作」「楽」を、フク、マク、サク、ラクに宛て、nで終る「散」「干」「郡」をサニ、カニ、クニに宛てたなどを見てもそう考えられる)。
(三) 語が複合する時の音転化としては連濁がある。下の語の最初の音が濁音になるのである(「妻問」「愛妻」「香妙」「羽裹」「草葉」など)。この例は甚だ多いけれども、同じ語にはいつも連濁があらわれるというのでもなく、いかなる場合に連濁が起るかという確かなきまりはまだ見出されない。あるいは、もっと古い時代には規則正しく行われたが、奈良朝頃にはただ慣例ある語だけに行われたものであったろうか。
次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。
エ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に転ずる(竹―たかむら、天―あまぐも、船―ふなのり)
イ段の仮名にあたる音がオ段にあたる音に(木―木の実、火―火の秀―※(「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49))
イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神―神ながら、身―身実、月―月夜)
オ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に(白―白髭)
エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。(例えば、「け」に当るのは「気」の音と「祁」の音であるが、カに転ずるのは「気」の音だけで、「祁」の音は転じない。)
しかし、右のような音のある語は常に複合語において音が転ずるのでもなく、全く転じない語もあって、その間の区別はわからない。想うにかように転ずるのは、ずっと古い時代に起った音変化の結果かと思われるが、その径路は今明らかでない。奈良朝においても、その結果だけが襲用されたもので多分に形式化したものであったろう。そうして同じ語でもこの例に従わぬ場合も多少見えるのは、このきまりが、奈良朝において既に守られなくなり始めていたことを示すものであろう。
次に、複合する下の語の語頭音が母音一つから成る音(アイウエオ)である時、その音が上の語の語尾音と合して一音となることがある(荒磯―ありそ、尾の上―をのへ、我が家―わぎへ、漕ぎ出で―こぎで)。これは、語頭の母音と語尾音の終の母音と二つの母音が並んであらわれる場合にその内の一つが脱落したので、古代語において母音がつづいてあらわれるのを避ける傾向があったことを示すものである。「にあり」「てあり」「といふ」が、「なり」「たり」「とふ」となるのも同様の現象である。「我は思ふ」「我はや餓ぬ」など連語においても、これと同種の現象がある。かようなことは当時は比較的自由に行われたらしい。
三 第二期の音韻
平安朝の初から、室町時代(安士桃山時代をも含ませて)の終にいたる約八百年の間である。この間の音韻の状態を明らかにすべき根本資料としては、平安朝初期には万葉仮名で書かれたものがかなりあるが、各時代を通じては主として平仮名で書かれたものであって、この期の諸音韻は、大抵は平仮名・片仮名で代表させることが出来る。そうして、平安朝初期に作られその盛時まで世に行われた「あめつち」の頌文(四十八字)およびその後これに代って用いられた「いろは」歌(四十七字)が、不完全ながらもその当時の音韻組織を代表するものであった。しかるに、この仮名は初のうちは相当正しく音韻を表わしたであろうが、院政・鎌倉時代から室町時代と次第に音韻が変化して行った間に、仮名と音韻との間に不一致を来し、仮名が必ずしも正しく音韻を代表しない場合が生じた。ところが、幸に外国人が、外国の文字で表音的に当時の日本語を写したものがあって、その闕陥を補うことが出来る。支那人が漢字で日本語を書いたものと西洋人がローマ字で日本語を写したものとが、その重なものであるが、支那人のものは鎌倉時代のものも多少あるが、室町時代のものはかなり多い。しかし漢字の性質上、その時代の発音を知るにかなりの困難を伴う。西洋人のは、室町末期に日本に来た宣教師の作ったもので、日本語について十分の観察をして当時の標準的音韻を葡萄牙式のローマ字綴で写したものであるから、信憑するに足り、且つ各音の性質も大概明らかであって、当時の音韻状態を知るべき絶好の資料である。
一 第二期における音韻の変遷
第二期の終なる室町末期の京都語を中心とした国語の音韻組織は、大体右の資料によって推定せられるので、これを第一期の終なる奈良朝の音韻と比較して得た差異は、大抵第二期において生じた音変化の結果と認めてよかろうから、その変化がいつ、いかにして生じたかを考察すれば、第二期における音韻変遷の大体を知り得るであろう。
(一) 奈良朝時代の諸音の中、二音が後の仮名一つに相当するものは、「え」の仮名にあたるものを除くほかは、すべて、平安朝初期においては、その一つが他の一つと同音になり、その間の区別がなくなってしまった。そうしてその音は、これにあたる仮名の後世の発音と同じ音に帰したらしい(ただしその中、「ひ」「へ」にあたるものはフィフェとなった)。かようにして、「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の一つ一つに相当する二音が、それぞれ一音を減じて、これらの仮名がそれぞれ一音を代表するようになった。この傾向は奈良朝末期から既にあらわれていたが、平安朝にいたって完全に変化したのである。
(略)
(六) 平安朝において、音便といわれる音変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音がイ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで、キ→イ(「築墻」がツイガキ、「少キ人」がチヒサイヒト、「先立ち」がサイダチとなった類)ギ→イ(「序」がツイデ、「花ヤギ給へる」が「ハナヤイタマヘル」など)、ミ→ム(「かみさし」がカムザシ、「涙」がナンダ、「摘みたる」がツンダルの類。このムはmまたはこれに近い音と認められる)、リ→ン(「盛りなり」がサカナリ、「成りぬ」がナムヌなど。「サカナリ」はサカンナリである。ンの仮名を書かなかったのである)、チ→促音(「発ちて」がタテ、「有ちて」がタモテとなる。ただし促音は書きあらわしてない)。ニ→ン(「死にし子」がシジ子、「如何に」がイカンなど)などは平安朝初期からあり、ミ→ウ(「首」がカウベ、「髪際」がカウギハ)ム→ウ(「竜胆」がリウダウ、「林檎」がリウゴウ)、ヒ→ウ(「弟」がオトウト、「夫」がヲウト、「喚ばひて」がヨバウテ、「酔ひて」がヱウテなど)ク→ウ(「格子」がカウシ、「口惜しく」がクチヲシウなど)はこれについで古く、シ→イ(「落しつ」がオトイツ、「おぼしめして」がオボシメイテなど)ル→ン(「あるめり」「ざるなり」「あるべきかな」が、アンメリ、ザンナリ、アンベイカナとなる類)ビ→ウ(「商人」がアキウド、「呼びて」がヨウデなど)なども平安朝中期には見え、ビ→ム(「喚びて」がヨムデ、「商人」がアキムド)、リ→促音(「因りて」がヨテ、「欲りす」がホス、「有りし」がアシ。促音は記号がない故、書きあらわされていない)、ヒ→促音(「冀ひて」がネガテ、「掩ひて」がオホテ)、グ→ウ(「藁沓」がワラウヅ)などは院政時代からあらわれている。その他「まゐで」がマウデとなり(ヰ→ウ)、「とり出」がトウデ(リ→ウ)となった類もある。かように変化した形は鎌倉時代以後口語には盛に用いられたのであって、それがため、室町時代には動詞の連用形が助詞「て」助動詞「たり」「つ」などにつづく場合には口語では常に変化した形のみを用いるようになり、また、助動詞「む」「らむ」も「う」「ろう」の形になった。
音便によって生じた音は右のごとくイ・ウ・ン及び促音であるが、そのうちイ及びウは、これまでも普通の国語の音として存在したものである。ただし、ミ・ム及びビから変じて出来たウは、文字では「う」と書かれているが、純粋のウでなく、鼻音を帯びたウの音で、今のデンワ(電話)のン音と同種のものであったろうと思われる。さすれば一種のン音と見るべきもので、音としては音便によって出来た他の「ん」と同種のものであろう(ンはmnngまたは鼻母音一つで成立つ音である)。ただ、「う」と書かれたものの大部分は、後に鼻音を脱却して純粋のウ音になったが、そうでないものは、後までもン音として残っただけの相違であろう。とにかく、かようなン音は、国語の音韻としてはこれまでなかったのが、音便によって発生して、平安朝頃から新しく国語に用いられるようになったのである。また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。
(七) 支那における漢字の正しい発音としてはmnngのような鼻音やptkで終るものいわゆる入声音があった。しかしこれは漢字の正式の読み方として我が国に伝わったのであって、古くから日本語に入った漢語においては、もっと日本化した音になっていたであろうが、しかし正しい漢文を学ぶものには、この支那の正しい読方が平安朝に入っても伝わっていた。しかるにその後支那との公の交通が絶えて、漢語の知識が不確かになると共に、発音も少しずつ変化して、院政時代から鎌倉時代になると、次第にそのmとnとの区別がなくなって「ン」音に帰し(「覧」「三」「点」などの語尾mが「賛」「天」などの語尾nと同じくn音になった)、またngはウまたはイの音になり(「上」「東」「康」などの語尾ウ、「平」「青」などの語尾イは、もとngである)、入声の語尾のpはフ、kはクまたはキになり、tは呉音ではチになったが、漢音ではtの発音を保存したようである(仮名ではツと書かれているが実際はtと発音したらしい)。そうして平安朝以後、漢語が次第に多く国語中に用いられたので、以上のような漢語の発音が国語の中に入り、ために、語尾における「ん」音(nと発音した。しかし後には多少変化したかも知れない)や、語尾における促音ともいうべき入声のt音が国語の音に加わるにいたった。
(八) 漢語には、国語にないキャキュキョのごとき拗音が、ア行ヤ行ワ行以外の五十音の各行(清濁とも)にわたってあり、クヮ(kwa)ク※[#小書き片仮名ヰ、163-1](kwi「帰」「貴」などの音)ク※[#小書き片仮名ヱ、163-1](kwe「花」「化」などの音)およびグヮグ※[#小書き片仮名ヰ、163-2]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-2]などの拗音があったが、これらは第一期まではまだ外国式の音と考えられたであろうが、平安朝以後、漢語が多く平生に用いられるに従って国語の音に加わるようになった。ただし、ク※[#小書き片仮名ヰ、163-4]ク※[#小書き片仮名ヱ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヰ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-4]は鎌倉時代以後、漸次キ・ケ・ギ・ゲに変じて消失した。
(九) パピプペポの音は、奈良朝においては多分正常な音韻としては存在しなかったであろう、しかるに、漢語においては、入声音またはンにつづくハ行音はパピプペポの音であったものと思われる(「一遍」「匹夫」「法被」「近辺」など)。かような漢語が平安朝以後、国語中に用いられるようになりまた一方純粋の国語でも、「あはれ」「もはら」を強めていった「あつぱれ」「もつぱら」などの形が平生に用いられるようになって、パ行音が国語の音韻の中に入った。
(略)
以上の(二)および(四)の音変化の結果、もと直音であったものが新たに拗音となり、拗音を有する語が多くなった。
(略)
二 連音上の法則の変遷
(一) 第一期においては語頭音として用いられなかったラ行音および濁音は、多くの漢語の国語化または音変化の結果、語頭にも用いられるようになった。
ハ行音はこの期を通じてその子音はFであったが、そのうち語頭以外のものはワ行音と同音に帰したため、語頭にのみ用いられることとなった。
母音一つで成立つ音の中、語頭以外に用いられないものはアだけとなった。
パ行音は語頭には用いられない(パット、ポッポト、ポンポンのような擬声語は別である)。ただし、室町末期に国語に入った西洋語(主として吉利支丹宗門の名目)にはパ行を語頭にも用いたらしい。
m音が語頭に立つものが出来た(「馬」「梅」など)。このm音はンと同種のものであるが、ン音はこの場合以外には語頭に立つことはない。
(二) 語尾音にはン音や入声のt音も用いられることとなった。「万」「鈴」「筆」Fit「鉄」tetなど。
(三) 語の複合の際に起る連濁および転韻は行われたが、従来例のある語にのみ限られたようである。
また語と語との間の母音の脱落による音の合体は、平安朝にも助詞と動詞「あり」との間に起って、「ぞあり」から「ざり」、「こそあれ」から「こされ」、「もあり」から「まり」などの形を生じ、更に後には、「にこそあるなれ」「にこそあんめれ」から「ごさんなれ」「ごさんめれ」などを生じたが、第一期のように自由には行われなかった。
或る語が「ん」で終る語の次に来て複合する時、その語の頭音が、
ア行音ワ行音であるものはナ行音となる(「恩愛」オンナイ、「難有」ナンヌ、「仁和」ニンナ、「輪廻」リンネ、「因縁」インネン、「顔淵」ガンネン。ただし「ん」がm音であったものはマ行音となる。「三位」サンミ。
ヤ行音であるものはナ行拗音となる。「権輿」ケンニョ、「山野」サンニャ、「専要」センニョー。
ハ行音であるものはパ行音となる。「門派」モンパ、「返報」ヘンパウ。ただしかような場合に連濁によってバ行音になるものもある。「三遍」サンベン、「三杯」サンバイ。
漢語において、上の語の終が入声である時は、
入声の語尾キ・ク(もとk)はカ行音の前では促音となる。「悪口」akkō「敵国」tekkoku
入声の語尾フ(もとp)はカ行サ行タ行ハ行音の前では促音となる。そのハ行音は同時にパ行音となる。「法体」はfottai「合す」gassu「立夏」rikka「十方」jippǒ 「法被」fappi
入声の語尾tは、
ア行ヤ行ワ行音の前では促音となり次の音はタ行音に変ずる。「闕腋」ket-eki→ketteki「発意」fot-i→fotti「八音」fat-in→fattin
カ行サ行タ行音の前では促音となる。「別体」bettai「出世」shut-she→shusshe「悉皆」shit-kai→shikkai
ハ行音の前では促音となり同時にハ行音はパ行音となる。「実否」jit-fu→jippu
以上は漢語の、支那における発音に基づいたものであって、勿論多少日本化しているのであろうが、多分平安朝以来用い来ったものであろう。中に、ンあるいは入声tの次のア行ヤ行ワ行音がナ行音(またはマ行音)あるいはタ行音に変ずるのは、上のn(またはm)あるいはt音が長くなってそれが次の音と合体したためであって、かような音転化を連声という。かような現象は、漢語にのみ見られたのであるが、後には、助詞「は」および「を」がン音または入声のtで終る語に接する場合にも起ることとなって、その場合には「は」「を」は「ナ」「ノ」「タ」「ト」と発音することが一般に行われたようである。(「門は」「門を」は「モンナ」「モンノ」となり、「実は」「実を」は「ジッタ」「ジット」となった)
四 第三期の音韻
第三期は江戸初期から今日に至る三百三四十年間である。その下限なる現代語の音韻は現に我々が用いているもので、直接にこれを観察して知ることが出来る。過去のものは、仮名で書かれた文献が主要なる資料であるが、そのほかに朝鮮人が諺文で写したものもあり、西洋人の日本語学書や日本人の西洋語学書などには羅馬字で日本語を写したものがある。また、仮名遣や音曲関係書や、韻学書などにも有力な資料がある。
第二期の下限である室町末期の音韻を現代語の音韻と比較して、第三期の中にいかなる変遷があったかを知ることが出来るわけであるが、現代の標準語は東京語式のものであるに対して、第一期第二期を通じて変遷の跡をたどり得べきものは大和あるいは京都の言語を中心とした中央語であって、その後身たる現代の言語は、東京語ではなく京都語ないし近畿の方言であるから、これと比較して変遷を考えなければならない。
(略)
五 国語音韻変化の概観
以上、日本の中央の言語を中心として、今日に至るまで千二、三百年の間に国語音韻の上に起った変遷の重なるものについて略述したのであるが、これらの変遷を通じて見られる重なる傾向について見れば、
(一) 奈良朝の音韻を今日のと比較して見るに、変化した所も相当に多いが、しかし今日まで大体変化しないと見られる音もかなり多いのであって、概していえば、その間の変化はさほど甚しくはない。
(二) 従来、古代においては多くの音韻があり、後にいたってその数を減じたという風に考えられていたが、それは「い」「ろ」「は」等の一つ一つの仮名であらわされる音韻だけのことであって、新たに国語の音として加わりまたは後に変化して生じた拗音や長音のような、二つまたは三つの仮名で表わされる音をも考慮に入れると、音韻の総数は、大体において後代の方が多くなったといわなければならない。
(三) 音韻変化の真の原因を明らかにすることは困難であるが、我が国語音韻の変遷には、母音の連音上の性質に由来するものが多いように思われる。我が国では、古くから母音一つで成立つ音は語頭には立つが語中または語尾には立たないのを原則とする。これは、連続した音の中で、母音と母音とが直接に接することを嫌ったのである。それ故、古くは複合語においてのみならず、連語においてさえ、母音の直前に他の母音が来る場合には、その一方を省いてしまう傾向があったのである。その後国語の音変化によって一語中の二つの母音が続くものが出来、または母音が二つ続いた外国語(漢語)が国語中に用いられるようになると、遂にはその二つの母音が合体して一つの長音になったなども、同じ傾向のあらわれである。我が国で拗音になった漢字音は、支那では多くは母音が続いたもの(例えばkia kua mia io)であるが、これが我が国に入って遂に拗音(kya kwa mya ryoなど)になったのも、やはり同種の変化と見ることが出来ようと思う。そうして今日のように、どんな母音でも自由に語中語尾に来ることが出来るようになったのは第三期江戸時代以後らしい。かように見来たれば、右のような母音の連音上の性質は、かなり根強かったもので、それがために、従来なかったような多くの新しい音が出来たのである。
(四) 唇音退化の傾向は国語音韻変遷上の著しい現象である。ハ行音の変遷において見られるpからFへ、Fからhへの変化は、唇の合せ方が次第に弱く少なくなって遂に全くなくなったのであり、語中語尾のハ行音がワ行音と同音となったのは唇の合せ方が少なくなったのであり、ヰヱ音がイエ音になり、また近世に、クヮグヮ音がカガ音になったのも、「お」「を」が多分woからoになったろうと思われるのも、みな唇の運動が減退してなくなったに基づく。かように非常に古い時代から近世までも、同じ方向の音変化が行われたのである。
(五) 外国語の国語への輸入が音韻に及ぼした影響としては、漢語の国語化によって、拗音や促音やパ行音や入声のtやン音のような、当時の国語には絶無ではなかったにしても、正常の音としては認められなかった音が加わり、またラ行音や濁音が語頭に立つようになった。また西洋語を輸入したために、パ行音が語頭にも、その他の位置にも自由に用いられるようになった。
音便と漢語との関係は、容易に断定を下し難いが、多少とも漢語の音の影響を受けたことはあろうと思う。
(六) 従来の我が国の学者は日本の古代の音韻を単純なものと考えるものが多く、五十音を神代以来のものであると説いた者さえある。しかるに我々が、その時の音韻組織を大体推定し得る最古の時代である奈良朝においては、八十七または八十八の音を区別したのであって、その中から濁音を除いても、なお六十ないし六十一の音があったのである。それらの音の内部構造は、まだ明らかでないものもあるが、これらの音を構成している母音は、五十音におけるがごとく五種だけでなく、もっと多かったか、さもなければ、各音は一つの母音かまたは一つの子音と一つの母音で成立つものばかりでなく、なお、少なくとも二つの子音と一つの母音または一つの子音と二つの母音から成立つものがあったと考えるほかないのであって、音を構成する単音の種類または音の構造が、これまで考えられていたよりも、もっと多様複雑になるのである。これらの音が平安朝においては濁音二十を除いて四十八音から四十七音、更に四十四音と次第に減少し、音の構造も、大体五種の母音と九種の子音を基礎として、母音一つか、または子音一つと母音一つから構成せられるようになって、前代よりも単純化したのである。この傾向から察すると、逆にずっと古い時代に溯れば、音の種類ももっと多く、音を構成する単音の種類や、音の構造も、なお一層多様複雑であったのではあるまいか、すなわち、我々の知り得る最古の時代の音韻組織は、それよりずっと古い時代の種々の音韻が、永い年月の間に次第に統一せられ単純化せられた結果ではあるまいかと考えられるのである。
底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
1950(昭和25)年
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※本作品の入力作業には、前記の底本とは別に、福井大学教育地域科学部の岡島様よりご提供いただいた電子テキスト(このテキストは旧表記で、「国語音韻の変遷」『国語と国文学』昭和十三年十月特別号1938.10.1を底本としています)を利用させていただきました。
” ※着色は引用者
以下の「馬声蜂音石花蜘蟵」は「イブセクモ」とルビがふってある。
駒のいななき - 橋本進吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/396_21658.html
”「兵馬の権」とか「弓馬の家」とかいう語もあるほど、遠い昔から軍事の要具とせられている勇ましい馬の鳴声は、「お馬ヒンヒン」という通り詞にあるとおり、昔からヒンヒンときまっていたように思われるが、ずっと古い時代に溯ると案外そうでなかったらしい。『万葉集』巻十二に「いぶせくも」という語を「馬声蜂音石花蜘蟵」と書いてあって、「馬声」をイに宛て、「蜂音」をブに宛てたのをみれば、当時の人々は、蜂の飛ぶ音をブと聞いたと共に、馬の鳴声をイの音で表わしていたのである。「いばゆ(嘶)」という語の「い」もまた馬の鳴声を摸した語であることは従来の学者の説いた通りであろう。蜂の音は今日でもブンブンといわれていて、昔と大体変らないが、馬の声をイといったのは我々には異様に聞える。馬の鳴声には古今の相違があろうと思われないのに、これを表わす音に今昔の相違があるのは不審なようであるが、それにはしかるべき理由があるのである。
ハヒフヘホは現今ではhahihuhehoと発音されているが、かような音は古代の国語にはなく、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれらの仮名はfafifufefoと発音されていた。このf音は西洋諸国語や支那語におけるごとき歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であって、それは更に古い時代のp音から転化したものであろうと考えられているが、奈良時代には多分既にf音になっていたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思われる。
鳥や獣の声であっても、これを擬した鳴声が普通の語として用いられる場合には、その当時の正常な国語の音として常に用いられる音によって表わされるのが普通である。さすれば、国語の音としてhiのような音がなかった時代においては、馬の鳴声に最も近い音としてはイ以外にないのであるから、これをイの音で摸したのは当然といわなければならない。なおまた後世には「ヒン」というが、ンの音も、古くは外国語、すなわち漢語(または梵語)にはあったけれども、普通の国語の音としてはなかったので、インとはいわず、ただイといったのであろう(蜂の音を今日ではブンというのを、古くブといったのも同じ理由による)。
それでは、馬の鳴声をヒまたはヒンとしたのはいつからであろうか。これについての私の調査はまだ極めて不完全であるが、私が気づいた例の中最も古いのは『落窪物語』の文であって、同書には「面白の駒」と渾名せられた兵部少輔について、「首いと長うて顔つき駒のやうにて鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。ひゝと嘶きて引放れていぬべき顔したり」と述べており、駒の嘶きを「ひゝ」と写している。これは「ひ」がまだfiと発音せられた時代のものである故、それに「ヒヽ」とあるのは上の説明と矛盾するが、しかしこの文には疑いがあるのである。すなわち池田亀鑑氏の調査によれば、ここの本文が「ひゝ」とあるのは上田秋成の校本だけであって、中村秋香の『落窪物語大成』には「ひう」とあり、伝真淵自筆本には「ひと」とあり、更に九条家旧蔵本、真淵校本、千蔭校本その他の諸本には皆「いう」となっている。そのいずれが原本の面目を存するものかは未だ判断し難いが、「いう」とある諸本も存する以上、これを「ひゝ」または「ひう」であると決定するのは早計であって、むしろ、現存諸本中最も書写年代の古い九条家本(室町中期の書写)その他の諸本におけるごとく、「いう」とある方が当時の音韻状態から見て正しいのであるまいかと思われる。そうして「いう」の「う」は多分現在のンのごとき音であったろうから、「いう」はヒンでなく、むしろインにあたるのである。
江戸時代に入って、鹿野武左衛門の『鹿の巻筆』(巻三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になった男が贔屓の歓呼に答えて「いゝん/\と云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は『落窪物語』の「いう」と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかったことを示す適例である。
「お馬ヒンヒン」という語はいつ頃からあるかまだ確かめないが、一九の『東海道中膝栗毛』初編には「ヒイン/\」または「ヒヽヒン/\」など見えている。多分もっと以前からあったのであろうが、これはhiの音が既に普通に用いられていた時分のことであるから、あっても差支ない。
底本:「古代国語の音韻に就いて他二篇」岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
1950(昭和25)年
” ※着色は引用者
筑波大学
ハ行子音の歴史関連参考文献
https://www.lingua.tsukuba.ac.jp/nihongo/hagyou.html
”1997/2/20作成:奥村彰悟
1.このリストは、1993年度~1996年度、筑波大学大学院文芸・言語研究科言語学専攻(日本語学)の演習「日本語音韻研究」で扱われた論文の一覧である。
2.各テーマごとに重複するものもある。
3.(当然ながら)すべてを網羅しているわけではない。
4.間違い等を発見された場合はQZX03013@nifty.comまでお知らせいただきたい。
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研究史
言語学大辞典 第2巻 世界言語編(中)1989
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
有坂秀世(1957)『国語音韻史の研究』増補新版 三省堂
安藤正次(1924)『古代国語の研究』内外書房(著作集 二 所収)
伊坂淳一(1993)「p音は「復活」したのか」『月刊言語』2月号
岩淵悦太郎(1936)「近世における波行子音の変遷について」『国語史論集』所収
上田万年(1898)「p音考」『帝国文学』4-1(『国語のため第二』富山房(1903)再収)
有坂秀世(1955)「第三篇 頭音論」『上代音韻攷』三省堂
大野 透(1957)「古代国語子音考」『音声の研究―日本音声学創立満30周年記念論集』第8輯 日本音声学会
亀井 孝(1959)「春鶯囀」『国語学』39(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1960)「在唐記の「本郷波字音」に関する解釈」『国語学』40(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1970)「すずめしうしう」『成蹊国文』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀のハ行子音」『國學院雑誌』83-7
小林明美(1982)「「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法」『大阪外国語大学学報』56
小林明美(1982)「円仁の長母音知覚」『密教文化』141
小松英雄(1981)『日本語の世界7 日本語の音韻』中央公論社
小松英雄(1985)「母語の歴史をとらえる視点」『応用言語学講座』1
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』四 所収)
新村 出(1930)「国語に於けるFH両音の過渡期」『東亜語源志』(『三宅博士古希記念論文集』所収)
築島 裕(1969)『平安時代語新論』東京大学出版会
橋本進吉(1927)「国語音声史の研究」『橋本進吉著作集 六』
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(『国語音韻の研究』橋本進吉著作集 四 岩波書店 所収)
橋本進吉(1942)「国語音韻変化の一傾向」『橋本進吉著作集 四』
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
馬渕和夫(1961)「円仁『在唐記』梵字対注の解釈について」『国語学』43
丸山 透(1989)「キリシタン資料におけるf表記をめぐって」『南山国文論集』13
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
森山 隆(1960)「在唐記梵字註の構成とその解釈」『国語国文』29-10(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
山田 実(1987)「奈良朝本土語のパ行音について」『古代音韻の比較研究』桜楓社
山田 実(1987)「『在唐記』の「波」音の新解釈」『古代音韻の比較研究』桜楓社
金石文・古事記
有坂秀世(1940)「メイ(明)ネイ(寧)の類は果たして漢音ならざるか」『音声学協会会報』64(『国語音韻史の研究』に再録)
大野 晋(1953)『上代仮名遣いの研究―日本書紀の仮名を中心として―』岩波書店
城生伯太郎(1993)「鼻音の同化力」『小松英雄博士退官記念日本語学論集』三省堂
城生伯太郎(1988・1992)『音声学』アポロン
水谷真成(1957)「唐代における中国語語頭鼻音Denasalizationの進行過程」『東洋学報』39-4
水谷真成(1959)「慧苑音義音韻考」『大谷大学研究年報』11
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
羅 常培(1933)『唐五代西北方言』歴史語言研究所単刊甲種之十二
万葉集
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
犬飼 隆(1992)『上代文字言語の研究』笠間書院
大野 透(1962)『万葉仮名の研究』明治書院
春日和男(1931)「古事記に於ける清濁書分について」『国語国文』11-4
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
正宗敦夫編纂・校訂(1975)『類聚名義抄 観智院本』1,2巻 風間書房
日本書紀
太田善麿(1962)『古代日本文学思潮論Ⅲ 日本書紀の考察』桜楓社
大塚 毅(1978)『万葉仮名音韻辞典 上下』勉誠社
大野 晋(1953)『上代仮名遣いの研究―日本書紀の仮名を中心として―』岩波書店
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀の八行子音」『國學院雑誌』83-7
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
悉曇
有坂秀世(1955)「第三篇 頭音論」『上代音韻攷』三省堂
大野 透(1957)「古代国語子音考」『音声の研究―日本音声学創立満30周年記念論集』第8輯 日本音声学会
亀井 孝(1960)「在唐記の「本郷波字音」に関する解釈」『国語学』40(亀井孝論文集3 『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀の八行子音」『國學院雑誌』83-7
小林明美(1982)「「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法」『大阪外国語大学学報』56
小林明美(1982)「円仁の長母音知覚」『密教文化』141
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(『国語音韻の研究』橋本進吉著作集 四 岩波書店 所収)
服部四郎(1951)『音声学』岩波書店
服部四郎(1955)「音韻論 2. 音韻論から見た国語のアクセント」『言語学の方法』岩波書店
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
馬渕和夫(1961)「円仁『在唐記』梵字対注の解釈について」『国語学』43
馬渕和夫(1984)『増訂日本韻学史の研究I、II、III』臨川書店
森 博達(1991)「第四章 頭音論」『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
森山 隆(1960)「在唐記梵字註の構成とその解釈」『国語国文』29-10(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
森山 隆(1962)「悉曇口伝のハ行関係記事の解釈」『文学論輯』9(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
山田 実(1987)「第5章 §31 奈良朝本土語のパ行音について」『古代音韻の比較研究』桜楓社
山田 実(1987)「第5章 §32 『在唐記』の「波」音の新解釈」『古代音韻の比較研究』桜楓社
中国資料
赤松祐子(1988)「『日本風士記』の基礎音系」『国語国文』57-12
秋山謙蔵(1933)「明代に於ける支那人の日本語研究」『国語と国文学』10-1
浅井恵倫(1940)「校本日本訳語」『安藤教授還暦祝賀記念論集』三省堂
有坂秀世(1939)「諷経の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態」『言語研究』2(『国語音韻史の研究増補新版』三省堂 1980年版 所収)
有坂秀世(1940)「書史会要の「いろは」の音注について」『国語音韻史の研究増補新版』三省堂 所収
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
伊波普猷(1934)「『日本館訳語』を紹介す」『方言』2-9
大友信一(1962)「日本語音韻体系における/h/音素の成立」『音声の研究』第10集
大友信一(1963)『室町時代の国語音声の研究』至文堂
小川環樹(1947)「書史会要に見える「いろは」の漢字対音について」『国語国文』16-5
尾崎雄二郎(1969)「日本古代史中国史料の処理における漢語学的問題点」『人文』第15集
尾崎雄二郎(1970)「邪馬臺国について」『人文』第16集
尾崎雄二郎(1981)「円人『在唐記』の梵音解説とサ行頭音」『白川静博士古稀記念中国文史論叢』所収)
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1972)「文献以前の時代の日本語」(亀井孝論文集2『日本語系統論のみち』(吉川弘文館)
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1961)『全浙兵制考日本風土記』京都大学国文学会発行
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1965)『日本寄語の研究』京都大学国文学会発行
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1968)『纂輯 日本訳語』京都大学国文学会発行
久島 茂(1982)「日本書紀のハ行子音」『國學院雑誌』83-7
新村 出(1929)「国語におけるFH両音の過度期」(新村出全第四巻『東亜語源志』所収 筑摩書房)
長田夏樹(1979)『邪馬台国の言語』学生社
中野美代子(1964)「日本寄語による16世紀定海音系の推定―およぴ室町末期国語音に関する若干の問題―」『東方学』第二十八輯
橋本進吉(1927)『国語音韻史』(橋本進吉著作集第六冊 岩波書店 1967年)
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」(『国語音韻の研究』所収)
服部四郎(1979)「日本祖語について13.14」『言語』3月、4月号
浜田 敦(1940)「国語を記載せる明代支那文献」『国語国文』10-7
浜田 敦(1951)「日本寄語解読試案」『人文研究』2-1
浜田 敦(1952)「魏志倭人傅などに所見の国語語彙に関する二三の問題」『人文研究』3-8
浜田 敦(1956)「日本風士記山歌注解」『京都大学文学部五十周年記念論集』
福島邦道(1959)「『日本寄語』語解」『国語学』36
福島邦道(1967)「日本一鑑所引の古辞書」『本邦辞書史論叢』所収 三省堂
福島邦道(1983)『音韻史における「中世」』『国語と国文学』60-12
福島邦道(1993)『日本館訳語攷』笠間書院
安田 章(1980)「中国資料の背景」『国語国文』49-9
安田 章(1993)「外国資料の陥穽」『国語国文』62-8
森 博達(1982)「三世紀倭人語の音韻」『倭人伝を読む』中央公論社
森 博達(1985)『「倭人伝」の地名と人名』『倭人の登場』中央公論社
森山 隆(1968)「魏志倭人傅の倭語表記について―古代日本語の投影―」『国語国文』37-4
渡辺三男(1955)「明末の日本紹介書『日本一鑑』について」『駒沢大学研究紀要』13
渡辺三男(1957)「中国古文献に見える日本語―鶴林玉露と書史会要について―」『駒沢大学研究紀要』15
渡辺三男(1960)「華夷訳語及ぴ日本館訳語について」『駒沢大学研究紀要』18
渡辺三男(1961)「華夷訳語及ぴ日本館訳語について(承前)」『駒沢大学研究紀要』19
渡辺三男(1966)「隋書倭国伝の日本語比定」『駒沢国文』5
朝鮮資料
遠藤邦基(1971)「キリシタン資料の表記面からみた二面性」『岐阜大学国語国文学』7
大友信一(1957)「捷解新語の成立時期私見」『文芸研究』26
大友信一(1963)『室町時代の国語音声の研究』至文堂
大友信一(1973)「外国資料」『文学・語学』48
小倉進平(1964)『増訂朝鮮語学史』刀江書院
神原甚造(1925)「弘治五年活字版朝鮮本『伊路波』に就いて」『典籍之研究』三、大正14年、11 (京都大学文学部国語学国文学研究室編(1965)『弘治五年朝鮮版伊路波』所収)
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1958)「『捷解新語』小考」『一橋論叢』39-6
亀井 孝(1984)「『捷解新語』の注音法」(亀井孝論文集3『目本語のすがたとこころ(一)』(1984)吉川弘文館 所収)
亀井 孝他(1964)『日本語の歴史 4.移りゆく古代語』平凡社
京都大学国語学国文学研究室編(1958)『倭語類解 本文・国語・漢字索引』
京都大学国語学国文学研究室編(1973)『三本対照捷解新語 釈文・索引・解題』
金 完鎭(1971)『国語音韻体系wi研究』一潮閣 ソウル
河野六郎(1930)「『伊路波』の諺文標記に就いて―朝鮮語史の立場から―」『国語国文』21-10
河野六郎(1979)「新発見の訓民正音に就いて」『河野六郎著作集1』平凡社 所収
阪倉篤義編(1977)『日本語講座6 日本語の歴史』大修館書店
坂梨隆三(1987)『江戸時代の国語 上方語』東京堂出版
志部昭平(1985)「朝鮮の日本語資料」『国文学解釈と鑑賞』50-3
武井睦雄(1959)「朝鮮版『伊路波』に於ける“ほ”の仮名について」『国語学』40
浜田 敦(1930)「弘治五年朝鮮板『伊路波』諺文対音攷―國語史の立場から―」『国語国文』21-10
浜田 敦(1959)「倭語類解考」『国語国文』28-9
浜田 敦(1961)「表記論の諸問題」『国語国文』30-3
浜田 敦(1962)「外国資料」『国語国文』31-11
浜田 敦(1963)「捷解新語文釈開題」京都大学国文学会編『捷解新語文釈』所収
浜田 敦(1967)「朝鮮資料」『異本 隣語大方 交隣須知』所収
浜田 敦(1970)『朝鮮資料による日本語研究』岩波書店
浜田 敦(1980)「規範」『国語国文』49-l
浜田 敦(1983)『続朝鮮資料による日本語研究』臨川書店
林 史典他(1993)『日本語要説』ひつじ書房
福島邦道(1973)『キリシタン資料と国語研究』笠間書院
福島邦道(1983)『続キリシタン資料と国語研究』笠間書院
馬渕和夫(1971)『国語音韻論』笠間書院
森田 武(1955)「捷解新語成立の時期について」『国語国文』24-3
安田 章(1963)「隣語大方解題」『隣語大方』京都大学国文学会
安田 章(1973)「重刊改修捷解新語解題」京都大学国文学会編『三本対照 捷解新語 釈文・索引・解題編』所収
安田 章(1980)『朝鮮資料と中世国語』笠問叢書
安田 章(1990)『外国資料と中世国語』三省堂
国語国文学叢林『原本 蒙語類解 倭語類解 捷解新語』(1985)大提閣 ソウル
李 基文(1961・1972)『改訂国語史概説』(『改訂国語史概説』の日本語訳(『韓国語の歴史』藤本幸夫訳))
許 雄(1985)『国語音韻学』セム文化杜
キリシタン資料
大塚高信(1934)『コイヤード日本語文典』坂口書店
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1958)「古代日本語の間投詞」『国語研究』8(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
小島幸枝(1994)『キリシタン文献の国語学的研究』武蔵野書院
近藤政美(1981)「コリャード著『日本文典』における語頭のH表記の語について」『説林』29(愛知県立大学)
近藤政美(1989)『中世国語論考』和泉書院
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』第四巻所収)
新村 出(1929)「国語に於けるFH両音の過渡期」『三宅博士古稀祝賀記念論文集』(『新村出全集』第四巻所収)
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論集』(橋本進吉著作集第4冊『国語音韻の研究』所収)
橋本進吉(1928)『キリシタン教義の研究』(橋本進吉著作集第十冊)岩波書店(もとは『文禄元年天草版キリシタン教義の研究』東洋文庫)
橋本進吉(1950)「國語音韻の変遷」『国語音韻の研究』
橋本進吉(1966)『国語音韻史』(橋本進吉著作集第六冊)岩波書店
服部四郎(1954)「音韻論から見た国語アクセント」『国語研究』2(『言語学の方法』(1960)岩波書店 所収)
福島邦道(1973)『キリシタン資料と国語研究』笠間書院
福島邦道(1976)「サントスの御作業一国語研究資料として一」『サントスの御作業』勉誠社
福島邦道(1977)「長音と長音符」『国語学』108
福島邦道(1978)「ハ行子音一史的音韻論序説一」『実践国文学』13
福島邦道(1979)『サントスの御作業翻字研究編』勉誠社
福島邦道(1983)『続キリシタン資料と国語研究』笠間書院
丸山 徹(1989)「キリシタン資料におけるf表記をめぐって」『南山国文論集』13
森田 武(1977)「音韻の変遷(3)」『岩渡護 日本語 5 音韻』岩波書店
森田 武(1984)「キリシタン資料におけるハ行音のローマ字表記」『国語国文論集』13(安田女子大学)(『室町時代語論攷』所収)
『文禄二年耶蘇会板伊曽保物語』京都大学国文学会、1953
『日本大文典』士井忠生訳注、三省堂、1955
『日本文典』(オクスフォード大学版)土井忠生解題、勉誠社、1976
『サントスの御作業』H.チースリク・福島邦道・三橋健解説、勉誠社、1976
『パリ本日葡辞書』石塚晴道解題、勉誠社、1976
『キリシタン版落葉集』(大英博物館版)福島邦道解題、勉誠社文庫、1977
『邦訳日葡辞書』±井忠生・森田武・長南実編訳、岩波書店、1980
『国語学研究事典』佐藤喜代治編、明治書院、1977
江戸時代
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』
新村 出(1928)「国語に於けるFH両音の過渡期」『三宅博士古希祝賀記念論文集』
岩淵悦太郎(1936)「近世における波行子音の変遷について」『国語史論集』筑摩書房
有坂秀世(1938)「江戸時代中頃に於けるハの頭音について」『国語と国文学』
佐藤喜代治編(1977)『国語学研究事典』明治書院
沼本克明(1986)『日本漠字音の歴史』国語学叢書10 東京堂出版
橋本進吉(1966)『国語音韻史』岩波書店
森 博達(1991)「近世唐音と『東音譜』」『国語学』166
方言
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
生田弥範(1937)『因伯方言考』(1975)復刻 国書刊行会 『講座方言学8』(1982)
糸原正徳・友定賢治(1990)『奥出雲のことぱ』渓水社
井上文雄(1974)「荘内・大鳥・山北方言の音韻(文法)分布」『山形方言』11号(日本列島方言叢書3 所収)
伊波普猷(1933〉「琉球の方言」『國語科科学講座Ⅶ 國語方言学』明治書院
岩井三郎(1941)「静岡県井川村方言の考察」『方言研究』4号(『日本列島方言叢書』10 所収)
上田萬年(1898)「P音考」『帝国文学』
上田萬年(1903)『国語のため第二』
上野善道(1973)「岩手県雫石地方方言の音韻体系」『日本方言研究会第17回発表原稿集』日本列島方言叢書3 所収
大島一郎(1979)『方言体系変化の通事論的研究』平山輝男編 明治書院
大槻文彦(1897)『広日本文典・別記』国光社
奥里将建(1933)『国語史の方言的研究』大阪寶文社
奥村三雄(1990)『方言国語史研究』東京堂出版
小倉進平(1910)「仙台方言音韻組織」『國學院雑誌』16-3(『日本列島方言叢書』2 所収)
加藤正信・小林隆・遠藤仁(1983)「山形県最上地方の方言調査報告」『日本文化研究所研究報告』20号(『日本列島方言叢書』3 所収)
川本栄一郎(1970)「東北方言の音韻」『方言研究の問題点』平山輝男博士還暦記念会
川本栄一郎(1970)「石川県珠州市方言の「ク」と「フ」」『金沢大学語学文学研究』1
川本栄一郎(1973)「富山県庄川流域における「ワ」と「バ」の分布とその解釈」『国諾学研究』12
金田一春彦(1953)『日本方言学』吉川弘文館
小松英雄(1981)『日本語の世界 7 日本語の音韻』中央公論社
斉藤義七郎(1959)「山形県北村山郡東根町」『日本方言の記述的研究』(『日本列島方言叢書』3 所収)
佐藤和之(1986)「若年層話者に見る津軽方言の記述的研究(上)―録音資料からの抽出―」『弘前大学国語国文学』8号(『日本列島方言叢書』3 所収)
佐藤喜代治(1963)「秋田県米代川流域の言語調査報告」『日本文化研究所報告別巻』1号(『日本列島方言叢書』4 所収)
佐藤喜代治(1966)「岩手県三陸地方の言語調査報告」『日本文化研究所報告別巻』4号(『日本列島方言叢書』3 所収)
柴田 武(1988)『方言論』大修館書店
柴田 武(1954)「山形県小國町方言の音韻とアクセント」『国語国文』243(『日本列島方言叢書』3 所収)
柴田 武(1988)「方言小事典」『方言論』巻末 平凡社
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』第四巻所収)
郷士C・H・ダラス(1875)「米沢方言」翻訳:峯田太右衛門『山形方言』11号((1974)再録『日本列島方言叢書』3 ゆまに書房 所収)
チェンバレン(1895)『日琉語比較文典』山口栄鉄編訳(1976)琉球文化社
寺田泰政(1957)「大井川流域方言の概観」『國學院大學国語研究』6号(『日本列島方言叢書 中部方言 2』 所収)
徳川宗賢(1981)『日本語の世界 8 言葉・西と東』中央公論社
中條 修(1973)「房総半島方言の音韻の研究」『静岡大学教養部研究報告人文』8
中條 修(1974)「房総半島方言の音韻の研究」『静岡大学教養部研究報告人文』9
中條 修(1976)「語頭のP音の諸相―安部川上流地域の場合―」『静岡大学教養部研究報告人文』12
中條 修(1981)「「語中カ行子音」ノート―房総半島のK音について―」『静岡大学教育学部研究報告人文社会』31
名嘉真三成(1991)「南琉球方言のハ行子音」『日本語論考』桜楓社
中本正智(1976)『琉球方言音韻の研究』法政大学出版局
中本正智(1977)「古代ハ行p音残存の要因―琉球に分布するp音について―」『国語学』107(再録『日本列島言語史の研究』(1990)大修館書店 改題)「第三章 音韻の実態と分布と歴史 第二節 ハ行p音の残存の要因」
中本正智(1990)『日本列島言語史の研究』大修館書店
橋本進吉(1966)『国語音韻史』岩波書店
橋本萬太郎(1981)『現代博言学―言語研究の最前線―』大修館書店
日野資純(1954)「井川のP音考」『言語生活』134(『日本列島方言叢書』10 所収)
平山輝雄(1960)「八丈方言の特殊性」『東京都立大学創立十周年記念論文集』(『日本の言語学』6巻 方言 大修館書店 所収)
平山輝雄(1965)『伊豆諸島方言の研究』明治書院
平山輝雄編(1975)『新日本語講座3 現代日本語の音声と方言』汐文社
藤原与一(1976)『昭和日本語の方言―瀬戸内海三要地方言―』三弥井書店
馬瀬良雄(1962)「八丈島方言の音韻分析」『国語学』43 (『日本列島方言叢書』7 関東方言考(3)東京都 所収)
馬瀬良雄(1975)『新日本語講座3 現代日本語の音声と方言』汐文社
馬瀬良雄(1991)「信越の秘境秋山郷の方言音韻の分析」『日本語論考 大島一郎教授退官記念論集』桜楓社
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” ※着色は引用者
ハ行子音の歴史的変化(ハをパやファと発音していたこと)について書かれた資料が知りたい。 | レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000330002&page=ref_view
”質問
解決
ハ行子音の歴史的変化(ハをパやファと発音していたこと)について書かれた資料が知りたい。
回答
以下の資料に、ハ行子音の音韻変化について記載がありました。
<図書>
・『知らなかった!日本語の歴史』(浅川哲也/著 東京書籍 2011.8)
p.142-148「ハ行子音の変化」
・『基礎日本語学』(衣畑智秀/編 五十嵐陽介/[ほか著] ひつじ書房 2019.2)
p.46-50 「3. ハ行子音の歴史変化」
・『言葉の歴史』(新村出/著 創元社 1942)
p.71-77「琉球語の波行音の変遷」
・『橋本進吉博士著作集 第4冊 国語音韻の研究4』(橋本進吉/著 岩波書店 1976)
p.29-45「波行子音の変遷について」
p.51-103「国語音韻の変遷」
p.261-271「国語音韻変化の一傾向」
・『新村出全集 第4巻 言語研究篇』(新村出/著 筑摩書房 1977)
p.190-196「国語に於けるFH両音の過渡期」
・『国語史論集』(岩淵悦太郎/著 筑摩書房 1977)
p.257-261「近世における波行子音の変遷について:蜆縮涼鼓集の記載を中心として」
・高山知明「ハ行子音の脱唇音化:個別言語の特色と音韻史」『日本語史叙述の方法(ひつじ研究叢書 言語編第142巻)』(大木一夫/編 多門靖容/編 ひつじ書房 2016.10)p.95-121
<雑誌>
・伊坂淳一「p音は「復活」したのか」『月刊言語』22(2)<255>(大修館書店 1993.2)p.20-25
・肥爪周二「ハ行子音の歴史:多様性の淵源」『日本語学』34(10)<443>(明治書院 2015.8)p.34-41
[事例作成日:2023年2月1日]
回答プロセス
事前調査事項
NDC
日本語 (810 10版)
文法.語法 (815 10版)
参考資料
知らなかった!日本語の歴史 浅川/哲也∥著 東京書籍 2011.8 (142-148)
基礎日本語学 衣畑/智秀‖編 ひつじ書房 2019.2 (46-50)
言葉の歴史 新村/出∥著 創元社 1942 (71-77)
橋本進吉博士著作集 第4冊 橋本/進吉∥著 岩波書店 1976 (29-45、51-103、261-271)
新村出全集 第4巻 新村/出∥著 筑摩書房 1977 (190-196)
国語史論集 岩淵/悦太郎∥著 筑摩書房 1977 (257-261)
日本語史叙述の方法 大木/一夫‖編 ひつじ書房 2016.10 (95-121)
月刊言語 大修館書店 [編] 大修館書店 22(2)<255> 1993.2 (20-25)
日本語学 明治書院 vol.34 10 第443号 (2015-8) (34-41)
”
呉音(ゴオン)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E9%9F%B3-63509
”
ご‐おん【呉音】
古く日本に入った漢字音の一。もと、和音とよばれていたが、平安中期以後、呉音ともよばれるようになった。北方系の漢音に対して南方系であるといわれる。仏教関係の語などに多く用いられる。→漢音 →唐音
出典 小学館デジタル大辞泉について
(略)
② 古代日本へ朝鮮から渡来した漢字音。平安中期までは和音と呼ばれていたが、平安中期以後、呉音とも呼ばれるようになった。漢音・宋音・唐音などに対していう。
(略)
呉音の語誌
( 1 )古代日本に伝わった漢字音を呉音と呼ぶ確証は、平安中期の藤原公任(②の「北山抄」の例)以後である。それ以前には和音と呼んだ(①の「悉曇蔵」の例)。
( 2 )中国で隋唐代以後漢音を正しい音とするのに対し、南方音を、「古くてなまった音」という気持から「呉音」といったのにまねて、日本でも平安中期から、漢音を正音と呼ぶのに対し、和音を呉音というようになったらしい。それが呉という名前に引かれて、呉音は南方中国から渡来したという説が発生した。この説が江戸時代の漢学者、国学者に引きつがれて、現代でも行なわれているが、呉音の源流を朝鮮半島からさらにさかのぼって漢魏時代の古音に求める説もある。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
(略)
呉音 (ごおん)
日本における漢字音の一種。六朝時代の中国の呉の地方と交通のあった百済人が日本に伝えたもので,隋・唐代の北方音を伝えた漢音よりも中国語音の古形を反映するというのが通説。仏教関係の用語にもちいられることが多い。対馬(つしま)音は呉音の別称である。
→字音
執筆者:三根谷 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア 「呉音」の意味・わかりやすい解説
呉音【ごおん】
日本の字音の一種。中国語南方方言に基づくものといわれる。時代は漢音よりも古いとされる。六朝時代呉と交流のあった朝鮮の百済を通じて伝来したと伝える。対馬音(つしまおん)とも。日本には7世紀ごろまでに伝わり,早く日本語のうちにとり入れられたとされるが,しだいに漢音語彙(ごい)に交替した。しかし仏教関係の用語では根強く,後世に及んだ。
→関連項目唐音
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呉音」の意味・わかりやすい解説
呉音
ごおん
日本の漢字音の一種。漢音以前に日本に伝えられた字音で,中国語の揚子江下流方面の南方方言からであろうと推定されている。仏教経典の読み方に多く用いられた。おもな特徴は,(1) 子音の清濁を区別している (刀=タウ,陶=ダウ,漢音ではともにタウ) ,(2) 鼻音/m/,/n/をそれぞれマ行,ナ行で取入れている (馬=マ,男=ナン,漢音ではバ,ダン) ことなど。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
” ※着色は引用者
呉音 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%9F%B3
”呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。建康(今の南京市)付近の漢字音とも言われ、7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。中国語の中古音の特徴を伝えている。
一般に、呉音は仏教用語をはじめ「歴史の古い言葉」に使われる。慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。
(略)
頭子音(声母)の鼻音 /n/, /m/ については、漢音がダ行、バ行で伝えられたものが多いのに対し、ナ行、マ行のまま伝えられている。
(略)
漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音であり、いつから導入されたものかは明確ではない。雑多なものを含むため、様々な経路での導入が想定される。仏教用語などの呉音は建康(今の南京市)から百済経由で伝わったとされるものがあり、対馬音や百済音といった別名に表れている(「呼称について」に後述)。
呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。例えば『古事記』における日本語の人名は、呉音と訓読みで当て字されており[注 2]、『古事記』の振り仮名の万葉仮名には呉音が使われている。
呼称について
呉音しか漢字音がない時代には呉音という名称はなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称(レトロニム)である。かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の南京を始めとする音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。
また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承によるものである。
音のあいまいさについて
常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。
例
漢音と呉音の異なる字のうち、ほんの一例を以下に掲載する。対応が把握しやすいように字音仮名遣いを使って表示した。 前述のとおり、呉音にはあいまいな部分もあり、以下の例も、これが絶対というものではない。
“分類”は厳密さに欠けるものではあるが、参考までに添えた。 「漢音 / 呉音」の形で示している。 * は「いろいろ」というほどの意味。
(
表は省略。
「頭子音のみ異なる例」では、
「日」は漢音では「じつ」で、呉音では「にち」。
略)
最終更新 2024年5月12日 (日) 16:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
https://x.com/yuzo_takayama/status/1446779524671148033
”多嘉山侑三
@yuzo_takayama
「大和人(やまとぅんちゅ)」とは、沖縄語で「日本『本土』の人」を意味します。辞書にもそう定義されていますし、琉球沖縄の先人達もそう使ってきました。
それに対して「ないちゃー」は、まず純粋な沖縄語ではないです。敢えて日本語にすると「内地野郎」となり、侮蔑的な意味も含まれます。
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午後7:08 · 2021年10月9日
”
支配層側の主張を紹介しておく↓
【正論】ニッポンに統一し元気な国に-日本財団ブログ「みんなが、みんなを支える社会」に向けて
2010年01月12日(Tue)
https://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/166
”(産経新聞【正論】2010年1月12日掲載)
日本財団会長
笹川 陽平
3つの“名前”が常在
新しい年を迎えた。今年も冬季オリンピック、ワールドカップなどスポーツのビッグイベントが目白押し。スタンドから沸き上がる「ニッポン」コールには選手だけでなく日本全体を元気付ける明るさがある。
日本は「ニッポン」「ニホン」のふたつの発音のほかに、国際的に使われる「JAPAN」を合わせると、3つの“名前”が常在する珍しい国だ。国号は国の顔、やはり一本化されるのが望ましい。
政治、経済の低迷で国際的な影響力が落ち込み、存在感が希薄になりつつあるこの国の閉塞感を打ち破り、力強さと活力を取り戻すには、国際的な表記を「NIPPON」に変更、正式の読み方もニッポンに統一し、国が目指すべき新たな国家像を明示することが何よりも必要と考える。
現在、国連の加盟国表記は「JAPAN」。「日本」の古い中国語読み「ジッポン」がJAPANの語源とされ、NIPPONに統一しても特段の矛盾はない。読み方をめぐる長年の議論の経過を見ても、ニッポンを公式発音とする見解が主流を占め、これを反映して紙幣には「NIPPON GINKO」、郵便切手には「NIPPON」と記されている。日本が初めて参加したストックホルム五輪(1912年)開会式のプラカード、東京五輪のユニフォームの胸マークもNIPPONだった。
変更するには新たな国号法でNIPPONを採用し、各国に通知すれば済む。専門家も、変更に特段の問題はなく、どの国もすんなりと受け入れる、と見る。国際的表記をNIPPONに変更する以上、「日本」の公式発音もニッポンに統一することになる。国際的にNIPPONが定着すれば、国内の発音も時間の流れの中でニッポンに一本化される方向に進む。
正式に使う場合はニッポン
確かに国号を直接、定めた法令はなく、政府が読み方を公式に定めた事実もない。1934年には当時の文部省臨時国語調査会が「ニッポン」に統一する案を決議したが、政府は最終的に採択を見送った。佐藤内閣時代の1970年にもニッポンに統一する動きがあったが閣議決定には至らなかった。
この結果、国の最高法規である憲法でさえ、戦前の大日本帝国憲法はニッポン、戦後の日本国憲法は逆にニホンと発音する人が多数派を占める。政党も日本共産党はニホン、これに対し旧日本社会党はニッポンだった。ニッポンは西日本、ニホンは東日本に多い傾向もある。日本橋を大阪では「ニッポンバシ」、東京は「ニホンバシ」と発音するのはその典型だ。
「日本○○」といった法人名の企業では、従業員の発音さえ双方に割れるケースが目立ち、日常的に「日本」が登場するニュースの世界、とりわけテレビ局では混乱を避けるため専用の辞書を備え社も多い。NHKは発足当時の1954年「放送用語並発音改善調査委員会」(現・放送用語委員会)が「正式な国号として使う場合は『ニッポン』、そのほかの場合は『ニホン』と発音してもよい」との方針をまとめ、現在もほぼ踏襲されている。
これに対し政府は昨年6月、民主党の岩國哲人衆院議員が衆院議長あてに提出した「日本国号に関する質問主意書」に関連して麻生内閣が答弁書を閣議決定し、ふたつの読み方が広く通用している現状から「どちらか一方に統一する必要はない」とする見解を示している。
その一方で、国号の現地発音が複数使用されている国の有無に関しては「(わが国以外に)承知していない」と回答しており、この事実を見ても、日本の現状は国の在り方として正常とは言えない。複数の発音が日本語の特性とはいえ、ここにも近年の日本語の混乱の一因がある。
国のあり様考える第一歩
今回、あえてこのような提案をするのは、戦後60年を経て国に対する国民の意識が希薄になり、国としての求心力が失われつつある現状を危惧するからだ。昨年11月からNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の放送が始まり、若者にも大きな反響を呼んでいる。原作者の司馬遼太郎はこの作品で、近代日本の勃興期、封建の世から目覚め欧米的近代国家の建設を目指した青年たちの気概を描いた。
どの時代も多くの青年が理想的な国家、社会の建設に情熱を持つ。国民の責任・義務に言及するのをためらい権利に重きを置いて聞こえの良い公約を乱発し、政策の技術論に終始する政治の現状は、国の明日を二の次にする姿勢と言うしかない。
国家像という言葉に拒否反応を示す向きもあるが、それは戦前の軍国主義に結び付けた短絡でしかない。呼称問題は国のあり様を考える第一歩であり、議論を通じて内外の呼称をNIPPONとニッポンに統一し、この国の将来像を明示するのが政治の責任である。それが今求められる「第2の坂の上の雲」であり、実現した時、この国は初めて元気を取り戻す。
” ※着色は引用者
支配層側はニッポン読み傾向だ。ニッポンに統一すると「初めて」元気を取り戻すらしい。「初めて」とは大きく出たな。
”「日本」の古い中国語読み「ジッポン」がJAPANの語源”が根拠というのはおかしいよ。ニホン読みかニッポン読みかの話でなぜ「ジャパン(英語)」の話になるの? それとなぜ「正式の読み方もニッポンに統一」する必要がある? ニホン読みとニッポン読みは、例えば「とても」と「とっても」、「やはり」と「やっぱり」、「よほど」と「よっぽど」のように、「通常の語形」「強めの語形」の関係にある。「強めの語形」だけ残そうとするのは、欧米人への配慮なのでは?
