【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
Posted on 2024.08.26 Mon 21:03:44 edit
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【⑭資料その1】 『「神道」の虚像と実像』。14世紀より前の神道の読みがジンドウでないなら偽書。イエズス会『邦訳 日葡辞書』はシンタゥ読み
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-463.html
【⑭資料その2】キリシタン資料編。『邦訳 日葡辞書』『長崎版 どちりな きりしたん』など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-367.html
【⑭資料その3】「ニッポン(PON)」読みに固執する理由と、日ユ同祖論のおかしな点。重要論文「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論―」「国号「日本」の読み方について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-405.html
【⑭資料その4】資料と昔の考察(他の資料記事にも昔の考察あり)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-460.html
【⑭資料その5】『国語のため』(P音考を含む)、『国語学要論』『国語学概説』『日本語の音韻 (日本語の世界7)』『日本語を作った男 上田万年とその時代』と重要論文など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-470.html
【⑭資料その6】重要論文「上田万年「P音考」の学史上の評価について」など
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-461.html
(上記の列挙に本記事も含まれているけどまあいいや)
ーーーーーーーー
目次
本記事自体の説明
置き場所に困ったやつ(とりあえず、位置はあまり変えてない)
井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)
参考資料
ーーーーー
本記事自体の説明
この記事は、
「即位式 近日公開 井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書) 神道工事中14世紀より前に成立したと神道カルトが主張する聖典で 神道の読みがジンドウでないなら偽物確定。イエズス会は神道をジンドウではなくシントウと呼んでいる 「『神道』の虚像と実像」(【和風キリスト教史】が本編。 元祖和風キリスト教の如来、黒住、天理、金光教は全て骨格がキリスト教異端! 神道SHINTO ユダヤ教の記念日に即位式をするのは 神道カルトの教義の一つが日ユ同祖論だから。 虹はノアとヤハウェの契約の証。 日ユ同祖論はキリスト教布教用だから 和風キリスト教=神道カルトも日ユ同祖論。」
という非公開記事があって、そこから
「井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書) 神道工事中14世紀より前に成立したと神道カルトが主張する聖典で 神道の読みがジンドウでないなら偽物確定。イエズス会は神道をジンドウではなくシントウと呼んでいる 「『神道』の虚像と実像」
に該当する箇所を移動させたものだ。
作成理由は 『ご支援用⑭(無料公開は危険な、国号「日本」の読み方の考察)』記事を作成するための資料記事を再読・作成中に、まずこの本(『「神道」の虚像と実像』)の記事いい加減完成させるほうが良くないかと思ったからだよ。
とはいえ昔書いた記述そのままではない箇所もある。ここは明らかにおかしいって箇所などは修正したよ。
この本の読書メモはかなり前に完成していたのだが良い機会がなかったのでずっと公開していなかった。
置き場所に困ったやつ(とりあえず、位置はあまり変えてない)
[
(以下はなんか作りかけのままのやつを、わかりやすく完成させたもの↓)
「神社」という呼称・用語そのものが、
律令制成立過程のなかで新たに生まれたもので、
それ以前にはさかのぼらない。呼称・単語に注意。
神道と言う単語も軽々しく使えないぞ。
じんどう。しんとう。
当時のは仏教否定勢力は神道と言う単語を嫌がったはず。
伊勢神宮って昔から反仏教要素強いな。
]
井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)
関連論文もすごい。
神道(ジンドウ)と神道(しんとう)の成立についての比較考察
http://jairo.nii.ac.jp/0085/00035204
p.10
「八百万の神」の名前などで知られるように、
日本には多数の神々や仏・菩薩が存在し、
それらがともに信仰の対象とされている。
また、時と処によって適宜使い分けられているところに特徴があり、
そこに他のアジア諸国などとの大きな違いが認められる。
日本の宗教のもつこうした特徴が、
いわゆる「神仏習合」と呼ばれる、
異なる宗教の融合(シンクレティズム)を契機として生まれたのは
あらためて指摘するまでもない。
しかし、「神仏習合」という言葉そのものが中国から伝えられたことからも知られるように
[吉田一彦 一九九六]、
それだけでは日本と中国など他のアジア諸国との違いを理解することができない。
p.11
ここで注目されるのが、
日本にのみあって他の諸国には存在しない神社という宗教施設と、
神祇信仰と呼ばれる信仰形態とである。
神祇とは天神(アマツカミ)・地祇(クニツカミ)の略で、
天から天降った神や、
もともと在地にあった神のことをいう。
これらもろもろの神を祭ることが神祇信仰である。
井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)
pp.16-17
”「神道(シントウ)」を、仏教やキリスト教、あるいは中国の道教やインドのヒンドゥー教などと対比される、自然発生的な日本固有の民族的宗教だとする考えもまた、一個の世界的な常識として、広く受け容れられている。
日本国内では、こうした理解を踏まえて、従来からさまざまなかたちでの「日本文化論」が、同じく日本に固有の天皇や天皇制とのかかわりをも踏まえ、繰り返し提起されてきた。
しかし、こうした世界的ともいうべき常識は、はたして正しいものといえるのであろうか? 近年、ノルウェー・オスロ大学のマーク・テーウンは、こうした常識が明らかな誤りであることを明快に指摘した[マーク・テーウン 二〇〇八]。
テーウンが明らかにしたのは、主に次の三つの点である。
(a)「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、
そのまま古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音の「ジンドウ」であった。
(b)その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。
(c)この「神道(ジンドウ)」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、
それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。
この指摘は、かねてから一部で知られてきた次の史料などからしても、基本的に正しいと評価することができる。
室町時代の応永二十六年(一四一九)に、天台宗の僧良遍(りょうへん)が著した『日本書紀巻第一聞書』(神道体系・論説編『天台神道』上)の冒頭に、「一神道名字の事、神道(じんだう)と読まず神道(しんたう)と清んでこれを読むこと直なる義なり、直なるとはただありのままなりといふ意なり」と見えるからである。
当時、「神道」は「ジンドウ」と濁音で読むのが一般的であったが、良遍はこれを「シントウ」と清音に改めるべきだと強調しているのである。
こうした主張を受けて、「シントウ」の読みが広く定着したことが確認できるのは、近世初頭の慶長八~九年(一六〇三~〇四)に刊行されたイエズス会の『邦訳 日葡辞書』(土井忠生他編)で、「Xintǒシンタゥ(神道) Camino michi.(神の道) 神(Camis)と神(Camis)に関する事」と見える。
清音表記の「神道(シントウ)」が、日本の古代やそれ以前ではなく中世になって成立し、そしてそれが広く定着したのは、さらに遅れて中世末から近世初頭にかけてのことだったのであろう。これまでの常識が成り立ちえないことはもはや明らかであろう。”
(着色と太字による強調は引用者。「(シントウ)」と「(ジンドウ)」のカギ括弧はルビの代役)
(神道カルトが発狂する個所。
神道カルトがやたらと学会を叩いて自分の教義が正しいと主張する理由の一つ。
指摘した人が日本国内にない大学の人なのが興味深い。
14世紀より前に成立したと神道カルトが主張する聖典で
神道の読みがジンドウでないなら偽物確定。
神をゴッドの意味で使っているなら偽物。
シントウの成立から700から600年ぐらいしか経過していない。仏教国教時代より短い。
イエズス会は神道をジンドウではなくシントウと呼んでいる
https://twitter.com/crow5874/status/1093415889595056128
”
)
p.22
神籬(ひもろぎ)
=臨時の神の座とされる榊などの常緑樹。
磐境(いわさか)
=神を迎え、祭るために岩石などを用いて設けられた祭場施設。
p.24から
いちばん検討されなければならないのは、
「神社」という呼称・用語そのものが、
律令制成立過程のなかで新たに生まれたもので、
それ以前にはさかのぼらないということである。
神社が成立するには、
もちろんそこにいたる長い歴史が存在すると考えなければならないが、
しかしそれはあくまで前史であって、
神社そのものとは区別する必要がある。
神社とそれ以前の祭祀施設(ヤシロ・ミヤ・モリ・ホコラなどと称された)とを
不用意に結びつけて理解したために、
神社とはなにかがきわめて曖昧なものとなってしまった。
神社のもっとも重要な特徴は、
常設の神殿をもつ宗教施設だということにある。
常時そこに神(祭神)が鎮座するものとして、
これを信仰の対象として種々の祭礼や儀礼を執りおこなう。
こうした恒常的な神殿をもつ宗教施設、
それこそが神社にほかならないのである。
神社成立以前では、
神が聖霊であるなど、
人間の目には見えないものとされ、
したがって祭礼の度ごとに神を招き降ろし、
榊・岩石や人などの依代に憑依させることが不可欠とされた。
(聖霊という露骨にキリスト教を想起させる単語は避けるべきでは?)
