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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり) 

ご支援用記事⑭が完成しました。

ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)
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詳しくは以下をどうぞ。

読めニク屋(新五つ子ショップ)とお知らせ⑭。ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)の内容紹介
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-573.html

【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-463.html

【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-367.html

【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html

【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html

【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html

【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html





ーーーー

[以下は、ご支援用⑭の結論とは異なる内容であることに注意(主旨を変えないように、誤字脱字は修正した)↓]

ニɸoン
ハ行は(京都では)17世紀までファ行音でしたが、これは両唇で調音する音で、IPAでは [ɸ] と表記され、英語の [f] (上の歯と下唇で調音)とは少し違います。
東京を含む多くの地域では、ウ段のフの子音だけは [ɸ] で留まっていて、かつての名残を残しています。
(京都など一部の地域ではフも [h] に変化)


国号成立時点 ニッポン(小さい「ツ」の発音がないのでありえない)、ニポン(ありえる。ただし当時「ポ」と「ホ」と「フォ」の区別ははっきりしていないだろうから、ニポンとニホンとニフォンを分ける意味があるか疑問)。ニホン(ありえる)。ニフォン(ありえる)。
ニɸoン(両唇を使う。もし一番違い字をあてるならホだが、現代のホではない)
つまり「小さいツ」があるのはおかしいので、正式な国号を現代で定めるならニホンだよ。
外国語の発音基準で国号を決めるなんて論外。
日本という国号ができたころではなく、日本文化でイメージされるような文化ができたころが室町文化(いわゆる「和」のイメージはこのあたりから)あたりだからこれ基準だとニフォンだな。

奈良時代のハ行がすべてp音読みならパ行用の文字はできない。正確には現代のハとパを区別していなかっただろうな。


大日本帝国代々はポン読みに都合の良い説が流布されやすいことに注意。

[上記はおそらく、「P音考」(『国語のため』所収)を読むより前に書いたものだろう]




「ハ行音の問題」について
http://ichhan.sakura.ne.jp/paline/paline1.html
” *これからɸをFであらわすことにします。

 これからハ行音の問題を考えていくのですが、そのためには上代のハ行音がどのような発音であったか知る必要があります。そこで奈良時代のハ行音の発音を知るために、文献にみられる万葉仮名の表記をみてみます。(上代語辞典編修委員会編 1985:585、336より)

「語頭のハ(ハ行頭子音)    鼻(はな)     表記:波奈

語頭以外のハ(ハ行転呼音)  沢(さは→さわ) 表記:佐波、左波」

 このように語頭と語頭以外の区別なくハは「波」であらわされています。また古代中国語の漢字音の研究成果によれば、ハ行音の発音は次のように考えられています。(福島 1976:141)

「 ハ…波・破・幡  ヒ…比・悲・斐  フ…不・布・敷  ヘ…敞・弊・反  ホ…保・倍・本
 これらの漢字音は韻鏡では重唇音や軽唇音に属するので、p音系統やF音系統の中国音で日本語のハ行子音を表わしていたことになるのであるが、奈良時代のハ行音がパピプペポであったかファフィフゥフェフォであったかはっきりしないのである。
 そこでもし平安時代の初期にハ行子音をFと発音した資料があれば、その前の奈良時代もハ行音はファフィフゥフェフォであったということになるが、慈覚大師の在唐記(注3)(八世紀中ばのもの)に梵語のpa音に日本の「波字音」で呼ぶが「唇音を加う」とあるので、パを発音するのに軽い両唇音のFを重くしてP音に発音させたのであって、平安時代にはハ行子音は両唇音のFであったといえる。この解釈に異論をとなえるむきもあるが、両唇音説に従いたい。」

 このようなことから、ハ行音は語頭と語頭以外の区別なく、どちらも同じようにファ行(F)もしくはパ行(p)で発音されたと考えられています。


2.ハ行頭子音の変化

 語頭のハ行音は次の引用にみられるように、p([p])→F([ɸ])→h([h])のように変化したと考えられています。(小松 昭和56:249)

「ハ行子音は、文献時代以前に両唇破裂音の[p]であったが、すでに奈良時代には両唇摩擦音の[ɸ]になっており、さらに江戸時代に入って声門摩擦音の[h]に変化した。」

 上のp([p])→F([ɸ])の変化は唇の緊張がゆるむと、p(両唇閉鎖音)からF(両唇摩擦音)に変化する現象で、唇音退化と呼ばれ色々な言語によく見られる音韻変化の一つです。そしてこのp→Fの変化が古代の語頭のハ行音にみられ、奈良時代以前にp→Fの変化を完了していたと考えられています。これが「p音考」としてよく知られている語頭ハ行音の変化です。
〔中略。
引用者注:
「(小松 昭和56」とは
”1.小松英雄 『日本語の音韻 (日本語の世界7)』 中央公論社 昭和56”
http://ichhan.sakura.ne.jp/reference/ref.komatsu56.html
のことである。

「(福島 1976:141)」とは
”1.福島邦道 「日本語の歴史」 『国語学概説』 阪倉篤義編 有精堂出版 1976(14版:1989)”
http://ichhan.sakura.ne.jp/reference/ref.fukushima1976.html
のことである