ニッポンよりもニホンの方がより和語的だ。
「読み方をめぐる長年の議論の経過を見ても、ニッポンを公式発音とする見解が主流を占め、」ってどの集団の議論?
メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―奥野 昌宏 中江 桂子
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/83/1/bungaku-46_109-124.pdf
によると「ニッポン読み」運動をしたのはロータリークラブや大ニッポン帝国だ。
上記の論文より:
”昭和二年の第五十二回帝国議会に、国号「日本」の読み方を「ニッポン」に統一して、来年の
天長節から実行してほしいという請願案が出た。これは政府参考資料として可決されている。そ
の後もしばしば議会で話題になったが、昭和六年六月には、神戸の小学校訓導から文部大臣に建
議したり(同月二十六日大毎)、こえて昭和八年十二月には、京都のロータリークラブで決議し
たり(九年一月三日大朝)、さらに三月には大阪で「ジャパン」排斥運動をおこしたりなどして、
一連の「ニッポン」国号統一運動が活発におこなわれた。満州帝国の建国は実に同年の三月一日
であったのである”
”日本敗戦の一週間前に獄死した戸坂潤は、その著書『日本イデオロギー論』に「『ニッポン』イデオロギー」という章を設けており、そこで彼は「日本主義・東洋主義乃至アジア主義・其他々々
と呼ばれる取り止めのないひとつの感情のようなもの」を「『ニッポン』イデオロギー」といい、
「ニホンと読むのは危険思想だそうだ」と、当時の社会状況を批判している 22。彼がこの本を書い
た 1930 年代に「ニッポン」を意識的に使う人びとは、その言葉に明らかな政治的な意味を込めて
いたといえるだろうし、だからこそそのことを戸坂は批判的に見ていたのである。
しかし、統一への圧力を強くかけなければならなかったということは、逆に、一般の人びとの実生活のなかで、その統一がなかなか進んでいなかったことを示しているともいえよう。戦時色が濃厚ななか、情報局の圧力を受けながらも、それではこの時期に「ニッポン」が席捲していたかというと、かならずしもそうではないようである。”
しかも、2000年代の調査で、ニホン読みの方がニッポン読みより多いよ。上記論文より
”前述したように、戦時体制下では
「ニッポン」への圧力が高まったが、実際の人びとの日常生活の中では、「ニホン」も「ニッポン」も使われ続けており、「ニッポン」一色になった時代など存在しない。とすると私たちの時代もまた、メディアにおいては「ニッポン」の蔓延があったとしても、一般の人びとの国名呼称への意識
そのものが、それによってどれほどの影響を受けたのか、ただちに結論づけはできない。NHK 放
送文化研究所ではほぼ 10 年ごとに国名呼称にかんする調査をおこなっているが、上記宮本の調査
によると、国名呼称について「ニホン」/「ニッポン」を選ぶ人の割合は、1993 年で 58 パーセント/ 39 パーセント、であったのに対し、2003 年では 61 パーセント/ 37 パーセントである。いずれも概して若い世代ほど、「ニホン」への指向性が高く、ほぼ同様の傾向を示している 34。
書き言葉としての「ニッポン」がこの間に 7 ~ 8 倍に増えていることを考えると、「ニホン」を支持する人が安定的に約 6 割いることの意味を、私たちはどのようにとらえるべきなのだろうか。
言いかえれば、一般的な社会的慣用の実態から乖離した表現を、メディアが選んで使うことを、ど
のように解釈すればいいのだろうか。”。
メディアの大半が支配層(ニッポン推進派が多い)に飼われているからだろうな。
追加ここまで]
[2024年8月15日に追加:
「やっぱり」は 「やはり」のくだけた表現。
e日本語教育研究所
やっぱり
日本語初級 – やっぱり
2018/08/26
https://www.enihongo.org/you-see/
”「やはり」を強めた語。多く話し言葉に用いる。 いくつか意味がある。ここでは、「前もってした予想や判断と同様である様子。また、他の例から類推される状況と現実が同じである様子。 」「さまざまないきさつがあって、結局、初めに予測した結論に落ち着く様子。」「一般的な常識・うわさなどに違わない様子。」に使う。
「やっぱり」から転じた俗語形「やっぱ」「やっぱし」などもカジュアルな会話では使う人もいる。
A:彼は、来なかったね。
B:やっぱりね。
A:やっぱり雨が降ったね。
B:うん。
” ※着色は引用者
余程(ヨホド)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%99%E7%A8%8B-654916
”
精選版 日本国語大辞典 「余程」の意味・読み・例文・類語
よっ‐ぽど【余程】
( 「よきほど」の変化した語。「余程」は江戸時代以降のあて字 )
[ 1 ] 〘 形容動詞ナリ活用 〙
① 程度や数量が適当するさま。よい程度であるさま。ほどよいさま。ちょうどよいさま。
(略)
② 適度を越えてかなりな程度であるさま。ずいぶん。たいそう。相当。
(略)
③ 度を越えて十分すぎるのでもうやめたい、やめてもらいたいさま。大概。いいかげん。
(略)
[ 2 ] 〘 副詞 〙
① よい程度に。ほどよく。ちょうどよく。
② ほとんどそれに近いさま。おおよそのところ。だいたい。おおかた。
(略)
③ かなりの程度であるさま。ずいぶんに。相当に。
(略)
余程の語誌
( 1 )中世以降の文献に現われ、意味的な関連から「良き程」の変化したものと考えられる。室町時代の抄物資料では「えっぽど」の形も見られる。「よほど」の形も中世から見られるが、これは、「よっぽど」の促音が、ヤッパリ⇔ヤハリ、モッパラ⇔モハラ等の対に類推して強調の表情音ととらえられたところから、その非強調形として「よほど」の語形が生まれたものと考えられる。近世以降現代に至るまで「よっぽど」が強調ニュアンスを伴うのに対して「よほど」は平叙的である。
( 2 )「よっぽど・よほど」の意味は、古くは「良い程、良い頃合、適度」という本来の「よきほど」の意味を保っているが、近世に入ると次第に「適度を越えたかなりの程度」の意になっていく。
(略)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
” ※着色は引用者
日本語 文法 とても・あまり:解説
https://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/contents/explanation/034.html
”5 「あまり」は、話しことばでは「あんまり」になることがあります。また、話しことばでは「とても」が「とっても」となり、程度の高さを強調することがあります。
” ※着色は引用者
旧・室町言葉bot(Blueskyに引っ越し済)さんがリポスト
拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
彼はもう10年近く前から学問の場でも批判されるくらい有名なデタラメをいう学者なのだから、さすがにメディア側もそろそろ学んでほしい。
引用
字伏/azafuse
@xitian_zhenwu
·
8月6日
この前の山口謠司氏の件ね
池上彰氏の番組内容「テレビで放送すべきではありません」「俗説中の俗説」批判の専門家を直撃 | 女子SPA! https://joshi-spa.jp/1315083
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午後11:11 · 2024年8月6日
·
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拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
諸説ありって書けばテキトーなことを言っても許されるので、ある人は「諸説あり」と書いて「ウソです」と読むと言っていた。
午後10:38 · 2024年8月14日
·
2,821
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拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
鯛は形声字です。(諸説なし)
午後10:49 · 2024年8月14日
·
2,047
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追加ここまで]
[2024年8月16日に追加:
【現代語訳】 本居宣長『国号考』 訳:NF : とらっしゅのーと
https://trushnote.exblog.jp/14698191/
” あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、新年という機会にこの国の姿を振り返っておくのも良いのではないかと。という訳で今回はこの国の名の由来を知るという事で本居宣長『国号考』現代語訳を公開させていただこうと思います。
『国号考』は、本居宣長が天明七年(1787)に執筆した日本の様々な呼び名について考察したものです。日本や日本人とは何かを長年にわたり古典研究を中心として見つめてきた宣長にとって、国の名称の種類や由来などについても無関心でいられなかったのは自然な事といえるでしょう。なお、現代から見れば不適切だったり不快であるかもしれない表現もあるかもしれませんが、資料という事であえて極力そのままに訳しています。また、一文一文が長いので読みにくいかと思います。御容赦ください。
※漢字は原則として新字体に直しています。
<目次>
本居宣長『国号考』 訳:NF (一)
・大八嶋国
・葦原中国(「水穂国」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (二)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (三)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (四)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (五)
・「倭」の字
・「和」の字
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
・日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)
本居宣長『国号考』 訳:NF (七)
・豊(とよ)または大(おほ)という称辞(称えるための称号)
本居宣長『国号考』 訳:NF 参考文献
関連記事:
そのほかの宣長著作現代語訳や宣長に関するレジュメはここにあります。
「本居宣長関連発表まとめ」
”
「日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)」内容が、
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
https://trushnote.exblog.jp/14698306/
”目次
(五)はこちらです。
・日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)
「日本(にほむ)」とは、もとより「比能母登(ひのもと)」という国号があったのを表記した文字ではない。異国に示すため、わざわざ作られた国号である。『公式令詔書式』に、「明神御宇大八洲天皇詔旨」(神と共に大八洲を御統治なさる天皇が勅命を出された)とあるのについては、『令義解』に「用於朝廷大事之辞也」(朝廷の重大事に用いる言葉である)とあり、「明神御宇日本天皇詔旨」(神と共に日本を御統治なさる天皇が勅命を出された)とあるのについては、「以大事宣於蕃国使之辞也」(重大事を服属する外国の使者に告げるときの言葉である)とある事からも分かる。さてこの国号を御作りになったのは、いつの御世であろうかというと、まず『古事記』にはこの国号は見られず、また『日本書紀』皇極天皇御巻までに、「夜麻登(やまと)」と言うのに「日本」と表記した事例は、後にこの『日本書紀』を編纂した際に、改められたものであって、その当時の文字ではなかったのであるが、
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子、高麗百済新羅並遣使進調」(孝徳天皇が即位し、大化元年秋七月卯朔丙子に、高麗・百済・新羅がそろって使者を送り貢物を献上した)云々、「巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」(巨勢徳大臣が高麗の使者に詔勅を読み上げて言った、「神と共に日本を御統治なさる天皇が勅命を出された」)云々「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」(そして百済の使者に詔勅を読み上げて言った、「神と日本を御統治なさる天皇が勅命を出された」)云々
とある。これこそが新たに「日本」という国号を建て、示しなさった最初である。というのはこれは従来の詔勅の様子とは異なっているからである。また
「同二年甲午朔戊、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓」(大化二年甲午朔戊、天皇は宮殿の東門に行幸され、祖が右大臣に詔勅を読み上げさせ仰った、「神と共に日本を御統治なさる倭根子天皇が勅命を、集まって近侍している貴人たち、連・国造・伴造や民衆たちに出された」と。)
云々とあり、これは外国人に示した詔勅ではないが、この国号を御建てになり、初めての詔勅であったため、このように仰って、皇国の人々にも、新たな国号を示しなさったのである。もしそうでなければ、「日本倭根子」と、「倭(やまと)」へ「日本」という言葉を重ねて仰った部分は、「やまとやまと」と、同じ言葉が無駄に重なってしまうではないか。だからこの「日本」という国号は、孝徳天皇の御世の、大化元年に初めて建てられた事は明らかである。それなのに世間の自称知識人どもは、この文を良く考えないため、この国号がどの御世から始まったか、全く知らないのである。全くもってこの孝徳天皇の御世には、元号なども始まり、その他にも新たに定められた事が多かったので、この国号が出来たのも、ますます理屈が合うように思われるのである。さてこれを漢籍と照らし合わせて考えれば、隋の時代までは「倭」とだけ言っていたのを、唐の時代になって、初めて日本と言う言葉が見えるのである。『新唐書』に、「日本古倭奴国也」(日本とは昔の倭奴国の事である)と述べた後に、
「咸亨元年遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名更号日本、使者自言国近日所出以為名、或云日本乃小国、為倭所併、故冒其号、使者不以情故疑焉」(咸亨元年【670年】に倭国が使者をよこして高麗平定の祝いを述べた。その後に使者はやや中国の発音に慣れ、「倭」の名を嫌って「日本」と名乗った。使者自身は「国が日の上る場所に近いためそう名付けた」とも言い、あるいは「日本とは小国であり、倭国に併合された。したがってその国号を倭国が奪ったのだ」とも言っている。使者は実情を述べていないようで、言っている内容は疑わしい。)
とある。『旧唐書』には、「倭」と「日本」を別々に挙げ、
「日本国者倭国之別種也、以其国在日辺故以日本為名、或曰倭国自悪其名不雅、改為日本、或曰日本旧小国、併倭国之地」(日本国は倭国とは別の存在である。その国が太陽の辺りにあることから「日本」という名を付けたのだ。あるいは倭国が自らその名が雅なものでないのを嫌って、日本と改称したのだともいう。あるいは日本は元来小国であったが、倭国の地を併合したのだとも言う。)
と言っている。これらを参照すると、この国号が出来てまだ幾許もたっていないころなので、中国では、まだはっきりとは知らなかったのである。大化元年は、唐太宗の時代、貞観十九年にあたり、上述の咸亨元年は、その子である高宗の時代で、天智天皇九年に当たるので、二十五年後である。その間にも我が国と中国の間に往来はあったけれども、やはり中国へは、旧来の国号のままで御国書は送られており、「日本」という新しい国号が建てられた事は、ただこちらの人が私的に語った事などから、辛うじて聞き知るだけであったろう。さてその後の文武天皇の御世に、粟田朝臣真人を大御使として中国に遣わした際から、中国に対しても正式に「日本」と御名乗りになったのである。この朝臣は中国に参上した際に、「どこの国の御使者であるか」と問われ、「日本国の使者である」と名乗った事は、『日本続紀』に見えており、また上述の『旧唐書』にも従来の往来については、みな「倭国」という書き方で表記し、「日本国」という表記は、この真人朝臣が参上した時を最初として記している。この時に中国は武后の時代であった。なのである説でこの国号を、唐の武后の時代に中国から付けられたように言うのは、誤りであるがこうした理由からである。さてまた三韓の使者には、大化元年にすぐ宣言して知らせなさっているのは、既に『日本書紀』を引用して述べたとおりであるが、その国の『東国通鑑』という書で、新羅の文武王十年のところに、
「倭国更号日本、自言近日所出以為名」(倭国は名を改めて「日本」と名乗った。自分では太陽の昇る場所に近い事から名付けたと言っている。)
とあるのは、唐の咸亨元年に相当し、年も文の内容も同じなので、例の『唐書』を引用して書いたものであって、論ずるに足りない。一般に『東国通鑑』は、このようにそのまま受け入れられない事ばかりが多い。
「日本」と名付けなさった国号の意味は、万国を御照らしなさる、太陽の大御神が御生まれになった御国という意味であろうか。または西の服属する諸国から見て、太陽の出る方角にあたるという意味か。この二つの説から考えると、前者は特に理屈に合っているが、その当時の一般の考え方を考慮すると、やはり後者の意味で名付けられたのであろう。例の推古天皇の御世に、「日出処天子」と仰ったのと同じ趣旨である。
「夜麻登(やまと)」という言葉に、「日本」という文字を充てる事は、『日本書紀』から始まった。それは当時まだ前例がない事で、世の中の人も戸惑うであろうから、神代巻に、「日本此云耶麻騰、下皆效此」(「日本」はこれを「耶麻騰(やまと)」という。以下みなこれに倣うように)という訓に関する注釈がある。『古事記』は、大化年間より遥かに後世になって出来たけれど、全ての文字も何も、古く書き伝えられたままに書き記され、「夜麻登(やまと)」にもみな「倭」の字でだけ書き、「日本」と書かれた場所は一ヶ所もないが、『日本書紀』は、漢文で文飾し、字を選んで書かれているので、新たにこの良い称号を充てて書かれているのである。ただし畿内の一国である大和国に関しては、多くは「倭」と書き、天下全体の称号に関しては「日本」と書き、また畿内一国の大和国の時も、朝廷に書かれたものについては「日本」と書かれており、『日本書紀』の文中は多くはこうである。人名もみな同様であり、天皇の大御名には「日本」、それ以外の人の場合には「倭」と書かれた。「神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇倭姫命(やまとひめのみこと)」(NF注:神武天皇)などのようなものだ。日本武尊(やまとたけのみこと)は、天皇の大御父でいらっしゃり、事実天皇と等しいため、「日本(やまと)」と書かれたのである。
「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。「日本(にほむ)」というのは、意味は「日の本(ひのもと)」という意味であるが、元来異国に示すために設けなさったものであるから、「ひのもと」とは読まず、始めから「爾富牟(にほむ)」と音読みで読んでいた。『万葉集』に「日本之」とあるのを、「ひのもとの」と読んでいる書が多いのは、後世の人が、無理に五音で読もうとしたための誤りであって、どれも四音で「やまとの」と読むべきである。ただ三巻にある不尽(ふじの)山の長歌で、「日本之、山跡国乃(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とあるのと、『続日本後紀』十九巻にある、興福寺の僧の長歌に、「日本乃、野馬台能国遠(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とありまた「日本乃、倭之国波(ひのもとの、やまとのくには)」云々などとあるのは、これらだけは「ひのもとの」と読む。しかしこの「ひのもと」は国号について言っているのではなく、「倭(やまと)」にかかる枕詞である。それについては、私はまだ若い頃に考えていたのは、「やまと」を「日本」と書くので、その字をそのまま読んだ読みを、やがて枕詞におくようになったというもので、「春日(はるひ)の」春日(かすが)、「飛鳥(とぶとり)の」飛鳥(あすか)、などと同じ例であると思っていたのだが、そうではなかった。まず「春日(はるひ)のかすが」とは、春の日影がかすむという意味に続けたものであり、「飛鳥(とぶとり)のあすか」とは、『日本書紀』で、
「天武天皇十五年、改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮」(天武天皇十五年、朱鳥元年と改元して言い、加えて宮殿を名付けて飛鳥【とぶとりの】浄御原宮と言った)
とあり、これは朱鳥が出現するという瑞祥が出てきたのを祝して、元号もそのように改めなさり、宮殿の称号も、飛鳥云々とお付けになったのである。なのでこれは、「とぶとりの」浄御原宮と読むべきである。「あすかの」浄御原宮というのは、「あすか」は元来の地名であるから、ことさらにここに、「仍名宮曰」云々などという必要がないと思われる。「とぶ鳥」とは、「はふ蟲」というのと同じで、ただ鳥のことである。さて宮殿の称号をこういうので、その地名にもそれを冠して、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」と言うのである。さて「かすが」を「春日」、「明日香(あすか)」を「飛鳥」とも書くのは、言いなれた枕詞の字で、やがてその地名を表記する字としたものである。それは例の「あをによし」「おしてる」などという枕詞を、やがて奈良や難波を表す言葉としていうのと、意味合いは似ている。というわけで「春日(はるひ)のかすが」、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」というのも、その地名の字をそのまま読んだのを枕詞にしたのではないのであり、「ひのもとのやまと」も、同じくそうではない。またこれは枕詞の「ひのもと」という字から、国名の「夜麻登(やまと)」の字として「日本」と書くのでもないため、上述した春日や飛鳥の例とも異なる。ただ「日の本つ国たる倭(やまと)」(太陽の源である国たるやまと)という意味である。というわけでこの枕詞は、もし大変古くからあったのであれば、孝徳天皇も、日本(にほむ)という名を、これを思い浮かべられて建てられたのであろうか。しかしあの不尽山の歌は、それほど古いものではなく、それより以前には「日本」を「ひのもと」と読む例は見えないので、これは「日本(にほむ)」という国号の意味合いを考えて、後になってこのように言い始めたのであろうか。その前後関係ははっきりしない。
(七)に続きます。
” ※着色は引用者
本居宣長『国号考』 訳:NF 参考文献
https://trushnote.exblog.jp/14698320/
”目次
おわりに
…疲れました。近世日本語を現代語訳するだけなのに。『古事記』『万葉集』の読み方からして確立していなかった時代にここまで内容を解析して咀嚼し、更に和漢の事例に関する該博な知識を使いこなしていた事に驚嘆を禁じえません。それにしても、国の呼び方一つとっても、いろいろなものが見えてくるものなのですね。
【参考文献】
本居宣長全集第八巻 筑摩書房
漢文の素養 加藤徹 光文社新書
日本大百科全書 小学館
”
以下の記事にて、
本居宣長『国号考』 訳:NF (一)
https://trushnote.exblog.jp/14698225/
からの引用だとあるが、リンク先を間違えている。
”「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。”とあるのは、
2011年 01月 05日
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
https://trushnote.exblog.jp/14698306/
の方である。
「日の本の国」とは呼ばなかったのか? 宣長『國號考』について 文責 やすいゆたか
日付: 4月 15, 2019Author: mzprometheus
https://mzprometheus.wordpress.com/2019/04/15/norinagakokugouronhihan/
”□本居宣長の『國號考』に次のような文章があります。次のブログの現代語訳を引用します。https://trushnote.exblog.jp/14698225/
「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。「日本(にほむ)」というのは、意味は「日の本(ひのもと)」という意味であるが、元来異国に示すために設けなさったものであるから、「ひのもと」とは読まず、始めから「爾富牟(にほむ)」と音読みで読んでいた。『万葉集』に「日本之」とあるのを、「ひのもとの」と読んでいる書が多いのは、後世の人が、無理に五音で読もうとしたための誤りであって、どれも四音で「やまとの」と読むべきである。ただ三巻にある不尽(ふじの)山の長歌で、「日本之、山跡国乃(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とあるのと、『続日本後紀』十九巻にある、興福寺の僧の長歌に、「日本乃、野馬台能国遠(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とありまた「日本乃、倭之国波(ひのもとの、やまとのくには)」云々などとあるのは、これらだけは「ひのもとの」と読む。しかしこの「ひのもと」は国号について言っているのではなく、「倭(やまと)」にかかる枕詞である。
□これは国号「日本」の読みに関してのことです。国号は「日本」と定めたものの、元々「ひのもと」という国号があって、「倭国」が「日本」に変わった時に、これを「ひのもと」と読んでいたという解釈が考えられますね。宣長によれば国号を「日本」にしたのは異国向けだから「爾富牟(にほむ)」と音読みにしていたというのです。
□ところで『萬葉集』に「日本之」という言葉が出てきてこれを「ひのもとの」と読む人が多いが、原則は「やまとの」と読むべきだというのです。まあ『萬葉集』だから異人向けではなく「にほむの」とは読まないということですね。
□しかし「日本」は意味としては「日の本」ということですし、「日本」と書いて「やまと」と読めるのは、「日の本のやまと」という慣用句があったからです。ですから明らかに「やまと」と読むべき所以外は「日本」とでてくれば「ひのもと」と読むか「にほむ」と読むべきでしょう。
□特に「日本之山跡」となれば「日本」を「やまと」と読めば「やまとのやまと」と重複してしまいますね。萬葉集巻3,319高橋虫麻呂集歌319より
「高橋虫麻呂 富士山」の画像検索結果
「其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞」
「その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮(しづめ)とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」
□この場合、国号は「山跡」です。「日本之」はその枕詞に成っています。富士山は山跡国を鎮めているわけです。その場合に駿河に富士山があるので、鎮められている山跡国は大八洲全体だということになりますね。「山跡」は王朝名としては大八洲全体です。
□宣長は王朝名が「倭国」から「日本国」に変更した時期を孝徳天皇の大化の改新期と捉えているようです。その根拠を宣長は次のように説明しています。
□『公式令詔書式』に、「明神御宇大八洲天皇詔旨」とありますが、『令義解』に朝廷の重大事に用いる言葉とされています。そして「明神御宇日本天皇詔旨」は重大事を蕃国の使者に告げるときの言葉とされています。「日本」を蕃国の人は「やまと」とは読めません。「にほむ」と読むので、「明神御宇日本天皇詔旨」という言葉は、宣長の解釈では「日本(にほむ)」という国号を外国に示していることになります。
□問題はこの国号がいつ制定されたかですが、『日本書紀』の次の記事に注目します。
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子(中略)巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」
とあります。これこそが新たに「日本(にほむ)」という国号を建て、示しなさった最初であるというのです。宣長によりますと、『日本書紀』では「やまと」を表記するのに「倭」を使っていた箇所は「日本」と改めたわけで、それでいくとこの箇所も「明神御宇倭天皇」とあったのを「明神御宇日本天皇」に改めたのではないかと思われそうですが、高句麗や百済が相手の場面だということで「日本」は「にほむ」だということでしょう。
それに翌年の国内向けの記事で「同二年甲午朔戊、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓」とありますが、「日本」と「倭」が両方とも「やまと」と読むのは重複だから「あまのした日本(にほむ)をしろしめす倭根子(やまとねこ)天皇」ではないかと解釈しています。
□しかしこれこそ重複例なので「日の本の倭(やまと)根子」と読むべきですから「日本」は国号ではなく、枕詞ではないでしょうか。そして元年の「明神御宇日本天皇」の「日本」も「にほむ」でも「やまと」でもいいことになります。あるいは「ひのもと」という国号の読み方が既にあって、「ひのもと」と読んだとも想定できますね。
□宣長は「ひのもと」には古書に用例がないことを「ひのもと」が古代の国号でなかった根拠にしていますが、それはないものねだりではないでしょうか。元々国号は自称、他称でいろんな特色から言い習わされるものですから、ほとんど口誦伝承に頼っていた大八洲の倭人諸国には文字化して国号を伝えることは慣習化していなかったので、遺っていないだけなのです。
□「葦原中国」とか「瑞穂の國」とか「やまとの国」とかは高天原から神々が下を眺めて呼ばれたものなので、何時からということはできないと宣長は考えていたようです。ところが「日本」はどうも史料に出てくるので、歴史的な経緯があるということです。
□中国では隋代までは「倭(わ)」とだけ言っていたのです。それが唐代になって、初めて「日本」と言う言葉が出てきます。『新唐書』に、「日本古倭奴国也」(日本は古は倭の奴国の事である)とあります。引き続いてこうあります。
「咸亨元年【670年】に使者(河内鯨)を遣して高麗平定を賀す、後にようやく夏音に習熟すると、倭という名をきらい、日本に改号した。使者が自ら言うことには、国が日出ずる所に近いのでその名にしたということだ。或は云うことに日本はすなわち小国で、倭が併合して、それ故その号を冒すと、とも言っている。使者は情(実際の様子)を述べていないようで、これは疑わしい。」
□宣長の解釈では、645年に孝徳天皇の時に「日本」号を採用したものの、唐には伝わっておらず、咸亨元年【670年】に使者(河内鯨)も私的に倭という言葉どうも卑字らしいからいやだ「日本」がいいとか、日が上る所にあるから「日本」にしたとか、倭国が日本国を併合して、いい名前だから「日本国」に改号したなどと説明していたけれどどうも大げさな物言いだったので信用されなかった。正式には701年文武天皇の時代に粟田真人が遣わされた際に「日本国」から来たと告げ、それが聖神皇帝(則天武后)から認められたということで、聖神皇帝から「日本」国号が与えられたというのは間違った解釈だと宣長は語っています。
□「伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」と『日本書紀』にあるが、「日本はこころ安まる国」と訳されているがイザナギは水運を使って要るので「浦安」はやはり浦が安まる国という意味で、ここは盆地のやまとではないと思われます。
□ただしすぐに「復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」大国主命がやまとを玉牆內國と呼んでいます。それは三輪山周辺でしょう。饒速日王国も三輪山が中心地なので「日本」は「やまと」でもいいわけです。
□饒速日は天照大神の孫で記紀では天磐舟で天下りしたことになっているので、「そらみつ日本国」表現しています。おそらく草香宮が流されたので、宮を三輪山に遷したのです。その際に饒速日はすでに四、五歳になっていて、生駒山からやまとを見下ろした印象があったかもしれません。あるいは三輪山の山上から見下ろしたかもしれませんね。
□天照大神は記紀では生まれてすぐに高天原に上げられたことになっていますから、河内湖畔の草香津に宮を建てて、太陽神の国を立ち上げたこと。台風か津波で宮が流され、天照大神一世はなくなり、天照大神二世が宮を三輪山に遷し、それを饒速日一世が継承したことは隠蔽されています。そういう太陽神の支配する国があったとすれば、そこは「日下」あるいは「日本」と書いて「ヒノモト」と呼ばれていて不思議はなく、もっとも自然だったということです。
□記紀では饒速日王国を倒した磐余彦大王は天照大神の嫡流だったことになっていますが、それは天照大神が高天原にいて、そこで須佐之男命と宇気比をし、その息子が天忍穂耳命だったことが前提で、饒速日一世と邇邇藝命は兄弟という設定になっています。
□しかし天照大神・月讀命・須佐之男命の三兄弟が三貴神なのは大八洲に建国した建国神だからです。それを「御宇之珍子」と言います。それに伊邪那岐神は高天原を出ていて、高天原の支配者を決定できる権限などもっていません。天照大神が高天原に上げられた話は後世の支配者の都合で改変された部分なのです。
□天照大神が大八洲に建国したとしたら孫の太陽神の国のある河内・大和が最も相応しいですね。河内湖畔の草香に宮を建てていたので「日の下の草香」から「日下」で「くさか」と読むようになったのです。だとしたら浪速で宇気比などしていませんから、饒速日命は天忍穂耳命の子ではなく、天照大神二世の子なのです。
□須佐之男命と宇気比をしたのは月讀命だったので、邇邇藝命は月讀命の孫であり、磐余彦は月讀命の血統なのです。ですから磐余彦大王つまり神武天皇が建てた大和政権は太陽神の国ではなく、「日本国」ではなかったわけですね。七世紀初頭に神道大改革で天照大神が高天原に上げられて主神・皇祖神になっていたことに改変されたわけです。
□もし磐余彦大王が天照大神の嫡流だったなら、国名もはじめから「日の本の国」「日本国」でよかったわけですね。「日本」を「やまと」と読ませる必要もありません。六世紀末までは「日本国」でなかったからこそ、歴史を書く際も日本国の歴史としては書きづらかったのではないでしょうか。なにしろ『古事記』は一言も「日本国」とは言わないのですから。
□ということは天照大神が建てた天照王国及びその継続としての饒速日王国は「日の本の国」「日本国」だったということですね。草香に宮があった時は太陽神が支配する「日の下(もと)の国」「日下国」で、三輪山に宮を遷してからは、日が昇る方角も加味して太陽神が支配する東の国という意味で「日の本の国」「日本国」だったのではないでしょうか。残念ながら口誦伝承の時代だったので、文献史料で証拠付けることはできませんが。
□本居宣長は文献学者としてはすごい学者ですが、天照大神からの皇統の万世一系を信奉していたので、記紀批判は徹底せず、孝徳天皇から「日本国」ということで、河内・大和の原「日本国」や聖徳太子摂政期の「日本国」再建を発見できなかったということです。
” ※着色は引用者
日本のあけぼの 第12講、古代律令国家の完成
https://mzprometheus.wordpress.com/2023/09/13/na12ritsuryou/
”1、律令の完成と日本国号はセットか?
飛鳥時代年表
(画像省略。以下、同様に画像は省略)
星野遼子:古代律令国家の完成は、701年の大宝律令の発布だと思いますが、どうもその少し前に日本国号や天皇号の使用がはじまったらしいので、三点セットで日本の古代律令国家が完成したというのが通説になっています。
やすい:私の解釈では国号は律令によって定めるものではありません。『日本書紀』で「日本」は「やまと」と読むことに成っていて、「倭」と書いて「やまと」と読ましていた箇所は「日本」に書き直して、やはり「やまと」と読ましていたということです。
星野:しかし、「やまと」を「倭」とか「日本」に書き換えられるという発想はどこから来るのですか? ちょっと想像がつかないのですが。
やすい:それは確かに現代人には理解不能ですね。当時の唐や新羅の人たちも面食らったかもしれません。おそらく「日下」とか「飛鳥」と同じ発想でしょう。「日下の草香」とか「飛鳥の明日香」という慣用句から「日下」、「飛鳥」という読みが可能になったのでしょう。同じ要領ですと「倭人すむ山門」とか「日本の山門」という慣用句から「倭」や「日本」でも「やまと」と読めるということです。
星野:では『日本書紀』も『ヤマト書紀』と読ましていたのですか?
やすい:そこは微妙ですね。本居宣長は大化元年(六四五年)に「日本(にほむ)」国号が成立したと考えます。『日本書紀』の次の記事からです。
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子(中略)巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」
「明神御宇日本天皇詔旨」は「明神(あきつみかみと) 宇(あめのした) 御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが)詔旨(おほみことらま)」と訓じるのですが、高麗使や百濟使に対しては、「日本」と書いても「やまと」とは読んでくれないので、対外的には「にほむ」という国号を示したことになるというのです。
星野:大化二年の国内向けの記事では「明神御宇日本倭根子天皇詔」とありますが、「日本倭」は「やまとのやまと」となってしまいますね。
やすい:それで宣長は、「御宇(あまのした)日本(にほむ)をしろしめす倭(やまと)根子(ねこ)天皇」と読んだと解釈しています。しかし「日本倭」だと「倭」を「日本」に書き換えるところが、倭を消し忘れたという衍字(えんじ)説による解釈もありえますが、そうじゃないとしたら、「日本」は国号ではなく、枕詞で「日の本の倭(やまと)」と読むべきでしょう。
星野:「日本」を国号にした経緯は、『新唐書』にこうあります。
「咸亨元年(670年)、使いを遣わし高麗を平らげしを賀す、後に稍(ようや)く夏音を習い倭の名を悪(にく)み、更(か)えて日本と号す。使者自ら「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と言う。或は云わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」
この場合、唐にすれば国号を「倭」から「日本」に変更したことになっていますが、大八洲の大和政権としては国名はあくまでも「やまと」であり、「倭」も「日本」も外国向けの表記だったという解釈に成りますね。
やすい:それは「やまと」が正しい国名で、その他は間違いという捉え方をすればそうですが、「倭国」とか「倭人」という表現は対外的には使っていたわけで、それが間違いだったわけではありません。「倭」は卑字だから「和」や「大和」にして使っていたこともあるわけです。聖徳太子の『憲法十七條』は「和」を国家精神に昇華したわけです。
星野:それじゃあ「日本」はあくまでも「やまと」にかかる枕詞で国名ではなかったものが、670年に対外的な国名になったということでしょうか。
やすい:「日下」で「草香」と読むのは、「日下の草香」で「草香」が国名だったからですが、その国が「日下の国」と呼ばれていなかったことではありません。国名は自称、他称でいろいろな呼び方をされるものです。ですから、天照大神や饒速日神が支配していた国は「日下国」あるいは「日本国」と呼ばれていた可能性は大です。
星野: 「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と『新唐書』にあるので、太陽神が支配していたので「日下国」だったのが、東の方角にあるので「日本国」に変わったのですか?
やすい:「日本国」だと太陽神が支配する国という意味と、東の方角の国の両方の意味を兼ねることができるので、河内・大和倭国は、天照・饒速日時代に自称では「日下国」で、他称では「日本国」です。
星野:ところで「やまと」というのが「倭」や「日本」の読みだというのが「日本書紀』の立場ですが、「やまと」の国と言っても、時代によって河内・大和を中心とする畿内国家なのか、大八洲の大部分を統合した国家なのか問題ですね。
やすい:「邪馬壹国」と『魏志倭人伝』にはありますが、「壹」は「臺」の草書体の原稿の見間違え説が説得力があります。「邪馬臺国」だったとしたら、その読みは「やまと国」だったと考えられますから、その「やまと国」は筑紫山門を中心にする筑紫倭国のことだと思われます。
星野:それなら二世紀から三世紀に「やまと国」が筑紫と畿内にあったということでしょうか?
やすい: 畿内大和の場合葛城や大和盆地に宮があったのですが、九代開化天皇が三笠山の麓春日に率川宮(画像)を営み、崇神天皇が磯城瑞籬宮を三輪山の扇状地に作っています。
それで「やまと」と呼ばれるようになったとしたら、筑紫倭国の山門の方が1世紀以上古いですね。四世紀に景行天皇の筑紫遠征があり、畿内やまとが大八洲の大部分を統合したのです。もちろん7世紀、8世紀の「大和国家」は畿内やまとを中心にする国家です。
星野:では畿内大和は何時頃から「日本国」あるいは「日本国」とよばれるようになったのですか?
やすい:饒速日王国は「日本国」と呼ばれていたことは充分考えられますが、磐余彦の建てた畿内の国家は、太陽神が主神ではなく、天之御中主神を主神と仰ぎ、月讀命を祖先神として祀っていたので「日本国」ではありません。七世紀初頭に神道大改革が行われたので、「日本国」と呼ばれるようになっていても不思議ではありません。倭人は口誦伝承で歴史物語を伝えてきたので、国名などの古い文字資料はほとんど残っていません。国名は自称、他称があり、言い慣わされるものであって、法的に制定されたものではないのですが、律令国家の完成を語る人は、日本国号が律令で規定されたかのように取り扱うので、律令の完成と日本国号がセットにされてしまうのです。
星野:天皇号の始用については「第9講、仏教導入と神道改革:蘇我専制」で、神道改革に関連して天皇号が7世紀初頭607年頃に使われ始めたということを詳しく議論していますので、そちらを参照していただきましょう。
やすい:天皇号の始用は推古天皇からで、その時に朝廷の実権は蘇我馬子が握っていました。その時の天皇は天之御中主神の現人神で天上・地上の中心に存在するという意味でした。ただ中心が「ある」ことで宇宙や地上の秩序が成り立つということで、光は弱くてもよく、何も命令しなくてもよいわけで象徴的な存在だったわけです。律令体制においては天皇は、各地の王たちをまとめる大王ではなく、唯一絶対の王であり、王土王民思想に基づいていました。いわゆる東洋専制君主制になったわけです。その意味では天武天皇になって絶対君主的な意味をもつ天皇になったといえるでしょう。
(後略)
” ※着色は引用者
2011-01-24 00:00:00
【日本書記から】鞆の浦と神話/其の五
https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10746053433.html
”【第四段 大八州生成章】
(中略)
産む時に至るに及びて、先づ淡路洲(あはぢのしま)を以て胞(え)とす。意(みこころ)に快びざる所なり。故(かれ)、名けて淡路州と曰ふ。廼ち大日本(おはやまと)日本、此をば耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆(しもみな)此に効(なら)へ。豊秋津洲(とよあきづしま)を生む。
(中略)
<訳>
(中略)
産む時になって、まず淡路洲(あはぢのしま)を第一子とした。意に満たず悦べない子供であった。そのため名付けて淡路州と言う。そしてすぐに大日本豊秋津洲(おはやまととよあきづしま)<日本、これをやまとと言う。以下すべてこれに従う。>を生む。
(中略)
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” ※着色は引用者
追加ここまで]
[2024年8月17~18日に追加(この記事に追加したのは8月18日):
https://x.com/saikakudoppo/status/1707993560556155120
”犀角独歩
@saikakudoppo
内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
本論文は「P音考」と名声を博した上田万年以前に実は先行する研究があったことを論及
は行の子音は、P→ph(f)→h と変化したという
執筆時、名古屋大学大学院博士課程後期であったというから驚いた
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52230983.html
午後2:39 · 2023年9月30日
·
214
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”
リンク先:
犀の角のように独り歩め:内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
2023年09月30日
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52230983.html
”内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
でも書いたのだが、以前『「免う本うれんくゑきやう」の読みについて』を書いて昔の、は行清音は“h”は“p”だったと推理した。
なんと19世紀上田万年の「P音考」が有名で、実は本居宣長、チェンバレン→上田万年→新村出・橋本進吉と、その研究があったことを知った。
本論文は「P音考」と名声を博した上田万年以前に実は先行する研究があったことを論及したものだ。
は行の子音は、P→ph→h と変化したという
phをfとする箇所もあるのだが、わたし個人はf(またv)音が日本にあったという分析には消極的 ph との表記が適切と思う。
h はまた k、w の変化もあったというが、この点は別の機会としたい。
目次
はじめに
1上田万年の「P音考」の内容
2「P音考」の記述と近世音韻学
3雑誌“Transactions of the Asiatic Society of Japan”の影響
4「P音考」と音韻対象
5「P音考」とグリムの法則
6〔f〕であることとグリムの法則
7その後の展開と評価の確立
8三好米吉・大槻文彦・大島正健の記述と中国漢字音
9アイヌ語への言及
おわりに
*執筆当時:名古屋大学大学院博士課程後期
”
https://x.com/saikakudoppo
”犀角独歩
@saikakudoppo
1990年創価学会脱会→大日蓮編集室、教学部嘱託→大石寺棄教→日蓮宗立正福祉会青少年心の相談室相談員→RMC 脱会脱会後支援→JDCC編集長、理事→AERA、The Boston Globeに載る→日教研、現宗研で大石寺戒壇本尊真偽鑑別も遠い過去|ヘイト発言は言論暴力である、自分の過去の言説も反省、改めていく
東京都blog.livedoor.jp/saikakudoppo/
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https://x.com/kzhr
”Kazuhiro hokkaidonis
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Kazuhiro Okada, PhD (Hokkaido, 2015), b. 1987, linguistics w/ writing systems. ‘Fas est et ab hoste doceri’ (Ovid). Not a commentator on current affairs
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”Kazuhiro hokkaidonis
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「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法(訂正と追加)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009410424456064
がリポジトリに上がっていないように見えるが、
https://hdl.handle.net/11094/80979
ほかのファイルの一部と化しているだけのようだ
cir.nii.ac.jp
「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法(訂正と追加) | CiNii Research
記事分類: 文学・語学--言語・言語学
午前0:39 · 2024年7月28日
·
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(上記の続き)
https://x.com/kzhr/status/1817223899396120607
”> Hoffmann(1805-1878)が日本の研究者に何の影響も与えなかったというのが歴史的事実なら,そのような歴史はまちがっている.読まれなかったHoffmannがいけないのではなく,読まなかった方がよくない.研究史を論じる立場にありながら,塚原鉄雄はこの歴史のまちがいに気附かず,自ら歴史と同一化
午前0:41 · 2024年7月28日
·
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”
https://x.com/kzhr/status/1817224424715903089
”激しい。しかし、ハ行音が/p/に遡る可能性をここまで否定するのはどうなんだろうか。
午前0:43 · 2024年7月28日
·
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”
https://x.com/saikakudoppo/status/1707933422554140963
”犀角独歩
@saikakudoppo
〔覚書〕
・小林明美
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
・内田智子
上田万年「P音考」の学史上の評価について
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/2006502/files/nagujj_97_98.pdf
・ハ行子音の歴史関連参考文献
https://lingua.tsukuba.ac.jp/nihongo/hagyou.html#kenkyuusi
午前10:40 · 2023年9月30日
·
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”
小林明美
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
のリンク先が「Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣」でどういうことだろうと思ったら、末尾に「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」がある。
Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣
小林, 明美
大阪外国語大学学報. 1984, 64, p. 201-218
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
の末尾より引用しつつ、考察していく。再現できない箇所があることに注意。例えば、
【uの下に⌒】など。
”
前回掲載論文の訂正と追加
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
『学報』,No.56, pp.51-59
小 林 明 美
正 誤 表
頁 行 誤 正
53 2 [uru【uの下に⌒】asi] [uru【uの下に⌒】a∫i]
54 5 但加唇音 皆加唇音
7 ただし 〔ただし,〕いずれも
55 36 [mb]/[mb]と[nb]/[mb] [mb]/[mb]と[nd]/[nd]
(引用者注:読者視点で左の方のmやnは小さいうえに累乗の位置)
56 1 漢音が[ダ][ナ] 漢音が[ダ][バ]
〔52頁注2に関連して,次の文章を追加〕
上田万年とJohann Joseph Hoffmann
うえだかずとし
上田万年(1867-1935)の「P音考」(「語学創晃」,『帝国文学』,Vol,4, No,1,1898, PP.41-46)に対する評価には平衡を欠くものがある.ハ行子音が両唇音であったことは,上田より30年も前から知られていた.一方,これが閉鎖音であったということは,85年たってもまだ証明されていない.なお,同じ論文の中で上田は日本語「かな」(仮名)の語源をサンスクリット“kara-
ṇa”とする見解を出しているが(「仮字名称考」, ibid., PP.35-38),愚論と言うよりほかなく,言語学を修めた人の論義であるとは信じがたい.
「今日の波行音が,上古では,両唇破裂音のPであったとする仮説は,上田博士が最初ではない.けれども,国語史学史の対象とする場合には,上田博士の仮説を,その濫觴とすべきであろう.」(塚原鉄雄,『国語史原論』,東京,1961,p. 34) Hoffmann(1805-1878)が日本の研究者に何の影響も与えなかったというのが歴史的事実なら,そのような歴史はまちがっている.読まれなかったHoff nannがいけないのではなく,読まなかった方がよくない.研究史を論じる立場にありながら,塚原鉄雄はこの歴史のまちがいに気附かず,自ら歴史と岡一化している.上田以前になされたハ行子音の研究について,塚原は東条操の『国語学新講』を参照する以上のことは何もしていない.また,東条はEdkinsとChamberlainの名前をあげるだけで, Hoffmannについては名前すら出していない(『国語学新講』,新改修版,東京,1965,P.64).東条も塚原もHoffmannを読むどころか,その存在すら知らないのである.もっとも, 「P音考」について
216
論じた個所と「言語学」の定義を下した個所(PP.79-90)を除けば,塚原の論義は極めて明晰であり,『国語史原論』は優れた学術書である.