これは、
原始社会以来の伝統にもとづくアニミズム(自然信仰)特有のカミ観念を前提とする
信仰形態ということができる。
これにたいし、
神社成立後にあっては、
祭神が常時本殿に鎮座するものとされ、
この固定化された祭神そのものが信仰の対象とされる。
これは、本尊を祭ってそれを信仰の対象とする寺院と、
その形式において本質的に異なるところがない。
このことから、
偶像崇拝的な信仰形態の成立、
仮設の神殿から常設の神殿への転換は
自然史的な過程ではなく、
人為的・政策的なものであったことが推測できる。
実際のところ、
天武十年(六八一)から始まって、
律令政府は再三にわたって神社(神殿)を造営するよう命じていて、
それが律令政府の国家的な政策にもとづくものであったことがわかる。
その起点となった『日本書紀』の天武十年正月己丑(十九日)条には、
「畿内及び諸国に招して、
天社・地社の神の宮を修理せしむ」(原漢文)と記されている。
天神・地祇の神々を祭る神の宮(神殿=神社)と同じく
律令用語のひとつとして新しく生まれたもので、
造営のことを意味している。
(神社という単語も使うときに注意しないといけない。
己丑(つちのとうし、きちゅう)
は干支の組み合わせの26番目。
前は戊子、次は庚寅。
陰陽五行では
十干の己は陰の土、
十二支の丑は陰の土で、
比和(ひわ)
=同じ気が重なるその気は盛んになり、
良い結果はますます良く、悪い結果はますます悪くなる。
)
神社とは
7世紀後半の律令制の成立にともなって、
中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された
官社と呼ばれる常設神殿をもった新たな宗教施設なのである。
天武十年以前にも常設の神殿が存在したことが確認できる。
p.39
人間が観念的に造り出した神を信仰の対象にするという点で、
祭神の固定化とともに、
素朴なアニミズムそのものとは、明確に歴史的な段階を異にする、
新しい信仰形態であったと考えなければならない。
同じくその意味で、
「神祇」の語もまた「神社」とともに、
律令制の成立にともなって新しく日本で成立したと考えるべきものだといえよう。
したがって、「神祇信仰」というのも素朴なカミ祭りとは明確に区別する必要がある。
律令制の成立にともなって、
寺院と神社、仏教と神祇信仰がともに肩を並べて
律令国家の宗教機能を担うかたちが整えられた。
僧侶もまた国家の直接的な管理と統制の下に置かれ、
政府から任命された僧綱が仏教界を統括するとともに、
剃髪・出家して僧侶となること(得度)自体にも国家の承認が必要とされた。
彼らは国家からその身分と生活を保障される(税負担を免除されるなど)一方、
もっぱら鎮護国家のために務めることを義務づけられ、
宗教者としての活動に大きな制約が加えられた
(中国での宗教統制の方式にならったもの)。
個々人の精神的な救済を本来の宗教的な使命とする
仏教の修行者のなかには
直接民衆に救済の手をさしのべようとする人びとが登場することとなった。
当時、これらの仏教者は「私度僧」と呼ばれ、
律令政府は当初から厳罰を以てそうした動きを規制・排除しようとした。
しかし、律令制支配そのものが抱える本質的な矛盾ともかかわって、
それは押しとどめがたい動きとなっていった。
行基をはじめとする多数の仏教者(私度僧)が次々と登場し、
民間での活発な布教活動を展開したことから、
奈良時代以後、仏教は急速に日本社会のなかに広まり、
浸透していった。
(宗教の特性の一つが世俗権力への反抗なのだから
国家の承認が必要なのは教えに反すると主張する者がいて当然。
特に仏教は身分制否定だし。
生まれではなく生まれてから何をするかで高貴か決まるという教え。
私度僧であり私度神道家ではないことに注意。
仏教が広まっていったのであり
神道が広まっていったではないので注意)
p.55から
上は天皇から下は一般庶民にいたる、
すべての人の精神的な救済を基本としながら、
同時に国家・社会そのものの安穏をも達成することのできる、
統一的で一貫した理論をもつ、
新しいタイプの仏教が求められた。
こうした時代の要請に応えるかたちで登場したのが、
最澄と空海によって伝えられた天台宗と真言宗であった。
彼らは、
延暦二十三年(804)、同時の遣唐使船に乗って唐を訪れ、
当時の中国で最先端の仏教として隆盛をきわめていた二つの宗派を、
それを支える多数の仏典や書生・法具などとともに日本にもちかえり、
それぞれ比叡山と高野山(のちに東寺)に拠点を定めて布教していくこととなった。
(
遣唐使 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
)
平安仏教として知られる天台宗と真言宗の成立は
従来あった南都六宗と異なる新しい宗派の登場ということにとどまらず
日本仏教そのもののありかたを大きく転換させる重要な意味を担っていた。
それは顕教と密教の区別と統一という問題である。
顕教とは、経典などの目に見えるかたちで示された釈迦の教えを、
経典の学習や討論などを通じて学問的に習得することで、
南都六宗はいずれもこれに属した。
これにたいし密教とは
目には見えない釈迦の教えの真理を、
修行や瞑想などを通じて直観的に会得することをいう。
天台・真言の両宗はそれ自体が一個の顕教であると同時に、
密教を合わせ行ずることが不可欠のものとされた。
そして密教の部分は
真言宗の東密(東寺を本山とする密教)にたいし
天台宗のそれを台密と称した。
この顕教・密教が一体となった仏教のありかたこそ
そのあるべき姿とされたところから、
これを顕密仏教と呼んでいる。
僧侶たちは、八宗兼学といって
南都六宗と天台・真言各宗派の経典を合わせ学ぶと同時に
密教の修行に励むことが不可欠の重要な課題とされるようになったのである。
実現するために加持祈祷など神秘主義的で呪術的な手法や
その世界観などともかかわって
日本の宗教全体に巨大な影響を与えることになった。
(神道の歴史で仏教の記述が占める割合が多いことに注目!
本当に日本の宗教史に神道の出番が少ないな。
神道の歴史には仏教の歴史解説も必要だとよくわかる。
釈迦は教えを隠していないと言ったのに密教って矛盾してるな。
『空の境界』のラスボスが阿頼耶という台密の僧。
天台宗系は敵になる傾向。
真言宗は明治以降、天皇家らにより優遇される。
ずっと天台宗系より格下だったから嬉しかっただろう。
高野山は拠点じゃなくなり真言密教以外の信仰の山だったことなど
不都合なことは隠される。
”高野山の歴史まとめ
※高野山=真言宗の山(金剛峯寺)は大ウソ! 浄土信仰の山であって、
真言密教の本部ではなく、臨済宗や天台宗、浄土教系の山でしたが、
明治になって突然ずっと真言宗の山だったということになりました。
弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海(のモデル)。
翌年から伽藍の建立に取りかかったが完成した堂宇はごくわずかで当時の建築物は現存していない。
空海の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備。
京都の東寺との確執もあり、
正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、
僧はみな下山(真言宗の山ではなくなる)。
荒廃した高野山の真言宗の施設は、
長和5年(1016年)頃から、真言僧侶の定誉によって再興。
なお、高野山がこの世の浄土(弥勒浄土)である、という大衆向けの浄土信仰があった。
真言密教の山ではないから、
治安3年(1023年)には藤原道長が参詣。
平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、
高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。
大治5年(1130年)、覚鑁が高野山内に一堂を建て、
伝法院と称した(根来寺の起源。なんと高野山内ですよ。根来寺が総本山じゃないか)。
鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護。
2年後の長承元年(1132年)、
覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立。
さらに2年後の長承3年(1134年)、
覚鑁は金剛峯寺(具体的寺ではなく抽象的総称)座主に就任し、
高野山全体を統轄(修験道とか天台宗系もあると思うんだが)する強大な勢力をもつ。
覚鑁は空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発。
保延6年(1140年)には、
覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされる
(実質総本山が焼かれて高野山にはなくなりました)。
覚鑁一門は高野山を下りて、
大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移す。
さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。
豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、
一山総称としての根来寺が形成される
(総称ってことは、
「国」や「ユダヤ」みたいに実物はないってこと)。
覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。
源平の騒乱期には、
(1156年保元の乱から1192年源頼朝が征夷大将軍となるあたり。
狭くとるなら、治承・寿永の乱=1180年から1185年)
高野山で出家する貴族や武士(北朝正統は天台宗で武士は禅が好き)が目立つようになった。
彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。
建暦元年(1211年)に、
北条政子が亡夫源頼朝のために建てた禅定院(後の金剛三昧院。臨済宗。開山供養に栄西も招くほど)のように、
有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだが、
真言密教は少数派であることに注意。
意識しないといけないのは、
高野山は高野山を弥勒浄土や阿弥陀浄土とする一般民衆の信仰を集めていたことと、
高野聖という(中世に)高野山を本拠とした遊行者がいたこと。
当然、高野聖の教えは真言宗よりは浄土教に近いもの。
覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻ったのだが主流ではなかった。
その後、
正応元年(1288)頼瑜(らいゆ)僧正が高野山から大伝法院の僧侶を率いて根来に移る。
1486年、京都の東寺が火災で主要堂塔のほとんどを失う(豊臣と徳川の援助で再建)。
天正13年(1585年)、十六世紀に豊臣秀吉による紀州根来衆弾圧で根来寺消失(真言宗滅亡寸前)。
1590年(天正18年)に木食応其が興山寺を建立。
1593年(文禄2年)に豊臣秀吉が母・大政所の追善菩提のために高野山に青厳寺(寺号を剃髪寺)を建立。
ここまでで、根来寺→ほぼ滅亡(後に紀州徳川家が復興に協力)。
高野山→真言密教以外の信仰の山。
東寺→殆ど消失(後に豊臣と徳川が復興に協力)。
具体的寺としての金剛峯寺→そもそもない。
大覚寺(大覚寺統=南朝)を真言宗の本拠地にしたら、
真言宗は完全に南朝側になったから謀反を企てているとされて恰好の餌食になってしまう。
醍醐寺→応仁の乱で焼失→豊臣秀吉のおかげで復興(仇敵なのに逆らえない)。
※醍醐寺復興の契機となる豊臣秀吉による「醍醐の花見」は1598年。
1593年の青厳寺建立より後。
醍醐寺は修験道も盛ん。北朝(天台宗)と結びついた秀吉が真言勢力を抑える意味でも、
醍醐寺の修験道陣営を支援したと思われる(真言宗=南朝だから、その牽制)。
高野山=金剛峯寺も、真言宗があまりにも衰退していたので成立しない。
ぎりぎりですな。
天台宗で例えるなら、比叡山延暦寺消滅して、また比叡山で復興しようとしたらまた焼かれて、
移転した本部(的な寺)を焼かれて、移転した本部を焼いた敵に元いた山に別の寺を建てられて、
宗全体の復興にその怨敵の援助が必要だったってこと。
[中略]
1869年(明治2年)、青厳寺と興山寺を合併して、寺号を金剛峯寺とする。
合併以前は、寺号の金剛峯寺は高野山全体を指す名称だったことにして、
金剛峯寺は実在しなかったし高野山は密教の山ではなかったことを隠しつつ、
いかにもずっと真言宗の山だったかのように伝統を捏造し今に至る。
最悪の敵である秀吉の寺を利用しないといけないほどに衰退していた。
・和歌山県にある、十二世紀に作られた根来寺(新義真言宗総本山。開山は覚鑁〔かくばん〕。本尊は大日如来)。
新義真言宗とは、覚鑁(興教大師)の教学を元に高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれます。
が、この新義に囚われないことが重要。
実質、真言宗の総本山は根来寺でしたから。
高野山の僧の覚鑁が大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことが根来寺の起源(なんと高野山内ですよ。ほら、根来寺が総本山じゃん)。
鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護。
2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立。
さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄(修験道とか天台宗系もあると思うんだが)する強大な勢力をもつ。
(寺号の金剛峯寺を高野山全体を指す名称とすべきか、
金剛峯寺自体が実在したかどうかが重要。でも大伝法院か密厳院に住んだはず)
覚鑁は空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発。
保延6年(1140年)には、
覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされる
(実質総本山が焼かれて高野山にはなくなりました)。
覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ。元は葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵)に拠点を移す。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される(総称ってことは、「国」や「ユダヤ」みたいに実物はないってこと)。
覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。
覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻る。
が、正応元年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った
(真言宗の根拠地自体が移ったってこと。
京都の東寺も根拠地だけど。
金剛峯寺が実在していたとしても、密厳院などと同じく破壊されているはずだから、もう金剛峯寺はないですね)。
天正13年(1585年)、
十六世紀に豊臣秀吉(キリシタン弾圧してくれて有難う)により消失(もうこれ真言宗滅亡寸前じゃん。
東寺は1486年の火災で主要堂塔のほとんどを失っているし。東寺も豊臣と徳川の援助で再建)。
大坂の陣で豊臣家が滅びた後、徳川家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺が根来寺に寄進された
(秀吉製って嫌がらせじゃん)。
江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。
紀州徳川家から水戸徳川家が出ます。
水戸徳川家は当初、紀州徳川家の分家の扱いでした。
第5代藩主吉宗が経済音痴のドけちだったのに名君プロパガンダが時代劇などで流されているのは、
紀州徳川が真言宗を支援したからです。
あと、吉宗は
漢訳洋書を輸入しやすくした=キリスト教を布教しやすくしたことも
キリスト教支配者に評価されております。
紀州と水戸は反徳川・北朝朝廷的。
水戸は、徳川光圀=水戸黄門の南朝崇拝でわかるように完全に反逆者。
だから時代劇で優遇されます。時代劇で優遇されているやつって碌なやつじゃありませんよ。
歴史上の人物を尊敬する人にしない方がいいですよ。”
)
p.62から
固有の概念としては未成立
「神道(シントウ)は自然発生的に生まれた日本固有の民族的宗教」は
事実として明らかに誤っていると考えなければならない。
神道の語自体がもとは中国で用いられ、
それが古代日本に導入されたものである。
しかも当時それは「シンドウ」と呼ばれたと推定され
(のちに「ジンドウ」が一般的になった)、
少なくとも「シントウ」ではなかった。
「シントウ」の読みが広く定着するのは、
はるかに時代の降った中世末期以後のことであった。
神祇信仰が仏教などと対比される
一個の自立した宗教であったとは考えられない。
日本古代の史料上にあらわれる「神道」の用語例に即してみても
それが一個の独立した宗教であったことを示す、
確かな証拠が見いだせないのである。
もともと日本古代の史料上にあらわれる「神道」の用語例は、
その数そのものがごくわずかで
頻繁にそれがあらわれてくる中世以後とは明らかな違いが認められる。
そして「仏法」という意味で
「伝統的な在来の信仰」というニュアンスを含んではいるものの
それ以上の積極的な意味をもたないところに特徴がある。
具体的な内容を見てみると
「神の権威・力・はたらきや神そのもの」という
きわめて漠然としたものであったというのが実際のところである。
「日本固有の」という意味合いをもつようになるのは中世以後。
日本に固有の概念としては未成立というのが日本古代の「神道」であった。
(神道カルトに都合が悪い記述だらけだから
学術書や学会をやたら批判するのが神道カルト。
神道系だけでなくカルトは学術研究や学会が嫌い。
カルトは、
典拠の明記をきちんとせず
典拠があると思えば教団内でしか通用しない聖典だったり、
詭弁使いまくりなど文字通り論外な宣教をする
)
中国において
自然発生したとされる道教的信仰が
外来宗教である仏教に対抗して
一個の教団的な組織を整えたのは
二世紀中ごろの太平道と
それよりやや遅れて成立した五斗米道だとされる。
しかしこれらはいずれも単なる治病と呪術を中心とするもので
(日本の神祇道と同じく儀礼の体系というべきもの)、
いまだ独自の体系性をもつものではなかった。
それが四世紀に大成された神仙思想を取り入れ、
また仏教の形式にならって北魏時代の五世紀初頭に体系化されて、
ようやく儒教・仏教などと肩を並べうる、
一個の自立した宗教としての道教が成立したのであった。
その組織形態や教義内容は、
多くを儒教や仏教、とくに仏教から借用しながら
しかし陰陽五行説や神仙思想など独自の理論にもとづいてそれをアレンジし、
一個の体系性をもつものへと発展を遂げ、
成立したものだったのである。
それに較べると
日本の神祇信仰の場合、
神社という組織や形式が整えられ
またこれに対応するかたちで儀礼の体系化がすすめられたとはいうものの
その全体を統括する独自の理論にもとづく教義内容を含めた体系化はなされなかった。
「神道」の具体的な内容が、
「神の権威・力・はたらきや神そのもの」という
まことに漠然としたものにとどまったところに
それは明確に示されている。
「神道」が仏教などと対比される、
「日本固有の民族的宗教」だという理解は、
少なくとも古代に関しては成立しうるはずもないのである。
(
仏教の影響力がすさまじい。
異教に影響されない宗教はよほど閉鎖的でなければありえない)
門跡
=天皇家や摂関家から入って仏法の系統を継ぐ寺院。
鎌倉初期の摂政・関白を務めた九条兼実の弟慈円が
四回にわたって比叡山延暦寺の天台座主を務め、
ともに手を携えて権門体制国家の安定に努めた。
(神社ではなくて寺。
門跡寺院はあるが門跡神社はない)
本地垂迹説とは
日本固有の信仰・宗教施設とされる神祇信仰や神社が
じつは仏教の日本におけるその具体的なあらわれ(顕現)にほかならない、
すなわち神社の祭神は人間の手の届かない彼岸(あの世)の世界に住む
絶対的な存在としての仏が姿を変えて此岸(この世)にあらわれたもので
その本体(本地)は仏だというものである。
本地垂迹説そのもの
(現実に存在するものはすべて仏の仮の姿だとする考え)は
中国で生まれ、
すでに古代には日本にも伝えられていたが、
11世紀になって、
具体化・理論体系化され、
各神社の祭神にそれぞれ本地仏が設定されることとなったのである
(これを、日本における「神仏習合」の第三段階、
その完成形態と理解することができよう)。
そして、ここから
「融通無碍な多神教」といわれる
「日本に固有の宗教」の成立である。
古代日本の宗教は
仏教や神祇信仰・修験道・陰陽道など
「異なる儀礼体系の複合的集合体」として存在し
人びとは時と処に応じて適宜使い分けながら
それらをともに信仰していた。
しかし、それらは統一されず、
いわば多様な信仰の寄せ集めというのがその実態であった。
ところが、
本地垂迹説によって神と仏の本質は同じであって、
そのあらわれかたが違うのだと説明・理解されたことにより、
顕密仏教思想を基軸に据えてすべての信仰形態が統一され
またそのことによって神祇信仰(神祇道)や修験道なども
それぞれ理論的に整備され、新たな安定を見ることとなった。
仏教思想を共通の理論的基盤としながら、
時と処に応じて、
仏教や神祇信仰・修験道・陰陽道などをそれぞれ適宜使い分けながら
精神的な安穏と魂の救済を得るという、
日本に特有の宗教がここに成立したのである。
(陰陽師は仏教徒なのに注意)
体制的宗教としての顕密仏教にたいし
それは本来の仏教のありかたとは異なるとする鋭い批判が、
その成立当時から存在した。
ここから聖と呼ばれる多数の民間宗教者が生まれることとなった。
顕密仏教にたいする根本的批判と
その革新運動として
一般に「鎌倉新仏教」と呼ばれる多様な宗派が登場した。
その主張が広く浸透・定着するのは鎌倉時代よりはるか後の、
顕密体制が崩壊する中世末期を待たなければならなかった。
(鎌倉新仏教であり
鎌倉新神道ではない)
このほか注目されるのは、
神国思想の登場である。
神国思想
=①神明擁護
②神孫降臨
③国土の宗教的神聖視 という
三つの機能を宗教思想として三位一体的に信じたり
あるいは支配イデオロギーとして信じさせたりする、
すぐれて現世利益的な価値観・世界観というべきもので、
仏教思想にもとづく自国認識の新たな展開という特徴をもっていたといえる。
(神国思想も仏教思想にもとづく自国認識であり
神道ではない。
仏国思想ではないのは
神の子孫である天皇という認識からだろう。
アマテラスの子孫だと主張するが
学術的には祖神は高御産巣日。
アマテラスだということにしたいのは
太陽神属性を天皇につけたいからだろう。
国家神道は太陽神イエスを天皇に置き換えたうえで
キリスト教を一神教的多神教に改造した
和風キリスト教というべき教義。
英国王室制度も入っている。
4月19日
それにしてもNHKの無教養は常軌を逸しています。天
照大神を表面に立てて行ったアジア太平洋戦争を本当に考えるには、
その神話イデオロギー自体が学術的には支持できないものであったことを伝える責任があります。それにしても日本民族は神話の至高神さえほとんど知らないという驚くべき民族です。
)
[2024年5月18日に追加:
上記の
「倭国王家の祖神は高御産巣日(タカミムスヒ)という神です。神話の至高神がこの神であることは本居宣長の段階から明らかで、それは歴史神話学の通説では本来の祖神となっています。これは日本社会では歴史学と社会常識がいかに離れているかをもっともよく示す例です。歴史学は馬鹿にされている訳です。」という埋め込み呟きと続きを以下に記す(ウェブ魚拓だと埋め込みは魚拓されないので):
https://x.com/zxd01342/status/1119229095508709377
”保立道久
@zxd01342
倭国王家の祖神は高御産巣日(タカミムスヒ)という神です。神話の至高神がこの神であることは本居宣長の段階から明らかで、それは歴史神話学の通説では本来の祖神となっています。これは日本社会では歴史学と社会常識がいかに離れているかをもっともよく示す例です。歴史学は馬鹿にされている訳です。
引用
原 直史
@HARA_Naofumi
·
2019年4月19日
今日の19時のニュースでは「皇室の祖先とされる」に変わっていた。内部でも問題化したか。しかし当初の原稿が疑問視されずスルーしてしまったのが恐ろしい。
NHKが「皇室の祖先は天照大神」と報道→「現人神宣言か」と批判の声 https://buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/nhk
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午後10:19 · 2019年4月19日”
(上記の続き①)
それにしてもNHKの無教養は常軌を逸しています。天照大神を表面に立てて行ったアジア太平洋戦争を本当に考えるには、その神話イデオロギー自体が学術的には支持できないものであったことを伝える責任があります。それにしても日本民族は神話の至高神さえほとんど知らないという驚くべき民族です。
午後10:19 · 2019年4月19日
ーーー
保立道久
@zxd01342
倭国王家の祖神は高御産巣日(タカミムスヒ)という神です。神話の至高神がこの神であることは本居宣長の段階から明らかで、それは歴史神話学の通説では本来の祖神となっています。これは日本社会では歴史学と社会常識がいかに離れているかをもっともよく示す例です。歴史学は馬鹿にされている訳です。
引用
原 直史
@HARA_Naofumi
·
2019年4月19日
今日の19時のニュースでは「皇室の祖先とされる」に変わっていた。内部でも問題化したか。しかし当初の原稿が疑問視されずスルーしてしまったのが恐ろしい。
NHKが「皇室の祖先は天照大神」と報道→「現人神宣言か」と批判の声 https://buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/nhk
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午後10:19 · 2019年4月19日
(の続き②:)
みんなで歌おうゲゲゲのゲ
@mJXDK7pLRHq9Tk1
自分はそこまで詳しくはないのですが本居宣長が学問的に纏める前はそこまで高天ヶ原の神々は人口に膾炙していたのかという疑問があります
歴史は古いでしょうが日本人が長い間信仰してきたのは仏教と神道が交わって産まれた神仏で、今の一神教じみた神道の神々ではないはずです
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午前10:29 · 2019年4月20日
保立道久
@zxd01342
私もそう思います。歴史学では日本は奈良時代から徳川時代まで仏教国家であるというのが通説です。王家の寺は泉涌寺でお墓もそこでした。ただ神道は仏教によって体系性を与えられると同時に強く「道教(老子の教え)」の影響を受けており、一四世紀の伊勢の神官の必携本が老子でした(拙著14頁)。敬具
午前10:43 · 2019年4月20日
ーーー
保立道久
@zxd01342
倭国王家の祖神は高御産巣日(タカミムスヒ)という神です。神話の至高神がこの神であることは本居宣長の段階から明らかで、それは歴史神話学の通説では本来の祖神となっています。これは日本社会では歴史学と社会常識がいかに離れているかをもっともよく示す例です。歴史学は馬鹿にされている訳です。
引用
原 直史
@HARA_Naofumi
·
2019年4月19日
今日の19時のニュースでは「皇室の祖先とされる」に変わっていた。内部でも問題化したか。しかし当初の原稿が疑問視されずスルーしてしまったのが恐ろしい。
NHKが「皇室の祖先は天照大神」と報道→「現人神宣言か」と批判の声 https://buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/nhk
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午後10:19 · 2019年4月19日
(の続き③:)
佐藤由美子(Yumiko Sato)
@YumikoSatoMTBC
とても興味深いです。今、戦争についての記事を書いており、「容赦なき戦争」(ジョン・ダワー著)という本を読んでいます。その中で、天照大神と天皇の関係性が戦時中に強調されたことが書かれていますが、その主張そのものが歴史学的には間違っていた、ということでしょうか?
