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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など 

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詳しくは以下をどうぞ。

読めニク屋(新五つ子ショップ)とお知らせ⑭。ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)の内容紹介
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【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-463.html

【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-367.html

【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html

【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html

【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html

【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html

(上記の列挙にて、本記事のリンクもあるけど別にいいや)




[
注意点を先に記す。
今の私と意見が異なる箇所あり。例えば、「両建」という単語を安易に使っていることだ。
当時の私の考えを残すため、あえて変えていない箇所がある。PONってのは「ニッポン」読みのこと。
なぜニッポン読みに固執するのかについて書き始めたのだが、途中から日ユ同祖論のおかしさを指摘する話に変わっている。
なぜニッポン読みに固執するのかについて書いていないなあと思って何度か読んだら、
「日本の国号が「大日本国」、すなわち大日(大日如来)の本国という仏教的な解釈があり、これは『ホン』読み。仏教嫌いの勢力はこれを嫌って『ポン』読みなのだろう」ということが言いたいのだと思う。昔の自分がどう考えていたのか詳細までは覚えていない。
「なんか同ソロンの話になっているので文脈ずれるから」って書いていたから、なぜPONに固執するのかからズレていったことは自覚していたようだ。
では開始。

]


目次
「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点
参考資料

※重要論文である「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」と「国号「日本」の読み方について」は記事内検索で飛ぶとすぐに読めます。




「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点

予言というか予告しておくわ。これから「ポン」と読め運動が強まる。大日本帝国時代の再来。

なぜPONに固執するのかについて少し書いておく。
『「神道」の虚像と実像 』(井上 寛司。講談社現代新書)によると

世界が
天竺(インド)
震旦(中国)
本朝(日本) の三つからなるとする
三国世界観は
最澄によって初めて唱えられたとされ
顕密仏教の発展にともなってしだいに定着していった。
平安末期の12世紀前半に成立した説話集『今昔物語集』が
天竺・震旦・本朝の三篇で構成されているのはその一例といえる。

(ほんちょう ホン)

中世
記紀の神統譜の中世的再編成
11世紀末から12世紀ころに

天神七代
(クニノトコタチからイザナギ・イザナミまで)

地神五代
(アマテラスからウガヤフキアエズまで)

人王
(神武以下の歴代天皇)

という形に大きく再編成された。

かつて古代には天神のひとつとされたアマテラスが
地神の初代とされ、
日本の「国主」とも称されることとなった。

こうした変化が生じた背景に、
次のような三つの認識の変化があった。

A
アマテラスは釈迦が誕生する以前に存在したとして、
日本列島の歴史が
インドや仏教徒の関係において捉えられている。

B
日本の国号が「大日本国」、
すなわち大日(大日如来)の本国

読みかえられ、
これまた仏教との関係で捉えられている。

これは明らかに「ニホン」読みになる。

国号
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B7#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%8F%B7
"中世日本では、大日本国を「大日如来の本国」の意と解釈しており、
『釈日本紀』巻第五にもこの説が記述されている
(遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.189)。")

C
アマテラスが大日如来、
あるいは阿弥陀如来の化身とされ
本地垂迹説にもとづいて理解されている。

(真言宗と太陽神要素)

中世の神社は古代と異なり
本地垂迹説の本地仏を祭る神宮寺がすべての神社境内や
その周辺部に設けられたほか
経蔵や三重塔など種々の仏教施設が神社境内に建設され、
また神宮寺僧を始めとする多数の僧侶が「社僧」として
神社の祭礼と運営の重要な一翼を担い、
祭礼構造もまたそれにともなって神事と仏事とを組み合わせおこなうものへと変化した。

(本地垂迹説を採用したらほぼ寺。
このように仏教にずっと支配されてきたことに我慢ならないのがアンチ仏教である神道勢力。
神道勢力には鬼崇拝(大本教と金光教など)と、アンチ鬼(桃太郎を教科書に採用した国家神道など)勢力がある。
鬼を崇拝しようがしまいがアンチ仏教なのは共通。真言(立川)仏教と日蓮系は例外的に優遇。
寺子屋はあるが神社小屋はないことなどを無視する勢力と
本(PON)教勢力は同じ勢力。

本(PON)教勢力のうち鬼崇拝をする方で最重要なのが大本教。大きなPON教。
大本(おおもと)は昔は大本教(たいほんきょう)と名乗っていた。
教団最初の機関誌が『本教講習』。
出口王仁三郎の自伝の名前が『本教創世記』。
和風クリスチャンである平田篤胤の『本教外篇』を元にした名前だろう。
本教=和風キリスト教。
「教」を取り和風キリスト教に見え辛くしたのが
大本という団体名だという@mkmoguraさんの言う通り。
「教」をつけず大本と書けと五月蠅い者は
「たいほんきょう」を知っている程に大本に詳しい可能性。
普通の意味の大本と混同されるから大本教と書いていると気づけない。
教団用語を広く使われていると錯覚するのは信者の特徴の一つ。
失言で正体がばれるw

大本教は
1933 年 (昭和 8 年)に再び「皇道大本」に改称するなど天皇崇拝自体は否定していないし、
名前がそのままな本教だからPON側だろう。

大本教の機関誌の 1 つの名前が『敷島新報』
明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の姪である鶴殿ちか子が大本に入信。
宮中顧問官だった山田春三も入信。
一応、大本教弾圧でわかるように権力闘争はしているが、
一般人にとって搾取されるのは同じ。
両建。




ここまででイエズス会と大本教が登場した。
イエズス会が起源の日ユ同祖論は大本教の教義でもある。
少し書く。神道カルト=和風キリスト教だとよくわかるだろう。


(正確には起源・源流がイエズス会士ロドリゲスで、
体系化して日ユ同祖論を明言したのが宣教師マクラウド。
ロドリゲスは中ユ同祖論は明言しているが、日ユについては、
中国から日本に人が来ているよねと言っている程度。
まあ文脈からして日ユも構想していたのだろうから英語版ウィキではOrigins(複数の起源)と書いている。


現在(2020/8/20)日本語版ウィキを確認したが日本語版には相変わらずロドリゲスが登場しない。
日ユ同祖論を体系化したのはマクラウドとは書いてあるが、
マクラウドが宣教師だとは書いていない。
宣教師という表現は比喩表現の可能性はあるが聖書思想の布教目的があるのは明らか。
日本語版ウィキの日ユ同祖論記事は監視されているのだろう。
抜け落ちている個所がイエズス会と宣教目的のための理論という中核だからだ。

日ユ同祖論
最終更新 2020年8月22日 (土) 05:58
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
”起源
明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド)[2] は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での英語の著作The Epitome of The Ancient History of Japan(意味は『日本古代史の縮図』 長崎日の出書房、1878年(明治11年) Illustrations to the epitome of the ancient history of Japan[3] 京都)によって始まった。”

Nicholas McLeod
https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_McLeod
”According to Zvi Ben-Dor Benite, MacLeod had been a missionary who spent decades in Japan and Korea "searching for the true Israelites".”
DeepL翻訳では「ズヴィ・ベン・ドール・ベニテによると、マクラウドは日本と韓国で数十年をかけて「真のイスラエル人を探す」宣教師だったという。」

そりゃあ、宣教目的でないのに同祖論なんて作らんわなあ。

)


このウィキの記事をよく読むと、ジョアン・ロドリゲスの主眼は「中猶同祖論」にあったようである。
日本に中国の浙江省と朝鮮から移民が来たと著書に書いたと書かれているが、
それが「猶太の十部族」の末裔としたのかは分からない。だが、東亜向け「○猶同祖論」を初めて唱えた人物なのは確かだろう。



誤解させてすみません。中ユ同祖論と日ユ同祖論は17世紀のイエズス会士ロドリゲスが起源と書きましたが、
イエズス会士ロドリゲスが日ユ同祖論の源流なのか、彼自身が自分で詭弁を構築して同祖と言ったのか確かめるために、
『日本教会史』を読んで確かめたら、
中ユは明言、日ユは明言していません。とはいえ、日ユも考えていたんだろうなと推測できる文脈。
って、自力でたどり着いていますね桃太郎アイコン菊池さん。

同祖詐欺の最新版は↓
2015.07.26の
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと大日本皇道立教会と鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
”上巻
・本文(ロドリゲスの記述)
第三章 第一節 如何なる民族が日本の諸島に移り住んだか p.163
日本、シナ、コーリア(朝鮮)の歴史書からしても、日本の一部にはシナから移住し、また一部には日本に非常に近接している王国の高麗から移り住んだことが推断され、それは事実だからである。
また、日本に面している西の地方からも日本の一部に移住したというような憶測や物語もありうべきことでないとはいえない。
そこは今日のチェキアン(浙江)と呼ばれるシナの地方区〔省〕と、それに接続したフェキオン(福建)と呼ばれるところとである。
いっそうありうべきこととしては、チェキアンから最初の移住者が来たのであって、日本の国王たちはその系統を引いており、彼らが九州の島に住んだということ。

"…バビローニアの地で言語が混乱し、ノエー〔ノア〕の子孫がいろいろな地方に分かれて行き世界中に住みついた時(4)、その子孫のなかに同じ祖先をもつ九人の族長〔カベツサ〕がいて、それぞれがその下に一四〇の部族を従えていたが、それら部族のあるものが東方にやって来て、シナ王国に住みついたのである(5)。”ロドリゲス『日本教会史』下巻p.107-108

“(5)シナ人がオリエントの地からやって来たという考えは、ロドリーゲスの『日本大文典』の記述のなかにも見られる。「すなわちシナ人は十の民族からなり…サルマナサル王〔シャルマナサル五世〕が捕虜として連れて来てメディア人とアッシーリア人との間に置いたのだという。……〔この〕十の民族が東へ一年半進んで、アルサレトに定住したとはエズラ第四書の第十三章に述べてある通りであり、その地は多くの地図がシナの隣りに置いているからである。……これらの哲学者〔老子や孔子〕はこの十の民族からなるユダヤ人の系統に属することはありうることである。すなわち彼らがシナに来て、そこにいた民族と混血して自ら変質したが、彼らの持って来た文学や学術は、その周囲のいかなる民族も持たないものであって、その後も引続いて、その方面の支配力を持っていた(土井忠生訳『日本大文典』一九五五年、三省堂、八四三ページ参照)。ここに記述されていることは紀元前八世紀の出来事であって、もちろん「言語の混乱」以後のノアの子孫の移住とは区別されなければならないが、いずれにせよ、こうした中国民族および中国文化のバビロニア起源説というべきものは、ロドリーゲスがこの後一貫してとっている立場である。” ロドリゲス『日本教会史』下巻p.109-110

(中ユ同祖論はイエズス会士ロドリゲスが最初。
ロドリゲスは中国から日本に渡ってきた人がいると言っているので、日ユ同祖論については原案あるいは起源レベル。
「十の民族が東へ一年半進んで、アルサレトに定住したとはエズラ第四書の第十三章に述べてある通り」は日ユ同祖論にも利用できます。
東ならどこでも同祖論にできちゃうぞ。
イェルサレムから日本への方向は「東北」であって東ではありません!
正距方位図で見て東かどうか確かめないといけませんよ。

日ユ同祖論の理論を詳しく発展――詭弁だけど――させたのは明治期のマクラウド。
マクラウドは英ユ同祖論に大いに影響されたと思われます。
日ユ同祖論者=無自覚含め宣教師。

日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。          
同祖論はキリスト教の布教とセット。                        
日ユ同祖論を布教する陰謀論者=宣教師。                      
日ユ同祖論の英語版Wikiの一部を翻訳し解説。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

でわかるように、日ユ同祖論の英語版ウィキでは、
ロドリゲスは「Origin」=起源であり、
「"the first full-blown development of the theory was put forward by Nicholas McLeod」
=理論を発展させたのはマクラウド
だと注意深く記述しています。”

第四のエズラ書に「東に行った」という記述はない。
私みたいに読んで確かめた人は少数。



だことのない更に遠い地方へ行こうと相談した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守るためであった。こうして彼等はエウフラテス河の狭い径を通って入って行った。その時至高者は彼等に対して奇蹟を行い、彼等が渡るまで川の流れを止められた。道程はその地方を通
って一年半の遠さであった。その地域はアルツァレトと呼ばれる。それから彼等はそこに終りの時まで住んでいた。

p.213―214『第四エズラ書』第六の幻 第十三章(『聖書外典偽典 第5巻』)
第四のエズラ書に「東に行った」という記述はない。日ユ同祖論者の捏造。

同祖論信者は出典を読んで確かめないことを利用した詐欺。
「エウフラテス河の狭い径を通って入って行った」の他の人の翻訳が
「ユーフラテス河の細い道を通ってそこに行った」。
「東に行った」は誤訳ですらない。

「自分の国では守っていなかった律法をそこで守るため」
に異国に行ったが、神社に人を神として祀るのは十戒違反。食事規定も守っていないのでこの異国は日本ではない。
「かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こう」より、人が住んでいる日本列島はアウト。
「そこに終りの時まで住んでいた」より黙示録思想。しかも
第四のエズラ書は正典ではないので聖書ですらない。だが、クリスチャンや神道カルト(異端かつ新キリスト教=和風キリスト教)信者が主張。騙す為なら何でもあり。第四のエズラ書は明確に同祖論を否定するから絶対読むな!

第四エズラ書の内容は七つの幻に分けられている。





(Wikiの記事は編集禁止にすることが可能。大金渡せばできるのだろう。
同祖論記事にも大金が注がれているかも
)



https://twitter.com/mod_str/status/1305174450929770496
”不知
@mod_str
つまり、金でWeb上の辞書改ざんも可能、検索結果も買えるわけだ。
午前1:00 · 2020年9月14日”



菊池
@kikuchi_8
17世紀の英国のピューリタン宣教師トーマス・ソログッドはアメリカ大陸の原住民に基督教を布教する為にアメリカ原住民は「失われた猶太の十部族の末裔」という言説を流布した。聖書文化とは異なる文化圏で基督教を布教する為に現地人を猶太と付会してを聖書的世界観に取り込むという布教戦略である。


「アメリカ原住民は猶太十部族の末裔」説は布教の為に考案された。前掲記事より引用:one of the strategies devised by the Puritan colonizers was to view the Indians as being descended from the ancient Israelites through the Christian messianic/millenarian myth of the Lost Ten Tribes.

「○猶同祖論」は猶太教・基督教の文化と共通点があるからではなく全く異質な文化圏だからこそ考え出された苦肉の策である。共通点がないからこそ無理やり「猶太十部族の末裔」という論証出来ない「神話」を作ったのである。基督教宣教師でもないのにこれを信じるのは実に馬鹿馬鹿しい話ではないか。

西洋側が「大航海時代」(「大侵略時代」だろう)と呼ぶ時代の宣教師達は只の宗教者ではなく、西洋列強の植民地戦略とも密接な情報員・工作員でもあった。彼らは異文化圏に精神侵略を仕掛ける為に緻密な戦略を練った。その一つが「○猶同祖論」だった。歴史に徴するにもはやそれは明らかな事である。

イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲス、プロテスタント宣教師のノーマン・マクレオド、プロテスタント牧師の酒井勝軍や小矢部全一郎、英国聖公会信者の佐伯好郎など日猶同祖論(それに先行する中猶同祖論を含む)の主唱者はカトリック、プロテスタント、聖公会とあらゆる基督教教派に及んでいる。

(日ユ同祖論の歴史に登場するのがコダヤ教徒ではなくヤソと和風ヤソ(神道カル卜)教徒ばかりw)

日猶同祖論は基督教の布教戦略用ツールである事は明らかだが、基督教宣教師だけでなく神智学信者も用いた。高野山に「景教」の碑を建てたエリザベス・ゴードンという神智学信者は日猶同祖論を主張した。以上の考察から日猶同祖論は国際秘密力が日本人を精神的に征服する為の思想ツールだと分析する。

秦氏=景教徒説を唱えた佐伯好郎の日猶同祖論は基督教の布教以外にも目的があった。猶太資本の北海道開発への導入である。猶太を満州に引き入れる河豚計画にも日猶同祖論者が参画した。日猶同祖論は親猶太派が猶太資本に媚びて招き入れる事を目的として唱えた側面もあった。この点も押さえておくべき。

裏権力の連中はまるで漫画や特撮の悪役そのものなので陰謀追及者は一人一人が「ヒーロー」であると見立てて、「日本人の立場からの陰謀追及」→「日本のヒーローの元祖・典型とは?」→「桃太郎かな」という事でアイコンにした次第。犬や猫、好きなアニメキャラとかをアイコンにする感覚と同じである。

吉備津彦等よく言われる桃太郎説話の民俗学的背景の説は意識していない。吾人はシンボリストではなくシンボリズム批判者なので深い意味は込めておらず、日本人的なキャラクターという事でアイコンにしただけである。時々アイコンについて質問されるので、記号を考察したこの際に説明しておく事にした。

ただ、全く主流の説ではないが、豊臣秀吉が桃太郎のモデルの一人という説がある。伴天連を「退治」した秀吉が「桃太郎」の造形に何らかの影響を与えたとしたら興味深い。桃太郎説話は室町期が発祥だそうで実は比較的新しい。吉備津彦は時代が古過ぎる。民俗学上の考証としては興味深いテーマではある。

(桃太郎アイコンで私が想起するのは
大ニッポン帝国=国家神道が教科書に桃太郎を採用したこと。
大本教(たいほんきょう)弾圧事件がモロに鬼退治。
この桃太郎も鬼の血が混じっている(皇室関係者に大本教信者がいる)から両建。
単なる利権争い。
芥川の『桃太郎』で桃太郎が悪役なのは芥川が大本教人脈だからなのだろう。
芥川の嫁の幼馴染の父が大本教の東京支部長。芥川賞も鬼キリスト教人脈だろう。
芥川と三島は本当に自殺なのか?
二人とも儀式殺人っぽくないか?

アイコンはあくまで傍証として使うべき。
例えば、さゆふらのアイコンは背景緑=世界連邦の色、で顔が左向き=左目だが、
これだけで走狗だと断定してはいけない。
まずは幸福科学(大本教系)の手先+活動資金が豊富すぎるというのが最大の根拠で、
それをあくまで補強するのがアイコン。
私はアイコン画像なしにしているのは邪推されないアイコンが思いつかないから。





”桃太郎は善良な鬼を桃太郎軍が蹂躙しまくる話で
「鬼=善」という鬼崇拝教が喜ぶ話。
桃太郎は1887年(明治20年)に政府公認で教科書に採用された。
桃太郎の源流が高句麗の朱蒙が卵から生まれた神話だろうから
それを採用した明治政府も渡来人系人脈が強いのだろう。
高句麗は北朝系だから北朝系への配慮でもある。
南朝優遇の明治政府による
北朝も多少は優遇してますよアピール。

高句麗建国者が
太陽光の息子で
母が川の神の娘で
処女懐胎で誕生したという
太陽崇拝+キリスト属性があるのも採用理由だろう。


政府は国家神道側。
鬼崇拝はアンチ国家神道側。
どちらも和風キリスト教、両建て、双頭の鷲(胴体は同じ)。

「金光教と大本教が崇めている艮の金神=鬼は岡山の温羅(うら)であり
別名「丑寅(うしとら)みさき」!
しかも左目を射抜かれたから右目のみの片目(製鉄民)!
しかも百済の王子!桃太郎の敵!」

超短いしオススメ
芥川は短い話ばかりなのが有り難い。

名前に龍があるのも尻が好む。
桃尻だったかは不明。

桃太郎
芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html

地震学などにも通じた雉は頭の鈍い犬を莫迦にする。

気になる記述だなあ。
地震学者を従える桃太郎=侵略者。
わざわざ地震学者というあまり使わない単語を選択。
鬼への攻撃に人工地震を起こしたという記述はない。
キジは人工地震技術者?

千年ごとに天才(ヤマトにとっては救世主)が現れるのは
ゾロアスター教の救世主が千年ごとに来ることが元ネタ?
当時の文豪の情報網をナメてはいけない。


徴(ちょう)する
=(徴(しるし)にする→)隠れているものを表に(呼び)出す、取り立てる(徴収、徴税)、
潜んでいた証拠を表に出して使う。
~が正しいことは歴史に徴して明らかだ)


菊池
@kikuchi_8
アメリカ原住民と猶太の同祖論を主張したピューリタン宣教師は「トーマス・ソログッド」ではなく「トーマス・ソロウグッド」と表記すべきだったかもしれない。日本語でこの人物の名前が書かれた試しはあるのだろうか。ほぼないと思われる。それくらい日本人には知らされていない存在という事だろう。



日猶同祖論者は「北イスラエル王国の猶太十部族」というものがかつてあったとして、それが跡形もなく消え去ったという可能性は考えないのだろうか。歴史上消滅した民族・部族は無数にあるだろう。「○猶同祖論」では「十部族」が今もどこかに存在しているという前提から出発する。この時点で変である。

ロスチャイルド家やイスラエルの情報機関とかが契約の箱=アークを探し求めていると言われるが、そういうものがかつて実在したと仮定しても朽ち果てて消えてなくなっている可能性を考慮しない辺りから「アーク伝説」とはどこまでも猶太教の神話である事が分かる。「アーク」も記号の一種に過ぎない。




参考資料


日葡辞書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%91%A1%E8%BE%9E%E6%9B%B8
”『日葡辞書』(にっぽじしょ、葡: Vocabulário da Língua do Japão)は、キリシタン版の一種で、日本語をポルトガル語で解説した辞典である。イエズス会によって、1603年から1604年にかけて長崎で発行された[1]。全てポルトガル語で記述され、約32,000語を収録している。原書名は "Vocabulario da Lingoa de Iapam com Adeclaração em Portugues" であり、「ポルトガル語で説明を付けた日本の言語の辞典」を意味する。

イエズス会は、日本宣教当初より日本語研究のかたわら文法書や辞書などをまとめていた。1581年には府内コレジオで最初の日葡辞書が作られ、1585年には有馬セミナリオでも作られた。1591年に印刷機が日本に運ばれると、日本国外より来る宣教師が日本語を学習するための文法書や辞書を印刷出版することが決議され、複数の宣教師と日本人同宿が4年以上の歳月をかけて編纂した(ただし、ジョアン・ロドリゲスはこのなかには入っていなかったとされる[2])。1603年に本編が出版され、1604年には補遺が出版された。

『日葡辞書』からは、室町時代から安土桃山時代における中世日本語の音韻体系、個々の語の発音・意味内容・用法、当時の動植物名、当時よく使用された語句、当時の生活風俗などを知ることができ、第一級の歴史的・文化的・言語学的資料である。

例えば下記の点があり、執筆者らが日常接していた当時の日本人の言葉、生活様式を垣間見ることができる。

ハ行全段を、現代語のファ行の子音にあたる ɸ (ポルトガル語や英語などの f とは異なる音) で発音していた。
「せ」と「ぜ」は、[シェ]と[ジェ]のような後部歯茎音で発音していた。
オ段の長音を ǒ と ô とで書き分けており、開音 [ɔː] と合音 [oː] とが区別されていた。
「日本」の読みには、[にほん](にふぉん)・[にっぽん]・[じっぽん]の3通りがあった。
京都は「かみ」(上)、九州は「しも」(下)と呼ばれていた。
「侍」は「尊敬すべき貴人」と説明され、「武士」は「軍人」を意味するポルトガル語が与えられて、区別されていた。
「進退」は[しんだい]、「人数」は[にんじゅ]、「因縁」は[いんえん]、「抜群」は[ばっくん]と読んでいた。
「ろりろり」とは、恐ろしくて落ち着かない様を表す語だった。(これは『広辞苑』が日葡辞書を出典として載せているのでよく知られている。)
当時すでに湯豆腐という食品が食べられていた。(ただし、薄い豆腐でかけ汁を添えると説明されており、おぼろ豆腐のようなものか。)
当時のポルトガル船の主流だったキャラック(ポルトガル語ではナウ)が、「黒船」と呼ばれていた。

また、当時使われていた中世ポルトガル語の貴重な資料ともされている。

イエズス会『邦訳日葡辞書』土井忠生・森田武・長南実 編訳、岩波書店、1980年(原著1603年)。ISBN 4-00-200451-1。
Cooper, Michael (1974). Rodrigues the Interpreter: An Early Jesuit in Japan and China. New York: Weatherhill”


「にっぽん」か「にほん」か? ジパングの由来
http://www.eonet.ne.jp/~shiyokkyo/kako/old%20east/zatu/japan.html
”2.ジパングの由来 2001年4月5日  TOP  



 元朝支配下の中国に旅行したイタリア人マルコ・ポーロは、帰国後、『東方見聞録』という本を書いているが、彼は、この著書の中で、日本のことを黄金の島ジパングと紹介している。英語で日本のことをJAPAN(ジャパン)と言うほか、欧米の言語では、日本は他にも、ジャポン、ヤーパンなどと呼ばれるが、これは上のジパングから来たものである。

 では、ジパングの由来はというと、これはどうも当時の中国語に基づくようだ。「日本」という漢字は、日本の音読みで、「ジッポン」と読めないこともないが、当時の中国語では、それに近い発音で、「日本」という漢字を読んだのだろう。



1.「にっぽん」か「にほん」か? 2001年4月3日 同4月14日改訂 TOP  

 

 「日本」と漢字で書いて、「ニッポン」とも「ニホン」とも読む。ちなみに、国号がこのように一定していないのは、世界でも例のないことだという学者もいるが、日本人は別に気にしていない。

 まあ、元々は「ニッポン」と読むのが正確だろう。これは古代(具体的には唐代)の中国語の発音に由来するものであり、現在、中国の北京語では「日本」は「リーベン」と読む。

 ちなみに、「ニッ」のような音は、北京語など中国北方方言にはないが、上海や福建などの南方にはまだ残っている。だから、上海人などは、日本語の促音(小さい「っ」)を発音できるが、北方の中国人などは、なかなかそれが発音できないという。

 中国の北方人だけでなく、日本語を勉強しても、なかなか「促音」が発音できない外国人が多く、「ニポン」のような言い方になることが多いというが、日本人とて例外ではない。そもそも、「日本語」には元々、促音のような音はなく、これが入ってきたのは、古代中国語の影響によるものであり、日本人もどうやら最初はなかなか促音を発音できなかったようだ。高校の古典の教科書には必ず載る紀貫之『土佐日記』の冒頭、「男もすなる日記」というのは有名な文句であるが、多くの本はこれを「ニッキ」とはせず、「ニキ」と読みをふっている。これは、当時の日本人がなかなか促音を発音できなかったことの一つの証明になろう。

 そして、どうやら半濁音の「ポ」なども、当時の中国語から取り入れられたものであり、古代の日本人には発音が難しかったようだ。その結果、「日本」を「ニッポン」と読めず、「ニホン」としか読めない日本人が多く、この「なまった」発音が現在に残っているのであろう。”


濁音の問題
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwia9o2GmYfqAhWqyYsBHfVqDRkQFjAAegQIAxAB&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6204%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&usg=AOvVaw044_znQ8d0xJAkizM5y7G8
tsukuba.repo.nii.ac.jp ...PDF
”平安時代には、濁音の音韻としての独立性が現代より弱かったようである。
清濁の書き分けのあった片仮名の資料にしても、
濁音は濁点などの符号により示されているのであり、
濁音専用の仮名が使われているわけではない。