 ところでハ行頭子音がp音に遡るとする上の考え(「p音考」)は現在でも沖縄などの方言にpやF音が残っているところから、専門家のあいだでは支持されています。現代日本語方言大辞典より、p・F音の残存と考えられる例を、次にあげてみます。(平山 平成5:6巻 4643:アクセントは省略)

「骨 [puni]  沖縄県宮古島平良市
 骨 [Funi] 鹿児島県奄美大島名瀬市」
〔以下省略。
 引用者注:
「平山 平成5:」とは
”1.平山輝男編著(代表) 『現代日本語方言大辞典』 第1~8巻+補巻 明治書院 平成4~6年”
ichhan.skura.ne.jp/reference/ref.hirayama5.html
のことである。〕


”「 ハ…波・破・幡  ヒ…比・悲・斐  フ…不・布・敷  ヘ…敞・弊・反  ホ…保・倍・本
 これらの漢字音は韻鏡では重唇音や軽唇音に属するので、p音系統やF音系統の中国音で日本語のハ行子音を表わしていたことになるのであるが、奈良時代のハ行音がパピプペポであったかファフィフゥフェフォであったかはっきりしないのである。”

滅茶苦茶重要じゃん! グーグル検索で上位に出るのが「ニッポン」読みとか「上代日本語のハ行はパピプペポ」に偏っているから検索操作しているよな。学者の間では見解が分かれている。そうだよな、あくまで中国語からの推定だもんな。

pからfへの発音の変化説を唱えて広めた人は上田万年(かずとし)。
現代の国語を作るのに関わっているから魔法使いだな。
國學院大學学長で神宮皇學館館長だから(大)ニッポン(帝国)側だな。
自説もポン読みに都合が良い。これは警戒が必要だ。


上田万年とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E4%B8%87%E5%B9%B4-33879

上田万年
うえだかずとし
(1867―1937)

国語学者。現代の国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著『大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。

[古田東朔 2018年10月19日]

『「上田万年博士追悼録」(『国語と国文学』1937年12月号所収・至文堂)』▽『新村出筆録、古田東朔校訂「上田万年 国語学史」(『シリーズ名講義ノート』所収・1984・教育出版)』
[参照項目] | 円地文子 | 大日本国語辞典 | 松井簡治

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
〔中略〕
上田万年
うえだかずとし
[生]慶応3(1867).1.7. 江戸
[没]1937.10.26. 東京
国語学者。 1888年東京大学卒業。 B.チェンバレンにつき国語学を学び,1894~1927年東京大学教授。 1890年ドイツに留学して西欧言語学を修め,帰国後その方法を適用して日本語の歴史的研究の端緒を開いた。日本語のハ行音が,p→f→hの変遷を遂げたことを説くp音考は学界に大きな影響を与えた。 1900年文学博士。 1902年国語調査委員会主査委員。著書『国語のため』 (I部,1895,II部,1903) ,『大日本国語辞典』 (1915~28,松井簡治と共著) ,『古本節用集の研究』 (1916,橋本進吉と共著) ,『近松語彙』 (1930,樋口慶千代と共著) など。明治,大正期の国語学発展に果した功績は大きい。娘に円地文子がいる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
〔中略〕

上田万年【うえだかずとし】
国語学者。江戸生まれ。東大卒でチェンバレンに言語学の手ほどきをうけた。卒業後,1890年―1894年ドイツに留学,西欧言語学を学び,東大に国語研究室を創設し,国語学研究の基礎をつくった。他方ヨーロッパの綴字法の変遷を見て表音式の仮名遣いを用いるべきであるなど進歩的国語政策を主張した。主著《国語のため》《国語学の十講》等。円地文子は娘。
→関連項目国語|新村出|大日本国語辞典|帝国文学|橋本進吉

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて
〔中略〕
上田万年 うえだ-かずとし
1867-1937 明治-昭和時代前期の国語学者。
慶応3年1月7日生まれ。円地文子の父。チェンバレンにまなび,ドイツなどに留学。明治27年から昭和2年まで母校東京帝大の教授をつとめ,近代国語学の基礎をきずく。この間同大文科大学長,国語調査委員会主査委員,神宮皇学館長。のち国学院大学長。昭和12年10月26日死去。71歳。江戸出身。著作に「国語のため」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて
〔中略〕

国語学者。江戸生まれ。東京帝大卒。東京帝国大学教授、神宮皇学館長を歴任。西欧の言語学研究方法を紹介し国語音韻の研究に貢献。また、臨時国語調査会などの委員として漢字制限、字音かなづかいの改訂などに尽力。著作「国語のため」、松井簡治と共編の「大日本国語辞典」など。慶応三~昭和一二年(一八六七‐一九三七)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
” (着色は引用者)


上田萬年 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E8%90%AC%E5%B9%B4

シリーズⅡ 「国語力を考える(その3)」
https://www.shogak.ac.jp/tayori/3178
” 2016年11月29日
国語成立に向けて -三遊亭円朝と二葉亭四迷、上田万年と言語学、夏目漱石-
〔中略〕
上田万年も落語が大好きだったという。