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午後1:07 · 2019年4月20日
保立道久
@zxd01342
はい。アマテラスが皇祖神とされたのは、天武天皇の頃のことです。それ以前はタカミムスヒとオオクニヌシが神話の神として強力に存在していました。国譲→天孫降臨→「神武東征」神話の主宰神はタカミムスヒでした。これは(ニュアンスはいろいろでも)本居宣長・平田篤胤もいっていることですし、
午後1:28 · 2019年4月20日
一九三〇年代に三品彰英によって再確認されてます。これが戦後派の松前健、岡田精司、溝口睦子によって確認されている通説です。タカミムスヒは雷神・火山神・性神でしたから、この神話体系の変革は一種の文明化であり、形式化でもありました。形式神を女神にして勝手な読み込みをした訳です。敬具
午後1:33 · 2019年4月20日
佐藤由美子(Yumiko Sato)
@YumikoSatoMTBC
日本人の祖先は天皇(神)と繋がっている、という戦時中のプロパガンダは、神話の一部なのでしょうか? もしくは、それも「勝手な読み込み」でしょうか?
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午後0:20 · 2019年4月21日
保立道久
@zxd01342
国土と「日本人」の祖を神に求める民族神話はどの国でも前近代から普通です(本居や平田)。しかし皇国史観は、世界に冠たる天皇が現人神として最高の至尊アマテラスの子孫の地位を万世一系に独占し、神ならぬ国民から隔絶することでした。これは神話を戦争向けに作りかえた「人種」神話でした。愚考
午後0:56 · 2019年4月21日
皇国史観については『国体の本義』を読まれましたか(ネットワークにあるかと)。昭和天皇の人間宣言とあわせて読むべきものと思います。世情は『国体の本義』などなかったような気持ちなのでしょうが、ほとんどの人がこれを信じて戦争に参加していた訳ですので。敬具。
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午後1:23 · 2019年4月21日
佐藤由美子(Yumiko Sato)
@YumikoSatoMTBC
英語ではCardinal Principles of the National Policyでしょうか。ジョン・ダワー氏の本(英語版)で一部読みましたが、とても不気味だと思いました。
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午前10:17 · 2019年4月22日
保立道久
@zxd01342
『国体の本義』はいま手軽かつ適当な本が入手できませんが、文庫にして正確な注釈と英語翻訳が必要なものと思います(臣民の道、そして人間宣言などの関係史料を合わせて)。日本の超国家主義の公的な本としては他にないように思います。「人種神話」は日本の系譜は拙著『日本史学』(人文書院)の
午後0:19 · 2019年4月22日
近代日本思想の本の紹介に書きましたが、ゴルドンからアメリカの遺伝学に始まり、またイギリスに再輸入されてドイツのアーリア神話に行きく訳ですが、その途中で日本にきて高楠をへて大川周明に伝わり、折口に間接的に影響したものと思います。いま拙著が書棚にまぎれてでてこず、うろ覚えです。敬具
午後0:25 · 2019年4月22日
ーーー
保立道久
@zxd01342
倭国王家の祖神は高御産巣日(タカミムスヒ)という神です。神話の至高神がこの神であることは本居宣長の段階から明らかで、それは歴史神話学の通説では本来の祖神となっています。これは日本社会では歴史学と社会常識がいかに離れているかをもっともよく示す例です。歴史学は馬鹿にされている訳です。
引用
原 直史
@HARA_Naofumi
·
2019年4月19日
今日の19時のニュースでは「皇室の祖先とされる」に変わっていた。内部でも問題化したか。しかし当初の原稿が疑問視されずスルーしてしまったのが恐ろしい。
NHKが「皇室の祖先は天照大神」と報道→「現人神宣言か」と批判の声 https://buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/nhk
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午後10:19 · 2019年4月19日
(の続き④:)
暁のうた
@hitomaroaka
馬鹿にしているというか、「伊勢神宮」という目に見える装置の影響ではないでしょうか。高御産巣日には単独で祭る大きな装置がありません。可視化しにくいので伝わらないのだと思います。
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午後11:16 · 2019年4月19日
保立道久
@zxd01342
そうですね。タカミムスヒを祭っているのは磐余の等弥神社と奈良の宇奈太理坐高御魂神社そして霧島山だと思います。そして伊勢と出雲大社の両方に参詣すれば、この二つの神の間に居るのはタカミムスヒであることがわかるはずです。たとえば溝口睦子『アマテラスの誕生』を読めば相当わかる訳です。敬具
午前8:26 · 2019年4月20日
暁のうた
@hitomaroaka
溝口睦子「アマテラスの誕生」は名著ですね。等弥神社や宇奈太理坐高御魂神社は立派な神社ですが、伊勢神宮の地域ぐるみの装置が巨大過ぎます。せめて、天皇家自体が等弥と宇奈太理へ詣でればまだ、国民に伝わると思いますが無いのが残念です。
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午前10:56 · 2019年4月20日
保立道久
@zxd01342
徳仁親王の『水運史から世界の水へ』(NHK出版)はよい本で学術研究はどのような立場であれ個人の権利ですが、天皇に宗教的行為を期待することは憲法の原則からして慎重であるべきと思います。社会自体が歴史理解を深めていく水がしみ通るようなゆっくりした動きが必要と考えて研究をやってます。敬具
午前11:27 · 2019年4月20日
(2019年の呟きであることが本記事がどれだけ未完成のまま放置されてきたかある程度判断できる。)
https://x.com/zxd01342
”保立道久
@zxd01342
中国を考えるには「社会主義」と「伝統思想」についての中国共産党の建前を批判するのが重要だと思う。とくに『老子』の自由と連邦の思想の意味は大きい。そのためもあって『現代語訳老子』(ちくま新書)を書いた(現代語訳は下記noteに掲載)。『老子』は私の本業の日本神話や「能」などの芸能の理解にも必須です。東京大学名誉教授
note.com/michihisahotat…
2015年8月からTwitterを利用しています
1,214 フォロー中
6,536 フォロワー
フォローしているミサンザイ 『江戸ー明治神武天皇図図鑑』「天皇を旅する本」文学フリマ東京38 O-16さん、古川陽明さん、他13人にフォローされています
”
保立道久
@zxd01342
ロシアはウクライナ攻撃をやめよ! 国連憲章と国際法を冒すな! 即時停戦! 日本政府はアメリカ武器の爆買をやめ沖縄基地の撤去をせまり、アメリカの戦争マシーンを批判しつつ、インド中国などアジア諸国と停戦の協同提案を行うべきだと思います。参照”憂慮する歴史家の訴え”http://wadaharuki.com
午後2:21 · 2024年2月25日
·
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(本人の現状の見方はこれである。神道と老子だけだな、参考して大丈夫そうなのは)
追加ここまで
]
世界が
天竺(インド)
震旦(中国)
本朝(日本) の三つからなるとする
三国世界観は
最澄によって初めて唱えられたとされ
顕密仏教の発展にともなってしだいに定着していった。
平安末期の12世紀前半に成立した説話集『今昔物語集』が
天竺・震旦・本朝の三篇で構成されているのはその一例といえる。
中世
記紀の神統譜の中世的再編成
11世紀末から12世紀ころに
天神七代
(クニノトコタチからイザナギ・イザナミまで)
地神五代
(アマテラスからウガヤフキアエズまで)
人王
(神武以下の歴代天皇)
という形に大きく再編成された。
かつて古代には天神のひとつとされたアマテラスが
地神の初代とされ、
日本の「国主」とも称されることとなった。
こうした変化が生じた背景に、
次のような三つの認識の変化があった。
A
アマテラスは釈迦が誕生する以前に存在したとして、
日本列島の歴史が
インドや仏教徒の関係において捉えられている。
B
日本の国号が「大日本国」、
すなわち大日(大日如来)の本国と
読みかえられ、
これまた仏教との関係で捉えられている。
(
これは明らかに「ニホン」読みになる)
C
アマテラスが大日如来、
あるいは阿弥陀如来の化身とされ
本地垂迹説にもとづいて理解されている。
(真言宗と太陽神要素)
中世の神社は古代と異なり
本地垂迹説の本地仏を祭る神宮寺がすべての神社境内や
その周辺部に設けられたほか
経蔵や三重塔など種々の仏教施設が神社境内に建設され、
また神宮寺僧を始めとする多数の僧侶が「社僧」として
神社の祭礼と運営の重要な一翼を担い、
祭礼構造もまたそれにともなって神事と仏事とを組み合わせおこなうものへと変化した。
(本地垂迹説を採用したらほぼ寺)
p.89から