「波行子音が,〈最初にP音であった確実な証拠というべきものは あまり多くない〉とする橋本博士の所説は,研究史上,上田博士の占める意義には影響がない.波行子音がP音であったかどうかということと,<h→ɸ→P>と遡及しうると考えようとしたことは,別個の問題である.前者は量の問題であるが,後者は質の問題である.」(塚原,op. cit.,loc.cit.) それなら,質的に価値のある発見をしたのは上田ではなくHoffmannである.それでは,上田は「量」の上で何か貢献をしたのであろうか.
上田の主要な論拠は,「[k]:[g]= x:[b],∴x=[P]」という論式にある(op.cit.,pp.41-44). 論理的に整然とした音韻体系が過去にあったはずだというのである.
第2の論拠は日本語に[h]がなかったということで,その例証としてサンスクリットの単語を七つあげているが(ibid., p.44),そのうち正しいのは“Râhula”(rāhula)だけである.“Arahân” “Maha” “Rohu”はそれぞれ“arhan” “mahā-” “rāhu”のまちがいであり,“Ahaha” “Hami”
“Hasara”はどこにも存在しない架空の語である.上田の態度は極めて不真面目である.着想は他人のものであるので,せめて実例ぐらいは自分で見つけようとがんばったが,結果はみじめなものとなった.上田がライプチヒでBrugmannから印欧比較言語学を学んだなどという話はとうてい信じられない.
第3の論拠は「古きアイヌに入りし邦語」であり,“pone”(『骨』)など10語をあげる(ibid., p.45).「何故にF Hを有するアイヌは,之を其音にて伝へざるか」と言うが,アイヌ語には音韻/ɸ//f/がなく,上田の言うFは/h/の条件異音(/u/の前)にすぎない.アイヌ語に見られる日本語からの借用例は,ハ行子音が両唇音であったという証拠になったとしても,閉鎖音であったという証拠にはならない.
第4の論拠は「熟語的促音および方言」である.「熟語的促音」の例として「すっぱい」「おこりっぽい」「いなかっぽう」をあげるが(ibid., PP.45-46), 「ぱい」「ぽい」「ぽう」の由来を明らかにしていない.「すっぱい」「いなかっぽう」は今でも地方的にしか用いられていない語形である.「おこりっぽい」もおそらく関東方言に起源をもつ語形であり,広く使われるようになったのは古いことではない.このような語形が17世紀以前にさかのぼるはずがない.最後に,「方言」の例としてあげるのは,国頭,八重島,宮古の方言に認められる[p]である(ibid., p.46).
上田があげる論拠の中で,Hoffmannがすでに出しているものを除けば,検討に価するのはこれぐらいである.方言に傍証を求めるHoffmannの方法を受け継いだものだが,その頃にはChamberlainの琉球方言の研究が出ていた(Essay in Aid of Grammar and Dictionary of the Luchuan Language, Yokohama, 1895).もっとも,国頭方言などに聞かれる[p]は,琉球祖語にさかのぼる古形を保っていることが証明されないかぎり,「上古」(7-8世紀)に日本語の
217
ハ行子音が閉鎖音であったことの傍証にはならない.さらには,琉球租語で[p]であったとしても,8世紀の奈良方言でも[p]であったとはかぎらないのである.それどころか,上田の場合は,国頭などで聞かれる[p]の古さを証明する必要すら感じていない.
Hoffmannをはじめとする先人の研究について,上田は何も言及していない.知った上でこういう「発見」を発表したとすれば不誠実であり,知らずに「発見」したのなら愚かしいことである.それに,上田は「量」の上でも何の貢献もしていない.それにもかかわらず,「今日の国語史はP音考の段階から殆んど発展していない」(塚原,op. cit., p.29)と言われるほど上田の「発見」は今田でも高く評価され,「P音考」は国民的常識にさえなっている.
塚原によれぱ,「国語学」とは「国語の主体」によってなされる研究であり,「国語学では,言語生活における主体性に即応した,この言語自体の解明」(ibid., p.80)がなされるという.Hoff-
mannは「国語の主体」ではなかったし,日本へ行ったことさえなかったが, 日本の文献を読み,西洋人の残した日本語のローマ字転写を調べて,ハ行子音が昔は両唇摩擦音であったことに気づいた(A Japanese Grammar, Leiden, 1868, p. xiv ff.).この発見の価値は,「国語の主体」たちの目にとまらなかったからといって,少しも減るものではない.
218
”
攻撃的すぎるなあ。「P音考」には、根拠にするのがまずい箇所が多いってことだな。
重要論文を発見できてよかった。「前回掲載論文の訂正と追加」なので、「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」も存在する。こちらも読んだ。こちらも重要論文。論理学は本当に大事だな。
https://x.com/latina_sama/status/1680191481632673793
”ラテン語さん 1/7『世界はラテン語でできている』発売
@latina_sama
ca.はラテン語のcirca(約)
cf.はconfer(比較せよ)
e.g.はexempli gratia(例えば)
et al.はet alii [aliae](〜と他の人々)
ibid.はibidem(同じ場所で)
id.はidem(同じ人、物)
i.e.はid est(即ち)
loc. cit.はloco citato(引用文中に)
op. cit.はopere citato(引用作品中に)
sicは「そのように」です。
引用
有村元春/ Motoharu Arimura(博物館勤務)
@011235Moto
·
2021年11月4日
英語で書かれた論文や本で出会う略語のうち、僕が初めて見たときに戸惑ったものをまとめてみました。一般的な略語って、その論文や本の略語一覧には載ってないんですよね。ibid.は正体を暴くのに数日かかりました(ググったらわかることなのか、それとも業界用語なのかという判断すらできず…)。
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画像
午後9:24 · 2023年7月15日
·
20.1万
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”
特に断らないかぎり、着色など強調があるなら引用者によるものである。
Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
(小林明美, 大阪外国語大学学報. 1984-03-20, 64, p. 201-218)
の「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」の補足は読み終えた。次は
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80881/joufs_56_051.pdf
(小林明美, 大阪外国語大学学報. 1982-03-10, 56, p. 51-59)
を読んでいく。
冒頭が英語の要約。
『悉曇相伝』(しったんそうでん)。Sinren(心蓮)(?-1181)。
心蓮の頃の「ハ」の発音の候補が3つある。
The voiceless(無声) labial(唇音) fricative(摩擦音)[ɸ]、
The voiced(有声) labial(唇音) fricative(摩擦音)[β]、
or the labial half-vowel [【uの下に⌒】]。
彼がstop(閉鎖音)や摩擦音について論じるとき、the voiceless one(清音【撥音と促音を除き、濁音符も半濁音符も付けない音節[シラブル])のみとりあげている。
なので[β]は排除される。彼の定義する「ワ」は[u]+[a]なので半母音も除外される。
よって、心蓮の頃の「ハ」は[ɸ]。
(【uの下に⌒】はこのブログで再現できないので代役の表記。清音の説明箇所【 】は私によるもの。
論文の日本語の箇所の一部を記していく(そのまま記すこともあれば、要約することもある。私が補足することもある)。
p.52
日本語のハ行子音がもともと両唇摩擦音[ɸ]であったという見解を最初に出したのはJohann J. Hoffman(1805-1878)である.1)1868年のことであった.それから三十年たった1898年に上田万年(1867-1935)は論文を発表し,この前段階が両唇閉鎖音[p]であったという仮説を立て,摩擦音化したのは八世紀よりも前であったとした.2)
p.52
2) 上田万年, 「語学創見」, 『帝国文学』, Vol. 4 , No. 1, 1898.
(備忘録者中略)
ハ行子音の祖形が[p]であったことを証明するものは何もない.少くとも「切韻」(601年)の時代までは中国語に両唇摩擦音または唇歯摩擦音はなく,したがって/p/ 対 /ɸ/ /f/の音韻対立はなかった. 『魏志倭人伝』(三世紀末)から「推古遺文」(七世紀前半)にいたる文献でハ行音に中国語の/p/があてられているとはいえ,[ɸ]と区別した上でのことであるとは言えない.アイヌ語にも/ɸ/または/f/はなく,/h/ の条件異音(/u/ の前)として[f]があるだけである.
琉球方言の分離が想像を絶する音である以上,想像し得る過去に,すなわち文献時代より数世紀前に祖形*[p]の存在を想定するとすれぱ,「唇音の退化」(橋本進吉,『国語音韻の研究』,1950,pp.262-27)という「国語音韻変化の一傾向」に即して想像をめぐらすよりほかない.ただ,「唇音の退化」を認める上で橋本の論義の出発点になるのがほかならぬ*[p]祖形説なのであり,この点のみに限れば循環論法の弊に陥るおそれがある.
(論理学は本当に大切。抽象的な議論をしているを気をつけていても、詭弁に陥ることがあるから本当に注意しないといけない)
平安初期の[【uの下に⌒】i][【uの下に⌒】e][【uの下に⌒】o]は現在[i][e][o]になっており,これだけを見ればたしかに「唇音退化」が認められる.しかしながら,十世紀末に/オ/と/ヲ/が区別されなくなったとき,/オ/ではなく/ヲ/に統一されたのである.[o]>[【uの下に⌒】o]という変化は,むしろ「唇音強化」である.
(f音は何かの音が唇音退化してできたと考え、f音の前はp音だという推測が成り立つとは限らないってことね。必ず退化するとは限らないってこと)
また,[【uの下に⌒】e]はいきなり[e]に変ったのではなく,十三世紀以降に [【iの下に⌒】e]に統一されその状態は江戸時代までつづくのである.[【uの下に⌒】]>[【iの下に⌒】]の変化は「退化 」ではなく,調音位置の変化にすぎない.合(以降p.53)拗音[k【uの下に⌒】i][k【uの下に⌒】e]は室町時代に消え,[k【uの下に⌒】a]も江戸蒔代以降次第に[ka]に変わった.これはたしかに「唇音の退化」であるが,合拗音はもともと外来音であり,借用の時点でとらえれば「強化」なのである.そうすると,「唇音退化」を示唆する根拠として残るのは,[ɸ]>[【uの下に⌒】]/[h]という音韻変化だけになるわけである.「傾向」というのは「かなり多くの個物が同じ動きをすること」であるから,一つの音韻について起こる変化だけから「一傾向」はもはや認められない.それに,[ɸ]>[【uの下に⌒】]は条件変化にすぎず,[ɸ]>[h]は調音位置の移動といえばそれまでである.
p.53
七世紀から八世紀にかけてハ行音節を表記するために用いられたのは,中国語では[p]で始まる音節を表記する漢字であった(/ハ/:“波”[pua],/ヒ/甲:“比” [pii],/ヒ/乙:“悲”[piui],/フ/: “布”[po], /へ/甲:“幣”[biɛi]>[piɛi],/へ/乙:“倍”[buei]>[puei], /ホ/:“富”[pieu] ).八世紀の中国語で/p/がまだ常に閉鎖音であったにしても,あるいはすでにある場合は摩擦音化して[ɸ]または[f]になっていたにしても,5)八世紀日本語のハ行音が[p]であったのか[ɸ]であったのかを決める上で日本語で用いられた表音漢字は役に立たない.6)
九世紀までにこの子音の音価が[ɸ]になっていたとする安藤は,「ハ行転呼」の事実をふまえて,「無摩擦音【uの下に⌒】の前段階としてありえるのは,閉鎖音[p]よりも摩擦音[ɸ]である」という音韻変化の常識をよりどころにするしかなかったのである.
(8世紀つまり奈良時代開始かその直前あたりがpかfか不明ってことね)
5)601年に編纂された発音辞典『切韻』は,発音によって漢字を分類整理するのに「反切法」を用いたものである.
(反切[はんせつ]:漢字の字音を表わすのに、他の漢字二字の音をもってする方法)
作詩法の規範書として唐代に広く用いられ,多くの流布本写本ができたが,1008年に増補校訂版『広韻』として集大成された.『切韻』から『広韻』まで400年もたっているのであるが,そこに示されている音韻体係は基本的に変っていない.当然ながら,実際の発音はその間にかなり変ったことが予想される.
チベット文字による音価表記のついたテキストが敦煌から発見され, 1933年に羅常培によって詳細な報告がされた結果,八世紀の長安方言の音韻体系がわかるようになった.韻書で両唇閉鎖音([p],[p’],[b])とされているもののうち後代[f]になるものは,チベット文字“pha”あるいは“ha”によって音価が示されており,当時の長安方言で摩擦音化([ɸ]または[f] が起っていたと推定される.Cf.羅常培,『唐五代西北方音』,歴史語言研究所單刊,甲12,1933, pp.17-18.藤堂明保,『中国語音韻論』, 1980, p. 276.
6) 当時の日本人留学生が,長安方言の摩擦音を日本に伝えたということは当然考えられるが,日本語のハ行音を表記するにあたって排他的に摩擦音系統の漢字を使う試みはなされていないのである.
(摩擦音:両唇、歯と唇、舌と歯茎、舌と口蓋などの間を狭め、その隙間に気息を通して発する。[Φ][ß] (両唇音) 、[f][v] (唇歯音)。
[p] は破裂音であり、摩擦音ではない)
つづいて1928年に橋本進吉は文献資料を呈示して,九世紀にこの子音が[ɸ]であったことを直接証拠によって証明しようと試みた.橋本が用いたのは,円仁の『在唐記』中に見つけた一行であった.7)
7)橋水進吉,「波行子音の変遷について」(『岡倉先生記念論文集』,1928),『国語音韻の研究』,1950, pp.37-39.
p.54
円仁(793-864)は840年に長安で南インド出身のRatnacandraからサンスクリットの発音を学び,それを入念に記録して著書『在唐記』の中に収めた.橋本が取り上げたのは,サンスクリット音節paの音価を記述する次の一行である.
pa 8) 唇音 以本郷波字音呼之 下字亦然 皆加唇音 9)
(備忘録者注:正誤表で修正済み。以下も正誤表に基づき修正)
(〔インド文字〕“pa”〔の表わす音〕は唇音である.“波”の字で表わされる日本の音を用いてこれを発音する.次の文字〔,すなわち“pha”の場合〕もそうである.〔ただし,〕いずれも唇音を加える.)
ここで橋本が注目するのは,「皆加唇音」という最後の一句であり,「特にかやうな注意を加えなければならないのは,日本の波字の音がpaでなくFaであった為であって,軽い両唇音Fを重くしてp音に発音させる為であった」10) と考える.「加唇音」という三語からこれだけの「推定」を引き出す根拠を示めすために,橋本はさらに“ba”の項を引用する.
ba 以本郷婆字音呼之 下字亦然 11)
(〔インド文字〕“ba”〔の表わす音〕は,“婆”の字で表わされる日本の音を用いてこれを発音する.次の文字〔,すなわち“bha”の場合〕もそうである.)
そこで,「〔a)〕baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで,何等の註をも加えてゐないのを以て見れば,〔A)〕日本の婆は正しく梵字baの音に相当する」12) のに対し,「paの場合には,波と呼ぶと云ひながら,〔b)〕特に『唇音を加う』と註し〔てゐるのを以て見れば,〕〔B)〕波は梵字paとは幾分の相違があるのであって,」〔C)〕「波はFaであったと認められる.」13)
a)とb)の二つの事実を対比した上で,そこから命題A)およびB)を引き出すのは極めて理に適った態度である.テキストの他の個所を見ても,サンスクリット音に日本語音がぴたりと一致する場合には何のただし書きもないが,そうでない場合は必ずただし書きがある. 問題は命題C)であり,これはa)およびb)から導けないし,命題B)と論理的に結びつくわけでもない.前に出した雅定」に対する根拠はここでも示されておらず,醐じ「推定」がくりかえされているにすぎない.ただ,前提b)に前提a)がここで加わったため,命題B)が強化されている.
8) (中略)「/p/系列の音〔すなわち/p/ /ph/ /b/ /bh/ m/〕を発音しようとする時,学習者は,両唇を互いに接触させなければならない.」
9) 円仁,『在唐記』,『大日本仏教全書』,Vol.38,1971, p.90,6,1.9.
p.55
学報第56号
このように,テキストの文字だけから引き出せる結論は「日本語の/ハ/は,サンスクリットの/pa/と似ているが,全く同じではない」ということだけである.
【
「唇音を加う」なので「ハ」がp音「パ」では「ない」[=違っている]ことは確実だが、f音と一致するとは限らないってことね。pでもないしfでもないような中途半端な音かもしれない。とはいえ、「唇音を加う」の説明で読者が理解できるぐらいのp音との差だろうね。
p音と差がある音といっても、『悉曇相伝』(心蓮の生存期間が?-1181なので12世紀。平安末期あたり)の頃の「ハ」は[ɸ](本論文の結論)であり、
『後奈良院御撰何曾(ごならいんぎょせんなぞ)』(1516年。室町時代)の「母」が「ファファ」なので、どちらかというとfに近い発音だったろうね
】
さて,“pa”の項と似た表現をとっている箇所がテキスト中に五つある.
(「但加○音」が4例、「但皆加歯音」が1例)
ḍaについては「但加舌音」と言い,daについては「但加歯音」と言う.日本語音/ダ/はサンスクリット音ḍa daの両方に似ているが,ḍa 20) を発音するためには舌音であることを特に強調し, da 21)を発音するためには歯音であることを特に強調しなければならない。日本語音/ダ/を基準にして,サンスクリット音ḍaとdaを発音する場合に必要な調音位置の修正を教えているのである.ḍaの場合は舌の位置をより後に移〔して舌先を後にそら〕し,daの場合は舌の位置をより前に移すことになる.taの場合も同じである.
p.56
“那”と“摩”を日本人が使う場合,有声閉鎖音を表わす可能性と鼻音を表わす可能性がある.そこで,サンスクリットのna maを発音するときは,「鼻音であることを強調せよ」というのが円仁の指示である.
このように,「ある音を加える」というただし書きは,漢字で表わされる日本語音に可能性の巾(原文ママ)を想定した上で, 「その範囲内の特定の音であることを強調せよ」と指示するものである。このような場合には二通りある.a)ある漢字で表わされる日本語音を手がかりに問題の外国音の発音を試みようとして,特に注意深く発音すればその外国音となるが,いいかげんに発音するとそうはならない場合に,「〔調音位置を意識的にずらして〕その音であることを強調せよ」と指示される.b)ある漢字が二通りに発音する習慣があって,そのどちらかが問題のサンスクリット音に一致する場合,「どちらかであることを強調せよ」すなわち「意識してどちらかを選べ」と指示される.
さて,“波”は日本で排他的に/ハ/を表記するのに用いられた.そうすると“那”や“摩”のように表記に二重の可能性があるわけではない.そうすると,「加唇音」というただし書きは,da ta daの場合と同じように,「/ハ/を手がかりにサンスクリットのpaの発音を試みる場合,調音位置を修正せよ」という指示である.
このように,テキストから知られる限り,「ある音を加える」というただし書きは,その音を「強く発音する」すなわち「閉鎖度を高める」という意味で使われていない.「加唇音」という表現は,閉鎖度ではなくて,調音位置に言及しているのである.
閉鎖度に言及する場合に円仁がとる表現は全く別である.
va 以本郷婆字音呼之 向前婆字是重 今比婆字是軽 有人以唐国嚩音呼之 甚錯 24)
(〔インド文字〕“va”〔の表わす音〕は,25) “婆”の字で表わされる日本音を用いてこれを発音する.〔ところで,“婆”の字で表わされる日本音は,すでにインド音“ba”にあて
(ここからp.57)
ている.ではこの場合はどう違うのか.〕前に“婆”の字〔で表わされる日本音〕をあてた方〔すなわちba〕は重い.〔ところが〕今ここで“婆”の字〔で表わされる日本音〕をあて
ている方〔すなわちva〕は軽い.中国のbiga〔k〕(嚩)の音を用いてこれを発音する人がいるが,はなはだまちがっている.)
(備忘録者注:嚩[ハク]:まじないの語。呪文などで使われる。「バ」の音写に使われる)
これを言葉通りにとると,サンスクリットの/v/は,有声両唇摩擦音[β]として聞かれたということになる.
閉鎖度を示す「重・軽」という表現をとらず,調音位置の修正を指示する「加唇音」という表現をとっていることからわかるように,円仁は/ハ/の頭音を[p]とは見なしておらず,サンスクリットの/P/と比べて調音位置が少しずれると考えているのである.
では,/p/の調音位置とは違う調音位置とはどこか.そこで調音される音はどんな音か.これが次の問題である.この問題はもはや円仁のテキストだけからは解けない.『在唐記』のサンスクリット音記述が今日でも非常にわかりやすいのは,円仁の音声観察と記述の方法に極めて高い普遍性があるからである.九世紀という時代を考える時,これは驚くべきことである.しかしながら,こういう古い資料を扱う時,すべてを現代人の発想で律するのは不可能である。文献学の目的は可能なかぎり著者の意図に即してテキストを理解することにあるが,『在唐記』が極めて特異な資料である以上,この場合は広く平安時代の悉曇文献の中に問題を解くための手掛りを求めることになる.
Ⅲ
橋本は中国資料によって十三・十四世紀のハ行子音を[ɸ]と推定し,さらに平安末期の資料として心蓮の『悉曇口伝』を取り上げる.
26) 心蓮, 『悉曇口伝秘中秘々』,金剛三昧院本, 1234年写, 1496年再写, 5丁,裏 , 1.9; 6丁,表, 1.2. 橋本, op. cit.,pp. 36-37.
PP. 36-37.
p.58
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法 (小林)
平安時代のハ行子音の音価を知るために取り上げられた資料は,橋本以来『在唐記』の“pa”の項と『悉曇口伝』の/ハ/の項の二つだけである.この二つがこの程度にしか扱われていない以上,「平安時代およびそれ以前のハ行音が,[p]ではなくて[ɸ]であると確言できる証拠というものはないのである」27) というのが現状である.
【2024年8月20日(ご支援用記事⑭発表前)に追加:
平安時代のハ行頭音の調音方法を異体的に記述している資料が一つだけである.心蓮の『悉曇相伝』である. /ハ/の項と /マ /の項を以下に引用する.
(備忘録者中略)
(上下の唇を合わせて, やわらかく[a]の声を出す,そうすると〔/ハ/の〕音になる.)
(唇の外を閉じて, 極めて強く[a]の声を出す. そうすると〔/マ/の〕音になる.〉
ーーー
「一つだけである」は原文ママ。
追加ここまで】
27) 馬淵和夫,『国語音韻論』,1971, p.71,注1).なお,『在唐記』の記述に基づく橋本の「推定」に反対して,官嶋弘が当時の/ハ/の子音を[h]と解釈し(「平安時代中期以潮のハ行子音」,『国語・国文』,Vol. 14, No.2,1944, pp.17-42),亀井孝が[P]と解釈した〈「在唐記の『本郷波字音』に関する解釈」,国語学」,No.40,1960, pp.126 - 130.状況証拠(「八世紀に/ハ/は[pa]または[ɸ a])を前提として,消去法によって「推定」を下すために,橋本は『在唐記』の記述を消去の根拠として用いた(/ハ/≠pa,∴/ハ/=ɸ a).橋本の「推定」は結果的に見れば正しい.しかしながら,宮嶋や亀井のような誤った解釈が生ずる余地があったのも,橋本のテキスト処理と論旨展開が不充分であったからである.
28) 心蓮, 『悉曇相伝』(金剛三昧院本, 表題・コロフォンとも欠く), 68丁, 表, Ⅱ.2-6.
【(コロフォン(colophon): 印刷所あるいは出版所の意匠や標章などを印刷したもの】
(ここから)p.59(最終ページ)
ところが, 摩擦音[ɸ][β]や半母音【uの下に⌒】を発音する場合は, 狭いながらも空気通路を残さなければならないので, 両唇を密着させることはできない.
ところで『悉曇相伝』においても『悉曇口伝』においても, 心蓮が取りあげるのは常に基本音とみなされる「清音」のみである.したがって, [ɸ]と[β]のうち, 「清音」ではない[β]は排除される. さらに, 心蓮は/ヤ/を[イ]+[ア]であるとし, /ワ/を[ウ]+[ア]であるとしている. したがって, [【uの下に⌒】]を頭音とするのは/ワ/であって/ハ/ではない. 心蓮の記述する/ハ/は[ɸa]であった.
以上だ。
追加ここまで]
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【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
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【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html
【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html
【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html
【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html
[注:以下はご支援用⑬(無料公開は危険な芥川龍乏介、ノ–ベル文[しんち]学賞、大江健3朗の考察)ができるより前に書いた文章]
日本語(の勉強)で読むべき本ねえ。小説ではないな。芥川ですら大本側(桃太郎が悪で鬼が善の話を書いている。キリシタンものが多すぎ。ご支援用記事候補)だから文豪系は全員駄目だと考える方がいい。なので、漢籍(中国大陸で書かれた書)の和訳(中国古典と仏典と注釈書)だな。
「上代の日本語のハ行がp音である」という説の起源と理由から検討しないと何も言えないので、
シーア兄貴の言う通り、教科書の読み比べをしてみることにした。
必読書である上田萬年(うえだ かずとし)の『P音考』や、橋本進吉の著作も読んだ。
上田 万(萬)年【著】/安田 敏朗【校注】『国語のため』 (平凡社。東洋文庫808)
国語と国語学の確立を唱え続けた上田万年の講演論文集であり、『P音考』も収録されている。
国語のため
東洋文庫808
2011年4月25日 初版第1刷発行
平凡社
東洋文庫 808
p.234から
P音考
此のP音の事に就きては、本居翁などが半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙俚の音なりとし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者など
(のようにメモり始めたのだが、これ全文ネットにあるのではと思ったので調べた。橋本進吉もあったし。
p音考 - PukiWik
http://uwazura.perma.jp/wiki/?p%E9%9F%B3%E8%80%83
にある、
語学創見 上田萬年
第四 P音考
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ueda/P_ON_KOU.TXT
を発見。
なので、これをコピペして修正することでメモを完成させることにした。
上記の内容と、東洋文庫の内容には少し違う箇所がある)
p音考 – PukiWikには
伊波普猷
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993746/187
の方の『P音考』があるのだが大変読みにくいので
https://r.binb.jp/epm/e1_16463_21102015173640/
の方が読みやすい。
上田 万年/著、安田 敏朗/校注『国語のため』
東洋文庫808
2011年4月25日 初版第1刷発行
平凡社
pp.234-240
P音考
”
此のP音の事に就きては、本居翁などが【(204)】半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙俚の音なりとし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者などいふ先生たちは、一図に其説を信じて、何事も他の云ふ事を信ぜざるが如し。其の誠や愛すべきも、其の愚や笑ふべきのいたりなる。茲に予が述ぶる所は、敢てかかる先生たちを相手としてにはあらず、従ひて唯此の上の要旨をのみ述ぶる事と知られたし。
第一 清音と濁音との音韻的関係 もし濁音が清音より出しものなれば、即ちダ行はタ行より出で、ガ行はカ行より出しものなれば、
D=T
G=K
B=(?)=P!!
〔引用者注:ここからp.235〕
B音の出し清音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、即ち純粋なる唇的清音パ行(P)音ならざるべからず。如何となれば、今日のH音は快して唇音にあらず、純粋の喉音なればなり、而して又同時に、濁音Bは Fの如き摩擦的音にもあらざればなり。
故に悉曇韻学の上、支那韻鏡学の上にては、P行は純粋清音の位置に置かれ、B行が其の濁音の位置に立ちしこと、決して疑ふべからざる事実なり。しかるに中古以降、音韻の学衰ふると共に、音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非学者出で来りて、終に半濁音などゝいふ名称までを作り、大に世人を惑はすにいたりたり。仮りに一歩を譲りて、論者のいふが如く、上古よりP音は存在せず、其の原音はH音なりしとせんか、論者は如何にして左記の諸項を説明せんとするか。
(一)古説に波行を唇音とせるは如何なる訳か。
(二)何故に今日の如き喉的H音が濁る必要ありたるか。
(三)よし濁る必要ありたりとするも、喉的H音が濁るに当りて、何故に唇的濁音とはなりたるか。
(四)濁者Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。
これと同時にP音ならで、F音なりしと論ぜんとするものは、
〔引用者注:ここからp.236〕
(一)V音の存在せること。
(二)V音のB音に変ぜること。
等を証明せざるべからず、これ豈に容易に説き了り得べき問題ならむや。
殊にパピプペポの音は、誠に発しやすき音にして、一歳にみたざる小児すらが、能く発し得る所のものなり。現に国中いづれの処にゆくも、オノマトポエチックに用ゐるパチ/\、パラ/\、ピシ/\、ピン/\、ポツ/\、ポン/\等の音は、普通に発音せられ、又理解せらるゝにあらずや。上古の日本国民が、外国音を練習するに当りて、此の発音に苦しみしといふ事は、聊か不思議の至りなりといふべし。よりて思ふに、これは恰も今日のハヒフヘホが、ワヰウヱヲにうつりゆきて発音せらるゝが如く、上古のパピプペボは奈良朝以前にありて、次第にハヒフヘホにうつりゆきたるにはあらざるか。而して其のPよりHに至る階級とも見るべき、ph 或はfの発音は、ふ字発音の上、及び奥羽中国薩摩琉球等の方言の上に徴するを得べきなり。されば是は事実発音難易の論にはあらで、全く流行の結果と見る方適当ならんか。試に今九州人がスナハチといふを聞け。我等の如きスナワチになれたる東京人には、誠に角たちてをかしく聞ゆるにはあらずや。サッパリといひ、シメッポイといふ、もとこれ上古の音のそのまゝに存せるもの、所謂流行後れなるものに相違なきも、しかもこれををかしといひて笑ふ人の方が、後世の流行に浮かされ居る事を、よく/\自省せざるべから〔引用者注:ここからp.237〕ず。これ猶ほ三井仕立の衣服めしたる姫様方が、小原女のなりふり見て笑ひたまふが如し。
第二 H音は古き音にあらざる事 古くP音ありしことを説くに、猶ほ一の証拠となるべきは、梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかゝはらず、梵漢の二国語に於けるH音が、総て我国にては加行に写さるゝ事これなり。試に左の表を見よ。
Sanskrit 漢 音
Ahaha 嘔(候候)
Arahân 阿羅(漢)
Hami (哈)密
Hasara (鶴)薩羅
Maha 摩(訶)
Rohu 羅(胡)
Râhula 羅(睺)羅
Râhula 羅(吼)羅
Râhula 羅(虎)羅
これらの漢字は、以上の梵語を写すに用ゐられたるものにして、現今の支那語よりいふも、又同時に日本朝鮮其他の諸国に入りし支那音よりいふも、皆H音たるべきものなり。然るに此音が、ひとり我国にて加行に発音せらるゝ所以は、(一)当時我邦にHの喉音なかりし事、(二)なかりしかば、其の類似的喉音K音にて写しし事を証してあまりありといふべし。
第三 アイヌに入りし日本語の事 アイヌはPFHの三音を区別する者なるが、其の語を見るに中に左の如き語あり。(バチェロル氏辞書【(205)】百七十九乃至百九十三参照)
〔引用者注:ここからp.238〕
Pachi 針
Pekere 光
Pakari 量
Pera 匙
Pashui 箸
Pishako 柄杓
Pata 蟋蟀
Pone 骨
Panchi 罰
Puri 振
これらは果して古きアイヌに入りし邦語にはあらざるか。もし新しく入りし者なりとせば、何故にFHを有するアイヌは、之を其の音にて伝へざるか。これ尤も疑ふべき点にはあらずや。
況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。
第四 上古の音は熟語的促音及び方言の上に存せる事 すべて上古の音は語の中部に遺存し、或は又方言中に保存せらるとは、言語学の予輩に教ふる所なり。試に
すッぱい しほッぱい
おこりッぽい しめッぽい
ゐなかッぽう さつまッぽう
等の語を解釈し見よ。パイとははゆきなり、ポイとはおほきなり、ポウとはひとの義なるに〔引用者注:ここからp.239〕あらずや。
又かの沖縄薩摩等、九州の南部にかけて、F音の多く存在することを認むるのみか、沖縄語典の吾人に告ぐる処によれば、国頭八重山宮古の諸島には、半濁音の語極めて多しといふなれば、此等の上より見ても、現在流行の音がP Ph(F) H Wの転遷をなし来りし事、昭々たるにあらずや。
現に又H音に発音せられ居るものが、一度熟語となるあかつきには、必ずP音となるも、上古よりの慣習をそのまゝに維持せるものにて、知らず/\其の癖に支配せらるるものなり。これには勿論二種あるべし。
(一)上古よりのP音、熟語の上にそのまゝのこり居るもの。
(二)後世のH音なるものが、熟語法の時だけ、上古の慣習に引きつけられて、P音に変ずるもの。
いづれにしても、熟語法の時に、上古の形態を維持するといふ心理的連想法の大法だけは、恰もPHWの濁音が何時もBの一個にて代表せらるゝといふ事と共に一貫して進みたる者なりと謂つべし。Fが促音を受くれば、英語oftenに於けるFの如くなるべし。Hが促音を受くれば、むしろ濁語ach ich lochに於けるが如き強喉音chに近き音なるべし。これが唇的密閉音となる理由、抑も何処にかある。これ又波行が上古P行たりし一証とすべき点なり〔引用者注:ここからp.240〕とす。
(以上四考明治三十三年一月稿)
“
※「(四)濁者Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。」の「者」は「音」の間違いだろう。
※
「Râhula 羅(睺)羅
Râhula 羅(吼)羅
Râhula 羅(虎)羅」は引用元では「 Râhura」は「羅(吼)羅」の左の1つだけで、これに向かって大きな「{」があり、この「{」が「羅(睺)羅」から「 羅(虎)羅」に渡っている。
※ 「〔引用者注:ここからp.2~〕」は上記の一部を引用する際にどこが何頁か判らないと困るので
挿入した。
※「濁語ach ich loch」の「濁」は「独」の間違いだろう。
※ルビは完全に再現していない。注はルビの位置にあるのだが、再現できないので【 】で代用した。
※初出は明治31年1月(『帝国文学』4-1のp41-46)なのだが、
『国語のため』第二(冨山房、明治36.6)には
(明治三十三年一月稿)
とあるので、発表年を明治33年としている人がいるらしい。
「â」は、
ラテン特殊文字
https://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/character/latin_spec.html
の「サーカムフレックスアクセント(Circumflex Accent)」のところにある。
解説
P.472から
「P音考」はおそらく上田の論説のなかで「国語と国家と」と同じくらい著名なものであろう。それは西洋言語学を導入したはじめての音韻史論考、具体的にはハ行子音が [p]→[f]→[h] という変遷を経てきたことを漢字音やアイヌ語などを傍証としつつ論じたためであると思われる。この論考に対し、「我が国音の如きは一種特別にして、創古にありては言語に濁音あることなく〔……〕半濁音を以つて目せらるゝP音も、古くはなくして」(岡沢鉦次郎「日本音声考 附P音考排斥」『帝国文学』四巻一一号、一八九八年十二月、四四頁)といった反論がすぐさま寄せられたように、反響は大きかった。しかしながら、「その内容は実は決して〔上田〕博士の創見ではなく、少なくとも同じ結論は既に半世紀も早く一八五七年にホフマンにより提出され、ついでエドキンス、サトウ、チエムバレンなどの東洋学者達が同様の説を種々の論拠から述べてゐる」(浜田敦「明治以降に於ける国語音韻史研究」『国語学』第十輯、一九五三年九月、四頁)と、明治初期の外国の東洋学者の影響が指摘されている。もちろん、上田の論考によりこの点が広く知られたわけであるが、上田の立論に即して先行研究から影響を指摘した研究もある(内田智子「上田万年「P音考」の学史上の評価について」『名古屋大学国語国文学』九七号、二〇〇五年十二月)。
以上。
一応書いておくが、死後70年経過しているので著作権的に問題ないから、ほぼ全文引用はまったく問題ない。そもそも表は再現しきれない。ルビも再現していない。
上田萬年(うえだ かずとし)の生存期間は、1867年2月11日(慶応3年1月7日)~ 1937年(昭和12年)10月26日)。死後70年分足すと2007年。よって問題なし。
語学創見 上田萬年
第四 P音考
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ueda/P_ON_KOU.TXT
”語学創見 上田萬年
第四 P音考
此事に就きては、本居翁などが半濁音の名称の下に、これを以て不正鄙哩の音なり
とし、我国には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和学者など
いふ先生たちは、一図に其説を信じて、何事も他の云ふ事を信ぜざるが如し。其誠や
愛すべきも、其愚や笑ふべきのいたりなる。茲に予が述ぶる所は、敢てかゝる先生た
ちを相手としてにはあらず、従ひて唯此上の要旨をのみ述ぶる事と知られたし。
第一 清音と濁音との音韻的関係 もし濁音が清音より出しものなれば、即ちダ
行はタ行より出で、ガ行はカ行より出しものなれば、
D=T
G=K
B=(?)=P!!
B音の出し清音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、即ち純粋なる
唇的清音パ行(P)音ならざるべからず。如何となれば、今日のH音は快して唇音にあ
らず、純粋の喉音なればなり、而して又同時に、濁音Bは Fの如き摩擦的音にもあら
ざればなり。
故に悉曇韻学の上、支那韻鏡学の上にては、P行は純粋清音の位置に置かれ、B行が
其濁音の位置に立ちしは、疑ふべからざる事実なり。しかるに中古以降、音韻の学衰
ふると共に、音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非学者出て
来りて、終に半濁音などといふ名称までを作り、大に世人を惑はすにいたりたり。
仮りに一歩を譲りて、論者のいふが如く、上古よりP音は存在せず、其の原音はH音な
りきとせんか、論者は如何にして左記の諸項を説明せんとするか。
(一)古説に波行を唇音とせるは如何なる訳か。
(二)何故に今日の如き喉的H音が濁る必要ありたるか。
(三)よし濁る必要ありたりとするも、喉的H音が濁るに望みて、何故に唇的
濁音とはなりたるか。
(四)濁音Bは清音Pのさきだつ事なしに存在せしか。
これと同時にP音ならで、F音なりきと論ぜんとするものは、
(一)V音の存在せること。
(二)V音のB音に変ぜること。
等を証明せざるべからず、これ豈に容易に説き了り得べき問題ならむや。
殊にパピプペポの音は、誠に発しやすき音にして、一歳にみたざる小児すらが、能く
発し得る所のものなり。現に国中いづれの処にゆくも、オノマトポエチックに用ゐる
パチ/\、パラ/\、ピシ/\、ピン/\、ポツ/\、ポン/\等の音は、普通に発音せら
れ、又理解せらるるにあらずや。上古の日本国民が、外国音を練習するに当りて、此の
発音に苦しみしといふ事は、聊か不思議の至りなりといふべし。よりて思ふに、これ
は恰も今日のハヒフヘホが、ワヰウヱヲにうつりゆきて発音せらるるが如く、上古
のパピプペボは奈良朝以前にありて、次第にハヒフヘホにうつりゆきたるにはあ
らざるか。而して其のPよりHに至る階級とも見るべき、ph 或はfの発音は、ふ字発
音の上、及び奥羽中国薩摩琉球等の方言の上に徴するを得べきなり。されば是は事
実発音難易の論にはあらで、全く流行の結果と見る方適当ならんか。試に今九州人
がスナハチといふを聞け。我等の如きスナワチになれたる東京人には、誠に角だち
てをかしく聞ゆるにはあらずや。サッパリといひ、シメッポイといふ、もとこれ上古の音
のそのままに存せるもの、所謂流行後れなるものに相違なきも、しかもこれををか
しといひて笑ふ人の方が、後世の流行に浮かされ居る事を、よくよく自省せざるべ
からず。これ猶ほ三井仕立の衣服めしたる姫様方が、小原女のなりふり見て笑ひたま
ふが如し。
第二 H音は古き音にあらざる事 古くP音ありしことを説くに、猶ほ一の証拠となる
べきは、梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかかはらず、梵
漢の二国語に於けるH音が、総て我国にては加行に写さるゝ事これなり。試に左の表を見よ。
Sanskrit 漢音
Ahaha 嘔(候候)
Arahan 阿羅(漢)
Hami (哈)密
Hasara (鶴)薩羅
Maha 摩(訶)
Rohu 羅(胡)
Rahura 羅(〓)羅
Rahura 羅(吼)羅
Rahura 羅(虎)羅
これらの漢字は、以上の梵語を写すに用ゐられたるものにして、現今の支那語より
いふも、又同時に日本朝鮮其他の諸国に入りし支那音よりいふも、皆H音たるべき
ものなり。然るに此音が、ひとり我国にて加行に発音せらるる所以は、(一)当時我邦に
Hの喉音なかりし事、(二)なかりしかば、其の類似的喉音K音にて写せし事を証してあ
まりありといふべし。
第三 アイヌに入りし日本語の事 アイヌはPFHの一二音を区別する者なるが、
其語を見るに中に左の如き語あり。(バチェロル氏辞書百七十九乃至百九十三参照)
Pachi 針 Pekere 光
Pakari 量 Pera 匙
Pashui 箸 Pishako 柄杓
Pata 蟋蟀 Pone 骨
Panchi 罰 Puri 振
これらは果して古きアイヌに入りし邦語にはあらざるか。もし新しく入りし者な
りとせば、何故にFHを有するアイヌは、之を其の音にて伝へざるか。これ尤も疑ふべ
き点にはあらずや。
況んや亦日本のヒメコを、第三世紀の支那音にてうつせるものには、正しく卑の宇
を使用し、ピとよみたりといふにはあらずや。
第四 上古の音は熟語的促音及び方言の上に存せる事 すべて上古の音は語
の中部に遺存し、或は又方言中に保存せらるとは、言語学の予輩に教ふる所なり。試
に
すッぱい
おこりッぽい
ゐなかッぽう
等の語を解釈し見よ。パイとははゆきなり、ポイとはおほきなり、ポウとはひとの義
なるにあらずや。
又かの沖縄薩摩等、九州の南部にかけて、F音の多く存在することを認むるのみか、
沖縄語典の吾人に告くる処によれば、国頭八重山宮古の諸島には、半濁音の語極め
て多しといふなれば、此等の上より見ても、現在流行の音がP Ph(F) H Wの転遷を
なし来りし事、昭々たるにあらずや。
現に又H音に発音せられ居るものが、一度熟語となるあかつきには、必ずP音とな
るも、上古よりの慣習をそのままに維持せるものにて、知らず知らず其の癖に支配せら
るゝものなり。これには勿論二種あるべし。
(一)上古よりのP音、熟語の上にそのままのこり居るもの。
(二)後世のH音なるものが、熟語法の時だけ、上古の慣習に引きつけられて、P
音に変ずるもの。
いづれにしても、熟語法の時に、上古の形態を維持するといふ心理的連想法の大法
だけは、恰もPFHWの濁音が何時もBの一個にて代表せらるるといふ事と共に
一貫して進みたる者なりと謂つべし。Fが促音を受くれば、英語oftenに於けるFの
如くなるべし。Hが促音を受くれば、むしろ独語ach,ich,lochに於けるが如き強喉音
chに近き音なるべし。これが唇的密閉音となる理由、抑も何処にかある。これ又波行
が上古P行たりし一証とすべき点なりとす。
初出は明治31年1月(『帝国文学』4-1のp41-46)である。
しかし、『国語のため』第二(冨山房、明治36.6)には
(明治三十三年一月稿)
とあり、発表年をそれによっている人も多い。”
福島邦道(くにみち)『国語学要論』(こくごがくようろん)
昭和48年6月30日 初版発行
p.1から
はしがき
上段は総括的な議論にし、下段は参考文献などを中心にした注記にしたのである。(下段の人名には一切敬称を省かせていただいた。)ついでに、全篇を三十項にわかち、各項をできるだけ平均化し、三十回(もしくは十五回)の時限にわけて教授できるようにした。
国語学概論書は多く刊行され、今さら筆者ごときが書く必要はなさそうである。しかしながら、近年における国語学の進歩はいちじるしく、その領域において、その内容において、今までの概論書では必ずしも十分とは言えないようである。あえて執筆したわけもまずそこにあるのである。
昭和四十八年二月
福島邦道
p.24注記
奈良時代……
特殊仮名遣・母音の鼻音化・母音調和・母音重複忌避・P音とその歴史・古代サ行音
平安時代……
イ・ウ音便の発生・母音融合・語頭ウの鼻音化・拗音・音声破裂音(濁音)・固有日本語の撥音・固有日本語の促音・平安時代の音韻推移・漢字音の日本化
封建時代……
固有日本語の連声・口蓋化・歯音化・漢字音の唇的拗音の消滅・語中ガ行音の完全鼻音化・アクセントの発展
p.25から
(万葉仮名について)
当時はしたがって母音の数が今日より三種類多いことになるのである。なお、この区別は、奈良時代末期までつづくのである。
ア行のオとワ行のヲも、万葉仮名で(略)のように使い分けられ、それぞれ/o//wo/ のちがいといわれていた。この区別も十世紀頃から混同されていった。
以上によって、古代語の母音音素はわれわれが今日考えているよりはるかに多いものであったことがわかるのである。
(
神代文字が嘘である根拠)
p.25から(上記の続き)
子音では、ハヒフヘホの音が(3)問題となる。
注記(3)
ハ行音について、パピプペポのような半濁音は古代にはなかったというのが江戸時代の学者の考えで、たとえば、本居宣長ほどの学者も、「漢字三音考」(本居宣長全集『国語学体系』)で、
又外国ニハ。ハヒフヘホに清濁ノ間ノ音アリ
(中略)此レ殊ニ不正鄙俚ノ音ナリ。皇国ノ古言ニ
此音アルコトナシ。
といっている。
(メモ者注:本書のこの本居宣長の「ハヒフヘホ」の右側に縦長の傍線あり)
上田万年氏は「P音考」においてハ行音は古くパ行音であったことを唱えたが、文献以前はともかく、奈良時代にはハ行音は軽唇音/Φ/とされている。室町時代までそうであって、そのことは外国資料でも実証できるのであり、後奈良院御撰何曽(4)(一五一六年頃)には(ここからp.26)
母には二度あひたれども父には一度もあはず くちびる(唇)
ともある。
p.25から
注記(4)
この「なぞ」の意味について、本居内遠『後奈良院御撰何曽之解』では、
母は歯々の意、父は乳の意にて、上唇と下歯、下唇と上歯とあふは二度なり。我乳はわが唇のと
どかぬ物なれば一度もあはぬ意にて唇と解たるなり、是は変じたる体の何曽にていとおもしろし、
として、よくわかっていなかった。新村出は、前掲論文
(メモ者注:「波行軽唇音沿革考」(『新村出全集 第四巻』。新村出は上田万年の高弟)か、
「国語に於けるFH両音の過渡期」(同右))で、ハハ(母)は、軽唇音で発音するから二度あうが、チチ(父)は、唇が一度もあわないとして、この「なぞ」を正解した。
『後奈良院御撰何曽』より古く、豐原統秋の『体源抄』(一五一二)にあることが浅野健二によって発見され、さらに『聖徳太子伝』(一四五四)にもあることが高橋貞一によって発見された。『国語学辞典』の「国語年表」は、福島が浅野説によって記したが、さらにさかのぼるのである。
(
本書
p.164から
国語略年表
一五一六(永正一三) 『後奈良院御撰何曽』 とある。
つまり、一四五四の頃には謎になるレベルに言葉が変化していたということだな。15世紀。
φではなくΦ表記だなこの本。
英語の「f」と日本語の「フ」 - 滴了庵日録
https://lipoyang.hatenablog.com/entry/20070718/p1
”日本人の多くは英語の f をファ行音(ファ、フィ、フ、フェ、フォ)で発音しています。しかし、英語の f と日本語のファ行音は異なる子音です。発音記号では英語の f は[f]、日本語のファ行音は[Φ]です。どう違うかは口を見れば明らかです。[f]は前歯で下唇を軽くかんで発音しますが、[Φ]は唇を前にすぼめて発音します。
てのひらを口の前にかざしてみましょう。[f]では、あまりてのひらに息があたりませんが、[Φ]では強く息があたります。耳で聴くと[f]のほうがやや乾いた感じの音になります。”
)
p.26
”
平安時代の大きな特色は、音便、(5) すなわち、イ音便・ウ音便・促音便・撥音便があらわれはじめることである。今まではこれらのデータも仮名文からだされていたが、平安鎌倉時代の漢文訓読資料の研究の進展に伴ない、多くの確実なデータがだされるようになった。
”
※「(5)」は引用元では「、」の右側にルビのように表記されている。
(
ニッポン読みの誕生は平安時代以降だということだ)
p.26から
近代語
古代語から近代語にいたる過渡期は室町時代であって、その頃の状態を知るには、外国資料の中、キリシタン資料が最も良い。これらの資料には日本語をローマ字で記したものがあり、その発音がよくわかるからである。キリシタン資料には、古代の規範的な発音がよく守られているところとようやくくずれて、近代化してしまったものとがある。
子音では、問題のハ行音はfで写されているが、キリシタン資料にも喉音/h/で発音するもののあることをのべており江戸時代にかけて喉音化してゆくのである。
(ハングル=おんもん〔諺文〕)
p.39から
ハングル(諺文)(4)
神代文字
漢字が日本に伝来した以前に、神代文字(6)と称する、わが国固有の文字が存在したことを主張するものがあるが、それは信じがたい。
(ここからp.40)
神代文字と言われているものは多く子音と母音から成る、拍を示す文字であり、奈良時代にあったはずの十三の仮名を区別していない。もし日本に固有の文字があったのなら、苦労して万葉仮名を作る要がないわけであって、神代文字は江戸時代一部の学者が唱えだしたものなのである。
p.39注記(4)
ハングルは、朝鮮固有の文字で、李朝の世宗の一四四五年にさだめられた。
(6)
神代文字有無の論は、江戸時代の多くの学者の論争のまととなったものである。神代文字といわれるものは、次の図のようなもので、諺文とよく似ているものである。
国粋主義の平田篤胤は、「神字日文伝」でその存在を主張し、一方、伴信友は、「仮名本末」の付録において、その非存在を主張し、ともにすぐれた学者であったが、そのため両者は絶交するにいたったのである。
p.40に神代文字の画像が載っている(どう見てもハングルがモデルだ)。
(漢字について)
p.45から
日本へは、これらの音書の中では「韻鏡(12)」が伝わり、多くの影響を与えた。
「韻鏡」は中国の音を四十三の図表にしたもので、十世紀前に作られたと言われるが、もとの中国では行なわれず、日本でむしろ広く利用された。昔は音韻研究とは漢字の音を知ることであり、そのために韻鏡がよく研究されたのである。
字音の種類
日本で用いられている字音には、呉・漢音・唐音の三種類がある。
呉音 漢音 唐音
行 行水(ぎょうずい) 行動(こうどう) 行脚(あんぎゃ)
明 明日(みょうにち) 明白(めいはく) 明(みん)の国
のようである。「施工」は呉音では「セギヨウ」であり、漢音では「シコウ」であるが、最近は「セコウ」ともよまれている。
呉音とは、最も古く伝えられた字音で、中国南方の音が朝鮮を経由して伝承したといわれる。仏教関係のことばや古くから国語に入ったことばに用いられている。
金色(こんじき) 殺生(せっしょう) 末期(まつご) 成就(じょうじゅ) 名聞(みょうもん)
漢音とは、呉音についで、隋から唐へかけて伝えられた字音で、中国北方、長安あたりの音で、中国の標準的なものであった。日本の朝廷でも正音として普及に努力したため、漢籍を読んだりするのに用いられ、日常生活にも普及した。
金銭(きんせん) 生殺(せいさつ) 末期(まっき) 就業(しゅうぎょう) 名誉
字音語には、言語(げんご)(漢音・呉音)、正気(しょうき)(呉音・漢音)のように、両方まじったものもある。
唐音とは、宋代以降、日本の商人や禅僧によって伝えられた音で、中国南方の音であった。
栗鼠(りす) 提灯(ちょうちん) 甲板(かんぱん) 饅頭(まんじゅう) 蒲団(ふとん)(布団)
なお、呉音よりさらに古いのではないかといわれる推古朝の音もあった。
p.51から
万葉仮名
万葉仮名とは、国語を書き表すために漢字の音または訓のよみを用いたものであって、音のよみを用いたのを「音仮名」、訓のよみを用いたのを「訓仮名」という。
万葉仮名といわれるのは、万葉集によって代表されるのであるが、古事記、日本書紀をはじめ、宣命、風土記、仏足石歌などにも見られ、平安時代にはいっても用いられ(ここからp.52)た。さらには、古くは、推古朝の遺文にも見られる。
万葉仮名に用いられた字音(3)の種類は古事記や万葉集では呉音が、日本書紀では漢音が用いられている。推古朝の遺文のものは、中国の非常に古い時代の音を用いたと言われている。
p.52
注記(3)
万葉仮名の字音の研究所は次のものがある。
大野晋『上代仮名遣の研究――日本書紀の仮名を中心とし――』(岩波書店 昭和二八)
(「として」じゃないんだ)
馬淵和夫『上代のことば』(至文堂 昭和四三)
これらから万葉仮名の字音研究を進めてゆくとよい。
(下半分で注釈や文献紹介などを書くことで読みやすくしているのが良い。
講義でも使いやすいね)
p53
片仮名
片仮名は、万葉仮名の字画を省略したもので、本来漢文の読み方を明らかにするために発達した文字である。すなわち、仏典の正確な読み方を示すために漢文の行間などに書き込んだもので、平安朝初期、奈良の僧侶の間ではじまった。こうした書き込みの行なわれたものを点本(古点本)と呼ぶが、これらの点本には多くの片仮名の字体が見られるのである。
p54
片仮名字源表
(上段に記載。ハフフヘホの箇所はあるが濁音や半濁音の項目なし。単にその項目がないだけかも)
注記(4)
では、小林芳規による、片仮名字体表がp.54(の下段)に載っている。
小林芳規は、古訓点研究の第一人者であり最近、角筆点といって、布にへらで跡をつけたようなもので、文字のおされているものを発見した。
片仮名字体表(石山寺蔵漢書高帝紀下平安中期点〈角筆点〉
(この表でも濁音や半濁音のハ行はない。ハヒフヘホだけである。濁音や半濁音の項目がないだけかも)
(平仮名について)
p.57
平仮名字源表
(はひふへほ があるが濁音と半濁音なし。単にその項目がないだけかも)
p.58
音符には濁音符・半濁音符などがある。
濁音符は、平安時代、はじめは清音を示すのに。又は、を、濁音を示すのに、。。又は〟を用い、しかも今日のように右肩とは必ずしもきまっていなかった。中世になると、右肩に〟、。。または、、、などを付け近世以後ようやく〟におちついた。
(本書はカギカッコでくくっていないので読みにくい。
清音を示すのに「。」又は「、」を、
濁音を示すのに、「。。」又は「〟」を用い、しかも今日のように右肩とは必ずしもきまっていなかった。
中世になると右肩に「〟」「。。」または「、、、」などを付け、近世以後ようやく「〟」におちついた。
※場所が決まっていないので「゜」ではなく「。」と記した。
日本語における半濁音化をめぐる問題
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26759/2014101615502434461/kamakura_23_816.pdf
)
p.59
半濁音符の。は、室町時代の資料から見え、特にキリシタン資料には顕著であり近世中期以降次第に広く用いられるようになっていった。
その他、引く音を示すーとか、くりかえしの 々 /\(メモ者注:「く」の字のあの記号)なども資料によって間々見られるようである。
p.52から
宣教師たちがローマ字によって日本のことばを書きあらわそうとする時は、ポルトガル語風のつづり方をしたのであり、当時のキリシタン版ローマ字本はそのような綴り方のものとして著名である。
特にアメリカのプロテスタントの宣教師ヘボンは、『和英語林集成』(一八六七年)を著し、英語風のつづり方で日本語を書きあらわした。
p.116から117
(外来語について)
ポルトガル語
室町時代末期、ポルトガル人がキリスト教をひろめるため来日し、あわせて西洋の文物も入ってきた。
カッパ(capa 合羽) コンペイトウ(confeito 金平糖)
サラサ(更紗) ジバン(襦袢) タバコ
デウス(Deus 天主) パン(メモ者注:語頭がp)(蒸餅)
ミイサ(Missa 弥撒)
キリシタンでは当初キリスト教に深く関係あることばは翻訳しない方針であった。
(コンフェイトウだったんだ。pが目立つからパピプペポ表記法として
「半濁音符の。は、室町時代の資料から見え、特にキリシタン資料には顕著」だったのだろうな。
つまり、日本語自体にはパピプペポは少なかったということだ。擬音語・擬態語以外でね)
p.129
古事記の文体の中には、漢文の中に、万葉仮名で日本語を記してあり、さらに宣命の文体では、漢文をはなれ、日本語の助詞や助動詞を小形の万葉仮名で記しているのである。
(略)
こういう書き方は、宣命書き、宣命体と言われ、後世まで用いられた。
p.149から
琉球方言を研究した文献には、古く中国人のものがあり、十九世紀以降、西欧人が研究し、特に、明治にチャンブレン氏がよく研究し、日本語と琉球方言との親族関係を証明したのである。その後、伊波普猷氏(9)の研究などにより、琉球方言の歴史や特色がはっきりするようになったのである。
それなら、琉球方言は、もとの日本語からいつ頃わかれたのかとなると、まだよくわかっていない。琉球最古の文学作品「おもろさうし」は、十六・七世紀ごろ集められたものである。十世紀以前の琉球方言のことはよくわからないのである。ただ、多くの琉球方言で現在でも語頭のハ行音が/p/であって、これが日本の古代の軽唇音にあたることや上代特殊仮名遣のオ列音の使いわけが一部にのこっていることから、そんなに古い時代にわかれたのではないことは明らかである。
p.149の下半分の注(9)より。
伊波普猷(いはふゆう) 沖縄学の祖といわれるべき学者である。
p.149から
日本語と琉球方言とが同系である証拠として、琉球では、母音が、ア・イ・ウの三つで、日本語のエは、ケ(毛)がキーのようにイとなり、日本語のオは、コノ(此の)がクヌのようにウとなって、音韻がぴったり対応し、さらに、アクセントの型の対応もよく似ているといわれている。
p.164から
国語略年表
一五一六(永正一三) 後奈良院御撰何曽
以上。
[2023年4月7日に追加:
伊波普猷(いはふゆう)がエスペラント関係者と知ってうげってなった。世界連邦側なんだろうな。
日本エスペラント運動人名事典
https://www2.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/leksikono_flugfolio1.pdf
”ひつじ書房 新刊のご案内
〔中略〕
■収録人物中の著名人
秋田雨雀、安部公房、井上ひさし、伊波普猷、梅棹忠夫、大杉栄、丘浅次郎、黒板勝美、瑛九、江上不二夫、エロシェンコ、大石和三郎、尾崎行雄、小田切秀雄、川喜田二郎、北一輝、久保貞次郎、栗栖継、小林司、小林英夫、堺利彦、佐々木喜善、佐々木孝丸、ザメンホフ、柴山全慶、周作人、新村出、関口存男、高木仁三郎、高杉一郎、高見順、出口王仁三郎、土井晩翠、土岐善麿、徳冨蘆花、中村精男、西成甫、新渡戸稲造、巴金、長谷川テル、比嘉春潮、二葉亭四迷、宮城音弥、宮沢賢治、八木日出雄、柳田國男、吉野作造、ラムステット、魯迅......