 抜群の人気を誇った円朝の落語、とりわけ円朝と分かち難く結びつく「牡丹灯籠」という高座噺が、明治十七(1884)年に『怪談牡丹灯籠』というタイトルで出版されている。そして、その出版を可能にしたのは速記であった。

 わが国の速記は、「明治五(1872)年頃に、田鎖綱紀という人物が独力で発明し、アメリカのグラハム式というものを日本語に応用したもの」とされている。『怪談牡丹灯籠』は、田鎖に速記を学んだ若林玵蔵によって筆記された。速記において、この若林玵蔵なる人物は重要な役割を果たしている。若林は仲間や弟子と募って、僧侶の説教や演説会の演説を速記し腕を伸ばしていったようである。やがて、文部大臣や東京帝国大学総長をつとめた外山正一など有力者の仲立ちもあり、議会の記録に速記が採用されることになった。前述の貴族院(衆議院)規則制定と同時に採用された速記者三十四名は全員若林の弟子だったという。

 このように、円朝は速記をとおして議会の議事録に影響を与えたが、一方で小説にも影響を与えている。
 言文一致と言えば二葉亭四迷。実は、言文一致体小説の嚆矢とされる『浮雲』誕生にも円朝が関わっているのである。
語学が得意な四迷は、「外国語で書かれた文章には「口語と文語」の区別がない。ならば、日本語でも」と考えたがどう書いてよいか分からない。そこで、坪内逍遥に相談に出かけている。そのときの話を四迷は「余が言文一致の由来」という文章の中で書いている。


 もう何年ばかりになるか知らん。余程前のことだ。何か一つ書いてみたいとは思ったが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで坪内先生の許へ行って、何うしたらよかろうかと話して見ると、君は円朝の落語を知っていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかという。
(山口謡司『日本語を作った男 上田万年とその時代』)

〔中略〕
四迷は、その忠告に従い完成した作品を持参すると、逍遥から「これでいい。生じっか直したりなんぞせぬ方がいい」という評価を貰うことになる。『浮雲』誕生である。
〔中略〕
日常使用されていた日本語が「国語」になるためには、表記や表現、文体について検討が加えられ、ある種の標準形をつくることが必要であり、そして、それは決して容易いことではなかった。すなわち、「国語」を確立するためには、日本語を学問の対象として研究し、諸外国の研究成果を活用しながら、分析し整理をしていく作業が必要であった。そして、その中心にいたのが前号でもふれた上田万年なのである。
〔中略〕
ここで、上田万年、特に彼の「言語学」研究について話をしておきたい。 
 万年は、東京帝国大学に入学し、「博く言語について学問する」から来ているとされる「博言学」すなわち「言語学」を学ぶことになる。

 万年の「博言学(言語学)」の先生は、バジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)。
 イギリスに生まれ、母の死でフランスの伯母の家で育ち、ドイツ人の家庭教師に学び、またスペインでも生活しという生い立ち、加えて優れた語学の才能もあり、ラテン語、ギリシア語を含め十一ヶ国語をマスターしていたという人物である。万年は彼の下で研鑽を積むことになるが、「『比較言語学』という学問を我が国に植え、世界の言語とともに『日本語』を研究の対象としていた」偉大な師との出会いは、万年にとってこの上ない幸運であったと言うべきであろう。

 チェンバレンは、万年が東大に入学する二年前の明治十六(1883)年、父の死でイギリスに一旦帰国したものの再び戻った日本で、『古事記』の英訳を出版している。その意義について山口は、「チェンバレンの金字塔」と評した上で、以下のように述べている。
 今なお『古事記』の英訳として海外でも高い評価を受けるこの業績は、本居宣長による『古事記伝』を利用して総論を加え、文献に見える日本の古代史を地図も添えて明らかにしたものであった。
〔中略〕
 また、チェンバレンは、明治二十年に、前年ロンドンで出版した『A Simprified Grammar of the Japanese Language』を日本語訳した『日本語小文典』という文法書を刊行している。
 さらに、『古事記』や『日本書紀』に見られる古代日本語の語彙と朝鮮語、琉球語などの比較研究をとおし、日本語が言語歴史学的にどこまで遡れるかを明らかにした『日本語の最古の語彙について』という学術的に貴重な論文を発表している。この論文は、万年も助手として加わったこともあり、チェンバレンとの共著として発表されている。共著として発表されたことは、万年にとって誠に名誉なことであったと思われる。

 この間、学生には、ヨーロッパの最新の言語学に関する多くの研究者の成果物を、作品名を挙げながら読むよう進めている。

 優れた研究者であり、また知の伝達者でもあるチェンバレンから、万年は、日本語を科学的に分析することを学んでいった。優れた研究者とはいえ、外国人から日本語を学ぶことは、学生にとって、戸惑いや反発心もあったようである。万年自身も、最初は、チェンバレンが日本文法を講義することを「非常に奇異」に感じ、また、西洋人から日本文法の講義を聞くことを「国辱」とさえ感じている。

 しかしながら、講義を受けるにつれて、広い視野で、根拠を踏まえながら、丁寧に指導する師に傾倒し、「これはどうしても、この学風が日本にも起こらねばならぬという事をつくづく感じる」ようになっていくのである。