中世の杵築大社(出雲大社)では
古代や近世以後と異なって
オオナムチ(オオクニヌシ)ではなく
スサノヲが祭神とされた。
スサノヲが
杵築大社の本寺であった天台宗寺院 浮浪山 鰐淵寺(がくえんじ)の
本尊 蔵王権現の化身とされたことを含め
仏教思想にもとづいて中世神話が再構成された。
(出雲大社は天台宗の鰐淵寺(がくえんじ)に実質支配されていたことは知られたくないだろうね。当然、アンチ天台宗、親真言宗寄りになる。
ノザキハコネ@hakoiribox
4月29日
「ツクヨミとスサノオって同じ神様なんじゃないの」説は国学者がよく唱えていたが、
現代の神話学者もおおむね同じ見解を言ってますね。
)
[2024年5月18日に追加:
上記の埋め込み呟きをここに引用(1つ前の呟きも引用):
(1つ前)
https://x.com/mkmogura/status/418909259800117248
”村手 さとし
@mkmogura
神社格付けランキング。
3 どう考えても寺である。日光東照宮、鶴岡天満宮、下鴨
2 実はキリスト教とやたら親しい。つまり、神神うるさい。亀岡の出雲など。
1 もともと仏教な天皇が参拝したことはないのに、なんか天皇の神社みたいになっている。伊勢、他官国幣社多数。
午前9:58 · 2014年1月3日
”
(上記へのリプ。埋め込まれている呟き)
https://x.com/kitsuchitsuchi/status/544186460375498752
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
@mkmogura
泉涌寺が天皇家の菩提寺 ×神社
神仏習合=仏教化による神社支配(寺>神社)
鰐淵寺(出雲大社を管理)
石清水八幡宮護国寺
祗園社(祗園は仏教用語)
伊勢大神宮寺
弥勒寺(八幡大菩薩宇佐宮の宮寺)
鶴岡八幡宮寺(八幡は菩薩=仏教)
愛染寺(伏見稲荷大社を管理)
午前2:45 · 2014年12月15日
”
追加ここまで]
近世初頭の『日葡辞書』が
「神道」を「神と神に関する事」と説明していたように
「日本固有の民族的宗教」などという意味が含まれていない。
中世も
「神道(シンドウ・ジンドウ)」の語が
古代の場合と同じく
「神の権威・力・はたらきや神そのもの」という
きわめて漠然としたものとして理解されていた。
ただし古代と中世とで変化がある。
古代の神がアニミズムの伝統のうえに立つ
きわめて漠然としたカミ一般であったのにたいし、
中世にはそれが天皇神話上の神々へと変貌を遂げる。
神社の祭神とされた天皇神話上の神々についての
さまざまな観念的で思想的解釈(「神道」教説)もまた
「神道」と称されることとなったのである。
戦国時代の初めに卜部(吉田)兼倶が著した
『唯一神道名法要集』からそれを知ることができる。
日本に固有の具体的な意味を担っているところから
日本の古代とも、中国とも異なる
日本独自の意味をもつ「神道」が歴史上初めて成立した。
日本の「神道」は原始社会や古代ではなく中世にこそ成立した。
しかも従来考えられてきたような
「日本固有の民族的宗教」などではなく
■神社の祭神とされた天皇神話上の神々とそのありよう
■それについての思想的解釈
というものであったことがとりわけ重要である。
「伊勢神道」などという呼称そのものが中世には存在せず
実際には吉田兼倶のいう「社例伝記の神道」として存在したにすぎない。
伊勢神宮を含む二十二社や一宮などで作成された多数の「神社神道」のひとつ、
それが「伊勢神道」といわれるものの実態であった。
ただ、ここで注意しておく必要があるのは、
「神社神道」といっても
実際には各神社に所属する顕密僧などがその直接的な担い手だったことである
(伊勢神宮の場合は内外宮の相論ともかかわって、
外宮の神官 度会(わたらい)氏の手で編成されたところに独自の特徴があった)。
出雲国の場合なども
一宮杵築大社の本寺である鰐淵寺(がくえんじ)僧の手で中世神話は作成された。
p.106から
中世後期の権門体制国家
室町幕府が京都に開設されたことにより
国家権力の主要部分が武家権門によって掌握・独占され
公家・寺社がそれへの従属性を強めた。
各国ごとに設けられた守護の権限が強化・拡大され
国衙機能が守護権力によって吸収され
また一宮の守護権力への依存・従属性が強まるとともに
その地域支配権力そのものの中央国家権力からの自立性が飛躍的に高まった。
世俗政治権力への宗教勢力の従属化という
顕密体制そのものが変質。
これと連動して
三教一致説や根本枝葉花実などとして知られる
「神道」論の浮上・肥大化という
宗教構造の変化が起こった。
三教一致説
=儒・仏・道教はそれぞれ異なるがその本質は同じだ。
中国では早くからとくに唐代に盛んに論じられたが
宋代に新たな儒学(朱子学)が成立し
廃仏論(仏教の存在を否定し、これを排除しようとする考え)が激しくなるのにともなって
これに対抗するためにあらためて強調されることとなった。
それが禅宗および儒学思想などとともに日本に伝えられ
そしてその内容が中国のそれになぞらえて、
儒教・仏教・神道三者の一致説と理解されることとなった。
(万教帰一を想起させるが一神教と帰一させるよりは無理がない。
でも本質、正確には根本の出発点から違う)
根本枝葉花実説
=日本の「神道」を根
中国の儒教を枝葉
インドの仏教を花実 とする
日本的三教一致説をかねてからの三国世界観を踏まえ、
さらに神国思想にもとづいて日本中心主義的に再編成したもの。
こうした考えは
『徒然草』で有名な吉田兼好の弟(一説に兄)で
鎌倉末から南北朝期に活躍した天台僧の慈遍が創唱したといわれていて、
すでに鎌倉末期の成立になる『鼻帰書(はながえししょ)』のなかに初見する。
ただしそれが独自の重要な意味をもってくるのは戦国時代の吉田兼倶。
(兼好法師持ち上げの理由の一つは
根本枝葉花実説
=神道が根本で儒教と仏教はそこから伸びるものだという説を言った慈遍の兄弟だからなのもある。
徒然草は本当に傑作エッセイなのでオススメ。
現代に転生したらツイッターの鍵アカや
ブロともしか読めない設定ブログでつぶやいたり
有料(無料冷やかし佞臣除けのため)noteとか書いてそう。
)
禅宗の勢力拡大にともなって
儒学思想がそれと一体をなす形で影響力を強め
そうしたなかで「神道」を儒教・仏教と対比される
「一個の自立した宗教・思想」とする認識が広まっていったことである。
現状ではなお史料的に確認するのが困難であるが
「神道」をそれまでの「シンドウ」「ジンドウ」に代えて
「シントウ」と清音で表記する考えも
仏教との違いを強く意識した
こうした動きと連動して提起され
しだいに広がっていったものと推察される。
p.112から
十五世紀
吉田神道という宗教システムは
全国の神社・神職を一元的に掌握・統制しようとした。
吉田兼倶は政治的な人物であり
みずからを権威づけるための策謀をめぐらし
今日の感覚では偽造、捏造とさえみえる文書の作成も辞さなかった。
同時代の神官や公家はそうした兼倶のふるまいを厳しく非難したが
吉田神道は戦国時代以降、全国に広まっていった。
兼倶は
文明十六年(1484)
吉田神社に大元宮と称する神殿を建て斎場を造った。
歴史的な意義は次の二点
■日本の歴史上初めて
「神道(シントウ)」が儒教や仏教などと対比される
日本固有の宗教という意味を担って登場した
■天皇神話上の神々についての思想的解釈(「神道」教説)もまた
「神道」と呼んでいる(「唯一神道」など)
兼倶はみずからの説くところを
「神祇道=神道」と呼ぶ。
(
→なんと吉田神社は「京都の吉田山は神武天皇以来の祭祀の地だ」「吉田家は歴代天皇の導師であった」とまで主張していたのでした。もちろん江戸期の神社界が一枚岩だったわけではなく、伊勢神宮等は快く思っておらず、国学者や尊王家からの批判も受けるようになり、明治維新後には特権が剥奪されました
)
p.152から
国学は
儒学における古学派(古文辞学)の成立と
ほぼ並行して起こった。
本居宣長は
「神道」を日本に固有の「神の道」
(「皇祖神〈アマテラス〉の始め賜ひたもち賜ふ道」)であり
日本の社会に固有の習俗=生活規範として存在したものだとし
それには本来「道」という名称がなかったが
外国の書籍が渡来して以後、外国のそれと区別するために
「神の道」と名づけられたものだと論じた。
宣長の跡を受けて
平田篤胤はさらに発展させ国学的「神道」(復古神道)論を新たな方向に導いた。
(キリスト教神学の和風版という、宣長の意図と離れた方向に誘導。
漢意の排除という不可能なことをやろうとしたが無理だったから
自称弟子の篤胤がキリスト教神学を取り入れたのだろう)
篤胤の思想の特徴は宣長と異なって
霊魂の救済という観点から死後の安心を論じたことにある。
篤胤は
人間は死後オオクニヌシの主催する幽世(幽冥界)に行き
そこでオオクニヌシの審判を受けるとし
そしてアメノミナカヌシを主とする造化三神を万物の生成発展の根源とするなどの
国学的宇宙論を展開した。
平田派が地方の豪農層や神官のあいだに広まり
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたとされる。
重要なことは宣長・篤胤によって
宗教の装いをもった民衆統治のための政治支配思想
(宗教的政治イデオロギー)としての「神道」が
ここに明確なかたちで整えられたことにあった。
(これまでさんざん異教についての解説をしてきたのに
切支丹神学を和風にしたという指摘はなしか。
統治用「神道」はキリスト教神学の和風版で
国家神道もその一種なのはタブー?)