古代には、清濁の音韻論的対立はなかったという説もある。濱田敦(1971)は、古代日本語の清音と濁音は、
現代朝鮮語の平音(語頭では無声音、語中(有声音間)では有声音)のようなも
ので、語頭に清音が立ち、語中・語尾に濁音が現れるという異音の関係にあった、としている。
筆者は、古代日本語の清濁の音韻論的対立がかなりあいまいなものであるとは思うが、
全くなかったとは考えない。
上の沖森(1989)からの引用にもあるように、
古代の日本人も清濁を区別しようとすればできたのであるし、
清濁によって区別されていた語もあったようである
(助詞の「か」 と「が」などは、この例ではなかろうか)。訓点資料1)で漢字昔の清濁を区別しているのも、
当時 の日本語に清濁の区別があり、中国語の清濁も区別できたからであろう
(漢音資料には清濁を区
別していないものもあるが、これは中国原音(長安音)で清濁の区別が失われたことによるもの
らしい)。
これに対し、中国語の発音で清濁以上に重要だともいえる有気音(清音)と無気音(次清音)の区別は、訓点資料にあまり見られないようだ。呉音資料では有気音と無気音を区別して
いない。漢音資料には有気音と無気音を区別したものがあるが、少数のようである。
伝来も古く、日本化が進んでいた呉音の資料で、もともと日本語にない有気音と無気音の区別がなされないのは当然であるが、
なるべく中国原音(長安音)に忠実にと学習されていたはずの漢音も資料でも、
あまり区別されていないということは、母語で区別されていないものを区別することはかなり難しい、ということを示すものであろう。
漢字音の清濁の区別は、当時の日本語に清濁の区別があったからこそできたのではなかろうか。
こうしたことから、古代の日本人は清濁が区別できたし、清濁の音韻論的対立もー応あったと考える。

平安時代に平仮名文献で使用されなかった濁点も、時代とともに使われるようになり、江戸時代になるとかなり一般的になったようだ。

半濁点も室町時代から使われ始め、江戸時代の後期にはかなり付けられるようになったという(沖森(1989)による)。
ハ行は、その子音の音価が、奈良時代以前の[p]から、奈良時代には[F]、江戸時代には[h]に変化したといわれているが、
半濁音によるパ行書表記が一般的になったのは、パ行音が音韻として確立し、使用頻度も増したからであろう。沖森(1989)によれば、パ行子音[p]は江戸時代に確立したという。それ以前には、[p]はハ行子音の異音 であったようである。

参考文献
1.沖森卓也編(1989)『日本語史』桜楓社
2.高松政雄(1986)『日本漢字音概論』風間書房
3.玉村文郎(1984,1985)『日本語教育指導参考書12 語彙の研究と教育(上)(下)』
国立国語研究所
4.沼本克明(1986)『日本漢字音の歴史』(国語学叢書10)東京堂出版
5.濱田敦(1971)「清濁」『国語国文』40・11

辞典等
1.NHK編(1985)『日本語発音アクセント辞典 改訂新版』日本放送出版協会
2.北原保雄編(1990)『日本語逆引き辞典』大修館書店
3.金田一春彦監修・秋永一枝編(1981)『明解日本語アクセント辞典 第2版』三省堂
4.国語学会編(1980)『国語学大辞典』東京堂出版
5.日本語教育学全編(1990)『日本語教育ハンドブック』大修館書店
"


(促音=つまる音=小さい「つ」の直後にp音化。
撥音=はねる音=「ん」の直後にp音化。

半濁音名義考
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/han2.pdf
"奥村先生はその後、『国語学大辞典』の「清濁」の項において、
その由來―もとは促音や撥音の直後のハ行子音がp音化したもの―や、
表記法―半濁音は濁点の半分に当たる―等からすれば、
これをハ行に対する半濁音と称するのも、一面の真理が存する。

川本[1990]が纏めるように、「半濁」の指すものは、現在と同じパ行音の他に、ハ行転呼音、ガ行鼻濁音、ラ行音、などさまざまである。この「半濁」という用語中の「濁」、
また「清濁」という用語が、中国音韻学からのものであることは言うまでもない。しかし、深井[1972]にもあるように、「半濁」という用語は中国音韻学にはない、という認識が一般的なようである。しかし実際には中国音韻学でも「半濁」という用語は使用されることがある。

下って太田全斎『音図口義』(文政六1823年か)では、倭半濁 半濁と云は、韻鏡にて清濁音の事を一名半濁と云、此半濁は唇舌牙喉歯舌にあり。然るに今世上パピプペポの音に小圏を加えて呼ぶ者を半濁と言ふ。此は倭半濁と言ふべし。韻鏡の半濁と分かつべきが為なり。と、パ行音の半濁と区別すべきであると説いている3。

ハ行転呼音天明のころ(1781-1789)に本居宣長と上田秋成との間でかわされた論争(宣長が『呵刈葭』に纏めている)では、
宣長がパ行音を半濁と呼ぶのに対して、秋成はハ行転呼音を半濁と呼んでいる。秋成は『霊語通』(寛政九1797年)
で、「或説」として、宣長の「半濁は朦朧不正」を引いているが、やはりハ行転呼音であると捉えているようである。ハ行転呼音を半濁と称するのは、真渕の『続万葉論』などにも見えるが、これは前掲『音韻断』の「軽唇音のウはフの半濁なり」との類似を感じる。『音韻断』のいうところは、軽唇音を唐音で読むと、清音・次清音・濁音である非敷奉母はハ行になるが、「半濁」である微母はワ行となることによるのであろう。ただし秋成は、『霊語通』で、通俗に半濁音と云り。是はハヒフヘホのワイウヱヲにかよふ也。......西土の全清次清全濁次濁の格にもあらず。と、中国のものとは違うとしている。しかし『呵刈葭』上第六条で秋成がハ行転呼音を半濁と呼んだことに対する宣長の答えに、ワヰウヱヲは十行中の一行なれば、清音にして半濁といふべきいはれなし、然るを外国にては是を半濁とすることあるによりて(中略)、皇国にては此音を半濁とはいひがたし。とあるように、宣長は、ハ行転呼音を半濁と称するのは、中国音韻学の影響であると考えていたようである。また、富士谷成章『稿本あゆひ抄』でも、ハ行転呼音を「半濁」と称しているのであるが、『北辺随筆』(文政二1819年)、初編三「音の存亡」によれば、御杖云、ハヒフヘホを、ワヰウヱヲの如くいふは、いはゆる清濁音也。とあり、「清濁音」という言い方からすると、御杖はこれを韻学の方からとらえていたと思われる。なお、伊藤多羅『音韻新書』(文化元1804年)では、ハ行転呼音を半濁音と称すること5と、パ行音を半濁と称すること(「唐体の半濁」)とを両方とも否定する。

ガ行鼻濁音は鼻音であり、韻鏡にいう清濁音すなわち「半濁」にあたる音であることは明らかであり、江戸時代の韻学に遡る可能性を持つものである。この牙音の「清濁」をはっきりと日本語のガ行鼻濁音と関連づけて説いた江戸時代の資料はまだ見出せないが、次のような鳥海松亭『音韻啓蒙』の記述は、それに近いものであろう。五十音を合成し、是れが全備を為んには、「ン」音、又「ハヒフヘホ」の清音【パピプペポなり】、「カキクケコ」の半濁音を、合はすれば、人倫言語のこと、一切缺ること無し。江戸期の韻学の発展には当時の中国音、つまり唐音の存在が寄与したのだが、当時の中国音においては牙音の清濁音は多く軟口蓋音鼻音ではなくなり、ゼロ声母などになっていた。このことが、日本語のガ行鼻濁音を「半濁」と呼んだ資料がなかなか見出せないことの原因の一つではないか、とも思う。

ラ行音を半濁と呼んだのは、賀茂真淵である。『語意考』(明和六1769年)に

波比不反保 清濁二音

良利留例呂 半濁
和爲宇恵於 清音とある。林圀雄『皇国の言霊』(文政八1825年)も、これに習っているし、川本[1990]によれば、橘真一郎『絵入単語編』明治七年もラ行を半濁音にしている。
"


(作者の変更前のアイコン画像だ!「むん」じゃなくて「ぱん」なのか)

半濁音符は、キリシタン文献でポルトガル語やラテン語を表記するための工夫だったようで、
新しい文字の誕生が偲ばれます。「ぱあてれPadre」とか「ぱらいぞParaiso天国」とか、たしかにP音が多いなあと思ってましたが、「ぱんPão」も半濁音表記を必要とした語のひとつだったんですね。

参照した影印本は、
小島幸枝・亀井孝解説『どちりな きりしたん(カサナテンセ本)』(原本は「慶長5年(1600)6月上旬」長崎で刊行)勉誠社文庫56、1979年、です。該当個所は、影印本の89頁、原書の「第十 さんたゑけれじやの七のさからめんとの事」の「第三のさからめんと」の所。

「パン」の表記の件、ちょっと正確でなかったので補足です。
先ほど模写をお見せした『どちりな きりしたん』(カサナテンセ本)は、1600年刊の「後期(改訂増補)版」で、前期版の『どちりいな きりしたん』(バチカン本、1591年、加津佐刊)の影印をみたら、半濁点がなく「はん」でした。

つまり、1591年段階ではまだ半濁点が発明されておらず(濁点は使っています)、改訂版が出される1600年までの間に工夫された、ということのようです。ちなみに、「ぱらいぞ」はどう書くのかと思ったら、前期版では「天上」としていました。用語を原語主義にする上でも必要だったわけですね。


上代日本語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
”上代日本語(じょうだいにほんご)とは、奈良時代およびそれ以前(歴史的な時代区分で云う「上代」)に使用されていた日本語である。

ハ行/p/の子音は奈良時代には [ɸ]、更に遡れば [p] であったのではないかとされる
(奈良時代まで [p]、平安時代から [ɸ] とする説もある[5])。

音韻表
(引用者注:
ハ /fa/ヒフヘホと
バ /ba/ビブベボはあるが
パピプペポがない)

母音は語頭でのみ単独で出現することができた[8]。
漢字音の影響を受けて音便と呼ばれる一連の音韻変化が生じるよりも前の時代であり、
撥音(ン)・促音(ッ)は存在せず
拗音(ャ・ュ・ョで表されるような音)や
二重母音(ai, au, eu など)[9]も基本的に存在しなかった[10]。
また、借用語を除けば、濁音およびラ行音は語頭には立ち得なかったとされる[11]。 ”



2017年5月16日
「ぱ行」の音を半濁音と言っていますが、これも「半濁点」が付いたからでしょうか。
P音はB音の清音ですから、本来「濁」の要素はないはずですが、
日本では、「は行」は P→Φ(ファイ 両唇摩擦音)→Hという変化が起こったのだそうで、
P音を外来語から新たに受け入れ、文字を作ったわけですね。


室町時代から明治時代初期までの促音の表記に関する研究
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj_857vuYjqAhUMfd4KHW8bDo4QFjACegQIAxAB&url=https%3A%2F%2Fnagoya.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D19493%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D3&usg=AOvVaw2w2kH2bYJfGYtpPU9XbEri
"日本語の仮名の一文字は、通常「子音」+「母音」(ただし、一部の特殊拍とア行母音
を除く)という 1 モーラ構造を持つ1。
奈良時代までの日本語において、特殊拍の 1 つ、
促音(以下、/Q/2)は、
「前接する音節と合して 1 個の単位を形成するシラビーム的性格
のもの」3として知覚されたので、独立した音韻としての地位を獲得していなかった。
/Q/は平安時代以降次第に音韻として認識されるようになって、鎌倉時代後期までに既存
の仮名の「ツ」で表記されるようになった
4。
明治時代以後の「歴史的仮名遣い」5によれば、「ツ」と書かれた箇所は、
時には「子音」+「母音」の/t u/を、時には/ Q/と読む。
つまり表記上/t u/と/Q /とに差異を施さないのである。

/t u/と/Q/とが「ツ」の仮名に共存している状態は、「歴史
的仮名遣い」が発効された時代をはるかに超え、鎌倉時代後期まで遡らなければならない。
その場合、鎌倉時代後期から「歴史的仮名使遣い」が施行される明治時代までの期間も、
/t u/と/Q/とが「ツ」の仮名に共存している状況があったことに再び注目せざるを得ない。

平安時代のことばを文章
の模範として決めたので、平安時代以後に文字化する特定の音韻は、その後の文語体に含
まれるないし認められるまで、相当時間がかかったことが考えられる。その典型的な例が
/Q/である。
日本語の文字である仮名は、ほとんど音節と 1 対 1 で結びつく。平安時代以前の奈良
時代における日本語の音節は、子音と母音の組み合わせという単純な構造であった7。し
かし平安時代に特殊拍の出現と音便の発生という音韻変化が生じ、こうした単純な構造は
崩れていく8。平安時代に現れた特殊拍の類は音と 1 対 1 の対応をしていないものもあり、
/Q/はその中の 1 つである。
/Q/は、「元来[ p ] [ t] [ k ]の如く子音を以て音節が終る」9中国語の入声音の影響によって生じたと言われる。
しかし元来の入声音は全体の音節構造を
指すものであるのに対し、/Q/は音節における最後の子音(以下、音節末子音)のみを切
り離して、独立の音節とすることによって成立する特殊拍である1 0。当初平安時代におけ
る/Q/の表記は、無表記が主流であったが、若干仮名の「ム」を用いたり、平安後期以降
には、仮名の「レ(ン)」でも記されるなどの表記が混在した様子であった1 1。/Q/と撥音
の表記である「ン」が混用されていた理由は、後続する音韻環境によって、音声が変わる
という特徴があるからである1 2。それが鎌倉時代後期になってから、仮名の「ツ」で/Q/
が表せるように定着する。一見無関係のようにも思われる「ツ」の表記がなぜ/Q/を表わ
すようになったのか。

(注釈より
”7岡田薫(2 0 12)も、同様な見解を示している。
ただ、この時代(奈良時代;筆者注)には、資料の性格上、主に奈良地方を中心とす
る貴族階級の書き記した韻文の資料しか残っていないのであるが、それによると、当
時の日本人によって発音される漢字音は中国語に近かったと考えられており、その結
果、撥音と促音は日本語の音素としてはまだ認められなかったと推定される。
これは
当時の日本語が中国語の影響のもとにシラビーム構造であったことが関係していると
考えられる。
(pp 1 3-1 4)
8沖森(2010)では、特殊拍の出現について、以下のように述べられている。
撥音・促音・拗音は日本語の音韻としてまだ用いられていません。これらはすべて平
安時代以降に現れます。

(p5 1)
また音便の発生について、「前後の音の環境においてその発音をしやすくするために、
母音もしくは子音が脱落または転化したことによる」(p 1 39)とし、9 世紀より、イ音
便・ウ音便、続いて促音便・撥音便が起こったと指摘している。”



『日本語学研究事典』の「音便」では、以下のように記されている。
イ音便やウ音便にはそれぞれ対応する既存の仮名があるので、最初から「い」「う」
で表記することが可能であったが、もともと日本語に存在しない音であった促音や撥
音には様々の表記がなされ、無表記であることも多かった。しかし、これらの音が音
韻として確立するに従い、徐々に、促音に「つ」、撥音に「ん」を用いる表記が慣用
化し、現代に至っている。ただし、促音に小字の「っ」を用いることが固定したのは
昭和二十年代以後のことである。
(p1 0 5、下線;筆者)
(引用者注:下線はコピペできなかった)

撥音・促音の表記が固定するのは、前者が院政期頃、後者が鎌倉末期頃である…

世阿弥自筆本を通して、/t u/と/Q /を書き分ける意識が芽生えていたのが確認で
きた。その後室町時代から江戸時代に渡り、動詞形における/Q/が増加することや/t u/と
/Q/を使い分けていることが分かる多くの口語資料が見られる。

これまで、室町時代末期の特殊音素の仮名表記について、豊臣秀吉や伊達政宗の消息、
キリシタン資料、軍記物語などを調査し、考察をすすめてきた。
これらの考察により、
室町時代末期、特に慶長(1 5 96-1614)の頃には、
促音および t 入声には、
主に
「川」か「川」の草体の「ツ」が多く用いられていることがわかった。
また、「ツ」
と「ん」の混用表記については永禄(1558-1569)の頃には見られたが、
慶長の頃に
は見られなくなり、
さらに、慣用的に「つ」を無表記で記した「うたへ(訴へ)」や
「あまさへ」なども、慶長期に書かれた後期版の『どちりなきりしたん』では「う川
たへ」と促音部分に「川」が用いられ、
同じく慶長期に書かれた、太田牛一『大かう
さまくんきのうち』では「あまツさへ」と「ツ」が表記されていたことが明らかにな
った。

(1)明治三十三年以前-大きい<つ><や、ゆ、よ>
(2)明治三十三年-小さい<っ>や<ゃ>が出現
(3)明治三十七年-国定教科書で小さい<っ>や<ゃ>に統一
(4)明治四十一年-国定教科書、大きい<つ>や<や>に変更
(5)昭和八年-小さい<っ>や<ゃ>を使用-低学年のみ
(6)昭和二十二年-全学年が小さい<っ>や<ょ>を使用
(野澤( 2004;p69) )
(6)に従っているものが、現行の方法である。


(小さい「つ」を「川」に置き換える伏字表現というのはどうか。
ま川こうもぐら
苗字みたいになるなw)



歴史の彼方に隠された濁点の源流を探る
―附・半濁点の源流―
http://www.kyuko.asia/book/b109501.html
"◎陀羅尼を正確に読誦するため、日本人が試行錯誤した軌跡を辿り、清濁書き分けの源を解き明かす
著者 沼本 克明 著
ジャンル 国語学(言語学)
国語学(言語学) > 語彙音韻
出版年月日 2013/03/12



【本書】より(抜粋)

kaという発音を日本語では清音と呼び「か」「カ」という仮名で表記し、gaという発音を日本語では濁音と呼び「が」「ガ」で表記する。濁音には清音を表記する仮名の右肩に濁点「、、」を加えて表記する。なぜ濁音を「、、(この記号は本書中、「・・」を使用することもあるが同じもの)」で表記するのか。そういう問題について、日常我々日本人は意識しない。する必要がないからである。意識しないでも自由に使うことが出来るようになっている文字体系形成の背景には、実は「慈覚大師円仁」という平安初期の僧侶が中国に留学して持ち帰った梵語(古代サンスクリット語)の学問が存在した。濁点の成立の背景には、梵語の発音を忠実に外国音として学習するために長い期間に亘って日本人が行なった試行錯誤と極めて巧妙な工夫が隠されている。そういう歴史の彼方に隠された事実を日本語の歴史資料―訓点資料―に基づきながら旧稿に手を入れ一般の人にも分かり易いように再現してみようとするのが本書の意図である。尚、付論として、同じような成立の背景を持つ半濁点「○」の源流についても論じておくこととする。

《第一章の要旨》

平安初期に、中国で当時流行していた新仏教である密教が請来された。この密教では特に梵語の呪文―陀羅尼―の読誦が重要視された。この陀羅尼は漢訳仏典では殆ど全て漢字で音訳されて収められている。平安初期に入唐した天台宗・真言宗の僧達は中国で梵語を学習し、梵語そのものとして陀羅尼の読誦を行うことを我が国に定着させようとした。その最も重要な僧が慈覚大師円仁である。本章では円仁が定着させた梵語の学問―特にその発音に関するものを「悉(シツ)曇学(タンガク)」と呼ぶ―がどのように展開したかの見通しを立てるために奈良時代以後の仏教界の動きを概観し、平安時代に入って以後の天台宗・真言宗の修法の方法やそのテキストの学習における梵語音の記述の工夫や実態を眺めておくこととする。

《第二章の要旨》

平安初期に請来された密教の学問においては陀羅尼の学習と伝承が極めて重要な僧侶の条件になった。そのために僧侶達は『悉曇章』や『胎蔵界儀軌』『金剛界儀軌』の儀軌やそれらの次第書に含まれる梵語特有の発音を修得し伝承する為の種々の工夫を行い実践した。清濁の区別も亦その中の一つの工夫であった。清濁の区別は、悉曇章や密教儀軌系統の訓点資料に含まれる新来外国語としての梵語音の発音の修得とその記述の為に発明されたものであった、ということを具体的資料に基づきつつ眺めていく。

《第三章の要旨》

梵語の音読の場で、原音の梵語の濁音を如何にして表示するかという工夫から生まれた清濁の書き分けは、その後、訓点資料の世界で漢字音へ、更にはやがて和訓表記にも流用され、最終的に濁点として定着することになる。本章ではその濁音表記の定着の過程を具体資料に基づきながら眺める。

《第四章の要旨》

本章では、濁音表示法が濁声点として社会的に統一されて以後、声調表示機能を捨てて濁音だけの表示で良くなった背景と、その加点の位置がなぜ右肩になっていったのかについて具体的な資料に基づきながら考えてみる。

《附章の要旨》

濁点「、、」と半濁点「○」は、共に仮名の右肩に補助記号として使用され、共に日本語と外国語との接触の場に源流があるが、それぞれの成立の経緯は全く異なる。
半濁点は、日本語の音韻史の上で
室町末期以後にハ行子音が唇音「f-」から喉音「h-」へ変遷したことに応じて、それまで同じ音韻として把握されていた「p-」が別の音韻として意識されるようになり、その記述のために唐音資料が源流となって江戸中期に成立したことを述べる。半濁点という呼称は、濁点「○○」「、、」の半分「○」「、」であるところから成立し、その後通称として一般に受け入れられて今日に至ったものであることを述べる。
"


日本語   ことばの概説
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/archive/previous/jpn/jpn2.html
”(3)モーラ
音韻的な性質を考える際に、「モーラ(拍)」という音数律的な単位で捉えることがある。
モーラは概略、仮名1文字を発音する長さに相当する単位である (拗音「キャ」などは、これで1モーラ)。
短歌や俳句、標語、言葉遊びで長さを数えたりする場合などは、
この「モーラ」を単位としている。”

音声認識の分野で使われている『音韻認識』と『音素認識』は同じ概念なのですか。『音韻』と『音素』とはどう違うのか,いつも疑問に思います。明確な定義があるのでしょうか。
https://acoustics.jp/qanda/answer/45.html
”「音素」の定義として,「ひとつの言語において,言葉の意味の区別を表すのに用いられる単位。日本語では,phonemeに相当する訳語として音素を当て,それにアクセント素を加えたものを音韻と呼ぶことがある。」とあります。
「音韻」の定義としては,「音に関するいっさいを表わすものとして,日本で古くから用いられてきた用語。一般には音韻の方が音素より広い意味で用いられることが多く,phonemeのほかに,音の長短,強勢,アクセントなど韻律的要素まで含めたものとして用いられることがある。」

音素の古典的定義は,[hato]と[hako]のような対立がある場合,
[t]と[k]が意味の弁別に関与しているので音素とし,/t/,/k/と表記します。
従って,音素と認められるかどうかは言語によって異なります。
[ ]での表記を音声表記,//での表記を音素記号といいます。”


音素
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%B3%E7%B4%A0-41943
”フォネームphonemeの訳語。音韻論において分析される最小の音韻的単位。ある言語の中で,意味の違いをもたらす音。音節の中心をなす母音音素,その副音となる子音音素,両者の間に立つ半母音音素などに分類され,ふつう/ /の符号に入れて示す。たとえば〈ヒ〉〈フ〉の語頭の子音は,音声学的には区別され,外国人には別の音に聞こえるとしても,
日本語の音素としてはともに/ h /である。

ある言語で、語と語の意味を区別する機能をもつ音声の最小単位。
例えば、「たき(滝)」と「かき(柿)」の語頭の/t/と/k/など。

〘名〙 (phoneme Phonem phonème の訳語) ある言語の音声を音韻論的に考察して得た単位。普通 /a/ /k/ のように / / に入れて示す。音声学的には異なる発音でも、同じ音声的環境に現われず、互に単語を区別する機能を持たず、調音が類似するものは、同一の音素と認められる。たとえば、日本語の「ん」は、音声学的には [m] [n] [ŋ] などと区別されるが、音韻論的には同一の音素 /n/ と認められるなど。また、ある言語では異なった二つの音素とされているものが、他の言語では一つの音素とされることがある。


シラビーム方言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%96%B9%E8%A8%80
”シラビーム方言(しらびーむほうげん)とは日本語の方言のうち、モーラ(拍)の独立性が弱く、音節が語の長さを測る単位となる方言をいう。

概要
東北北部や九州南部では、促音・撥音・長音をアクセントの単位として独立して数えず、モーラ(拍)ではなく音節を単位とし、例えば「学校新聞」は「ガッ・コー・シン・ブン」と4つの単位に区切られる。

このような方言は柴田武により、シラブル(syllable)とフォニム(phoneme)からシラビーム方言と命名された。

一方で、モーラ方言に属する共通語では促音(ッ)・撥音(ン)・長音(ー)をアクセントの単位として独立して数え、モーラ(拍)を単位とし、例えば「学校新聞」は「ガ・ッ・コ・ー・シ・ン・ブ・ン」の8拍として捉えられる。”

( YもXの変化形で
ZもXの変化形であり、
共に同じXが環境に応じてとった形だというとき
YとZがXの異音であるという。
要は、YとZは互いに異なる独立した音素ではないということ。)
異音(読み)いおん(英語表記)allophone
https://kotobank.jp/word/%E7%95%B0%E9%9F%B3-29974

音声学的に異なるいくつかの音が同一の音素に該当するとき,
それらの異なる音をその音素の異音であるという。
変異音ともいわれる。
[kaba](河馬)と[ᶄiba](牙)において,二つの子音[k]と[ᶄ]は主として口蓋化の有無の点で互いに異なる音であるが,
これは同じ音がそれぞれの環境に応じてとった姿と説明され,同一の音素/k/の現れと解釈される。
このとき[k]と[ᶄ]はいずれも/k/の異音であるという。

このような場合,違った音声記号が用意されている音だけを取り上げがちであるが,
[ka][ku][ke][ko]の各[k]もすべて違うこと,子音にかぎらず母音もすべて,異なる環境にある異音はすべて異なることを忘れてはならない。英語の例をあげると,cup[kʌp](茶わん)と cap[ᶄæp](縁なし帽子)において,
同一の音素/k/が音的環境によって[k]と[ᶄ]という二つの異なる音(異音)として実現される。

1 《allophone》構造言語学の音韻論で、同一音素の変異形のうち、位置ないし条件によって変異するもの。例えば、英語で keep[kiːp]とcool[kuːl]の二つの[k]は調音点を少し異にする同一音素[k]の異音。
2 機械・機器などから出る、通常とは異なる音。「パソコンから異音がする」「異音を確認しての緊急停車」


構造言語学における音韻論の術語。同一音素に属する様々な音声学的実現を指す。例えばザ行子音は「ざる」のように語頭では破擦音 [dz] だが、非語頭では「ひざ」のように摩擦音 [z] になる傾向がある。この場合に [dz] と [z] を、同一音素 /z/ に属する異音であるという。

〘名〙
① 言葉の音が違うこと。異なった語音。
※随筆・秉燭譚(1729)三「論語の大車小車を、大きょ小しゃとよみ来れり。〈略〉しかればしゃときょとは古今の異音にて」

② (allophone の訳語) 音声学・音韻論で、ある音素の変異形のうち、位置や条件により変異するものをいう。
たとえば、は行の「は」「ひ」「ふ」の子音で、音声学的に区別される[h][ç][Φ]は、
音韻論的には同一の音素 /h/ の異音と認められるなど。

③ 言語学で、同一の音連鎖環境には決して現われることがないように分布している、ある音素の二つ以上の実現例のすべて。広い立場では、社会的・個人的な自由変異体をも含めて、すべて同一音素の異音であるとする。





#2387. 日本語の文字史(近代編)[kanji][hiragana][katakana][romaji][japanese][writing][grammatology][orthography]
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2015-11-09-1.html
”古代,漢字の担い手は一部の教養層に限られていたが,近代になるにつれ,富裕な町人層へ,そして教育を通じて一般に国民へと開かれていった.とはいえ,漢字という難解な文字体系が社会へ広く浸透するには困難を伴ったはずであり,仮名の読み書きに比べて浸透が相対的に遅れたことは確かだろう.漢字の拡がりには,活字による出版という新メディアの登場が一役買ったことは間違いない.室町末期から「古活字版」が盛んに行なわれ,その後,振り仮名も付した「製版」を通じて,人々が漢字を含む文字に触れる機会は増した.なお,実用的な漢字の書体は草書や行書であり,規範的な表記から逸脱した当て字も通行したことを付け加えておこう.
 明治時代になると,漢字の使用制限の機運が高まった.前島密は慶応2年 (1867) に「漢字御廃止之議」を建白し,もっぱら仮名書きを提唱した.福沢諭吉は,明治6年 (1873) に,漢字全廃には同意できないが,2, 3千字程度に抑えるべきだと主張した.そのような状況下で文部省は明治33年 (1900) に教育用漢字1200字を定め,その後も戦前・戦中を通じていくつかの漢字制限案を出した.戦後,昭和21年 (1946) には1850字からなる「当用漢字表」が公布された.これは規範としての性格が強いものだった.昭和56年 (1981) には,その改訂版として1945字からなる「常用漢字表」が公布され,こちらは規範性は低くなり「目安」にとどまることになった.
 一方,仮名については,近代は字種が統一されていく時代といってよい.近代初期には,普通の文章は漢字平仮名交じり文で書かれており,片仮名は注釈などに限定されていた.片仮名の字体は,古代より比較的よく統一しており,中世でもヴァリエーションはあまりなく,明治33年 (1900) に「小学校令施行規則」で現行の字体に定められた.対照的に,平仮名には近代まで多くの字体,いわゆる変体仮名が認められた.変体仮名にも位置による使い分けなどある種の傾向は見られたが,統一性がみられないまま現代を迎えることになった.
 仮名遣いについては,上代より定家仮名遣いが影響力を保ったが,
近世になると契沖が元禄8年 (1695) に『万葉集』の注釈に従事しながら定家仮名遣いの不備に気づき,『和字正濫鈔』を著わして,上代文献に基づく仮名遣いへの回帰を主張した.「を」と「お」の分布や「四つがな」(じずぢづ)の問題にも言い及び,後に本居宣長,楫取魚彦などに支持されていくことになる.
契沖仮名遣いは,明治時代に入ってからも国学者により採用され,文部省編纂の『小学教科書』(明治6年 (1873))にも採用された.大槻文彦の『言海』(明治24年 (1891))でも受け入れられ,その後,昭和21年 (1946) に「現代かなづかい」が公布されるまで続いた.
 もう1つの日本語を書き記す文字体系であるローマ字については,「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1]) を参照されたい.
 最後に,補助符号の歴史に簡単に触れておこう.
濁点(濁音符)は古代の漢字訓読に母型が見られるが,陀羅尼を正確に発音させるために漢字,そして片仮名に付された符号から発達したものといわれる.
しかし,濁点の付与は,中世まではキリシタン資料を除けば一貫していなかった.江戸時代前期の上方資料では,濁点の形式も定まり,よく付されるようにはなっているが,いまだ義務的ではない.明治時代以降も『大日本帝国憲法』などの漢字片仮名交りの公用文には濁点は付されていないし,文脈で判断される場合にもしばしば省略された.
なお,半濁点(半濁音符)は,ずっと発生が遅れ,現われたのは近代である.キリシタン資料を除けばやはり使用は体系的でなく,江戸時代中期以降になって蘭学者の書記において頻度を増してきた.
 句読点の起源は古代に求められる.漢文訓読において,読み手が文章を統語的に区切るのに書き込んだのがその起こりである.室町時代には,読み手の便宜を図って,句読点は活字に組まれるようになった.しかし,句点と読点の使い分けの区別を含め,現行の句読法が確立していったのは,明治40年 (1907) 以降である.これには,西洋の句読法 (punctuation) の影響が関与している.その他,長音記号「ー」や促音符号「っ」の使用も明治時代に定まったものである.「踊り字」と称される種々の繰返し符号(漢字繰返し符号「々」,仮名繰返し符号「ゝ」「ゞ」など)は,古代に発達し,近代にも普通に用いられたが,「現代かなづかい」の告示以降は,ほとんど用いられなくなった.
 近代の日本語文字史は,文字が社会に広く浸透し,文字使用への意識の高まりとともに,標準的な書記が模索がされるようになってきた歴史ということができる.