 東京帝国大学を卒業し大学院に進んだ万年に、明治二十三(1890)年、「言語学」研究のためのドイツ留学の命が下った。留学に際し、万年の関心事は、「大日本帝国の国語の創設」、「博言学的な日本語研究の推進」にあったようである。

 万年はベルリン大学に留学し、当時最高の言語学の担い手とされたゲオルク・フォン・デァ・ガーベレンツの指導を受けることになった。ドイツ語圏で初めての東洋言語学の教授となったガーベレンツは、「一般言語学」で名高いソシュールに先立って、ソシュールの「ラング」と「パロル」という概念を指摘していた人物とされ、また日本語についても深い造詣の持ち主であった。

 万年が、ガーベレンツという当代随一の研究者の指導を受けることができたことは、万年にとっても、さらに言えば日本にとっても幸運なことであった。山口の本には万年の学びの内容が詳細に描かれているが、ここでは省くこととしたい。いずれにしても多くの成果を得、並行して、新しい「日本語」をつくるための決意と意欲をもって、万年は帰国の途につくのである。

 帰国後最初に行った講演「国語と国家と」において、万年は、「日本語の科学的な研究はまだ今はじまったばかりである。しかし、今後、日本語という母国語が、どのようなものなのかを研究し、きちんとした日本語の教育を行っていく必要がある」と述べ、さらに、わが国の公式文書が漢文で綴られ、また文学者も漢文の影響なしに文章を書く人がほとんどいない中、それをそのまま踏襲するのではなく、「今こそ、国語の重要性を再認識する必要がある」と主張している。

 万年がガーベレンツに学んだこと、及び、その学びの「国語」確立への影響に関し、「グリムの法則」にのみふれておきたい。

 グリム童話で知られるグリム兄弟は言語学の専門家でもあり、特に兄のヤーコプは「グリムの法則」と呼ばれる「音韻推移」についての世界的に見ても極めて重要な研究を成し遂げている。音韻推移すなわち異なる言語間における単語を比較することによって音韻変化の法則を導き出す「グリムの法則」に関し、山口の説明からひとつだけ例を引いておく。
〔中略〕
 数字の「2」はサンスクリット語、古代ギリシア語、ラテン語ではそれぞれdvi 、duo、 duo、であるが、ドイツ語、英語、オランダ語のゲルマン語では、 zwei、 two、 tweeとなる。ドイツ語の「z」は「t」の発音であることから、ゲルマン祖語twaiが導き出され、そのことは即ち印欧祖語の有声閉鎖音「d」は「t」になるというものである。因みに、有声閉鎖音では他に、「b」が「p」に、「g」が「k」なり、そうした音韻変化は、無声閉鎖音や帯気音にもみられるとされている。もちろん、これだけでは分かりにくいと思われるので、興味のある方は、山口の本をぜひお読みいただきたい。

 最新の言語学である「グリムの法則」を学んだ万年は、明治三十一年、「p音考」という画期的な論文を発表した。万年は古代日本語、サンスクリット語、アイヌ語、沖縄薩摩地方の言葉等を比較研究し、「上古の日本語では「はひふへほ」が「パ・ピ・プ・ペ・ポ」と発音されていて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」となり、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」に変化した」という結論を導き出している。この万年の結論は、今日正しい学説とされ、同時に「グリムの法則」に従って、万国語に共通に表れる現象を示した重要な研究とされている。

 この論文は一例であるが、「国語」が確立されるためには、高度な学問に依拠した実に地道な研究が必要だったということは、ぜひ述べておきたい点である。
〔中略〕
 「p音考」発表の三年前の明治二十八年、万年は『国語のため』という本を出版した。扉を開けると、「国語は帝室の藩屏なり、国語は国民の慈母なり」という万年の言葉が記されているという。「藩屏」、垣であり、防壁であり、守り手である。「帝室の藩屏にして、国民の慈母」、万年の「国語」に懸ける思いが伝わってくる言葉ではないだろうか。この本には、上述の「国語と国家と」、さらに「国語研究に就きて」、「欧州諸国に於ける綴字改良論」、「今後の国語学」等、十四本の論文が収められている。論文のタイトルからも、彼の研鑽、あるいは「国語」への関心が伝わってくる感がある。

 この頃、万年は、フランスのアカデミー・フランセーズのような機関が日本にも必要と考えていたようである。国家が「国語」に関わる機関である。

 その構想が具体化し、明治三十一(1898)年、万年は「国字改良会」を発足させる。国字改良会には、加藤弘之、井上哲次郎、嘉納治五郎などが発起人として名を連ねている。国字改良会の意向も踏まえ、「字音かなづかいを発音主義で統一する」という案が打ち出されるが、「発音主義」とは言文一致の考えにつながるものであった。
〔中略〕
 この時期、万年を支え、その後も「国語」確立に向け協力していくのが一番弟子の芳賀矢一であった。万年が教授、芳賀が助教授として帝国大学につくられた「国語研究室」は、日本語研究を行う重要な拠点となっていく。