吉田神道への批判
吉田神道は行法を含めいずれも仏教や道教などからの借用。
p.157から
会沢安の国体論
十八世紀末から十九世紀の日本は
幕藩体制の維持そのものが大きな困難に直面する時期にあたっていた。
国体論(国体思想)
=国家の起源を記紀神話に求め、
自国の尊厳と優越を説く論理や思想。
後期水戸学
(十八世紀末以後の、
藩主徳川斉昭を中心とする
幕末期の尊王攘夷運動の理論的支柱となった水戸藩の学風)、
とりわけ会沢安の『新論』(文政八年〔1825〕成立)において
その理論的体系化が進められた。
会沢安は記紀神話にもとづく忠孝建国の理念と、
万世一系の天皇が統治する日本の優越性を論じ、
国体による日本の国家統一の論理と、
それを実現するための祭政教一致の政治原理などを説いた。
(「教」は「教化」を意味する)
p.161から
民衆宗教の「病気直し」
十九世紀における多様なかたちでの民衆宗教の成立。
享和二年(1802)に
尾張国(愛知県)の女性 一尊如来(いっそんにょらい)
(りゅうぜん。漢字表記は「女留」「女全」)
喜之(きの)が如来教を創唱したのを皮切りに
文化十一年(1814)に
備前国の神官 黒住宗忠が黒住教を
天保九年(1838)に
大和国の農婦 中山みきが天理教を
安政六年(1859)に
備中国の農民 赤沢文治が金光教を
それぞれ開いた。
これらは近世になって盛んとなった生き神信仰
(生きた人を神と崇め加護を得ようとする
現世中心主義的な視点に立った信仰)として成立したもので
貴族や武士などではなく民衆自身が神として崇められ
また日常生活の体験を踏まえ
民衆自身の手で教義や宗教組織が創出されたところに
その歴史的意義と重要性とを指摘することができる。
これらの宗教がともに「病気直し」という共通の特徴をもっていたのも注目される。
それは現世の「難儀」の中心と考えられた「病気」(生理的な意味での病気にかぎらない)が
神仏(生き神)や布教者への信心を軸に
各宗教特有の禁忌・祈祷・呪術的行為などを交えることによって
「治癒」されるというもので
心身を一元的なものと捉え
神仏との関係の「回復」によって現世の「病気」からの解放を説くところに
共通の特徴があった。
如来教が金毘羅信仰の全国的な流行のなかで
地蔵信仰や浄土宗・日蓮宗など多様な宗教教義とかかわりながら成立したとされる。
十八世紀末の石田梅岩による石門心学や
十九世紀初めの二宮尊徳による報徳社などで
提唱された、
勤勉・節約・孝行・和合・正直・謙譲・忍従などの当為の諸徳目が
家や村を没落の危機から救うために実践すべき生活規範として
広範な民衆の地上生活に浸透していった。
黒住宗忠が
「生死も富も貧苦も何もかも心一つの用ひやうなり」と
述べているように、
心の無限の可能性を自覚化することが可能となり
それが新宗教の成立へとつながったのであった。
一方、幕末期の国学は宗教的傾斜を強めていった。
黒住教(主神は天照大神)はもちろん、
金光教(主神は天地金乃神(てんちかねのかみ))や
天理教
(主神は別名 月日様〈月日親神〉とも呼ばれた天理王命(てんりおうのみこと))もともに
太陽信仰を共通の基盤として成立したもので
それらが一個の自立した宗教として成立するためには
主神となる神々の普遍的神性の獲得が決定的に重要となる。
それが篤胤以下の幕末期国学によって提起された宇宙創造神・主宰神論によって
その理論的基礎を与えられたと考えられるのである。
重要なのは篤胤らがもっぱらアマテラス・天皇による日本の国家統治と
その特殊性を論じたのにたいし
ここではそうした特殊性ではなく
普遍的な救済神という世界宗教形成の方向で理論化がすすめられたことで
そこに民衆宗教としての独自の性格と特徴とを読み取ることができる。
(和風キリスト教初代四大人。
これら全てキリスト教が教義の設計図なのに驚く。
入れ知恵して回っていた宣教師がいたのだろう。
教義を体系化するのに関わった人は名前すら出なくてもおかしくない。
如来教の教義が全知全能の創造主や原罪など
元ネタがキリスト教。
しかも教義作成に関わった側近が一神教と相性が良い日蓮宗。
現地の生き神思想がグノーシス派と相性が良いので異端寄りになっている。
黒住、天理、金光も同様。
病気直しで世界一有名なのがイエス。
「民衆自身の手で教義や宗教組織が創出」の民衆って切支丹だろ。
この著者、ここまでキリスト教の特徴が出ているのにキリスト教の影響を指摘しないのね。
文章読むに如来、黒住、天理、金光教の教義も学んでいるのにね。
天理教は明確に一神教なのに。
でも
「篤胤以下の幕末期国学によって提起された宇宙創造神・主宰神論によって
その理論的基礎を与えられた」とあるから
これらに理論的基礎を与えたのは篤胤系の和風キリスト教だと著者は分かっているだろうね。
篤胤(1776 - 1843年)の
『本教外編』は
1806年(文化3)成立で
「未だ他見を許さず」と記され公刊されなかった。
『神字日文伝』は
文政2年(1819年)成立。
1802年成立の如来教と
1814年成立の黒住教には
少なくとも成立時に篤胤系の影響はないだろう。
でも後の教義の体系化には影響してそう。
1838年成立の天理教と
1859年成立の金光教には成立時から影響しているだろう。
如来教の具体的な教義を引用しておくので
お読みになれば爆笑間違いなし(笑)
草生えるwどころか
生命の樹と空想樹生えるw
[2024年6月12日に追加:
如来教の具体的な教義は以下をどうぞ:
【資料⑫その1】私が知る最古の和風キリスト教である如来教(1802年成立)の元ネタはグノーシス主義。世界連邦系の和風キリスト教である黒住教(1814年成立)の元ネタは聖書とグノーシス主義【和風キリスト教史】
Posted on 2023.03.18 Sat 19:24:28
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-371.html
追加終わり
]
菊池@kikuchi_8
2014年12月14日
日蓮思想とキリスト教の類似点
①末法思想という終末思想が前提
②法華経の教え以外の全面禁止の要求(排他性)
③久遠本仏という実体的な超越者の崇拝
④上行菩薩というメシア待望論
➄宗派によっては日蓮が本仏とされ、ゴッド=イエス思想と類似。
●平田派の系譜の神道系カルトと並び日蓮系カルト多し。
)
p.172から
五か条の誓文として発表した三日後の
慶応四年(明治元年=1868)三月十七日、
政府は諸神社の別当・社僧に還俗(神官化)を命じるとともに、
同じ二十八日に神社から仏具・仏像等を除去するよう命じた(神仏判然令)。
これを契機に、
一部では平田派国学などの影響を受けた神職や地方官を中心に
激しい排仏運動(廃仏毀釈)が展開され、
寺院の廃絶や仏堂・仏具の徹底的な破壊がおこなわれるところもあった。
しかし、政府としては、
宗教としての仏教それ自体の否定がねらいではなかったから、
繰り返し「神仏分離」を慎重にするよう命が下された。
(政府も仏教の否定が狙い。
命を下すだけだろ?
積極的に廃仏毀釈を阻止したのか?
隣人愛をほざきながら隣人を殺すヤソの真似?)
神と仏の分離
仏教が伝わる以前の神まつりの場の確保というのであれば
神社の廃棄こそが必要で
神社という宗教施設から仏教的な要素のみを除去するというのは、
まことにご都合主義的なごまかしだといわなければならない。
神社という常設神殿をもつ宗教施設そのものが
そもそも仏教や寺院の存在を前提とした
日本の神仏習合のひとつの具体的なあらわれにほかならなかった。
神仏分離で分離・奉斎(つつしみきよめて祀る)されたのが神々一般ではなく
記紀神話や『延喜式』神名帳などによって権威づけられた特定の神々だった。
皇族と国家の功臣などの新たな神々が創出され
神社そのものの天皇主義化が強力に推進されていった。
後者がのちに別格官幣社として整備される、
楠木正成を祀る湊川神社や、
国家(天皇)のために戦死した軍人・軍属を英霊=祭神として祀る
靖国神社などの創始であったのはよく知られているところである。
古代の「神社」成立期以来、
一部の上層神社で天皇神話上の神々を祭神とすることがおこなわれ、
そうした動きが中世以後しだいに広がりを見せるようになったとはいうものの、
民衆の信仰対象とされる中小・零細神社などはそれとまったく無縁であり、
かつそれが日本の神社の圧倒的多数を占めていた。
それが、
神仏分離を契機に神社祭神は原則としてすべて皇祖神など天皇神話上の神々や
それに準ずるもの(国家の功臣、英霊など)へと転換、収斂されることとなったのである。
(カトリックのピラミッド型教会組織にした)
p.178から
国体論の観点から「復古神道」の読み替えと再編成にもとづく
「国家神道」(国体論的「復古神道」)の成立。
明治五年(1872)三月
政府は神祇省(前年八月に神祇官を神祇省に改組)を廃して新たに教部省を設置し、
これに社寺の管轄や神官・僧侶の掌握と合わせて、
かつての宣教使に代わる国民教化の機能を担わせることになった。
そのために、
翌四月に神官・僧侶を教導職に任命するとともに、
国民教化のための綱領として三条の教則を定めた。
それは、
(1)
敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
(2)
天理人道ヲ明ニスベキ事
(3)
皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事
の三項目からなる。
同年九月に修験道が禁止され
(前年に陰陽道や普化宗〈虚無僧〉も廃止)、
あるいは天理教や金光教などの民間宗教への厳しい統制が加えられるなど、
明治七年にかけて三条の教則にもとづく強権的な宗教統制もおこなわれた。
盂蘭盆会・盆踊りの禁止や、
梓巫(あずさみこ)・憑祈祷(たのみきとう)・口寄の全面禁止などと一体のもので
開化主義啓蒙の立場から
迷信・猥雑・浪費などの名目で民間信仰や民俗行事・習俗を厳しく禁圧しようとしたことによるものであった。
p.189から
「宗教」の用語は
近代になって西洋のReligionの訳語として新しく成立したもの。
もともと宗教には
プラクティス(非言語的な慣習的行為=儀礼)と
ビリーフ(概念化された信念体系=教義)という
二つの異なる要素が含まれているが
1877(明治十)年ころまでは西洋文明と一体のものとされ
プラクティスを下位とし
キリスト教に基軸を置くビリーフ中心的な概念であった。
それが、進化論の伝来にともなう宗教と科学との対立を機に、
明治十年代後半には西洋文明と切り離されるとともに
倫理とも分離され、「宗教」は非科学的なものとして合理的な倫理の下位に置かれ、
その訳語も「宗教」に固定されることとなった。
そしてさらに二つの「神道」概念の併存や教派神道の成立などともかかわって、
個人的自由の裁量に委ねられる私的領域の「宗教」と、
国民的義務とされる公的領域の「道徳」とに区分され、
かつ「宗教」は「道徳」の下位に立つものとされたのであった。
(この道徳が西洋宗教由来)
それまで「宗旨」「宗門」や「教法」など多様な訳語が与えられてきた
リリージョンは
明治十年代に「宗教」の一語に固定されるとともに、
その内容もキリスト教や浄土真宗などを基軸に据えた、
特性の教祖・教義をもつ一神教的信仰体系を意味するものとなった。
国民の圧倒的多数が「無宗教」を唱える
「融通無碍な多神教」という特異な宗教の基本骨格は、
直接的には強権的な国家神道の成立によってもたらされた。
((国家)神道は宗教に非ずって自衛隊は軍隊ではないと同じ言い訳。
宗教と道徳がきっちりわけられるわけないじゃん。
宗教の一部が道徳でしょ)
p.196から
靖国神社の前身は東京招魂社。
招魂社そのものは旧津和野藩士 福羽美静(ふくば びせい)らが
文久二年(1862)に討幕運動で倒れた尊王の志士を京都東山の霊山にまつり、
翌年 八坂神社境内に小祠を建立したのに始まる。
その後、討幕諸藩を中心として、各藩でもそれぞれ招魂社が創建されていった
(1939年(昭和十四)以後、
それらは一括して護国神社と改称された)。
靖国神社は他の一般の神社と大きく異なる特徴があった。
(a)
一般の神社が内務省の管轄なのにたいし、
靖国神社だけは陸・海軍省と内務省の三省で運営され、
その主導権を財政を担う陸軍省が握っていて
(陸軍省の予算による運営)、
祭主も現役の陸・海軍武官が務めたこと
(b)
そこに祀られる祭神が、
国家(天皇)のために命を捧げた軍人・軍属のみに
限られていること(反官軍方戦没者や戦争被災者一般は祀られない)
(c)