 ・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.”

半濁音
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E6%BF%81%E9%9F%B3-118272
"パ行音に与えられる名称。清音,濁音に対する。音声学的にいえば,/p-/ は無声音で,/b-/(バ行)の有声音に対するものであるが,日本語の歴史で,ハ行音に /*p-/>/h-/ の音韻変化が生じたために,無声対有声の /*p-/ 対 /b-/ が,清音対濁音の /h-/ 対 /b-/ の関係にずれてしまった。そのために,あきまになった /p/ の位置に外国からの借用語音として入ったのが,いまのパ行音(半濁音)である(促音のあとおよび擬声音を除く)。この観点からは,半濁音の名称もそれなりの意味をもつ。符号「◦」は,元来は清音の四声を示す印であったが,これを半濁音符として用いだしたのは室町時代末期のキリシタン資料からである。

パ行・ピャ行の音節。清音・濁音に対する。ハ行音は古くp子音をもっていたが,これがfのような音に変わった後,アハレに対するアッパレや擬声語および外来語において,pが新たに登場した。その表記は普通仮名の右肩に〈°〉(半濁音符)を付ける。

古来,パピプペポの5音を半濁または半濁音とよびならわしてきている。また,ハ行のかなの肩につける〈゜〉を半濁音符また半濁点ということがある。この半濁という名目が,清音および濁音に対して設けられたのは,いつのことか知りがたいが,観応の《補忘記(ぶもうき)》(1687)にはすでに用いられている。他方,同時代の契沖の《和字正濫鈔(わじしようらんしよう)》(1693)では,半濁のことを〈清濁の間の音〉として説いているが,とくに半濁という名目はみえていない。

ハ行の仮名に半濁点(゜)をつけた仮名文字で表す音節(拍)で、パ・ピ・プ・ペ・ポ・ピャ・ピュ・ピョをいう。頭子音は無声音[p]で、バ行子音の有声音[b]と音声的に両唇破裂音で対応する。「半濁」の用語は近世初期から声明(しょうみょう)関係で用いられた語で、貞享(じょうきょう)4年(1687)版『補忘記(ぶもうき)』にも例がある。[秋永一枝]"

ぎやどぺかどる
https://kotobank.jp/word/%E3%81%8E%E3%82%84%E3%81%A9%E3%81%BA%E3%81%8B%E3%81%A9%E3%82%8B-828897#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
”初期キリシタン版の一種。1599年刊。上下2冊。副題に〈罪人を善に導くの儀也〉。スペインの神秘神学者ルイス・デ・グラナダ著《Guia de Pecadores》(1555年)の訳書。救霊,修徳の指針として,神の十戒を解説。用字は国字で外国語には半濁音符を用いるなど,のちのキリシタン国字版の範となった。

(Guia do Pecador) キリスト教黙想書。上下二分冊。標題下に「罪人を善に導くの儀也」とある。日本イエズス会版の金属活字による国字本。慶長四年(一五九九)長崎学林刊。ドミニコ会のルイス=デ=グラナダ原著(一五五六年初版、リスボン刊)の一五七三年ポルトガル語版による抄訳本といわれる。上下巻末にルビ付き字集を付す。一六〇六年頃増補新版刊行の蓋然性も高い。完本として大英図書館、バチカン図書館蔵本が知られる。”



アサヒ即決裁判所
@vanishingAsahi
·
2019年6月11日
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んでいる影響で『聖書』をイチから読もうかと思うんだが、(ブ厚いんだよな…)という"反キリスト"な気持ちも抱いてしまっているので、まずはずっと前に買った、江戸時代のキリシタンたちが読んでいた『ぎや・ど・ぺかどる(Gvia do Pecador)』から読むか…
アサヒ即決裁判所
@vanishingAsahi
·
2019年6月11日
ぎやどぺかどる、興味本位のコレクションで古いものを買ったんだけど、江戸時代の翻訳そのままの文章で解説もあんまついてないし、そもそも引用されている聖人の言葉も元ネタを知らないからあきらめて放置してるんだよ。
てか"ぎやどぺかどる"って音の響き、なんかカワイイな。

槻宅聡
@tsukitacus
·
2014年11月11日
peccatum とculpa はどう違うんだろう?「回心の祈り」ではmea culpa(我が過ち)で、罪人はふつうpeccator。切支丹書『ぎやどぺかどる』は「罪人の案内」。

qmaclone
@qmaclone
·
2014年8月6日
問題番号305319:元々はスペインの神学者ルイス・デ・グラナダが著した本だが、戦国時代にキリシタンの間で流行した「罪人の導き」と言う意味のある訳書は何? ぎやどぺかどる

タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生
http://www.robundo.com/robundo/column/?tag=%E6%8D%A8%E3%81%A6%E4%BB%AE%E5%90%8D
"すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
① 漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
② 促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、
長崎のオランダ通詞・本木良永が、
天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年
寛政4 長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、
「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。
『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)
"


「国語」「邦語」「日本語」について--近世から明治前期に至る--
On ‘Kokugo’, ‘Hōgo’ and ‘Nihongo’ --from the Edo Era to the First Half of the Meiji Era--
https://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=1460010120
”「国語」「邦語」の自国語的用法が、日本人同士の対内的・仲間内的性格のものであるのに対し、対外的・客観的性格を持つものに「日本語」がある。もっとも、「日本」を冠した言い方には次の諸例もあった。
 日本国のことば 慈円「愚管抄」巻第七
 日本のことば 「天草版平家物語」・「天草版伊曽保物語」・帆足万里「三教大意」・福沢諭吉「文字之教」端書
 日本言葉 「長崎注進邏馬人事」上巻・仮名書魯文「万国航海西洋道中膝栗毛」十三編下
 日本のロ 「天草版伊曽保物語」・「日葡辞書」
 日本ロ 「コリャード日本文典」・「長崎注進邏馬人事」上巻
 日本の言語 「徂徠先生答問書」・「学問のすすめ」十七編
 日本(の)語言 森有礼「日本教育策」
 しかし、これら種々の例は、日本語の呼称というよりも説明的言い方と見るべきものであろう。また、歴史的には、「日本語」が広く用いられるまでの前段階のものといえよう。
 さて、「日本語」の用例は近世には極めて乏しい。

 (64)私達ハ未(ま)だ洋語をしりやせんからどうぞ所々わかればようげすから日本語(につぽんご)で言っておくんなせへ(仮名書魯文「万国航海西洋道中膝栗毛」十三編下明治七年)

(70)Nihon ニホン 日本(中略革) -go,Japanese language,(ヘボン「改正和英増補英和語林集成」明治十九年)”


ヨーロッパに渡ったキリシタン資料が解き明かす中世日本語―天草版『平家物語』『伊曽保物語』『金句集』画像Web公開
https://kotobaken.jp/release/news-190318-01/
”大英図書館所蔵・天草版『平家物語』『伊曽保物語』『金句集』とは

16世紀末から17世紀にかけて,イエズス会の人々がヨーロッパの印刷機を持ち込み,主に日本国内で刊行した書物をキリシタン版と呼びますが,その中で特に熊本県天草 で刊行されたものを「天草版」と言います。

天草版『平家物語』『伊曽保物語』『金句集』は,16世紀の日本を訪れたキリスト教宣教師の,日本語学習向けに編集された読本(リーダー)です。3作品が1冊に装丁されています。

※『伊曽保物語』は,『イソップ物語』を室町末期の話しことばに訳したものです。

NIFON NO COTOBA TO Hiſtoria uo narai xiran to FOSSVRV FITO NO TAMENI XEVA NI YAVA RAGETARV FEIQE NO MONOGATARI.

(日本のことばとHistoriaを習い知らんと欲する人の為に世話に和らげたる平家の物語。)

ハ行を「f」の音で発音していたことが分かります。
印刷史における意義

この本は,1592~1593年に印刷されました。日本に伝来した西洋印刷術(活字印刷)による草創期の印刷物であるため,印刷史の観点からも注目されています。”



日本語の呼称の歴史
(URLは
http://www.tanomura.com/research/papers/tanomura_2020_nihongo.pdfだったが↓に変わった)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/76054/mgsl060_127.pdf


(引用者補足:『キリシタン版ヒイデスの導師』、1592(文禄1)年について)
引用は姉崎編著(1932)における翻字による。振り仮名における仮名遣いの不統一は原文の通りである。
「日本の言葉」「大和言葉」は原本のローマ字文ではそれぞれ
Nippon no cotoba、Yamato cotobaと書かれている。

(引用者補足:コリャード『懺悔録』、1632(寛永9)年について)
24引用の翻字および現代語訳は大塚翻字(1957)による。
「日本の言葉」は原本のローマ字文ではNiffon no cotobaと書かれている。

Nihon no kotoba wo gessanu27 hǐto28, einer, der nicht Japanisch versteht, order: wer die japanische Sprache nicht versteht.
(Philipp Noack Lehrbuch der japanischen Sprache, 1886, Leipzig)

Do you speak the Japanese langage(ママ) /アナタ ニッポン コトバヲ ハナシ ナサルカ
(ウヱンリイト『和英商話』、1862(文久2)年)

いぎりす ことばは てにをはが ことばの まへに あるを もつてこれを はな(離)す。にほんことばは ふるき くにことばの かたに ならひし もの なるに いぎりす ことばの かたにしたがふは いはれ なき こと なり。(英語のテニヲハは語の前にあるから離して書く。日本語は古い言語(サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語)の型にならっているのに、英語式にテニヲハを離して書くのは謂われのないことだ。)
(ネサン ブラウン「てにをはわ ことばの あとに つづけんや」、
『かなのしるべ』まきの六 ふろく、1884(明治17)年)

17~19世紀の日本語資料には「日本ことば」の名称が頻繁に現れ、それが長く日本語の最も一般的な名称であった。

5.2 「日本語」
「日本語」の名称の普及は、証拠に基づいて論じ得る限りにおいて、幕末期、19世紀中葉に始まった。
ニホンコトバではなくニホンゴとして書かれた可能性の高い「日本語」の最も早い用例は蘭書の翻訳である『日本風俗備考』に現れる。

『日本風俗備考』44、1847(弘化4)年ごろ)

推定に頼ることなく読みを確認できる「日本語」の最初の用例は、1858(安政5)年に調印された「日仏修好通商条約」の片仮名版の第21条中に「ニツポンゴ」の形で現れる。
(引用者注:国名はニツポン表記)
(中略)
152
第廿一条 フランスノミニストル ナラビニ コンシユルヨリ ニツポンヤクニンヘ シヨ
メンニテ カケアヒゴト アラバ フランスゴニテ カケアフヘシ ニツポンニテ ナニゴトモ
スミヤカニゲスタメニ ゴネンノ ウチハ バンジ ニツポンゴ ナラビニ フランスゴニテ
シタタムベシ (「日仏修好通商条約」片仮名版、1858(安政 5)年 10 月 9 日調印)

私見によれば、あらゆる言語の名称に関して、
こうした和語系の名称から漢語系の名称への交替が幕末から明治初期にかけて生じた。
『日本風俗備考』における「日本語」や「日仏修好通商条約」における「ニツポンゴ」の用例の時期も、
1860(万延1)年以後におけるイギリスゴおよびエイゴという漢語系名称の出現のそれに大まかに符合している。
「ドイツ語」「清国語」「支那語」などの言語名の使用開始も確認の限りにおいて19世紀中葉である。
ただし、漢語系の言語名の社会への普及開始が幕末であったにせよ、その基盤の形成は少なくとも18世紀終盤の蘭学の文脈にさかのぼる。

エソポのハブラス。ラチンを和して日本(にッぽん)の口となすものなり。71
(『キリシタン版エソポ物語』、1593(丈禄2)年)

われらもにほんくちおひとこと(人毎)にならいやすいとゆう…72(康遇聖『捷解新語』第九、1676年)

(引用者注:[ハングルの]「ッポン」の表記ができなかったので、そこは【ハングル】とした。
니=ニ。
【ハングル】=ッポン。
구=ク。
지=チ。
元の論文の「39/57」[p.164]の注を直接見てほしい。以下同様)
72「にほんくち」のハングルで示された読みは「니【ハングル】구지」(ニッポンクチ)である。
引用に添えた漢字表記は京都大学文学部国語学国文学研究室編(1973)による。

1 点だけ言えるのは、日本語学習書は書名や序文には「東語」や「東文」の名称を用いていても、会話文例にはもっぱら次のように「日本話」を用いているということである。
アナタハ日本語(ニホンゴ)ヲ話サレマスカ/你能説日本話否
(唐宝鍔・戢翼翬(しゅうよくき)『東語正規』、1900(明治33)年)

大塚光信翻字(1957)『コリヤード憐悔録』(風間書房)
大塚光信校注(1971)『キリシタン版エソポ物語 付古活字本伊曽保物語』(角川書店)

仏修好通商条約に片仮名版があり、そこに「ニツポンゴ」の名称が現れる…

日本語名称年表(引用者注:この年表すごい。年号、書名、呼称がずらっと並んでいる。)

1592 (文禄1)キリシタン版ヒイデスの導師※Nippon no cotoba, Yamato Cotoba

1593 (文禄2)
キリシタン版平家物語 Nihon no cotoba
キリシタン版エソポ物語 Nihon no cotoba, Nippon no cuchi

1632(寛永9)コリヤード織悔録 Niffon no cotoba

1676(延宝4)康遇聖 捷解新語 にほんくち(「니【ハングル】구지」(ニッポンクチ))

1858(安政5) 日仏修好通商条約片仮名版(10/9) ニツポンゴ【読み初出】[,フランスゴ,オランダゴ]

1859(安政6) 日仏修好通商条約批准書交換証書 片仮名版(9/22) ニツポンゴ[,フフンスプン,ヲランダブン]

1869(明治2) Aston A Short Grammar of Spoken Japanese,Nihon go* 【口頭語初出】

1895(明治28) 台湾総管府民政局学務部 日本語教授書 日本語*(ニホンゴ)[, 英語]
1896(明治29) MacCauley An Introductory Course in Japanese ニホンご

1943(昭和18)週刊ニツポンゴ(マニラシンプンシヤ)ニツポンゴ,日本語(ニツポンゴ)

※下線などは一部引用できなかった。言語系はコピペできない個所が多い傾向。

かな文字・ハングル対照表
https://sononi.com/kc/jp/sanko/0010kana_han.html




杉浦憲二(Sugíura Kenji)
@sugiura_ken2
返信先:
@imamuray0123
さん,
@muromachi_bot
さん
isola : 島(単数形)
isole : 島々(複数形)
日本列島を ISOLE DEL GIAPPONE、「ジャポネ列島」
本州を ISOLA DEL NIPHON 、「ニフォン島」
と書いているようです。
午後10:10 · 2019年3月23日


日本語表記の歴史 7
https://ungaisoten.com/2019/09/02/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%80%EF%BC%97/
”「日本語全史(沖森卓也著)ちくま新書」によると

「古代日本語の音節は、・・・現代と大きく違っている点は、拗音(キャ、シュの類)が存在しないこと、『ん』に相当する撥音や『っ』で書かれる促音がないことなどである(P30)」とある。

では、いつごろから『ん』、『っ』が使われるようになったのだろう。

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②(倉島節尚著)筑摩書房」によると、

「平安時代i漢語の影響もあって『ン』と発音される音(撥音)が定着し、仮名で『む』と書かれるところや助動詞の『む』などが、『ン』と発音されるようになりました。

しかし、この音を書き表す方法がなかったので、『む』、『い』、『う』であらわしたり、何も書かない無表記であったりしました。

平安時代に書かれた紀貫之の『土佐日記』では、『天気(てんき)』のことを『ていけ』と書いています。」

とある。

左の写真がその土佐日記の一部。最後の行にある「ていけのことについていのる」というのが「天気のことについていのる」と読むが、書くときには「ていけ」と書いていたということがわかる。

さらに「っ」については、次のように書かれている。

「つまって発音される音『促音』も平安時代からはじまりました。

この音を書きあらわす方法もなかったので、『レ』のような符号や、『む』『う』であらわしたり、無表記であったりしました。

また『退屈(たいくつ)』のように『つ』で終わる漢語の『つ』の部分が促音に似た音たったことから、促音が『つ』と書かれるようになったと考える説があります。

なおこれでは本来の『つ』と発音される語と区別がつかないので、『現代仮名遣い』では促音は小さい『っ』で書くと定められています。」

とある。

(鎌倉時代に書かれた)「平家物語」の一部の写真にあるように、「あって」の「っ」が省かれていたり、「やんごとなき」の「ん」が無表記であったり、「まろうど きたって」が「まろうど きたて」と促音の「っ」がないことがわかる。

私達が使っている「ん」や「っ」も、長い歴史の中で作られてそれが広がっていったことがわかる。ここで紹介した本以外にも、たくさんの本があり、諸説色々ありということがわかった。

拗音は鎌倉・室町時代

拗音について、「日本語全史」には、

「拗音という語が『キャ、ショ』などの類を指す意味て用いられるようになったのは鎌倉時代中期頃の悉曇学(しったんがく)においてである。『悉曇初心抄』(1320年以前)には、キャは拗音、ヵは直音であるという記述が見え、これ以降は音韻として拗音が意識されるようになる」

とある。

拗音や促音を小さく書くのは今は当たり前だが、昔はどうだったのだろう。

上の写真は「小学指教図」といい、明治16年のもの。
図を使って言葉を教えたものだが、たとえば一番上の段の左には「きようだい(鏡台)」があり、「よ」は小書きの「ょ」ではない。三段目の左は「ちやうちん」、四段目の右は「らつぱ」とあり、拗音は小書きになっていない。
ここには小書きになっていない例を上げたが、子ども向けの本などには小書きの拗音も使われたということだ。字の大きさの統一はなかったのだろうか。

拗音が小書きになったのは昭和になってから

昭和61年に出された「現代仮名遣い」(昭和61年7月1日 内閣告示第1号)では「拗音に用いる『や、ゆ、よ』は、なるべく小書きにする」という指示で、必ず小書きにしなければならない、というものではなかった。
学校では促音や拗音は小書きー小さな文字の「っ、ゃ、ゅ、ょ」を使うように指導されているが、法令文書では「や、ゆ、よ、つ」は小書きではなく、普通の大きさの文字であった。
それが現在のようになったのは昭和63年7月20日の通知、(「内閣法制局発第125号 内閣法制局長官総務室から 内閣官房内閣参事官室あての通知)「法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について」による。
そこに「小書きにする」と書かれている。
それから促音・拗音は必ず「小書きする」ことが当たり前になったのである。小学校で習っていることが普通になったのが昭和61年、1986年からだとは思いもよらなかった。

最後に半濁音(ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ)について書いておこう。

「日本語全史」には「半濁音符はキリシタン資料の『落葉集』(1598年刊)に見られるのが最も古いようである。」と書かれている。

「落葉集」について調べてみると、長崎で刊行されたキリシタン版の漢字辞書であることがわかった。そこには
字訓にパ行の半濁音が使用されている。たとえば、
「一夫」・・夫に「ぷ」の送り仮名
「一飯」・・飯に「ぱん」の送り仮名
「一歩」・・歩に「ぽ」の送り仮名
が書かれているそうだ。
「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②」には、

「キリシタンの宣教師たちがのこした書物には、「パアテル」のような半濁点が書かれています。これはやがて、日本語でも使うようになりました。(パアテルとはポルトガル語で「①父なる神・聖父 ②神父」のこと)」
とある。

もともとの日本語になかった音が、中国やポルトガルの影響を受け、日本語の音が広がっていったことがよくわかった。
長い歴史と時間がかかって、現在私達が使っている「現代仮名遣い」となったわけだ。それにしても「拗音」が小さい「や・ゆ・よ」で政令文書書かれるようになったのが30年少し前からだとは、知らなかった。”


日本の国号の成立に関する覚書
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwir74bL_pPqAhWSwZQKHefRBe0QFjAAegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D1519%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2jh-fLayyBYT8yu4VJPyA0
(国号の)
”成立時期に限定するならば、およそ次の如くとなろう。
 ①大化改新以降(1)
 ②六七〇年(天智九)~六九八年(文武二)の間(2)
 ③大宝令による(3)”

文献にあらわれたヤマト
http://www.city.higashiyamato.lg.jp/reiki/reiki_honbun/g144RG00000583.html
”倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あをかき) 山隠(やまごも)れる 倭し うるはし
(日本古典文学大系1・古事記・祝詞・岩波書店刊)

○ 迺(すなは)ち大日本(おほやまと) 日本、此をば耶麻騰(やまと)と云ふ。下(しも)皆(みな)此に效(なら)へ。豊秋津洲(とよあきづしま)を生む。
(日本書紀 巻第一)

○ 倭は 国のまほらま 畳(たたな)づく 青垣(あおかき) 山籠(やまこも)れる 倭し 麗(うるは)し。
(〃    巻第七)

○ 丙申(ひのえさるのひ)に、転(うつ)りまして山門縣(やまとのあがた)に至りて、
(〃    巻第九)

○ 大倭(やまと)に向(まうで)きて啓(まう)して云(まう)さく、
(〃    〃  )

<校注>

○ 「大日本豊秋津洲」―ヤマトの最も古い記録は魏志、倭人伝の「耶馬台」である。これには筑後国山門郡の山門(やまと)を擬定する説と、畿内のヤマトを擬定する説との二説があつて決し難い。
ただ、言語学的には耶馬台のトはト乙類töで、山門のトはト甲類to、畿内のヤマトにあてられたトの万葉仮名は、すべてト乙類töで例外が無い。従つて筑後の山門を倭人伝の耶馬台に擬定するのは、音韻上からは、明白に一つの難点を含む。畿内のヤマトは、音韻上からは難点がない。山門(yamato)の語義は、山の入口の意と思われるが、耶馬台(yamatö)または畿内のヤマト(yamatö)の語義は未詳である。ヤマは山であろうが、ト(tö)の意味を決定できない。オホヤマトは本州の称。

以下の島島の名は、神話の成立の頃、大和朝廷の統治した領土の範囲を示すものであろう。一書を含めて、その大部分は、アキヅ島に始まり、瀬戸内海から九州へ行き、日本海を隠岐から佐渡へ行つて、越の国に戻り、吉備島で終わつている。トヨアキヅシマのトヨは鳴り響く意。転じて、稲穂のたわわに色づいた様の形容。アキヅシマは、もと大和の一地名。転じて日本国の総称。

「(大和は)内木綿の真迮き国と雖も、蜻蛉の臀呫(となめ)の如くにあるかな。・・・是に由りて、始めて秋津洲の号あり」(神武三十一年四月条)という地名起源説話がある。アキヅのヅは奈良朝の資料はほとんどすべて濁音である。

○ 「大倭」―書紀が大倭と書く時、一般には大和国をさすが、この場合は日本に対する敬称。

(日本古典文学大系67・日本書紀上・岩波書店刊)


イザナギとイザナミの新婚生活‐‐日本書紀
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page617.html
”及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大
日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豐秋津洲。

子が産まれるときがきて、まず、淡路洲を胞と為した。満足いくもの
でなかった。だからその名を淡路洲(吾恥の意味)という。次に大日
本〈日本。此云耶麻騰(やまと)。下皆效此。〉豐秋津洲を生んだ。

「廼生大日本
〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豐秋津洲」と書いてあります。「大
日本豐秋津洲」の「日本」の部分は、「耶麻騰ヤマト」と読むのです
よと注意書きを入れています。「ヤマト」と読まなかったから、読めと
注意しました。大和または、倭のことを「日本」にすることを決めた
人は、だれか判りませんが、藤原不比等は、使ったことになります。”

9つの変音現象┃連濁・転音・促音化・撥音化・半濁音化・音韻添加・音韻脱落・音韻融合・連声
https://jn1et.com/hennonngennshou/

国号
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B7
"政体を含めない日本の国号は、「日本」である。この用例の最初の確実なものとしては、
一般的には大宝元年(701年)施行の大宝律令の
「明神御宇日本天皇
(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」がそれとされている。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では大化元年7月(645年8月)の条に、
高句麗や百済の使者に示した詔に「明神御宇日本天皇」の文言が出ている。
また最初の徴候としては、有名な中国『隋書』大業3年(607年)の「日出づる処の天子」があげられる。朝鮮半島の史書においては『三国史記』(12世紀に編纂)「新羅本紀」の文武王10年12月(671年1月)条に、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。

