【文アル】深呼吸を、ひとつ
■ ふぉろわさんからリクエスト頂いた「吉川先生の話」。女司書出ています。苦手な方注意。
■ 声の大きい吉川先生がちょっと苦手な内気な司書が出ずっぱりです。いつもの食いしん坊司書とは違う図書館の話。書いてて楽しかった(*'ω'*) ありがとうございました!
■ いろいろ山場を越えたので、いろいろ書いてみたい欲。もしリクエストとか感想とかありましたら、マシュマロ投げてやってくださいまし。
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■ 表紙はこちらillust/60590573からお借りしています。
■ 「ラーメン食べたい」……矢野顕子
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物心ついたころから、なんて断言すると「白髪三千丈」の類の誇張表現となってしまうが、ともあれこの帝國図書館に務める特務司書は、それほどまでに男性と接した経験がなかったのである。
義務教育の期間は女子校通いだった。卒業と同時に師事した錬金術の師は、白髪を頭に頂いたもの静かな老婦人だった。兄弟子もいないではなかったが、いずれも無口で粛々と研究に向かう熱心な学徒ばかりであって―――
要するに、だ。
彼女はその年になるまで、否、特務司書に任じられるまで、まともに成年男性と言葉を交わす(歓談する)という経験をほとんど積まないままに過ごしていたのである。
声が大きく、体の大きな異性の前に立つと、もう、それだけでがちがちに緊張してしまう。
初対面の館長の前でフリーズしたのは未だに笑い話としてネタにされるし、初期文豪に迷わず堀辰雄を選んでいたりなどした。もちろん、完全に見た目でのチョイスだ。失礼な話だと承知してはいるけれど、一番話がしやすそうだったのだ。
そんな彼女の目下の悩みは―――そう。
吉川英治。
ぶっちゃけよう。
彼が怖いのだ。顔ではなく、存在の大きさと、声の大きさがもうどうしようもなく怖い。
「僕から吉川さんにお願いしましょうか。もう少し声を押さえて話をしてください、って」
と、優しく堀は言ってくれるが、ふるふると司書は頭を横に振る。
「堀さんに甘えてばかりいられないです。特務司書なんだからしっかりしないと……そ、それにこんなことでおどおどしてるって、吉川さんに呆れられたくないです……」
「そっか。司書さんは頑張り屋さんだね。じゃあ、僕は応援しています」
いいこいいこ、と、優しい目をした堀に頭を撫でてもらえると、それだけでちょっと元気が出てくる気がするのだから、自分でも現金なものだと思ってしまう。でも。
(問題解決していないのに、元気だしてどうするの私ー!)
転生した吉川英治は、その作風を彷彿とさせる器の大きな男である。「声が大きいとびっくりしてしまうので、もう少し押さえてもらえないか」と説明したら、気を悪くすることなく了承してくれるはずだ。
一言。たった一言、言えばいいだけなのに。
いざ当人を目の当たりにしたり、助手になったときに、しおしおと顔がうつむいてしまうのはどうしてなのだろう。
たった一言、言うだけですむのに。堀の視線だって応援してくれているのに。
(ああ、こんなんじゃだめだめだなあ……。堀さんも呆れているんじゃないかしら……。特務司書失格だよう……)
下り坂を転げ落ちていくテンションを抱えているうちに、数日が過ぎてしまった。
そんなある日。
深夜。日付が変わった頃合い。
図書館の一角に用意された私室で研究所をひもといていた司書のおなかがぐう、と鳴った。
かなり激しい自己主張だった。
しんしんと冷える冬の夜である。ちょっとなにかをつまむにしても、おせんべいとかビスケットとか、そういうものは却下する、という響きである。
司書はちょっと考えて、ぱっと表情を明るくした。買い置きのラーメン―――インスタントの袋麺―――があったのを思い出したのだ。
ラーメン食べたい、今すぐ食べたい。熱いの食べたい。
ふんふん、鼻歌歌いつつ、ストッカーからそれを引っ張りだして、パジャマの上にはんてん羽織って、ぺたぺたスリッパを鳴らして急いで向かうのは食堂の脇の給湯室。冷蔵庫には卵と、冷凍のねぎと、あとなにがしか具になりそうなものがあったはず。使ったぶんはあとで補充しておけばいい。
談話室から響く喧騒を聞きながら明かりをつけて、かじかむ手に白い息を吐きかけつつ一番小さい雪平鍋に水をいれる。ガスコンロにかけてマッチで火をつける。キャベツを一枚、ハムも一枚。とんとん刻んで、それから―――
「誰かと思えば、貴女だったか」
「うっひゃああああ!?」
ぺりっと袋を破ったと同時、背後から大きな声が響いて司書は飛び上がった。
「よっ、よ、よしかわさ、」
「すまん。驚かせてしまったか」
振り返った視線の先には、ドアをほとんどふさぐようにして、吉川英治が立っている。
司書は縮み上がった。
怒られる!
「すっ、すみませ……ごめんなさい、その、あの」
これ絶対怒られる! 日頃から健康については森鴎外以上に気を使う彼のことだ。こんな遅くにラーメン食べるなんて、健康によくないと絶対大きな声で怒られるどうしよう!