 明治三十三(1900)年には万年を会長として、「言文一致会」が作られた。芳賀矢一、さらには万年の弟子で「広辞苑」で知られる新村出なども名を連ねる会である。言文一致への動きがこうして少しずつではあるが確実に進展し始めていく。 

 万年の協力者である芳賀矢一は、明治三十三年に「ドイツ・フィロロギー」研究の命を受けドイツに留学する。学んだのは師万年と同じベルリン大学であった。「フィロロギー」は今日の「文献学」とされるが、「文献学」という語は後に芳賀矢一が訳したものだという。万年の「言語学」研究同様、芳賀の「文献学」研究もまた「国語」確立に貢献することになる。  

 なお、余談になるが、芳賀は漱石と同じ船で渡欧し、やがてロンドンにいる漱石を訪ね、漱石が神経症になっていることを文部省に知らせた人物でもある。  

 明治三十九(1906)年、芳賀は「漢文の覊絆を脱せよ」という論文を書いている。冒頭、「将来の文体はどうしても、言文一致で無ければならぬとおもう」と述べ、論文の最後では、「漢文の覊絆をふりすてて、文体の上でも、国民特得の文体を作り出す覚悟が無くてはならぬ。それは日々進歩してゆく国民の口語から出て来ねばならぬ」と結んでいる。

 同じ年に、万年は「言文一致は果して冗長か」という論文を著した。最初に、「将来の文体は必ず言文一致になるであろう。否な、ならねばならぬ」と述べたこの論文中の万年による以下の主張は誠に興味深いものがある。
 其処で自分は斯う思う、言文一致は将来実用的の側で専ら中流以下の人が普通用いる様になるであろう。そして、今の和漢文体は当分の中は中流以上の人が用いて一面楽しむと云う状態になるであろう。然しそれが又一段進むと言文一致が全く国民的のもの社会一般が用いる所の文体となって、和漢文体は遂に専門家の手に渡さるるようになるであろうと。自分は主義の上から言文一致を主張するものであるが、さればと云って今までの和漢文の研究を放棄せよと云うのではない。この和漢文の研究は将来益々其の専門家の手に依て研究されなければならん、そうでなければ日本文学の研究は到底出来ないのである。


 芳賀の主張と万年の主張は軌を一にしているが、とりわけ、万年の文章からは、新しい「日本語」の誕生、「国語」の成立を予感させるに十分なものを窺うことができる。それは、前号でふれた水村美苗の『「現地語」が「国語」へという高みに上っていく』ことに通じる主張と思えるからである。

 山口が、「明治三十九(1906)年は、言文一致の軸が大きく動いた年であった」と表現しているのは、正鵠を射ていると言うべきであろう。

 ほぼ時を同じくして、夏目漱石が明治三十八(1905)年「ホトトギス」一月号に『我輩は猫である』を発表した。そして翌明治三十九年には、その一節が早くも教科書に登場している。これ以降、漱石の作品は多くの教科書に採用され、日本語に大きな影響を与えていくことになる。

 山口は、「漱石の文章が教科書に採用されるに当たっては、万年や芳賀矢一などの教科書調査委員会の力もあったからである」
とした上で、以下のようにまとめている。

 漱石の文体は、ほとんど、万年が望む言文一致体であった。当時より現代まで、漱石の文体は古びることなく、人々の心を摑んでいるのである。
” (着色は引用者)


「上田万年」を私はこれで知ったー大野晋の解説⑴
https://ameblo.jp/muridai80/entry-12172328933.html
”上田万年について、書かれた書評などを読んで、多少印象が異なると感じたところがありました。なにしろ、『日本語を作った男ー上田万年とその時代』という本のひどい誤りにともすれば目が行き、「上田万年」について触れることがほとんどなかったのですから。

 そこで、私の読んだ短い文で、記憶に残っている一文章を紹介します。幸い、『日本語を作った男』の「参考文献」にも紹介されていないので、あるいは、筆者山口謠司さんもご存じないかも、いやいやこんな大切な文献をお読みでないはずはないと、皮肉な感想も加えて、引用させてもらいます。

 上田万年は一八六七(慶応三)年江戸大久保の、尾張藩の下屋敷に生れ、一八八八〔明治二一)年帝国大学和文学科を卒業。在学中チェンバレンに師事している。一八九〇年外山正一らの推挙によってドイツに留学し、言語学を学んだ。足掛け五年の留学を終えて、一八九四(明治二七〕年帰朝。二七歳にして帝国大学教授に任ぜられ、博言学の講座を担当した。
 上田万年は、ドイツでガベレンツなどの言語学者に学び、比較言語学・歴史文法など、当時の最新の知識を吸収した。そして、帰国後はヘルマン・パウルの『言語史原理』などを講じ、江戸時代の国語学史についての新しい視覚からする研究を進め、新井白石の功績、富士谷成章の研究の価値などを明らかにした。また、『P音考』は、ハ・ヒ・フ・ヘ・ホの頭子音が上古においてP音であったことを証した論考として有名である。(しかし、このことに関してはすでに見たようにホフマンがかなり詳しくその『日本文典』に記しており、上田が加えたのは沖縄の国頭・八重山・宮吉の諸島にはfがpで発音されているという点である。)
 上田万年は自分自身の研究をあまり残していない。(もっとも、弟子の保科孝一の『国語学小史』(一八九九)は、ほとんど上田万年の講義によっているといわれている。)ともあれ上田は文部省専門学務局長・東京帝国大学文科大学長・神宮皇学館長などを歴任し、文部省や国語学会に支配的な力をふるったのみならず、早くから文科大学の中に「国語研究室」を創設して国語研究の場を作り、さらに後に文部省内に国語調査委員会を設けて、いわゆる国語国字問題のために大きな働きをした。