近年発掘された飛鳥池遺跡出土の天武6年(678年)銘の木簡から、この頃「天皇」号が既に使用されていることが分かっている。「天皇」号の使用と「日本」号の使用は軌を同じくするとみられている。
平成23年(2011年)7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、事実なら日本という国号が記された最も古い例となる[2]。

中世日本では、大日本国を「大日如来の本国」の意と解釈しており、『釈日本紀』巻第五にもこの説が記述されている(遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.189)。"


室 町 言 葉 b o t
@muromachi_bot
【捷解新語とは】朝鮮出身の康遇聖(カン・ウソン)による日本語会話集。作者は文禄の役で捕虜として日本に連行され、10年の滞日で日本語を習得。帰国後に著した「捷解新語」は、その後も改訂を重ねながら日本語教科書として長く使われた。日本語史の貴重な資料。

ものは深う隠そうとするほど知るる。(天草版金句集)


2013年3月20日
【中の人立ち寄り中】ですので「日本」「平家」「欲する」と紙に書いて、16世紀の人に読んでもらうと、ちゃんと「ニフォン」「フェイケ」「フォッスル」と読んでくれます。


メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―奥野 昌宏 中江 桂子
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/83/1/bungaku-46_109-124.pdf
”「平安時代には『ニホン』が優勢で、東国武士が力を得た鎌倉時代以降『ニッポン』が支配的になったとする研究がありますが、これも大勢についてであって、『ニホン』『ニッポン』両方の読みはどの時代にも使われてきたとするのが通説1」であるという。

1934年に文部省臨時国語調査会が国号を「ニッポン」と定めた事情について、
その経緯の詳細を1951年に三宅武郎が次のように示している。
昭和二年の第五十二回帝国議会に、国号「日本」の読み方を「ニッポン」に統一して、来年の天長節から実行してほしいという請願案が出た。これは政府参考資料として可決されている。その後もしばしば議会で話題になったが、昭和六年六月には、神戸の小学校訓導から文部大臣に建議したり(同月二十六日大毎)、
こえて昭和八年十二月には、京都のロータリークラブで決議したり(九年一月三日大朝)、さらに三月には大阪で「ジャパン」排斥運動をおこしたりなどして、一連の「ニッポン」国号統一運動が活発におこなわれた。
満州帝国の建国は実に同年の三月一日であったのである。このような世論の上に立って、臨時国語調査会は「ニッポン」の呼称統一案を議決したのであるが、
それが昭和九年三月十九日におこなわれたということについては、実はその直前(ちょうど一週間前)の同月十二日に、日本放送協会の放送用語調査委員会において、かねて審議上の懸案となっていた「日本」の読み方について、ひとまず次のような決定をした事実と密接な関係があるようである。
放送上、国号としては「ニッポン」を第一の読み方とし、「ニホン」を第二の読み方とする。この決定に参与した保科(孝一)委員は、臨時国語調査会の幹事であり、そして前記の国号呼称統一案の起草者であったのである。もっとも、右の臨時国語調査会の決議が「ニッポン」を採ったのは、単に当時の世論に同調したというだけのものではなく、実は文部省が古くから教科書に「日本(にっぽん)」とふりがな
して教えてきていたことにもとづくものであり、あるいはこうした世論が広く起こってくるくらいに「ニッポン」の読み方が普及したことも、この教科書による長年の教育の結果であるかも知れないと思われるのである14。
この述懐によると、1920年代の後半には、政治的意図や世情を反映して「ニッポン」への統一圧力が強くなったようである。ここで三宅が国号呼称統一案起草者としている、保科孝一なる人物について、触れておく必要があるだろう。保科は明治30年に東京帝国大学卒業後、国語学研究室助手のかたわら文部省図書課に嘱託として国語国字問題の調査研究にはいった。このころの国語国字問題の焦点は、これまで地方地方でばらばらに使われていた言語を、合理的に整え、かつ平易に誰にでもわかりやすい「国民教育」に資する日本語として整備することであった。これにはふたつの含意がある。ひとつは、国民学校教育のなかで文語体中心の教科書から平易な口語体への移行をうながすことであるが、口語体というのはそれこそ多様であるため、国語調査会は百枚にわたる音韻分布や口語法分布図の作成をもしているほどであった15。
このような国語問題の解決および国語教育の改善への道筋は、国際情勢の変化にともない、さまざまな様相を帯び始める。たとえば日清戦争勝利のあとでは、「文化の開発上もっとも重要な文字を戦敗国から借用していることは、戦勝国の体面にかかわること16」であるとして、新しい国字を創作するべきであるとか、カナ専用論、ローマ字専用論などが飛び出したという。これらは到底実現できないものであったが、しかし保科は、すくなくとも国語国字の問題が、国家統治に影響を及ぼす重要な問題であることを自覚することになる。その結果、国語国字問題のふたつめの含意として、日本統治下の領地における文化政策の根幹としての国語政策という側面が浮上する。彼は大東亜共栄圏における国語政策について、諸外国の同様の事例(オーストリアハンガリー帝国やイギリス・フランスなどの植民地における言語政策)の研究を基礎として、国語教育の指針を作り始める。保科もその一員であった国語協会は、文体は総て口語体にするべきこと、発音を統一すること、文字はカタカナとすること、仮名遣いは発音式にすること、などを趣旨とした「大東亞建設に際し國語國策の確立につき建議」という建議書を東條首相に提出している17。

保科にとって、大東亜共栄圏における日本語教育において必要な規則は、すなわち国内においても日本人みずから尊重するべきものであった。だからこそ、「日本」の読み方は統一されなければならなかったのであり、当時の軍国主義者の激烈な態度にかんがみ、その読みは「ニッポン」であるべきだったのである。そのような政治的時代状況が彼をして「ニッポン」を選ばせた。言いかえれば、戦時下の状況のなせるわざであったにすぎない19。
しかしこうして、戦時下における「ニッポン」への圧力は、徐々に高まっていくのである。1943年1月の 報局編輯の『 報』のなかに、
「近來、ラジオに、講演に、『ニッポン』を『ニホン』と呼稱する何々會長、何々博士が多い。力 き日本、正しき日本は『ニッポン』であり、
『ニホン』はその語調において に力が弱い。習慣の惰性でつい『ニホン』と口がすべるのだと思はれるが、今日の日本においては、是非『ニッポン』と力 く呼稱することを望む20」という投書が掲載されている。 報局は、周知のとおり、戦時体制下の情報統制強化のため1940年12月に内閣情報部を拡大改組された政府機関である。 報局設置により「日本放送協会の指導・監督権は逓信省から 報局に移り」、国内放送については「国民が一致団結して“国防国家”建設を目指すことと、国民の士気を放送によって高めることを目標21」とするとの指導方針が示されている。つまりこの投書の掲載は、戦時下において情報管理と言語統制に強い権限を持った機関が、「ニッポン」への統一を進める立場にあったことを、間接的ながら物語っている。日本敗戦の一週間前に獄死した戸坂潤は、その著書『日本イデオロギー論』に「『ニッポン』イデオロギー」という章を設けており、そこで彼は「日本主義・東洋主義乃至アジア主義・其他々々と呼ばれる取り止めのないひとつの感情のようなもの」を「『ニッポン』イデオロギー」といい、「ニホンと読むのは危険思想だそうだ」と、当時の社会状況を批判している22。彼がこの本を書いた1930年代に「ニッポン」を意識的に使う人びとは、その言葉に明らかな政治的な意味を込めていたといえるだろうし、だからこそそのことを戸坂は批判的に見ていたのである。しかし、統一への圧力を強くかけなければならなかったということは、逆に、一般の人びとの実生活のなかで、その統一がなかなか進んでいなかったことを示しているともいえよう。戦時色が濃厚ななか、情報局の圧力を受けながらも、それではこの時期に「ニッポン」が席捲していたかというと、かならずしもそうではないようである。前述の三宅武郎は、同じ『文部時報』のなかで、以下のようにも綴っている。教科書では散文では原則的に『ニッポン』とし、韻文では字脚の関係で「ニッポン」「ニホン」を自由に使っている。

先年、満州国建国(1934)の前後は、この問題の一高潮を示した時期であるが、
そのさい軍部方面でも、軍の性格上、当然、力強い「ニッポン」説に賛成であった。
ただ、軍人勅諭の読法で、「にほん」と一定してあるために、いつも最上層部でおさえられていたのである23」。
三宅のこの引用文の最後にある、「軍人勅諭の読法」というのは、以下のことを示している。すなわち、大日本帝国軍人はだれでもその基本精神として軍人勅諭を詠じるのであり、だからこそ軍人勅諭は軍人手帳の必須要目としてあり、それを軍人は常に携帯していた。なお、軍人勅諭は誰でもが唱和することができるように、漢字のすべてにふりがながふってあるが、そのなかの「日本國」には「にほんこく」と書いてあり、それは徹底されていた、という事情を示している24宮本によれば、戦時下における文部省の『ウタノホン』『尋常小学唱歌』『新訂尋常小学唱歌』『初等科音楽』で、読み方を確認すると、「日本」がでてくる30曲のうち、「ニホン」が16曲「ニッポン」が14曲であったという25。以上に鑑みると、国民の多くが、
実際には「ニホン」も「ニッポン」も変わらず使用していたようであるし、さらに重要なのは、軍部の内部や文部省の内部ですら、「ニホン」が影を潜めたことなどないという事実である。しかしそれでもなお、いやそうだからこそ、ある時期「ニッポン」への統一圧力が高まりをみせ、しかもその背景に軍事強国と国民統一の達成に向けた政治的意味を色濃く滲ませているのである。
東京放送アナウンス室が1981年にアナウンサー向けに作成した『アナウンス基本教材』には、最もゆれの大きい表現が日本(ニホン・ニッポン)であると記されているが、その項目の続きには、以下のような記載がある。「戦争中に南方で日本語を教える場合、日本橋と日本書紀をのぞいて、ニッポンに統一。
ことばはきめてみたところでなかなかそのとおりにはいかない。
現代はかなりニホンに動いてきた。日本銀行、紙幣にはニッポン、口の上ではニホン26」である。
そして東京放送は、1999年のテキストをはじめとして、その後においても、基本的に社としては国名呼称を「決めない」立場を踏襲している27。これに対してNHKは「正式の国号として使う場合は『ニッポン』、そのほかの場合は、言葉に応じて読み分け」るとの方針を公にしている28。小松英雄は、
日本の奈良時代の中国音である「ジッポン」が、
やがて「ジッポン→ニッポン→ニホン」という音韻変化を示したことを論じ、「ニッポン」がより漢語的、「ニホン」が和語的な型である、という。
さらに、「とっても」が「とても」の強調形であるように、強調形「ニッポン」を普通形「ニホン」に戻す意識が働いたのではないかとの説を展開している29。

(引用者注:雑誌記事件数についての棒グラフが
「ニッポン」と「ニホン」それぞれについて図がある)
「ニッポン」のヒット数を示す表と「ニホン」の表とでは、縦軸の目盛が異なり、どれほど「ニッポン」の出現が著しいか、また、それが1990年代後半以降いかに急増しているかがわかる。詳細にみると、「ニッポン」の表記は、80年代から微増をはじめるのだが、一気に拡大するということではなかった。しかし、1995年から1996年にかけて、「ニッポン」の頻度はいきなり3倍に頻度が跳ね上がる。1996年以後の10年間はその水準で微増を続け、2005年には雑誌記事件数が522件となり、ひとつのピークを迎える。70年代にはすべての年において、それぞれ20件以下であり、80年代では、各年とも50件以下(88年のみ53件)であったことと比較すると、2005年における「ニッポン」への熱狂がよくわかる。いわば「ニッポン」の爆発である。2005年といえば、奇しくも戦後60年にあたる年であり、年頭早々に、
日本軍の性暴力を裁く女性国際戦犯法廷を取材した、
NHK教育テレビ『ETV2001:シリーズ戦争をどう裁くか』の第2回
「問われる戦時性暴力」にかんする番組改編問題が大きな話題となった年である。3月には日本国際博覧会「愛・地球博」が開幕、また、小泉首相靖国参拝が外交問題となり「小泉劇場」が流行語大賞にもなった。もちろん、このような世相と「ニッポン」の跋扈との間に直接的な因果関係があるというような、拙速な判断は避けなければならない。しかし、2005年はオリンピックもワールドカップも、目立った国際的なスポーツ大会は何もなかった年である。スポーツイベントの大応援がないとすれば何がこのような大きな変化を呼び起こしたのか。このことについてさらに考究する価値はあるだろう。2006年以降も、基本的には2005年の高水準をやや下回るだけで、400件前後の数で落ち着きつつある。これは「ニッポン」という表現にたいする熱狂、「ニッポン」の爆発が続いているというよりも、「ニッポン」が高水準のまま定着しつつあることを示唆するものである。ところで、「ニホン」の方だが、これは、1970年前後から使われはじめ、穏やかに増加しているが、件数でいえば「ニッポン」の比ではない。そのうえ、実際の用例をみるとその中身は、国号であることはわずかで、9割以上は、動・植物の名称である。すなわち、ニホンザル・ニホンジカ・ニホンイノシシ・ニホンナシなど、絶滅危惧にかかわるような日本の動・植物種の生態研究などが大半を占める。自然破壊や環境問題がクローズアップされ、研究課題として取り上げられた歴史として考えれば、70年代からの増加はうなずけよう。もちろんこのことは、「ニホン」という音が使われなくなったことを直接には意味しない。それどころか、国号としての「ニホン」は、カタカナで表記されるより、「日本」という漢字を読む音としてごく普通に使われているということであろう。ただ、「ニホン」という音に対する自覚的な意識が、次第に絶滅の危機にさらされていくプロセスに、重ね合わされているような気さえする、奇妙な符合である。
国号に「ニホン」という表記を意識的に使用しているひとりに津田左右吉がいる。「現下の世想とニホン人の態度」「ニホンみづからを知る必要について―平和声明についての所感―」「ニホン人の思想的態度」など、一連の論文が目を引く。カタカナの「ニホン」とあえて表記することについての津田自身の説明は見当たらないが、
これら「ニホン」という一連の論文が昭和21年から24年にかけて発表されていることに注目したい31。
これ以上津田左右吉をここで論じる余裕はないが、彼が皇国史観にまっさきに異を唱えた人物
であることや、戦後における歴史学に果たした役割の大きさから考えると、語用の意図は十分に推し測ることができる。
長谷川如是閑もまた「ニッポン」を嫌ったひとりであった。彼は、「ニッポン」は戦時中軍部が使った言葉であるとして絶対に使わず、「ニホン」でとおした、と如是閑の評伝番組のなかで、彼と旧知の殿木圭一が語っている32。

前述したように、戦時体制下では「ニッポン」への圧力が高まったが、実際の人びとの日常生活の中では、「ニホン」も「ニッポン」も使われ続けており、「ニッポン」一色になった時代など存在しない。とすると私たちの時代もまた、メディアにおいては「ニッポン」の蔓延があったとしても、一般の人びとの国名呼称への意識そのものが、それによってどれほどの影響を受けたのか、ただちに結論づけはできない。NHK放送文化研究所ではほぼ10年ごとに国名呼称にかんする調査をおこなっているが、上記宮本の調査によると、国名呼称について「ニホン」/「ニッポン」を選ぶ人の割合は、1993年で58パーセント/39パーセント、であったのに対し、2003年では61パーセント/37パーセントである。いずれも概して若い世代ほど、「ニホン」への指向性が高く、ほぼ同様の傾向を示している34。書き言葉としての「ニッポン」がこの間に7~8倍に増えていることを考えると、「ニホン」を支持する人が安定的に約6割いることの意味を、私たちはどのようにとらえるべきなのだろうか。言いかえれば、一般的な社会的慣用の実態から乖離した表現を、メディアが選んで使うことを、どのように解釈すればいいのだろうか。

注1新聞用語懇談会放送分科会編『放送で気になる言葉 改訂新版』、日本新聞協会、2003年、90ページ。
2宮本克美「『ニホン』か『ニッポン』か 『日本』の読み方の現在」『放送研究と調査』2004年4月号、79ページ。

3「特に報道及びアナウンスにこれを徹底させるために、周到な用意の下に調査研究を行ふ機關を設けることは、放送當局年来の懸案であった」とある。日本放送協会「放送用語竝發音改善調査の開始」『ラヂオ年鑑』昭和9年。4岡倉由三郎「放送用語発音改善調査事務の開始とその仕事」『調査時報』1934年2月号、2ページ。5同上論文、3ページ。6同上。岡倉は別の論考のなかで、「ことばの本然の姿は口から耳へ傳へられる音聲であり、それには文字を以て表し得ない微妙は明暗も色合もあるものであるから、さういふ點にも注意して國民各自が自己のことばの陶治に努力しなければならない」と言い、書き言葉のみならず話し言葉にも意識的になる必要を説いている。したがって岡倉は「ラヂオこそ國語陶治の最上の利器である」と述べる。岡倉由三郎「國語陶治とラヂオ」『國語科学講座XII國語問題』明治書院、昭和9年、32-33ページ。7この思いの一端はすでに次の小論の中で述べている。奥野昌宏「テレビは今こそ言葉を大切に」『レポート』23号、2002年5月、1ページ。

8昭和9年3月12日の放送用語調査委員会における決定。ただし放送用語としては1933(昭和8)年のロサンゼルスオリンピック大会の放送において「ニッポン」の語感が強いという理由で「ニッポン」を使った
ことが記録されている。三宅武郎「国号「日本」の読み方について」『文部時報』889号、1951年9月。71-72ページ。
9新村出「標準語の採用基準」『新村出著作集第二巻』筑摩書房、昭和47年、〔初出は、『放送』昭和16年6月号〕10新村出「『国語の基準』」『新村出著作集第二巻』筑摩書房、昭和47年、〔初出は、昭和17年6月〕。
新村は戦後になって、新聞記事に以下のような思い出を書いている。「(ニホン・ニッポンの)問題は、実に大した問題ではないのであるが、統制主義の猛烈な時分に至ると、軍部や右翼の統制主義のために余波を被むり、是非ニッポン一本槍にして統一すべしといきまいたものだ。ラジオで講演者がニホンと言はうものなら、日本精神への反逆者あつかひで、葉書の抗議が放送局へまひこみ、大坂での講演のをり、私がニホンニッポン両栄両存の論を述べたのに対して、詰問書がとびこんだやうないきさつもあつたほどだ。・・・時なるかな、今やニッポンかニホンかの問題が、堂々と自由民主の標榜下において、圧迫を受けない公論の壇上で、公明正大に討議が出来てありがたい世の中になった」。(「ニホンかニッポンか」『新村出著作集第十二巻』551-553ページ。初出は、『夕刊新大阪』昭和21年9月9日)11新聞用語懇談会放送分科会編、前掲書、90ページ。また、『朝日新聞』1970年7月14日付夕刊には、当時の佐藤栄作首相が閣議で「自分は意識的にニッポンを使っている。それが公式の定着した表現ではないか」と発言、政府としては「ニッポン」を使うことになった、という逸話が紹介されている。
12池田弥三郎「ことばのゆれ」『文研月報』(放送用語委員会30周年記念号)1964年12月号、2-3ページ。13放送用語委員会「放送用語の研究調査の現状と将来」同上誌、17-18ページ。14三宅武郎「国号『日本』の読み方について」『文部時報』889号、1951年、71ページ。15保科孝一『国語問題五十年』昭和24年、三養書房、142ページ。この数百枚に至る音韻分布図や口語法分布図は、残念ながら関東大震災ですべて焼失したという。

16保科、同上書、3-4ページ。

17保科孝一『大東亞共榮圏と國語政策』昭和17年、統正社、427-435ページ。この著作の中で保科は、諸外国における言語統治政策についての研究成果をまとめており、その最後の部分に「大東亞共榮圏内日本語普及の對策」という章を設けている。そこで、この建議書を重要な資料として載せ、言語政策に織り込まれなければならないとしている。
18保科、同上書、464ページ。

19これをもって、保科孝一が帝国主義的思想の持ち主であったという拙速な判断は控える必要がある。彼は、軍国主義者や超国家主義者たちが国語国字問題に敏感に反応することを肌身によく感じていた。一例のみをあげよう。
臨時国語調査会から発表された新かなづかいを国定教科書に採用する方針を決定すると、それは古来の伝統を破壊するものであり非国民だ国賊だとの声が保科を襲ったという。このとき「わたしの身辺に危險をさえ感じてきたので、警視廳ではひそかに保護してくれたそうだ。当人はなにも氣づかずにいたが、あとから之を聞いて笑いながら、こう答えた。身をころして仁をなすというのもおこがましいが、もし殺傷されてもそれでかなづかいが 科書に 用されれば・・わたくしとしてはそれで満足であると」(保科孝一『国語問題五十年』三養書房、昭和24年、188-192ページ)。保科は、国語国字問題がきわめて政治的な問題であることをいやがうえにも自覚していたがゆえに、当時の政治情勢国際情勢上の必要をも感じていたのである。言いかえれば、戦後の政治情勢・国際情勢の変化を経てもなお「ニッポン」や言語の統一の必要性にこだわり続けたかといえば、決してそうではなかったことを付け加えておきたい。20報局編輯『 報』327号(昭和18年1月20日号)、32ページ。

21日本放送協会編『放送五十年史』日本放送出版協会、1977年、137ページ。
22戸坂潤『日本イデオロギー論』岩波文庫、1977年、132-134ページ。

23三宅、前掲論文、72ページ。
24梅溪昇『軍人勅諭成立史』青史出版、2000年。347-362ページ。ここに、宮内庁書陵部所蔵の軍人勅諭本
文が図版として掲載されている。「日本國」のふりがなが「にほんこく」であることが確認できる。

25宮本、前掲論文、97ページ。26東京放送アナウンス室『アナウンス基礎教材』1981年、142-143ページ。27東京放送用語委員会編『ことばのガイドブック』1999年版、その他、同社用語委員会の資料等には、「『ニホン』か『ニッポン』かは、現在も決まっていません」という表記が基本的に踏襲されており、企業・団体・公共機関などの固有名称の読み方についての手引きが添えられている。28NHKホームページ、『NHK放送のことばハンドブック』等。29小松英雄『日本語の音韻』中央公論社、昭和56年、200-217ページ。30新聞用語懇談会放送分科会編、前掲書、91ページ。

31津田左右吉「ニホン人の生活の反省」(昭和21年)、
「現下の世相とニホン人の態度」(昭和23年)「ニホンみづからを知る必要について」(昭和24年)は、
『津田左右吉全集第23巻』岩波書店、昭和40年、所収。
「ニホン人の知性のはたらき」(昭和21年)、「ニホン人の國民的活動の最盛期」(昭和23年)は、
『津田左右吉全集第28巻』岩波書店、昭和41年、所収。

32『NHK教養セミナー 20世紀の群像 反骨のジャーナリスト 長谷川如是閑』NHK教育テレビ、1983年1月11日放送。332011年2月第1週のNHKの番組表を調べると、「ニッポン」ないし「にっぽん」を冠している番組は、以下のとおりである。一つひとつの番組がシリーズを組んでいること、多チャンネル化のための再放送が多いことなどにかんがみると、実際の「ニッポン」「にっぽん」の放送枠は少なくとも一週間に40を超える。(「COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン」/「にっぽん釣りの旅」/「にっぽん木造駅舎の旅」/「こんなステキなにっぽんが」/「にっぽん巡礼ミニ」/「プレミアム8<自然>ワイルドライフ「ニッポンの里山」」/「見えるぞニッポン」/「にっぽん心の仏像」/「爆笑問題のニッポンの教養」/「直伝和の極意 体感実感!にっぽんの名城」)これにたいし、「ニホン」「にほん」は、「にほんご」という場合のみで、以下の二番組である。(「にほんごであそぼ」/「エリンが挑戦!にほんごできます」)34宮本、前掲論文、83-85ページ。および、大西勝也・最上勝也「あなたは「ニッポン」「ニホン」のどちらですか」『放送研究と調査』第43巻8号、(1993年8月号)を参照。35社会的慣用の実際とメディアに携わる人びとの言葉の使用とのあいだに乖離が認められることは、比較的にありがちなことであるのかもしれない。「ニホン」「ニッポン」の使い方については、たとえば、やや古いものだが、湊豊子の論及がある。
これによると、一般人に調査したところ「ニッポン」という発話が1割を超える程度、「ニホン」が7割を超える程度であったのに対して、アナウンサーでは、「ニッポン」が約5割、「ニホン」が3割を超える程度、であったという。
湊はこの時代でさえ、メディアが「ニッポン」というのに、一般国民が「ニホン」という、いわば逆の結果
となっていることについて、大変興味深い事実であると延べ、「ニホン」を消し去ることは自然ではない、と主張している。いまでは、この乖離がさらに広まっている可能性がある。
湊豊子「ニホンかニッポンか」『言語生活』227号、1970年8月、61-69ページ。

36鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」『鶴見俊輔著作集3思想II』筑摩書房、1975年、12-25ページ。
この論考の中で鶴見は、「『大日本帝国』だとか、日中戦争のころの国民歌謡・・・だどか、
要するに儀式めいた時、元気な時、侵略思想を広げようとするときには、日本という漢字は『にっぽん』と発音される。だから日本が五・一五事件や二・二六事件のような暗殺騒ぎをへて、『非常時』にはいり、大戦争に深入りするにしたがって『にっぽん』が『にほん』をしのいでつかわれるようになったのもあたりまえだといえよう」と記述している。

37鶴見、同上書、13ページ。

付記:この研究は成蹊大学より助成を得て行なわれた。また、研究を進めるうえで、次の方がたからご助力をいただいた。
記して謝意を表したい。竹山昭子氏、市村元氏(TBS)、柴田徹氏(同前)、柴田秀一氏(同前)、西村秀樹氏(毎日放送)、三好俊行氏(同前)、中村耕治氏(南日本放送)、陶山賢治氏(同前)、丸山健太郎氏(同前)(所属はいずれも当時)。



(↓の論文の引用で画像文字起こし機能を利用してみた。全文人力よりはるかに早い。
この論文、紙の論文をスキャンしただけなので文章ではなく画像データ。

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一から十まで人力で写すするよりは遥かに早い。


国号「日本」の読み方について
三宅 武郎
の出版年は 1951-09と
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5195810-00
にある)
文化庁
国号「日本」の読み方について 三宅武郎
https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/series/37/pdf/kokugo_series_037_05.pdf
"1 「日本」という国号はいつごろから
始まったか

 これについては,古来,歴史の専門学者の間に諸説があって,
今日のところ,まだ定説というものはないようである。したがって,
ここにはただ大体のことを紹介しておくだけである。
推古天皇の摂政聖徳太子(摂政593-621) のときには,まだで きていなかった(注1)。太子が,外交上,国号の制定を必要とさ れていたことは史上に明らかなところで,当時,
遣隋の国書に 「日出処ノ天子」または「東ノ天皇」と書かしめられたことは, その苦心の現われにほかならない(注2)。
その後,大化改新 (646) のときに「日本」という国号も制定されたと考えられないこ とはないが(注3),
その説のよりどころとなっている大化元年, 高麗(こま)・百済の使に宣せられた詔の冒頭に「御宇日本天皇」とある のは、後の令制(詔書式)をいにしえにめぐらした書紀の例の筆法といわれても,一応いたし方のないところがあるので,これは しばらくおくとし,
最も確実なところでは、近江令(注4)を修正 した大宝令(注5)
それをさらに再修した養老令において,とく に外交上の用語(注6)として「日本」の国号が制定されている といえるだけである。
そして,その養老令が公布された養老2年の2年後の養老4年(720)に成った国史の第1書には「日本」 の名を冠し(日本書紀),
かつその書中,従来の「倭(わ)」の字はすべて「日本」に書き直して,
これを「やまと」と読むべきことを 注記してあるから(注7),
ごく大ざっぱにいっても8世紀の初頭 には「日本」の国号が字面的に確定し,かつ,その読み方は「やまと」であったと言ってよいわけである。