○こんな人も登場
芥川龍之介、暁烏敏、東龍太郎、内村鑑三、梶山季之、神近市子、木下順二、黒岩涙香、小松左京、西光万吉、佐藤春夫、更科源蔵、沢柳政太郎、島木健作、下中弥三郎、芹沢光治良、相馬黒光、高橋和巳、高見順、高村光太郎、田中館愛橘、都留重人、鶴見祐輔、手塚治虫、徳川家達、中野重治、野上弥生子、野間宏、長谷川如是閑、羽仁五郎、福田赳夫、星新一、穂積陳重、正木ひろし、宮沢俊義、宮本百合子、武者小路実篤、矢内原忠雄、山川菊栄、山川均、山田耕筰、湯川秀樹.....”
” ※着色は引用者
黒表(こくひょう。要注意人物についての帳簿。危険人物一覧。ブラックリスト)(笑)
伊波普猷(いはふゆう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E6%B3%A2%E6%99%AE%E7%8C%B7-31985
”伊波普猷
いはふゆう
(1876―1947)
言語学者、民俗学者。明治初年の琉球(りゅうきゅう)処分に始まり、太平洋戦争の敗戦によってアメリカ軍の統治下になるまでの近代沖縄の激動期を、沖縄とともに生きた愛郷の研究者として知られる。明治9年2月20日(旧暦)那覇に生まれる。素封家の長男として恵まれた幼年期を過ごすが、中学5年生の秋、沖縄尋常中学で起こった校長排斥運動に加担して退学。翌1896年上京。この間、中学時代の恩師田島利三郎(たじまりさぶろう)の影響を強く受けて、『おもろさうし』研究を志す。1906年(明治39)東京帝国大学文学科言語学専修卒業。郷土研究を志して帰郷するが、当時の沖縄の社会的要請にこたえ啓蒙(けいもう)活動に入る。県立沖縄図書館の設立にかかわり、館長嘱託としての活動を続けるかたわら、琉球史の講演を手始めに、キリスト教に関する宗教講演、方言矯正のための音声学講演を続け、読書会を開き、子供の会を始め、組合教会の設立、演劇協会にかかわり、婦人講話会、エスペラント講習会、民族衛生講話を行うなど、多様な啓蒙運動を展開した。しかし1921年(大正10)柳田国男(やなぎたくにお)と出会い、学究に立ち戻ることを決意、『おもろさうし』の研究に打ち込む。1925年上京、以後は東京で研究生活を続け、終戦を迎える。昭和22年8月13日、戦場となった沖縄の地を案じつつ、生涯を閉じた。時代にもまれた一生は、かならずしも平穏でなかったが、いまは、風光の美しい浦添(うらそえ)の丘に霊園がつくられ、顕彰碑が建てられている。
研究活動は、言語、民俗、歴史、文学など広範にわたり、数多くの著作を発表。諸領域の学問を総合して、沖縄という地域社会の特性を明らかにしようとした顕著な傾向は沖縄学として知られる。個々の学問の業績だけでなく、伊波普猷の沖縄学の思想的影響は大きく、現代沖縄のさまざまな活動にも影を投げている。著書に『古琉球』『おもろさうし選釈』『校訂おもろさうし』『をなり神の島』『沖縄考』『沖縄歴史物語』などがある。
[外間守善 2018年10月19日]
『服部四郎他編『伊波普猷全集』全11巻(1974~1976・平凡社)』▽『金城正篤・高良倉吉著『伊波普猷――沖縄史像とその思想』(1972・清水書院)』▽『外間守善編『伊波普猷 人と思想』(1976・平凡社)』▽『外間守善著『伊波普猷論』(1979・沖縄タイムス/増補新版・1993・平凡社)』
[参照項目] | 沖縄学 | 田島利三郎 | 柳田国男
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
” ※着色は引用者
追加ここまで]
阪倉篤義(さかくら あつよし)【編者】『国語学概説』
有精堂(ゆうせいどう)
昭和五十一年二月十日 初版発行
(第1刷が1976年という意味。昭和20年=1945年だけ覚えておくといいよ)
p.1から
はしがき
国語学という学問がわが国で確立されてから、すでに八十年になろうとしている。
国語学とは、一体、日本語のどのような問題を、どのような方法で究明しようとしている学問なのか。こういう点についての基本的な理解を広く人々に求めることは、今や緊要の問題として考慮されなければなるまいと思われる。同時にまた、国語学を専攻する学徒にとっても、自らが選んだ分野や、従っている理論・方法が、国語学全体の中でどのような位置を占めており、いかなる意義を持ち得るものであるかについての反省が、今やいよいよ強く求められるようになったと言うべきであろう。
入門の学徒に対しては、国語学全体についての展望を示し、すでに国語学を専攻中の学徒に対しては、右にいうような反省の資を提供し、そしてまた国語学なるものに関心を抱かれる一般読者に対しても、「そもそも国語学とは何か」についての基本的な理解を得るのに役立つことを意図して、本書は編纂された。
昭和五十年十二月
阪 倉 篤 義
p.137から
日本語の歴史
(執筆者は福島邦道(くにみち)。執筆者と担当箇所の一覧はp.253にある)
p.138
天草版平家物語のもとになったといわれる百二十句本とは、全巻を百二十の章に分けたもので、八坂流の語り本である。平家物語の古態を示すものとして著名な伝本の一つである。
百二十句本の一番はじめの「平家」は、天草版ではfeiqeとなっている。「け」はポルトガル語ではqueのようにつづるので、日本語の「ケ」の音を表わすために、queとつづったり、その省略した形のqeを用いたのである。もっとも問題になるのは、「平家」の「へ」をheでなくfeとつづってあることで、当時の発音が今日のような「へ」でなく、もっと唇を合わせた唇音の「フェ」のような音であったことを物語るわけであって、このようなハ行音の発音のちがい、すなわち音韻の変化については次の章でくわしく論ずることとしたい。
p.139から
音韻史--ハ行子音の変遷
福島邦道「日本語の歴史」(『国語学概説』阪倉篤義編に収録、有精堂出版、1976(昭和51)年)
pp.139-141
”
新しい国語学は上田万年によってはじめられたといわれるが、とりわけ上田の「p音考」(明治31)は著名である。もっとも、上田以前にもハ行子音が古くp音ないしF音であったことを唱えた学者は外国人や日本人が数名いるが、やはり「p音考」がもっとも代表的なものと言えよう。
ハ行子音が古くp音だった理由について、上田は四か条あげている。第一に清音と濁音との音韻的関係、第二に
〔引用者注:ここからp.140〕
H音は古くわが国に存しないで梵語漢語の音をK音で写したこと、第三にアイヌ語などに入った日本古語がp音を伝えていること、第四に熟語的促音および方言に「スッパイ」「シオッポイ」などと古音を保存していることである。しかし、上田のあげた四か条の中には第三のように疑わしいものもあり、p音考の確実な証拠としてはなお検討の余地があるとされている。その後、新しく加えられたものに琉球方言の用例があげられる。
琉球方言【(注1)】では、次のように、首里および奄美大島では、F音であるが、北部の国頭【くんちゃん】および南部の宮古、八重山の方へ行くとp音であって、その変化はp→F→hとたどれるというのである。
首里 | 国頭 | 八重山| 宮古 |大島
墓 faka>haka| paka | paka | paka |haka
羽 fani>hani | pani | pani | pani |hani
畠 hataki | pataki| fataki | pataki|hatake
なお、琉球方言では、本書の「方言」のところでも示してあるように、東京の「ハネ」(羽)、「ハタケ」(畠)を「ハニ」「ハタキ」といって、eの音をiの音にする対応が見られる。
さて、このように琉球方言にはp音のような日本語の古い発音が残っているのであるが、一方、琉球方言には新しいことばも多いとする考えもあり、さらにその反論もあって、琉球方言の研究そのものが、日本語の歴史の研究にどのくらい寄与し得るか、今後の課題であろう。
「p音考」は音韻史の研究上すばらしい発想ではあったが、ハ行子音がp音で発音された時代はいつ頃であったなどもうひとつはっきりしないところが多かったのである。
文献による研究【(注2)】としては、万葉仮名でハ行音をどんな漢字で表わしていたかということである。
〔引用者注:ここからp.141〕
ハ……波・破・播 ヒ……比・悲・斐 フ……不・布・敷 ヘ……敝・弊・反 ホ……保・倍・本
これらの漢字音は韻鏡では重唇音や軽唇音に属するので、p音系統やF音系統の中国音で日本語のハ行子音を表わしていたことになるのであるが、奈良時代のハ行音がパピプペポであったかファフィフゥフェフォであったかはっきりしないのである。
そこでもし平安時代の初期にハ行子音をFと発音した資料があれば、その前の奈良時代もハ行音はファフィフゥフェフォであったということになるが、慈覚大師の在唐記【(注3)】(八世紀中ばのもの)に梵語のpa音に日本の「波字音」で呼ぶが「唇音を加う」とあるので、パを発音するのに軽い両唇音のFを重くしてP音に発音させたのであって、平安時代にはハ行子音は両唇音のFであったといえる。この解釈に異論をとなえるむきもあるが、両唇音説に従いたい。
文献による研究で、著しい成果を収めたのは、さきにあげた天草版平家物語のような外国資料によるものである。すなわち、十六世紀から十七世紀のはじめにかけて外国人が日本語のハ行音をいかに表記していたかということ【(注4)】である。
キリシタンは日本語のハ行子音をすべてFをもって表わしていて、これによって当時のハ行音が両唇音のファフィフゥフェフォのような音であったことは疑いないこととされているのだが、ただポルトガル語などのロマンス語では、日本語のハ行子音をもしhでつづると、サイレントになって、Haはアのように発音されるので、FをもってFaとしたのではないかという解釈もあるが、ほかの証拠もあるし、やはり日本語のハ行音が両唇の摩擦音であったからこそFをもってつづったのであると解すべきであろう。
”
※fc2ブログではルビ表現ができないので、ルビは再現していない。とはいえ文意はほぼ変わらない。ルビは【】で再現した。
p.151
(「日本語の歴史」における)
注
1 伊波普猷「p音考」(『古琉球』『伊波普猷全集』第一巻〈昭49・4、平凡社〉所収)
2 安藤正次『古代国語の研究』『安藤正次著作集 国語学論考Ⅱ』(昭49・7、雄山閣)
3 橋本進吉「波行子音の変遷について」(『国語音韻の研究』〈昭25・8、岩波書店〉所収)
4 新村出「国語に於けるFH両音の過渡期」(『東亜語源志』『新村出全集第四巻』〈昭46・9、筑摩書房〉所収)
(
波行子音の變遷について 橋本進吉
「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasip.txt
「慈覚大師の在唐記【(注3)】(八世紀中ばのもの)に梵語のpa音に日本の「波字音」で呼ぶが「唇音を加う」とあるので、パを発音するのに軽い両唇音のFを重くしてP音に発音させたのであって、平安時代にはハ行子音は両唇音のFであったといえる。この解釈に異論をとなえるむきもあるが、両唇音説に従いたい。」
九世紀半ばの間違い。この場合で一世紀違うのは致命的すぎるぞ。
p.217からの
国語関係主要文献年表
より、万葉集は西暦759年と推定され、かつ759年の時期が上限とある。
万葉仮名は8世紀半ば。
p.219より、
八四七 承和 一四 入唐求法巡礼行記(円仁)
八五八 天安 二 在唐記(円仁)
なので入唐求法巡礼行記と 在唐記は著者は同じだが別の記録。
858年。完全に9世紀半ばだ。
万葉集から 在唐記まで意外と間が空いていないな。ほぼ100年しか空いていない。
パピプペポばかりだったのが100年でファ発音になるとは思えないので万葉集が出た時代にはすでにファばかりか、混合だろう。
語中のpは語頭よりも早く変化しただろうし。
仮に「ほほん」という単語を考えてみる(実在しないはずの単語)。
poponが最初の発音で最終的にhohonになったとする。
pofon、fofon、fohon、hohonの順に変化していったであろうということだ。
(
昔のキリシタン文献で「へ」が「ふぇ」だった証拠の1つを見つけた。
「ゐんへるの」(インフェルノ)。
タイトル偏向しているだろうなこれが完成する頃には
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/3/3~/と良呟きや記事の保管庫
Posted on 2022.03.20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-471.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
更新されたので気付いたと思うけど
残りの人生の目標は、奴らの400年間以上続いている魔法陣に「蟻の一突」をすること
その蟻の一突するためにはこ↑こ↓にくるしかなく、それは「天命」でしかないことなんよ
齧られて欠けた・消えた魔法陣は弱体・無効になる、天の理・地の理があるなら後は人だけ
午前4:06 · 2022年3月20日·Twitter for Android
(
このブログ記事を更新〔公開〕したことについて。反応が早い。
私も微力だろうが協力している。本記事の西洋あまねしの箇所など。
もっと後で公開しようと思ったのだが、量がかなり増えてきたのでさっさと公開することにした。
欧米の尻メンバーに翻訳させたのがそもそもの間違いだよなあ。まあ意図的だろうけど。
国語学の教科書を複数読んだ。上田万年(上田萬年)が極めて重要。明治以降の日本語の作成に関わった重鎮。
「昔のハ行はP音だった」という論考を書いた人で有名。この人も超怪しいのだが、訳語を作りまくった人ではない。
ニッポンは上代日本語ではありえない(小さいツの発音がない)が、ニポンだった時期がある可能性はあるってこと。
なお、奈良時代あたりにはすでにF行発音(ニフォン)になっているからあまり気にしてもなあ。
やたら重視しているのが外資の手先とかばかりな印象。
小さいツ(促音)が登場してからはニッポン発音もできたけど、ニフォンと併存。
昭和時代にポン読み推進しても大多数の人々はニホンが主流のままだからな。
にほん語は今もパ行発音は主流ではない言語だとよくわかる。
400年前ぐらいから侵略しに来た宣教師の言語がラテン語とポルトガル語でP音が必須なんだよな(笑)
例えば、パンは耶蘇教ではイエスの肉体だからな〔儀式が必須〕。ぱあてる(パーテル)もだな。
キリシタンと発音で思い出したのだが、インフェルノ(地獄)って昔は「い〔ゐ〕んへるの〔野〕」って書いた〔文献が少なくとも2つはある〕んだけど、これ当時は「へ」はfeだから正しいんだよね。
読めないニックネーム - Wiki
https://img.atwiki.jp/monosepia/attach/3227/9896/%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0.htm
”“あまねくよみがへりたるじゆいぞ‐ぜらるの後は人間二度死(フタタビシス)る事あるまじきと云(イフ)事也。たゞし善悪二(フタツ)の模様(もやう)は変(かは)るべし。其(ソノ)故は、ぜんちよと悪(あ)しききりしたんとは、終(をは)りなくゐんへるのゝ苦(くる)しみを受(う)けてながらへ、がらさにて果てたるよききりしたんは天にをひて楽(たの)しび(ミ)を極(きは)めて、不退(ふたい)の命を持(モツ)べしと云へる儀也。”p.47
不退の命…永遠の命
ぜんちよ…異教徒 Gentio ポ
悪いキリスト教徒と異教徒→永遠にインフェルノで苦しむ
いいキリスト教徒「だけ」→天にて永遠に楽しむ
”
出典は『どちりいな-きりしたん』。
https://twitter.com/TakabatakeKouji/status/1259066579741896704
”高畑耕治 純心花
@TakabatakeKouji
読書メモ「どちりいなーきりしたん」(キリスト者の教義)
「キリシタン書 排耶書」日本思想体系25、H・チースリク他校注、岩波書店
ぱあてるーなうすてるのおらしよ
(主の祈り、最終部)
我等を凶悪よりのがし給へ。あめん。
戦国の1600年頃イエズス会布教者と信仰者の唱える声が聞こえる気がする。
午後7:23 · 2020年5月9日·Twitter Web App”
https://twitter.com/platinum_nerve/status/347447069310590976
”0883
@platinum_nerve
イソップ物語は2600年も前に書かれたのかぁ。江戸時代よりも昔に和訳されたイソップ物語は、「インフェルノ」を「ゐんへる野」って訳したそうだけど、当時の人はいったいどんな野原を想像していたのじゃろう...
午前5:13 · 2013年6月20日·hamoooooon
”
〔こんなの見つけた。
「ゐんへる野」と確かに書いてある。「野」という漢字を当てて「場所」という意味を加えたかったのかもな。
しかしヤソ的な地獄に「野」のイメージがあるかは疑問。
元和古活字版『伊曾保物語』翻字
gennabanisoho_honji.txt
https://www.kashiwadani.jp/gennabanisoho_honji.txt
”元和古活字版『伊曾保物語』翻字
(略)
十六△いそほと二人の侍夢物語の事
△ある時、さんといふ所のさぶらひ二人、いそほを誘引して、夏の暑さをしの
がんため、涼しき所をもとめて到りぬ。その所に着ゐて、三人さだめていはく、
「こゝによき肴一種有。空しく食はんもさすがなれば、しばらくこの臺にまど
ろみて、よき夢見たらん物此肴を食はん」となり。さるによつて、三人同枕
に臥しけり。二人のさぶらひは、前後も知らず寢入りければ、いそほはすこし
もまどろまず、あるすきまをうかゞいてひそかに起きあがり、此肴を食いつく
して、又同ごとくにまどろみけり。
△しばらくありて後、ひとりの侍起きあがり、今一人をおこしていはく、「それ
がしすでに夢をかうむる。そのゆへは、天人二體天降らせ給ひ、われを召し具
して、あまの快樂をかうむると見し」といふ。今一人が云やう、「我夢はなは
だ是にことなり。天朝二體我を介錯して、ゐんへる野へ到りぬと見る」。其時
兩人僉議してかの伊曾保をおこしければ、寢入らぬいそほが、夢の覺めたる心
地しておどろく氣色に申やう、「御邊たちは、いかにしてか此所にきたり給ふ
ぞ。さも不審なる」と申ければ、兩人の物あざ笑つて云、「いそ保は何事をの
給ふぞ。我この所を去事なし。御邊と友にまどろみけり。わが夢はさだまりぬ。
御邊の夢はいかに」と問。伊曾保答云、「御邊は天に到り給ぬ。今一人はゐん
へる野へ落ちぬ。二人ながらこの界にきたる事あるべからず。然ば、肴をおき
てはなにかはせんと思ひて、それがしこと※※く給はりぬと夢に見侍る」とい
ひて、かの肴の入物をあけて見れば、いひしごとくに少も殘さず。その時、ふ
たりの者笑ひていはく、「かのいそほの才覺は、ぐわんのうかがふところにあ
らず」と、いよ++敬ひ侍るべし。
(略)
本稿は、国文学研究資料館編「日本古典文学本文データベース」所収のデータを基に
一部改変して成したものである。”
改行が変になるので話の箇所は文字の大きさを「小」にした。
学校時代に古文をきちんと勉強しておいてよかったとよく思う)”
※引用元と見た目が変わったがこればかりは仕方ないなあ)
p.152から
方言
(執筆者は徳川宗賢。
え、徳川? 気になるので調べてみた。
徳川宗賢 - ブログ版「泥鰌の研究室」
https://blog.goo.ne.jp/dozeu2534/e/2301989c4e07882e007b2f4d7868ef49
”徳川宗賢(とくがわ・むねまさ)
学習院大学人文学部教授。昭和30年に国立国語研究所(国研)地方言語教室に入り、「日本言語地図」(全6巻)をまとめた。
平成10年1月に「社会言語科学会」を設立し、同学会の初代会長となる。平成11年逝去。「日本方言大辞典」、「日本の方言地図」、「新・方言学を学ぶ人のために」、「関西方言の社会言語学」、「方言地理学の展開」等々、言語学・方言学等々に関する著書多数。
中でも「方言地理学の展開」は、「日本言語地図」の調査・作成、「日本方言大辞典」の編集など、方言研究・方言地理学に精力をそそいできた徳川のはじめての論文集で、現在の方言研究・社会言語学の指針となる書である。”
研究者をさがす | 徳川 宗賢 (70000403)
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000070000403/
”1993年度 – 1998年度: 学習院大学, 文学部, 教授
1987年度 – 1992年度: 大阪大学, 文学部, 教授
1989年度: 大阪大学, 文学部
1986年度: 阪大, 文学部, 教授 ”
徳川宗賢 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E8%B3%A2
”徳川 宗賢(とくがわ むねまさ、1930年11月27日 - 1999年6月6日)は、日本の言語学者・国語学者。博士(文学)。日本語の方言研究の第一人者であった。
〔中略〕
東京府出身。田安徳川家9代当主・徳川達孝伯爵の長男徳川達成(のち10代当主、伯爵)の次男として生まれる。
学習院大学文学部文学科国文学専攻卒業。学習院大学大学院人文科学研究科国文学修士課程修了。
大阪大学文学部教授を経て、学習院大学文学部日本語日本文学科教授。国語学会代表理事。第21期国語審議会委員。主な編著書に『日本人の方言』、『日本の方言地図』がある。司馬遼太郎とも、対話「日本の母語は各地の方言」(『日本語と日本人』 中公文庫、のち『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集2』 文春文庫)を行っている。探偵!ナイトスクープのアホ・バカ分布図作成にアドバイスを行った。
妻の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。娘の松方冬子は日本史学者、東京大学史料編纂所准教授。
〔中略〕
最終更新 2022年2月9日 (水) 08:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” (着色は引用者)
マジで怪しいな(笑) それは置いといて本文メモに戻る)
p.161
東京のことばと沖縄県首里の一般方言とを対比してみると、次のような関係が見出される。
東京 首里
アジ(味) アジ
アメ(雨) アミ
イシ(石) イシ
ウシ(牛) ウシ
ウデ(腕) ウディ
オト(音) ウトゥ
カス(糟) カシ
カズ(数) カジ
キーロ(黄色) チール
キモ(肝) チム
クジ(籤) クジ
クズ(葛) クジ
クチ(口) クチ
クモ(雲) クム
ケ(毛) キー
ケガ(怪我) キガ
サキ(先) サチ
ジ(字) ジー
ス(巣) シー
スミ(墨) シミ
タ(田) ター
タカサ(高さ) タカサ
チ(血) チー
ツキ(月) チチ
ツメ(爪) チミ
テ(手) ティー
テツ(鉄) ティチ
トキ(時) トゥチ
ナツ(夏) ナチ
ハズ(筈) ハジ
ハナ(花) ハナ
ホ(帆) フー
ミチ(道) ミチ
ユ(湯) ユー
(ここからp.162)
アクセントを無視したわずかな例示に過ぎないが、この範囲からでも、いくつかの問題を指摘しうる。
まず、標準語の一拍名詞に対して、首里では長音が現われる。このような場合、標準語の一拍名詞の短母音は首里方言の長母音と対応する、という(それ以外の母音については、この例示の範囲では、標準語=短:首里=短、標準語=長:首里=長の対応関係がみられる)。つぎに、標準語のa・i・uの母音は、スズツの場合を除いてそれぞれ首里のa・i・uに一対一の対応をみせていることがわかる。スズツの場合は標準語=u:首里=iとなる。さらに、標準語のe・oは、首里のi・uにそれぞれ対応していることがわかる。
両言語の母音(長短無視、スズツを除いて)の対応をまとめれば、
首里 i a u
^ | ^
東京 i e a o u
(ズレているかもしれないのでメモ者注:iがiとe。aがa。uがoとuに対応)
となる(この点から沖縄方言は三母音であるということが言われるが、貝はケー、香はコー、大概はテーゲー、当分はトーブンであるから長音のe・oは存在するのである)。
(中略)
ともあれここでは、規則的な関係が見出されるということは、両言語が、歴史的に無関係とはほとんど考えられないことを意味する点に注意したい。
pp217から
国語関係主要文献年表
p.217《例言》
* 推定の時期であることを示す
上 その時期が上限であることを示す
p.218
上*
七五九 天平宝字 三 万葉集
p.219
八四七 承和 一四 入唐求法巡礼行記(円仁)
八五八 天安 二 在唐記(円仁)
(入唐求法巡礼行記と 在唐記は著者は同じだが別の記録。
誤解するところだった、入唐~の別名が在~だと思っていた)
p.234から
国語学参考文献解題
p.238
橋本進吉 キリシタン教義の研究(橋本進吉博士著作集第十一冊)
岩波書店 昭36
もと昭三年刊。室町時代の通俗文語で書かれたローマ字本『ドチリナ・キリシタン』(文禄元年、天草学林刊、東洋文庫蔵)の全文紹介と国語学的研究をなしたもの。
(橋本進吉も怪しいな。キリスト教研究者は優遇されるだろうな)
p.249
上代特殊仮名表
「ひ」と「び」、「へ」と「べ」が区別されている。
p.250から
日本語音節表
p.250
奈良時代における大和地方語の音節表
(清音にて、fa fi fï fu fe fë fo。備考にて「fの音価は[Φ]」とある。濁音の項目がある。半濁音の項目はない。撥音、促音、引き音、拗音の項目もない。母音は5つのみではない。f行の母音は7つあるが、行によってはöが加わり母音が8つある場合もある)
(上代日本語は8母音だと橋本進吉の研究で明らかになったんだよな。神代文字が捏造である根拠の1つ。全ての母音にそれぞれ対応する字を作らないのはおかしいからな)
[2024年8月6日に追加:
最新の知見では古代日本語は8母音ではないらしい。
追加終わり]
室町時代における京都語の音節表
(半濁音と撥音と促音と拗音の項目が加わっている。
清音の内、直音ではfa fi fu fe to〔foの誤字だろう〕
清音の拗音の項目ではfja (fju) fjo。
備考にて「fの音価は[Φ]」とある。
半濁音の項目が加わっており、pa pi pu pe po とある。
母音が5つのみに減っている)
p.251
現代における共通語の音節表
(清音、濁音、半濁音の項目に分かれている。撥音、促音、引き音もある)
メモは以上。
昔の教科書を採用してよかったな。今現在のだと欧米汚染が酷くなっているだろうからな。
小松英雄 『日本語の音韻 (日本語の世界7)』 中央公論社 昭和56
日本語の世界 7
日本語の音韻
昭和五十六年 一月十日印刷
(昭和56年は西暦1981年。1945年=昭和20年、と覚えると計算が楽)
p.29
子音(Consonant)をC、母音(Vowel)をVとして表わせば、streetはCCCVC、treeはCCV、そしてperiod[píəriəd]はCVVCVVCというようになっていて、英語の場合には音節構造が一定しておらず、母音の直前に子音連続が来たり、二重母音、三重母音を含むことも珍しくないが、日本語の音節は、一つの子音(C)に一つの母音(V)が続いた形の単純な構造(CV)でできている。拗音には拗音要素として半母音が入るのでCjVの形をとるし、また、ここでも促音と撥音とが枠外に置かれることになるが、CV=構造が基本になっているということは、いってもよいだろう。
p.173
促音・撥音は、古く日本語に存在しなかったとされている。それらが使われるようになったのは、中国語の影響によるともいわれている。しかし、もしその影響ということを考えるにしても、それは日本語としてまったく存在しなかった音を中国語から借用したということではなく、もともと擬声語や擬態語の中にしか分布していなかったそういう種類の音が、中国語との接触によって顕在化し、正式の音節として一般語の音韻体系の中にも組み入れられたものと理解すべきであろう。
日本語本来のCV=構造の音節群の中にあって、促音・撥音は異質なものであった。そのような異質の音を、先行する形態素の末尾に置いて、それに続く形態素と融合していることの指標としたのは、たいへん効果的であったと評価できる。
(ここからp.174)
p.174
中国語の語彙を日本語に取り入れたことにより、まるで風邪でもうつるように、なんとなく中国語固有の発音が日本語にうつってしまったとか、それに誘発されて、それまではとらえられることのなかった音が、他の音節と対等な地位を獲得するにいたったかとかいう程度の安易なあり方として、中国語の影響を想定するのは誤りである。誘発であれ導入であれ、それが実現したのは、日本語の音韻体系が、まさにそういう種類の異質的な音を、その当時、必要としていたからなのだということを――、あるいはそれを加えることによって日本語の運用を効率化できたからなのだということを――、忘れてはならない。
イ音便は -VV= という、和語として存在しなかった結び付きを作り出したものであり、撥音便・促音便もCVという音節構造とはいちじるしく違った音をそれと同じ位置にもってきたもので、いわば〈異物の挿入による融合の表示〉という点において共通しており、それらの果たす機能もまったく同じであるから、具体的な音そのものはたがいにかけ離れていても、それらを一括して取り扱うことが可能である。換言するならば、同一の目的のために、いくつもの音が適材適所に動員されているということなのである。
p.178
「わたくし」という語形があるからこそ、それとの相対的関係において「あたくし」や「わたし」の表現価値が相対的に決定される。当然、「わたくし」のがわからもそれと同じことがいえる。これらの語形はたがいに支えあっているわけであるから共存しているのが当然である。ここにもまた、例の【見えない】(傍点の代用)糸が張りめぐらされていることに気付かなければならない。
「水」が midu>midzu>mizu と変化して、そのまま、もとの語形が失われてしまうという経路
(ここからp.179)をたどる音韻変化と違って、これは表現価値の多様性を求めた派生なのである。この点をしっかりおさえたうえで、ふたたび主題の音便にもどることにしよう。
音便の表現価値
音便というのは、連接している二つの語が意味的あるいは機能的にひとまとまりとなっていることの指標として、上位に立つ語の末尾の音節を、異質的な音(撥音・促音)、または異質的な音連続(形態素末尾における母音連続)によって置き換える現象である、というのが、さきの検討によって得られた結論であった。ところが、形容詞のウ音便については、こういう規定のしかたが当てはまらない。それはどういう理由によるのかというのが当面の課題である。
文献資料の調査から得られた結果を総合して見ると、音便は平安時代の初期からあらわれている。しかし、当時においては、ある類型を通じていっせいにその現象が見られるわけではなく、特定のことばにかたよりを見せながら、徐々の広がっていったものであることがわかる。それらは、洗練された文体の仮名文学作品でなしに、口頭語における語形変化をかなり忠実に反映すると認められるところの、仏典に加えられた傍訓に主としてあらわれているところから見ても、日常語において音便の動きが始まったのは、おそらく奈良時代、またはそれ以前にまで遡るとみるべきであろう。かなり定着した言い方でなければ、このような文献にも取り入れられなかったはずだからである。
そういう緩慢な進行の、その過渡期においては、新たに生じた音便形と、それが作り出される
(ここからp.180)
もとになった非音便形とが、ある程度の期間、共存していたとみるのが自然である。いわゆるバトン=タッチ式の交代はありえない。もちろん、そのままなら、非音便形は、遅かれ早かれ姿を消すべき運命にあった。しかし、この場合には、もう一つの要因がからんで、もとの形がそのまま保存される結果になったのである。
まったく同じ意味で用いられる二つのよく似た語形があるということになれば、それが用言であるだけに、あらたまった言い方と普通の言い方とに分かれる方向をたどるのは、日本語して自然である。当然、その場合には、伝統的な語形のあらたまった言い方としての役割をになうことになる。すなわち、非音便形は[mizu]に対する[midu]としてではなく、「わたし」に対する「わたくし」と同じ存在理由を持つことになり、姿を消す機会を失ったまま、表現に必要な語形として、その後も維持される結果になったのである。
第七章 促音のはたらき
p.200
ニホンかニッポンか
四国のある高等学校の女生徒から手紙をもらったことがある。その内容は、文化祭で日本の国名を取り上げたいのだが、ついては「ニホン」と「ニッポン」とのどちらが正しいのか、根拠を示して教えてほしいというものであった。丁寧な文面で、
(ここからp.201 )
しかもわざわざ名ざしで聞いてくださったことでもあるので、数枚の便箋に意見を書いてみたが、どうにも収拾がつかず、結局、ほんとうはかなり難しい問題なのですという言いわけを添えて返事を出してしまったのが、後味の悪い記憶として残っている。ここにその返事を、筋を通した形で、あらためて書きなおしてみたい。考えてみると、これまで、言語学の立場からこの問題を解明したものはないようなので、いちおう述べてみる価値はありそうに思われる。
日本の由来
p.202から
日本の国名が中国語で命名されているということも、中国の周辺諸国の一つとしての文化史的背景を考えるならば、特に異とするに当たらない。はじめに「ひのもと」という呼び方があって、それに「日本」という漢字をあてたという解釈もあるが、日本古来の言い方として「ひのもと」があったとするのも理屈に合わない。西の方にある国の存在を強く意識した外国むけの国名であるから、これは最初から音読されることを前提として作られた国名であると見た方が正しいようである。むしろ、「ひのもと」というのは、あとになって「日本」を訓読したものであろう。『唐書』の「東夷列伝」に、
日本ハ古ノ倭ノ奴。倭名ヲ悪(にく)ミテ、更(あらた)メテ日本ト号ス。国日ノ出ヅル所ニ近ケレバ、以テ名ト為ス。
(メモ者注:本書には「一」「二」「レ」があるが、再現せず、読みだけを記した)
とある。「日本」は中国人による命名ではなく、〈順(したが)う〉とか〈醜い〉とかいう意味の「倭」という名前を嫌って付けかえたものである。マルコ・ポーロの『東方見聞録』にZipangu と紹介されているのも、また、英語のJapan、ドイツ語のJapan、フランス語のJaponなども、すべて、この「日本」という文字の中国語読みに由来している。「ニホン」のことを、どうして「ジャパン」などというのだろう、という子どもの疑問はもっともであるが、もとをた
(ここからp.203)
ずねれば、このように同じことばなのである。「日」という文字が「ジツ」とも読まれることを思い合わせれば、その関係はいっそうよくわかる。
七一二年に成立した『古事記』には「日本」という国名が使われていないが、その八年あとに編纂された正史には『日本書紀』という名称が与えられている。ひと口に「記紀」と総称されているが、実際に読んでみれば、格調がまったく違っており、同じ歌謡でも用字の相違は目を見張るばかりである。そこには、中国の正史に比肩できるだけの堂々たる史書を、という意図が明確に読みとれる。
ジッポン
この『日本書紀』という書名は――、そして、その中に用いられている「日本」という国名は――、その当時、どのように読まれたのであろうか。現在、書名は「ニホンショキ」と読みならわされており、また、国名の方は「ニホン」とも「ニッポン」とも呼ばれているが、まず、この八世紀の状態が問題である。
七二〇年は中国の唐代に当たる。遣唐使がしばしば送られ、長安に学んだ人たちが帰国しているし、令制では音博士が置かれた時代である。当然、「日本」という国名も、当時の中国における正統な字音、すなわち、日本で「正音」と呼ばれた系統の字音で名づけられたはずである。といっても、この「正音」というものの実態には、よくわからないところがある。当時の長安音そのもの、すなわち、外国語としての中国標準語のようでもあるが、実際には、かなり日本語化していても、なるべくそれに近づけた読み方という線であったらしい。現在、本人が英語のつもりで
(ここからp.204。
注:本書の記号が検索しても見つからない場合はどんな記号かわかるように記した)
読んでいても、人によって英語そのものとの距離がさまざまであるように、正音にも相当の幅があったのであろう。ともあれ、より古く日本語に入り、すっかり定着していた和音に比べれば、外国語のような読み方であったに相違ない。
そのころの長安の発音で、「日本」は n[zの上に/ ]i[eの上に\/]tpuan であったと推定されている。たまたま音韻変化の過渡期に当たっていたので、「日」の字の頭字音は、それといくらか違っていたかもしれないが、だいたい、そのような音であったと考えておいてよい。そのまま仮名で表わせる音ではないが、日本語の発音に引き寄せれば、[【小さいnが左上にあるz】itpon]というようなところであろうか。[小さいnが左上にあるz]というのは、鼻にかかった[z]の音である。漢和辞典の類では、「日」という文字の音を、漢音「ジツ」、呉音「ニチ」としている。
この「漢音」「呉音」は、それぞれ、「正音」「和音」の系譜に属するものであるから、結局、今の発音に当てはめれば、「日本」は「ジッポン」であり、したがって、『日本書紀』は「ジッポンショキ」だったはずなのである。『日葡辞書』(一六〇三年刊)には ‘Iippon. Fino moto.’ という項目がある。大文字ではJに当たる文字がないのでこういう綴りになるが、発音は [ʒippon]、すなわち「ジッポン」である。後述のように、切支丹資料にはそのほかの形も見えるので簡単に片付けにくいが、ともかく、この‘Iippon’は注目に値する。
ニッポンの成立
僧侶には正音が強制され、また、『史記』『漢書』『論語』『孝経』などの漢籍は博士家の学者たちによって、やはり正音を用いて読まれていたが、所詮、
(ここからp.205)
それは学問の世界のものであり、いわばよそゆきの字音であった。もっと古く日本に伝わり、すっかり根をおろしていた和音の方が、はるかに強かったのである。[【小さいnが左上にあるz】itpon]という【言い方】(傍点の代替表現)を前提として「日本」と名付けられても、それが「日本」という文字で表わされる限り、和音による[nitpon]という【読み方】が可能であり、したがって、[nitpon]という新しい【言い方】が生まれることになる(「日」の字の和音は[niti]でなく[nit]であった)。ただし、いつごろからそういう読みかえが起こり、また、そういう言い方が一般化したかは突きとめにくい。文献資料には、ほとんど「日本」という漢字書きになっているので、それがどう読まれたのかは判断できないからである。
平安時代の仮名文学作品といっても、現存するのは、ほとんどすべて鎌倉時代以後の写本なので、作者自筆本の表記がどうなっていたかはわからない。そういう状態の中にあって、『土佐日記』は唯一の例外である。紀貫之の自筆と信じられる本が室町時代末期までは残されていて、それぞれ別人により四回にわたって書写されている。それらの
(ここからp.206)
うち、藤原為家による写本は、漢字と仮名の区別はもとより、仮名の字母の違いまでも忠実に写し取ったもので、それもまた今では失われてしまったが、為家本をほとんどそのままに写した本が伝存しているので、間接的ながら、九三五年ごろの自筆本の姿をうかがうことができるのである。その冒頭は、つぎのように記されている。
をとこもすなる日記といふものを ゝむなもしてみむとてするなり
この写本では、仮名でそのままに書けない語形を持った漢語や、仮名で書いてはどうにも工合いの悪い語を除いて、すべて仮名書きになっているが、右に見える「日記」は、そういうごく少ない漢字書きの例の一つなのである。「日記」という語の当時の発音は[nitki]であり、実質的には[nikki]と同じであったと思われる。この当時、促音は使われていても、まだそれに特定の仮名をあてる習慣が成立していなかったから、「日記」を無理に仮名で書けば、「にき」とでもするほかになかったであろう。こういう方式を、促音の無表記という。しかし、無表記というのは (略)漢字によりかかって、はじめて可能な方式であり、したがって、仮名文学作品の中には原則としてあらわれない。紀貫之がこれを漢字書きにしたのは、そういう理由によると考えられる。仮名文学作品の場合、[nikki]というような【きつい】発音は嫌われたので、この部分も[niki]と読むべきだとする俗説は、根拠のない独断である。「日本」も、これと同じように[nitpon]から[nippon]に移行し、そのままの形で存続した。これが天草版『エソポの寓話集』(一五九三年刊)に見える
(ここからp.207)
ところのNipponであり、現代語の「ニッポン」なのである。
(メモ注:p.207に『エソポの寓話集』(一五九三年刊)の写真があり、「Nippon」と書いてある)
ニホンの成立
これに対して、「ニホン」の方は、その由来がどうも明らかでない。考えられる一つの可能性は[nitpon]の[t]、あるいは[nippon]の促音部分を表わすための仮名がなかったために「ニホン」という表記をとり、それが綴り字発音(spelling pronunciation)によって[niɸon]と読まれるようになり、さらに音韻変化によって[nihon]になったのではないか、という筋道である。しかし、これは、いかにも理屈に合ったようでありながら、説得力に欠けている。仮名文学作品では、たとえば、
あはれなる古言(ふること)ども、唐(から)のも【やまと】のも書きけがしつつ、草(さう)にも真字(まな)にも、めづらしきさまに書きまぜ給へり。(源氏物語・葵)
というように「やまと」が普通であるし、また、もし平仮名文献の中にそれがでてきたら、「日記」の場合と同じく、「日本」という漢字表記をとることが期待される。もちろん、それに対してわざわざ読み方を書き添えるようなことはしない。「日本」という文字を書くのはきわめ
(ここからp.208)
て容易であり、したがって、仮名書きは稀な例である。綴り字発音が定着するためには、その表記が固定していて、しかも、その語が日常生活から遊離しているという条件がなければならないはずであるが、「にほん」について、そういう条件が存在したとは考えにくい。そこで、ここには、もう一つの可能性を提示してみよう。
現代語についてみると、和語型における促音の分布にはかなりのかたよりがあり、いくつかの類型に分けることが可能であるが、その一つとして、左のような対における、強めの語形がある。
とても――とっても やはり――やっぱり よほど――よっぽど
また、「ただ」という語形では、その間に促音が挿入できないので、第二の「だ」を清音に置き換えて「たった」としたような例まである。このような対を作っていなくとも、「はっきり」「さっぱり」「きっちり」「くっきり」などという副詞は、それ自体として強めの含みを帯びている。それだけに、より口語的であるといってよい。その点は動詞の促音便についても同様である。そして、口語的ということは、同時にまた、それが洗練された文体に用いられる語形でないことをも意味している。
漢語型と和語型とでは音韻法則を異にしているから、同じ結び付きでも、それにともなう語感は必ずしも同じでない。「ニッポン」という語形は促音を含んでいても、漢語型であるから、品位に欠けるということもないので、正式の国号としてそのままに継承された。しかし、それが「やまと」にかわるべき国号になったという事情もあって――、すなわち、和語的なひびきの国
(ここからp。209)
名もまた保持したいという心理が作用して――、和語型についての音韻法則の部分的適用ということが、ここに生じたらしい。
「とても」と「とっても」との関係からいうならば、「ニッポン」という語形は、意味の強めをともなう「とっても」のがわに属している。この強めを除いて普通の語形に戻すためには、促音を脱落させればよい。そのような類推によって、「ニッポン」から作られたのが、、「ニホン」という語形なのではないであろうか。もとより、意図的にということではなく、自然ないきおいとしてである。
このようにして生まれた[niɸon]という語形は、漢語型の特徴を完全には捨てきっていない。しかし、かりに漢語度というようなことを考えるとしたら、その価は[nippon]の半分以下に落ちているといってよいであろう。いわば、ずっと【かど】のとれた語形になっている。
(p.209に天草版『平家物語』の写真が掲載されており、NIFON NO COTOBA[日本のことば]と書いてある)
天草版『平家物語』に Nifonとあり、また、『平家物語』の譜本などにもそういう読み方になっているから、その段階でこの語形が確実に成立しているが、さきに述べたとおり、この語は、ほとんどつねに漢字で記されており、表記に手がかりが求め
(ここからp.210)
にくいために、この語形がいつの時期まで遡りうるのかは明らかでない。
日本記などは、ただ、かたそばぞかし(=ほんの表面的ナ事柄だけにすぎません)。これら(=物語)にこそ、みち〱しくくはしき事はあらめ。(青表紙本・源氏物語・螢)
というように、『日本書紀』の略称「日本記(紀)」も、古写本においては漢字書きになっており、それを現今では「ニホンギ」と読みならわしているが、明確な根拠があってのことではない。むしろ、仮名で忠実に表わしえない音であったために漢字表記になっているのではないかという疑いもないではない。前引の『日葡辞書』には Nifongui という見出しになっているが、十七世紀初頭までくだれば、「日本」それ自体に「ニホン」という語形がすでに成立しているわけであるから、その当時の読み方として「日本記」が「ニホンギ」であっても不思議はない。
どちらが正しいか
いろいろと調べたり考えたりしてみても、結局は空白の部分が残らざるをえないが、ともかく、ある時期から[nippon]と[niɸon](>[nihon])とが共存するようになっていたことは確かであり、その状態が現在にまで及んでいる。そこで、どちらが正しい国名なのかということになるわけであるが、これは慎重に判断しなければならない。
一般に、正しいことばというときの、その正しさの基準はどこに求めるべきであろうか。その点についての共通理解なしに、いきなり、どういう言い方は間違いであって、どういう言い方に改めなければならないということを主張しても、一部の人たちの共鳴が得られるだけで客観的な説得力がない。ただ、ここでその問題を一般論として正面から取り上げると、それはそれで大き
(ここからp.211)
な議論になってしまうので、さしあたり、「ニッポン」と「ニホン」とにかかわる範囲だけに限って考えてみることにする。
「ニッポン」と「ニホン」とが、どうして択一を迫られるのか、それは、これら二つの語形が明らかに同じ国をさし、しかも、明らかに同一起源の語だからであろう。しかも、それが正式の国号ということになれば、国家意識のような要因まで作用するので、議論が先鋭化しやすい。
同一の事物をさす同一起源の二つの語形という意味でいえば、「ニッポン」と「ニホン」との共存は、「ハンカチ」と「ハンケチ」との共存と同じことであるが、漢字が介在するかどうかという点には質的な開きがある。そしてまた、漢字の介在というだけなら、「洗濯」を「センタク」「センダク」のいずれに言うべきかということと原理的に共通しているといってよさそうでもあるが、重要なことばと些細なことばという点で、一般の関心のあり方に大きな相違がある。
p.213から
p.213
「ニッポン」にせよ「ニホン」にせよ、どちらもいちばん古い形ではないし、いまさら「ジッポン」にももどせない。その前に、そもそも、古い形がすなわち正しい形であるといえるのかどうかという、根本的な問題がある。
語感の相違
正しさを判定する最も有力な基準は、現在、それがどういう語形で通用しているのかということである。個人的なゆれが多少はあるかもしれないが、おそらく、「ニホン」の方が圧倒的に優勢であろう。「日本」という単独の形をはじめ、「日本語」「日本人」「日本猿」「日本社会」その他の熟語も、すべて「ニホン」の方が標準的な言い方であるといってよい。それは間違いだといってみても、いまさらどうなるものでもない。日本銀行券の裏には、すべて NIPPON GINKO と大きく印刷されているのに、権威があるとされている国語辞書にも、「にほん=ぎんこう」という見出しになっている。編集者は承知のうえで実情に合わせたのであろうか。
こういう現実にあるにもかかわらず、「ニッポン」という国号に執着する人たちが少なくないということには、なにか理由がありそうに思われる。考えてみると、こういう国名論争が新聞の投書欄をにぎわしたりするのは、オリンピックが開催されるような年に多い。関係者や選手団は NIPPON を好むようだが、一方にはそれが大嫌いな人たちがいて、NIPPONというのは侵略的、
(ここからp.214)
帝国主義的な言い方だと批判する。戦争経験者たちの中には、「ニッポン」にまつわるいまわしい思い出を持つ人たちが多いから、平和日本は「ニホン」でなければならないという主張には、筆者もその世代に属するひとりとして理屈を越えた共感をおぼえないでもないが、ここでは、もう少し冷静に考えてみよう。
若い読者のために事実を述べておくと、太平洋戦争中には「ニッポン」が好んで使われた。あるいはそれ以前、一九三九年八月に新鋭機「ニッポン」号が国威を世界に示すために羽田から世界一周に飛び立ったことも指摘しておくべきだろう。
戦争中に「ニッポン」が使われたから、それが嫌いだという前に、なぜ、戦争中に「ニホン」でなく「ニッポン」が使われたのかということを、ここで考えてみなければならない。それは、おそらく戦争指導者たちに明確な理論的根拠があったわけではなく、ただ、「ニッポン」なら勝てそうで、「ニホン」では勝算がないような感じが、なんとなくあったからに違いない。それは、いまでも同じことであって、胸のマークが NIHON では、金メダルなどとうていおぼつかないので、NIPPONが選ばれるのであろう。「日本銀行」が NIHON GINKO では国際的な威信にかかわるし、世界中に送られる NIPPON の切手が貼られるということになると、「日出づる国」の姿勢に一脈かよってくる。
これは、さきに述べたような促音の挿入による強めの効果が働いているからであって、そのために「ニホン」は普通の形、そして「ニッポン」はそれを強めて言った形として対比的に把握さ
(ここからp.215)
れているからにほかならない。帝国主義もオリンピックも――、もとよりそれらを同一視したりするつもりはないが――、そしてNIPPON GINKO も郵便切手のNIPPONも、これで統一的に説明できたことになる。
共存の理由
正しい国号は「ニホン」なのか「ニッポン」なのかというような性急な問いかけは、問題を紛糾させるだけで、みのりある解決をもたらさない。それは、最初から、どちらかが正しくない形で、当然、抹消されるべきはずだという前提に立っており、また、こういう場合の〈正しさ〉とは、どういう意味なのかという点についての考慮をまったく欠いているからである。それよりも、どうしてこういう二つの語形が共存しているのかということに疑問をいだき、そこから出発しない限り、ほんとうの解決に到達できるはずがない。二つの同じ【ような】語形が長期にわたって共存し続ける場合には、一般的にいって、なんらかの意味における機能の分担を生じていることが多いから、そういう目で検討してみる必要がある。結局、ここで得られたのは、普通の形と強めの形ということであった。
「とても」と「とっても」とのどちらが正しいかということは問題にされることがない。含みの違いがよくわかり、それぞれの存在意義を容易に認めることができるからである。「ニホン」と「ニッポン」とが、ちょうどそれらと併行的な関係にあるとしたら、たがいに異なる含みを分担しているわけであるから、どちらが正しいという筋合いのものではない。はじめからこういう対比的価値を求めて「ニッポン」から「ニホン」が作り出されている以上、一方が失われてしまっ
([注:「ニッポン」から「ニホン」が作り出されている~というのは原文ママ]
ここからp.216)
たのでは意味がない。その点において、「わたくし」系列の一人称代名詞の共存とあい通じるものがある。ただし、待遇表現にかかわる代名詞などと違って、名詞にこういう共存関係が生じることは珍しい。これは、つぎのように考えれば説明がつくであろう。
国家には国威の宣揚とか示威とかいうことが、しばしば必要になることがある。そのためには、国号についても、強めた形があるのはたいへん好都合である。かつては、「大日本帝国」といういかめしい呼び方が行なわれたこともあるが、わざわざそういう言い方をしなくとも、「ニッポン」という語形は、すでに 【Great】 Britainとか「【大】韓民国」とかいう呼称に通じるものを十分に持っているといってよい。Great British という形容詞は使わないようであるし、また大韓民国で使われている言語は「大韓民国語」ではなくて「韓国語」である。同様に、「ニッポン」で使われている公用語も「ニホン語」でいっこうにかまわない。
日本語の独自性
促音の挿入が強めの機能を持つことを右に指摘した。これは、主として和語型の語に当てはまる法則であって、必要に応じて漢語型の語にも適用されることがある。「ニッポン」もその一つであるが、はたして外国人にまでその含みを理解してもらえるかどうかとなると、はなはだ心細い。オリンピックともなれば世界中から選手が集まるから、この点について日本語と同じ対立を持つ言語を使う人たちがいないと断言できないが、ほとんどの人たちは NIPPON という綴りの中の二つの子音連続がどういうことなのかを理解してくれないであろうし、実際に発音してみせても促音を聞きのがすか、または聞き取っても、その語形