 以上、岩波講座『日本語』1【日本語と国語学」257頁「上田万年」大野晋より引用しました。

 ここまで、「P音考」のことについて、多少の違いがあっても、全体として、上田万年の略歴として問題がないわけですが、引用の正確さを示すために敢えて引いておきました。


日本文典 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%85%B8
”ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン著 "Japansche Spraakleer"/"A Japanese Grammar"(1868年ライデン刊)。”

ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3



「上田万年」を私はこれで知ったー大野晋の解説⑵
https://ameblo.jp/muridai80/entry-12172663195.html
”昨日の続きです。

 上田万年が留学したのは、独仏戦争の大勝の後の興隆期にあるドイツであり、そこではドイツ語の綴字改良運動がはなばなしく進行していた。ドイツ語の綴字法は発音に比較的近かったのであるがそれでもドイツ国内の各地でさまざまな綴字の仕方があった。独仏戦争に勝って旧ドイツ各国はプロイセンのヴィルヘルム一世による統一ドイツへと進み、その新興の気運は一方でドイツ語の綴字統一運動を盛りたてていた。一八七六年以来、言語学者フォン・ラウマーを主宰者とする委員会は新綴字法を作成し、ドイツ政府は官吏に必ず新綴字法を学ばせ、兵士にも公文書には必ず新綴字法を用いるべく命じていた。このドイツの統一国家への活力に満ちた進行は、明治維新によって新しく開国した日本の歩みに酷似するところがあった。そのドイツ統一と共に進む綴字改良の運動を見た青年上田万年はおそらく故郷日本国の言語と文字の改良に熱い思いをはせ、その推進を「自己の課題」と信じたに相違ない。
 すでに一八六六(慶応二)年、前島密は「漢字御廃止之議」を建白していた。一八七二(明治五)年南部義筹は「文字を改換するの議」を文部省に建白し、ローマ字の採用を提案していた。一八八三(明治一六)年には「かなのくわい」が成立し、翌々年には「羅馬(ローマ)学会」が活動を始めていた。また、一八八七(明治二〇)年にはいわゆる言文一致体による文学が、二葉亭、美妙等によって発表されていた。漢字の使用が教育上の障害であり、漢字使用を廃止しなければ日本はヨーロッパに追付くことはできないとする考えは広まっていた。そうした動きには多少の消長があったが、ドイツの言語改良運動を実見した上田万年にとって、漢字廃止、標音文字の採用、仮名遣の改訂、言文一致体の仕様、標準語の確立などという事業の遂行はそのまま愛国的行動であり、日本語を尊重することであった。
 帝国大学教授として加藤弘之、外山正一らの文部省や大学の実力者に親近であった上田万年は、一九〇〇年文部省内に国語調査委員を置き、さらに一九〇二年には正式に国語調査委員会を発足させる運びにこぎつけた。その会長となった東京大学総長加藤弘之は次のような文章を発表している。(国語教育研究会編『国語国字教育史料総覧』一九六九年による)

 国語調査委員会は成立以来九回会合した。(中略)根本問題の如何に決着するに拘らず、兎角の断案を下さねばならぬので、この応急部分に対しても亦相談をして調査事項の種類と範囲とを定めた。即ち其の大方針といふのは、
  一、文字は音韻文字「フオノグラム」を採用することとし、仮名羅馬字の得失を調査すること。
  二、文章は言文一致体を採用することとし、之に関する調査を爲すこと。
  三、国語の音韻組織を調査すること。
  四、方言を調査して標準語を選定すること。
といふ四件になるので、一寸見れば簡単なる事柄の様であるが、これだけの事を定めるのでも、容易なことではない。何故にかく定めたかといふ理由を説明すれば、随分詳細に立ち入つた議論をせねばならぬのである。さて以上四件の中で確定して居る事項は、音韻文字を採用することと、文章は言文一致体を採用することとの二件で、この決定は将来動かさぬのである。即ちこの方針によれば音韻文字を採用するのであるから、無論象形文字たる漢字は使用せぬことに定めたのである。然し、均しく音韻文字と謂つても色々あるが、如何なる音韻文字を採用するかは、未だ決定しない。ただ仮名と羅馬字との長短を比較し、其の得失を調査するといふ方針だけを定めた。
文章は言文一致体を採用するから従来のごとき日常の言語と懸け離れて居る文体は排斥するのである。調査委員会は将来以上の大方針に準拠して慎重な調査を遂げる筈であるが、これが決着するのは、なかなか容易なことではあるまい。
 次に普通教育に於ける応急の手段として、調査を急ぐ事項は、左の件々である。
 一、漢字の節減に就て
 二、現今普通文体の整理に就て
 三、書簡其の他日常慣用する文体に就て
 四、国語仮名遣に就て
 五、字音仮名遣に就て
 六、外国語の写し方に就て
就中最も急を要するもので、議論の多いのは仮名遣の問題である。(下略)