 中国でもその時代以後,「日本」という国号を公式に認めて, それまでの倭の呼称を廃し(注8),
かつそれから彼国の人の詩文 にも多く「日本」の語が用いられるようになったのである(注9)。
 そして,もとの「倭」は後に「和」の字に書きかえて,
和国・ 和歌・和語・和諭・和製・和英(辞書)などに用いている。また, これに大の字を冠して「大和」と読み,大和魂・大和心・大和 なでしこなどの語にも用いる。
 一面,畿内のやまとの国にも大の字を冠して大倭(おほやまと)・大和(おほやまと)ともい ったが(注10),
今日では「大和」というふうに一定している。

〔注1] 聖徳太子の時代にまだ「日本」と熟字した国号がなかっ たことは,
太子の法華義疏(ほっけぎしょ)のそでがきに
(引用者注:原文では漢文に付加されたてにをはや読む順番の記号は小さくなっているが、
引用ではできなかった。
「非ズ二海彼ノ本ニ一」のうち、「非ズ二」の「二」は読む順番。
「本ニ一」の「ニ」は「に」で、「一」は読む順番)
此ハ是レ大委国ノ上宮ノ王ノ私集ナリ, 非ズ二海彼ノ本ニ一  とあるのによって確証される。
「委」は「倭」の本字であるが,また「倭」の略体と考えても さしつかえない。

[注2] 日出処ノ天子うんぬんという国書の文句は,わが国の史書
にはのっていないで,かえって中国の史書にのっている。
大業三年,其(ソノ)王多利思比孤(タリシヒコ),….其ノ国書ニ日ク。
日出ヅル処ノ天子…(隋書倭国伝)
 隋の煬帝の大業3年(607) は推古天皇(聖徳太子摂政)の 15年で,その時の使は小野ノ 妹子であった。
翌年,再び妹子を 隋につかわす。

〔注3〕 本居宣長:国号考
〔注4〕 近江令は天智天皇の遺制で,
持統天皇(天智天皇の皇女 で天武天皇の皇后)の3年(689)に公布された。
〔注5〕 大宝令は近江令を修正改編したもので,
天武天皇の5年 (大宝元年 701)に公布された。しかも歴朝,これを天智天皇 の遺制として尊重されているのである。

参考:――
 近江ノ大津ノ宮ニアメノシタシロシメシシ大倭根子(オホヤマトネコ) 天皇(スメラミコト)ノ,
天地(アメツチ)ト共ニ長ク,日月ト共ニ遠ク,
カハルマジキ常ノ典(ノリ)ト立テ タマヒ,
敷キタマヘル法(ノリ)ヲ,
受ケタマハリテ行ヒタマフ(奈良朝第1代元明天皇の即位の宣命)。

平安朝における十陵の制度では、
天智天皇の陵を第一におかれた。
それを宣長は概して,「神武天皇の陵をこそ第一に厚く 祭りたまふべく」といっている(古事記伝二十)。
 かように考えてくると,この「日本」の国号も,実質的には,
やはり天智天皇の遺制の一つとして,
近江令発布の年(689) まで12年をさかのぼって考えてよいかとも思われるが,さらに 精神的には聖徳太子の遺業だともいってもよいであろう。

〔注8〕 大宝3年(703) 遣唐使粟田(あわだ)ノ真人(まひと)が,
その高潔, 神の ごとき儀容・進止をもって「日本国ノ使」と名のり,
唐廷(時に則天武后の長安3年で国号を周と称した。)の君臣・上下をして
歎美おくあたわざらしめたうちに,よく「日本」の新国号を 承認せしめたと認めてよいであろう(文武紀)。
中国の正史(新 旧の唐書)でも,このときの記事から旧来の「倭国伝」が「日 本国伝」にかわっているのである。

〔注10)[「)」は原文ママ]] 畿内の大和の国を古く大和とも称したことは倭名類聚鈔(じゅしょう) の国郡の巻に
「大和於保夜万止(オホヤマト)」とあるのによってもあきらかであるが, なお,それよりも小さい地方名としても山辺郡に大和(おほやまと)があり, これは延喜式所見の古名である。
 畿内の一国,帝都の所在地としての大和(やまと)をも, もとの 倭(やまと) に大(おほ)の美称を冠して大倭(おほやまと)と呼び(おそらくは公式的なものであったろう), それを聖武天皇の天平9年12月に大養徳(おほやまと)ノ国と 改め,
さらに天平19年3月に再び大倭国の旧字に復した(続日本紀)。
その大倭をさらに大和としたのは天平勝宝4年の11月 の 4~25日の間と推定されている。
それは同年11月3日に藤原永手を「大倭守」となすとあり(続日本紀),
そして万葉集 19 巻 (4277番)の歌の作者を「大和ノ国守藤原永手」 とあるのによる(本居宣長 : 国号考和の字の項)。
 日本書紀には畿内の大和にも日本の字をあてている。
たとえば日本(ヤマト)ノ国ノ之三諸(ミムロ)山(神代巻)など。その他, 神(カム)日本(ヤマト)磐余彦尊(イワレビコノミコト) や日本武尊の日本(ヤマト)もそれである。


  2 「日本」の語原的意味はどうであるか

 聖徳太子の「日出処」というのとまったく同じ意味である。けだし「日本」は「日のもと」 であり, その「もと」は「源(みなもと)」の 「もと」と同じ意味である。すなわち「みなもと」は水之原(みなもと)=水之本(みなもと)の意味である。
元来「源」は「原」が本字であり(注11), そ れに後世サンズイをつけたのであるが,あたかも「然」ですでに 「もえる」という意味の字であるのに,さらに火へん をつけて 「燃」としたようなものである。
そして「原」は「本ナリ也」と訓 じて,すべて「もと」すなわち物の本原という意味である。
そこ で漢和大字典に「源」は「水泉の流れ出づる本(もと),みなかみ。」と 解釈してあるが,これに準じて説けば,「日の本」は「日の出づ る本,ひなかみ。」 というわけである(注12)。つまり水源地に対 する日源地ともいうべき心持での「日出処」というのが,すなわ ち「日本」という熟字の意味だと考えてよい。それもひっきょう 日本人に自ら東方日出の国にいるという自覚があり,おのずから 「日の本のやまとの国」と歌い上げた高まいな気はくにもとづく のであろう(注13)。
もっとも「日の本」というのは「やまと」のまくらことばであ って,
それだからこそ「春日のかすが」「飛鳥のあすか」から「春 日」「飛鳥」という熟字訓の用法ができたのと同じ趣で,
これも 「日本のやまと」から「日本」という熟字訓もできたのであると し,はじめから「日の本」という国号があったというわけではない(もしそういう語があったとしたらそれは先住民族に関係のあ
る称呼であろう)


〔注12〕 「みなかみ」が「みなもと」よりも語感が古いように, 「ひなかみ」が「ひのもと」よりも語感が古い。それは「みなかみ」および「ひなかみ」が「みなもと」および「ひのもと」 よりも1時代古くおこなわれた語であるということを暗示して
いるのであろう。

〔注13〕 万葉集三(319番) 詠不尽山歌
 日本乃(ひのもとの) 山跡国乃(やまとのくにの) 鎮(しづめ)とも ゐます神かも  宝とも  なれる山かも 
駿河なる  富士の高嶺は  見れどあかぬかも

 3 「日本」を「ひのもと」と読んで国号と
   してはどうかという意見について

 これから新しくそう読むことにきめればともかく,
これまでの ところでは「日本」は「ニホン」または「ニッポン」と音よみす べきである。 .
日本の国家統一は大和朝廷の力によるもので, しぜん「やまと」 というのが統一国家の総名ともなったのである。ところが,それ
に対して古くから「倭」の字をあて,さらにこれに「大」の字を つけて「大倭」とも書いて 「おほやまと」 と読んでいたのを, 後に「日本」という熟字にかえたまでのことであるから,その当時はもとのままに「日本(やまと)」と読み,
一面,字音では「日本(にほむ)」というようにも読んだことであろう。
早い話が日本書紀の書名など, おそらく音よみしたのではあるまいか。
 後世,歌ことば(または文ことば)としては「日本」を「日の本」といっているが(注14),
実際の話しことばとしては「日の本」 とはいわなかったらしい。
その点,神皇正統記にはっきりと「ひのもと」とは読まずといっているのは鉄案である(注15)。
いやそ れどころでなく,ある時代には,実際の話しことばとして「ひのもと」といえば,それは意外にもエゾのことであったのである。


 小だわらのことは,くわんとう・ひのもと(○○○○)までのおきめにて候まま,
 ほしころしに申つく可(べく)候間,としをとり可申候。(豊太閣真蹟集第25葉一ワキマル筆者)

 これは秀吉が例の自ら「てんか」(殿下のかながき)と署して 京都なる「大まんどころ」(夫人の大政所)あてに送った
天正18 年「5月1日」づけの手紙の1節である。この「くわんとう・ひのもと」の「ひのもと」とは、
関東に対して関東以北の地,むしろ北辺エゾの地までを含めていると解釈するよりほかに道がないようである(注16)。
 大日本地名辞書所引の史料によると(注17),
むかし津軽の安東 (または安藤と書く)氏が,エゾを征討した功によって,
日本(ひのもと)将軍(または日下(ひのもと)将軍と書く)と呼ばれている。
 人国記というのは元祿年間に世に出た諸国風俗物語であるが,
その陸奥の国の条に「コノ国ノ人ハ,日ノ本ノ故也(注18), 色白クシテ眼ノ色青キ事多シ」とある。

函館図書館蔵の寛文蝦夷図には,松前から30日行程のところに
「是ヨリ東ノ方,日ノ本卜云(イフ)」とあるが(注19),
それを今日の地 図に引きあててみると,ちょうど日高の国あたりにあたっている のは、
はたして偶然の一奇(原文ママ)であろうか(注20)。
北海道の古名は越 渡島(コシノワタリ)である(文武紀)。また越(コシ)ノ洲(シマ)である。 (古書記)。
その越(コシ)は越(ヲチ)の通音で,そのヲチ島がヲ島となって、
後に渡島(ヲシマ)(日本紀古訓)と読むようになったものと考えられる(注21)。
 さてエゾには古く大別して3種があった。
すなわち景行紀に わゆる津軽エゾ・ニギエゾ・アラエゾ,
または諏訪大明神絵詞 (続群書類従第3集所収)にいわゆる渡り党・日の本・カラコな どである。大日本地名辞書に種々の伝説を合考して,
狄(てき)種の一に,中古,ヒノモトてふ者の存在せるを会得するに 足らん。(北海道6ページ) といっているのはけだし動かないところであろう。また倭訓栞 にいう。
俗諺に,奥州日の本の称あるは,日本紀に, 東夷之中, 有 日高見国 」といへる意なるべし。 その他,金田一博士の説など(注22)。
これらの資料によって考えると,上記,秀吉のいわゆる「ひの もと」とはエゾの種族名ないし地名であること疑いないが,それ はあるいは当時の東日本的(●●●●)な方言(●●)であったのではあるまいか。そ して方言こそは生きた話しことばであって,その点,上記の歌こ とば(または文ことば)としての「日の本」とはまったくその性
格を異にしているものである。
かつて,中央語(すなわち標準語的なるもの)としては,エゾ はエゾであり(今日アイヌというよう に), それを「日の本」と は恐らく一般にはいわなかったのであろう。そしてもし「日の本」 といえば,それは国号「日本」の歌ことば(または文ことば)と しての修辞的表現にすぎないものであった。
そして,真に生きた 話しことばにおける日本の国号は,むかしは「日本(やまと)」であり,
中古以後は「日本(にほん)」または「日本(にっぽん)」であったと思われる。
かくして わが「日本」の国号は,その文字どおりに「日の本」すなわち 「日の出づる処」という意味であって,
それは8世紀の初頭(実 質的には7世紀の末か)にできた
ものであるにしても,
その思想 的ないし歴史的な源は意外に遠く,かつ意外に深いものがあるか もしれないと思われる。が,それはもう筆者などの立ち入るべき 領域ではないので言及をさしひかえる。
されば「日の本」とは,歌ことば(または文ことば)としては 別であるが,話しことばとしてはエゾを意味する1種の時代的方言であるので,標準語としての日本の国号は,古語では「やまと」 であり,
中古以後では「日本」を音よみにした「ニホン」または 「ニッポン」である。それがすなわち国号「日本」の読み方にお ける標準語的性格ともいうべきものであろう。

〔注14〕 ひのもと(oooo)にはさらに御覧じうることなし。
      (源氏物語薄雲)

いとむつかしきひのもと(oooo)の末の世に(同若紫)

わが国は天照る神の末なれば日の本としもいふにぞありける
藤原良経 (玉葉集)

日のもとに咲けるさくらの花みれば人の国にもあらじとぞおもふ
平兼盛 (拾遺集)

〔注15〕  字のままにひのもととは読まず,やまとと訓ぜり。(神皇正統記神代)

   比能母登(ヒノモト)といふ号は古の書に見えず。日本(ニホム)といふは, 意は
  その意なれども, もと異国へしめさむために設けたまへるな
  れば, ひのもととはよまず, 始めより爾富牟(ニホム)と字音にぞいひ
  けむ。(国号考)


 ちなみに「本」のn韻をm韻に読むことは, 任那(任nin)を mi mana, 小野ノ妹子 (imoko) を因高(イモコ)(因in),
文 (fun) をfumi とするの類で, くちびる音の盛行した時代があったことを物語るが,
その流れの一つの現われと見てよいであろう。

〔注16〕  秀吉は同じ小田原陣からの消息(豊太閤真蹟集第24葉)に, 国号の「日本」を「二ほん」と書いている。また他の消息(同上第18葉)には「にほう」と書いている(その「う」は「ん」の音――この「ん」は〔ng〕にあたる――を示す)。
一面, 秀吉の右筆が書いた組屋文書(推定文祿5年の5月18日づけ)には「につほん」とあるから, たぶんかれらも「ニホン」と「ニッポン」とを両用していたのであろう。
 それにしても秀吉が国号の「日本」と奥州「ひのもと」とを区別していたということは注意されてよい。


〔注17〕 大日本地名辞書4716-7ページ, 同北海道6ページなど。
〔注18〕史籍集覧第17集所収, 伴信友校本。この「故也」は「故ニや」の意か。板本には単に「に」とある。
〔注19〕函館図書館蔵。写真は昭和13年9月21日同館(岡田健蔵 館長)から恵与されたもの――ここに深く感謝の意を表する。
〔注20〕 松浦氏命名案内(大日本地名辞書 240 ページ所引) 参照。
〔注21〕 これは私見の渡島(ヲシマ)語原説である。
〔注22〕 金田一京助 : 蝦夷と日高見国(大正15年刊「アイヌの研究」所収)
ちなみに「みなもと」と「みなかみ」とが一対の同義異語であるように,
この「ひのもと」と「ひなかみ」ともまた一対の同義異語である。
そして「ひなかみ」が「ひたかみ」 ないし「きたかみ」の名で、
はじめ大和(大倭日高見(おほやまとひだかみ)ノ国―大祓(おほはらひ)ノ詞(ことば))から
常陸(此ノ地本ト日高見ノ国也―常陸風土記)に東遷 し,
そこから針路を転じて東北,
北上川の流域(東夷之中有 日高見国 ―景行紀)へ移動しているが,それがまたふしぎにも, 上記の「日の本」の地名が,同じく大和(日本之山跡国(ひのもとのやまとのくに)
―万葉集―このまくらことばも地方の大和の名とともに全国的な総名になったのではあるまいか。) から
東北(秀吉の関東ひのもと(。。。。)または津軽の(。。。。)将軍) へ,
そこからさらに海を渡って 北海道・千島へと,しだいに移動して行ったのと常に形影あい伴っている。
これは,あるいは「日の本」の民族的移動のあと を示すものとも見られるであろう。

 4 はじめは「ニホン」と発音したか
  「ニッポン」と発音したか

 それは未詳であると答えるよりほかはない。
 ただ, ここで一言注意しておきたいことは, 日本語のハ行子音が古くはp音であったという説の一端だけをきいて, まん然と「日本」もはじめは「ニッポン」と読んでいたのであろうというように考えることが誤りであるということについてである。
 なるほど, ハ行子音が古くp音であったということは, 今日, ほとんどの学会の定説となっているが, その〔p〕から〔f〕への移りかわりの時代については, まだ明らかにされていない。すなわち, あるいは奈良朝以前と想定し(注23), あるいは奈良朝を転換期かとし(注24), あるいは奈良朝またはそれ以前かとしているのである(注25)。だいたいにおいて伝統的な国語学者は奈良朝におけるp音の盛行を疑っているのであって, おそらくはそれが正しいであろう(注26)。そして「日本」の国号制定が奈良朝の初頭または直前にあたるのだから, いきおい, これまでのところでは「ニッポン」説は影がうすいのである。ただし反対に「ニッポン」説を採っている新しい意見もあるし(注27), そのへんの消息はやはり未詳といっておくべきであろう。
〔注23〕上田万年:P音考(明治36年刊「国語のため第二」所収)
〔注24〕安藤正次:古代国語の研究(大正13年刊)
〔注25〕橋本進吉:波行子音の変遷について(昭和3年刊「岡倉
     先生記念論文集」および昭和25年刊「国語音韻の研究」所収)
〔注26〕私見では, もっとさかのぼった時代まで疑っている。
    「日本」の読み方なども「涅槃(ねはん)」の例で, どちらもはじめ
  から「ネッパン」「ニッポン」ではなくて「ネハン」「ニホン」
  であったのではないかと考えている(その「ン」の発音は別の問題として)。
〔注27〕岩井大慧:日本国号私見(昭和14年刊「東亜学第1集」所収)
   吉田澄夫:室町時代以降における国号呼称(昭和19年刊「橋本博士還暦記念国語学論集」所収)

 ところで、奈良朝以前のことはしばらくおき, 平安期にはいってからはどうかというに, それはもうほとんど学者の間で異論なく一般的に「ニホン」であったろうと考えられている。そして, それから院政・鎌倉と過ぎて室町時代になると, 新興の東国的発音によって「ニッポン」ということが多くなり(注28), さらに戦国の世を経て織豊時代になると, その傾向がいっそう強くなったのではあるまいかと考えられている。当時のキリシタン文献によってみても, ローマ字書きでは Nippon のほうがNiffonまたはNifonよりも , 断然, 多いようである(注29)。そして新村博士その他の研究によれば 〔f ― h〕の変化は江戸時代にはいってからである(注30)。
 しかも, 旧来の「ニホン」「ニッポン」という二つの発音は絶えることなく,
たとえば漢字をめぐる音と訓とのような関係で,
国号「日本」をめぐる二つの読み方として久しく国民の間に用いられて今日にいたっているのである。
〔注28〕 一般につまる音便が中央語にあらわれた時代である。

〔注29〕  前掲, 岩井大慧「日本国号私見」および吉田澄夫「室町
時代以降における国号呼称」参照。
〔注30〕  新村出:波行子音の変遷に就いて(東亜言語志叢考)


5 「日本」の読み方を国家的に決めたことがあるか

 それはまだない。それについて重要な参考となるのは,憲法に おける「日本」の読み方について,先年,帝国憲法改正の委員会 で井上(徳命) 委員から質問があり,それに対して金森国務大臣 から答弁があった。これはいろいろな意味で記録的なものであ り,かつ委員会の議事録は広く一般には読まれていないので,こ の機会に転載しておくことが有益であると思う。

   昭和21年7月12日(第10回)
○金森国務大臣(上略)日ト本ト国トヲ書キマシテ,之ヲ我々ガ 読ム時ニ「ニホン」国ト読ムコトモアルシ「ニツポン」国ト読 ムコトモアルト云フコトハ,我が国に於キマシテ通念トシテ認 メラレテ居ル所デアリマス。其ノ二ツノモノニ遽ニ区別ヲ付ケル必要ガナイ,
若シモ是ガ,此ノ二ツノモノノ中ノドツチガ宜イカト云フコトヲ決メル,
慣習的ニドチラカヲ助長発達セシム ベキモノデアルトスルナラバ,今後,特ニ十分ナル研究ヲ積ン デ宣カラウ,斯ウ考ヘテ居リマス。
現在見マシテモ,国民ノ声 ガ自然ニ現ハレテ来ル地名等ニ付テ見マシテモ,
「ニホン」橋 ト言ツテ居ルトコロモアレバ「ニツポン」橋ト言ツテ居ル所モ アリ,
「ニツポン」銀行ト「ローマ」字ニ書イテ居ル所モアレバ
「ニホン」銀行ト「ローマ」字に書イテ居ル所モアリマシテ,
之ニ依ツテ特別ナル不自由ハ生ジテ居ナイヤウニ思フノデアリ マス。日ト本ト書イテ「ニホン」ト読メルノカ読メナイノカ,
是ハサウ云フ方面ノ学説ニ聴カナケレバナリマセヌケレドモ,
私共ノ確カニ知ツテ居ル知識ニ依リマスレバ,日ト本トヲ書イ テ「ニホン」ト読ムト云フコトハソンナニ不思議ナコトデハナイ。(中略) 随テ今御答へ致シマス所ハ,今日ノ所デハ何レト モハッキリ決メテ居リマセヌ。
ドチラデモ宜シイ,斯ウ云フ態 度デ居リマシテ,
尚ホ御教ヘヲ受ケマシテ然ルベキ方向ニ動ク 機会ヲ作リタイ,斯ウ考ヘテ居リマス。

 さらに,この機会に, いま一つ議会の記録を転載しておきたい。
それはさかのぼって昭和14年の第73回帝国議会の建議委員会にお ける佐藤(与一) 議員提出の
「我が国号ノ称呼統一二関スル建設案」に対する樋貝政府委員の答弁である。そこに多少とも内容に ふれた点が見られるからである。
○樋貝政府委員(上略) 昨年二於キマシテモ内閣方面ヤ外務省ヤ
文部省方面トデ共ニ此ノ研究ヲ進メテ参リマシタ。此処ニ研究 ノ結果が沢山ナ書類 ニナツテヲリマスガ,何分ニモ今仰セラレ
タ通リニ事が相当重大デアリマシテ,(中略)
之ヲ公ノ機関ニ掛ケテドウ云フ風ニ決スルト云フ所マデ,
遺憾ナガラマダ参 ツテ居リマセヌ。
引続イテ是モ解決致シ タイト云フ考ヘデ居リマスガ,(中略)
唯其ノ内容が,当方に於キマシテモ,「ニツポン 」 トスベキカ「ニホン」トスベキカト云フヤウナコトニ付キ マシテハ,
余程考慮致サナケ レバナリマセヌ。今マデ研究致シ マシタ所デモ,先ヅ沿革的ナト申シマスカ,
我国古来発達シテ参ツタ過程ニ顧ミマスト,
「ニホン」ト云フ発音ノ方が相当デ アルト云フヤウナ結論ニナリマスケレドモ,
一方,外国語ナド ノ関係及ビ今日「ニッポン」ト云フ称呼デ相当広ク行ハレテ居ルト云フヤウナ点,
ソレカラ或ル場合ニ力強ク表現スル場合ナ ドヲ考ヘマスト,
「ニツポン」ト云フ風二発音シタ方ガ相応ハ シイト云フヤウナコトモ考ヘラレマス。
(中略)サウ云フヤウ ナ事情デアリマスノデ,
内容ニ付テハモウ一歩篤ト研究致シマシテ,其ノ上ニ決定ノ方法ヲ執ツテ行キタイト云フ考デアリマス。

 さて最後に,政府の公的見解を示した最新の総理大臣の国会答弁を次にかかげておく。
最新といっても昭和22年9月20日づけのもので,
それは同年8月26日づけ姫井(伊介) 参議院議員から提出された「国名正称に関する質問主意書」に対する片山 (哲) 内 閣総理大臣の答弁書である。しかもその文意があらかじめ質問書 を見ておかないとはっきりしないところがあるので,それらの二 つの文をともにかかげておく。


国名正称に関する質問主意書

固有名詞は各国を通じて正しく称えられなければならぬ。
然 るに国名の称え方が非常に乱れている。例えばアメリカを米国,
イングランドをイギリス又は英国などと俗称する如きことであ って,これは国際上にも,教育上にもはなはだ当を得ざること である。

 一, 各国の国名は,今後,正しく称えるようにすべきではな いか。 なお,これについて,日本は,国際的にはジャパンと通称さ れているが,民主的文化国家として新らしく建設される日本は、今後……

 一, 日本をニッポン (―略―)と正称せられるように,関係方面の諒(りょう)解を得(う)べきではないか。

  答弁書

各国国名の呼称が統一されることは望ましいのであるが, 国際間における用法としては,現に慣行がほぼ確定しており, 又法令等においても,できるだけこれを統一してゆきたいも のと考える。その他の場合における国名の呼称については, 強いてこれを統一するほどの必要もないことと思う。 次にわが国名の呼称についてであるが,現在のところ,これ を「ニッポン」と読むも「ニホン」と読むも,にわかに何れを誤りとも断ずることはできないと思う。 加之(しかのみならず), 汎(およ)そこの種の 呼称は,民族の歴史,伝統等によって自(おのずか)ら定まるべきもので, これを人為的に固定しようとすることは,必ずしも当を得た態 度と称し難いという考え方も成り立つと思う。今日の問題とし て,我が国名の呼称の変更を関係方面に向って要望することに ついては,なお充分なる考慮を要するものと考える。 以上。これ以後,この問題に関する国会での質問,応答はない (昭和33年2月21日現在)。


 6 文部省で正式に「日本」の読み方を決め たことがあるか

 特別に省議で決めたことはないそうである。ただ,昭和9年3 月19日,時の臨時国語調査会において次のような案を議決したこ
とがある。

  国号呼称統一案

 ニッポン又はニホンと呼び来れる国号の呼称は爾今ニッポン
に統一すること
ただし固有名称にしてニホンと呼ぶ習慣あるものは従前の通
日本橋(ニホンバシ) 日本紀(ニホンギ)の局
又外国へ発送する書類には国号に Nippon を 用い Japan を廃すること。
この決議は,同月22日および23日の新聞・ラジオで大きく報道 され,
さらに同月25日の東京日日新聞には,同会の幹事,
文部省 図書局編集課長 藤岡継平氏の談話が載っている。その要旨は次のとおりである。

(1) 古式の発音は「ニッポン」と力強く発音していた。したがって日本書紀も「ニッポンショキ」と読むのが正しい(注31)。
(2) 従米でも公式にはたいてい「ニッポン」が用いられている。
1例をあげれば,
Nippon Ginko など(注32)。

(3) Japan など,外国人はともかく,日本人が国号を示すのに用
いるべきものではないと思われる(注33)。
これが一般には文部省が決めたものという印象を与えたらしく, 今日でもよくそのときの事情をきかれるのである。

〔注31〕 これは疑問である。日本書紀は「ニホンショキ」というのが伝承的な読み方である。
〔注32〕 ローマ字書きと,実際の話しことばにおける発音とは必ずしも一致しない。そこにこの問題の難点の一つがある。現に 日本銀行でも,その行員は「ニホンギンコー」と呼んでおり, また電車停留所は「ニホンギンコウマエ」として,
以前から車掌用語として教育しているということであった(当時の市電青山教習所主任談――昭和9年2月)。
〔注33〕 Nippon が英語とならないかぎり, Made in Nippon で は英文にならないのである。
この点,各国とも自国語の独立性 をもっていることを反省しなければならない。
なお Japan といっても,それは「日本」のひとつの読み方 であって,いわば外国方言だと思えばよい(付記参照)。

〔付説〕 ジャパン (Japan) の語源について
 ジャパンの語原に関する 200年来諸家の異説について,それに論理的補正を加えて整理すれば次の2説となる。

(1) 北音説・ポルトガル人先称説…マルコ=ポーロの東方見聞録 は,あるいは口述の筆記であるといい,
あるいは覚書による他人 の著作であるともいうが, ともかく版ごとに「日本国」の音訳が ちがって,たとえば Zipangu, Zipangri, Gyampagu, Ghipangu, Jipangu などがあるという。いずれにしても北方音(漢音系)よみ「日本国(ジペングォ)」にもとづいている。
ポルトガル人の先称説も,やは りその北音よみとポルトガルの J (ジョータ)のよみ方とが一致し,かつポ ルトガル人がいちばん早く日本に来たからというのである。この説の代表者は蘭学事始の盟主であった前野良沢である。