(p.217から)
にこめられた勝利への意気ごみまでを感じとってくれそうもない。要するに、NIPPON は日本選手団の士気高揚に役立っても、他国の選手たちに対する示威効果はほとんど期待できないということなのである。個々の音韻はその特定言語の中において機能しているのであって、別の言語には、またそれと別の規則が働いていることを知らなければならない。
以上が四国の高校生に書きたかった手紙の趣旨である。
(p.217終わり。第七章 促音のはたらき 終わり)
([2022年7月20日記す:]
pp.214-215
”
(前略)促音の挿入による強めの効果が働いているからであって、そのために「ニホン」は普通の形、そして「ニッポン」はそれを強めて言った形として対比的に把握されているからにほかならない。
”
これが結論って感じの箇所だな。本書の著者は「ニホン」が普通だと認めている。
大変勉強になる本だ。国語学者の限界を感じるけどね。国号は政治的問題なんだから日本が明治以降欧米の植民地〔少なくとも実質的には]ってことを考えないとダメでしょ。欧化政策ぐらい知っているでしょうに。欧米での日本を意味する単語ってhではなくpだからね。ジャパンなど。フランス語はhを発音しないからフランスには明らかに配慮しているね。欧米人が発音しやすい国号を採用しているのが欧米の支配下の証じゃん。「ニホン」読みが多数派なのにね。「ニッポン」と読めと支配層が強制しようとしても定着しなかったからな。『正式な国号は「ニホン」だが、外国人向けの便宜的な表記では「Nippon」も許容する』ではなく、正式な国号を「ニッポン」のみにしろって強制力がおかしいんだよ。日本銀行券は便宜的表記はダメなので当然 NIHON表記にすべきだ。
以上は今の日本語のハ行が古代はp音だったか否か以前の問題だよ)
(2022年7月21日追加:
撥音も促音も拗音も日本語の音韻として現れるのは平安時代以降なので国号が決まったとされる天武・持統期(飛鳥時代の西暦673-697年)にニッポン読みは実在しない。
「日本」の国号制定が奈良朝の初頭または直前にあたるのでニッポン読みではない可能性が高い。以上のようなことは一切書いていなかったのが気になるな。促音がない時代にニッポンやそれに似た発音をしている人々がいるとするなら、渡来人系だろうな。
上代日本語[奈良時代ごろまでの日本語]に促音がないと確定したのが本書が出た昭和56年[1981年だから30年以上前]より前か後かわからない、とだけは書いておく。調べたらわかりそうだけど労力に見合う成果がなさそうなので私はやらない)
p.249から
第九章 ハ行音の変遷
現代語のハ行子音
ハ行子音は、文献時代以前に両唇破裂音の[p]であったが、すでに奈良時代には両唇摩擦音の[ɸ]になっており、さらに江戸時代に入って声門摩擦音の[h]に変化した。
こういう知識は、高等学校の教科書などにも取り入れられて、いまではかなり広まっている。「母」という語が、もともと[papa]であったということは、英語のpapaとの食い違いという点で素朴な興味をひくし、「春」なども、[paru]の方がいかにも生き生きとしていて、春にふさわしいような気がしないでもない。しかし、ここでもまた、われわれは知識をすなおに受け入れるまえにその根拠を吟味することが必要である。この章では、右にあげた常識を取り上げ、それを掘り下げることによって、ハ行音に関するさまざまの問題を考えてみたい。
〈ハ行子音が[h]になった〉ということは、とりもなおさず、それが〈現在と同じ音になった〉
(ここからp.250)
という意味である。ここで説明が終っているのは、「ハヒフヘホ」のすべての音節についてこれが当てはまるという含みがそこにあるからにほかならない。説明するがわにも説明されるがわにも、五十音図の構成原理がしみついているので、格別の疑問もなしに通過してしまう。
しかし、それぞれの発音にいくらか注意して観察してみればすぐにわかるとおり、ハ行の子音は[h]だけではない。どういう記号をそれにあてるべきかはともかくとして、「ヒ」の子音は明らかに[h]ではないし、「フ」の子音はさらにそのどちらとも違っている。
ハ行子音が過去において両唇摩擦音の[ɸ]【であった】、という表現は、もちろん、そういう発音がすでに失われてしまっていることを意味している。したがって、[ɸ]などという見なれない記号で表わされた音は、どうやって発音してよいのやらわからない、ということにもなりかねない。しかし、その[ɸ]という音は、まぎれもない現代語の「フ」の子音そのものなのである。
ドイツ語では〈私〉のことをichという。発音記号でそれは[iç]と表わされるが、この[ç]という音には ich-Laut(イッヒ・ラウト)、すなわち〈ichの音〉という特別の名称もあり、ドイツ語特有の発音として教えられる。しかし、このich-Lautこそ、現代日本語の「ヒ」の子音なのである。ドイツ語の方が少し摩擦が強いということはあるが、さほどの違いが認められるわけではない。外国語を習っているという意識が強く働いて、なかなかその類似に気付く余裕がないばかりか、ドイツ語特有の難しいich-Lautを、まるで日本語の「ヒ」と同じような発音でごまかしているという、うしろめたさを感じていたりさえする。日本語の「ヒ」は[hi]なのだと思いこんでいるために、
(ここからp.251)
それが結び付かないのである。発音記号に振り回されると、いよいよわからなくなる。
現代語のハ行音が、[ha], [hi], [hu], [he], [ho]ではなく、 [ha], [çi], [ɸu], [he], [ho]と発音されているという事実を、まずはじめにおさえておく必要がある。
いったん、ɸ>h- という音韻変化が完成したあとになって、「フ」一つだけがhu>ɸu という逆戻りをして現在の形になったと考えるのは、いかにも不自然である。ほかのハ行音節の子音が[ɸ]から[h]に変化しても、「フ」だけはそのままに[ɸu]の状態を保ち続けて現在に至ったとみなすべきであろう。すなわち、[ɸ]は唇の音であり、[u]もまた唇の音であるから、[u]が[ɸ]を支えて[hu]に変化しなかったということなのである。
[中略]
filmは「フイルム」または「フィルム」という。また、その中間的な発音も行なわれている。(中略)実際には[film]でなく[ɸirum]になっていることが多いようである。[f]は唇歯音、すなわち、上の歯と下唇とで調音する音であるが、
(ここからp.251)
[ɸi]というときに唇を意識するので、[fi]になっているように感じるためであろう。
現代語の「ヒ」の発音が[hi]ではなく[çi]となっている理由については、どのような説明が可能であろうか。
「ハ」「ヘ」「ホ」と同じようにして[hi]という発音をしてみると、[çi]のような【きしんだ】(【 】は傍点の代役。メモ注)音にならない。 [h]は【のど】の奥で調音されるからである。[ç]の音にともなう【きしみ】は、それが硬口蓋(歯茎より奥の硬い部分、さらにその奥は軟口蓋)で調音されることを表わしている。すなわち、[ç]の方が [h]よりもずっと前の方に寄っているのである。もとになった音が [ɸi]であったとすると、可能性として考えられるのは、つぎのふたとおりの変化のしかたである。
(1) 直接の変化 ɸi>çi
(2) 間接の変化 ɸi>hi>çi
(中略。
以下はp.253)
各地の方言を調査すると、変化の過渡期にあるさまざまの状態を見いだすことができるので、変化の具体的過程を推定することが可能になる。そういう研究を言語地理学、ないし方言地理学という。
p.256
擬声語・擬態語を除いて、日本語には濁音で始まる語がなかった
(
濁音で始まる単語を思いつくだけ列挙してみる。
バラバラ、べちょべちょ、べったり、ぶるぶる、ボロボロ、ドロドロ、ビンビン、ビリビリ、びり、びびり、バン(擬態語)、バーン(擬態語)、バンバン、ごろごろ、ぎゃあぎゃあ、べらべら。
敏感、便乗、ビンタ、馬鹿、馬脚、馬術などの漢語ありなら沢山ある。
和語[外来語以外の日本列島固有語]だとあまり思いつかないな。
濁音ではなく半濁音つまりパ行だとかなり少なくなるんだよな[欧米からの輸入語は除く]。語頭がパ行の漢語って思いつかないな。
パラパラ、ぺったり、ぺたり、ぺったん、ぺたん、ぺっ(唾を吐くなどの音)、ぺこり、ぺこぺこ、ぺんぺん、パッと、パリン、パリーン、パンパン、パン(食べ物ではなく叩く音や銃声)、ぺらぺら(言葉や薄さ)、ぺちゃくちゃ、
パ行。
明らかに少ないな。日本語でパ行の発音は少数派であり主流ではないとよくわかる。
コラム - 「擬音語・擬態語」にはどんな種類がある? -
https://www2.ninjal.ac.jp/Onomatope/column/nihongo_1.html
” 「ごろごろ」「しんなり」などの言葉は,一般に「擬音語・擬態語」または,「擬声語・擬態語」とも呼ばれていますが,これらはそれぞれどう違うのでしょうか。また,日本語の「擬音語・擬態語」にはどんな種類があるでしょうか。「擬音語・擬態語」の呼び名や分類のし方については,これまで多くの研究者がいろいろな名前をつけたり,分類したりしてきましたが,ここでは,金田一(1978)によるものを紹介します。
金田一は,「擬音語・擬態語」を,その意味から細かく5つに分類して,以下のような名前をつけました。
まず,音を表すもののうち,人間や動物の声を表す「擬声語」と,自然界の音や物音を表す「擬音語」に分けました。次に,音ではなく何かの動きや様子を表すもののうち,無生物の状態を表すものを「擬態語」,生物の状態を表すものを「擬容語」とし,そして最後に人の心理状態や痛みなどの感覚を表すものを「擬情語」としました。以下がそれぞれの語例です。
「擬声語」:わんわん,こけこっこー,おぎゃー,げらげら,ぺちゃくちゃ等
「擬音語」:ざあざあ,がちゃん,ごろごろ,ばたーん,どんどん等
「擬態語」:きらきら,つるつる,さらっと,ぐちゃぐちゃ,どんより等
「擬容語」:うろうろ,ふらり,ぐんぐん,ばたばた,のろのろ,ぼうっと等
「擬情語」:いらいら,うっとり,どきり,ずきずき,しんみり,わくわく等
ここで,ある一つの語が,この5つの意味的な分類のうち2つ以上の意味分類にあてはまる場合があります。例えば「どんどん」というオノマトペは,「太鼓をどんどん叩く」というときには,太鼓という物の音を表す「擬音語」ですが,「日本語がどんどん上手になる」という文では,物事の様子を表す「擬態語」になります。また,「ごろごろ」という語は,この5つの意味的分類のすべてにあてはまる意味を持っています。例えば,「猫がごろごろのどをならす」は「擬声語」,「雷がごろごろ鳴る」は「擬音語」です。そして,「丸太がごろごろ転がる」と言えば「擬態語」ですが,「日曜日に家でごろごろしている」の場合には「擬容語」になります。さらに「擬情語」としては,「目にゴミが入ってごろごろする」という用法もあります。このように,一つの語がたくさんの意味と用法を持つことがあるというのも,日本語の「擬音語・擬態語」の特徴だと言えます。
参考文献:金田一(1978)「擬音語・擬態語概説」浅野編『擬音語・擬態語辞典』所収角川書店”)
[7月22日に追加:
ぴいぴい、ぴちぴち、ぴんぴん、ぴかぴか、ぴりぴり、ぱちぱち、
ぴん(名刺ではない。ぴんと伸ばすなど)、ぴくぴく、ぱりぱり、パッ(と)、
ぴた(っと)、ぴっちり、ぺりっ、(お尻)ぺんぺん(三味線を鳴らす音でもある)、
ぺちん、ぺたぺた、パキパキ、ぱたぱた、ぽきん、ぽきぽき、ぽきっ]
p.258
奈良時代の諸文献のうち、音韻史の資料として利用できるのは、ほとんど歌謡や和歌に限られているので、文体上の理由から、擬声語や擬態語のたぐいはきわめて稀である。その中で例外的に顔を出したもののうち、濁音で始まる語として『万葉集』の中につぎの二例が指摘されている。いずれもバ行音である。
(次のページに登場するのが「鼻びしびしに」の「びしびしに」と、
「いぶせくもあるか」の「ぶ(蜂音)」。
p.259では上記を紹介した後で以下のように続く)
数のうえではわずかに二例にすぎないが、和歌の用語上の制約の中にあって偶然に残されてたこれらの語は、奈良時代の擬声語・擬態語に、濁音に始まるものが豊富に存在したことを暗示している。あえていうならば、その状態は現在とさほど違っていなかったと思われる。
p.263
唇音退化というような言語学の術語があって、両唇
(ここから
p.264)
音というものは、唇の緊張がゆるむ方向に不可避的に変化しなければならないかのように、それを理解している人たちがいるように見える。しかし、唇音退化というのは、そういう方向で音韻変化が進行した場合について、結果をそのように呼ぶだけのことであって、決して、音韻変化の必然的方向などというものではない。現に、語頭のバ行音には唇音退化が起こっていない。
[p]か[ɸ]か
すでにこれまでにも、いつの時期のどの音がどうであったかということを、あたかも、それが既定事実ででもあるかのように述べてきたが、音声というものは、それが発音された瞬間に消滅してしまうのであるから、過去の状態を直接に確認できるはずがない。それらはすべて推定である。ある手順に従って過去の言語の発音を理論的に推定することを《再構(reconstruction》という。再構の手順に誤りがあれば、再構された発音は実際と異なってくるし、また、その手順に飛躍があれば、当然、再構の結果に信頼がおけない。音韻には体系があ
(ここからp.265)
り、それぞれの再構は相互依存の関係にあるので、一つの誤りは他へも連鎖的に影響を及ぼすことが多い。こういうわけで、過去における発音について論じる場合には、つねに、そこに示された音がいかなる根拠と手順とにもとづいて再構されたものであるかということへの配慮を忘れてはならない。ハ行音もまた、もちろんその例外ではありえない。
これまでにあげられた諸例の、そのすべてについて吟味を加える余裕はないが、ここでは、p>ɸ>h(ç)という変化のうちでも、はじめの段階が大きな問題なので、その点を中心にまず考えてみることにしよう。
第五章にとり上げた慈覚大師円仁の『在唐記』(八四二)に左の一項がある。
pa
唇
音
、
以
二
本
郷
波
字
音
一
呼
レ
之
、
皆
加
二
唇
音
一
。
(横書きなら、
pa 唇音、以二本郷波字音一呼レ之、皆加二唇音一。
これ、唇音、以2本郷波字音1呼レ之、皆加2唇音1。 と表記したら読みやすいね)
すなわち、[pa]という音節は、日本語の「ハ」に相当するが、それよりももっと唇音らしく発音するというのである。それを逆にとらえれば、[pa]の唇音性を弱めると日本語の「ハ」になるということでもある。サンスクリットの字母は子音だけを単独に表わさないので、[pa]として説明を加えているが、「【皆】加二唇音一」といっているところから知られるとおり、他の母音が付いても、それと同じであったらしい。[pa]の唇音性を弱めた音というのは、[ɸa]ということになるであろう。
『古今和歌集』巻十九にある「誹諧歌」の、その最初に左の和歌が見える。
梅の花 見にこそ来つれ うぐひすの ひとくひとくと いとひしもをる (一〇一一)
(ここから
p.266)
「誹諧歌」とはユーモラスな和歌のことである。
(中略)
〈自分は梅の花を見に来ただけで、別にうぐいすをつかまえようなどというつもりはないのに、うぐいすが、「人が来る、人が来る」といっていやがっている〉ということだけでは、「誹諧歌」としてのおもしろみなど、まったくない。そこで、ここに一つの解釈が提出された(亀井孝)。
小鳥の鳴き声は、小鳥の種類によってさまざまであるが、それを一つで代表させるなら「ピーチク」である。母音を除けば p-t-k となる。「ひとく」とは、まさにこの p-t-k に相当するというのがその解釈である。すなわち、「ピーチク。ピーチク」といううぐいすの鳴き声を「人来、人来」という意味に聞き取ったところに、この和歌のおもしろみがあるというのである。これなら、まさに「誹諧歌」になっている。このように紹介してしまうと、手品の種明かし程度の解釈にすぎないようでもあるが、実は、きわめて示唆に富んだ論証なのである。これに従えば、当時のハ行子音は――、あるいは、少なくとも「ヒ」の子音は――、[p]としてとらえうる範囲の音であったと考えるのが妥当である。
『古今和歌集』の右の歌は詠人知らずとなっているので確実な年代の推定が困難であるが、『在唐記』とさほど隔たらない時期のものとみなしてよいであろう。したがって、当時のハ行音が前
(ここから
p.267)
者によると[p]のはずであり、後者によると[ɸ]でなければならないというのは、いかにも都合が悪い。この矛盾はどのように解決したらよいのであろうか。
たとえば、小鳥の鳴き声は p-t-k ではなく ɸ-t-k としてとらえられていたのではないかと考えてみる。すでに p> ɸ という変化が起きていたのなら、当然、そうでなければならない、という主張がでてくるかもしれない。小鳥の鳴き声それ自体は、日本語の音韻変化と無関係に相違ないが、その聞き取り方が変わったと見るわけである。
ハ行音にそのような変化が起こったことは、すでに一般の常識にまでなっているにもかかわらず、実のところ、 p> ɸ という変化がいつの時期に生じたのかについての裏付けは、なかなか見いだしにくい。この章のはじめに、〈すでに奈良時代には両唇破裂音の[ɸ]になっており……〉という通説を紹介し、そのあとにも、この前提を認めたうえでバ行音のことを考えてみたが、それは、 p> ɸ の変化がいつ起こったにしても、全体の筋道に影響を及ぼさないから、そのままにしておいたまでのことである。中国語に[ɸ]の音はなく、また、p>f;p‘>f‘>f という変化によって[f]を持つようになったのも、ずっと後の時期になってのことであるから、ハ行音を表わす真仮名として用いられた文字の中国原音は[p]または[p‘]であって、いまの場合、手がかりにならない。明らかなのは、ただ、〈奈良時代のハ行子音は中国語の[p]と同じであったか、あるいはそれに近い音であった〉ということだけである。[ɸ]は〈それに近い音〉と認められる範囲内にあったと考えてよいであろう。
(ここから
p.268)
九世紀後半ごろのハ行子音は、[p]であったのか[ɸ]であったのか、あるいは p>ɸ という変化の過渡期にあったのか、その三つの場合のいずれかであった。『在唐記』と『古今和歌集』誹諧歌との食い違いを無理なく説明するためには、第三の場合を想定するのが最も好都合のように見えないでもない。しかし、それにしては、「皆加二唇音一」という『在唐記』のことばが落ち着かない。それは[p]であったと考えても同じことである。では、[ɸ]であったと仮定してみたらどうなるであろうか。
ハ行音の分裂
ハ行子音が p>ɸ という変化を起こしたことは事実であるとしても、その変化が完成して以後、日本語から[pa]とか[pi]とかいう音節が完全に失われてしまったのかどうかが、ここでの最大の問題である。
(中略)擬声語・擬態語の場合には、音声そのものの印象が重要であるから、[batabata]と対をなすのは、どうしても[patapata]でなければならない。濁音の表現効果は、それと【音声的】特徴をもって対をなす清音があって、はじめて発揮できるものなのである。したがって、そのよう
(
p.269)
な語においては、一般の語におけるp>ɸ という変化にひきずられずに[p]が保存されたであろうし、また、もしそうであれば、濁音形とは対をなさない擬声語・擬態語においても、[p]が容易に存続しえたはずである。
このp>ɸ という変化は、唇の緊張をゆるめることによって生じたもので、一般に〈唇音退化〉と呼ばれていることは、さきに述べたとおりである。しかし、それは、緊張をゆるめても支障を生じない条件にある語についてそれが起こったということであって、ゆるめることの許されない語にまでは及ばなかったのである。したがって、実際に起こったのは、p>ɸ という全面的移行ではなく、左図に示すような分裂だったと推定される。通例、このような分裂は、母音間に挟まれるとか、ある種の母音の前に立つとかいう条件、すなわち、音韻論的環境の相違によって生じるものであるが、この場合には語の性質にもとづいているところに大きな特徴が認められる。その意味において、日本語独特といってよいかもしれない。
p――擬声語・擬態語
p<
ɸ――一般語
(後略)
p.270から
[p]が存続した証拠
擬声語・擬態語における[p]の存続については、「ひとくひとく」のほかにも、いくつもの微証をあげることができる。
『落窪物語』には兵部少輔という、馬のように滑稽な顔をした人物が登場する。あだ名は「面白の駒」である。その彼に向かって、「どうして私のところにも、いっこうに顔を見せないのですか」と少将が聞いたところ、彼は、
人の【ほほと笑へば】、はづかしうて (巻二)
と返答している。
(メモ注:さらに
p.270「この兵部少輔に見なしては、え念ぜず(=こらえきれずに)【ほほと笑ふ】中にも、蔵人の少将は、はなばなと物笑ひする人にて、笑ふこと限りなし。 (巻二)」を引用して、どのように笑ったのかについて論じている)
p.271
この兵部少輔なる人物は、よほどおかしな顔をしている。人の顔を見て笑ったりしてはいけないことぐらい、常識のある人間ならだれしも十分に心得ているが、それにもかかわらず、どうにも我慢できずに、「ほほ」と笑ってしまうのである。この「ほほ」とは(中略)「プッ、プッ」と吹き出してしまうことなのである。「え念ぜず」という言い方が生きている。蔵人の少将が無遠慮に大笑いするのとは対照的である。「ポッ」と吹き出すよりも、「プッ」と吹き出す方が現代語の感じからすると自然なので、この部分も「ふふと笑ふ」とあれば、いっそうわかりやすいかもしれないが、どちらにしても、結局、同じことである。
(後略)
p.272
(①『宇治拾遺物語』(巻一)「一度に【はと】笑ひたる」(第五話)、
②『大鏡』の「道隆」の条「【はと】一度に笑ひたりし声」、
③『枕草子』「【ほうほう】と投げ入れ」(うちとくまじきもの)を引用し論じている。
①は、〈ぱっと笑った〉すなわち、〈どっと笑った〉。
②は①の説明の補足としての実例。「は」は擬声語でなく擬態語。
③[pompom]を表わしているとみなしてよいであろう)
(中略)
p.273
(前略)
以上の諸事実を総合するならば、それらの語における語頭の[p]が p>ɸ という音韻変化と関係なく、継続的に存在したことは明らかである。
(後略)
p.274
[p]が[ ɸ]に移行したこと自体は、唇音退化として説明可能である。
(中略)
音素は語の識別に役立つ音の単位である。(中略)定義からそうなるのが当然のことながら、同一音素を構成する異音間には、このような対立関係が成立しない。[p]が[p]と[ɸ]とに分裂したその初期の段階においては、これらの対立によって語が識別されるようなことはなかったであろう。『古今和歌集』の誹諧歌において、鳥の鳴き声の[pitoku]と、「人来」という意味の[ɸitoku]とがかけことばになっているのは、「ひとく」という仮名がきが両者に共通しており、かけことばは、仮名のレヴェルにおける技巧なのであるから、それをもって[p]と[ɸ]との音韻論的関係までを論じるのは妥当でない。仮名に清濁の書き分けがないので、かけことばでは、その違いさえも無視されているのである。
(後略)
p.275
(前略)
漢語の[p]
「人品」「折半」「分配」「突風」……のように、現代語では鼻音や入声音のあとに続く漢字音形態素が、[p]の形をとってあらわれる。和語型の場合と異なり、漢字音には濁音に始まるものが豊富にあるので、下位要素が濁っていても、本来の濁音なのか連濁によるものなのかが明らかでない。
(後略)
p.276
(前略)
ハ行で写される漢字音の頭子音は、中国原音において、無気音の[p]、および有気音の[p‘]であった。
(後略)
(中略)
p.282
(前略)本来は、ハ行音とともに、バ行音に対する清音としての役割りを分担していたが、濁音が受け持つべき領域にまで部分的に手を広げてしまったために、性格づけが難しくなってきたわけである。半濁音という名称それ自体は、ある意味で、うってつけのようでもあるが、そこまで見通しての命名ではないし、むしろ、かえって誤解を招きやすい。なお、ハ行の仮名の右肩に小さな「゜」を付して、「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」のようにそれを示す方式は、切支丹文献に始まるとされているが、ポルトガル人宣教師たちによる独創的な表記というわけではなく、当時の文献に見える不濁点、すなわち、濁ってはならない仮名の右肩に付
(ここからp.283)
けた「゜」印、の転用ということなのであろう。その意味においては、清音と同列にとらえられているということができる。
三者の関係
ハ行子音が両唇破裂音の[p]から両唇摩擦音の[ɸ]に移行したにもかかわらず、バ行子音が両唇破裂音の[b]のままであり続けたのは、そこになんらかの支えがあったためと考えなければならない――。こういう観点からその候補として浮かび上がってきたのがパ行子音の[p]であった。ある時期に、ハ行子音の[p]がすべて[ɸ]に移行したのではなく、[p]が[ɸ]と[p]とに分裂したのである。機能上の要請として破裂音の状態を維持する必要のあった擬態語・擬声語のそれを[p]のままに残して[ɸ]に移行したといってもよい。
(後略)
(このp.283で 第九章 ハ行音の変遷 は終わる)
p.291
【いろは】四十七字の仮名は、その成立当時において、すべて読み方が違っていたし、また、これら以外に、ほかの読み方をする仮名はなかった。
p.307
切支丹文献
(前略)一五九三年、天草で刊行された『エソポの寓話集』(ESOPONO FABVLAS)から、その冒頭の一部を抜き出してみよう。
(中略。ここから
p.310)
⑦fuxiguina――不思議な。
(中略)
ハ行子音は一貫してfで表記されている。この範囲にも左の諸例が指摘できるが、fu, fe は、たまたま出てこない。
人 fito 瞳 fitomi 頬 f[oの上に^] 腹 fara 腫れ fare
豊原統秋の『体源抄」(一五一二年)に、つぎのようにあることが、この当時におけるハ行音の発音を知るうえでの重要な手がかりとして指摘されている。
ナゾダテニ曰、母ニハ二度アフテ、父ニハ一度モアハズ クチビルトトク
「ハハ」(または「ハワ」)というときには唇が二度合い、「チチ」というときには唇が一度も合わないというのである。ポルトガル語のfは、本来、唇歯音を表わすが、これによって、「母」は[ɸaɸa]または[ɸawa]であったことが知られる。
本書のメモは以上。
(変換で出ない記号を使うために活用したのが以下)
国際音声記号の文字一覧 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%97%E4%B8%80%E8%A6%A7
山口謠司『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社)
日本語を作った男
上田万年とその時代
2016年2月29日 第一刷発行
はじめに
p.3
我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、「作られた」日本語である。
(メモ者注:メモは横書きである。本書は縦書きであるから1900年は一九〇〇年と表記されている。しかし、意味は変わらないし、読みにくいので漢数字をアラビア数字に改めてある。ダッシュ記号や伸ばす記号と見間違いそうだからなのと、メモ時間の短縮のためだ)
p.4から
万年は、言文一致を行なおうとして旗を振った。
本書では、読みやすさを優先するために、旧漢字はすべて常用漢字に直し、また漢字カタカナ交じり文も、必要なものを除いて、すべて漢字ひらがな交じり文に直した。さらに、旧仮名遣いも現行の仮名遣いに直してある。
p.20
この明治四十一(1908)年を境に、日本語は、確実に、大きく変わろうとしていた。
上田万年たちは、ふつうに話して、できるだけ多くの日本人が分かる日本語を「国語」として、分かりやすい発音主体の「新仮名遣い」で書かれた新しい教科書を作ろうとしたのである。
日本語の変化の波をだれも抑えることはできない。
漱石は、これから十年、胃を悪くしながら新しい日本語という波の先頭に立って言語表現を行っていく。そして万年や芳賀は、これを支えるように日本語の歴史的研究や児童教育のための唱歌の制作などにも関わっていく。
結局、これからほぼ四十年後、戦後昭和二十一(1946)年の「現代かなづかい」が告示されるまで、万年たちの夢の実現は待たなければならなかった。
さて、漱石による「吾輩ハ猫デアル」が現れるまでの日本語、あるいは「国語」とはどのようなものだったのであろうか。
p.197
グリム童話で知られるドイツのおとぎ話は、ヤーコプとヴィルヘルムというグリム兄弟によって編纂されたものであるが、じつは、この二人はドイツ文献学、言語学の専門家であった。とくに兄のヤーコプは1819年に『ドイツ語文典』を著したが、十一年後にはこれを全面的に改訂したものを出版する。
この改訂は、書信での交流もあったラスクの影響を受けたためで、改訂版の第一巻には「文学論」が新しく書き足されている。
p.198
そして、この改訂版には「文字論」に加えて、上田万年にも大きな影響を与えることになる「音韻推移(グリムの法則)」と呼ばれるものが記されるのである。
「グリムの法則」の代表的なものについてだけ記そう。実際の発音を意味するものではなく、ある言語の音声を音韻論的に考察して得られた単位となる音素は//で記される。
たとえば、印欧祖語の無声閉鎖音/p/ /t/ /k/は、ゲルマン語では無声摩擦音の/f/ /th/ /h/になる。
たとえば、サンスクリット語、古代ギリシャ語、ラテン語では「父」を表す言葉はそれぞれpitar、pater、paterであるが、これがドイツ語、英語、デンマーク語、オランダ語のゲルマン語になるとVater、father、Far、vaderに変化する。ドイツ語、オランダ語の表記では「v」で書かれるが、実際の
(ここから
p.199)
発音はいずれも「f」である。ゲルマン祖語は、こうした例によって*fadērが導き出される(語の前の*は理論上の推定であることを示す)。
pp.198-199
”
そして、この改訂版には「文字論」に加えて、上田万年にも大きな影響を与えることになる「音韻推移(グリムの法則)」と呼ばれるものが記されるのである。
「グリムの法則」の代表的なものについてだけ記そう。実際の発音を意味するものではなく、ある言語の音声を音韻論的に考察して得られた単位となる音素は//で記される。
たとえば、印欧祖語の無声閉鎖音/p/ /t/ /k/は、ゲルマン語では無声摩擦音の/f/ /th/ /h/になる。
たとえば、サンスクリット語、古代ギリシャ語、ラテン語では「父」を表す言葉はそれぞれpitar、pater、paterであるが、これがドイツ語、英語、デンマーク語、オランダ語のゲルマン語になるとVater、father、Far、vaderに変化する。ドイツ語、オランダ語の表記では「v」で書かれるが、実際の発音はいずれも「f」である。ゲルマン祖語は、こうした例によって*fadērが導き出される(語の前の*は理論上の推定であることを示す)。
”
(上記をメモ[基本的に本の写しだが、誤りがないか確認していなかったり、要約したりする]ではなく引用したのは「pからfに発音が変化する」法則の箇所だから。万年はこれを根拠の1つにしてP音考を書いたんだな)
p.200
万年はこの「グリムの法則」を用いて、明治三十一年、留学から帰国して四年後に、「P音考」という日本語学史上画期的な論文を発表する。
pp.299-303 「母」は「パパ」だった――「P音考」
(メモ者注:原文の引用箇所は省略)
この論文は、本居宣長が、古代日本語にはP(パピプペポ)ではじまる言葉がなかったと言ったことをそのまま信じる和学者を批判する攻撃的な筆致で書き出される。
(「音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非[えせ]学者」について)
まさに、ラスクやグリムが指摘した、書かれた文字は必ずしも実際の発音を反映しているものではない、ということが、日本語に当てはめても言えることを、述べたものであろう。
古代日本語は「針」「光」「箸」「骨」などすべて「P」で発音されていたものであった。だからこそ、アイヌ語で「P」で書かれるのだという。
万年は、上古の日本語では「はひふへほ」が「パ・ピ・プ・ペ・ポ」と発音されていて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」となり、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」と変化したと言うのである。
もちろん、この説は、現在では正しい学説として認知されている。まさにグリムの法則に従って、万国語に共通して現れる現象だからである。
(pからfの発音に変わることをグリムが書いたことが根拠の一つなので著者はこう書いているのだろう)
メモは以上。
[2024年7月6日に追加:
第8回 なぜ「グリムの法則」が英語史上重要なのか
https://www.kenkyusha.co.jp/uploads/history_of_english/series/s08.html
”グリムの法則とは,紀元前1000~400年頃にゲルマン語派に生じたとされる一連の子音変化に付された名前です.これに先立つ時代に,印欧祖語はいくつかの語派へと分岐していましたが,そのなかでゲルマン語派へ連なる経路において,上記のタイミングでこの変化が生じたとされます.別の言い方をすれば,ゲルマン語派が発達していく過程で固有に生じた変化であり,印欧語族の他の語派,例えばイタリック語派やケルト語派やスラヴ語派には無縁の変化です.
「グリムの法則」という名前について触れておきましょう.そもそも,なぜ「法則」と呼ばれるのでしょうか,印欧諸語のルーツや相互関係を明らかにしようとしていた19世紀の言語学者たちは,言語における発音の変化がつねに規則的であり,例外がないことに気づきました.彼らは数々の事例研究によりその確信を深め,ついに「音韻法則に例外なし」と宣言するに至りました.音変化は,彼らにとって法則 (law) そのものとなったのです.
次に,なぜ「グリム」なのでしょうか.それは,この音変化(=法則)を体系的に提示した人物がヤーコプ・グリム(Jacob Grimm [1785-1863年])というドイツの言語学者だったからです.彼は『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄その人であり,実は本職は言語学者でした.ドイツ語辞典を編纂し,ドイツ語文法書を著わすほどの専門家でした.グリムは,1822年に改版したドイツ語文法書のなかで,問題の音変化を定式化しました.実のところ,この音変化は先立つ1818年に,デンマークの言語学者ラスムス・ラスクによって発見されていましたが,グリムはその一連の変化が互いに独立して生じた現象ではなく,音声学的に一貫した性質を示し,決まった順序をもち,他の音変化にもみられる原理を内包していることを明確に提示したのです.後にグリムの功績が評価され,「グリムの法則」という名前が与えられることになりました.なお,グリムの法則は,それと密接な関係にあるもう1つの「ヴェルネルの法則」と合わせて「第1次ゲルマン子音推移」と称されます.
3 グリムの法則とは
では,グリムの法則そのものの解説に移りましょう.詳しく理解するには音声学の知識が必要となりますが,ここではなるべく専門的になりすぎないように概説していきます.
グリムの法則の示す一連の子音変化は,印欧祖語の「閉鎖音」の系列に生じました.閉鎖音とは,口の中のどこかで呼気を一度せきとめ,それを勢いよく開け放つときに発せられる子音です.具体的にいえば,下の左側の表で示したように,印欧祖語における9つの子音に作用しました(これらの音は理論的に再建されたものなので,言語学の慣習に従って * を付します).
[表省略。
印欧祖語の唇音p(無気・無声・閉鎖音)
→ゲルマン祖語の唇音f(無気・無声・摩擦音)]
この表で隣り合う行や列どうしは,発音の方法や発音に用いる器官が互いに僅かに異なっているにすぎず,音声学的には類似した音とされます.例えば,表を縦方向に見てみると,bh(ブフ)と b(ブ)の違いは,h で表わされる空気の漏れがあるかないか(帯気音と無気音)の違いだけであり,ぞんざいな発音では区別が曖昧になる場合もあったでしょう.同様に,b と p の対立は,英語にも日本語にもありますので,私たちには明確に異なる音と感じられますが,実は声帯が震えるか否か(有声音と無声音)の違いにすぎず,口構えや呼気の止め方などは完全に同一です.さらに p と f の違いについていえば,呼気を両唇で完全に止めて破裂させるのか,あるいは両唇(あるいは下唇と歯)のあいだに僅かな隙間を空けて,そこへ呼気を通すのか(閉鎖音と摩擦音)という違いです.つまり,唇の閉鎖の程度という問題にすぎません.
さらに,表の横方向の違い,例えば p と t と k の違いも,音声学的にはそれほど大きいものではありません.まったく異なる3音に思われるかもしれませんが,発音の方法は同一であり,用いる発音器官が異なっているにすぎません.p は両唇を合わせる「唇音」,t は歯や歯茎と舌を合わせる「歯音」,k は口蓋の後部と舌の後部を合わせる「軟口蓋音」と呼ばれます.
このように,子音というものは,表の形できれいに整理されるほど体系的なものです.それゆえに,子音が変化するときにも,しばしば体系的な変化のパターンを示します.上掲の右側の表は,グリムの法則を通り抜けた後,結果として生じたゲルマン祖語の子音体系を示します(なお,最下行真ん中の þ は th 音,すなわち [θ] を表わします).
左右の表を比べてみれば,何が起こったかは明らかでしょう.グリムの法則とは,印欧祖語の各行の音がすぐ下の行の音へと規則正しくシフトした変化を指すのです.変化の仕方が体系的であることは一目瞭然です.
では,変化の順序はどうだったのでしょうか.3行すべてが「イッセーノーセ」で1つ下の行へシフトしたわけではなく,おそらく最下行から順番にシフトしたと考えられています.つまり,まず印欧祖語の最下行 *p *t *k が,それぞれ *f *þ *h へ変化したとされます(閉鎖音の摩擦音化).音変化は一律かつ規則的に作用するので,今や印欧祖語のあらゆる単語に現われていたすべての *p *t *k は例外なく *f * þ *h に置き換わったことになります.この時点で,*p *t *k はこの言語から消えました.次に,真ん中の行の *b *d *g が今や空席となった *p *t *k のスロットを埋めるかのごとく,そこへ移動してきました(有声音の無声音化).そして最後に,最上行の *bh *dh *gh が今や空席となった *b *d *g のスロットを埋めるかのごとく,移動してきたというわけです(帯気音の無気音化).
もちろん,このシフトは一夜にして起こったわけではなく,数世代という期間を経てゆっくりと進行しましたので,当該の話者たちは自分たちの発音がこのように変化していることに気づきすらしなかったでしょう.古今東西,音変化というものはたいてい無意識に生じるものです.それでいて一律かつ規則的に生じるというのは実に不思議なことのように思われますが,むしろ無意識だからこそ,音変化はそのような体系的な振る舞いを示すのだと考えたほうがよいでしょう.
4 ラテン語やフランス語からの借用語
前節で,グリムの法則の示す一連の音変化を音声学的に解説しました.しかし,約2500年も前にこの変化が生じたことはわかったとしても,それがいかにして現代英語の理解を深めてくれるというのでしょうか.
グリムの法則はゲルマン語派において一律かつ規則的に生じた音変化なので,後にそこから分化した英語,ドイツ語,オランダ語などのゲルマン諸語には,その痕跡が確認されるはずです.例えば,印欧祖語の段階で *p をもっていたすべての単語において,その *p はゲルマン諸語では f になっていると予想されます.確かに,その後の個々の言語の歴史において他の音変化を経るなどして,グリムの法則の効果が見えにくくなっている場合もありますし,問題の単語が死語となり消えていった例も多々あります.しかし,原則として,この予想はみごとに的中します.
ここで思い起こすべきことは,グリムの法則はゲルマン語派においてのみ生じたという点です.この変化は,印欧語族の他の語派では生じていません.例えば,イタリック語派に属するラテン語やフランス語では,(各々の言語で後に生じた他の音変化に巻き込まれていない限り)印欧祖語の *p は相変わらず p のまま残っていることになります.かりに印欧祖語に同一の語源をもつ英語とフランス語の対応語ペアを横に並べてみると,英語の f に対してフランス語の p がきれいに対応するはずです.事実,語頭子音だけに注目すれば,英語 father に対してフランス語 père,fish に対して poisson,foot に対して pied というように,英語の f 対フランス語の p という対応は明らかです.
”
「グリムの法則とは,紀元前1000~400年頃にゲルマン語派に生じたとされる一連の子音変化に付された名前です.これに先立つ時代に,印欧祖語はいくつかの語派へと分岐していましたが,そのなかでゲルマン語派へ連なる経路において,上記のタイミングでこの変化が生じたとされます.別の言い方をすれば,ゲルマン語派が発達していく過程で固有に生じた変化であり,印欧語族の他の語派,例えばイタリック語派やケルト語派やスラヴ語派には無縁の変化です.」
「グリムの法則はゲルマン語派においてのみ生じたという点です.この変化は,印欧語族の他の語派では生じていません.」
なので、日本語の「p→f」説の根拠に使っちゃ駄目だな。漢字の音で判断しないとね。
日本大学
書評 山口謠司『日本語を作った男 上田万年とその時代』
(集英社インターナショナル 2016 年) 柴 田 秀 一*
Journalism & Media No.11 March 2018
https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/journalism/journalism_11/each/20.pdf
”もう四十数年前の事だった。第二次大戦中の疎開の様子がテレビ画面から流れていた。その当時の、勿論白黒のフィルムで、蒸気機関車が着いた駅の名が平仮名で書かれていたのに、中学生の私
は何処の駅名だか分からなかった。「ふふか」いや、この時代右から読んだ筈だ。すると「かふ
ふ」。どこの事だろう。
駅は「甲府」であった。ひらがなだと「かふふ」と書く。「甲」は文字で書くと「かふ」とな
る。「ましょう」は「ませう」と書いた。「文字として書く言葉」と、「喋る言葉の音」が何故昔は
違っていたのか。「旧仮名遣い」である。どうしてそんなに面倒臭い、分かりにくいことを終戦までずっとやっていたのかと感じた瞬間だった。そして高校生となって文学史の時間に「言文一致」
運動を知った。運動を広めた小説家の二葉亭四迷、坪内逍遥、山田美妙、尾崎紅葉・・・。
本書はそういう人達が執筆活動をした時代に、日本語を言文一致で国家として統一することに奔走した日本人初めての博言学(言語学)者である上田万年(うえだ・かずとし 1867~1937 年)の
生きた明治の時代を描いた、言文一致運動の記録である。と同時に、明治時代に言葉を記した書物
の出版と流通の様子を記したメディア史の本でもある。
(中略)
*しばた しゅういち 日本大学法学部新聞学科 教授
(中略)
【明治の国作りと言葉作り】
「舞姫」「高瀬舟」等を著し、立派な八の字の鼻髭を蓄えた陸軍の森凜太郎(鴎外)医学博士(46)
が、1908(M41)年「臨時仮名遣調査委員会」第 4 回会合で、2 時間に亘り言文一致に反対する演
説をぶったところから本書は始まる。「鴎外」は当時、仮名では「あうぐあい」と書いた。だれの名前か分からない。鴎外はゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1792~1832)のことを「ギヨオテ」と書いた。
「ギヨエテとは俺の事かとゲーテ云い」との「変な表記」の代表のような川柳を覚えていたが、万年の憧れた斎藤緑雨が(1)鴎外を揶揄した言葉として本書中後半に出てくる。
日本語を記すには、明治時代は大きく分けて 3 通りの方法があった。平安時代から通じる「和文脈」、それまで公文で使われていた「漢文訓読体(漢文訓読体に間に和語を加えた雅俗折衷体もあ
る)」と「言文一致体」である。
何故、明治時代「喋る言葉」と「書く言葉」が一緒になった方が良かったのかを著者は、明治維新=近代国家への道として、分かり易く書く。
「方言改良論」(1888・M21 年 青田 節 あおた・せつ著)のエピソードを引いて、「東京から福島に行く汽車内で、青田のほかには英国人と仙台出身の女性がいた。仙台出身の女性の話す言葉(方言)は全く理解できず、それに対し、英国人とは少しばかり英語ができるだけで話が通じた」という。東京の人間は同じ日本なのに東北の方言が全く理解できず。わずかな英語の知識で外国人のほうに話が通じるという、なんとも笑えない状況だった。
では、江戸時代、参勤交代で来ていた大名同士は意思が通じたのか、江戸城に行って言葉が分かったのか。それは、共通の教養として「能楽」を嗜んでいたからで、それは候文(そうろうぶん)で記されており、彼らには共通する分かる言葉があったのだ。ところが市井の人には共通語がなく容易に意思の疎通が図れなかった。もし軍隊で兵に命令する隊長の言葉が分らなければ、統率が取れない。
近代国家、中央集権国家として国が発展するためには、言葉の統一が不可欠であった。
【外国人から日本語を習う、そして留学、国家主義の言語】
上田万年は東大で、いわゆる「お雇い」英国人のバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850~1935)から博言学(現在の言語学)を学ぶ最初の日本人となるヂェンバレンは日本人の学生に日本語文法を教えた。外国人に日本語を教わるのは、滑稽ともとられるが、当時日本には比較言語学などもない。チェンバレンは 11 か国語を習得した語学の天才であり、「古事記」の英訳をしたことで知られるが、アイヌ語の研究もし、アイヌ語が完全に独立した言葉で日本
語とは同系統の言葉ではないと書き、このことは後にアイヌの研究をする金田一京助(1882~1971)もその説に誤りがないと明らかにしている。
そうした優秀な師から教えを受けた万年は、政府の命で 1890(M23)年から 1894(M27)年ドイツに留学する。大日本帝国の国語の創設と博言学的な日本語研究の推進という二つの目的を持
ち、ベルリンで研究をした。
ドイツでは大出版社(ノーベル文学賞受賞作家を 3 人出した S・フィッシャー)が出来、印刷・
出版が文化の形成に大きな役割を果たしていた。また、そこで万年は、国家と国の言葉の統一が必
要との考えを持つ。それは、ドイツが鉄血宰相ビスマルクによって領土を拡大し、その間「ドイツ
語浄化運動」と呼ばれる母国語の統一活動をし、ゲーテや、日本人には「ベートーヴェン交響曲第
9 番合唱付き」の歌詞で良く知られるシラー(Johann Christoph Friedrich von Shiller ヨハン=クリストフ=フリードリヒ=フォン=シラー 1759~1805)達がそれを広めた。そうした歴史の後
にドイツ留学をした万年は言語が国家をつくり、その言語の統一を見ることが必要であると考え
た。フランスでも同じように言語の統一が図られていた。
今であれば、多様化、グローバル化の世の中であるが、明治時代にはこうした国粋主義的思想は
ごく普通に考えられ、急進的な人たちもまたいた。
果たして、万年の帰国後 3 年の 1900(M33)年、文部省はこれまであった、「読書」「作文」「習字」の 3 つをまとめて「国語」という科目を作る。著者は、まさに「朝廷─幕府─藩」という旧体
制を脱して「大日本帝国」という国家の体制が「国家」「国民」「国語」という新しい次元に変化し
たことを意味するものでもあったと述べている。
【言文一致と新しい仮名遣いに向けての努力】
1897(M22)年、万年は「国字改良会」を発足させ、「国家こそが言語に責任をもって対処する
べき」との主張を展開する。
万年は古代日本語では「はひふへほ」が「パピプペポ」と発音されて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」になり「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」に変化したとの説を比較言語学の立場から述べた。これは、のちに万年の最も大きな記念碑的論考となる。
そして、更に 1900(M33)年 3 月「言文一致会」を作り、万年は「卒業」を「そつぎょー」、「入学」を「にゅーがく」と「ー」のばす音、長音符(音引きともいう)のルビを初めてふった。
この長音符を含む字音仮名遣いは 1900(M33)年、文部省が小学校令施行規則で定めた字音仮名遣い表で使われている。「ちゅう、ちゃう、てう、てふ」はすべて「ちょー」とするという。
これには漢文の素養のある人たちは反対した。つまり漢字によって「灯」は「チャウ」、「召」は「テウ」、「蝶」は「テフ」ときちんと書き分けてきたのだと合理性を主張する。
更に、1903(M35)年文部省内に「国語調査委員会」が設置される。万年が描いていた「国語会
議」の具現化であった。その後、新旧仮名遣い対照表が発表されると、今よりもっと言文一致が進
んでいて、「仮名遣いの改訂わ、国語教育の重大な問題である」と主格の「は」はすべて発音と一
致して「わ」と書かれていたのだ。
こうして、文部省は、国語の仮名遣いを発音主義で改定することを決め、手続きが行われ、高等教育会議で賛成多数で可決された。これで、新仮名遣いは、教科書に載る手筈であったが、文部省
参事官をはじめ、枢密院、貴族院に反対者が出た為、時の牧野文相は西園寺首相と相談し「臨時仮名遣調査委員会」を設置し直し討論が行われた。その第 4 回、上田万年が司会をした回が本書の書
き出し(序章)で、万年が言文一致の字音仮名遣いを通そうとしていた会議での森林太郎・鴎外の
新字音仮名遣いの反対論の演説なのであった。
この委員会では賛成、反対あり委員会としてどちらに決するという空気ではなかったにもかかわ
らず、政府は委員会に対する諮問を撤回し、新仮名遣いではなく旧仮名遣いに戻す決定をした。こ
こに言文一致の仮名遣いの改訂はとん挫したのである。
(中略)
上田万年とその時代との副題の通り、木版刷りの瓦版や浮世絵が発達したため、日本では金属活
字導入が遅れたという特殊事情と、古くから日本橋にそうした木版の出版・書店があったが、銀座
の大火で版木ごと燃えてしまい、専門学校等が多くあった神田神保町に新書店が移ってきた事など
メディア史の一端を見る興味深い事柄が書かれている。
また、1890(M23)年 帝国議会開催で議事録をとる為、日本独自の速記開発されそれが、録音
機などない時に落語の芸を書きとることに役立ち、更には、言文一致に窮した二葉亭四迷が坪内逍遥に相談に行くと、坪内は三遊亭円朝(1839~1900 年)の落語通りにやってみたらいい。と言ったという。それで速記起こしの文章のように書いたので、実は言文一致のルーツは意外にも落語であった。だが、知識人たちの和文(和歌、古典)でもなく、公文の漢文書き下しでもない、誰が聞いても分かる表現であったから笑えるのは至極当然のことで、意味が分からなければ笑いも起きない訳なのだ。
万年の主張通り明治時代後半に言文一致が確実に行われていれば、どうであったろうか。
小職は、新聞協会にある用語懇談会で 10 年ほど幹事を務めていたが、戦後も外来語の字音主義が統一されていないのに苦労した。「ウオツカ」「マネジャー」「パーカ」「コンピュータ」はそれぞれ「ウォッカ」または「ウオッカ」「マネージャー」「パーカー」「コンピュター」としか言ってい
ないではないかと数年間協議して、ようやく用語集の改訂が認められた覚えがある。この時も本書
中にある「ギヨエテとは・・・」の川柳を引き合いに出して字音主義をとるべく説得したのだが、簡単にはいかなかった。活字は一字でも少なく表現したいという意見も根強かった。
言葉は移ろいやすいものであるが、意識的に変えようとすると時間と労力がかかるものであるのは万年の 100 分の 1 の努力もしていない小職にも少しは理解できる。
( 1 ) 斎藤緑雨 (1867~1904 年)「東西新聞」「今日新聞」「萬朝報(よろずちょうほう)」等新聞ジャーナリズムを渡り歩いた。戯文批評に才筆を振るい文壇人を辛辣に揶揄・批判した。(日本百科全書ニッポニカより抄)
著者 山口謠司(やまぐち ようじ)大東文化大学准教授 博士(中国学)
1963 年長崎生まれ 大東文化大学卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研
究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究院などを経て、現職。専門は中国及び
日本の文献学。「ん 日本語最後の謎に挑む」(新潮新書)、「てんてん 日本語究極の謎に迫る(角川選書)」、「となりの漱石」(ディスカバー携書)
”
「ヂェンバレンは日本人の学生に日本語文法を教えた。」は原文ママ。
三遊亭円朝が思わぬところで大きな影響を与えている。
https://x.com/shinrekishikan/status/1671056437488009216
”新歴史観ブックス
@shinrekishikan
6月20日は何があった日?