 ここにいわゆる国語国字問題が民間人の文化的運動から転じて、国家の行政の問題として議せられる道が作り出されたわけである。国語国字問題の動きを歴史的に見ると、純粋な文筆家、言語関係者の努力や活動によって多くの国民の合意や納得の上で進展するよりも、官僚の力を借りて自己の意見を押し通そうとする傾きがあるが、その根源は明治時代のこの国語調査委員会の動きにある。

 太字は私(稿者)が施したものです。


【上田万年」を私はこれで知ったー大野晋の解説⑶
https://ameblo.jp/muridai80/entry-12173025035.html

「上田万年」を私はこれで知ったー大野晋の解説⑷
https://ameblo.jp/muridai80/entry-12173333410.html


「P音考」の古代
http://www.ctk.ne.jp/~yamamoto/hida_dialect/history/kodai/pi_onkou2.html
”「P音考」というのは、・・・古代日本語には「はひふへほ」は存在せず、実は「パピプペポ」だった・・・という有名な学説ですが(上田万年(かずとし)。1898年(明治31)「語学創見」「帝国文学」に発表)、★ピカッとひかるから「ぴかる」という古代の日本語動詞が存在したらしい事や、★パタパタとはためく旗は古代にも当然ながら存在し「パタ」と言われていたのであろう、★古代では「はは(母)」の事を実は「パパ」と言っていた、などがよく「P音考」で出される小ネタというか、私の鉄板ネタです。先ほどネット情報をあさってみましたが、例えば・・

P音考」公益財団法人沖縄県文化振興会八重山方言情報もあり、秀逸
日常言語に潜む音法則の世界・田中伸慎一・開拓社
上田万年 日本の「ことば・読み書き」指導の近代史(野村篤司・野村友子)素敵なご夫妻ですね
日本語教育講座4 日本語の歴史 千駄ヶ谷日本語教育研究所


伊波普猷(いは ふゆう)の『P音考』は以下で読める。

P音考」公益財団法人沖縄県文化振興会
https://r.binb.jp/epm/e1_16463_21102015173640/
”日本語に於けるこの音韻變化の有樣を見るに、上古のP音は七世紀(推古時代)以前に於いて次第にF音に移り、F音は十五六世紀(室町時代)に至り、H音に移るの傾向を現はし、十六七世紀(江戸時代の初)に至り、F音は大方H音にかはつてゐたとは、今日學者間の定論になつてゐる。
〔略〕
 さて以上述べたことで琉球語でもP音がF音となり、F音のH音となつたといふことがわかつたが、このF音が語腹になる場合には、更にw音(ワ行)となり、そのwも遂に落ちることがあるといふことを知らねばならぬ。
〔略〕
 これらの事實を合せて考へると、日本語に於ける波行の古音の唇音であつたことは最早疑ふ餘地が無い。唯その唇音の如何なる種類であつたかは硏究すべき問題であるが、これに就いて參考となるべきは、琉球群島に於て今でも各時代を代表すべき唇音のあることである。兎に角最古の音はPであつて、次にFとなり、最後に今日のHに變つたと見るのが妥當であらう。 (明治四十年八月稿)”

伊波普猷(いは ふゆう)『P音考』明治四十年(1907年)発表。
上田万年『p音考』は1898年(明治31年)に発表だからその影響下だろうな。

”日本語に於けるこの音韻變化の有樣を見るに、上古のP音は七世紀(推古時代)以前に於いて次第にF音に移り、F音は十五六世紀(室町時代)に至り、H音に移るの傾向を現はし、十六七世紀(江戸時代の初)に至り、F音は大方H音にかはつてゐたとは、今日學者間の定論になつてゐる。”
の内、
”上古のP音は七世紀(推古時代)以前に於いて次第にF音に移り”が極めて重要。

「pからfへの変化」といっても全部一気に変わるわけではないからな。

推古天皇(西暦554年生まれ)の在位期間は593~628年。飛鳥時代だ。
国号が決まったとされる天武・持統期(飛鳥時代の西暦673-697年)。
少なくとも七世紀(推古時代)より前からF音に移るのが開始。
推古~天武・持統期で45~69年の開きがある。
だいたいF音の移行開始から100年ほど経過しているのだろう。
つまり、国号が決まった頃には既にどの程度かわからないがF音が混ざっている。
つまり、国号が決まった頃はP音とF音と「P+F÷2(みたいな音)」の混合だろう。
撥音も促音も拗音も日本語の音韻として現れるのは平安時代以降なので国号が決まったとされる天武・持統期(飛鳥時代の西暦673-697年)にニッポン読みは実在しない。