(2)  南音説・オランダ人先称説…「日」の音は呉音(南方音) で「ニチ」であるが, とくにカントン音では yat〔yāt(Wiliams) iat(Carlgren)〕である。 [引用者注:「iat」の「a」は逆さなのが正しいが再現できない]
その「ヤ」をオランダ人がJ(イー)の字で音 訳したのであって,それを,アメリカ人やイギリス人は「ジャ」 とよむのだというのである。
この説は言海の著者大槻博士の提唱 (日本「ジャパン」正訛(か)の弁――明治6年1月号洋々社談――復 軒雑纂所収)にもとづくものであるが, その中で,第一に博士が「シナ南辺の土音」といっていられるのを「カントン音」と推定し, 博士が「ポルトガル・スペイン・オランダ等の国人」が
「その国 字に転写し Japan(ヤパン) と通呼し」といっていられるのを「オランダ人」と限定しただけが小見である。(スペイン語のABではJ(ホーター)であるから yat をJの字で転写するはずはないと思うのである―― 現に Japon はハーポンである)。
 
 以上2説のうち,今日は第1説が通説。小見は第2説。

 昭和2年の第52回帝国議会に,
国号「日本」の読み方を「ニッ ポン」に統一して, 来年の天長節から実行してほしいという請願案が出た。これは政府参考資料として可決されている。その後も しばしば議会で問題になったが,昭和6年6月には神戸の小学校訓導から文部大臣に建議したり(同月26日大毎),
こえて昭和8年12月には,京都のロータリークラブで決議したり(9年1月3 日大朝),
さらに3月には大阪で「ジャパン」排斥運動をおこし たり(同月3日大朝)などして,
一連の「ニッポン」国号統一運 動がかっぱつにおこなわれた。
このような世論の上に立って,臨時国語調査会は「ニッポン」 の呼称統一案を議決したのであるが,
それが昭和9年3月19日に おこなわれたということについては,
実はその直前(ちょうど1 週間前)の同月12日に,
日本放送協会の放送用語調査委員会において,
かねて審議上の懸案となっていた「日本」の読み方について,
ひとまず次のような暫定的決議をした事実と密接な関係があ る(注34)。
 放送上,国号としては「ニッポン」を第一の読み方と し, 「ニホン」を第二の読み方とする。
この決定に参与した保科(孝一) 委員は,臨時国語調査会の幹事であり,そして前記の国号呼称統一案の起案者でもあったので ある。
もっとも,右の臨時国語調査会の決議が「ニッポン」を採った のは,単に当時の世論に同調したというだけのものではなく,実 は文部省が古くから教科書に「日本(につぽん)」とふりがなして教えてきていたことに基くものであり(注35), あるいは,こうした世論が広 くおこってくるくらいに「ニッボン[原文ママ]」の読み方が普及したことも, この教科書による長年の教育の結果であるかも知れないと思われるのである。

〔注34〕 放送用語としては,昭和8年, ロサンゼルスのオリンピ ック大会で「ニッポン」が強いからというのでそうしたその当時はアナウンサーもニッポン, ニッポンといっていたが,
いつの間にかニホン, ニホンというようになったと,
当時の東京放送局報道課長が述べている(放送用語調査委員会昭和29年2月6日記録)。

〔注35〕 教科書では、散文では原則的に「ニッポン」とし,
韻文では音律の関係で「ニッポン」と「ニホン」とを自由に使って いる。たとえば――
 日本(につぽん) 尋常小学校読本(明治36年刊 48ページ)
 ああうつくしや 日本(にほん)の旗は、尋常小学唱歌(同年刊1年用) 日の丸の旗

 7 将来統一の見込があるか

「時」が解決するものと考える。 これまでの統一運動は,わたしの知る限りにおいては、すべてニッポン論者によるものであった。
そしてそれは,いつでもすぐに決めよといったようなものであったが,この問題の解決は「時」 に待つところが多いものだと思う。もっとも,これまでの統一論 者がそういうふうであったのもむりはないのであって,実は, そうしたところに,この「ニッポン」という発音の言語学的性格 がはたらいているとも考えられるのである。
   「ニッポン」と「ニホン」との言語的性格
 1  ニッポン 2音節  4音律   強調的
   ニホン   2音節   3音律  中性的
2  p(pp)   破裂音  断音  唇音  呼気圧強
   h     摩擦音  続音  遍口音
 3 人間の音声としては発生的に〔p〕が早い。原始的・小児的な音である。
  これらの音声学的条件が総合的に反映して,
心理的には次の ような語感を生じる。
p(pp)   外的に浅い  鋭い  強く荒い
 h     内的に深い  円満 やわらかい
 ところで,一般に支配層は既成のおとなであったから,どちら かといえば「ニホン」説に同情がある。そこで,もしこれが「ニ ホン」に統一せよというのであったならば、あるいは今日とは別 な結果を示していたかもしれない。

軍人勅諭の読法では,その「日本国(にほんこく )」というふりがなによって 「にほん」と一定していた。
「ニッポン」の読み方を主張する論者の間では,いやしくも 「日本」という国号に二つの呼法があることは許しがたいものの ように考えられているらしい。
が,日本語の語い面においては, 音訓二重語い制度の存在することを思わなければならない。
いわゆる音訓二重語い制度とは,
たとえば
「山(さん)・川(せん)・草(そう)・木(もく)」 と
「山(やま)・川(かわ)・草(くさ)・木(き)」とのような漢字の音訓併用にもとづいて,
そこに1物2名の事実が原則的に存在していることをいうので ある。しかも,その音と訓とが必ずしも二つの異なった語原か らきたものではなくて,実は古くは同一漢字の音であったもの が,時代的な発音の変遷によって,語感上,音と訓とに分化し たものがある。
たとえば「絵(かい)と絵(え)」
「文(ぶん)と文(ふみ)」
「錢(せん)と錢(ぜに)」
「州(シュウ)と 州(ス)」
「奥(オウ)と奥(オク)」などのようなものである。
そして,それと同じ 現象が熟字の上にあらわれたのが「文字(もんじ)と文字(もじ)」
「日本(にっぽん)と日本(にほん)」 などの例であって,
すなわち「文字(もんじ)」や「日本(にっぽん)」は音(漢語) にあたり,
「文字(もじ)」や「日本(にほん)」は訓(すなわち「やまとことば」 的なもの)にあたると考えてよいのである。
 けだし「ニホン」は、今日ならばしぜんに「ニッポン」と読まれるべき「日本」の読み方を, 昔(少なくとも平安朝)の時代的発音法にもとづいて,自然に「ニホン」と読んだところから起ったものである。それが,その後(ローマ字書きのある室町時代と思えばまちがいない)に起った「ニッポン」という読み方とともに
伝えられて,これを現代の言語生活の中で併用してみると, そこに一般の音対訓,漢語対和語的な語感上の関係を生じて(注36), そして,そのどちらもが生きて働いているというのが今日の実態なのである。
そこで,わたしたちは、なによりもまずこの「ニホン」と「ニッポン」との二つの読み方を,現代日本語の音訓二重語い制度の中において,そのどちらをも平等の存立として認めるということがたいせつである(注 37)。そうした上で,あらためてこの問題を慎重に考察してみるがよいと思うのである。
〔注36〕  それについて想起することは,現行の観世流謡曲「白楽天」および「善界(ぜがい)」において, 日本人には「にほん」と読ませ, 中国人(白楽天・てんぐ)には「にっぽん」と読ませているこ とである。この意識的な読み分けをいつごろからはじめたかは未詳であるが, ともかくそこには「ニホン」の和国的・和語的な語感に対する「ニッポン」の異国的な語感を利用していることが看取されておもしろい。
 もっとも,間(あい)の狂言では所作にあわせて「ニッポン」とも 「ニホン」ともいうので,とくに和漢の人によって発音し分けることはないと,大蔵流の先代山本東次郎氏から,白楽天のそれを所作の実演入りで読んできかせてもらったことがある(昭和9年2月)。
謡曲「白楽天」にあらわれる日本人は漁翁(実は住吉明神) と漁夫とである。
また「善界」にあらわれる日本の天ぐは太郎坊で,大唐の天ぐの首領善界坊(ぜがいぼう)なるものは,
あるいは世界坊という意味の名であるかも知れないと解釈してみるとき(私見の 1語原説), いっそう,その間の消息を感得するであろう。ち なみに善界(ぜがい)は是害(ぜがい)とも書くが,世(ぜ)は世阿弥(ぜあみ)の世(ぜ)で一種の古音で ある。
謡曲「善界」の出典は今昔物語で11世紀なかばのものであり, はやく「ゼガイ」の語原は忘られたとし,
サ行の古音に濁るばあいが少なくなかったことは,今日でも雅楽用語で和琴の弦を 三(ザン)四(ジ)と呼ぶことによっても考えられる。また正三位(じょうざんみ)という有職(ゆうそく)よみも宮内省には残っていた。

〔付記〕 これはニホンとニッポンとの問題ではないが,先年 Japan
を廃して Nippon を世界に向かって主張せよという論があっ たときに, ロンドンタイムス・ニューヨークタイムスの東京 特派員ヒュー・バイアス氏は「ニッポンよりジャパンがよい」 という意見を新聞で発表した(昭和9・4・9東日)。その論 旨は:
 第1に,英語の発音では Nippon の Ni- が Japan の Ja に比較して弱いということ。
 第2に,英語において Nip- という音の連想が卑小である ということ。たとえば動詞の nip をはじめ, nip- のつく名詞 など(英和辞典を見よ), 新刊のショーター・オクスフォード 辞典には1らん半もあるが,そのうち一つとして卑小の連想を もたないものはない。かくして Japan と Nippon, Japanese と Nipponese, ないしは Jap と Nips など,その後者は世界の漫画家を喜ばしめるにじゅうぶんである。
 これに反して Japan の音感は幅が広くて一種の感激をもっ ている。だから Japan の称呼を排撃して Nippon を主張する のはよくないというのであった(この論の全文が奥間徳一氏の「大日本国号の研究」(昭和 10 年刊)に転載されている。

〔注37〕 将来,いずれか一つを公式の称呼として採用したところ で,わが日本語の1性格としてそなわっている音律的単位の関 係上,それだけを絶対的なものとして他を厳禁するということ
はできないと思う。

最後に一言すべきは「日本」のローマ字書きについてである。
それは Nippon Ginkō をはじめ,いろいろな会社・団体で,実際の発音および電信などのかながきでは「ニホン」であるが,
ロ ーマ字では Nippon と書くというのが比較的に多いことである (昭和9年2月の調査による)。
もちろん Nihon と書く会社名も 学校名もあるが, それは Nihon よりも Nippon のほうが書く上では根づよい習慣をもっているということである。これは口ことばでも改まってきかれると「ニッポン」ということが多いのと一脈相通じるものがある。つまり音声でも書記の上でも緊張すれば「ニッポン」となる傾向があるらしい。
最近にもこういう質問があった。
 戦争中は「ニッポン」だったが,戦後,平和国家になったの で「ニホン」と改称されたということであるが,それはいつ発表されたものであるか。
いや,そういう事実はないと答えたわけであるが, ともかく 「ニホン」と「ニッポン」との間にそうした語感のちがいがある ことは,この素ぼくな質問のうちにもあふれている。
          *     *     *
 以上,尽きるとこ ろ なき問題の中に,現今教科書の中で「日本」とあるのはなんと読ませたらよいのであるか。
国家的な決定がまだないかぎり,明治以来の文部省の教科書に 見えているふりがなにもとづいて, とくに韻文的音数の関係がな いかぎり,いちおう改まっては「にっぽん」と読んでおくという 従来の方針に従っておくのが妥当な態度であろう。ただそのさい, これを絶対的な読み方として,歴史的な「ニホン」の読み方を否 定するような態度をとってはならないことはあえていうまでもな い。それと同時に,これらの子供が大きくなったころに,その 「時」における日本人の国語生活の全体的な背景と基盤との上に 立って,この一つの問題についても,自然に最善の解決をもたら すものがあるのではないかと思われる。
  最後に,この小稿を草するにあたってさまざまの著書・論文 から教えられたことを感謝いたします。

(着色は引用者による。ルビは表記できないので( )で代用。引用の都合上、改行などが異なる箇所などがある。「原文ママ」と書いた箇所あり。「(中略)」は論文を書いた人によるもの)


茂木健一郎
@kenichiromogi
2010年10月9日
本日 鹿児島にてロータリークラブの会でお話します。『脳とニッポンの元気』 鹿児島市民文化ホール 16:00~ 17:30 http://bit.ly/9XB3Na


ノザキハコネ
@hakoiribox
19時間
江戸期の国学者は聖徳太子を基本ボロックソに言ってますね。日本中心史観からすると仏教という外来宗教の規範を日本に根付かせた極悪人ですからね。



初出:「日本精神読本」新潮社
   1937(昭和12)年11月号
国号の由来 喜田貞吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html
"ニッポンとニホンと、いずれを採るかについては、漢字としての発音に最も近いニッポンに従うべきものであると思考せられる。"

(ポン派の経歴を調べた。
初出の時は軍国主義全盛期だからポン派にならないとヤバかったのだろう。

喜田 貞吉(きた さだきち)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E7%94%B0%E8%B2%9E%E5%90%89
”文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、1911年(明治44年)、南朝を正統とする立場から非難され、休職処分となった(「南北朝正閏問題」)。
1913年(大正2年)から京都帝国大学専任講師、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで教授。1923年(大正12年)、前年に設置されたばかりの東北帝国大学国史学研究室の講師となり、古代史・考古学を担当。同研究室草創の基礎を築いた。1936年(昭和11年)、東国では、縄文土器を作った人びとが鎌倉時代ころまで生活していたのではないかという仮説を立てて山内清男と論争になった(「ミネルヴァ論争」)[注釈 1]。

日本歴史地理研究会を組織して学術雑誌『歴史地理』を発刊し、古代史・建築史に多大の貢献があった。著作に『読史百話』『帝都』などがある。

郷土史研究の発展にも貢献し、多くの後進を育てた。

「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(1910年(明治43年))を歴史的に正当化したと批判される[5]。

被差別部落研究の先駆者としても評価されている。”

既に睨まれているからポン肯定した可能性があるが、
日韓併合に貢献しているから最初からポン派っぽい。


歴史雑談録
@rekishizatsudan
2018年9月3日
150年前の今日、東京奠都の詔が発せられました。正式には「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
「奠都」とは、都を移すことではなく、都を定めること。実際には遷都はしておらず、京都と東京の東西両京体制となります。現在でも法的に東京のみが首都・都であると定められているわけではないんですね。

水城洋臣(洋画劇場P)
@Yankun1984
2019年8月22日
京都人の言う「日本の首都は今でも京都!」ってのは、実は間違ってないんだよね。

明治に行ったのは東京遷都(せんと/東京へ都を移す)ではなく、
東京奠都(てんと/東京"も"都として扱う)であって、それ以降に宣言を変更してない。

つまり正しくは「日本の首都は京都と東京の二カ所を指す」なのよ

メディアに出ている皇族は全員影武者で本物は京都に住んでいるじゃないの?
東京は完全に汚染地帯だからね。
即位の儀式の時は本物だろうけど。



三宅 武郎 - Webcat Plus
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/44823.html
によると、ミヤケ タケオの著作一覧で最新なのは1972年。



室 町 言 葉 b o t
@muromachi_bot
(
室町言葉botです。古い日本語が現代語にぐっと近づいた一大ターニングポイント、
室町~江戸初期の口語資料から1時間に1回つぶやきます。あらあら語りまらしょうず。中の人(@Heike_gatari
)は気まぐれに出没します。)


【天草版平家物語とは】イエズス会宣教師の日本語学習教材として口語訳された平家物語。
同会日本人修道士のハビアンが訳を手掛けました。
当時すでに古典と化していた平家物語を16世紀末の上品な話し言葉に直したもので、国語史の重要な資料。キリシタン版平家物語とも言います。出版は1592年。

布教の後に侵略=軍隊が来るのはお約束


ラップ(乱舞)多くの人々の声や楽器による歌と音楽。「乱舞(らっぷ)をする」音楽に合わせて歌う。(日葡辞書)

2019年4月13日
ヒギシャゥ(火起請)灼熱した鉄、または、真っ赤に焼けた石を手に持ちながら立てる誓約。(日葡辞書)


捷解新語(しょうかいしんご)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%B7%E8%A7%A3%E6%96%B0%E8%AA%9E
ハ行音は、ハ・フ・ホは hoa, hu, ho、ヒ・ヘは激音字母 p‘ を用いる。キリシタン資料では「f」が用いられ、唇を使った摩擦音であったことが指摘されているが、それとある程度は共通するものとなっている。



ハ行が

hoa phi hu phyəi ho

みたいになってるらしい
これはエモいな

豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに捕虜として11歳で日本に連れ去られて20歳で送還されてこれを書いてから以後これが向こうでは日本語教科書の金字塔になるっぽい



(”(扉)
1 NIFONNO 日本の

(序1)
1 COno ychiquanniua Nipponno Feiqetoyŭ Hi- この一巻には日本の平家と言うHi

15 xôjeqi ni,[■]Taitŏ,[c]Nippon ni voite vogori uo qiua- 証跡に,大唐,日本に於いて驕りを極

3 Tenxei ua Nippongocu uo ſudeni teqi ni vqeſaxe- 天性は日本国を既に敵に受けさせ”

扉はホンなのに中身はポン







百年前新聞
@100nen_
2016年12月14日
速報◆14日、海軍の秋山真之(48)が、出口王仁三郎に招かれ、大本教の顧問に就任する。 =百年前新聞社 (1916/12/14)

2019年11月18日
速報◆18日、新興宗教・大本教の出口王仁三郎聖師(48)が、荒れた亀山城を買収し、布教の拠点とする。
かつて戦国時代、明智光秀の居城として使われていたが、明治初期に廃城となった。 =百年前新聞社 (1919/11/18)

2月7日
文化◆7日、静岡県の友清歓真(ともきよ・よしさね)(31)が、霊学の実践団体「格神会」を創設する。
友清は、大本教に入信していたが、聖師・出口王仁三郎(でぐち・おにざぶろう)(48)の教えに失望して、昨年脱退。
新たな教義を確立した。 =百年前新聞社 (1920/02/07)



(異端じゃねーか!
まあ隠れキリシタンは和風になって異端になるわなあ。
翻訳も不正確だし)
ノザキハコネ
@hakoiribox
そういえば隠れキリシタンの『天地始之事』だと、天の国でマリアはイエスと結婚するんですよね。


正確にいうとイエスの昇天後に、
現世にいる間にマリアを愛した「アーメン・イエズス」という帝王が恋患いで死んでしまったことを憐れんだマリアが天で結婚してやりたいと神に懇願する。
するとイエスがそのイエズスという王に変わり、天で夫婦になったという話になっている。

このマリアを愛した帝王がいたというお話自体が日本で付け足されたもので、
むしろ「マリアとイエスは天で結婚した」という理念を説明するために出てきたぽいんですよね。

隠れキリシタンの三位一体はデウスとイエス、そしてマリアだとされているんですよね。
多神教の国の人間としては神々の婚姻、近親相姦というイメージは思い浮かびやすくはある。

神話的思考として「親子の近親相姦」というイメージが湧く一方でキリスト教文化の名残り、
あるいは江戸時代の文化レベルとして「近親相姦はおぞましい」という観念がやはり有り、
イエスがマリアを愛した王様に変わったから結婚できるというやや捻れた話が生まれたのかな?とは推測できるよね。


№37304
@No37304
6月25日
キリスト教関係で割とずっと思ってんのが、聖母マリアの処女懐胎って強姦判定下りねえ?ってのと、
三位一体の教えによって父なる神と神の子が同一であるなら処女懐胎のくだりは近親相姦になるんじゃねえ?っていうのの二つなんで、その辺に突っ込んでくることがあったら私が喜ぶ

ノザキハコネ
@hakoiribox
イエスは性交なしでいきなりマリアの胎内にニョッと現れたので神とマリアの関係は姦淫には当たらずという納得いくようないかないような設定になっています。

(幻の九州年号説は仏教的要素が濃く、
後世の仏家による創作というのが定説






古事記偽書説は近年では割と否定的。
太安万侶の実在が判明
日本書紀にもない上代特殊仮名遣が残っている
宣命体(助詞を交えた書き方。「者(は)」「之(が)」など)が採用されていない
序は上表文形式をとるが大陸の書の序文も同様のものがある
他。
公的(多くの勢力に配慮が必要)な日本書紀に対して、
古事記は(序のとおりに)大海人皇子が私的に皇室の説話を
独自に少人数で編纂したものだったのだろう。
古事記偽書説って神道カルト系が必死で否定したりするので
検証が大変だなあ。
まず発言者の素性から洗わないと)



「日本」国号の成立が天武天皇と持統天皇あたり。

11分すぎから
「日本」への国号変更について「倭」は当時は悪い意味ではなかったから変えたのではない。
国内で普通に使われ続けている。
国号変更後もヤマト地方を「大倭国」と評したり
諡号「倭根子豊祖父天皇:文武天皇」に使われたり、
少なくとも悪いイメージではなかった模様。
「倭」に悪いイメージがつくのは倭寇の活発化以降ではないかと。

当時の漢字文化圏では
太陽の出る所……東の彼方を指す用語として「日下」「日域」などがあって
「日本」もその一つだったようだが、
(「日下」「日域」「日本」「扶桑」「青丘」)
やがて倭国の異称として半島や渡来人の間で使われるようになり、
対外的により権威のある名称として公式に「日本」が採用されたのではないかと。
「日」の「本」はアマテラスが主神なので悪くない号。

[2024年7月21日に追加:
「「日本」への国号変更について「倭」は当時は悪い意味ではなかったから変えたのではない。」っておかしいな。「倭」は当時は悪い意味だったから変えたのではない、だな。

追加ここまで]

【ゆっくり解説】日本神話の宇宙論 ~平田篤胤の場合~ 【日本神話】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36993908






ノザキハコネさんがリツイート
sion @zionsion
7月30日
sionさんが小林ゆみ 杉並区議会議員をリツイートしました
今、悪い意味で話題になっているこの議員さんだが韓国に仏教もあればアニミズムもあることも知らないし、
さらに韓国の朱子学は高麗時代に仏教勢力が伸張しすぎたため、仏教の代わりに国家を統治するために用いられたイデオロギーであることも知らないのか。
sionさんが追加
小林ゆみ 杉並区議会議員
@yumi_suginami
仏教の精神に基づいて、動物にも虫にも等しく優しくしようという気持ち。
神道の教えに基づき、石や木などの無生物にも手を合わせる気持ち。
そのような心をもつ日本人の姿が、韓国人からすると未開人に見え、理解不能で、大変いらいらするとのこと。…


ノザキハコネさんがリツイート
国学bot@kokugakubot
7月30日
空海の如き者も神也。
あやしきわざあること、何ぞ疑はむ。
是又其本は、禍津日神の御しわざ也。空海の如き神の、世に出て、あやしきわざをなして、
人の尊むも、皆、禍津日神のしわざならずや。

鈴屋答問録/本居宣長

ノザキハコネ@hakoiribox
7月30日
江戸時代に興った国学は神秘とか不思議に対しては
「そういう事も壗あるものだ」という態度を取るんですよね。この辺もヨーロッパ近代に似ている部分がある。

江戸時代に朱子学やらを学んだインテリは
「神は人間。神話は歴史が誇張されて書き留められたもの。
奇跡の話は人を諭すための喩え話」というように合理主義的に解釈するのが大勢だったので、
国学はそういう人間中心主義に対する反発のような色彩もあった。

江戸時代には教養人の間では反仏教論も盛んで、
論旨としては仏教はすぐに非合理で神秘的な話で目を眩まそうとする「程度の低い」教えだとする人が多かった。

国学も反仏教ではあるんだけど、例えば空海の奇跡談なんかは
「空海も実は悪神とはいえ神様の一種であったのだ」と取り込む形になる。



現在、国連の加盟国表記は「JAPAN」。「日本」の古い中国語読み「ジッポン」がJAPANの語源とされ、
NIPPONに統一しても特段の矛盾はない。読み方をめぐる長年の議論の経過を見ても、ニッポンを公式発音とする見解が主流を占め、これを反映して紙幣には「NIPPON GINKO」、
郵便切手には「NIPPON」と記されている。
日本が初めて参加したストックホルム五輪(1912年)開会式のプラカード、東京五輪のユニフォームの胸マークもNIPPONだった。

変更するには新たな国号法でNIPPONを採用し、各国に通知すれば済む。専門家も、変更に特段の問題はなく、




日本宗教史 (岩波新書)
http://sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-1793.html
”日本の国生み神話では、国土と神々の生誕は説かれるが、人の生成は説かれない。
 一般の人々はどうやら国土とともに生まれたらしく、「青人草 あおひとくさ」「人草 ひとくさ」と呼ばれ、いわば国土の付属物のように扱われている。

もともと「神国」というのは、必ずしも日本の優位を主張するものではなく、本来仏の力では教化できない末法・辺土の日本を救うのに日本の神による必要があるというものであった。

仏教僧も多く伊勢を参拝して中世の伊勢神宮の繁栄と伊勢神道の形成に寄与した。
 仏教者による神祇崇拝は、平安後期に本地垂遮の理論ができてから、それが常識化して、仏教に神祇を組み込むことができたために、抵抗感なく行なわれた。

キリシタンの教理書としてもっとも名高い『どちりいな - きりしたん(ドチリナ・キリシタン)』でも、
あにま(霊魂)の永遠を説いて、「人間は色身ばかりにあらず、果つる事なきあにまを持つ也」と言ったり、 クルス(十字架)の意味を説いて、「我等が御主ぜず - きりしと、くるすの上にて我等を解脱し玉ふによて也」というように、「色身」「解脱」などの仏教用語を盛んに用いている。
 悪魔のことを「天狗」といっているのもおもしろい。

近代になっての過去の発見は、過去の中に近代に都合のよい〈古層〉を作り出す作業であった。”

(2)がない
どちりいなきりしたん翻刻草稿(1)
http://pcc.karpan.net/diary/200710212355.html
”(『どちりいなきりしたん(バチカン本)』小島幸枝・亀井孝解説、勉誠社文庫55、勉誠社、1979を底本とする)。手許にないといふ理由により、土井忠生の翻刻は參照しえてゐない。

今囘は序を翻刻するのであるが、讀み進みていくうちに考へがかはるものであるし、コピーペーストが可能なテキストをつくりたいものであるので、凡例はいま定めないことにする。現行の漢字假名にあらためてゐること、再構造化してゐることくらゐは述べておく。また、“」”はページ終りのしるしで、序を第1丁とする現在地點を()に書く。

†どちりいなの序
御主ぜずきりしと御在世の間御弟子達に教へをき玉ふ事の内にとり別教へ玉ふ事は汝等に教へけるごとく一切人間に後生を扶かる道の眞のおきてをひろめよとの御事也是即がく者達の宣ふごとく三の事にきはまる也一には信じ奉るへき事○二にはたのもしくぞんじ奉るへき事○三には身持を以てつとむへき事是也信じ奉るへき事とは