1887年(明治20年)の今日、二葉亭四迷(画像)の長篇小説『浮雲』の第一篇が刊行されました。
同作は日本で初めて日常に用いられる話し言葉に近い口語体による『言文一致体』の小説。四迷は執筆にあたり当時人気だった落語家の初代三遊亭圓朝の落語を参考にしたそうです。
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午後4:24 · 2023年6月20日·208 件の表示”
https://x.com/NAKAOKA_2009/status/1805836090231996617
”中岡潤一郎
@NAKAOKA_2009
櫻庭由起子「落語速記はいかに文学を変えたか」。言文一致の文章を構築するにあたって、演芸速記がいかに大きな影響を与えたかを軽妙な文体で記している。言文一致の文章を構築するにあたって、さまざまな試行錯誤があったこともまとめてあって、興味深かった。
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午後2:30 · 2024年6月26日
·696 件の表示”
余が言文一致の由來
二葉亭四迷
https://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/901_16059.html
” もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。
自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。
(中略)
自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいゝ。併し擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。日本語でも、侍る的のものは已に一生涯の役目を終つたものであるから使はない。
”
https://x.com/6161kurota/status/1336809152312557568
”黒太
@6161kurota
初代三遊亭圓朝(1839-1900)が、このグリム童話を元に落語「死神」を翻案。さらには圓朝の『牡丹燈籠』口述筆記本が、二葉亭四迷『浮雲』や現代まで続いている言文一致体(書き言葉≒話し言葉)運動に多大な影響を与えた凄い人です。あじゃらかもくれん、あるじぇりあ、てけれっつのパ!
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引用
青空文庫新着情報
@aozoranow
2020年12月10日
グリム ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール/グリム ヴィルヘルム・カール:死神の名づけ親(第一...: びんぼうな男が、子どもを十二人もっていました。それで、その子どもたちにパンをたべさせるために、男は、い… https://ift.tt/2KcOpP6 青空文庫 #青空文庫
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午前8:05 · 2020年12月10日”
死神の名づけ親(第一話)
ヤーコップ、ウィルヘルム・グリム Jacob u. Wilhelm Grimm
金田鬼一訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/60030_72302.html
https://x.com/yahachi3/status/1160637613503422464
”命日の本棚
@yahachi3
三遊亭圓朝(1900年8月11日没)
その名人ぶりを妬まれ、出番の前に同じ演目をやられるという嫌がらせを受けた圓朝は、対策として多くの新作落語を創作した。それが新聞に筆記掲載され、二葉亭四迷『浮雲』の文体に大きな影響を与えた。言文一致へ。落語中興の祖は文学界変革の礎でもあった。61歳没。
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午前4:42 · 2019年8月12日”
https://x.com/Bunmei_bungaku/status/1293058845678243841
”群馬県立土屋文明記念文学館
@Bunmei_bungaku
【圓朝忌】
本日は初代三遊亭圓朝の命日です。
落語の口述筆記によって明治の言文一致運動に大きな影響を与えた圓朝は、日本近代文学史における最重要人物の一人です。
圓朝の噺は怪談が有名ですが、『塩原太助一代記』『後開榛名の梅が香』『霧隠伊香保湯煙』など、群馬が舞台のものもあるんですよ!
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午後2:37 · 2020年8月11日
”
2024年7月6日の追加ここまで]
[2024年8月14日に追加:
「ん」という平仮名はもともと無かった!
https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=185
”私たちは子供の頃から「ん」は平仮名として認識していました。ですが、古い時代の日本では漢字仮名交じり文は公式の場では使わない日本語表記だったんです。そのため、平安時代前半に平仮名が成立しても600文字くらいの仮名が使われていました。
しかし、そこには「ん」という文字はあっても、今のような発音はしていませんでした。時代は仮名が発明された時代よりも下がり、室町時代の「東寺百合文書」の中に「たまかき書状」という文書があります。
[中略]
ここには、「にんき」「しゅんけ」と書いて「にっき(日記)」「しゅっけ(出家)」を意味する言葉で出てきます。
[中略]
あくまで、私的な書状(手紙)の中ですが、詰まって発音する促音便の場所を示す記号として「ん」が使われていることがわかります。そうすると、「ん」は音便を表わすところに使用されていますので、今私たちが「ん」と読んでいる文字は、もう一つの撥音便の記号として使われたのかもしれませんね。
ただ、『高野切』や『枡色紙』などの平安時代の仮名の古筆では、和歌の終わりに良く出てくる「~かも」などの「も」に、「ん」の字を当てている例が数多くあります。また、鎌倉時代以降の例では、「ん」を「む」と読むべきところに出てきます(下の文書など)。「ん」を仮名文字の「も」や「む」と読ませている例も多く存在しています。
[中略]
これらの例から考えると、現在の「ん」は、撥音便を表わす記号の可能性と、「む」と発音すべき文字のところを、撥音便になるべきか所に「ん」を用いたかのどちらかということになるでしょう。どちらが正しいと言うことでもなく、ひょっとしたら、両方が融合して今の「ん」になっていたことも考えられます。「ん」一つでこんなことも考えられますので、中世の日本語を探る上でも重要な資料になっていますので、興味のある方はこのWEBで全点公開していますので、是非いろいろお読みください。
(土橋 誠:歴史資料課)
”
「ん」とはいったい何者なのか。どこからやってきたのか。かつてはなかった日本語「ん」の奥深い歴史 | ダ・ヴィンチWeb<
更新日:2017/11/14
https://ddnavi.com/news/310934/a/
”(前略)
実は「ん」という文字はかつて日本語にはなかったらしい。少なくとも『古事記』や『日本書紀』『万葉集』など上代の書物に「ん」を書き表す文字が見当たらないという。では、「ん」とはいったい何者なのか。どこからやってきたのか。そのミステリーを解き明かすのが、『ん 日本語最後の謎に挑む』(山口謠司/新潮社)である。本書を読むと、普段いかに「ん」をナメていたのかがよくわかる。
「ん」は言葉によって発音が違う?
まず疑問に思うのは、文字がなければ「ん」という発音もなかったのかということである。その答えはNO。唐の文化を盛んに取り入れていた当時の日本としては、漢字に「安(アン)」や「万(マン)」などいくらでも「ン」と発音するものがあるのに、「ン」を発音できないなんてことはなかっただろう、というのが本書の見解である。では、文字にできない「ン」の音をどうやって書き表したのか。私たちが英語を習うとき単語の発音をカタカナで書いていたように、当時の日本人も中国語を習うにあたりフリガナを付けていたはずだ。
その説明の前に、みなさんはお気づきだろうか? 「ん」は言葉によって発音が違うことに。例えば、「案内」と「案外」。「案」の「ん」は、前者の場合口の中の前方で発音している。一方、後者は喉に近いところで発音している。本書によると、当時の日本人はこれらをきちんと聞き分け、主に次の3種類の発音を行っていたそうだ。
●「舌内撥音(ぜつないはつおん)」(―n)
口内から流れ出る音を、舌を使って止める。
●「喉内撥音(こうないはつおん)」(―ŋ)
喉の奥から鼻にかけて息を抜くように発音。
●「唇内撥音(しんないはつおん)」(―m)
上下の唇を閉じて、前の音がこの唇の部分で閉鎖されたもの。
おそらく、「案内」の「ん」は「舌内撥音」、「案外」の「ん」は「喉内撥音」だと思われる。
話は元に戻るが、「舌内撥音」は「ニ」、「喉内撥音」は「イ」、「唇内撥音」は「ム」と表記することが多かった。ほかにも「レ」「リ」「ゝ」などなど、古い書物に先人たちの試行錯誤の跡が見られるらしい。こうして文字の表記の必要性に迫られた結果、生み出されたのが「ん」という新たな文字である。
空海がインドの仏典から学んだ「吽」がヒントに
さて、ではいつ、誰が「ん」を生み出したのだろう? この歴史的大発明に関わったのが、真言宗を打ち立てた空海。中国語にも「ン」だけを表す文字はなかったが、804年に遣唐使として中国に渡った空海は、インドのサンスクリット語で書かれたオリジナルの仏典を学び、「ン」を書き表せる文字を持ち帰った。それが「吽」である。ただし、これは世界が「阿」で始まり「吽」で終わるという思想を表そうとしたもので、空海も「ン」と書こうとしても「ニ」としか書けなかったとか。
仏教を通して生まれた「ん」は、平安時代から江戸時代にかけて庶民の間でも広まった。江戸時代には本居宣長や上田秋成らによって盛んに研究され、さらに明治以降も研究者たちによる日本語研究の結果、現在のところカタカナの「ン」が現存する最古の例が1058年の『法華経』、ひらがな「ん」の初出は1120年の『古今和歌集』といわれている。
今では当たり前のように表記し、発音している「ん」。優れた耳の持ち主は「ん」のみで10種類以上の音の違いを聞き分けているという研究報告も。
(後略)
” ※着色は引用者
(山口謠司は要注意人物であることに注意。なのでもっと調べる必要あり)
三内撥音尾(さんないはつおんび)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%86%85%E6%92%A5%E9%9F%B3%E5%B0%BE-2044392
”さんない‐はつおんび【三内撥音尾】
〘 名詞 〙 古代の日本の韻学で、中国字音の韻尾を、喉内・舌内・唇内の三つの発音部位(これを三内という)によって分類した呼称で、すなわち、ng・n・mのこと。ngで終わるのを喉内撥音尾、nで終わるのを舌内撥音尾、mで終わるのを唇内撥音尾という。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
”
撥音(ハツオン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%92%A5%E9%9F%B3-114897
”
撥音
はつおん
「はねる音」ともいう。「どんな」「シンブン」のように、今日、平仮名「ん」、片仮名「ン」で表記する音韻。記号《N》で示される。実際の発音を音声学的にみると、後続する子音の違いに応じて、[m](p,b,mが後続)、[n](t,d,n,rが後続)、[ŋ](k,g,ŋが後続)、[【注:「u」の上に「ノ」みたいな線](a,o,uなどが後続)などに分かれる。歴史的にみると、本来日本語にはなく、一つは漢字音として、一つは和語の音便として、平安時代以後に日本語の音韻体系のなかに定着したものである。平安後期から院政期の文献では、漢字音の唇内撥音-mを有する字は「金(キム)」「森(シム)」のように仮名「ム」で、舌内撥音-nを有する字は「民(ミン)」「文(ブン)」のように仮名「ン」で、それぞれ表記し分けられている。和語の音便でも、「件(クダ)ンノ」「何(ナ)ンゾ」のように「リ」や「ニ」からの撥音便は「ン」、「摘ムダル」「選ムデ」のように「ミ」や「ビ」からの撥音便は「ム」で表記し分けられている。これは、当時、音韻として唇内撥音≪-m≫と舌内撥音≪-n≫とを区別していたことを物語るもので、のち鎌倉時代に入ってその区別が失われ、今日に至ったと考えられる。
[沼本克明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
” ※着色は引用者
橋本進吉 国語音韻の変遷
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/377_46838.html
”二 第一期の音韻
第一期は奈良朝を下限とする各時代である。当時は文字としては漢字のみが用いられたので、当時の音韻の状態を知るべき根本資料としては、漢字をもって日本語の音を写したものだけである。そうしてかような資料は、西紀三世紀の頃の『魏書』をはじめとして、支那歴代の史書や、日本の上代の金石文などの中にもあるけれども、それらはいずれも分量が少なく或る一時代の音韻全般にわたってこれを知ることは出来ない。奈良朝にいたって、はじめてかような資料が比較的豊富に得られるのであるから、第一期の音韻を研究しようとするには、どうしても先ず奈良朝のものについてその時代の音韻組織を明らかにし、これを基礎として、それ以前の時代に溯るのほかないのである。
一 奈良朝の音韻組織
奈良朝時代の文献の中に、国語の音を漢字(万葉仮名)で写したものを見るに、同じ語はいつも同じ文字で書いているのではなく、種々の違った文字をもって写している。例えば、「妹」という語は「伊毛」とも「伊母」とも「以母」「移母」「異母」「伊慕」「伊茂」「伊暮」とも書いている。同じ語の音の形はいつも同じであったと思われるから(もっとも、活用する語にはいくつかの違った形があるが、それでも、その一つ一つの活用形は、いつも同じ形である)、これを写した万葉仮名は、いろいろ文字が違っていても、皆同じ音を表わすものと認められる。すなわち、当時は、その音(読み方)が同じであれば、どんな文字をもって国語の音を写してもよかったのである。そうして、右の「妹」という語は、二つの文字で書いてあるのを見れば、その音の形は二つの部分から成立っているのであって、その初の部分は「伊」「以」「移」「異」のような種々の文字で書かれ、後の部分は「母」「毛」「慕」「茂」「暮」のような文字で書かれているから、「伊」「以」「移」「異」は皆同じ音を表わす同類の仮名であり、「母」「毛」「慕」「茂」「暮」も、また同じ音を表わす同類の仮名であって、しかも「伊」の類と「母」の類とは、その間に共通の文字が全くない故、それぞれ違った音を表わしたものと認められる。
かような調査を、あらゆる語について行うと、当時用いられた万葉仮名のどの文字はどの文字と同音であるかが見出され、一切の万葉仮名をそれぞれ同音を表わすいくつかの類にわけることが出来るようになる。かような万葉仮名の類別こそ、当時の音韻の状態を知るべき基礎となるものであって、その類の一つ一つは、それぞれ当時の人々が互いに違った音として言いわけ聞きわけた一つ一つの音を代表し、その総体が当時の国語の音韻組織を示すものとなるのである。
(略)
かように、万葉仮名に基づいて推定し得た奈良朝時代の国語の音韻はすべて八十七である。その一つ一つを表わす万葉仮名の各類を、その類に属する文字の一つ(ここでは『古事記』に最も多く用いられている文字)によって代表せしめ、且つ後世の仮名のこれに相当するものと対照して示すと次のようである。
[#ここから2段組み]
(略)
波 は 婆 ば
比┐ 毘┐
├ ひ ├ び
斐┘ 備┘
布 ふ 夫 ぶ
幣┐ 辨┐
├ へ ├ べ
閇┘ 倍┘
富 ほ 煩 ぼ
(注:ぱぴぷぺぽの項目がない。
略)
和 わ
韋 ゐ
恵 ゑ
袁 を
(注:「ん」がない。
略)
奈良朝においては、以上八十七の音が区別され、当時の言語は、これらの諸音から成立っていたのであるが、それでは、これらの諸音の奈良朝における実際の発音はどんなであったかというに、これは到底直接に知ることは出来ないのであって、種々の方面から攻究した結果を綜合して推定するのほかない。それにはこれらの音を表わす為に用いられた万葉仮名が古代支那においてどう発音せられたか(勿論その万葉仮名は、漢字の字音をもって国語の音を写したものに限る。訓によって国語の音を写したものは関係がない)、これらの音が後の時代にいかなる音になっていたか、これらの音に相当する音が現代の諸方言においてどんな音として存在するか、これらの音がいかなる他の音と相通じて用いられたかなどを研究しなければならないが、今は、かような研究の手続を述べる暇がない故、ただ結果だけを述べるに止める。その場合に、奈良朝の諸音を、当時の万葉仮名によって「阿」の音(「阿」の類の万葉仮名によって表わされた音の意味)、「伊」の音など呼ぶのが正当であるが、上述のごとく、当時の諸音は、それぞれ後世の伊呂波の仮名で書きわけられる一つ一つの音に相当するものが多く、そうでないものでも、当時の二つの音が、後の一つの仮名に相当する故、奈良朝の「阿」の音、「伊」の音を、「あ」の仮名にあたる音、「い」の仮名にあたる音ということが出来るのであって、その方が理解しやすかろうと思われるから、そういう風に呼ぶことにしたい。そうして、五十音図は後に出来たものであるけれども、五十音図で同行または同段に属する仮名に相当する奈良朝の諸音は、その実際の発音を研究した結果、やはり互いに共通の単音をもっていたことが推定せられる故、説明の便宜上、行または段の名をも用いることとした。
「あ」「い」「う」「え」「お」に相当する諸音は、大体現代語と同じく、皆母音であってaiueoの音であったらしい。ただし、「え」に相当する当時の音は「愛」の類と「延」の類と二つにわかれているが、そのうち、「愛」の類は母音のeあり、「延」の類はこれに子音の加わった「イェ」(ye、yは音声記号では〔j〕)であって、五十音図によれば、「愛」はア行の「え」にあたり「延」はヤ行の「え」に当る。(このことは、これらの音に宛てた万葉仮名の支那・朝鮮における字音からも、また、ア行活用の「得」が「愛」の音であり、ヤ行活用の「見え」「消え」「聞え」等の語尾「え」が「延」の音であることからも推測出来る。)
以上、「あ」「い」「う」「お」にあたる音および「え」にあたる音の一つは母音から成立つものであるが、その他の音は子音の次に母音が合して出来たものと認められる。まず、初の子音について考えると、カ行、タ行、ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行の仮名にあたる諸音は、それらの仮名の現代の発音と同じく、それぞれk t n m y r wのような子音で初まる音であったろうと思われる。
(略)
また「つ」は現代語のようなツ(tsu、tsはタ行の子音tと、サソなどの子音sとの合したもの)でなくしてtu(独逸語などの発音。仮名ではトゥ)であったと考えられる。またヤ行には、前に述べた「延」の音(ye)が加わり、ワ行には、現代語にない「ゐ」「ゑ」「を」にあたる音(wiwewo)があったのである。
(略)
ハ行の子音は、現代ではhであるが、方言によってはFであって「は」「ひ」「へ」をファフィフェと発音するところがある。更に西南諸島の方言では、p音になっているところがある(「花」をパナ、舟をプニなど)。ハ行の仮名にあたる音を写した万葉仮名の古代漢字音を見るに、皆pphfなどで初まる音であって、h音で初まるものはない故、古代においては今日の発音とは異なり、今日の方言に見るようなpまたはFの音であったと考えられる。音変化として見れば、pからFに変ずるのが普通であって、その逆は考え難いから、ハ行の子音はp→Fと変化したものと思われるが、奈良朝においては、どうであったかというに、平安朝から室町時代までは、Fであったと認むべき根拠があるから、その直前の奈良朝においても多分F音であったろうと思われる。すなわちファフィフゥフェフォなど発音したであろう。そうしてハ行の仮名は、後世では、語の中間および末尾にあるものは「はひふへほ」をワイウエオと発音するが(「いは」「いへ」「かほ」など)、奈良朝においては語のいかなる位置にあっても、同様に発音したものである。
(略)
三 連音上の法則
(一) 語頭音に関しては、我が国の上代には、ラ行音および濁音は語頭音には用いられないというきまりがあった。古来の国語においてラ行音ではじまるあらゆる語について見るに、それはすべて漢語かまたは西洋語から入ったもので、本来の日本語と考えられるものは一つもない。これは、本来我が国にはラ行音ではじまる語はなかったので、すなわち、ラ行音は語頭音としては用いられなかったのである。また、濁音ではじまる語も、漢語か西洋語か、さもなければ、後世に語形を変じて濁音ではじまるようになったものである(例えば、「何処」の意味の「どこ」は、「いづこ」から出た「いどこ」の「い」が脱落して出来たもの、「誰」を意味する「だれ」は、もと「たれ」であったのが、「どれ」などに類推して「だれ」となったもの、薔薇の「ばら」は、「いばら」から転じて出来たものである。)これも、濁音ではじまる語は本来の日本語にはなかったので、濁音は語頭音には用いられなかったのである。しかしながら、漢字は古くから我が国に入っていたのであって、我が国ではその字音を学んだであろうし、殊に、藤原朝の頃からは支那人が音博士として支那語を教えたのであるから、漢字音としてI音や濁音ではじまる音を学んだであろうが、しかし、それは外国語であって、有識者は正しい発音をしたとしても、普通の国民は多分正しく発音することが出来なかったであろうと思われ、一般には、なお右のような語頭音の法則は行われたであろうと思われる。
また、アイウエオのごとき母音一つで成立つ音は語頭以外に来ることはなかった。ただし、イとウには例外がある。しかしそれは「かい(橈)」「まうく(設)」「まうす(申)」のごとき二、三の語と、ヤ行上二段の語尾の場合とだけで、極めて少数である。
(二) 語尾音については、特別の制限はなかったようである。しかし、当時の諸音はすべて母音で終る音であって、後世の「ん」のような子音だけで成立つ音はなかったから、語尾はすべて母音で終っていたのであって、子音で終るものはなかった。支那語にはmnngやptkのような子音で終る音があり、日本人もこれを学んだのであるが、しかしこれは外国語としての発音であって一般に用いられたものではなく、普通には漢語を用いる場合にも、その下に母音を加えてmをmuまたはmi、nをniまたはnuなどのように発音したのであろうと思われる。(万葉仮名として用いた漢字において、mで終る「南」「瞻」「覧」をナム(またはナミ)、セミ、ラムに宛て、kで終る「福」「莫」「作」「楽」を、フク、マク、サク、ラクに宛て、nで終る「散」「干」「郡」をサニ、カニ、クニに宛てたなどを見てもそう考えられる)。
(三) 語が複合する時の音転化としては連濁がある。下の語の最初の音が濁音になるのである(「妻問」「愛妻」「香妙」「羽裹」「草葉」など)。この例は甚だ多いけれども、同じ語にはいつも連濁があらわれるというのでもなく、いかなる場合に連濁が起るかという確かなきまりはまだ見出されない。あるいは、もっと古い時代には規則正しく行われたが、奈良朝頃にはただ慣例ある語だけに行われたものであったろうか。
次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。
エ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に転ずる(竹―たかむら、天―あまぐも、船―ふなのり)
イ段の仮名にあたる音がオ段にあたる音に(木―木の実、火―火の秀―※(「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49))
イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神―神ながら、身―身実、月―月夜)
オ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に(白―白髭)
エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。(例えば、「け」に当るのは「気」の音と「祁」の音であるが、カに転ずるのは「気」の音だけで、「祁」の音は転じない。)
しかし、右のような音のある語は常に複合語において音が転ずるのでもなく、全く転じない語もあって、その間の区別はわからない。想うにかように転ずるのは、ずっと古い時代に起った音変化の結果かと思われるが、その径路は今明らかでない。奈良朝においても、その結果だけが襲用されたもので多分に形式化したものであったろう。そうして同じ語でもこの例に従わぬ場合も多少見えるのは、このきまりが、奈良朝において既に守られなくなり始めていたことを示すものであろう。
次に、複合する下の語の語頭音が母音一つから成る音(アイウエオ)である時、その音が上の語の語尾音と合して一音となることがある(荒磯―ありそ、尾の上―をのへ、我が家―わぎへ、漕ぎ出で―こぎで)。これは、語頭の母音と語尾音の終の母音と二つの母音が並んであらわれる場合にその内の一つが脱落したので、古代語において母音がつづいてあらわれるのを避ける傾向があったことを示すものである。「にあり」「てあり」「といふ」が、「なり」「たり」「とふ」となるのも同様の現象である。「我は思ふ」「我はや餓ぬ」など連語においても、これと同種の現象がある。かようなことは当時は比較的自由に行われたらしい。
三 第二期の音韻
平安朝の初から、室町時代(安士桃山時代をも含ませて)の終にいたる約八百年の間である。この間の音韻の状態を明らかにすべき根本資料としては、平安朝初期には万葉仮名で書かれたものがかなりあるが、各時代を通じては主として平仮名で書かれたものであって、この期の諸音韻は、大抵は平仮名・片仮名で代表させることが出来る。そうして、平安朝初期に作られその盛時まで世に行われた「あめつち」の頌文(四十八字)およびその後これに代って用いられた「いろは」歌(四十七字)が、不完全ながらもその当時の音韻組織を代表するものであった。しかるに、この仮名は初のうちは相当正しく音韻を表わしたであろうが、院政・鎌倉時代から室町時代と次第に音韻が変化して行った間に、仮名と音韻との間に不一致を来し、仮名が必ずしも正しく音韻を代表しない場合が生じた。ところが、幸に外国人が、外国の文字で表音的に当時の日本語を写したものがあって、その闕陥を補うことが出来る。支那人が漢字で日本語を書いたものと西洋人がローマ字で日本語を写したものとが、その重なものであるが、支那人のものは鎌倉時代のものも多少あるが、室町時代のものはかなり多い。しかし漢字の性質上、その時代の発音を知るにかなりの困難を伴う。西洋人のは、室町末期に日本に来た宣教師の作ったもので、日本語について十分の観察をして当時の標準的音韻を葡萄牙式のローマ字綴で写したものであるから、信憑するに足り、且つ各音の性質も大概明らかであって、当時の音韻状態を知るべき絶好の資料である。
一 第二期における音韻の変遷
第二期の終なる室町末期の京都語を中心とした国語の音韻組織は、大体右の資料によって推定せられるので、これを第一期の終なる奈良朝の音韻と比較して得た差異は、大抵第二期において生じた音変化の結果と認めてよかろうから、その変化がいつ、いかにして生じたかを考察すれば、第二期における音韻変遷の大体を知り得るであろう。
(一) 奈良朝時代の諸音の中、二音が後の仮名一つに相当するものは、「え」の仮名にあたるものを除くほかは、すべて、平安朝初期においては、その一つが他の一つと同音になり、その間の区別がなくなってしまった。そうしてその音は、これにあたる仮名の後世の発音と同じ音に帰したらしい(ただしその中、「ひ」「へ」にあたるものはフィフェとなった)。かようにして、「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の一つ一つに相当する二音が、それぞれ一音を減じて、これらの仮名がそれぞれ一音を代表するようになった。この傾向は奈良朝末期から既にあらわれていたが、平安朝にいたって完全に変化したのである。
(略)
(六) 平安朝において、音便といわれる音変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音がイ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで、キ→イ(「築墻」がツイガキ、「少キ人」がチヒサイヒト、「先立ち」がサイダチとなった類)ギ→イ(「序」がツイデ、「花ヤギ給へる」が「ハナヤイタマヘル」など)、ミ→ム(「かみさし」がカムザシ、「涙」がナンダ、「摘みたる」がツンダルの類。このムはmまたはこれに近い音と認められる)、リ→ン(「盛りなり」がサカナリ、「成りぬ」がナムヌなど。「サカナリ」はサカンナリである。ンの仮名を書かなかったのである)、チ→促音(「発ちて」がタテ、「有ちて」がタモテとなる。ただし促音は書きあらわしてない)。ニ→ン(「死にし子」がシジ子、「如何に」がイカンなど)などは平安朝初期からあり、ミ→ウ(「首」がカウベ、「髪際」がカウギハ)ム→ウ(「竜胆」がリウダウ、「林檎」がリウゴウ)、ヒ→ウ(「弟」がオトウト、「夫」がヲウト、「喚ばひて」がヨバウテ、「酔ひて」がヱウテなど)ク→ウ(「格子」がカウシ、「口惜しく」がクチヲシウなど)はこれについで古く、シ→イ(「落しつ」がオトイツ、「おぼしめして」がオボシメイテなど)ル→ン(「あるめり」「ざるなり」「あるべきかな」が、アンメリ、ザンナリ、アンベイカナとなる類)ビ→ウ(「商人」がアキウド、「呼びて」がヨウデなど)なども平安朝中期には見え、ビ→ム(「喚びて」がヨムデ、「商人」がアキムド)、リ→促音(「因りて」がヨテ、「欲りす」がホス、「有りし」がアシ。促音は記号がない故、書きあらわされていない)、ヒ→促音(「冀ひて」がネガテ、「掩ひて」がオホテ)、グ→ウ(「藁沓」がワラウヅ)などは院政時代からあらわれている。その他「まゐで」がマウデとなり(ヰ→ウ)、「とり出」がトウデ(リ→ウ)となった類もある。かように変化した形は鎌倉時代以後口語には盛に用いられたのであって、それがため、室町時代には動詞の連用形が助詞「て」助動詞「たり」「つ」などにつづく場合には口語では常に変化した形のみを用いるようになり、また、助動詞「む」「らむ」も「う」「ろう」の形になった。
音便によって生じた音は右のごとくイ・ウ・ン及び促音であるが、そのうちイ及びウは、これまでも普通の国語の音として存在したものである。ただし、ミ・ム及びビから変じて出来たウは、文字では「う」と書かれているが、純粋のウでなく、鼻音を帯びたウの音で、今のデンワ(電話)のン音と同種のものであったろうと思われる。さすれば一種のン音と見るべきもので、音としては音便によって出来た他の「ん」と同種のものであろう(ンはmnngまたは鼻母音一つで成立つ音である)。ただ、「う」と書かれたものの大部分は、後に鼻音を脱却して純粋のウ音になったが、そうでないものは、後までもン音として残っただけの相違であろう。とにかく、かようなン音は、国語の音韻としてはこれまでなかったのが、音便によって発生して、平安朝頃から新しく国語に用いられるようになったのである。また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。
(七) 支那における漢字の正しい発音としてはmnngのような鼻音やptkで終るものいわゆる入声音があった。しかしこれは漢字の正式の読み方として我が国に伝わったのであって、古くから日本語に入った漢語においては、もっと日本化した音になっていたであろうが、しかし正しい漢文を学ぶものには、この支那の正しい読方が平安朝に入っても伝わっていた。しかるにその後支那との公の交通が絶えて、漢語の知識が不確かになると共に、発音も少しずつ変化して、院政時代から鎌倉時代になると、次第にそのmとnとの区別がなくなって「ン」音に帰し(「覧」「三」「点」などの語尾mが「賛」「天」などの語尾nと同じくn音になった)、またngはウまたはイの音になり(「上」「東」「康」などの語尾ウ、「平」「青」などの語尾イは、もとngである)、入声の語尾のpはフ、kはクまたはキになり、tは呉音ではチになったが、漢音ではtの発音を保存したようである(仮名ではツと書かれているが実際はtと発音したらしい)。そうして平安朝以後、漢語が次第に多く国語中に用いられたので、以上のような漢語の発音が国語の中に入り、ために、語尾における「ん」音(nと発音した。しかし後には多少変化したかも知れない)や、語尾における促音ともいうべき入声のt音が国語の音に加わるにいたった。
(八) 漢語には、国語にないキャキュキョのごとき拗音が、ア行ヤ行ワ行以外の五十音の各行(清濁とも)にわたってあり、クヮ(kwa)ク※[#小書き片仮名ヰ、163-1](kwi「帰」「貴」などの音)ク※[#小書き片仮名ヱ、163-1](kwe「花」「化」などの音)およびグヮグ※[#小書き片仮名ヰ、163-2]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-2]などの拗音があったが、これらは第一期まではまだ外国式の音と考えられたであろうが、平安朝以後、漢語が多く平生に用いられるに従って国語の音に加わるようになった。ただし、ク※[#小書き片仮名ヰ、163-4]ク※[#小書き片仮名ヱ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヰ、163-4]グ※[#小書き片仮名ヱ、163-4]は鎌倉時代以後、漸次キ・ケ・ギ・ゲに変じて消失した。
(九) パピプペポの音は、奈良朝においては多分正常な音韻としては存在しなかったであろう、しかるに、漢語においては、入声音またはンにつづくハ行音はパピプペポの音であったものと思われる(「一遍」「匹夫」「法被」「近辺」など)。かような漢語が平安朝以後、国語中に用いられるようになりまた一方純粋の国語でも、「あはれ」「もはら」を強めていった「あつぱれ」「もつぱら」などの形が平生に用いられるようになって、パ行音が国語の音韻の中に入った。
(略)
以上の(二)および(四)の音変化の結果、もと直音であったものが新たに拗音となり、拗音を有する語が多くなった。
(略)
二 連音上の法則の変遷
(一) 第一期においては語頭音として用いられなかったラ行音および濁音は、多くの漢語の国語化または音変化の結果、語頭にも用いられるようになった。
ハ行音はこの期を通じてその子音はFであったが、そのうち語頭以外のものはワ行音と同音に帰したため、語頭にのみ用いられることとなった。
母音一つで成立つ音の中、語頭以外に用いられないものはアだけとなった。
パ行音は語頭には用いられない(パット、ポッポト、ポンポンのような擬声語は別である)。ただし、室町末期に国語に入った西洋語(主として吉利支丹宗門の名目)にはパ行を語頭にも用いたらしい。
m音が語頭に立つものが出来た(「馬」「梅」など)。このm音はンと同種のものであるが、ン音はこの場合以外には語頭に立つことはない。
(二) 語尾音にはン音や入声のt音も用いられることとなった。「万」「鈴」「筆」Fit「鉄」tetなど。
(三) 語の複合の際に起る連濁および転韻は行われたが、従来例のある語にのみ限られたようである。
また語と語との間の母音の脱落による音の合体は、平安朝にも助詞と動詞「あり」との間に起って、「ぞあり」から「ざり」、「こそあれ」から「こされ」、「もあり」から「まり」などの形を生じ、更に後には、「にこそあるなれ」「にこそあんめれ」から「ごさんなれ」「ごさんめれ」などを生じたが、第一期のように自由には行われなかった。
或る語が「ん」で終る語の次に来て複合する時、その語の頭音が、
ア行音ワ行音であるものはナ行音となる(「恩愛」オンナイ、「難有」ナンヌ、「仁和」ニンナ、「輪廻」リンネ、「因縁」インネン、「顔淵」ガンネン。ただし「ん」がm音であったものはマ行音となる。「三位」サンミ。
ヤ行音であるものはナ行拗音となる。「権輿」ケンニョ、「山野」サンニャ、「専要」センニョー。
ハ行音であるものはパ行音となる。「門派」モンパ、「返報」ヘンパウ。ただしかような場合に連濁によってバ行音になるものもある。「三遍」サンベン、「三杯」サンバイ。
漢語において、上の語の終が入声である時は、
入声の語尾キ・ク(もとk)はカ行音の前では促音となる。「悪口」akkō「敵国」tekkoku
入声の語尾フ(もとp)はカ行サ行タ行ハ行音の前では促音となる。そのハ行音は同時にパ行音となる。「法体」はfottai「合す」gassu「立夏」rikka「十方」jippǒ 「法被」fappi
入声の語尾tは、
ア行ヤ行ワ行音の前では促音となり次の音はタ行音に変ずる。「闕腋」ket-eki→ketteki「発意」fot-i→fotti「八音」fat-in→fattin
カ行サ行タ行音の前では促音となる。「別体」bettai「出世」shut-she→shusshe「悉皆」shit-kai→shikkai
ハ行音の前では促音となり同時にハ行音はパ行音となる。「実否」jit-fu→jippu
以上は漢語の、支那における発音に基づいたものであって、勿論多少日本化しているのであろうが、多分平安朝以来用い来ったものであろう。中に、ンあるいは入声tの次のア行ヤ行ワ行音がナ行音(またはマ行音)あるいはタ行音に変ずるのは、上のn(またはm)あるいはt音が長くなってそれが次の音と合体したためであって、かような音転化を連声という。かような現象は、漢語にのみ見られたのであるが、後には、助詞「は」および「を」がン音または入声のtで終る語に接する場合にも起ることとなって、その場合には「は」「を」は「ナ」「ノ」「タ」「ト」と発音することが一般に行われたようである。(「門は」「門を」は「モンナ」「モンノ」となり、「実は」「実を」は「ジッタ」「ジット」となった)
四 第三期の音韻
第三期は江戸初期から今日に至る三百三四十年間である。その下限なる現代語の音韻は現に我々が用いているもので、直接にこれを観察して知ることが出来る。過去のものは、仮名で書かれた文献が主要なる資料であるが、そのほかに朝鮮人が諺文で写したものもあり、西洋人の日本語学書や日本人の西洋語学書などには羅馬字で日本語を写したものがある。また、仮名遣や音曲関係書や、韻学書などにも有力な資料がある。
第二期の下限である室町末期の音韻を現代語の音韻と比較して、第三期の中にいかなる変遷があったかを知ることが出来るわけであるが、現代の標準語は東京語式のものであるに対して、第一期第二期を通じて変遷の跡をたどり得べきものは大和あるいは京都の言語を中心とした中央語であって、その後身たる現代の言語は、東京語ではなく京都語ないし近畿の方言であるから、これと比較して変遷を考えなければならない。
(略)
五 国語音韻変化の概観
以上、日本の中央の言語を中心として、今日に至るまで千二、三百年の間に国語音韻の上に起った変遷の重なるものについて略述したのであるが、これらの変遷を通じて見られる重なる傾向について見れば、
(一) 奈良朝の音韻を今日のと比較して見るに、変化した所も相当に多いが、しかし今日まで大体変化しないと見られる音もかなり多いのであって、概していえば、その間の変化はさほど甚しくはない。
(二) 従来、古代においては多くの音韻があり、後にいたってその数を減じたという風に考えられていたが、それは「い」「ろ」「は」等の一つ一つの仮名であらわされる音韻だけのことであって、新たに国語の音として加わりまたは後に変化して生じた拗音や長音のような、二つまたは三つの仮名で表わされる音をも考慮に入れると、音韻の総数は、大体において後代の方が多くなったといわなければならない。
(三) 音韻変化の真の原因を明らかにすることは困難であるが、我が国語音韻の変遷には、母音の連音上の性質に由来するものが多いように思われる。我が国では、古くから母音一つで成立つ音は語頭には立つが語中または語尾には立たないのを原則とする。これは、連続した音の中で、母音と母音とが直接に接することを嫌ったのである。それ故、古くは複合語においてのみならず、連語においてさえ、母音の直前に他の母音が来る場合には、その一方を省いてしまう傾向があったのである。その後国語の音変化によって一語中の二つの母音が続くものが出来、または母音が二つ続いた外国語(漢語)が国語中に用いられるようになると、遂にはその二つの母音が合体して一つの長音になったなども、同じ傾向のあらわれである。我が国で拗音になった漢字音は、支那では多くは母音が続いたもの(例えばkia kua mia io)であるが、これが我が国に入って遂に拗音(kya kwa mya ryoなど)になったのも、やはり同種の変化と見ることが出来ようと思う。そうして今日のように、どんな母音でも自由に語中語尾に来ることが出来るようになったのは第三期江戸時代以後らしい。かように見来たれば、右のような母音の連音上の性質は、かなり根強かったもので、それがために、従来なかったような多くの新しい音が出来たのである。
(四) 唇音退化の傾向は国語音韻変遷上の著しい現象である。ハ行音の変遷において見られるpからFへ、Fからhへの変化は、唇の合せ方が次第に弱く少なくなって遂に全くなくなったのであり、語中語尾のハ行音がワ行音と同音となったのは唇の合せ方が少なくなったのであり、ヰヱ音がイエ音になり、また近世に、クヮグヮ音がカガ音になったのも、「お」「を」が多分woからoになったろうと思われるのも、みな唇の運動が減退してなくなったに基づく。かように非常に古い時代から近世までも、同じ方向の音変化が行われたのである。
(五) 外国語の国語への輸入が音韻に及ぼした影響としては、漢語の国語化によって、拗音や促音やパ行音や入声のtやン音のような、当時の国語には絶無ではなかったにしても、正常の音としては認められなかった音が加わり、またラ行音や濁音が語頭に立つようになった。また西洋語を輸入したために、パ行音が語頭にも、その他の位置にも自由に用いられるようになった。
音便と漢語との関係は、容易に断定を下し難いが、多少とも漢語の音の影響を受けたことはあろうと思う。
(六) 従来の我が国の学者は日本の古代の音韻を単純なものと考えるものが多く、五十音を神代以来のものであると説いた者さえある。しかるに我々が、その時の音韻組織を大体推定し得る最古の時代である奈良朝においては、八十七または八十八の音を区別したのであって、その中から濁音を除いても、なお六十ないし六十一の音があったのである。それらの音の内部構造は、まだ明らかでないものもあるが、これらの音を構成している母音は、五十音におけるがごとく五種だけでなく、もっと多かったか、さもなければ、各音は一つの母音かまたは一つの子音と一つの母音で成立つものばかりでなく、なお、少なくとも二つの子音と一つの母音または一つの子音と二つの母音から成立つものがあったと考えるほかないのであって、音を構成する単音の種類または音の構造が、これまで考えられていたよりも、もっと多様複雑になるのである。これらの音が平安朝においては濁音二十を除いて四十八音から四十七音、更に四十四音と次第に減少し、音の構造も、大体五種の母音と九種の子音を基礎として、母音一つか、または子音一つと母音一つから構成せられるようになって、前代よりも単純化したのである。この傾向から察すると、逆にずっと古い時代に溯れば、音の種類ももっと多く、音を構成する単音の種類や、音の構造も、なお一層多様複雑であったのではあるまいか、すなわち、我々の知り得る最古の時代の音韻組織は、それよりずっと古い時代の種々の音韻が、永い年月の間に次第に統一せられ単純化せられた結果ではあるまいかと考えられるのである。
底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
1950(昭和25)年
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※本作品の入力作業には、前記の底本とは別に、福井大学教育地域科学部の岡島様よりご提供いただいた電子テキスト(このテキストは旧表記で、「国語音韻の変遷」『国語と国文学』昭和十三年十月特別号1938.10.1を底本としています)を利用させていただきました。
” ※着色は引用者
以下の「馬声蜂音石花蜘蟵」は「イブセクモ」とルビがふってある。
駒のいななき - 橋本進吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/396_21658.html
”「兵馬の権」とか「弓馬の家」とかいう語もあるほど、遠い昔から軍事の要具とせられている勇ましい馬の鳴声は、「お馬ヒンヒン」という通り詞にあるとおり、昔からヒンヒンときまっていたように思われるが、ずっと古い時代に溯ると案外そうでなかったらしい。『万葉集』巻十二に「いぶせくも」という語を「馬声蜂音石花蜘蟵」と書いてあって、「馬声」をイに宛て、「蜂音」をブに宛てたのをみれば、当時の人々は、蜂の飛ぶ音をブと聞いたと共に、馬の鳴声をイの音で表わしていたのである。「いばゆ(嘶)」という語の「い」もまた馬の鳴声を摸した語であることは従来の学者の説いた通りであろう。蜂の音は今日でもブンブンといわれていて、昔と大体変らないが、馬の声をイといったのは我々には異様に聞える。馬の鳴声には古今の相違があろうと思われないのに、これを表わす音に今昔の相違があるのは不審なようであるが、それにはしかるべき理由があるのである。
ハヒフヘホは現今ではhahihuhehoと発音されているが、かような音は古代の国語にはなく、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれらの仮名はfafifufefoと発音されていた。このf音は西洋諸国語や支那語におけるごとき歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であって、それは更に古い時代のp音から転化したものであろうと考えられているが、奈良時代には多分既にf音になっていたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思われる。
鳥や獣の声であっても、これを擬した鳴声が普通の語として用いられる場合には、その当時の正常な国語の音として常に用いられる音によって表わされるのが普通である。さすれば、国語の音としてhiのような音がなかった時代においては、馬の鳴声に最も近い音としてはイ以外にないのであるから、これをイの音で摸したのは当然といわなければならない。なおまた後世には「ヒン」というが、ンの音も、古くは外国語、すなわち漢語(または梵語)にはあったけれども、普通の国語の音としてはなかったので、インとはいわず、ただイといったのであろう(蜂の音を今日ではブンというのを、古くブといったのも同じ理由による)。
それでは、馬の鳴声をヒまたはヒンとしたのはいつからであろうか。これについての私の調査はまだ極めて不完全であるが、私が気づいた例の中最も古いのは『落窪物語』の文であって、同書には「面白の駒」と渾名せられた兵部少輔について、「首いと長うて顔つき駒のやうにて鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。ひゝと嘶きて引放れていぬべき顔したり」と述べており、駒の嘶きを「ひゝ」と写している。これは「ひ」がまだfiと発音せられた時代のものである故、それに「ヒヽ」とあるのは上の説明と矛盾するが、しかしこの文には疑いがあるのである。すなわち池田亀鑑氏の調査によれば、ここの本文が「ひゝ」とあるのは上田秋成の校本だけであって、中村秋香の『落窪物語大成』には「ひう」とあり、伝真淵自筆本には「ひと」とあり、更に九条家旧蔵本、真淵校本、千蔭校本その他の諸本には皆「いう」となっている。そのいずれが原本の面目を存するものかは未だ判断し難いが、「いう」とある諸本も存する以上、これを「ひゝ」または「ひう」であると決定するのは早計であって、むしろ、現存諸本中最も書写年代の古い九条家本(室町中期の書写)その他の諸本におけるごとく、「いう」とある方が当時の音韻状態から見て正しいのであるまいかと思われる。そうして「いう」の「う」は多分現在のンのごとき音であったろうから、「いう」はヒンでなく、むしろインにあたるのである。
江戸時代に入って、鹿野武左衛門の『鹿の巻筆』(巻三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になった男が贔屓の歓呼に答えて「いゝん/\と云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は『落窪物語』の「いう」と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかったことを示す適例である。
「お馬ヒンヒン」という語はいつ頃からあるかまだ確かめないが、一九の『東海道中膝栗毛』初編には「ヒイン/\」または「ヒヽヒン/\」など見えている。多分もっと以前からあったのであろうが、これはhiの音が既に普通に用いられていた時分のことであるから、あっても差支ない。
底本:「古代国語の音韻に就いて他二篇」岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
1950(昭和25)年
” ※着色は引用者
筑波大学
ハ行子音の歴史関連参考文献
https://www.lingua.tsukuba.ac.jp/nihongo/hagyou.html
”1997/2/20作成:奥村彰悟
1.このリストは、1993年度~1996年度、筑波大学大学院文芸・言語研究科言語学専攻(日本語学)の演習「日本語音韻研究」で扱われた論文の一覧である。
2.各テーマごとに重複するものもある。
3.(当然ながら)すべてを網羅しているわけではない。
4.間違い等を発見された場合はQZX03013@nifty.comまでお知らせいただきたい。
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言語学大辞典 第2巻 世界言語編(中)1989
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
有坂秀世(1957)『国語音韻史の研究』増補新版 三省堂
安藤正次(1924)『古代国語の研究』内外書房(著作集 二 所収)
伊坂淳一(1993)「p音は「復活」したのか」『月刊言語』2月号
岩淵悦太郎(1936)「近世における波行子音の変遷について」『国語史論集』所収
上田万年(1898)「p音考」『帝国文学』4-1(『国語のため第二』富山房(1903)再収)
有坂秀世(1955)「第三篇 頭音論」『上代音韻攷』三省堂
大野 透(1957)「古代国語子音考」『音声の研究―日本音声学創立満30周年記念論集』第8輯 日本音声学会
亀井 孝(1959)「春鶯囀」『国語学』39(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1960)「在唐記の「本郷波字音」に関する解釈」『国語学』40(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1970)「すずめしうしう」『成蹊国文』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀のハ行子音」『國學院雑誌』83-7
小林明美(1982)「「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法」『大阪外国語大学学報』56
小林明美(1982)「円仁の長母音知覚」『密教文化』141
小松英雄(1981)『日本語の世界7 日本語の音韻』中央公論社
小松英雄(1985)「母語の歴史をとらえる視点」『応用言語学講座』1
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』四 所収)
新村 出(1930)「国語に於けるFH両音の過渡期」『東亜語源志』(『三宅博士古希記念論文集』所収)
築島 裕(1969)『平安時代語新論』東京大学出版会
橋本進吉(1927)「国語音声史の研究」『橋本進吉著作集 六』
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(『国語音韻の研究』橋本進吉著作集 四 岩波書店 所収)
橋本進吉(1942)「国語音韻変化の一傾向」『橋本進吉著作集 四』
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
馬渕和夫(1961)「円仁『在唐記』梵字対注の解釈について」『国語学』43
丸山 透(1989)「キリシタン資料におけるf表記をめぐって」『南山国文論集』13
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
森山 隆(1960)「在唐記梵字註の構成とその解釈」『国語国文』29-10(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
山田 実(1987)「奈良朝本土語のパ行音について」『古代音韻の比較研究』桜楓社
山田 実(1987)「『在唐記』の「波」音の新解釈」『古代音韻の比較研究』桜楓社
金石文・古事記
有坂秀世(1940)「メイ(明)ネイ(寧)の類は果たして漢音ならざるか」『音声学協会会報』64(『国語音韻史の研究』に再録)
大野 晋(1953)『上代仮名遣いの研究―日本書紀の仮名を中心として―』岩波書店
城生伯太郎(1993)「鼻音の同化力」『小松英雄博士退官記念日本語学論集』三省堂
城生伯太郎(1988・1992)『音声学』アポロン
水谷真成(1957)「唐代における中国語語頭鼻音Denasalizationの進行過程」『東洋学報』39-4
水谷真成(1959)「慧苑音義音韻考」『大谷大学研究年報』11
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
羅 常培(1933)『唐五代西北方言』歴史語言研究所単刊甲種之十二
万葉集
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
犬飼 隆(1992)『上代文字言語の研究』笠間書院
大野 透(1962)『万葉仮名の研究』明治書院
春日和男(1931)「古事記に於ける清濁書分について」『国語国文』11-4
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
正宗敦夫編纂・校訂(1975)『類聚名義抄 観智院本』1,2巻 風間書房
日本書紀
太田善麿(1962)『古代日本文学思潮論Ⅲ 日本書紀の考察』桜楓社
大塚 毅(1978)『万葉仮名音韻辞典 上下』勉誠社
大野 晋(1953)『上代仮名遣いの研究―日本書紀の仮名を中心として―』岩波書店
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀の八行子音」『國學院雑誌』83-7
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
森 博達(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
悉曇
有坂秀世(1955)「第三篇 頭音論」『上代音韻攷』三省堂
大野 透(1957)「古代国語子音考」『音声の研究―日本音声学創立満30周年記念論集』第8輯 日本音声学会
亀井 孝(1960)「在唐記の「本郷波字音」に関する解釈」『国語学』40(亀井孝論文集3 『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
木田章義(1989)「p音続考」『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社
久島 茂(1982)「日本書紀の八行子音」『國學院雑誌』83-7
小林明美(1982)「「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法」『大阪外国語大学学報』56
小林明美(1982)「円仁の長母音知覚」『密教文化』141
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(『国語音韻の研究』橋本進吉著作集 四 岩波書店 所収)
服部四郎(1951)『音声学』岩波書店
服部四郎(1955)「音韻論 2. 音韻論から見た国語のアクセント」『言語学の方法』岩波書店
林 史典(1992)「「ハ行転呼音」は何故「平安時代」に起こったか―日本語音韻史の視点と記述―」『国語と国文学』69-11(827)
馬渕和夫(1961)「円仁『在唐記』梵字対注の解釈について」『国語学』43
馬渕和夫(1984)『増訂日本韻学史の研究I、II、III』臨川書店
森 博達(1991)「第四章 頭音論」『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店
森山 隆(1960)「在唐記梵字註の構成とその解釈」『国語国文』29-10(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
森山 隆(1962)「悉曇口伝のハ行関係記事の解釈」『文学論輯』9(『上代国語の研究―音韻と表記の諸問題―』桜楓社 所収)
山田 実(1987)「第5章 §31 奈良朝本土語のパ行音について」『古代音韻の比較研究』桜楓社
山田 実(1987)「第5章 §32 『在唐記』の「波」音の新解釈」『古代音韻の比較研究』桜楓社
中国資料
赤松祐子(1988)「『日本風士記』の基礎音系」『国語国文』57-12
秋山謙蔵(1933)「明代に於ける支那人の日本語研究」『国語と国文学』10-1
浅井恵倫(1940)「校本日本訳語」『安藤教授還暦祝賀記念論集』三省堂
有坂秀世(1939)「諷経の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態」『言語研究』2(『国語音韻史の研究増補新版』三省堂 1980年版 所収)
有坂秀世(1940)「書史会要の「いろは」の音注について」『国語音韻史の研究増補新版』三省堂 所収
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
伊波普猷(1934)「『日本館訳語』を紹介す」『方言』2-9
大友信一(1962)「日本語音韻体系における/h/音素の成立」『音声の研究』第10集
大友信一(1963)『室町時代の国語音声の研究』至文堂
小川環樹(1947)「書史会要に見える「いろは」の漢字対音について」『国語国文』16-5
尾崎雄二郎(1969)「日本古代史中国史料の処理における漢語学的問題点」『人文』第15集
尾崎雄二郎(1970)「邪馬臺国について」『人文』第16集
尾崎雄二郎(1981)「円人『在唐記』の梵音解説とサ行頭音」『白川静博士古稀記念中国文史論叢』所収)
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1972)「文献以前の時代の日本語」(亀井孝論文集2『日本語系統論のみち』(吉川弘文館)
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1961)『全浙兵制考日本風土記』京都大学国文学会発行
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1965)『日本寄語の研究』京都大学国文学会発行
京都大学文学部国語学国文学研究室編集(1968)『纂輯 日本訳語』京都大学国文学会発行
久島 茂(1982)「日本書紀のハ行子音」『國學院雑誌』83-7
新村 出(1929)「国語におけるFH両音の過度期」(新村出全第四巻『東亜語源志』所収 筑摩書房)
長田夏樹(1979)『邪馬台国の言語』学生社
中野美代子(1964)「日本寄語による16世紀定海音系の推定―およぴ室町末期国語音に関する若干の問題―」『東方学』第二十八輯
橋本進吉(1927)『国語音韻史』(橋本進吉著作集第六冊 岩波書店 1967年)
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」(『国語音韻の研究』所収)
服部四郎(1979)「日本祖語について13.14」『言語』3月、4月号
浜田 敦(1940)「国語を記載せる明代支那文献」『国語国文』10-7
浜田 敦(1951)「日本寄語解読試案」『人文研究』2-1
浜田 敦(1952)「魏志倭人傅などに所見の国語語彙に関する二三の問題」『人文研究』3-8
浜田 敦(1956)「日本風士記山歌注解」『京都大学文学部五十周年記念論集』
福島邦道(1959)「『日本寄語』語解」『国語学』36
福島邦道(1967)「日本一鑑所引の古辞書」『本邦辞書史論叢』所収 三省堂
福島邦道(1983)『音韻史における「中世」』『国語と国文学』60-12
福島邦道(1993)『日本館訳語攷』笠間書院
安田 章(1980)「中国資料の背景」『国語国文』49-9
安田 章(1993)「外国資料の陥穽」『国語国文』62-8
森 博達(1982)「三世紀倭人語の音韻」『倭人伝を読む』中央公論社
森 博達(1985)『「倭人伝」の地名と人名』『倭人の登場』中央公論社
森山 隆(1968)「魏志倭人傅の倭語表記について―古代日本語の投影―」『国語国文』37-4
渡辺三男(1955)「明末の日本紹介書『日本一鑑』について」『駒沢大学研究紀要』13
渡辺三男(1957)「中国古文献に見える日本語―鶴林玉露と書史会要について―」『駒沢大学研究紀要』15
渡辺三男(1960)「華夷訳語及ぴ日本館訳語について」『駒沢大学研究紀要』18
渡辺三男(1961)「華夷訳語及ぴ日本館訳語について(承前)」『駒沢大学研究紀要』19
渡辺三男(1966)「隋書倭国伝の日本語比定」『駒沢国文』5
朝鮮資料
遠藤邦基(1971)「キリシタン資料の表記面からみた二面性」『岐阜大学国語国文学』7
大友信一(1957)「捷解新語の成立時期私見」『文芸研究』26
大友信一(1963)『室町時代の国語音声の研究』至文堂
大友信一(1973)「外国資料」『文学・語学』48
小倉進平(1964)『増訂朝鮮語学史』刀江書院
神原甚造(1925)「弘治五年活字版朝鮮本『伊路波』に就いて」『典籍之研究』三、大正14年、11 (京都大学文学部国語学国文学研究室編(1965)『弘治五年朝鮮版伊路波』所収)