国家による鎮魂施設というその基本的性格ともかかわって、
軍隊の統括責任者である天皇の弔祭を受け、
昭和の敗戦にいたるまで七十余度に及ぶ行幸・行啓(天皇や皇后・皇太子などが外出すること)が
おこなわれたこと
当初はそこに祀られる祭神の大部分が旧武士層であったため、
国民一般とは直接かかわりのないものであった。
それが日清・日露戦争を機に、
国民的な基盤をもつ神社へと大きく様変わりし、
やがては「英霊」たちの「偉業」を讃える観点から、
植民地獲得のための帝国主義戦争を美化・合理化・正当化し、
さらには国民を侵略戦争に駆り立てるための機関として、
きわめて重要な役割を担うこととなったのであった。
(
和風キリスト教の福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)が靖国神社の源流で
靖国神社の主導権が陸軍。
)
p.231
神道を「シントウ」と清音で読むようになったのは
中世になってから、広く定着したのは中世末から近世初頭にかけてであり
太古の昔からではない。
p.237
日本固有というのであれば
神祇信仰のみならず陰陽道や修験道も挙げねばならないし
仏教それ自体が日本的宗教として発展してきたのが実際で
神祇信仰だけを取り出して日本固有と考えることはできない。
メモ終わり。
”
「神道」という文字はどう発音されてきたのでしょうか、これがこの本の最初の問いです。
・「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、そのまま古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音で「ジンドウ」であった。
・その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。
・この「神道(ジンドウ)」が室町期、14世紀ごろの日本で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。
これらを明らかにしたのはノルウェー・オスロ大学のマーク・テーウンでした。彼は「神道(シントウ)」は「自然発生的な日本固有の民族的宗教」と考えられてきた(いる?)常識の誤りを指摘したのです。
テーウンが提起した「神道」の読みや語義の問題を踏まえて、日本の宗教全体のなかで神道がどのような位置を占め、どのような役割を担わされたかを追求したのがこの本です。また、仏教等の影響のなかで成立した神道を追求することは、そのまま日本宗教史を追求することにもなっています。極めて豊穣な1冊です。
自然信仰(アニミズム)と思われていた神道を大きく変えていったのは「神社」の成立でした。「常設の神殿をもつ宗教施設」、神社はなぜつくられたのでしょうか。
──中国先進文明を代表する象徴的な存在としての寺院・仏教が本格的に導入されたことは、天皇を含む独自の特徴をもった律令制の構築をめざす「日本」にとって、それに対抗するための宗教施設の創出が不可欠、かつ緊要の課題として提起されることとなった。それが神社なのである。──
こうした「先進文明への対抗」というのは常に「神道」にかせられた役割となっていったのです。近代以前は中国が、近代以後は西欧が、日本にとって時に学び、時に争う先進文明となりました。
この「神社」の成立は、それ以前の「自然信仰」に大きな変化をもたらしました。八百万(やおよろず)という言い方が象徴しているように、“神”は民衆の周囲にあまねく存在するものでした。ですから神社が成立する以前は、神は精霊であり「祭礼の度ごとに神を招き降ろし、榊・岩石や人などの依代(よりしろ)に憑依(ひょうい)させることが不可欠」でした。しかし、神社はこの神を「常時本殿に鎮座するものとし」「固定化された祭神そのものが信仰の対象」とするようにさせていったのです。この「偶像崇拝的な信仰形態の成立」は「人為的・政策的なもの」だったというのはいうまでもありません。
また、あまねく存在するものを「固着」させることは、神の中に“序列化”をもたらしました。誤解をおそれずにいえば、神社以前の神には“序列”などは存在しなかったのです。
──アマテラスを祭る伊勢神宮を別格とし、その下に全国の神社を官弊社と国弊社、さらにそのそれぞれを大社と小社とに区分することによって、伊勢神宮を頂点とするピラミッド形で構成された中央集権的な神社制度が成立することとなったのである。──
律令制の成立とともに、民衆の自然信仰は、政権によって政治的・文化帝国主義的なものへと変容されていったのです。神道は決して古代から一貫した日本固有の信仰ではありませんでした。これは、井上さんがこの本でしばしば論及している柳田國男の神道観への批判につながります。
柳田國男の神道観とは、戦前の国家神道を「偽の神道」として激しく批判する一方で、新たに「自然発生的な日本固有の民族的宗教」として神道というものを捉え返そうというものでした。いうまでもなく、戦前の「国家神道」とは“八紘一宇”あるいは“大東亜共栄圏”思想として、軍国主義・侵略主義を支えたイデオロギーとなったものです。
柳田はかつての「偽の神道」である「国家神道」に新たな「神道」を打ち立てることで「日本固有」というものを保持しようとしたものでした。
──日本固有というのであれば、神祇信仰のみならず陰陽道や修験道も挙げなければならないし、仏教に関しても、浄土宗や浄土真宗・日蓮宗をはじめとして日本で独自に成立し発展を遂げた諸宗派を含め、仏教それ自体が日本的宗教として発展してきたというのが実際で、神祇信仰だけを取り出して、それを日本固有と考えることはできない。──
柳田のいわば純粋志向は空を求めるものだったのかもしれません。日本の宗教の基本的な性格は「仏教(仏道)や神祇道・修験道・陰陽道などをそれぞれ区別しながらも、時と処に応じてそれらを適宜使い分け、ともに信仰の対象とする」ところにあります。まさしく「融通無碍な多神教」こそが基本的な性格なのです。
この柳田神道観との対決はこの本の読みどころだと思います。また、このテーマには今に続く重要なものがあります。というのはこれは「日本固有とはなにか」ということにつながり、また、「日本文化とはなにか」につながるものだからです。
いくら「国家神道」を排したものであっても、神道的なもの(柳田のいう神祇的なもの)がそのまま「日本固有のもの」にはなりません。それは国家神道以前の歴史をみても分かると思います。たとえば本地垂迹説により「神と仏の本質は同じ」と考えられた時代もありました。さらには儒教の影響を受けたこともあります。とりわけ仏教との共存(?)が深く民衆の信仰心に大きな影響を与えたことは、現在の日本人の宗教行動からもわかります。
「融通無碍」といえる民衆信仰と神道に乖離をもたらせたのは明治政府でした。
──日本国民(臣民)は個人的にどのような宗教を信仰するかにかかわらず、すべからく「日本人」の一人として天皇への崇敬の念を持つべきであり、したがって天皇の祖先神などを祭、国家的な祭祀と儀礼の場である神社を崇拝し、氏子としてそれに奉仕しなければならない。──
これが明治政府の基本的な考えかたです。
「国家権力が強権的にその教義内容にまで踏みこんで宗教に厳しい統制を加え、それを政治的に利用した」のです。これは「神社を媒介とした、国家による宇宙観・世界観(コスモロジー)の独占」というものであり、現在でも靖国神社にその影響が残っています。
かつての律令国家が神社を利用したように明治政府は神社に政治的な性格を付与しました。これは神道の「非宗教化」ともいえることです。明治政府は中央集権的国家(=近代国家)を創出するために それまで“国とは藩”であった民衆意識に“国家像”を植えつける必要に迫られました。そしてそのために「神道」を利用したのです。神道は民衆信仰である性格を脱ぎ捨てました。この延長に生まれたのが教育勅語です。教育勅語は「忠孝を核とした儒教的徳目を基礎に置き、忠君愛国を究極の国民道徳と定めた」ものでした。ですから日本古来の(神道の)精神をあらわしたものではありませんし、普遍的な徳目を標榜したものでもありません。
では国家神道と乖離した民衆信仰はどこへ向かったのでしょうか。神社が政治的に利用されたにもかかわらず「依然として信仰対象として神社」とかかわっていました。これこそが「融通無碍な多神教」というもののあらわれだったのです。
しかし、民衆の神社信仰は次第に国家による神社支配に吸収され、特異な日本ナショナリズムを生み出すことにもなったのです。ですから柳田の主張したようには「国家神道」と「民衆信仰」を一方的に切り離すことなどできません。井上さんがいうように柳田の神道の再生・再発見には徹底性が欠けていたのです。
「日本固有のもの」を追求するためには戦前のナショナリズム、ファシズムの徹底的な分析と批判が不可欠です。そしてそれをくぐり抜けないかぎり、「日本なるもの」を見出すことはできません。そんなことを痛感させる1冊です。読むごとにずしんと響いてきます。
電子あり
『「神道」の虚像と実像』書影
「神道」の虚像と実像
著:井上寛司
近年、内外で神道に対する興味と関心が大きく高まっています。原理主義の伸長などを背景に一神教の行き詰まりが論じられ、多神教的宗教のありかたへの見直しが始まっていること、靖国問題などをめぐって神社や神道があらためて問題とされ、その理解をめぐって種々の議論が展開されていることが要因でしょう。さらに地球温暖化など環境問題の深刻化とも関わって、自然との共生という観点からアニミズムへの関心が、日本の神社や宗教のありかたに目を向けさせたといえます。
しかし、日本の神社・神道や日本の宗教についてこれまで論じてきた著作は、いずれも日本の宗教の一部に触れるに止まって、その全体を論じ得ていないのみならず、事実認識という点においても多くの誤りを含んでいます。
第1に柳田国男などの見解に基づいて、「神道」は日本固有の宗教であり、原始社会以来の自然発生的な宗教だとこれまで理解されてきましたが、むしろその起源は7世紀後半の古代律令制国家成立期に求められるべきです。いわゆる「神道」や「神社」は国号「日本」や「天皇」号同様に、中国からもたらされた律令法と一体をなす寺院や仏教に対抗し、「日本」の独自性を強調するための一環として創始されたものと考えなければなりません。”
[2024年6月17日に追加:
上記の埋め込み呟きの直後に
「”」(引用符)を書いてから引用が始まる書き方は、昔の私がやっていた書き方。
埋め込み呟きにURLつきリンクがある場合にそうしていたことがある。
上記の埋め込み呟きにリンクがある記事は以下のことだ。
「神社」とは何なのか? アニミズムから靖国まで、神道の謎を追う|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部
野中幸宏
『「神道」の虚像と実像』
(著:井上寛司)
2017.05.03
https://news.kodansha.co.jp/20170503_b02
追加ここまで]
参考資料
※神道カルト系の過去記事は↓など
私の唱える陰謀論は「イデオロギー陰謀論」である。
— 月読美琴@政治クラスタに物申す (@tsukuyomi3510) 2019年3月23日
「イデオロギー陰謀論」の私にとっては、秘密結社“そのもの”より
その組織が作り出した思想を分析するのが重要だと感じている
その組織の思想を知らないと秘密結社の存在の意味も分からない。
だから普通の陰謀論の殆どは記号だけを叩くでしかない。
ピザノダイナソー
@pizano1215
3月30日
「天皇信仏法、尊神道(天皇は仏法を信じ、 神道を尊ぶ)」
用明紀
ひかりの輪が開発した読経瞑想「三悟心経」についてですが
— ピザノダイナソー (@pizano1215) 2019年3月31日
「愛す」って、仮にも仏教思想を踏襲してるのなら「愛」は、対象に対する執着・欲望であって悪い意味に他ならないでしょうに。
↓↓↓
万物恩恵 万物感謝
万物 仏 万物尊重
万物一体 万物愛す pic.twitter.com/n9wSBVkw9l
オウムの子はオウム🦜
イエズス会士の故・門脇佳吉氏が、「霊操」と「禅」に近似性を熱心に取り上げてたことについては、色々な見方が出来ると思います
— ピザノダイナソー (@pizano1215) 2019年3月31日
イエズス会というのは非常に厄介な組織でありまして、彼らは現地文化を“利用”してきた歴史(過去も現在も)があります。故に、穿った見方をされるのも仕方ないでしょう。 pic.twitter.com/MfQNEPcvRB
(
瞑想修行の名目で仏教団体に入り込んで乗っ取る手口が現在進行中なのでは?