†ひいですの善にあたる事也是人間の分別に及はぬ事也是等の事をわきまへずんば後生の道にまよふ事おほかるへし○たのもしくおもふ事とは†ゑすへらんさの善にあたる事也是即きりしたんにでうすより與へ玉ふへしと」(1オ)の御やくそくの事也是等の儀を知らずんばなんぎにあふへき時頼む所なしとおもひて心をうしなふ事もあるへし是又あにまの大なるさはり也○身持を以てつとむへき事とは†かりたあての善にあたる事也是等の事をこゝろえさればでうすの御おきてをそむく事度度あるへしそれによて此三の善にあたる事きりしたんの爲に專なる事也故にがくしやと名を得られたる善人達は是等の儀につゐてあまたの經をかきをき玉ふ者也其内に肝要なる所をゑらびとつてはんにちりばめまよひをてらすかゝみとなすへし然は後生の爲に專なる事をきりしたんにをしへん爲に†こんばにあのつかさより此のちいさき經にそなへ玉ふ」(1ウ)者也名付て†どちりいなきりしたんといふ是即きりしたんの教へといふ心也上下ばんみんにたやすく此むねを知しめんが爲にことばはぞくのみみにちかく儀は天命のそこをきはむる者也○是によてことはりをすみやかにわきまへんが爲に師弟子のもんだうとなしてつらぬる者也されば此†どちりいなは一切のきりしたんの爲にあんしんけつちやうの一道なれば誰しも是をしりわきまへん事專要也 然にをひてはまよひのやみをのがれ眞のひかりにもとつくへし」(2オ)”



小久保大輔(小久保大輔)
@D_K0KUB0
2018年12月5日
①どちりなきりしたん

キリシタン版の一つ。名称は〈キリスト教の教義〉を意味するポルトガル語Doctrina Christãoに由来し,《どちりいなきりしたん》ともいう。キリシタン版中最も広く読まれ,1591‐1600年(天正19‐慶長5)までに4種(ローマ字本2種,国字本2種)が出版された。→

信者となる者や幼児洗礼を受けたカトリック信者の子弟の宗教教育に用いられ,万人に教えを説く必要から,教義が問答形式によって体系的に平易な文章で説かれている。

(世界大百科事典 第2版)

②みょうていもんどう 【妙貞問答】

江戸初期の宗教論。三巻。ハビアン(禅僧恵俊)著。慶長一〇年(一六〇五)成立。キリシタンの立場から神儒仏を批判したもの。妙秀・幽貞の二人の尼僧の問答という形式で論を進める。日本人の書いたものとして最初のキリシタン伝道書。

(精選版 日本国語大辞典)

③こんてむつすむん地

『キリストに倣いて』のキリシタン時代における邦訳本。タイトルはラテン語のcontemptus mundi(世を厭(いと)う)を写したもの。→

1596年(慶長1)、イエズス会のコレジオから、ポルトガル式つづりのローマ字本が出されたが、1610年、一般信者向けに省略、改訂のうえ、漢字交じりの平仮名文で出版された。[大谷啓治]
(日本大百科全書)

(労働教こそが最悪の和風キリスト教。
これが日本のご都合主義的な和風カルヴァンが広まった元凶だろ
融通無碍といういい感じの表現してるけどこれ
勢力の強い思想にとにかく従うってことだぞ最悪だ)



Desty
@exa_desty
2019年12月18日
集めてきた労働教徒の分析を見てたんだが手足無くなろうが顔に火傷を受けようが勲章のように扱っているのが殆どだからドMを超えた超弩級ドMは治らないかも。

最近は会社に尽くして捨てられた系も多分に蓄積してきたがそれでも労働教は治らないようだ。




なかだち
@madaraiguana
返信先:
@exa_destyさん,
@kitsuchitsuchiさん
素面に戻ると発狂しちゃうから多少はね。ヒロポンの由来からして『苦痛を愛する薬』だから多少はね。

犯人は戦争屋と製薬会社。


なかだち
@madaraiguana
労働狂徒を片っ端から永平寺に叩き込むとどうなるんでしょう。

修羅道出身じゃご褒美になっちゃうか。

カルヴァンさんも野狐禅拗らせおじさんだったんだよなあ。


不知さんがリツイート
はばキツ
@foxnumber6
14時間
ナチスはユダヤ人や障害者だけでなく労働忌避者も殺していたので
労働忌避者のおれとしては優生思想をベースとした安楽死には明確に反対の立場だが、
安楽死に反対している人たちが果たして労働忌避者にもフルスペックの人権があると思ってくれているかどうかにはかなり疑問がある。

不知
@mod_str
12分
>労働忌避者も殺していた

これは実に興味深い。あ、わが国でもそういう連中いたか
[
2024年7月21日に追加:
このあたりができた年月日特定の為に追加。

https://x.com/foxnumber6/status/1286498056821563393
”はばキツ
@foxnumber6
ナチスはユダヤ人や障害者だけでなく労働忌避者も殺していたので労働忌避者のおれとしては優生思想をベースとした安楽死には明確に反対の立場だが、安楽死に反対している人たちが果たして労働忌避者にもフルスペックの人権があると思ってくれているかどうかにはかなり疑問がある。
さらに表示
午後0:06 · 2020年7月24日”

https://x.com/mod_str/status/1286717426504052739
”不知
@mod_str
>労働忌避者も殺していた

これは実に興味深い。あ、わが国でもそういう連中いたか
さらに表示
午前2:38 · 2020年7月25日”

追加終わり]


ヒラノ@bang_gun_finger
5月6日
働かざる者食うべからず、

お前これマジで信じてるの?不動産の家賃収入、株、FX、ビットコイン、何でもいいよ。定期的に安定した収入があれば問題無いだろう。働かざる者?は明治の富国強兵に合わせて広まった概念だぜ?

もう一度聞く。不労所得は悪なのか?法律違反なのか?

答えろ。

岸本元
@bowwowolf
2015年10月19日
日本の仏教界がエスペラント運動に果たした役割はもっと注目されていいのではと思うんですよ。
高楠順次郎博士を筆頭に
脇坂智證師、
浅野三智師、
柴山全慶師、
斎藤秀一師らがエスペラントによる仏教伝道を志している。
仏教以外では大本のエスペラント普及は特筆。大韓民国でも圓佛教がやっているらしい。
(ブラックリスト入り。鈴木大拙と同じく彼らの著書は避けましょう。
ポン派は仏教否定勢力=耶蘇+新耶蘇勢力でもある)






















嘘や悪いことには、その嘘などの事象とは別に、理由が必ずあります。
誰かからお金をもらっていたり、競合する相手を出し抜くためだったりするわけです。
その嘘の理由を意識すると、その嘘についての利益とコストが見えてきます。


そのコストと利益の話は、嘘であるかとは、別に独立して存在している。
あと、例えばTPPや秘密法などもそうですが、政治家が嘘をついてると、そこに視点は皆いきますが、嘘のコストと同時に利益を想像できる人は希少です。その嘘のコストも、嘘つきがもらう利益も私達から巻き上げる莫大な物です







glan
@glanzerd
2017年9月17日
「にほん」か「にっぽん」かは、平安時代以前は日本語に促音はないから、本来は「にほん」が正解やろなー・w・。

「日本」が英語で「ジャパン」になった由来は? http://nico.ms/nw2976271 #niconews

LingLang@言語学好き
@linglanglong
2018年5月4日
学校の歴史の時間に、元寇のときに蒙古軍が使った武器として出てくる「てつはう」はみんな聞き覚えがあると思うけど、
あれを「テッポー」と読まずに「テツハウ」と文字通り読むことが多いのって、考えてみれば面白い現象なのでは

ちなみに連母音 /au/ が融合して /ɔː/ になるのは室町時代。
ハ行は遅くとも平安時代初期から江戸時代初期まではファ行音 [ɸ]。
またツで終わる入声の漢字音については江戸時代直前時点で /t/ で終わる発音が残っていた。
元寇当時の発音は [tetɸau] だろうか(促音化して [tetpau] か [teppau] ?)

当時の発音は「テッファウ」か「テッパウ」に近かったわけだけど、
それはどちらかというと本質ではなく、他の歴史上の用語や人物名は現代語としての発音で呼ばれるのに、
「てつはう」は当時の仮名表記を現代仮名遣いとして読んだ発音で呼ばれるのがちょっと面白い。

促音は漢字音の輸入と和語の音韻変化(促音便)で確立したもので、
表記として「つ」が使われるのは平安時代末、統一は室町後期。
小書きの「っ」が定着するのは20世紀になってから。
濁点は平安時代、半濁点は16世紀末のキリシタン文献で出現する。
必ず付されるようになるのは戦後の現代仮名遣い以降。


くっしー(54.7kg)
@kussy_tessy
2019年12月16日
そういえば、促音表記が確立されたのは、平安時代末期らしい。正書法が確立されたことによって発音の仕方が固定化されたってことはありそうだから、それまで促音の発音の仕方が今とは違った、話者によってわりとバラバラだったってのは、そこそこありうる話なのでは。

.@oikairomeus
2016年11月5日
上代日本語には撥音と促音はなかったと考えられているんだ。なるほどねぇ。

巫俊(ふしゅん)
@fushunia
2019年3月11日
返信先:
@bafkm
ありがとうございます。研究の進展によって変わってくるのかもしれませんが、『万葉集』の頃の上代日本語には、促音はまだ無かったと習った記憶があります。当時、「つ」は「つ」の如く発音されていて、院政期とか平安時代以降に「っ」に変化したと覚えていました。

室 町 言 葉 b o t
@muromachi_bot
シノビ(忍び)戦争の際に、状況をさぐるために、
夜、または、こっそりと隠れて城内へよじ上ったり陣営内に入ったりする間諜。
「忍びをする」上述のように探索をするために入り込む。「忍びが入った」間諜が入り込んだ。(日葡辞書)

おりゃる・おじゃる:それぞれ「お入りある」「おいである」の短縮。
丁寧だが「ござる」よりは敬意が低く、目上には使えない。親密さを表すことが多い。(解説:中の人)

オトナ、オトナゴト(大人、大人事)天然痘。「大人事をする」天然痘にかかる。(日葡辞書)
※中の人補足:フロイスは「日欧文化比較」で、日本にはあばたのある者や、天然痘で失明した者が多いと指摘している。
の解説

ブンマワシ(ぶんまはし)コンパス。(日葡辞書)

タケタカユビ(丈高指)中指。(日葡辞書)





けれど(Credo)
http://www.d-b.ne.jp/mikami/blkeredo.htm


Moritsugu Keiko 森次慶子@W_Fei_hung
9月28日
白蓮教は清の時代まで存在したカルト宗教で、社会的に不遇な人を集めて反体制的な集団になっちゃったんだよね。
弥勒菩薩って未来仏なので、それを信仰すると、一歩間違えるとカルト宗教になりやすいのかも。「弥勒菩薩が人間を革命する!」みたいな感じでさ。

私のアカウント名の?飛鴻はワンチャイ2の黃飛鴻 の事なんだけど、
その映画の中で黃飛鴻は白蓮教を潰すし白蓮教の本尊は、ひかりの輪と同じ弥勒菩薩だし、
私はひかりの輪を潰す存在なんだと思うわ。

白蓮教なら
ミロク=ミトラ=太陽で、アキラ教にしてミヤコ教じゃん)

マヌの長者 @bubera21
アキラ教なんて完全に明鏡じゃねーか
喫菜事魔

ちなみにこんなに柔軟で弾圧されてもしぶとかったマニ教を最後に弾圧したのはみんな大好き 朱 元 璋 ですねぇ…… 理由?当時の中華でマニ教は明教を名乗っていてですね……国号使うとか不敬や死ね!!されました。

まあ元ネタ潰しとか従わない派閥つぶしだなマニ教勢力も一枚岩ではない
マニ教ではなくマニ教もどき)




正確には貧者を使って革命を企てたと疑われたから。当時の社会主義者がそうだったように。ただの左右の抗争。




村手 さとし
@mkmogura
3月14日
大本教の発足1892年。
嘘つき機関大本営は、大戦中からではなく日清戦争1893年発足。本教=キリスト教の江戸時代の呼び名。
国家神道はキリスト教が作り上げたキリ教そのものであり、すべてのカルトは大本教=ネオキリスト教由来。
今日、神道連盟の長とカトリックの口曲がりが、大本営を復活させた。

大本営、つまり大本の営業所ってこと。
 
全てはキリスト教につながるんだ。
えーかげん、気づけ。

2018年2月20日
また無駄な言いあいしてる。
俺は、大本教をイエズス会だけを表す言葉とは思わん。
彼ら作の国家神道が、天照、天皇の三位一体、カトリックの思想と、雷、ゼウスを意味する神というプロテスタントの思想で、混ぜこちゃになってるから。侵略という商売をしてる仲間で商社が違うぐらいの感覚じゃないの?


菊池
@kikuchi_8
2016年9月29日
平田神道は平田篤胤がキリシタン神学を密輸入して形成した。
その平田神道が明治以後の表の所謂国家神道と在野の神道系新興宗教に多大な影響を及ぼしている。明治の表の神道は伊勢派と出雲派に大きく分かれる。在野の神道は教派神道があるが、大本教は出雲派経由で平田派の影響を受けている。

学者によれば、明治の神道界では天照大神を重んじる伊勢派と大国主命を重んじる出雲派の対立があったようだ。神道事務局に大国主を祭るか否かでの「御祭神論争」である。大国主が司るとする「幽冥界=あの世」を重んじる思想が出雲派の特徴である。これは篤胤の思想と通じる。この流れから大本が出た。

「大本教」もこうした神道思想史の中に位置づけて初めてその性質を理解できる。「国家神道か、大本教か」という事ではなく、どちらも平田神学の流れの中にあるのである。国家神道は当然伊勢派の影響が強い。大本教は出雲派の影響下にある。出口なおと王仁三郎は出雲大社に信者を引き連れ参拝している。

よって「国家神道はキリスト教」「大本教はキリスト教」と言われる場合も結局平田篤胤がキリシタン神学を密輸入した事に淵源がある訳である。国家神道も出雲神道も大本教もこの「平田神道」の一支流たちである。平田篤胤の思想自体に着目しないと本質が見えない。国家神道も在野神道カルトも根はここ。

加えて明治政府は平田派の神道家を早い段階で排除している。
「国家神道」と言っても実際には「西洋近代合理主義に基づく神社の国家管理」というのが実態だったという説もある。大本教への弾圧も神道教義に基づくというより近代主義的な警察権行使の側面も強い。西洋的近代主義も根はキリスト教にある。

学者の本によれば、出口王仁三郎がスサノヲを重んじるようになったのは御祭神論争で出雲派が政治的に敗北してオオクニヌシを表だって重視する事が情勢的に困難になったかららしい。
極めて政治的理由だと言える。ただ、そこまでして出雲に拘る以上は大本教が出雲派の流れなのは間違いないと思われる。

救世主思想(鬼三郎)・終末思想(アセンション等)・ワンワールド思想(ミロクの世)を持ち、「神による大掃除」と称し戦争や災害での大量死(人口削減計画の実行)を肯定し世界連邦運動を推進している宗教集団があるとして、それが国際秘密力の走狗でないと考える方が無理があるのではないだろうか。

ある人物や集団が国際秘密力の走狗であるか否かは、その人物や集団がどんな主張や行動を取っているかで客観的に判断する事が出来る。外部からは国際秘密力との関係を直接的に実証する事は難しいが、
表に現れた思想と行動を分析すれば、どこに誘導しているかを見抜く事が出来、走狗かどうか判定できる。

(国家神道系は平田派を排除したが、神職試験が平田篤胤説なので
結局平田派の影響下。)




「真のキリスト教」摩尼教/光の仏陀(摩尼光仏)かイランを強化した老子(老子化胡)か/宋・元・明代の明教-喫菜事魔/カルト作成マニュアルとマニ教について情報あつめるところ。マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-149.html
”帰ってきた魔法使いハンターねこた ?@lakudagoya 5月3日
そうだな、マニ教の既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦は、例えば仏教をターゲットにしたら、仏教によく似た思想のヒンズーっぽい西洋初のスピリチュアルを大量に投下して、既存の仏教の認識を偽物であるスピに書き換えて、そうやって内部から破壊していくという作戦なのですよ。

みんあさ、イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから

おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi
仏教系の檀家系カルトがどれだけマシか、よくわかった
神道系カルトは経典や軸となる宗教思想がないから、どこからか借用、盗まざるおえないという事実があるので仏教系と違って経典主義をとる事が出来ないのね
で、万教帰一して色んな所から盗んでくる

神道系カルトが言っている事は単純で良いことをしなさいという部分なんだけど、その言葉の背景がないから色んな所から盗んでくる
キリスト教、イスラーム、儒や仏教、他にも現地的なアニミズムまでいろんなところから盗んで権威付けする
だから、神道系カルトが気持ち悪いのはここから発生している

悪の魔術師が存在するなら、彼女が作った最大の失敗物が神道カルト
基礎や宗教論としての土台を持たない、又は己の集団の正当性しか興味のない集団というのがどれだけおぞましい存在かは彼女自身ここまで無限増殖するとはわかっていたのだろうけど、醜いものを作ったと確信して作ったのだろうなxm

今日はマニ教の本が届いたので読んだのだけど、マニってお医者さんで治療しながら布教していたというのが見えてきて、これって中国のやそと道教を混ぜたような太平天国やイエスと全く同じじゃんと思って
やっぱり、薬学や医術というのが布教ツールとして優秀で魔術師が魔術師所以なのだろうと思う

実際のところマニの落ち目はペルシャでは治療失敗とマズダグ教との対立だし、
ローマ世界ではやその異端ややそ教を乗っ取ろうとした動きによって弾圧されたわけで
本来ならばこういった背乗りしようとする宗教は寄生元に殺されれば消えているものが残ったのは
殺虫しきれなかった部分にあるのだろうと思う

マニ教が残ったのはやそ教世界で罵倒語として残ったのもさることながら、
地中海世界に広まっていたグノーシス主義が大きいのだろうと思う
私思うにグノーシス的な思想に汚染されて居なかった初期ローマが地中海世界を支配したのは思想的な部分において独立性を持っていた部分が関係している気がする

ただ、現代でマニイズムすなわち一神教的多神教、万教帰一の思想というものが再発したのは工業化と共通規格、大量生産という産業思想が関係しているのではないかと思う
それは博物学、文化人類学の発達が様々な集団に値札をつける事によって共通性を見ようとした部分があるのかもしれない

その中で固有という曖昧なものを取り出していく中で発生した副産物が優生学や自民族主義とするならば、
そこで絶対善と絶対悪が分かれそこに体系化されていない宗教が発掘されたのであるならば、それを説明するために無理矢理な比較をする事となりそれが現代の民族や宗教対立の根っことなっている

つまり、現代のマニイズムは
共通規格と大量生産という産業思想に学術的な固有性の発見という知識と
それを信じる人々の善悪二元論により再興されたと見なさざるおえない
つまり、万教帰一という思想は正しく近現代において再興される条件が揃って、当然のように復活したのである

カルトの性癖
贖罪意識、
転生論、
宗教内階位とその細分化と絶対地位の制定、
善悪の創造とその善悪二元化と詭弁術による他宗教の弾劾とその美味しい部分の取り込み
これがマニ教の習性でシンクレティズムを目的とした宗教と結果としての宗教は全くの別のである

悪の魔導師は女性だろうね
シバの女王やドルイド神官の女性神官、多分完全に役割が違うのだろうと思う 預言者が男しかいないと言われていても、
その思考に納得して子供たちを教育するのは女性なので
やっぱり女性を納得させられる教えというのが魔導士の魔法の一つなのだろうと思う”





山田実理@FTM/ASC
@mitsusato_
·
4月28日
講談社現代新書『「神道」の虚像と実像』で、参考文献としてマーク・テーウンと表記されてるのは、マーク・テーウェンの間違い。「テーウン」でググっても何も出ないが、「テーウェン」でググると色々出てくる。これは痛い間違いだなあ。テーウェンはジンドウからシントウへの変化について研究した。



伊曽保物語(イソホモノガタリ)
原題はEsopo no Fabulas。
   イソポのハブラスとも。
日本語読みではポではなくホ。
ローマ字本は1593年(文禄2)に天草のキリシタン学寮から出版。



室 町 言 葉 b o t
@muromachi_bot
4月23日
【イソポのハブラスとは】「イソップ物語」の日本語訳。1593年に天草で印刷された。ヨーロッパで流布していたラテン語版をイエズス会宣教師が日本に持ち込み、文語体の日本語に翻訳、次いで口語訳し、日本語の教科書として使ったらしい。エソポのハブラス、天草版伊曽保物語とも。

4月15日
日本の言葉とイストリアを習い知らんと欲する人のために世話に和らげたる、平家の物語。
(天草版平家物語 -Feiqe no monogatari-)

5月10日
【日本人は日本語を何と呼んでいた?】「「国語」「邦語」「日本語」について」 https://goo.gl/zRfuvJ という論文を見ると、400年ほど前の日本人は日本語のことを「日本(の)言葉」「日本(の)口」などと言っていたそうです。(中の人)

5月16日
【日本人は日本語を何と呼んでいた?】「「国語」「邦語」「日本語」について―近世から明治前期に至る―」 という論文を見ると、400年ほど前の日本人は日本語のことを「日本(の)言葉」「日本(の)口」などと言っていたそうです。雑誌「国語学」全文データベースから見ることができます。(中の人)





knabo forgesita
@tampoposalad
2019年3月22日
返信先:
@muromachi_bot
さん
天草本でも平家物語はNIFONで,イソップ物語はNIPPON.
当時すでにニフォンとニッポンのふた通りの音があったのでありまして,
いづれにしても「江戸っ子がせっかちだった
からNipponからNihonに変化した」といふ説はデタラメすぎますな.

knabo forgesita
@tampoposalad
2019年3月23日
返信先:
@kingofActorsRno
さん,
@muromachi_bot
さん
いえ中国語の音でニーットゥポンといふのを受容しはじめた当初から複数の系統の音に分かれてたのではないかしら.
中国語のできる知識人は中国語のままの発音で.でも当時の大多数の日本人には促音や撥音が無理なのでニポム.ちょっとだけ中国語のできる人なら中間のニチポンとかニチポムとかもありで

2019年3月23日
表現する手段がない.まったくその通りです.なぜなら表現する必要もないからです.
そのころのハ行はP音でした.半濁音といふ概念自体がなかったわけです.同様に促音も日本語の音韻にはなかった.また古代日本語には促音といふ概念もなかったので,それを表現する手段も必要なかったのですね.

澄田喜広 古本よみた屋 @吉祥寺
@sumida01
2019年3月24日
中世でも、ニホンとニッポンには音素として違いがなく、
人によってあるいは地域によって音声が違っていたのを、ポルトガル人が聞いて書分けたという説ですね。


knabo forgesita
@tampoposalad
2019年3月24日
返信先:
@sumida01
@kingofActorsRno
@muromachi_bot
これは平安末期だけれど鴨長明の無名抄に,
撥音とか入声とかの書きにくい音は字にしないで省略してきたよね?のやうなことが書かれてゐるんで,
遅くても中世までには,促音ぽい音の存在に人々が気づいてゐたやうな気がします.




中世の古文書(小島道裕)
@kojima_sakura
2014年3月24日
Pamonjiと書いてあるし、
消息だから文字にも「ぱ」と書いてあったはずだが、
半濁音符ってあったの?と思ったら
「元来は清音の四声を示す印であったが、
これを半濁音符として用いだしたのは室町時代末期のキリシタン資料から」(ブリタニカ国際大百科事典)
ぱ文字と書きたくて発明されたのか。


https://twitter.com/kojima_sakura/status/400905150480396290
”中世の古文書(小島道裕)
@kojima_sakura
2013年11月14日
日本語のハ行が中世には唇を合わせていたことの証拠として
「ははには二たびあひたれどもちちには一どもあはず(答)くちびる」というなぞなぞが有名です。歴史は性質上現場検証ができないので、「ほんとにこうだ」とはなかなか言いにくいのですが、こういう間違いのない根拠を聞くとうれしくなります。


https://twitter.com/kojima_sakura/status/400631652105216000
”中世の古文書(小島道裕)
@kojima_sakura
2013年11月13日
当時の日本語のハ行は上下の唇を近づけていたと言われ、それで「F」で表記されるのですが、こんなふうに、そもそも同じ発音ができない(「ず」と「づ」とかも)ですし、あまりつきつめるのも無理があり、所詮表記や読み方は不完全、とどこかで割り切って、現代の読みとバランスを取ることも必要かと。”

(ニッポンって言ってたの宣教師、外国人、東国武士系だけでは?)