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1958)「『捷解新語』小考」『一橋論叢』39-6
亀井 孝(1984)「『捷解新語』の注音法」(亀井孝論文集3『目本語のすがたとこころ(一)』(1984)吉川弘文館 所収)
亀井 孝他(1964)『日本語の歴史 4.移りゆく古代語』平凡社
京都大学国語学国文学研究室編(1958)『倭語類解 本文・国語・漢字索引』
京都大学国語学国文学研究室編(1973)『三本対照捷解新語 釈文・索引・解題』
金 完鎭(1971)『国語音韻体系wi研究』一潮閣 ソウル
河野六郎(1930)「『伊路波』の諺文標記に就いて―朝鮮語史の立場から―」『国語国文』21-10
河野六郎(1979)「新発見の訓民正音に就いて」『河野六郎著作集1』平凡社 所収
阪倉篤義編(1977)『日本語講座6 日本語の歴史』大修館書店
坂梨隆三(1987)『江戸時代の国語 上方語』東京堂出版
志部昭平(1985)「朝鮮の日本語資料」『国文学解釈と鑑賞』50-3
武井睦雄(1959)「朝鮮版『伊路波』に於ける“ほ”の仮名について」『国語学』40
浜田 敦(1930)「弘治五年朝鮮板『伊路波』諺文対音攷―國語史の立場から―」『国語国文』21-10
浜田 敦(1959)「倭語類解考」『国語国文』28-9
浜田 敦(1961)「表記論の諸問題」『国語国文』30-3
浜田 敦(1962)「外国資料」『国語国文』31-11
浜田 敦(1963)「捷解新語文釈開題」京都大学国文学会編『捷解新語文釈』所収
浜田 敦(1967)「朝鮮資料」『異本 隣語大方 交隣須知』所収
浜田 敦(1970)『朝鮮資料による日本語研究』岩波書店
浜田 敦(1980)「規範」『国語国文』49-l
浜田 敦(1983)『続朝鮮資料による日本語研究』臨川書店
林 史典他(1993)『日本語要説』ひつじ書房
福島邦道(1973)『キリシタン資料と国語研究』笠間書院
福島邦道(1983)『続キリシタン資料と国語研究』笠間書院
馬渕和夫(1971)『国語音韻論』笠間書院
森田 武(1955)「捷解新語成立の時期について」『国語国文』24-3
安田 章(1963)「隣語大方解題」『隣語大方』京都大学国文学会
安田 章(1973)「重刊改修捷解新語解題」京都大学国文学会編『三本対照 捷解新語 釈文・索引・解題編』所収
安田 章(1980)『朝鮮資料と中世国語』笠問叢書
安田 章(1990)『外国資料と中世国語』三省堂
国語国文学叢林『原本 蒙語類解 倭語類解 捷解新語』(1985)大提閣 ソウル
李 基文(1961・1972)『改訂国語史概説』(『改訂国語史概説』の日本語訳(『韓国語の歴史』藤本幸夫訳))
許 雄(1985)『国語音韻学』セム文化杜
キリシタン資料
大塚高信(1934)『コイヤード日本語文典』坂口書店
亀井 孝(1955)「室町時代末期の/Φ/に関するおぼえがき」『国語研究』3(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
亀井 孝(1958)「古代日本語の間投詞」『国語研究』8(亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ(一)』吉川弘文館 所収)
小島幸枝(1994)『キリシタン文献の国語学的研究』武蔵野書院
近藤政美(1981)「コリャード著『日本文典』における語頭のH表記の語について」『説林』29(愛知県立大学)
近藤政美(1989)『中世国語論考』和泉書院
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』第四巻所収)
新村 出(1929)「国語に於けるFH両音の過渡期」『三宅博士古稀祝賀記念論文集』(『新村出全集』第四巻所収)
橋本進吉(1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論集』(橋本進吉著作集第4冊『国語音韻の研究』所収)
橋本進吉(1928)『キリシタン教義の研究』(橋本進吉著作集第十冊)岩波書店(もとは『文禄元年天草版キリシタン教義の研究』東洋文庫)
橋本進吉(1950)「國語音韻の変遷」『国語音韻の研究』
橋本進吉(1966)『国語音韻史』(橋本進吉著作集第六冊)岩波書店
服部四郎(1954)「音韻論から見た国語アクセント」『国語研究』2(『言語学の方法』(1960)岩波書店 所収)
福島邦道(1973)『キリシタン資料と国語研究』笠間書院
福島邦道(1976)「サントスの御作業一国語研究資料として一」『サントスの御作業』勉誠社
福島邦道(1977)「長音と長音符」『国語学』108
福島邦道(1978)「ハ行子音一史的音韻論序説一」『実践国文学』13
福島邦道(1979)『サントスの御作業翻字研究編』勉誠社
福島邦道(1983)『続キリシタン資料と国語研究』笠間書院
丸山 徹(1989)「キリシタン資料におけるf表記をめぐって」『南山国文論集』13
森田 武(1977)「音韻の変遷(3)」『岩渡護 日本語 5 音韻』岩波書店
森田 武(1984)「キリシタン資料におけるハ行音のローマ字表記」『国語国文論集』13(安田女子大学)(『室町時代語論攷』所収)
『文禄二年耶蘇会板伊曽保物語』京都大学国文学会、1953
『日本大文典』士井忠生訳注、三省堂、1955
『日本文典』(オクスフォード大学版)土井忠生解題、勉誠社、1976
『サントスの御作業』H.チースリク・福島邦道・三橋健解説、勉誠社、1976
『パリ本日葡辞書』石塚晴道解題、勉誠社、1976
『キリシタン版落葉集』(大英博物館版)福島邦道解題、勉誠社文庫、1977
『邦訳日葡辞書』±井忠生・森田武・長南実編訳、岩波書店、1980
『国語学研究事典』佐藤喜代治編、明治書院、1977
江戸時代
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』
新村 出(1928)「国語に於けるFH両音の過渡期」『三宅博士古希祝賀記念論文集』
岩淵悦太郎(1936)「近世における波行子音の変遷について」『国語史論集』筑摩書房
有坂秀世(1938)「江戸時代中頃に於けるハの頭音について」『国語と国文学』
佐藤喜代治編(1977)『国語学研究事典』明治書院
沼本克明(1986)『日本漠字音の歴史』国語学叢書10 東京堂出版
橋本進吉(1966)『国語音韻史』岩波書店
森 博達(1991)「近世唐音と『東音譜』」『国語学』166
方言
有坂秀世(1955)『上代音韻攷』三省堂
生田弥範(1937)『因伯方言考』(1975)復刻 国書刊行会 『講座方言学8』(1982)
糸原正徳・友定賢治(1990)『奥出雲のことぱ』渓水社
井上文雄(1974)「荘内・大鳥・山北方言の音韻(文法)分布」『山形方言』11号(日本列島方言叢書3 所収)
伊波普猷(1933〉「琉球の方言」『國語科科学講座Ⅶ 國語方言学』明治書院
岩井三郎(1941)「静岡県井川村方言の考察」『方言研究』4号(『日本列島方言叢書』10 所収)
上田萬年(1898)「P音考」『帝国文学』
上田萬年(1903)『国語のため第二』
上野善道(1973)「岩手県雫石地方方言の音韻体系」『日本方言研究会第17回発表原稿集』日本列島方言叢書3 所収
大島一郎(1979)『方言体系変化の通事論的研究』平山輝男編 明治書院
大槻文彦(1897)『広日本文典・別記』国光社
奥里将建(1933)『国語史の方言的研究』大阪寶文社
奥村三雄(1990)『方言国語史研究』東京堂出版
小倉進平(1910)「仙台方言音韻組織」『國學院雑誌』16-3(『日本列島方言叢書』2 所収)
加藤正信・小林隆・遠藤仁(1983)「山形県最上地方の方言調査報告」『日本文化研究所研究報告』20号(『日本列島方言叢書』3 所収)
川本栄一郎(1970)「東北方言の音韻」『方言研究の問題点』平山輝男博士還暦記念会
川本栄一郎(1970)「石川県珠州市方言の「ク」と「フ」」『金沢大学語学文学研究』1
川本栄一郎(1973)「富山県庄川流域における「ワ」と「バ」の分布とその解釈」『国諾学研究』12
金田一春彦(1953)『日本方言学』吉川弘文館
小松英雄(1981)『日本語の世界 7 日本語の音韻』中央公論社
斉藤義七郎(1959)「山形県北村山郡東根町」『日本方言の記述的研究』(『日本列島方言叢書』3 所収)
佐藤和之(1986)「若年層話者に見る津軽方言の記述的研究(上)―録音資料からの抽出―」『弘前大学国語国文学』8号(『日本列島方言叢書』3 所収)
佐藤喜代治(1963)「秋田県米代川流域の言語調査報告」『日本文化研究所報告別巻』1号(『日本列島方言叢書』4 所収)
佐藤喜代治(1966)「岩手県三陸地方の言語調査報告」『日本文化研究所報告別巻』4号(『日本列島方言叢書』3 所収)
柴田 武(1988)『方言論』大修館書店
柴田 武(1954)「山形県小國町方言の音韻とアクセント」『国語国文』243(『日本列島方言叢書』3 所収)
柴田 武(1988)「方言小事典」『方言論』巻末 平凡社
新村 出(1928)「波行軽唇音沿革考」『国語国文の研究』(『新村出全集』第四巻所収)
郷士C・H・ダラス(1875)「米沢方言」翻訳:峯田太右衛門『山形方言』11号((1974)再録『日本列島方言叢書』3 ゆまに書房 所収)
チェンバレン(1895)『日琉語比較文典』山口栄鉄編訳(1976)琉球文化社
寺田泰政(1957)「大井川流域方言の概観」『國學院大學国語研究』6号(『日本列島方言叢書 中部方言 2』 所収)
徳川宗賢(1981)『日本語の世界 8 言葉・西と東』中央公論社
中條 修(1973)「房総半島方言の音韻の研究」『静岡大学教養部研究報告人文』8
中條 修(1974)「房総半島方言の音韻の研究」『静岡大学教養部研究報告人文』9
中條 修(1976)「語頭のP音の諸相―安部川上流地域の場合―」『静岡大学教養部研究報告人文』12
中條 修(1981)「「語中カ行子音」ノート―房総半島のK音について―」『静岡大学教育学部研究報告人文社会』31
名嘉真三成(1991)「南琉球方言のハ行子音」『日本語論考』桜楓社
中本正智(1976)『琉球方言音韻の研究』法政大学出版局
中本正智(1977)「古代ハ行p音残存の要因―琉球に分布するp音について―」『国語学』107(再録『日本列島言語史の研究』(1990)大修館書店 改題)「第三章 音韻の実態と分布と歴史 第二節 ハ行p音の残存の要因」
中本正智(1990)『日本列島言語史の研究』大修館書店
橋本進吉(1966)『国語音韻史』岩波書店
橋本萬太郎(1981)『現代博言学―言語研究の最前線―』大修館書店
日野資純(1954)「井川のP音考」『言語生活』134(『日本列島方言叢書』10 所収)
平山輝雄(1960)「八丈方言の特殊性」『東京都立大学創立十周年記念論文集』(『日本の言語学』6巻 方言 大修館書店 所収)
平山輝雄(1965)『伊豆諸島方言の研究』明治書院
平山輝雄編(1975)『新日本語講座3 現代日本語の音声と方言』汐文社
藤原与一(1976)『昭和日本語の方言―瀬戸内海三要地方言―』三弥井書店
馬瀬良雄(1962)「八丈島方言の音韻分析」『国語学』43 (『日本列島方言叢書』7 関東方言考(3)東京都 所収)
馬瀬良雄(1975)『新日本語講座3 現代日本語の音声と方言』汐文社
馬瀬良雄(1991)「信越の秘境秋山郷の方言音韻の分析」『日本語論考 大島一郎教授退官記念論集』桜楓社
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” ※着色は引用者
ハ行子音の歴史的変化(ハをパやファと発音していたこと)について書かれた資料が知りたい。 | レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000330002&page=ref_view
”質問
解決
ハ行子音の歴史的変化(ハをパやファと発音していたこと)について書かれた資料が知りたい。
回答
以下の資料に、ハ行子音の音韻変化について記載がありました。
<図書>
・『知らなかった!日本語の歴史』(浅川哲也/著 東京書籍 2011.8)
p.142-148「ハ行子音の変化」
・『基礎日本語学』(衣畑智秀/編 五十嵐陽介/[ほか著] ひつじ書房 2019.2)
p.46-50 「3. ハ行子音の歴史変化」
・『言葉の歴史』(新村出/著 創元社 1942)
p.71-77「琉球語の波行音の変遷」
・『橋本進吉博士著作集 第4冊 国語音韻の研究4』(橋本進吉/著 岩波書店 1976)
p.29-45「波行子音の変遷について」
p.51-103「国語音韻の変遷」
p.261-271「国語音韻変化の一傾向」
・『新村出全集 第4巻 言語研究篇』(新村出/著 筑摩書房 1977)
p.190-196「国語に於けるFH両音の過渡期」
・『国語史論集』(岩淵悦太郎/著 筑摩書房 1977)
p.257-261「近世における波行子音の変遷について:蜆縮涼鼓集の記載を中心として」
・高山知明「ハ行子音の脱唇音化:個別言語の特色と音韻史」『日本語史叙述の方法(ひつじ研究叢書 言語編第142巻)』(大木一夫/編 多門靖容/編 ひつじ書房 2016.10)p.95-121
<雑誌>
・伊坂淳一「p音は「復活」したのか」『月刊言語』22(2)<255>(大修館書店 1993.2)p.20-25
・肥爪周二「ハ行子音の歴史:多様性の淵源」『日本語学』34(10)<443>(明治書院 2015.8)p.34-41
[事例作成日:2023年2月1日]
回答プロセス
事前調査事項
NDC
日本語 (810 10版)
文法.語法 (815 10版)
参考資料
知らなかった!日本語の歴史 浅川/哲也∥著 東京書籍 2011.8 (142-148)
基礎日本語学 衣畑/智秀‖編 ひつじ書房 2019.2 (46-50)
言葉の歴史 新村/出∥著 創元社 1942 (71-77)
橋本進吉博士著作集 第4冊 橋本/進吉∥著 岩波書店 1976 (29-45、51-103、261-271)
新村出全集 第4巻 新村/出∥著 筑摩書房 1977 (190-196)
国語史論集 岩淵/悦太郎∥著 筑摩書房 1977 (257-261)
日本語史叙述の方法 大木/一夫‖編 ひつじ書房 2016.10 (95-121)
月刊言語 大修館書店 [編] 大修館書店 22(2)<255> 1993.2 (20-25)
日本語学 明治書院 vol.34 10 第443号 (2015-8) (34-41)
”
呉音(ゴオン)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E9%9F%B3-63509
”
ご‐おん【呉音】
古く日本に入った漢字音の一。もと、和音とよばれていたが、平安中期以後、呉音ともよばれるようになった。北方系の漢音に対して南方系であるといわれる。仏教関係の語などに多く用いられる。→漢音 →唐音
出典 小学館デジタル大辞泉について
(略)
② 古代日本へ朝鮮から渡来した漢字音。平安中期までは和音と呼ばれていたが、平安中期以後、呉音とも呼ばれるようになった。漢音・宋音・唐音などに対していう。
(略)
呉音の語誌
( 1 )古代日本に伝わった漢字音を呉音と呼ぶ確証は、平安中期の藤原公任(②の「北山抄」の例)以後である。それ以前には和音と呼んだ(①の「悉曇蔵」の例)。
( 2 )中国で隋唐代以後漢音を正しい音とするのに対し、南方音を、「古くてなまった音」という気持から「呉音」といったのにまねて、日本でも平安中期から、漢音を正音と呼ぶのに対し、和音を呉音というようになったらしい。それが呉という名前に引かれて、呉音は南方中国から渡来したという説が発生した。この説が江戸時代の漢学者、国学者に引きつがれて、現代でも行なわれているが、呉音の源流を朝鮮半島からさらにさかのぼって漢魏時代の古音に求める説もある。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
(略)
呉音 (ごおん)
日本における漢字音の一種。六朝時代の中国の呉の地方と交通のあった百済人が日本に伝えたもので,隋・唐代の北方音を伝えた漢音よりも中国語音の古形を反映するというのが通説。仏教関係の用語にもちいられることが多い。対馬(つしま)音は呉音の別称である。
→字音
執筆者:三根谷 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア 「呉音」の意味・わかりやすい解説
呉音【ごおん】
日本の字音の一種。中国語南方方言に基づくものといわれる。時代は漢音よりも古いとされる。六朝時代呉と交流のあった朝鮮の百済を通じて伝来したと伝える。対馬音(つしまおん)とも。日本には7世紀ごろまでに伝わり,早く日本語のうちにとり入れられたとされるが,しだいに漢音語彙(ごい)に交替した。しかし仏教関係の用語では根強く,後世に及んだ。
→関連項目唐音
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呉音」の意味・わかりやすい解説
呉音
ごおん
日本の漢字音の一種。漢音以前に日本に伝えられた字音で,中国語の揚子江下流方面の南方方言からであろうと推定されている。仏教経典の読み方に多く用いられた。おもな特徴は,(1) 子音の清濁を区別している (刀=タウ,陶=ダウ,漢音ではともにタウ) ,(2) 鼻音/m/,/n/をそれぞれマ行,ナ行で取入れている (馬=マ,男=ナン,漢音ではバ,ダン) ことなど。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
” ※着色は引用者
呉音 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%9F%B3
”呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。建康(今の南京市)付近の漢字音とも言われ、7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。中国語の中古音の特徴を伝えている。
一般に、呉音は仏教用語をはじめ「歴史の古い言葉」に使われる。慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。
(略)
頭子音(声母)の鼻音 /n/, /m/ については、漢音がダ行、バ行で伝えられたものが多いのに対し、ナ行、マ行のまま伝えられている。
(略)
漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音であり、いつから導入されたものかは明確ではない。雑多なものを含むため、様々な経路での導入が想定される。仏教用語などの呉音は建康(今の南京市)から百済経由で伝わったとされるものがあり、対馬音や百済音といった別名に表れている(「呼称について」に後述)。
呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。例えば『古事記』における日本語の人名は、呉音と訓読みで当て字されており[注 2]、『古事記』の振り仮名の万葉仮名には呉音が使われている。
呼称について
呉音しか漢字音がない時代には呉音という名称はなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称(レトロニム)である。かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の南京を始めとする音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。
また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承によるものである。
音のあいまいさについて
常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。
例
漢音と呉音の異なる字のうち、ほんの一例を以下に掲載する。対応が把握しやすいように字音仮名遣いを使って表示した。 前述のとおり、呉音にはあいまいな部分もあり、以下の例も、これが絶対というものではない。
“分類”は厳密さに欠けるものではあるが、参考までに添えた。 「漢音 / 呉音」の形で示している。 * は「いろいろ」というほどの意味。
(
表は省略。
「頭子音のみ異なる例」では、
「日」は漢音では「じつ」で、呉音では「にち」。
略)
最終更新 2024年5月12日 (日) 16:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
https://x.com/yuzo_takayama/status/1446779524671148033
”多嘉山侑三
@yuzo_takayama
「大和人(やまとぅんちゅ)」とは、沖縄語で「日本『本土』の人」を意味します。辞書にもそう定義されていますし、琉球沖縄の先人達もそう使ってきました。
それに対して「ないちゃー」は、まず純粋な沖縄語ではないです。敢えて日本語にすると「内地野郎」となり、侮蔑的な意味も含まれます。
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午後7:08 · 2021年10月9日
”
支配層側の主張を紹介しておく↓
【正論】ニッポンに統一し元気な国に-日本財団ブログ「みんなが、みんなを支える社会」に向けて
2010年01月12日(Tue)
https://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/166
”(産経新聞【正論】2010年1月12日掲載)
日本財団会長
笹川 陽平
3つの“名前”が常在
新しい年を迎えた。今年も冬季オリンピック、ワールドカップなどスポーツのビッグイベントが目白押し。スタンドから沸き上がる「ニッポン」コールには選手だけでなく日本全体を元気付ける明るさがある。
日本は「ニッポン」「ニホン」のふたつの発音のほかに、国際的に使われる「JAPAN」を合わせると、3つの“名前”が常在する珍しい国だ。国号は国の顔、やはり一本化されるのが望ましい。
政治、経済の低迷で国際的な影響力が落ち込み、存在感が希薄になりつつあるこの国の閉塞感を打ち破り、力強さと活力を取り戻すには、国際的な表記を「NIPPON」に変更、正式の読み方もニッポンに統一し、国が目指すべき新たな国家像を明示することが何よりも必要と考える。
現在、国連の加盟国表記は「JAPAN」。「日本」の古い中国語読み「ジッポン」がJAPANの語源とされ、NIPPONに統一しても特段の矛盾はない。読み方をめぐる長年の議論の経過を見ても、ニッポンを公式発音とする見解が主流を占め、これを反映して紙幣には「NIPPON GINKO」、郵便切手には「NIPPON」と記されている。日本が初めて参加したストックホルム五輪(1912年)開会式のプラカード、東京五輪のユニフォームの胸マークもNIPPONだった。
変更するには新たな国号法でNIPPONを採用し、各国に通知すれば済む。専門家も、変更に特段の問題はなく、どの国もすんなりと受け入れる、と見る。国際的表記をNIPPONに変更する以上、「日本」の公式発音もニッポンに統一することになる。国際的にNIPPONが定着すれば、国内の発音も時間の流れの中でニッポンに一本化される方向に進む。
正式に使う場合はニッポン
確かに国号を直接、定めた法令はなく、政府が読み方を公式に定めた事実もない。1934年には当時の文部省臨時国語調査会が「ニッポン」に統一する案を決議したが、政府は最終的に採択を見送った。佐藤内閣時代の1970年にもニッポンに統一する動きがあったが閣議決定には至らなかった。
この結果、国の最高法規である憲法でさえ、戦前の大日本帝国憲法はニッポン、戦後の日本国憲法は逆にニホンと発音する人が多数派を占める。政党も日本共産党はニホン、これに対し旧日本社会党はニッポンだった。ニッポンは西日本、ニホンは東日本に多い傾向もある。日本橋を大阪では「ニッポンバシ」、東京は「ニホンバシ」と発音するのはその典型だ。
「日本○○」といった法人名の企業では、従業員の発音さえ双方に割れるケースが目立ち、日常的に「日本」が登場するニュースの世界、とりわけテレビ局では混乱を避けるため専用の辞書を備え社も多い。NHKは発足当時の1954年「放送用語並発音改善調査委員会」(現・放送用語委員会)が「正式な国号として使う場合は『ニッポン』、そのほかの場合は『ニホン』と発音してもよい」との方針をまとめ、現在もほぼ踏襲されている。
これに対し政府は昨年6月、民主党の岩國哲人衆院議員が衆院議長あてに提出した「日本国号に関する質問主意書」に関連して麻生内閣が答弁書を閣議決定し、ふたつの読み方が広く通用している現状から「どちらか一方に統一する必要はない」とする見解を示している。
その一方で、国号の現地発音が複数使用されている国の有無に関しては「(わが国以外に)承知していない」と回答しており、この事実を見ても、日本の現状は国の在り方として正常とは言えない。複数の発音が日本語の特性とはいえ、ここにも近年の日本語の混乱の一因がある。
国のあり様考える第一歩
今回、あえてこのような提案をするのは、戦後60年を経て国に対する国民の意識が希薄になり、国としての求心力が失われつつある現状を危惧するからだ。昨年11月からNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の放送が始まり、若者にも大きな反響を呼んでいる。原作者の司馬遼太郎はこの作品で、近代日本の勃興期、封建の世から目覚め欧米的近代国家の建設を目指した青年たちの気概を描いた。
どの時代も多くの青年が理想的な国家、社会の建設に情熱を持つ。国民の責任・義務に言及するのをためらい権利に重きを置いて聞こえの良い公約を乱発し、政策の技術論に終始する政治の現状は、国の明日を二の次にする姿勢と言うしかない。
国家像という言葉に拒否反応を示す向きもあるが、それは戦前の軍国主義に結び付けた短絡でしかない。呼称問題は国のあり様を考える第一歩であり、議論を通じて内外の呼称をNIPPONとニッポンに統一し、この国の将来像を明示するのが政治の責任である。それが今求められる「第2の坂の上の雲」であり、実現した時、この国は初めて元気を取り戻す。
” ※着色は引用者
支配層側はニッポン読み傾向だ。ニッポンに統一すると「初めて」元気を取り戻すらしい。「初めて」とは大きく出たな。
”「日本」の古い中国語読み「ジッポン」がJAPANの語源”が根拠というのはおかしいよ。ニホン読みかニッポン読みかの話でなぜ「ジャパン(英語)」の話になるの? それとなぜ「正式の読み方もニッポンに統一」する必要がある? ニホン読みとニッポン読みは、例えば「とても」と「とっても」、「やはり」と「やっぱり」、「よほど」と「よっぽど」のように、「通常の語形」「強めの語形」の関係にある。「強めの語形」だけ残そうとするのは、欧米人への配慮なのでは?
ニッポンよりもニホンの方がより和語的だ。
「読み方をめぐる長年の議論の経過を見ても、ニッポンを公式発音とする見解が主流を占め、」ってどの集団の議論?
メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―奥野 昌宏 中江 桂子
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/83/1/bungaku-46_109-124.pdf
によると「ニッポン読み」運動をしたのはロータリークラブや大ニッポン帝国だ。
上記の論文より:
”昭和二年の第五十二回帝国議会に、国号「日本」の読み方を「ニッポン」に統一して、来年の
天長節から実行してほしいという請願案が出た。これは政府参考資料として可決されている。そ
の後もしばしば議会で話題になったが、昭和六年六月には、神戸の小学校訓導から文部大臣に建
議したり(同月二十六日大毎)、こえて昭和八年十二月には、京都のロータリークラブで決議し
たり(九年一月三日大朝)、さらに三月には大阪で「ジャパン」排斥運動をおこしたりなどして、
一連の「ニッポン」国号統一運動が活発におこなわれた。満州帝国の建国は実に同年の三月一日
であったのである”
”日本敗戦の一週間前に獄死した戸坂潤は、その著書『日本イデオロギー論』に「『ニッポン』イデオロギー」という章を設けており、そこで彼は「日本主義・東洋主義乃至アジア主義・其他々々
と呼ばれる取り止めのないひとつの感情のようなもの」を「『ニッポン』イデオロギー」といい、
「ニホンと読むのは危険思想だそうだ」と、当時の社会状況を批判している 22。彼がこの本を書い
た 1930 年代に「ニッポン」を意識的に使う人びとは、その言葉に明らかな政治的な意味を込めて
いたといえるだろうし、だからこそそのことを戸坂は批判的に見ていたのである。
しかし、統一への圧力を強くかけなければならなかったということは、逆に、一般の人びとの実生活のなかで、その統一がなかなか進んでいなかったことを示しているともいえよう。戦時色が濃厚ななか、情報局の圧力を受けながらも、それではこの時期に「ニッポン」が席捲していたかというと、かならずしもそうではないようである。”
しかも、2000年代の調査で、ニホン読みの方がニッポン読みより多いよ。上記論文より
”前述したように、戦時体制下では
「ニッポン」への圧力が高まったが、実際の人びとの日常生活の中では、「ニホン」も「ニッポン」も使われ続けており、「ニッポン」一色になった時代など存在しない。とすると私たちの時代もまた、メディアにおいては「ニッポン」の蔓延があったとしても、一般の人びとの国名呼称への意識
そのものが、それによってどれほどの影響を受けたのか、ただちに結論づけはできない。NHK 放
送文化研究所ではほぼ 10 年ごとに国名呼称にかんする調査をおこなっているが、上記宮本の調査
によると、国名呼称について「ニホン」/「ニッポン」を選ぶ人の割合は、1993 年で 58 パーセント/ 39 パーセント、であったのに対し、2003 年では 61 パーセント/ 37 パーセントである。いずれも概して若い世代ほど、「ニホン」への指向性が高く、ほぼ同様の傾向を示している 34。
書き言葉としての「ニッポン」がこの間に 7 ~ 8 倍に増えていることを考えると、「ニホン」を支持する人が安定的に約 6 割いることの意味を、私たちはどのようにとらえるべきなのだろうか。
言いかえれば、一般的な社会的慣用の実態から乖離した表現を、メディアが選んで使うことを、ど
のように解釈すればいいのだろうか。”。
メディアの大半が支配層(ニッポン推進派が多い)に飼われているからだろうな。
追加ここまで]
[2024年8月15日に追加:
「やっぱり」は 「やはり」のくだけた表現。
e日本語教育研究所
やっぱり
日本語初級 – やっぱり
2018/08/26
https://www.enihongo.org/you-see/
”「やはり」を強めた語。多く話し言葉に用いる。 いくつか意味がある。ここでは、「前もってした予想や判断と同様である様子。また、他の例から類推される状況と現実が同じである様子。 」「さまざまないきさつがあって、結局、初めに予測した結論に落ち着く様子。」「一般的な常識・うわさなどに違わない様子。」に使う。
「やっぱり」から転じた俗語形「やっぱ」「やっぱし」などもカジュアルな会話では使う人もいる。
A:彼は、来なかったね。
B:やっぱりね。
A:やっぱり雨が降ったね。
B:うん。
” ※着色は引用者
余程(ヨホド)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%99%E7%A8%8B-654916
”
精選版 日本国語大辞典 「余程」の意味・読み・例文・類語
よっ‐ぽど【余程】
( 「よきほど」の変化した語。「余程」は江戸時代以降のあて字 )
[ 1 ] 〘 形容動詞ナリ活用 〙
① 程度や数量が適当するさま。よい程度であるさま。ほどよいさま。ちょうどよいさま。
(略)
② 適度を越えてかなりな程度であるさま。ずいぶん。たいそう。相当。
(略)
③ 度を越えて十分すぎるのでもうやめたい、やめてもらいたいさま。大概。いいかげん。
(略)
[ 2 ] 〘 副詞 〙
① よい程度に。ほどよく。ちょうどよく。
② ほとんどそれに近いさま。おおよそのところ。だいたい。おおかた。
(略)
③ かなりの程度であるさま。ずいぶんに。相当に。
(略)
余程の語誌
( 1 )中世以降の文献に現われ、意味的な関連から「良き程」の変化したものと考えられる。室町時代の抄物資料では「えっぽど」の形も見られる。「よほど」の形も中世から見られるが、これは、「よっぽど」の促音が、ヤッパリ⇔ヤハリ、モッパラ⇔モハラ等の対に類推して強調の表情音ととらえられたところから、その非強調形として「よほど」の語形が生まれたものと考えられる。近世以降現代に至るまで「よっぽど」が強調ニュアンスを伴うのに対して「よほど」は平叙的である。
( 2 )「よっぽど・よほど」の意味は、古くは「良い程、良い頃合、適度」という本来の「よきほど」の意味を保っているが、近世に入ると次第に「適度を越えたかなりの程度」の意になっていく。
(略)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
” ※着色は引用者
日本語 文法 とても・あまり:解説
https://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/contents/explanation/034.html
”5 「あまり」は、話しことばでは「あんまり」になることがあります。また、話しことばでは「とても」が「とっても」となり、程度の高さを強調することがあります。
” ※着色は引用者
旧・室町言葉bot(Blueskyに引っ越し済)さんがリポスト
拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
彼はもう10年近く前から学問の場でも批判されるくらい有名なデタラメをいう学者なのだから、さすがにメディア側もそろそろ学んでほしい。
引用
字伏/azafuse
@xitian_zhenwu
·
8月6日
この前の山口謠司氏の件ね
池上彰氏の番組内容「テレビで放送すべきではありません」「俗説中の俗説」批判の専門家を直撃 | 女子SPA! https://joshi-spa.jp/1315083
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午後11:11 · 2024年8月6日
·
7,234
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拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
諸説ありって書けばテキトーなことを言っても許されるので、ある人は「諸説あり」と書いて「ウソです」と読むと言っていた。
午後10:38 · 2024年8月14日
·
2,821
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拾萬字鏡🐦
@JUMANJIKYO
鯛は形声字です。(諸説なし)
午後10:49 · 2024年8月14日
·
2,047
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追加ここまで]
[2024年8月16日に追加:
【現代語訳】 本居宣長『国号考』 訳:NF : とらっしゅのーと
https://trushnote.exblog.jp/14698191/
” あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、新年という機会にこの国の姿を振り返っておくのも良いのではないかと。という訳で今回はこの国の名の由来を知るという事で本居宣長『国号考』現代語訳を公開させていただこうと思います。
『国号考』は、本居宣長が天明七年(1787)に執筆した日本の様々な呼び名について考察したものです。日本や日本人とは何かを長年にわたり古典研究を中心として見つめてきた宣長にとって、国の名称の種類や由来などについても無関心でいられなかったのは自然な事といえるでしょう。なお、現代から見れば不適切だったり不快であるかもしれない表現もあるかもしれませんが、資料という事であえて極力そのままに訳しています。また、一文一文が長いので読みにくいかと思います。御容赦ください。
※漢字は原則として新字体に直しています。
<目次>
本居宣長『国号考』 訳:NF (一)
・大八嶋国
・葦原中国(「水穂国」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (二)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (三)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (四)
・夜麻登(やまと)(「秋津嶋師木嶋」という称号を付ける事もある)
本居宣長『国号考』 訳:NF (五)
・「倭」の字
・「和」の字
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
・日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)
本居宣長『国号考』 訳:NF (七)
・豊(とよ)または大(おほ)という称辞(称えるための称号)
本居宣長『国号考』 訳:NF 参考文献
関連記事:
そのほかの宣長著作現代語訳や宣長に関するレジュメはここにあります。
「本居宣長関連発表まとめ」
”
「日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)」内容が、
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
https://trushnote.exblog.jp/14698306/
”目次
(五)はこちらです。
・日本(にほむ)(比能母登【ひのもと】という名称についても述べる)
「日本(にほむ)」とは、もとより「比能母登(ひのもと)」という国号があったのを表記した文字ではない。異国に示すため、わざわざ作られた国号である。『公式令詔書式』に、「明神御宇大八洲天皇詔旨」(神と共に大八洲を御統治なさる天皇が勅命を出された)とあるのについては、『令義解』に「用於朝廷大事之辞也」(朝廷の重大事に用いる言葉である)とあり、「明神御宇日本天皇詔旨」(神と共に日本を御統治なさる天皇が勅命を出された)とあるのについては、「以大事宣於蕃国使之辞也」(重大事を服属する外国の使者に告げるときの言葉である)とある事からも分かる。さてこの国号を御作りになったのは、いつの御世であろうかというと、まず『古事記』にはこの国号は見られず、また『日本書紀』皇極天皇御巻までに、「夜麻登(やまと)」と言うのに「日本」と表記した事例は、後にこの『日本書紀』を編纂した際に、改められたものであって、その当時の文字ではなかったのであるが、
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子、高麗百済新羅並遣使進調」(孝徳天皇が即位し、大化元年秋七月卯朔丙子に、高麗・百済・新羅がそろって使者を送り貢物を献上した)云々、「巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」(巨勢徳大臣が高麗の使者に詔勅を読み上げて言った、「神と共に日本を御統治なさる天皇が勅命を出された」)云々「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」(そして百済の使者に詔勅を読み上げて言った、「神と日本を御統治なさる天皇が勅命を出された」)云々
とある。これこそが新たに「日本」という国号を建て、示しなさった最初である。というのはこれは従来の詔勅の様子とは異なっているからである。また
「同二年甲午朔戊、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓」(大化二年甲午朔戊、天皇は宮殿の東門に行幸され、祖が右大臣に詔勅を読み上げさせ仰った、「神と共に日本を御統治なさる倭根子天皇が勅命を、集まって近侍している貴人たち、連・国造・伴造や民衆たちに出された」と。)
云々とあり、これは外国人に示した詔勅ではないが、この国号を御建てになり、初めての詔勅であったため、このように仰って、皇国の人々にも、新たな国号を示しなさったのである。もしそうでなければ、「日本倭根子」と、「倭(やまと)」へ「日本」という言葉を重ねて仰った部分は、「やまとやまと」と、同じ言葉が無駄に重なってしまうではないか。だからこの「日本」という国号は、孝徳天皇の御世の、大化元年に初めて建てられた事は明らかである。それなのに世間の自称知識人どもは、この文を良く考えないため、この国号がどの御世から始まったか、全く知らないのである。全くもってこの孝徳天皇の御世には、元号なども始まり、その他にも新たに定められた事が多かったので、この国号が出来たのも、ますます理屈が合うように思われるのである。さてこれを漢籍と照らし合わせて考えれば、隋の時代までは「倭」とだけ言っていたのを、唐の時代になって、初めて日本と言う言葉が見えるのである。『新唐書』に、「日本古倭奴国也」(日本とは昔の倭奴国の事である)と述べた後に、
「咸亨元年遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名更号日本、使者自言国近日所出以為名、或云日本乃小国、為倭所併、故冒其号、使者不以情故疑焉」(咸亨元年【670年】に倭国が使者をよこして高麗平定の祝いを述べた。その後に使者はやや中国の発音に慣れ、「倭」の名を嫌って「日本」と名乗った。使者自身は「国が日の上る場所に近いためそう名付けた」とも言い、あるいは「日本とは小国であり、倭国に併合された。したがってその国号を倭国が奪ったのだ」とも言っている。使者は実情を述べていないようで、言っている内容は疑わしい。)
とある。『旧唐書』には、「倭」と「日本」を別々に挙げ、
「日本国者倭国之別種也、以其国在日辺故以日本為名、或曰倭国自悪其名不雅、改為日本、或曰日本旧小国、併倭国之地」(日本国は倭国とは別の存在である。その国が太陽の辺りにあることから「日本」という名を付けたのだ。あるいは倭国が自らその名が雅なものでないのを嫌って、日本と改称したのだともいう。あるいは日本は元来小国であったが、倭国の地を併合したのだとも言う。)
と言っている。これらを参照すると、この国号が出来てまだ幾許もたっていないころなので、中国では、まだはっきりとは知らなかったのである。大化元年は、唐太宗の時代、貞観十九年にあたり、上述の咸亨元年は、その子である高宗の時代で、天智天皇九年に当たるので、二十五年後である。その間にも我が国と中国の間に往来はあったけれども、やはり中国へは、旧来の国号のままで御国書は送られており、「日本」という新しい国号が建てられた事は、ただこちらの人が私的に語った事などから、辛うじて聞き知るだけであったろう。さてその後の文武天皇の御世に、粟田朝臣真人を大御使として中国に遣わした際から、中国に対しても正式に「日本」と御名乗りになったのである。この朝臣は中国に参上した際に、「どこの国の御使者であるか」と問われ、「日本国の使者である」と名乗った事は、『日本続紀』に見えており、また上述の『旧唐書』にも従来の往来については、みな「倭国」という書き方で表記し、「日本国」という表記は、この真人朝臣が参上した時を最初として記している。この時に中国は武后の時代であった。なのである説でこの国号を、唐の武后の時代に中国から付けられたように言うのは、誤りであるがこうした理由からである。さてまた三韓の使者には、大化元年にすぐ宣言して知らせなさっているのは、既に『日本書紀』を引用して述べたとおりであるが、その国の『東国通鑑』という書で、新羅の文武王十年のところに、
「倭国更号日本、自言近日所出以為名」(倭国は名を改めて「日本」と名乗った。自分では太陽の昇る場所に近い事から名付けたと言っている。)
とあるのは、唐の咸亨元年に相当し、年も文の内容も同じなので、例の『唐書』を引用して書いたものであって、論ずるに足りない。一般に『東国通鑑』は、このようにそのまま受け入れられない事ばかりが多い。
「日本」と名付けなさった国号の意味は、万国を御照らしなさる、太陽の大御神が御生まれになった御国という意味であろうか。または西の服属する諸国から見て、太陽の出る方角にあたるという意味か。この二つの説から考えると、前者は特に理屈に合っているが、その当時の一般の考え方を考慮すると、やはり後者の意味で名付けられたのであろう。例の推古天皇の御世に、「日出処天子」と仰ったのと同じ趣旨である。
「夜麻登(やまと)」という言葉に、「日本」という文字を充てる事は、『日本書紀』から始まった。それは当時まだ前例がない事で、世の中の人も戸惑うであろうから、神代巻に、「日本此云耶麻騰、下皆效此」(「日本」はこれを「耶麻騰(やまと)」という。以下みなこれに倣うように)という訓に関する注釈がある。『古事記』は、大化年間より遥かに後世になって出来たけれど、全ての文字も何も、古く書き伝えられたままに書き記され、「夜麻登(やまと)」にもみな「倭」の字でだけ書き、「日本」と書かれた場所は一ヶ所もないが、『日本書紀』は、漢文で文飾し、字を選んで書かれているので、新たにこの良い称号を充てて書かれているのである。ただし畿内の一国である大和国に関しては、多くは「倭」と書き、天下全体の称号に関しては「日本」と書き、また畿内一国の大和国の時も、朝廷に書かれたものについては「日本」と書かれており、『日本書紀』の文中は多くはこうである。人名もみな同様であり、天皇の大御名には「日本」、それ以外の人の場合には「倭」と書かれた。「神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇倭姫命(やまとひめのみこと)」(NF注:神武天皇)などのようなものだ。日本武尊(やまとたけのみこと)は、天皇の大御父でいらっしゃり、事実天皇と等しいため、「日本(やまと)」と書かれたのである。
「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。「日本(にほむ)」というのは、意味は「日の本(ひのもと)」という意味であるが、元来異国に示すために設けなさったものであるから、「ひのもと」とは読まず、始めから「爾富牟(にほむ)」と音読みで読んでいた。『万葉集』に「日本之」とあるのを、「ひのもとの」と読んでいる書が多いのは、後世の人が、無理に五音で読もうとしたための誤りであって、どれも四音で「やまとの」と読むべきである。ただ三巻にある不尽(ふじの)山の長歌で、「日本之、山跡国乃(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とあるのと、『続日本後紀』十九巻にある、興福寺の僧の長歌に、「日本乃、野馬台能国遠(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とありまた「日本乃、倭之国波(ひのもとの、やまとのくには)」云々などとあるのは、これらだけは「ひのもとの」と読む。しかしこの「ひのもと」は国号について言っているのではなく、「倭(やまと)」にかかる枕詞である。それについては、私はまだ若い頃に考えていたのは、「やまと」を「日本」と書くので、その字をそのまま読んだ読みを、やがて枕詞におくようになったというもので、「春日(はるひ)の」春日(かすが)、「飛鳥(とぶとり)の」飛鳥(あすか)、などと同じ例であると思っていたのだが、そうではなかった。まず「春日(はるひ)のかすが」とは、春の日影がかすむという意味に続けたものであり、「飛鳥(とぶとり)のあすか」とは、『日本書紀』で、
「天武天皇十五年、改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮」(天武天皇十五年、朱鳥元年と改元して言い、加えて宮殿を名付けて飛鳥【とぶとりの】浄御原宮と言った)
とあり、これは朱鳥が出現するという瑞祥が出てきたのを祝して、元号もそのように改めなさり、宮殿の称号も、飛鳥云々とお付けになったのである。なのでこれは、「とぶとりの」浄御原宮と読むべきである。「あすかの」浄御原宮というのは、「あすか」は元来の地名であるから、ことさらにここに、「仍名宮曰」云々などという必要がないと思われる。「とぶ鳥」とは、「はふ蟲」というのと同じで、ただ鳥のことである。さて宮殿の称号をこういうので、その地名にもそれを冠して、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」と言うのである。さて「かすが」を「春日」、「明日香(あすか)」を「飛鳥」とも書くのは、言いなれた枕詞の字で、やがてその地名を表記する字としたものである。それは例の「あをによし」「おしてる」などという枕詞を、やがて奈良や難波を表す言葉としていうのと、意味合いは似ている。というわけで「春日(はるひ)のかすが」、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」というのも、その地名の字をそのまま読んだのを枕詞にしたのではないのであり、「ひのもとのやまと」も、同じくそうではない。またこれは枕詞の「ひのもと」という字から、国名の「夜麻登(やまと)」の字として「日本」と書くのでもないため、上述した春日や飛鳥の例とも異なる。ただ「日の本つ国たる倭(やまと)」(太陽の源である国たるやまと)という意味である。というわけでこの枕詞は、もし大変古くからあったのであれば、孝徳天皇も、日本(にほむ)という名を、これを思い浮かべられて建てられたのであろうか。しかしあの不尽山の歌は、それほど古いものではなく、それより以前には「日本」を「ひのもと」と読む例は見えないので、これは「日本(にほむ)」という国号の意味合いを考えて、後になってこのように言い始めたのであろうか。その前後関係ははっきりしない。
(七)に続きます。
” ※着色は引用者
本居宣長『国号考』 訳:NF 参考文献
https://trushnote.exblog.jp/14698320/
”目次
おわりに
…疲れました。近世日本語を現代語訳するだけなのに。『古事記』『万葉集』の読み方からして確立していなかった時代にここまで内容を解析して咀嚼し、更に和漢の事例に関する該博な知識を使いこなしていた事に驚嘆を禁じえません。それにしても、国の呼び方一つとっても、いろいろなものが見えてくるものなのですね。
【参考文献】
本居宣長全集第八巻 筑摩書房
漢文の素養 加藤徹 光文社新書
日本大百科全書 小学館
”
以下の記事にて、
本居宣長『国号考』 訳:NF (一)
https://trushnote.exblog.jp/14698225/
からの引用だとあるが、リンク先を間違えている。
”「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。”とあるのは、
2011年 01月 05日
本居宣長『国号考』 訳:NF (六)
https://trushnote.exblog.jp/14698306/
の方である。
「日の本の国」とは呼ばなかったのか? 宣長『國號考』について 文責 やすいゆたか
日付: 4月 15, 2019Author: mzprometheus
https://mzprometheus.wordpress.com/2019/04/15/norinagakokugouronhihan/
”□本居宣長の『國號考』に次のような文章があります。次のブログの現代語訳を引用します。https://trushnote.exblog.jp/14698225/
「比能母登(ひのもと)」という称号は、昔の書物には見られない。「日本(にほむ)」というのは、意味は「日の本(ひのもと)」という意味であるが、元来異国に示すために設けなさったものであるから、「ひのもと」とは読まず、始めから「爾富牟(にほむ)」と音読みで読んでいた。『万葉集』に「日本之」とあるのを、「ひのもとの」と読んでいる書が多いのは、後世の人が、無理に五音で読もうとしたための誤りであって、どれも四音で「やまとの」と読むべきである。ただ三巻にある不尽(ふじの)山の長歌で、「日本之、山跡国乃(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とあるのと、『続日本後紀』十九巻にある、興福寺の僧の長歌に、「日本乃、野馬台能国遠(ひのもとの、やまとのくにの)」云々とありまた「日本乃、倭之国波(ひのもとの、やまとのくには)」云々などとあるのは、これらだけは「ひのもとの」と読む。しかしこの「ひのもと」は国号について言っているのではなく、「倭(やまと)」にかかる枕詞である。
□これは国号「日本」の読みに関してのことです。国号は「日本」と定めたものの、元々「ひのもと」という国号があって、「倭国」が「日本」に変わった時に、これを「ひのもと」と読んでいたという解釈が考えられますね。宣長によれば国号を「日本」にしたのは異国向けだから「爾富牟(にほむ)」と音読みにしていたというのです。
□ところで『萬葉集』に「日本之」という言葉が出てきてこれを「ひのもとの」と読む人が多いが、原則は「やまとの」と読むべきだというのです。まあ『萬葉集』だから異人向けではなく「にほむの」とは読まないということですね。
□しかし「日本」は意味としては「日の本」ということですし、「日本」と書いて「やまと」と読めるのは、「日の本のやまと」という慣用句があったからです。ですから明らかに「やまと」と読むべき所以外は「日本」とでてくれば「ひのもと」と読むか「にほむ」と読むべきでしょう。
□特に「日本之山跡」となれば「日本」を「やまと」と読めば「やまとのやまと」と重複してしまいますね。萬葉集巻3,319高橋虫麻呂集歌319より
「高橋虫麻呂 富士山」の画像検索結果
「其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞」
「その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮(しづめ)とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」
□この場合、国号は「山跡」です。「日本之」はその枕詞に成っています。富士山は山跡国を鎮めているわけです。その場合に駿河に富士山があるので、鎮められている山跡国は大八洲全体だということになりますね。「山跡」は王朝名としては大八洲全体です。
□宣長は王朝名が「倭国」から「日本国」に変更した時期を孝徳天皇の大化の改新期と捉えているようです。その根拠を宣長は次のように説明しています。
□『公式令詔書式』に、「明神御宇大八洲天皇詔旨」とありますが、『令義解』に朝廷の重大事に用いる言葉とされています。そして「明神御宇日本天皇詔旨」は重大事を蕃国の使者に告げるときの言葉とされています。「日本」を蕃国の人は「やまと」とは読めません。「にほむ」と読むので、「明神御宇日本天皇詔旨」という言葉は、宣長の解釈では「日本(にほむ)」という国号を外国に示していることになります。
□問題はこの国号がいつ制定されたかですが、『日本書紀』の次の記事に注目します。
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子(中略)巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」
とあります。これこそが新たに「日本(にほむ)」という国号を建て、示しなさった最初であるというのです。宣長によりますと、『日本書紀』では「やまと」を表記するのに「倭」を使っていた箇所は「日本」と改めたわけで、それでいくとこの箇所も「明神御宇倭天皇」とあったのを「明神御宇日本天皇」に改めたのではないかと思われそうですが、高句麗や百済が相手の場面だということで「日本」は「にほむ」だということでしょう。
それに翌年の国内向けの記事で「同二年甲午朔戊、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓」とありますが、「日本」と「倭」が両方とも「やまと」と読むのは重複だから「あまのした日本(にほむ)をしろしめす倭根子(やまとねこ)天皇」ではないかと解釈しています。
□しかしこれこそ重複例なので「日の本の倭(やまと)根子」と読むべきですから「日本」は国号ではなく、枕詞ではないでしょうか。そして元年の「明神御宇日本天皇」の「日本」も「にほむ」でも「やまと」でもいいことになります。あるいは「ひのもと」という国号の読み方が既にあって、「ひのもと」と読んだとも想定できますね。
□宣長は「ひのもと」には古書に用例がないことを「ひのもと」が古代の国号でなかった根拠にしていますが、それはないものねだりではないでしょうか。元々国号は自称、他称でいろんな特色から言い習わされるものですから、ほとんど口誦伝承に頼っていた大八洲の倭人諸国には文字化して国号を伝えることは慣習化していなかったので、遺っていないだけなのです。
□「葦原中国」とか「瑞穂の國」とか「やまとの国」とかは高天原から神々が下を眺めて呼ばれたものなので、何時からということはできないと宣長は考えていたようです。ところが「日本」はどうも史料に出てくるので、歴史的な経緯があるということです。
□中国では隋代までは「倭(わ)」とだけ言っていたのです。それが唐代になって、初めて「日本」と言う言葉が出てきます。『新唐書』に、「日本古倭奴国也」(日本は古は倭の奴国の事である)とあります。引き続いてこうあります。
「咸亨元年【670年】に使者(河内鯨)を遣して高麗平定を賀す、後にようやく夏音に習熟すると、倭という名をきらい、日本に改号した。使者が自ら言うことには、国が日出ずる所に近いのでその名にしたということだ。或は云うことに日本はすなわち小国で、倭が併合して、それ故その号を冒すと、とも言っている。使者は情(実際の様子)を述べていないようで、これは疑わしい。」
□宣長の解釈では、645年に孝徳天皇の時に「日本」号を採用したものの、唐には伝わっておらず、咸亨元年【670年】に使者(河内鯨)も私的に倭という言葉どうも卑字らしいからいやだ「日本」がいいとか、日が上る所にあるから「日本」にしたとか、倭国が日本国を併合して、いい名前だから「日本国」に改号したなどと説明していたけれどどうも大げさな物言いだったので信用されなかった。正式には701年文武天皇の時代に粟田真人が遣わされた際に「日本国」から来たと告げ、それが聖神皇帝(則天武后)から認められたということで、聖神皇帝から「日本」国号が与えられたというのは間違った解釈だと宣長は語っています。
□「伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」と『日本書紀』にあるが、「日本はこころ安まる国」と訳されているがイザナギは水運を使って要るので「浦安」はやはり浦が安まる国という意味で、ここは盆地のやまとではないと思われます。
□ただしすぐに「復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」大国主命がやまとを玉牆內國と呼んでいます。それは三輪山周辺でしょう。饒速日王国も三輪山が中心地なので「日本」は「やまと」でもいいわけです。
□饒速日は天照大神の孫で記紀では天磐舟で天下りしたことになっているので、「そらみつ日本国」表現しています。おそらく草香宮が流されたので、宮を三輪山に遷したのです。その際に饒速日はすでに四、五歳になっていて、生駒山からやまとを見下ろした印象があったかもしれません。あるいは三輪山の山上から見下ろしたかもしれませんね。
□天照大神は記紀では生まれてすぐに高天原に上げられたことになっていますから、河内湖畔の草香津に宮を建てて、太陽神の国を立ち上げたこと。台風か津波で宮が流され、天照大神一世はなくなり、天照大神二世が宮を三輪山に遷し、それを饒速日一世が継承したことは隠蔽されています。そういう太陽神の支配する国があったとすれば、そこは「日下」あるいは「日本」と書いて「ヒノモト」と呼ばれていて不思議はなく、もっとも自然だったということです。
□記紀では饒速日王国を倒した磐余彦大王は天照大神の嫡流だったことになっていますが、それは天照大神が高天原にいて、そこで須佐之男命と宇気比をし、その息子が天忍穂耳命だったことが前提で、饒速日一世と邇邇藝命は兄弟という設定になっています。
□しかし天照大神・月讀命・須佐之男命の三兄弟が三貴神なのは大八洲に建国した建国神だからです。それを「御宇之珍子」と言います。それに伊邪那岐神は高天原を出ていて、高天原の支配者を決定できる権限などもっていません。天照大神が高天原に上げられた話は後世の支配者の都合で改変された部分なのです。
□天照大神が大八洲に建国したとしたら孫の太陽神の国のある河内・大和が最も相応しいですね。河内湖畔の草香に宮を建てていたので「日の下の草香」から「日下」で「くさか」と読むようになったのです。だとしたら浪速で宇気比などしていませんから、饒速日命は天忍穂耳命の子ではなく、天照大神二世の子なのです。
□須佐之男命と宇気比をしたのは月讀命だったので、邇邇藝命は月讀命の孫であり、磐余彦は月讀命の血統なのです。ですから磐余彦大王つまり神武天皇が建てた大和政権は太陽神の国ではなく、「日本国」ではなかったわけですね。七世紀初頭に神道大改革で天照大神が高天原に上げられて主神・皇祖神になっていたことに改変されたわけです。
□もし磐余彦大王が天照大神の嫡流だったなら、国名もはじめから「日の本の国」「日本国」でよかったわけですね。「日本」を「やまと」と読ませる必要もありません。六世紀末までは「日本国」でなかったからこそ、歴史を書く際も日本国の歴史としては書きづらかったのではないでしょうか。なにしろ『古事記』は一言も「日本国」とは言わないのですから。
□ということは天照大神が建てた天照王国及びその継続としての饒速日王国は「日の本の国」「日本国」だったということですね。草香に宮があった時は太陽神が支配する「日の下(もと)の国」「日下国」で、三輪山に宮を遷してからは、日が昇る方角も加味して太陽神が支配する東の国という意味で「日の本の国」「日本国」だったのではないでしょうか。残念ながら口誦伝承の時代だったので、文献史料で証拠付けることはできませんが。
□本居宣長は文献学者としてはすごい学者ですが、天照大神からの皇統の万世一系を信奉していたので、記紀批判は徹底せず、孝徳天皇から「日本国」ということで、河内・大和の原「日本国」や聖徳太子摂政期の「日本国」再建を発見できなかったということです。
” ※着色は引用者
日本のあけぼの 第12講、古代律令国家の完成
https://mzprometheus.wordpress.com/2023/09/13/na12ritsuryou/
”1、律令の完成と日本国号はセットか?