飛鳥時代(推古天皇が即位した593年~710年平城京遷都まで)より後の奈良時代(710~784年)においてはp音はもっと減っていないとおかしい。
「日本」の国号制定が奈良時代の初頭または直前(飛鳥時代の晩期)にあたるのだから「ニッポン」読みはありえないのは勿論のこと、ニポン読みも減っていっているだろうな。ニポン、ニフォン(ニホンはまだ登場しない)。一番可能性が高いのは「ニ【ポかフォか曖昧な音】ン」だろうな。

『日本語教育講座4 日本語の歴史』(千駄ヶ谷日本語教育研究所 著)より

 上田万年は多数の門下生を輩出しただけでなく、上に述べた国語調査委員会を組織し、国語国字問題にも大きな役割を果たしました。国語国字問題で著名な保科孝一(ほしなこういち)もその一人です。彼自身の研究としては、以前のホフマンの研究を受けて日本語のハ行音が[p]に遡り、その後両唇摩擦音を経て現在の声門摩擦音へと変化したことを論証した「P音考」(『国語のため』所収)が有名です。
 また、彼の門下生には他に小倉、金田一と同級の橋本進吉がおり、橋本には、多方面にわたる研究がありますが、この項で取り上げるべきものとして、上代特殊仮名遣いの再発見とその音価の推定、キリシタン資料を用いて室町末期の音韻体系を再構した博士論文『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』(1928)があります。


「P音考」(『国語のため』所収)。やっとどの著書にあるかわかったぞ。

東洋文庫に『国語のため』(上田 万年【著】/安田 敏朗【校注】)がある↓
平凡社(2011/04発売)だ。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582808087

内容説明

日清・日露戦争へと日本が帝国列強に比肩せんとする時代に、西洋の言語学に範をとりながら、国語と国語学の確立を唱えた上田万年の講演論文集『国語のため』と『国語のため 二』を併せて収録。
目次

国語のため(国語と国家と;国語研究に就て;標準語に就きて;教育上国語学者の抛棄し居る一大要点;言語学者としての新井白石 ほか)
国語のため第二(内地雑居後に於ける語学問題;促音考;仮字名称考;形容詞考;P音考 ほか)
著者等紹介

安田敏朗[ヤスダトシアキ]
1968年神奈川県生まれ。東京大学文学部国語学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程学位取得修了。現在、一橋大学大学院言語社会研究科教員。専攻は、近代日本言語史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。



日常言語に潜む音法則の世界・田中伸慎一・開拓社
https://books.google.co.jp/books?id=3ZdnDwAAQBAJ&pg=RA1-PA7&lpg=RA1-PA7&dq=p%E9%9F%B3%E8%80%83&source=bl&ots=6URPdQhXMq&sig=ACfU3U28ZNxBojcmOY38G0VmJCF-A56-Gw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjn5oWj1O_oAhXLfXAKHaNxBwo4ChDoATAFegQIChAB#v=onepage&q=p%E9%9F%B3%E8%80%83&f=false
によると

柳田国男の『蝸牛考』で有名な「辺境に古い形が残る」あるいは "Synchrony meets Diachrony." という原則を紹介したが, それがここにも当てはまっている。

そしてここから歴史を反映した方言からの根拠についての記述が続く。
奄美大島佐仁(さに)方言
pari「針」 poki「箒」

静岡有東木(うとうぎ)方言
pekomu「へこむ」
pokasu「放かす」

アイヌ語(p/hの区別あり)への借入
pakari「量り」 pera「へら」
pone「骨」

などが紹介されている。
"Synchrony meets Diachrony." の意味は後の記述にある
”共時文法には通時変化が反映されている”(かそれに近い意味)だろう。

共時的手法:その歴史を考慮せずに、ある瞬間の言語(特定の時点)を考慮。
通時的手法:歴史を通して言語の発達と変化を考慮。
つまり、”共時文法には通時変化が反映されている”とは
「ある時点の発音は、それより前にできた発音の変化で生まれた」という主旨の意味なのだろう。


「辺境に古い形が残る」はもろに沖縄あたりの言葉だな。そりゃあ発音の変化が遅いからな。

沖縄学の父である伊波普猷はエスペラント推進者かつ、教会で聖書の講義を行なっているから完全に支配層側だな。

伊波普猷 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B3%A2%E6%99%AE%E7%8C%B7
”伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者。沖縄学の父と言われている。
〔略〕
帰郷し、沖縄県立図書館の館長を務める傍ら、沖縄研究資料の収集に尽力した。歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。弟伊波月城[3]は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化のために活動した。

学問の領域は、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したゆえ、「沖縄学の父」とも称された。

『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している[4]。

また、伊波の思想の欠点は、近代日本がうみだした沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった、という評もある[5]。

民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。友人の東恩納寛惇は伊波について、浦添城跡の顕彰碑に「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻んだ。
〔略〕
1917年 2月2日よりエスペラント講習会を指導[6]。
1918年 教会で聖書の講義を担当。
1921年 沖縄県立図書館長に正式に任命される。
1924年 図書館長を辞任し再び上京。
1935年 國學院大學でおもろの講義を担当。
1945年 初代沖縄人連盟の会長に就任。
1947年8月13日 沖縄の将来を憂いつつ、仮寓の比嘉春潮宅にて死去。享年71。
[……]
最終更新 2021年12月29日 (水) 03:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” (着色は引用者)


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