(中国古代史を専攻していた人のツイート)
https://twitter.com/fushunia/status/1104779338786865153
”巫俊(ふしゅん)
@fushunia
2019年3月11日
@bafkm
ありがとうございます。研究の進展によって変わってくるのかもしれませんが、
『万葉集』の頃の上代日本語には、促音はまだ無かったと習った記憶があります。
当時、「つ」は「つ」の如く発音されていて、
院政期とか平安時代以降に「っ」に変化したと覚えていました。”

それなら尚更ポンにならないじゃん
小さいつの後でポンになる規則が適用されないからね



「辞書を編む人 」目次
1. 今野真二:『日葡辞書』の場合 2019年04月10日
https://japanknowledge.com/articles/kitarubeki/?s=1&i=1
” 室町時代においては、特別な場合を除いては濁点を附して濁音音節を明示するということはほとんど行なわれていなかったと思われる。江戸時代においては、濁点の使用は多くなってはいるが、なお濁音音節を示さないことはあった。

 この辞書編集の主たる目的は、宣教師たちが布教のために日本語に習熟するため、であることは疑いがない。
 日本人信者の日本語による告白を聴く聴罪師、標準語を使って上流階級や知識階級にキリスト教を説く説教師、いずれにも役立つ辞書であるためには、広範囲の日本語を見出しとして採用する必要があった。見出しとしてどのような語を採用するかということを「採用方針」と呼ぶとすれば、『日葡辞書』の見出しの「採用方針」は日本語を母語としない宣教師寄りのものであったことには留意しなければならない。”
 


9つの変音現象
連濁・転音・促音化・撥音化・半濁音化・音韻添加・音韻脱落・音韻融合・連声
https://jn1et.com/hennonngennshou/

ひく(引く)+つかむ(掴む) ひっつかむ
追い+払う おっぱらう
差し+引く さっぴく
崖淵 がけっぷち
やはり やっぱり
ぜつ(絶)+ひん(品) ぜっぴん(絶品)
しつ(湿)+ふ(布) しっぷ(湿布)
おんぷ(音符) しっぴつ(執筆)



漢語の半濁音
https://rendaku.exblog.jp/20738437/
”ハ行音の連濁のうち半濁音に関しては、前項の最後に「つ」「ん」がくると後項の語が半濁音に変る。
ハヒフヘホがパピプペポに変わる。

「金箔キンパク」「脱皮ダッピ」「満腹マンプク」
熱波 難破 電波 失敗 撤廃 潔白 腕白 緊迫 出発 折半 侵犯 
燃費 絶筆 鉛筆 切符 散布 密封 潜伏 恰幅 満腹 澱粉 鬱憤 
密閉 闊歩 前方 憲法 日本 等がその例である。 これは漢字一字と一字が結びついて二字漢語となったものである。

 助数詞も漢数字「一・六・八・十・百」がハ行音の助数詞と結びつく時に促音便をおこして、後ろの助数詞が半濁音となる。
一杯 イチハイ→イッパイ  六分 ロクフン→ロップン 八片 ハチヘン→ハッペン 
 十本 ジュウホン→ジッポン 百歩 ヒャクホ→ヒャッポ 

 漢数字「(三)・千・万・何」が助数詞と結びつく時、連濁をおこさない助数詞は半濁音となる。 「三品ピン 千歩ポ 万歩 何歩」 
三辺ペン・三遍ベン  三拝パイ・三杯サンバイ 連濁をおこす言葉とおこさない言葉によって、同音異義語の区別がなされている。
三敗サンパイ(三勝三敗ハイ・パイ) 

 三語の複合語で前項の二字漢語が「つ」「ん」で終わっても、後項のハ行音は半濁音化しない。
地震波ハ 確信犯 万年筆 一覧表 住民票 疑問符 文金風 国民兵 
遠近法 疎密波 偶発犯 反切表 季節品 季節風 実質法 
「大雑把オオザッパ」は「雑把」に大がついたもの。鉄面皮も鉄の面皮メンピである。 ”


https://twitter.com/muromachi_bot/status/1239768350172954624
”【ニホン?ニッポン?】日葡辞書には「Nifon」「Nippon」のほか、
「日の本」(Finomoto)も載っています。他のキリシタン文献ではニホン・ニッポンが多く、「日の本」はあえて美しく言いたい場合の雅語だったのでは。(解説:中の人)
午後1:19 2020年3月17日”





(ゴッドと云う単語を使う平田篤胤)
国学bot
@kokugakubot
世の蘭学する徒、その学びの正意を非心得して、その窮理家など名告る輩、
すべて理を以ておし考へ、知られざることなしと云ふなるは、西洋人の事物の理を窮極めて、
その知れざるところは、ゴツドの所為なりと云ひて、厚くその天神を尊む学意に背へり。

霊能真柱/平田篤胤


いろは歌で追う日本語の音変化の歴史
http://www.geikisha.com/blog/2013102401.html


(赤ロッジ寄りの大本明(ハル)日(ヒ)の最後の新刊
→青の中の青いロッジの首相就任
→青青が辞任するとすぐに赤ロッジ寄り出口ハルヒ新刊
儀式だな)




(
バにしか使わない漢字がある。
ハFaにしか使わない漢字がある。
両者ともに使う漢字もある(者など)ので、
完全に使い分けているのではない。)
試作 万葉仮名一覧
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/1ran.htm

万葉仮名一覧
http://fubako.s150.xrea.com/kanajiten.html

変体仮名 五十音順一覧
http://www.book-seishindo.jp/kana/onjun_1.html

半濁音
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%BF%81%E9%9F%B3
”定説によれば、奈良時代以前のごく古い日本語においてはパ行音とハ行音の区別はなく、その頭子音は一律に [p] のような音であった。その後音の弱化を経て、[ɸ] のような音が生じたとされる。

平安時代になると、漢語の影響を受けて撥音「ん」や促音「っ」などの音が新たに導入され、これにともなって、以下のように2種類の音が見られるようになった。

「ん」の後、および「っ」の後では、 [p] 音で発音される
上記以外の音の後、および語頭では、[ɸ] のごとき音で発音される

しかしこの時点ではおそらく、両音はいまだ同一音素の相補的な異音同士の関係に過ぎなかったと考えられる。

16世紀、日本はポルトガル人と出会い、ポルトガル語から多くの語彙を得たが、その際には、 padre→ばてれん のごとく語頭の [p] 音は回避し[1]、語中では、 Europa→えうろっぱ(→ヨーロッパ)、capa→かっぱ(合羽) のように「っ」を挿入することが通常だった。このことから、当時 [p] 音の出現できる場所にはいまだ制約があり、上記の棲み分けがおおむね踏襲されていたらしい、ということがうかがわれる。

江戸時代になると [ɸ] 音のほうはさらに弱化し、現代語に近い [h] や [ç] などの音価を持つようになった。この時点で、それを [p] と同一の音素であると知覚することは、もはや難しくなっていた可能性がある。そのような中、書籍など文字文化の大衆化もあいまって、文面上における訓点などをいっそう工夫して読みやすさを向上する必要が生じ、その一環として半濁点が発明された[2]。ちなみに、弱化した音のほうがより一般的な音と認識されたために、[p] 音のほうに付標することになったのだと推察される。

近代に入ると欧米から大量の外来語が流入し、「ん」「っ」以外の音の後や語頭において [p] 音を使うことがごく当たり前になった。これによって /h/ と /p/ との最小対[3]が、機能的にも確立したといえる。 ”

は行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E8%A1%8C
”「ン」や「ッ」の後では

平安時代になると漢字音を描写する必要から、撥音「ン」や促音「ッ」といった音が新たに日本語に取り込まれた。これ以降、撥音や促音の後にハ行音が来るケース(たとえば「憲法」「説法」など)では、自然とハ行音を [p] 音で発音するようになったと考えられる。
これらの [p] 音は当初は /f/ の異音であった可能性が高いが、やがて独立の音素 /p/、すなわち「半濁音」としての地位を獲得していった。 同時に、とくに「促音+ハ行音」の形は和語にも広まり、やがて、「葉っぱ」「しょっぱい」「ひっぱる」「すっぽり」「~っぽい」など後の日常語にはばひろく使われていくこととなった。
こうした変遷の一例を挙げるなら、たとえば「あはれ」(あわれ) /afare/ という語は、当初は [aɸare] のように発音されたと考えられるが、促音が一般化すると、感極まったような時に現れる音の“溜め”が促音 /q/ として固定され、さらにその影響で [ɸ] から変化した後続音 [p] が /p/ として独立して、「あっぱれ」 /aqpare/ という新しい語形が定着するに至っている。”


漢音
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3
にある漢音音節表にハ行とバ行はあるが、
パ行はない。
ただし、ハ行に対応する子音がpなので、
当時はハとパの区別がないという意味だろう。


漢音
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3
”漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。

持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。このようなレベルの高さから日常語として定着した呉音を駆逐するような力は持ちえず、江戸・明治にいたるまで漢音が一般に普及することはなかった。



ライブ 日本人シーア派神学生と語る神道神学 #639277526
https://twitcasting.tv/acinoli_ii/movie/639277526



(※カタカナは聞き取りのみの場合は文字起し間違いがあるかもしれない。
シーア兄貴のツイートでカタカナで書いてあるならツイートの表記をそのまま使う方針。

11:47から
サラム=従属。
イスラーム=人間がどうしようもなく従属するもの。
人間が抵抗しようがない、どうしようもない、これにしか人間が従わないものがイスラーム。
「イスラーム教」「イスラーム学」と書いてある時点でイスラームを理解していない。

私はイスラムでもイスラム教でもイスラーム教でもなくイスラームと書いている)


14:40から
(神学をやるために形而上的な存在を確定させることについて)
いわゆる神様の絶対性として
アザディー(始まりがない)とアバディー(終わりがない)がある。

不生不滅)

16:25から
タウヒードという言葉は単一性とか唯一性と訳されることがあるが、
意味が広すぎて訳せない言葉。

仏教のダルマみたいだな。
法と訳しても「どこに法という漢字の意味があるの?」と突っ込みたくなる意味もある多義語)

21:05から
シーア派神学の基本として絶対避ける二つのものが
①タサルソルと(無限連鎖)と
②ドゥール(無限循環)
要はトートロジーを避ける。

無限後退と循環論法。
抽象的なことを考えるときは特に注意が必要)

①「何かが存在するには何かがいて」が続く

②卵があって鶏ができて卵を産んで……と循環するのでいわゆる神様が生まれて死ぬことになってしまう


時間に操作されるものというのは、ヴァージェブウジュード(必要存在)ではない。

26:00から
イスラームでの「存在」には三種類ある。

①ヴァージェブウジュード(必要存在)
②モンケンウジュード(可能存在)
③モムタナァーウジュード(存在してはいけないものが存在する)

③が存在するといわゆる神様が創ってはいけないものを創ったことになってしまう。

①はそれだけで完結している存在。これがないと神学にならない。


この動画ともう一つを合わせると
信条論・教条論の議論の土台の土台はわかるらしい。
実に高度で優れていると感じた。





日本人シーア派神学生と語る神道神学の可能性
https://twitter.com/ACINOLI_II/status/1302876707506937856
(

トモサカ氏の旧友にして右翼学生の時に知り合った右翼学生だった人がおっちゃん

シーア兄貴おっちゃんのいう現象の意味がよくわかる。

16:30あたりから
(「現象を信じる」における)
現象=お金、立場、権威、五大欲求的なもの。

(この「現象を信じる」は労働教そのものだな。カルヴァンから安息日と道徳を抜き
ゴッドを形而上存在ではなく形而下の現象=企業=法神に変えたから当然だな。
給料は法神(邪神)から与えられる恵みにして奴隷の首輪、鎖。
労働教の構成要素に権威主義と拝金主義とご都合主義がある。

三大欲求=食性眠+二つ。
二つはいろいろ言われていて、金銭、物、名誉、出世、支配欲など。


18:21から
日本人は金しか信じてない。
そういった人たちに何かしら、束縛を与えるものがあるとしても従わない。

日本ではイスラームは広まらないよなあ。キリスト教の方がまだ広まるよなあ。
一番広まっているのは自己啓発詐欺とかのスピだけど。
スピは新キリスト教。
労働教は和風カルヴァン。


1:34:05
人間は理由を食べて生きている。






日本人の日本人社会というのに浸かって・言い訳出来るようになるようになったらグラハム数戦って、グラハム数負けるから
日本人の言い訳って「その時その時拾い上げて、ずっと棚に上げ続ける事で逃げ切る」というやり方するので致命的な負けするんだけど「それすらも言い訳する」だから負ける

例えば
大坂なおみさんがBLMでうんたら言うと日本人はクロスケのアイノコとか、道具杜撰に扱ってやっぱりアイノコだと言って論う
それで優勝すると日本人は所詮スポーツ選手言うけど興行業の人非人の賤業、やっぱりクロンボ何だなと言い訳する
これが典型的な日本人仕草でこれが二世紀位染み付いている

因みに世界はリベラリズムと新自由主義という名の社会全体主義・世界全体主義で動いている
その上で様々な諸国は国家主義を護ろうとして動いている訳なんだけど、国家主義で自国を護ろうとすると民主主義という名の分裂主義・分断主義者の工作員を入れて混乱させようとしている

一般的に分裂主義者・分断主義者を「政治・企業中枢に送り込むのが非常に難しいので一般人を偽装して送るものなのだが、本邦は例外でそういった周りくどい事をせずとも政治・企業中枢の人間がわざわざすり寄ってくれるので分断が容易」という事が大問題なのだがこの構造的頽廃を無視している

これは即ち「日本人はどのヒエラルキーにいようとも、全世界で共通した下層民と全く同じ徹底的な物質主義へと退廃した影響が二世紀前から続いている」のと「精神というのも使い古されたキリスト教と非論理・非合理で御利益という承認欲求汚染でしかない」という両面での死が大問題なのであろう

これがわざわざ二時間も語った話の一つ「観念の独占と神道神学の捏造の必要性」で「最も強い神学は弁神論を必要としない・非常に少ないのでそのための組み立て」と言ったのはここに尽きるわけ
あのさ…わし結構手の内晒したんだけど、これかなり使い勝手がいい道具の話したんだけどねぇ

ロゴスは暴走する
だから、アグルとナグルとは何か
またトゥールとアルズとは何か
モンケンウジュード・ヴァージェブウジュード・モムタナァーウジュードとは何かについてお話したんだけどね
今回は信条論・教条論の議論の土台の土台の話をしたのはまずそこ設定しないといけないからなんよ

ロゴス=人の間だけで通用する音というものがアラビア語の語形や接合上全てだと話したけど
その上でイルファーンやスーフィーという直観主義もあるわけで形而上の音のように聞こえてしまったものを解釈する事だけが人類の努力なんだけど
努力に敬虔じゃないと歪めるんだよね…それが神智学





ロータリークラブ日本支部は設立時から三井銀行が関わっている。)
https://twitter.com/100nen_/status/1318507268447547392
”百年前新聞
@100nen_
文化◆20日、東京府に、社会奉仕団体「ロータリークラブ」が日本ではじめて設立され、創立総会が開催される。三井銀行の重役、米山梅吉がその中心となる。 =百年前新聞社 (1920/10/20)
午後8:00 · 2020年10月20日·【百年前新聞】”



https://twitter.com/muromachi_bot/status/1191933156947103745
”室 町 言 葉 b o t
@muromachi_bot
バハンジン(八幡人)船で他国へ略奪に行く盗賊。(日葡辞書)
午後1:19 · 2019年11月6日”




午後3:36 2020年9月23日
本居宣長なんかは天皇は世界の中心であるので、たとえどれだけ「悪い」ことをしたとしても付き従うべきであるとしています。人間ごときが天皇という帝王に与えられた権威を疑ったり剥奪しようとすることは許されないと。


儒教なら徳のない王は殺していいのだから漢意の方が優れているな)


ノザキハコネ
@hakoiribox
日本の祖霊信仰において死者の霊は時と共にその個性を喪失していくと考えられ、
よく言うところでは三十三年目で完全に名前や家族との関わりを失い単なる神様や祖霊様になる。
祖霊様という巨大な神の一部となるのだ。

今の神道家はあまり言わないが全ての自我を喪失して巨大な祖霊様の一部として生きる状態は快適らしいが、
やがて再び切り離されてまたその一族の子供として生まれることになる。
そんで死ねばまた長い時間をかけて祖霊様に戻る。特に平田派はこういう先祖観を説いた。

我々の精神の中には
「具体的には分からないがかつて此処より遥かに素敵で快適な場所にいたことがある気がする」みたいな憧憬が確実にあるんだよな。胎内回帰願望と言うと安っぽくなるが。



記紀でも他の文献でも口語でも「お隠れになった」が死の隠語として理解されているという事実を無視すれば篤胤は一言も嘘をいっていません。原典に忠実だ。








(それ言い出したらそもそも仏教も外来だぞ。最澄あたりの時代の渡来人って子孫が混血しまくってもう日本人でしょ。
昔の渡来人系は仏教、今の朝鮮系は神道(笑)かキリスト教)









https://twitter.com/unajiperopero/status/1325263397592604672
”うなじ
@unajiperopero
古神道でもう一点ややこしいのは、理念上は仏教伝来以前の古い神道ってことになってるけど、実際にはそんな時代の細かい事情はよくわからんので、「そう信じられている」神道が古神道って呼ばれてるってあたり 要するに、名前とは逆に中世神道よりも新しい
午前11:26 · 2020年11月8日”



https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1347570112958656519
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
1月9日
”だいたいにおいて伝統的な国語学者は奈良朝におけるp音の盛行を疑っているのであって,おそらくはそれが正しいであろう…「日本」の国号制定が奈良朝の初頭または直前にあたるのだから…「ニッポン」説は影がうすいのである”国号「日本」の読み方について 三宅武郎 1951-09
涅槃。保存推奨。@mkmogura”
へのリプ)

https://twitter.com/taisinzin/status/1350999601680158727
”戴晋人
@taisinzin
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん、
@madaraiguana
さん、他3人
日本の密教でよくつかう真言は、半濁音てあまりないと思う。

如意輪観音の真言も「オンパダラ~」と「オンバダラ~」とかなるし。
午前11:53 ・ 2021年1月18日”



(
これかな? 論文以外での記述を見つけた。

■陸奥国■
https://blog.goo.ne.jp/ryou-ei/e/b2a6edade47fb5f8f9d2e65f2f00e095?fm=entry_awp
”この国の人々は日の本の国(※1)であるゆえ、色は白く青い眼(※2)をしている人が多い。人々の形相(顔つき、姿)は品位なく、話す言葉は劣るけれども、精神が正しく勇ましい様子はこの日本の他のどこの国も並ぶところはないであろう。
〔略〕
「日の本の国」。
時代によって変りますが、だいたい陸奥国含め東国のことをこう呼んでいたようです。
日高見国と同義語でしょうか、詳しいことは分かりませんが。

もとの文章(いろいろ加筆・修正されているようで原文は定かじゃありません)にも、この日の本という言葉と日本という言葉が混在します。
使い分けされていたことが分かりますね。
〔略〕
そして本題、(※2)の青い目についてです。

東北人ってそんなに青い目の人いたっけかな?
私は一度も見たことないけど。
かつて研究データではそういう瞳を持った人がいたとあるようですが…。

大陸(コーカソイド系)との混血による先祖帰り説とか、目の色素の異常説とか、いろいろあるみたいですね。

で、ここで忘れてはいけないこと。
当時の青って、どんな色のこと?

ということで調べてみると、うんうんなるほど。
Wikiによると、

「古代においてこれは、現在の青色・緑色・紫色・灰色のような非常に広い範囲の色を総称して(漠色)用いられていたと考えられている」
「日本語の青を表す言葉の色度範囲は緑~青緑~青~青紫」
「各地方言で「あを」は黄色まで指していたとされ、『大日本方言辞典』によれば、青森・新潟・岐阜・福岡・沖縄といった地方では、青は黄も意味した」

だそうです。
それならば納得がいきます。

これを書いた人は信濃の人ではないかということですが、「青」とこの人が表現した色合いは恐らく今で言うところの、たとえば灰色がかった茶色だったり、はしばみ色の薄い眼の色だったり、虹彩の近くが緑がかった眼であったり、それに加えて歳を召した人の虹彩の外側が薄い灰色になっている眼であったり(老人環といいます)、そういったことなのではないかと。

私の母方の実の祖母は、当時多分私とそう変らない年齢でしたが、眼の色がとても薄く青灰色がかっていました。
そういった綺麗な薄い色の目の人は東北に、私の知ってる範囲では結構います。
〔略〕
当時の美的感覚について。
これが書かれた、と思われる時代は、どのような顔が美しいとされたのか。
うりざね顔に細い眼・おちょぼ口、およそ目鼻立ちがハッキリしているとは言えないのっぺり顔でしたよね。
それが美人とされていた時代ですからね。


人国記・新人国記
http://nagamarite.blog.fc2.com/blog-entry-3065.html
”この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し。人の形像最も賤しうして、物言ひ卑劣なれども、勇気の正しきこと、日本に劣るべき国とも思はれざるなり。”

当時の青の意味を無視してホワイトウォッシュしようとしている奴がいるんだろうなあ。





(お経の発音、特に真言の発音は重要資料)
https://twitter.com/taisinzin/status/1353163718960443396
”戴晋人
@taisinzin
日本の昔は「半濁音」がそれほど流通してなかった。てあるが。
千手観音陀羅尼の平安初期訳ベースの真言宗版も、鎌倉~宋の音の曹洞宗・臨済宗版も、半濁音が無い。でも現代での梵音版だと半濁音は必ず入る。

やはり「半濁音」は日本の古代・中世はメジャーで無かったか。
午前11:12 ・ 2021年1月24日”


https://twitter.com/hakoiribox/status/1352039397487595520
”ノザキハコネ
@hakoiribox
文字の形というのはそれを書くのに用いる道具に大きく左右されるのだなあ。
引用ツイート
https://twitter.com/cuneiforming/status/1351593891032690696
cuneiforming
@cuneiforming
1月20日
埋め込み動画
0:44
97.9万回表示
午前8:44 ・ 2021年1月21日”
(引用ツイート。引用されているのは粘土に楔形文字を刻む動画)



https://twitter.com/hakoiribox/status/1352040559511171076
”ノザキハコネ
@hakoiribox
我が国の神代文字がことごとく筆と紙と墨でなければ書けなさそうな形なのとかは江戸時代の人の想像力の限界ですよね。
午前8:49 ・ 2021年1月21日”

筆も紙も墨もない古代からあるという設定なのにな(笑))



(読み方に注目。ほん)
日本及日本人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%8A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
”日本及日本人(にほんおよびにほんじん)は、1907年(明治40年)1月1日から1945年(昭和20年)2月まで、政教社から出版された、おもに言論の雑誌。1923年秋まで、三宅雪嶺が主宰した。
〔中略〕
この雑誌は、政教社の日本人誌と陸羯南の日本新聞とを継いでいる。これらは元々兄弟のような間柄だったが、1906年、日本新聞社の後任社長伊藤欽亮の運営を不服として、社員12人が政教社に移り、三宅雪嶺が『日本人』誌と『日本新聞』との伝統を継承すると称して、翌年元日から『日本人』誌の名を『日本及日本人』と変え、彼の主宰で発行したのである。創刊号の号数も、『日本人』誌から通巻の第450号だった。

雪嶺は1923年(大正12年)秋まで主筆を続けたが、関東大震災後の政友社の再建を巡る対立から、去った。それまでが盛期だった。

雪嶺は、西欧を知り、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていた。
〔中略〕
最終更新 2021年3月4日 (木) 05:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。”


(こちらはPON)
日本 (新聞)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC_(%E6%96%B0%E8%81%9E)
”『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日から、1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞。その後、1925年に小川平吉の手により『日本新聞』として再創刊、1935年まで10年にわたり、日本主義を主張する新聞として出版された。

〔中略〕

事業者 日本新聞社
本社 (東京府東京市日本橋区蛎殻町→)
東京市神田区雉子町32番地[1]
代表者 (陸羯南→)
伊藤欽亮
創刊 1889年(明治22年)2月11日
廃刊 1914年(大正3年)12月31日
前身 商業電報
(1886年-1888年4月)
東京電報
(1888年4月9日-1889年2月9日)
言語 日本語
〔中略〕

陸羯南の初代紙
1888年(明治21年)創刊の日刊紙『東京電報』の後身として、日本新聞社から発行された。
〔中略〕
社長兼主筆としては陸羯南が就任し、編集長は先ず古島一雄、そして浅水南八・五百木瓢亭・古島と代わった。初代編集部には、末永純一郎(鉄巌)・国友重章・福本日南・九島惇徳・国分青厓・桜田文吾(大我)・山田烈盛・三浦徳三郎・佐藤宏[要曖昧さ回避]が就任し、続けて三宅雪嶺・池辺三山が入社した。資金は谷干城、浅野長勲、近衛篤麿、鳥尾小弥太らが援助していた。

陸は過度な欧化主義を嫌い国権の伸張を唱える国民主義者で、同紙は『新聞停止法』により頻繁に咎められ、1888年(明治21年)から 1897年までに22回、延べ131日間の発行停止処分を受け、さらに、1903年にも要人への諷刺で発売禁止にされた[4]。論調は反官僚、反藩閥、国粋保存、対外硬、中国大陸発展で、日清戦争では開戦を主張した。

〔中略〕
1906年(明治39年)、陸が病んで、時事新報から日本銀行への職歴を持つ伊藤欽亮に社を譲った。この人事で13人が退社し、12人が政教社へ移った。伊藤が社長に就任すると、新聞『日本』は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新聞となる。一方、分離した政教社の雑誌『日本人』を主宰する立場になった三宅は、『日本人』誌が『日本』紙の伝統も受け継ぐとして、『日本及日本人』と改題。『日本新聞社』が『日本』紙を発行し、政教社が『日本及日本人』誌を刊行する形になった。

1914年(大正3年)末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失。事業継続が不可能になって初代『日本』紙は廃刊した。発行部数は、発足時に8500、日清戦争当時が最高で約20000。経営は苦しかった。なおこの頃には政教社の事務所は独立しており、『日本及日本人』誌は発行を続けた。
大正後期以降から休刊まで
その後は、司法大臣として治安維持法の制定にも深くかかわった、小川平吉らが後援して「日本新聞」の名前を残しながら日本主義を主張する新聞は続いた。小川の後援は再創刊ともいえるもので、近衛文麿、平沼騏一郎、東条英機などが賛同者に名を連ねていた。日本1927年(昭和2年)に慶應義塾大学教授の若宮卯之助が編集顧問兼主筆に就任すると、原理日本社と持ちつ持たれつの関係となり、超国家主義を主張するようになった。そして、超国家主義に反する自由主義的な思想や政治家を紙面で攻撃していた。天皇機関説を攻撃した蓑田胸喜の主張も同紙上で展開された。 右派過激派や、右派運動に隠然たる影響を持ち、2019年8月12日放送のNHKスペシャル「かくて“自由”は死せり ある戦争と新聞への道」によると、社説を担当していた中谷武世は、浜口雄幸首相を狙撃した佐郷屋から、事前に浜口狙撃のテロの相談を受けたことも肉声で語られている。
〔中略〕
最終更新 2021年4月10日 (土) 00:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


(ホン)
日本主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
”日本主義(にほんしゅぎ)は、明治中期において明治政府の極端な欧化主義に対する反動として起こり[1][2]、日本古来の伝統的な精神を重視し[2]これを国家・社会の基調としようとした[1]国家主義思想である[2]。三宅雪嶺[3]や高山樗牛、井上哲次郎[1]、井上円了[4]らによって提唱された。

明治から第二次世界大戦敗戦における欧化主義・民主主義・社会主義に反対しながら、日本古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想、運動である[3]。思想的には一定の体系を成しておらず、その内容は論者によって相違するが、政治的には欧米協調主義への反対と国権・対外強硬策の強調を主張する[3]。大正・昭和になると資本主義の高度化に伴って階級対立が激しくなり社会主義やマルクス主義が国内に流入するようになると、日本主義はこれらの思想に対抗するイデオロギーとして機能し、天皇を中心とする皇道や国体思想を強調させた[3]。

〔中略〕

最終更新 2021年4月10日 (土) 00:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。”


(ホン。右の翼もホンが多かったっぽいな)
原理日本社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE
”原理日本社(げんりにほんしゃ)は、戦前日本の右翼団体。
〔中略〕
「慶應義塾精神科学研究会」の発足

原理日本社の起源は、昭和2年(1927年)に4月に発足した右翼系思想運動を旨とする慶應義塾大学の研究会「慶應義塾精神科学研究会」および親鸞を崇敬する歌学結社「人生と表現社」である[1][2]。責任者は慶應義塾大学文学部予科の教授である蓑田胸喜。

研究会の活動は、総合研究と特殊研究の2つから成り、上野直昭『精神科学の基本問題』(岩波哲学業書)とヴィルヘルム・ヴント『民族精神の諸問題』を講義のテキストに使用した。当時の慶應義塾にはこの他にも「国防研究会(昭和5年)」や「至誠会(昭和8年)」といった右翼系思想の学生団体が乱立していたが、蓑田の主宰する原理日本社はその姉妹団体の中核を成し、月刊機関誌の『原理日本』が会員には無償配布された。昭和4年(1929年)には慶大の研究会と共催して全国各地を講演旅行した。

〔中略〕
昭和9年から1年間、本社とは別に、若宮卯之助が主筆を務めた日本新聞社内に原理日本社事務所を構え、顧問には、萱場軍蔵・荒木貞夫が就任した。

特に、皇道歌人として知られる三井甲之はかねてから「帝大赤化教授」排撃・「帝大法学部を閉鎖すべし」の声をあげていた。これは主に帝国大学に在籍する、マルクス主義学者や自由主義的な学者を糾弾し、昭和戦前期の学問・言論弾圧の尖兵となった。その最初の犠牲に供されたのが京大の瀧川幸辰であった(滝川事件)。原理日本社の一派が国粋主義に徹していたことは、天皇絶対論を唱える帝国陸軍の「皇道派」に歓迎され、真崎甚三郎大将や柳川平助中将らに支持されてバックボーンとなる。

〔中略〕

最終更新 2020年7月8日 (水) 08:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。



(ホン)
日本人 (雑誌)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
”『日本人』(にほんじん)は、1888年(明治21年)4月から1906年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治評論雑誌。1907年から、『日本及日本人』になった。

〔中略〕
出版社 政教社
刊行期間 1888年4月 - 1906年12月

〔中略〕

言論団体政教社の機関誌である。同社は、志賀重昂、棚橋一郎、井上円了、杉江輔人、菊池熊太郎、三宅雪嶺、辰巳小次郎、松下丈吉、島地黙雷、今外三郎、加賀秀一、11名の同人により1888年4月結成され、同月『日本人』誌を創刊した。間もなく、杉浦重剛、宮崎道正、中原貞七が加わった。半月刊ないし週刊だった。創刊早々、高島炭坑の坑夫虐待問題でキャンペーンを組み、国会の大臣弾劾権問題を特集した。

同人らには西欧の知識があった。政治的看板は国粋主義だったが、それは日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける極右では全くなく、志賀によれば次だった。『宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態に飽くまでこだわれというのではない。ただし西欧文明は、日本の胃腸で咀嚼し消化して取り入れるべきだ』(第2号所載『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す』の大意)。

〔中略〕
第三次『日本人』は三宅の個人雑誌的になった。日本新聞社の社屋内に編集室を置いた時期もあって[1]、1902年には日本新聞の陸羯南社長が日本人誌の社説を受け持ち、1904年からは三宅が日本新聞の社員を兼ねて日本新聞の社説を書くという、一心同体的な仲になった。

1906年(明治39年)、日本新聞の社長交代を不服として多くの社員が政教社へ移り、三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。

〔中略〕
最終更新 2021年5月15日 (土) 07:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。





お読みくださり感謝!
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