飛鳥時代年表
(画像省略。以下、同様に画像は省略)
星野遼子:古代律令国家の完成は、701年の大宝律令の発布だと思いますが、どうもその少し前に日本国号や天皇号の使用がはじまったらしいので、三点セットで日本の古代律令国家が完成したというのが通説になっています。
やすい:私の解釈では国号は律令によって定めるものではありません。『日本書紀』で「日本」は「やまと」と読むことに成っていて、「倭」と書いて「やまと」と読ましていた箇所は「日本」に書き直して、やはり「やまと」と読ましていたということです。
星野:しかし、「やまと」を「倭」とか「日本」に書き換えられるという発想はどこから来るのですか? ちょっと想像がつかないのですが。
やすい:それは確かに現代人には理解不能ですね。当時の唐や新羅の人たちも面食らったかもしれません。おそらく「日下」とか「飛鳥」と同じ発想でしょう。「日下の草香」とか「飛鳥の明日香」という慣用句から「日下」、「飛鳥」という読みが可能になったのでしょう。同じ要領ですと「倭人すむ山門」とか「日本の山門」という慣用句から「倭」や「日本」でも「やまと」と読めるということです。
星野:では『日本書紀』も『ヤマト書紀』と読ましていたのですか?
やすい:そこは微妙ですね。本居宣長は大化元年(六四五年)に「日本(にほむ)」国号が成立したと考えます。『日本書紀』の次の記事からです。
「孝徳天皇即位、大化元年秋七月卯朔丙子(中略)巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」「又詔於百済使曰、明神御宇日本天皇詔旨」
「明神御宇日本天皇詔旨」は「明神(あきつみかみと) 宇(あめのした) 御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが)詔旨(おほみことらま)」と訓じるのですが、高麗使や百濟使に対しては、「日本」と書いても「やまと」とは読んでくれないので、対外的には「にほむ」という国号を示したことになるというのです。
星野:大化二年の国内向けの記事では「明神御宇日本倭根子天皇詔」とありますが、「日本倭」は「やまとのやまと」となってしまいますね。
やすい:それで宣長は、「御宇(あまのした)日本(にほむ)をしろしめす倭(やまと)根子(ねこ)天皇」と読んだと解釈しています。しかし「日本倭」だと「倭」を「日本」に書き換えるところが、倭を消し忘れたという衍字(えんじ)説による解釈もありえますが、そうじゃないとしたら、「日本」は国号ではなく、枕詞で「日の本の倭(やまと)」と読むべきでしょう。
星野:「日本」を国号にした経緯は、『新唐書』にこうあります。
「咸亨元年(670年)、使いを遣わし高麗を平らげしを賀す、後に稍(ようや)く夏音を習い倭の名を悪(にく)み、更(か)えて日本と号す。使者自ら「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と言う。或は云わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」
この場合、唐にすれば国号を「倭」から「日本」に変更したことになっていますが、大八洲の大和政権としては国名はあくまでも「やまと」であり、「倭」も「日本」も外国向けの表記だったという解釈に成りますね。
やすい:それは「やまと」が正しい国名で、その他は間違いという捉え方をすればそうですが、「倭国」とか「倭人」という表現は対外的には使っていたわけで、それが間違いだったわけではありません。「倭」は卑字だから「和」や「大和」にして使っていたこともあるわけです。聖徳太子の『憲法十七條』は「和」を国家精神に昇華したわけです。
星野:それじゃあ「日本」はあくまでも「やまと」にかかる枕詞で国名ではなかったものが、670年に対外的な国名になったということでしょうか。
やすい:「日下」で「草香」と読むのは、「日下の草香」で「草香」が国名だったからですが、その国が「日下の国」と呼ばれていなかったことではありません。国名は自称、他称でいろいろな呼び方をされるものです。ですから、天照大神や饒速日神が支配していた国は「日下国」あるいは「日本国」と呼ばれていた可能性は大です。
星野: 「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と『新唐書』にあるので、太陽神が支配していたので「日下国」だったのが、東の方角にあるので「日本国」に変わったのですか?
やすい:「日本国」だと太陽神が支配する国という意味と、東の方角の国の両方の意味を兼ねることができるので、河内・大和倭国は、天照・饒速日時代に自称では「日下国」で、他称では「日本国」です。
星野:ところで「やまと」というのが「倭」や「日本」の読みだというのが「日本書紀』の立場ですが、「やまと」の国と言っても、時代によって河内・大和を中心とする畿内国家なのか、大八洲の大部分を統合した国家なのか問題ですね。
やすい:「邪馬壹国」と『魏志倭人伝』にはありますが、「壹」は「臺」の草書体の原稿の見間違え説が説得力があります。「邪馬臺国」だったとしたら、その読みは「やまと国」だったと考えられますから、その「やまと国」は筑紫山門を中心にする筑紫倭国のことだと思われます。
星野:それなら二世紀から三世紀に「やまと国」が筑紫と畿内にあったということでしょうか?
やすい: 畿内大和の場合葛城や大和盆地に宮があったのですが、九代開化天皇が三笠山の麓春日に率川宮(画像)を営み、崇神天皇が磯城瑞籬宮を三輪山の扇状地に作っています。
それで「やまと」と呼ばれるようになったとしたら、筑紫倭国の山門の方が1世紀以上古いですね。四世紀に景行天皇の筑紫遠征があり、畿内やまとが大八洲の大部分を統合したのです。もちろん7世紀、8世紀の「大和国家」は畿内やまとを中心にする国家です。
星野:では畿内大和は何時頃から「日本国」あるいは「日本国」とよばれるようになったのですか?
やすい:饒速日王国は「日本国」と呼ばれていたことは充分考えられますが、磐余彦の建てた畿内の国家は、太陽神が主神ではなく、天之御中主神を主神と仰ぎ、月讀命を祖先神として祀っていたので「日本国」ではありません。七世紀初頭に神道大改革が行われたので、「日本国」と呼ばれるようになっていても不思議ではありません。倭人は口誦伝承で歴史物語を伝えてきたので、国名などの古い文字資料はほとんど残っていません。国名は自称、他称があり、言い慣わされるものであって、法的に制定されたものではないのですが、律令国家の完成を語る人は、日本国号が律令で規定されたかのように取り扱うので、律令の完成と日本国号がセットにされてしまうのです。
星野:天皇号の始用については「第9講、仏教導入と神道改革:蘇我専制」で、神道改革に関連して天皇号が7世紀初頭607年頃に使われ始めたということを詳しく議論していますので、そちらを参照していただきましょう。
やすい:天皇号の始用は推古天皇からで、その時に朝廷の実権は蘇我馬子が握っていました。その時の天皇は天之御中主神の現人神で天上・地上の中心に存在するという意味でした。ただ中心が「ある」ことで宇宙や地上の秩序が成り立つということで、光は弱くてもよく、何も命令しなくてもよいわけで象徴的な存在だったわけです。律令体制においては天皇は、各地の王たちをまとめる大王ではなく、唯一絶対の王であり、王土王民思想に基づいていました。いわゆる東洋専制君主制になったわけです。その意味では天武天皇になって絶対君主的な意味をもつ天皇になったといえるでしょう。
(後略)
” ※着色は引用者
2011-01-24 00:00:00
【日本書記から】鞆の浦と神話/其の五
https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10746053433.html
”【第四段 大八州生成章】
(中略)
産む時に至るに及びて、先づ淡路洲(あはぢのしま)を以て胞(え)とす。意(みこころ)に快びざる所なり。故(かれ)、名けて淡路州と曰ふ。廼ち大日本(おはやまと)日本、此をば耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆(しもみな)此に効(なら)へ。豊秋津洲(とよあきづしま)を生む。
(中略)
<訳>
(中略)
産む時になって、まず淡路洲(あはぢのしま)を第一子とした。意に満たず悦べない子供であった。そのため名付けて淡路州と言う。そしてすぐに大日本豊秋津洲(おはやまととよあきづしま)<日本、これをやまとと言う。以下すべてこれに従う。>を生む。
(中略)
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)/著者不明
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日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)/著者不明
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古事記と日本書紀 (図解雑学)/武光 誠
¥1,365
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” ※着色は引用者
追加ここまで]
[2024年8月17~18日に追加(この記事に追加したのは8月18日):
https://x.com/saikakudoppo/status/1707993560556155120
”犀角独歩
@saikakudoppo
内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
本論文は「P音考」と名声を博した上田万年以前に実は先行する研究があったことを論及
は行の子音は、P→ph(f)→h と変化したという
執筆時、名古屋大学大学院博士課程後期であったというから驚いた
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52230983.html
午後2:39 · 2023年9月30日
·
214
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”
リンク先:
犀の角のように独り歩め:内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
2023年09月30日
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52230983.html
”内田智子『「P音考」の学史上の評価について』を読む
でも書いたのだが、以前『「免う本うれんくゑきやう」の読みについて』を書いて昔の、は行清音は“h”は“p”だったと推理した。
なんと19世紀上田万年の「P音考」が有名で、実は本居宣長、チェンバレン→上田万年→新村出・橋本進吉と、その研究があったことを知った。
本論文は「P音考」と名声を博した上田万年以前に実は先行する研究があったことを論及したものだ。
は行の子音は、P→ph→h と変化したという
phをfとする箇所もあるのだが、わたし個人はf(またv)音が日本にあったという分析には消極的 ph との表記が適切と思う。
h はまた k、w の変化もあったというが、この点は別の機会としたい。
目次
はじめに
1上田万年の「P音考」の内容
2「P音考」の記述と近世音韻学
3雑誌“Transactions of the Asiatic Society of Japan”の影響
4「P音考」と音韻対象
5「P音考」とグリムの法則
6〔f〕であることとグリムの法則
7その後の展開と評価の確立
8三好米吉・大槻文彦・大島正健の記述と中国漢字音
9アイヌ語への言及
おわりに
*執筆当時:名古屋大学大学院博士課程後期
”
https://x.com/saikakudoppo
”犀角独歩
@saikakudoppo
1990年創価学会脱会→大日蓮編集室、教学部嘱託→大石寺棄教→日蓮宗立正福祉会青少年心の相談室相談員→RMC 脱会脱会後支援→JDCC編集長、理事→AERA、The Boston Globeに載る→日教研、現宗研で大石寺戒壇本尊真偽鑑別も遠い過去|ヘイト発言は言論暴力である、自分の過去の言説も反省、改めていく
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”
https://x.com/kzhr
”Kazuhiro hokkaidonis
@kzhr
Kazuhiro Okada, PhD (Hokkaido, 2015), b. 1987, linguistics w/ writing systems. ‘Fas est et ab hoste doceri’ (Ovid). Not a commentator on current affairs
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”
https://x.com/kzhr/status/1817223341645902223
”Kazuhiro hokkaidonis
@kzhr
「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法(訂正と追加)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009410424456064
がリポジトリに上がっていないように見えるが、
https://hdl.handle.net/11094/80979
ほかのファイルの一部と化しているだけのようだ
cir.nii.ac.jp
「悉曇相伝」に記述される/ハ/の発音方法(訂正と追加) | CiNii Research
記事分類: 文学・語学--言語・言語学
午前0:39 · 2024年7月28日
·
190
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(上記の続き)
https://x.com/kzhr/status/1817223899396120607
”> Hoffmann(1805-1878)が日本の研究者に何の影響も与えなかったというのが歴史的事実なら,そのような歴史はまちがっている.読まれなかったHoffmannがいけないのではなく,読まなかった方がよくない.研究史を論じる立場にありながら,塚原鉄雄はこの歴史のまちがいに気附かず,自ら歴史と同一化
午前0:41 · 2024年7月28日
·
127
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”
https://x.com/kzhr/status/1817224424715903089
”激しい。しかし、ハ行音が/p/に遡る可能性をここまで否定するのはどうなんだろうか。
午前0:43 · 2024年7月28日
·
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”
https://x.com/saikakudoppo/status/1707933422554140963
”犀角独歩
@saikakudoppo
〔覚書〕
・小林明美
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
・内田智子
上田万年「P音考」の学史上の評価について
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/2006502/files/nagujj_97_98.pdf
・ハ行子音の歴史関連参考文献
https://lingua.tsukuba.ac.jp/nihongo/hagyou.html#kenkyuusi
午前10:40 · 2023年9月30日
·
145
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”
小林明美
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
のリンク先が「Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣」でどういうことだろうと思ったら、末尾に「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」がある。
Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣
小林, 明美
大阪外国語大学学報. 1984, 64, p. 201-218
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
の末尾より引用しつつ、考察していく。再現できない箇所があることに注意。例えば、
【uの下に⌒】など。
”
前回掲載論文の訂正と追加
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
『学報』,No.56, pp.51-59
小 林 明 美
正 誤 表
頁 行 誤 正
53 2 [uru【uの下に⌒】asi] [uru【uの下に⌒】a∫i]
54 5 但加唇音 皆加唇音
7 ただし 〔ただし,〕いずれも
55 36 [mb]/[mb]と[nb]/[mb] [mb]/[mb]と[nd]/[nd]
(引用者注:読者視点で左の方のmやnは小さいうえに累乗の位置)
56 1 漢音が[ダ][ナ] 漢音が[ダ][バ]
〔52頁注2に関連して,次の文章を追加〕
上田万年とJohann Joseph Hoffmann
うえだかずとし
上田万年(1867-1935)の「P音考」(「語学創晃」,『帝国文学』,Vol,4, No,1,1898, PP.41-46)に対する評価には平衡を欠くものがある.ハ行子音が両唇音であったことは,上田より30年も前から知られていた.一方,これが閉鎖音であったということは,85年たってもまだ証明されていない.なお,同じ論文の中で上田は日本語「かな」(仮名)の語源をサンスクリット“kara-
ṇa”とする見解を出しているが(「仮字名称考」, ibid., PP.35-38),愚論と言うよりほかなく,言語学を修めた人の論義であるとは信じがたい.
「今日の波行音が,上古では,両唇破裂音のPであったとする仮説は,上田博士が最初ではない.けれども,国語史学史の対象とする場合には,上田博士の仮説を,その濫觴とすべきであろう.」(塚原鉄雄,『国語史原論』,東京,1961,p. 34) Hoffmann(1805-1878)が日本の研究者に何の影響も与えなかったというのが歴史的事実なら,そのような歴史はまちがっている.読まれなかったHoff nannがいけないのではなく,読まなかった方がよくない.研究史を論じる立場にありながら,塚原鉄雄はこの歴史のまちがいに気附かず,自ら歴史と岡一化している.上田以前になされたハ行子音の研究について,塚原は東条操の『国語学新講』を参照する以上のことは何もしていない.また,東条はEdkinsとChamberlainの名前をあげるだけで, Hoffmannについては名前すら出していない(『国語学新講』,新改修版,東京,1965,P.64).東条も塚原もHoffmannを読むどころか,その存在すら知らないのである.もっとも, 「P音考」について
216
論じた個所と「言語学」の定義を下した個所(PP.79-90)を除けば,塚原の論義は極めて明晰であり,『国語史原論』は優れた学術書である.
「波行子音が,〈最初にP音であった確実な証拠というべきものは あまり多くない〉とする橋本博士の所説は,研究史上,上田博士の占める意義には影響がない.波行子音がP音であったかどうかということと,<h→ɸ→P>と遡及しうると考えようとしたことは,別個の問題である.前者は量の問題であるが,後者は質の問題である.」(塚原,op. cit.,loc.cit.) それなら,質的に価値のある発見をしたのは上田ではなくHoffmannである.それでは,上田は「量」の上で何か貢献をしたのであろうか.
上田の主要な論拠は,「[k]:[g]= x:[b],∴x=[P]」という論式にある(op.cit.,pp.41-44). 論理的に整然とした音韻体系が過去にあったはずだというのである.
第2の論拠は日本語に[h]がなかったということで,その例証としてサンスクリットの単語を七つあげているが(ibid., p.44),そのうち正しいのは“Râhula”(rāhula)だけである.“Arahân” “Maha” “Rohu”はそれぞれ“arhan” “mahā-” “rāhu”のまちがいであり,“Ahaha” “Hami”
“Hasara”はどこにも存在しない架空の語である.上田の態度は極めて不真面目である.着想は他人のものであるので,せめて実例ぐらいは自分で見つけようとがんばったが,結果はみじめなものとなった.上田がライプチヒでBrugmannから印欧比較言語学を学んだなどという話はとうてい信じられない.
第3の論拠は「古きアイヌに入りし邦語」であり,“pone”(『骨』)など10語をあげる(ibid., p.45).「何故にF Hを有するアイヌは,之を其音にて伝へざるか」と言うが,アイヌ語には音韻/ɸ//f/がなく,上田の言うFは/h/の条件異音(/u/の前)にすぎない.アイヌ語に見られる日本語からの借用例は,ハ行子音が両唇音であったという証拠になったとしても,閉鎖音であったという証拠にはならない.
第4の論拠は「熟語的促音および方言」である.「熟語的促音」の例として「すっぱい」「おこりっぽい」「いなかっぽう」をあげるが(ibid., PP.45-46), 「ぱい」「ぽい」「ぽう」の由来を明らかにしていない.「すっぱい」「いなかっぽう」は今でも地方的にしか用いられていない語形である.「おこりっぽい」もおそらく関東方言に起源をもつ語形であり,広く使われるようになったのは古いことではない.このような語形が17世紀以前にさかのぼるはずがない.最後に,「方言」の例としてあげるのは,国頭,八重島,宮古の方言に認められる[p]である(ibid., p.46).
上田があげる論拠の中で,Hoffmannがすでに出しているものを除けば,検討に価するのはこれぐらいである.方言に傍証を求めるHoffmannの方法を受け継いだものだが,その頃にはChamberlainの琉球方言の研究が出ていた(Essay in Aid of Grammar and Dictionary of the Luchuan Language, Yokohama, 1895).もっとも,国頭方言などに聞かれる[p]は,琉球祖語にさかのぼる古形を保っていることが証明されないかぎり,「上古」(7-8世紀)に日本語の
217
ハ行子音が閉鎖音であったことの傍証にはならない.さらには,琉球租語で[p]であったとしても,8世紀の奈良方言でも[p]であったとはかぎらないのである.それどころか,上田の場合は,国頭などで聞かれる[p]の古さを証明する必要すら感じていない.
Hoffmannをはじめとする先人の研究について,上田は何も言及していない.知った上でこういう「発見」を発表したとすれば不誠実であり,知らずに「発見」したのなら愚かしいことである.それに,上田は「量」の上でも何の貢献もしていない.それにもかかわらず,「今日の国語史はP音考の段階から殆んど発展していない」(塚原,op. cit., p.29)と言われるほど上田の「発見」は今田でも高く評価され,「P音考」は国民的常識にさえなっている.
塚原によれぱ,「国語学」とは「国語の主体」によってなされる研究であり,「国語学では,言語生活における主体性に即応した,この言語自体の解明」(ibid., p.80)がなされるという.Hoff-
mannは「国語の主体」ではなかったし,日本へ行ったことさえなかったが, 日本の文献を読み,西洋人の残した日本語のローマ字転写を調べて,ハ行子音が昔は両唇摩擦音であったことに気づいた(A Japanese Grammar, Leiden, 1868, p. xiv ff.).この発見の価値は,「国語の主体」たちの目にとまらなかったからといって,少しも減るものではない.
218
”
攻撃的すぎるなあ。「P音考」には、根拠にするのがまずい箇所が多いってことだな。
重要論文を発見できてよかった。「前回掲載論文の訂正と追加」なので、「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」も存在する。こちらも読んだ。こちらも重要論文。論理学は本当に大事だな。
https://x.com/latina_sama/status/1680191481632673793
”ラテン語さん 1/7『世界はラテン語でできている』発売
@latina_sama
ca.はラテン語のcirca(約)
cf.はconfer(比較せよ)
e.g.はexempli gratia(例えば)
et al.はet alii [aliae](〜と他の人々)
ibid.はibidem(同じ場所で)
id.はidem(同じ人、物)
i.e.はid est(即ち)
loc. cit.はloco citato(引用文中に)
op. cit.はopere citato(引用作品中に)
sicは「そのように」です。
引用
有村元春/ Motoharu Arimura(博物館勤務)
@011235Moto
·
2021年11月4日
英語で書かれた論文や本で出会う略語のうち、僕が初めて見たときに戸惑ったものをまとめてみました。一般的な略語って、その論文や本の略語一覧には載ってないんですよね。ibid.は正体を暴くのに数日かかりました(ググったらわかることなのか、それとも業界用語なのかという判断すらできず…)。
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画像
午後9:24 · 2023年7月15日
·
20.1万
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”
特に断らないかぎり、着色など強調があるなら引用者によるものである。
Amoghavajra訳『孔雀経』の義浄訳模倣
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80979/joufs_64_201.pdf
(小林明美, 大阪外国語大学学報. 1984-03-20, 64, p. 201-218)
の「『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法」の補足は読み終えた。次は
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/80881/joufs_56_051.pdf
(小林明美, 大阪外国語大学学報. 1982-03-10, 56, p. 51-59)
を読んでいく。
冒頭が英語の要約。
『悉曇相伝』(しったんそうでん)。Sinren(心蓮)(?-1181)。
心蓮の頃の「ハ」の発音の候補が3つある。
The voiceless(無声) labial(唇音) fricative(摩擦音)[ɸ]、
The voiced(有声) labial(唇音) fricative(摩擦音)[β]、
or the labial half-vowel [【uの下に⌒】]。
彼がstop(閉鎖音)や摩擦音について論じるとき、the voiceless one(清音【撥音と促音を除き、濁音符も半濁音符も付けない音節[シラブル])のみとりあげている。
なので[β]は排除される。彼の定義する「ワ」は[u]+[a]なので半母音も除外される。
よって、心蓮の頃の「ハ」は[ɸ]。
(【uの下に⌒】はこのブログで再現できないので代役の表記。清音の説明箇所【 】は私によるもの。
論文の日本語の箇所の一部を記していく(そのまま記すこともあれば、要約することもある。私が補足することもある)。
p.52
日本語のハ行子音がもともと両唇摩擦音[ɸ]であったという見解を最初に出したのはJohann J. Hoffman(1805-1878)である.1)1868年のことであった.それから三十年たった1898年に上田万年(1867-1935)は論文を発表し,この前段階が両唇閉鎖音[p]であったという仮説を立て,摩擦音化したのは八世紀よりも前であったとした.2)
p.52
2) 上田万年, 「語学創見」, 『帝国文学』, Vol. 4 , No. 1, 1898.
(備忘録者中略)
ハ行子音の祖形が[p]であったことを証明するものは何もない.少くとも「切韻」(601年)の時代までは中国語に両唇摩擦音または唇歯摩擦音はなく,したがって/p/ 対 /ɸ/ /f/の音韻対立はなかった. 『魏志倭人伝』(三世紀末)から「推古遺文」(七世紀前半)にいたる文献でハ行音に中国語の/p/があてられているとはいえ,[ɸ]と区別した上でのことであるとは言えない.アイヌ語にも/ɸ/または/f/はなく,/h/ の条件異音(/u/ の前)として[f]があるだけである.
琉球方言の分離が想像を絶する音である以上,想像し得る過去に,すなわち文献時代より数世紀前に祖形*[p]の存在を想定するとすれぱ,「唇音の退化」(橋本進吉,『国語音韻の研究』,1950,pp.262-27)という「国語音韻変化の一傾向」に即して想像をめぐらすよりほかない.ただ,「唇音の退化」を認める上で橋本の論義の出発点になるのがほかならぬ*[p]祖形説なのであり,この点のみに限れば循環論法の弊に陥るおそれがある.
(論理学は本当に大切。抽象的な議論をしているを気をつけていても、詭弁に陥ることがあるから本当に注意しないといけない)
平安初期の[【uの下に⌒】i][【uの下に⌒】e][【uの下に⌒】o]は現在[i][e][o]になっており,これだけを見ればたしかに「唇音退化」が認められる.しかしながら,十世紀末に/オ/と/ヲ/が区別されなくなったとき,/オ/ではなく/ヲ/に統一されたのである.[o]>[【uの下に⌒】o]という変化は,むしろ「唇音強化」である.
(f音は何かの音が唇音退化してできたと考え、f音の前はp音だという推測が成り立つとは限らないってことね。必ず退化するとは限らないってこと)
また,[【uの下に⌒】e]はいきなり[e]に変ったのではなく,十三世紀以降に [【iの下に⌒】e]に統一されその状態は江戸時代までつづくのである.[【uの下に⌒】]>[【iの下に⌒】]の変化は「退化 」ではなく,調音位置の変化にすぎない.合(以降p.53)拗音[k【uの下に⌒】i][k【uの下に⌒】e]は室町時代に消え,[k【uの下に⌒】a]も江戸蒔代以降次第に[ka]に変わった.これはたしかに「唇音の退化」であるが,合拗音はもともと外来音であり,借用の時点でとらえれば「強化」なのである.そうすると,「唇音退化」を示唆する根拠として残るのは,[ɸ]>[【uの下に⌒】]/[h]という音韻変化だけになるわけである.「傾向」というのは「かなり多くの個物が同じ動きをすること」であるから,一つの音韻について起こる変化だけから「一傾向」はもはや認められない.それに,[ɸ]>[【uの下に⌒】]は条件変化にすぎず,[ɸ]>[h]は調音位置の移動といえばそれまでである.
p.53
七世紀から八世紀にかけてハ行音節を表記するために用いられたのは,中国語では[p]で始まる音節を表記する漢字であった(/ハ/:“波”[pua],/ヒ/甲:“比” [pii],/ヒ/乙:“悲”[piui],/フ/: “布”[po], /へ/甲:“幣”[biɛi]>[piɛi],/へ/乙:“倍”[buei]>[puei], /ホ/:“富”[pieu] ).八世紀の中国語で/p/がまだ常に閉鎖音であったにしても,あるいはすでにある場合は摩擦音化して[ɸ]または[f]になっていたにしても,5)八世紀日本語のハ行音が[p]であったのか[ɸ]であったのかを決める上で日本語で用いられた表音漢字は役に立たない.6)
九世紀までにこの子音の音価が[ɸ]になっていたとする安藤は,「ハ行転呼」の事実をふまえて,「無摩擦音【uの下に⌒】の前段階としてありえるのは,閉鎖音[p]よりも摩擦音[ɸ]である」という音韻変化の常識をよりどころにするしかなかったのである.
(8世紀つまり奈良時代開始かその直前あたりがpかfか不明ってことね)
5)601年に編纂された発音辞典『切韻』は,発音によって漢字を分類整理するのに「反切法」を用いたものである.
(反切[はんせつ]:漢字の字音を表わすのに、他の漢字二字の音をもってする方法)
作詩法の規範書として唐代に広く用いられ,多くの流布本写本ができたが,1008年に増補校訂版『広韻』として集大成された.『切韻』から『広韻』まで400年もたっているのであるが,そこに示されている音韻体係は基本的に変っていない.当然ながら,実際の発音はその間にかなり変ったことが予想される.
チベット文字による音価表記のついたテキストが敦煌から発見され, 1933年に羅常培によって詳細な報告がされた結果,八世紀の長安方言の音韻体系がわかるようになった.韻書で両唇閉鎖音([p],[p’],[b])とされているもののうち後代[f]になるものは,チベット文字“pha”あるいは“ha”によって音価が示されており,当時の長安方言で摩擦音化([ɸ]または[f] が起っていたと推定される.Cf.羅常培,『唐五代西北方音』,歴史語言研究所單刊,甲12,1933, pp.17-18.藤堂明保,『中国語音韻論』, 1980, p. 276.
6) 当時の日本人留学生が,長安方言の摩擦音を日本に伝えたということは当然考えられるが,日本語のハ行音を表記するにあたって排他的に摩擦音系統の漢字を使う試みはなされていないのである.
(摩擦音:両唇、歯と唇、舌と歯茎、舌と口蓋などの間を狭め、その隙間に気息を通して発する。[Φ][ß] (両唇音) 、[f][v] (唇歯音)。
[p] は破裂音であり、摩擦音ではない)
つづいて1928年に橋本進吉は文献資料を呈示して,九世紀にこの子音が[ɸ]であったことを直接証拠によって証明しようと試みた.橋本が用いたのは,円仁の『在唐記』中に見つけた一行であった.7)
7)橋水進吉,「波行子音の変遷について」(『岡倉先生記念論文集』,1928),『国語音韻の研究』,1950, pp.37-39.
p.54
円仁(793-864)は840年に長安で南インド出身のRatnacandraからサンスクリットの発音を学び,それを入念に記録して著書『在唐記』の中に収めた.橋本が取り上げたのは,サンスクリット音節paの音価を記述する次の一行である.
pa 8) 唇音 以本郷波字音呼之 下字亦然 皆加唇音 9)
(備忘録者注:正誤表で修正済み。以下も正誤表に基づき修正)
(〔インド文字〕“pa”〔の表わす音〕は唇音である.“波”の字で表わされる日本の音を用いてこれを発音する.次の文字〔,すなわち“pha”の場合〕もそうである.〔ただし,〕いずれも唇音を加える.)
ここで橋本が注目するのは,「皆加唇音」という最後の一句であり,「特にかやうな注意を加えなければならないのは,日本の波字の音がpaでなくFaであった為であって,軽い両唇音Fを重くしてp音に発音させる為であった」10) と考える.「加唇音」という三語からこれだけの「推定」を引き出す根拠を示めすために,橋本はさらに“ba”の項を引用する.
ba 以本郷婆字音呼之 下字亦然 11)
(〔インド文字〕“ba”〔の表わす音〕は,“婆”の字で表わされる日本の音を用いてこれを発音する.次の文字〔,すなわち“bha”の場合〕もそうである.)
そこで,「〔a)〕baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで,何等の註をも加えてゐないのを以て見れば,〔A)〕日本の婆は正しく梵字baの音に相当する」12) のに対し,「paの場合には,波と呼ぶと云ひながら,〔b)〕特に『唇音を加う』と註し〔てゐるのを以て見れば,〕〔B)〕波は梵字paとは幾分の相違があるのであって,」〔C)〕「波はFaであったと認められる.」13)
a)とb)の二つの事実を対比した上で,そこから命題A)およびB)を引き出すのは極めて理に適った態度である.テキストの他の個所を見ても,サンスクリット音に日本語音がぴたりと一致する場合には何のただし書きもないが,そうでない場合は必ずただし書きがある. 問題は命題C)であり,これはa)およびb)から導けないし,命題B)と論理的に結びつくわけでもない.前に出した雅定」に対する根拠はここでも示されておらず,醐じ「推定」がくりかえされているにすぎない.ただ,前提b)に前提a)がここで加わったため,命題B)が強化されている.
8) (中略)「/p/系列の音〔すなわち/p/ /ph/ /b/ /bh/ m/〕を発音しようとする時,学習者は,両唇を互いに接触させなければならない.」
9) 円仁,『在唐記』,『大日本仏教全書』,Vol.38,1971, p.90,6,1.9.
p.55
学報第56号
このように,テキストの文字だけから引き出せる結論は「日本語の/ハ/は,サンスクリットの/pa/と似ているが,全く同じではない」ということだけである.
【
「唇音を加う」なので「ハ」がp音「パ」では「ない」[=違っている]ことは確実だが、f音と一致するとは限らないってことね。pでもないしfでもないような中途半端な音かもしれない。とはいえ、「唇音を加う」の説明で読者が理解できるぐらいのp音との差だろうね。
p音と差がある音といっても、『悉曇相伝』(心蓮の生存期間が?-1181なので12世紀。平安末期あたり)の頃の「ハ」は[ɸ](本論文の結論)であり、
『後奈良院御撰何曾(ごならいんぎょせんなぞ)』(1516年。室町時代)の「母」が「ファファ」なので、どちらかというとfに近い発音だったろうね
】
さて,“pa”の項と似た表現をとっている箇所がテキスト中に五つある.
(「但加○音」が4例、「但皆加歯音」が1例)
ḍaについては「但加舌音」と言い,daについては「但加歯音」と言う.日本語音/ダ/はサンスクリット音ḍa daの両方に似ているが,ḍa 20) を発音するためには舌音であることを特に強調し, da 21)を発音するためには歯音であることを特に強調しなければならない。日本語音/ダ/を基準にして,サンスクリット音ḍaとdaを発音する場合に必要な調音位置の修正を教えているのである.ḍaの場合は舌の位置をより後に移〔して舌先を後にそら〕し,daの場合は舌の位置をより前に移すことになる.taの場合も同じである.
p.56
“那”と“摩”を日本人が使う場合,有声閉鎖音を表わす可能性と鼻音を表わす可能性がある.そこで,サンスクリットのna maを発音するときは,「鼻音であることを強調せよ」というのが円仁の指示である.
このように,「ある音を加える」というただし書きは,漢字で表わされる日本語音に可能性の巾(原文ママ)を想定した上で, 「その範囲内の特定の音であることを強調せよ」と指示するものである。このような場合には二通りある.a)ある漢字で表わされる日本語音を手がかりに問題の外国音の発音を試みようとして,特に注意深く発音すればその外国音となるが,いいかげんに発音するとそうはならない場合に,「〔調音位置を意識的にずらして〕その音であることを強調せよ」と指示される.b)ある漢字が二通りに発音する習慣があって,そのどちらかが問題のサンスクリット音に一致する場合,「どちらかであることを強調せよ」すなわち「意識してどちらかを選べ」と指示される.
さて,“波”は日本で排他的に/ハ/を表記するのに用いられた.そうすると“那”や“摩”のように表記に二重の可能性があるわけではない.そうすると,「加唇音」というただし書きは,da ta daの場合と同じように,「/ハ/を手がかりにサンスクリットのpaの発音を試みる場合,調音位置を修正せよ」という指示である.
このように,テキストから知られる限り,「ある音を加える」というただし書きは,その音を「強く発音する」すなわち「閉鎖度を高める」という意味で使われていない.「加唇音」という表現は,閉鎖度ではなくて,調音位置に言及しているのである.
閉鎖度に言及する場合に円仁がとる表現は全く別である.
va 以本郷婆字音呼之 向前婆字是重 今比婆字是軽 有人以唐国嚩音呼之 甚錯 24)
(〔インド文字〕“va”〔の表わす音〕は,25) “婆”の字で表わされる日本音を用いてこれを発音する.〔ところで,“婆”の字で表わされる日本音は,すでにインド音“ba”にあて
(ここからp.57)
ている.ではこの場合はどう違うのか.〕前に“婆”の字〔で表わされる日本音〕をあてた方〔すなわちba〕は重い.〔ところが〕今ここで“婆”の字〔で表わされる日本音〕をあて
ている方〔すなわちva〕は軽い.中国のbiga〔k〕(嚩)の音を用いてこれを発音する人がいるが,はなはだまちがっている.)
(備忘録者注:嚩[ハク]:まじないの語。呪文などで使われる。「バ」の音写に使われる)
これを言葉通りにとると,サンスクリットの/v/は,有声両唇摩擦音[β]として聞かれたということになる.
閉鎖度を示す「重・軽」という表現をとらず,調音位置の修正を指示する「加唇音」という表現をとっていることからわかるように,円仁は/ハ/の頭音を[p]とは見なしておらず,サンスクリットの/P/と比べて調音位置が少しずれると考えているのである.
では,/p/の調音位置とは違う調音位置とはどこか.そこで調音される音はどんな音か.これが次の問題である.この問題はもはや円仁のテキストだけからは解けない.『在唐記』のサンスクリット音記述が今日でも非常にわかりやすいのは,円仁の音声観察と記述の方法に極めて高い普遍性があるからである.九世紀という時代を考える時,これは驚くべきことである.しかしながら,こういう古い資料を扱う時,すべてを現代人の発想で律するのは不可能である。文献学の目的は可能なかぎり著者の意図に即してテキストを理解することにあるが,『在唐記』が極めて特異な資料である以上,この場合は広く平安時代の悉曇文献の中に問題を解くための手掛りを求めることになる.
Ⅲ
橋本は中国資料によって十三・十四世紀のハ行子音を[ɸ]と推定し,さらに平安末期の資料として心蓮の『悉曇口伝』を取り上げる.
26) 心蓮, 『悉曇口伝秘中秘々』,金剛三昧院本, 1234年写, 1496年再写, 5丁,裏 , 1.9; 6丁,表, 1.2. 橋本, op. cit.,pp. 36-37.
PP. 36-37.
p.58
『悉曇相伝』に記述される/ハ/の発音方法 (小林)
平安時代のハ行子音の音価を知るために取り上げられた資料は,橋本以来『在唐記』の“pa”の項と『悉曇口伝』の/ハ/の項の二つだけである.この二つがこの程度にしか扱われていない以上,「平安時代およびそれ以前のハ行音が,[p]ではなくて[ɸ]であると確言できる証拠というものはないのである」27) というのが現状である.
【2024年8月20日(ご支援用記事⑭発表前)に追加:
平安時代のハ行頭音の調音方法を異体的に記述している資料が一つだけである.心蓮の『悉曇相伝』である. /ハ/の項と /マ /の項を以下に引用する.
(備忘録者中略)
(上下の唇を合わせて, やわらかく[a]の声を出す,そうすると〔/ハ/の〕音になる.)
(唇の外を閉じて, 極めて強く[a]の声を出す. そうすると〔/マ/の〕音になる.〉
ーーー
「一つだけである」は原文ママ。
追加ここまで】
27) 馬淵和夫,『国語音韻論』,1971, p.71,注1).なお,『在唐記』の記述に基づく橋本の「推定」に反対して,官嶋弘が当時の/ハ/の子音を[h]と解釈し(「平安時代中期以潮のハ行子音」,『国語・国文』,Vol. 14, No.2,1944, pp.17-42),亀井孝が[P]と解釈した〈「在唐記の『本郷波字音』に関する解釈」,国語学」,No.40,1960, pp.126 - 130.状況証拠(「八世紀に/ハ/は[pa]または[ɸ a])を前提として,消去法によって「推定」を下すために,橋本は『在唐記』の記述を消去の根拠として用いた(/ハ/≠pa,∴/ハ/=ɸ a).橋本の「推定」は結果的に見れば正しい.しかしながら,宮嶋や亀井のような誤った解釈が生ずる余地があったのも,橋本のテキスト処理と論旨展開が不充分であったからである.
28) 心蓮, 『悉曇相伝』(金剛三昧院本, 表題・コロフォンとも欠く), 68丁, 表, Ⅱ.2-6.
【(コロフォン(colophon): 印刷所あるいは出版所の意匠や標章などを印刷したもの】
(ここから)p.59(最終ページ)
ところが, 摩擦音[ɸ][β]や半母音【uの下に⌒】を発音する場合は, 狭いながらも空気通路を残さなければならないので, 両唇を密着させることはできない.
ところで『悉曇相伝』においても『悉曇口伝』においても, 心蓮が取りあげるのは常に基本音とみなされる「清音」のみである.したがって, [ɸ]と[β]のうち, 「清音」ではない[β]は排除される. さらに, 心蓮は/ヤ/を[イ]+[ア]であるとし, /ワ/を[ウ]+[ア]であるとしている. したがって, [【uの下に⌒】]を頭音とするのは/ワ/であって/ハ/ではない. 心蓮の記述する/ハ/は[ɸa]であった.
以上だ。
追加ここまで]
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