キリスト教系だけでなく
和風キリスト教の一派の鬼崇拝カルトも瞑想したりしているが
鬼優遇の神道カルトは瞑想中に鬼が見えると歓喜するのだろう。
禅仏教なら鬼だろうが仏だろうが殺せ=執着するなだからすごい。
鬼優遇の神道カルトは万教帰一である。
万教帰一は
①この世の宗教が一つだけになるべき
②自分が信仰する宗教が一番
なので
自分ら以外の宗教を全てを破壊するのが目的。
破壊とは消滅させるとは限らず
中核教義を歪曲することも含む。
みんな仲良くと真逆な思想なのに
みんな仲良くとほざく醜悪さ。
万教帰一はさまざまな宗教を比較しながら学べば不可能だとわからないとおかしいので
賛同者は意図的または無自覚工作員だと判断している。
仏教と儒教が万教帰一カルトの教義の中核を否定しているので
万教帰一が念入りに叩いているのが儒教と仏教。
支配層の派閥ごとに目標とする万教帰一像が違うのでそもそも宗教統一は不可能だとはわからないらしい。
統一できたとしてもそこからいろいろな分派ができて実質統一できないことは
宗教史が証明している。
RAPTの瞑想への見解が知りたい。
仏教嫌いのRAPTの元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)なので
それを想像する瞑想なら構わないのだろうか?
その携挙は
艱難前携挙説なのか?
ラプトは紅卍や生長など大本系を叩いているようだが
ラプトが信仰するキリスト教が大本教の設計図なのは決して言わない。
自分の派閥に都合が悪いところだけ抜くのは
良くあるパターン。
ねこたのドルイド教叩きも改悪するラプト。
ねこたはヤソも
設計図がキリスト教で表面だけ別物に見せかけた新ヤソも全部叩いていたが
ラプトはヤソ自体は否定しない。
聖書の矛盾点についてはどう整合性をとっているの?
四福音書は真実なのに相互に矛盾している記述があるなど問題点だらけなのが聖書。
最近、神道カルト批判、特に大本教批判していて「お!」と思ったら高確率でRAPT信者なので
資金あるなーという感想。特に悪魔が出てきたらほぼ100%。
悪魔なんて軽々しく使う時点でもう思考がヤソ。
この善悪二元論思考がまさに奴らが叩いている悪魔崇拝=ヤソ以外の宗教=ゾロアスター教から
ヤソが盗んだものだ。
異教を悪魔崇拝と叩いたら
異教の混合体のヤソも悪魔崇拝になるぞ!
イエスが生贄になったことに感謝するヤソが
生贄を悪魔崇拝と叩いているが
自分らも悪魔崇拝者って言っているギャグ?
アセンションだの次元上昇だの叫ぶ者がいるけど、
プロテスタントのキリスト教終末論の携挙を
宗教色抜いて(抜けてないけど、矛盾点は減らした)スピリチュアル風にしただけ
アセンションはキリストの昇天って意味だから完全にキリスト教神学じゃん。
ふぎさやか@maomaoshitai
3月24日
”仏教だとある禅僧は「瞑想中に仏や菩薩が見えることがあれば、
それを心の槍で突き刺せ」などと説いたとか。どうして仏教徒が仏や菩薩を攻撃するのかと思うかもしれませんが、
自分には特別なものが見えた、特別なものに選ばれたと思うのは、
多くの場合は魔境という危険な精神状態のためです。”
)
ガールズちゃんねる
https://girlschannel.net/topics/809264/2/
陰謀論part2
1601コメント2016/08/02(火) 15:49
”
736. 匿名 2016/07/05(火) 17:17:13
「平安京」とはヘブライ語で「エルサレム」です
+29
-1
…
741. 匿名 2016/07/05(火) 17:25:03
>>736
うそつくな!!!w
最近また日ユ同祖論なんてデタラメ言う奴をネットでも宗教勧誘でも見かけるようになったけど、
ユダヤ人なんて人種いないからね!?
ユダヤ教に改宗するか、母親がユダヤ教ってだけで『ユダヤ人』だから
その辺は読めないニックネームさんとknznymmmy code777さんが凄い勉強になりました!
どうして、いつから、だれが、どうやって、日ユ同祖論を作って広めたのかまで詳しく書かれてるので
一読の価値あります!
+9
-2
” (強調は引用者)
これ新書にしてはガツガツ引用して、すぐさま引用元乗せるからえらい
((a)「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、
そのまま古代日本に導入されたもので、
その読みも当初は濁音の「ジンドウ」であった。
(b)その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。
(c)この「神道(ジンドウ)」が室町期、十四世紀ごろの日本で、
漢音表記による「シントウ」へと転換したのであって、
それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。)
[2024年6月18日に追加:
「(a)「神道」の語は~」は呟きの画像の個所を文字にしたものである。
上記画像だと「転換にともな」までしか表示されていない。続く「うものであったと考えられる。」は次のページだ。
追加ここまで]
この「神道」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記の「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。(マーク・テーウンの指摘)
室町時代、天台宗の僧良遍が著した『日本書紀巻第一聞書』の冒頭で、
当時「神道」は「ジンドウ」と濁音で読むのが一般的であったが、
良遍はこれを「シントウ」と清音に改めるべきだと強調していると。
ymmr@kh_yama
2011年7月15日
講談社現代新書 「『神道』の虚像と実像」(井上寛司)、読了。
神道はもともと中国の「ジンドウ」で、仏教下の神々を指す仏教語、
それが14世紀に日本で「シントウ」へ転換した。
神社、国家神道の成立プロセスを明快に解説しており、非常に面白い。良書です。
長 高弘@ChouIsamu
2017年4月4日
豆知識:
「神道」とは、元々、中国で書かれた仏教関係の書物で良く使われた言葉
本来の意味は「仏教により教化・救済されるべき土着の下級神」
日本での古い読み方は「ジンドウ」
日本において、今のような意味で使われるようになり、「シントウ」と読まれるようになったのは室町時代以降
神道とは、元々、仏教由来の言葉で、
本来の意味は「仏教によって教化・救済されるべき下級神」で、古くは「ジンドウ」と読んだ、と言う話を考えると、神仏習合に基いた説話集「神道集」が出来たのは、「神道」が古い意味から、今日のそれに近い意味に変る少し前ぐらいの訳か……
flat face@PlanusFacies
2018年5月4日
マーク・テーウェン「神道(ジンドウ)と神道(しんとう)の成立についての比較考察」
(ニネッテ・幸子・ペーチュ/森新之介訳、日本思想史研究、2010年)を読了。
古代の朝廷は地元神や氏族神を仏教に組み込み、土地や氏族を統合しようとした。
祭祀権の世襲で権力を握っていた有力氏族はそれに抵抗し、
宮廷作法などで神仏を隔離させた。
しかし、神々の祭祀は神道(ジンドウ)として仏教祭祀に取り込まれていった。
ところが、天台で本覚思想が興隆すると、
神々が普遍的な仏と比べてより根源的であると評価されだした。
また、中世に統一政権が滅び、分裂した封建政治に移行すると、
社会分裂の混沌に見舞われた地元集団は、
地方権力の釜底を超越する普遍的な権威に憧れ、
天皇の神話と象徴を流用しようとし、地元神が皇祖神と関連付けられた。
祭祀執行者も宮廷に依存できなくなり、
寵遇の新しい供給先を見付けようとしていたので、
新しい祭祀のやり方が活発に探究された。
宮中や伊勢で受け継がれていた儀礼がそのために用いられた。
そして、
吉田兼倶や江戸時代の儒者、国学者による創意工夫で神道(しんとう)は仏教から自立していった。
子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です)
@kitsuchitsuchi
2014年7月9日
明治以前の「神道」
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。
政治に影響力なし。
②道教用語としての神道(天皇と神器も道教用語)。
天武・持統天皇合葬陵は八角形(道教思想)。
本地垂迹説なので神仏習合は仏教が上。 日ユ同祖論者は道教と仏教を無視。
お読みくださり感謝!
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