思っただけでじわっと涙がにじむほど、司書は縮み上がって怯えてしまったのだ、が。
「珍しいな、夜食か。研究熱心なのはいいが、あまり根を詰めるものではないぞ」
「……あ……」
怒られなかった……。
吉川の目は優しい。どっと押し寄せた安堵の念に、危なく司書は倒れかけたのだが、幸い、彼はそんな彼女の様子には気が付かなかったようだ。無造作に近寄って、ひょいと彼女の手元を覗き込む。
「何を作っているのだ?」
「あ、あの、すみません、ラーメン……です。ごめんなさい」
「なにを謝ることがある?」
「あの、だって、こんな遅くに、体に悪いから……すみません」
「毎日ならともかく、たまのことなら問題はなかろう。見たところ、栄養のことも考慮されているようであるし」
ほんとに怒られなかった……。
そんな司書の内心など知らぬ吉川は、「ほらほら湯が煮えたぎっているぞ」と彼女をせかす。酒飲みたちに付き合って、〆のラーメンも経験済みなのだろうか?
これは、チャンスかもしれない。
司書は勇気を振り絞った。
「あの、ちょっとおなかがすいたので、その、つ、作りにきたんです、けど。一人だとちょっと多いので、よかったら吉川さんも、その」
「それは有難い! ご馳走になろう……と、声が大きいな。すまない」
声を聴きつけられたらせっかくの夜食が減ってしまう、と笑って吉川は壁に寄り掛かる。司書は彼に背を向けて、急いで卵をもう一つと、キャベツとハムと追加した。
「あの、吉川さんはどうしてここに」
「少し喉が渇いたのでな」
彼に背を向けていれば―――つまり、姿が視界にはいらなければ、随分落ち着いて話をすることが出来た。声だって、これくらい押さえていてくれれば怖くない。むしろ、彼の声は低くなめらかで、聞いていると心地よい。
「叱られるかと思いました」
「腹が減っては戦は出来ぬというだろう。貴女のことだ、遊びで夜更かしをしているのではあるまい」
「……」
ぽっ、と耳が熱くなるのが判った。
そんな風に、評価していてくれたんだ。
ぽつぽつと押し出す彼女の言葉を、吉川がきちんと拾って会話を続けてくれるうちに、麺はほぐれて卵も素敵な半熟になり、美味しそうにラーメンは出来上がった。司書はまた少し考えて、二つの丼に3:2の割合で麺を取り分ける。多いほうは吉川へ。
「ありあわせですけれど、どうぞ」
「うむ、有難く」
いただきます。ちょっとお行儀が悪いけれど、立ったまますすりこむのが夜食のそれにはふさわしい。「これは旨い」と目を細める彼の表情と温かい湯気に後押しされて、司書は、さらに勇気を出した。
美味しいものを食べてるときって、人はいつもより優しくなれるっていうし……!
「あの、あの、吉川さん」
「うん?」
「あの、前から言おうと思っていたんですけれど、あの……」
「我に? どのようなことだ?」
「ど、どうして声がいつも大きいんでしょうか……」
馬鹿だ私ー!
そうじゃない、そうじゃなくって! 「今くらいの大きさの声のほうが素敵です」とか「今くらいだとお話しやすいです」とか、そういう切り出し方をするべきときに! 私は赤ずきんか!吉川はオオカミか! どっちかっていうと熊だよね! ヒグマだよね!
千載一遇のチャンスをふいにして、司書は思わず丼のなかに身投げをしたいくらいの気分にかられてしまったが、
「声が大きいということは、息を深くするということでもある」
うつむいてしまった司書の顔をまっすぐ見つめ、吉川英治は、真面目に答えてくれた。
「一度、深呼吸をしてみるといい」
「こう……ですか?」
丼を抱えてすう、と息を吸う。美味しい匂いと温かい湯気で自然と胸郭が膨らんで、顔が上がる。
司書は、はじめて吉川英治と正面切って向き合った。
見上げた彼の表情は穏やかで、一緒のものを食べているせいか、怖いとは思えなかった。
「大きく発声をしていれば、常に物事と差し向かいで真摯に応対することができよう?」
「……」
「加えて、大音声は常に多くのものの耳に届く。我は文豪である以上、己の言葉には責任を持たねばならぬ。大衆作家であるがゆえにな」
「……」
すとん、と胸に落ちるものがあった。
彼の文学は、多くの大衆を楽しませるものだ。新世界を表現する新しい言葉を模索するものでも、啓蒙のためのものでも、ない。身分年齢に関係なく、幅広い読者へと向けられたもの。「鳴門秘帖」。「宮本武蔵」。「三国志」。実はちゃんと読んだことはないけれど、渡された資料によれば、個人の思惑や愛憎ではなく、外の―――広い世界を股にかけて、魅力的な登場人物が縦横無尽の活躍をする物語。
ああ、と司書はようやく気が付いた。
そんな広い世界を駆け回るためには、確かに健康な体が必要だ。食事だって大事だし、なによりも。
大きな声を腹の底から出さなければ、冒険の仲間を見つけることだってできやしない。
彼の文学は、狭い部屋の中でうつむいて向かい合うものではないのだ。
それは、部屋の中から外へ、広い世界へ連れ出してくれるもの。
だから。
洗い物と後片付けを手伝ってもらい、おやすみなさい、を言って自室に戻った司書は、寝る前に目覚まし時計をいつもより一時間早い時間にセットした。
その時間、吉川英治が中庭で鍛錬と称した体操やトレーニングを行っているのは知っている。
頑張って、ちょっとだけ早起きしてみよう。部屋の中じゃなくて、外だったら―――不自然でない程度に距離を置けば、そんなに圧迫感だって感じないはずだ。外だったら、声だってそんなに大きく聞こえないはずだ。
文学は、部屋の中でだけ味わうものじゃない。
だから。
司書は、少しだけ大きな声を出してみようと思った。