アセクシュアルでもアロマンティックでもないかもしれないけれど、言葉に救われた話
私は小さい頃から、恋の話や、親になることに興味を持てずにいた。案外いつか興味を持つかもしれないと思いつつ、そのままここまで来てしまった。おまけに興味があるのは生き物やファンタジーのことばかりだったから、多分多くの人と話が合わなかった。
子どもの頃はそれでもいいと思えていた。というより、「これじゃいけない」とは思わなかった。思わされるような出来事もなかった。
人それぞれ。全部個性。それで良いじゃないかと。
私は生き物が好きだけれど、本物の生き物を見ていたわけではなかったようだ。図鑑も読んだし虫取りもしたというのに、長いこと夢見心地で、絵本やファンタジーや空想の世界から生き物を眺めていた。
世界が弱肉強食だということ、みんな一生懸命子孫を残しているということに気づかなかった。世の理が目に入らなかった。常にぽやーんとした感覚でいたのだ。
弱肉強食と繁殖のことに気づいてから、私の空想の世界はだんだんと狭くなった。
今は「生き物も人間と一緒」だと思っている。
人間はそれに気づかず、「虫が気持ち悪い」だの「小さな生き物は本能で動いているから知能や感情や痛覚はない」だの言っているけれど、端から見れば9割同じなのだ。
「おなかがすいた」「好物を食べたい」と思うのも、「疲れた」「眠い」と思うのも、「子どもが欲しい」「あの人に恋をした」と思うのも、全部「肉体」が発する声だ。
身体の仕業。生命の摂理。
怪我をすると痛いのも、病気になるのも、恐怖や苦痛から逃れようとするのも、経験によって持論を持つのも、全部「肉体」があるから。それぞれの肉体には個体差があるから。
「あの人ステキ」と思うのも、おしゃれをして自分を綺麗にしたいと思うのも、おそらく体が発する声なんだろう。
生き物だって美味しいご馳走が好きだろうし、疲れたら休むだろう。身に危険が迫れば怖がって逃げるし、追い詰められれば反撃もする。成長すればやがて恋をするし、人間の領土争いのようにナワバリ争いもする。
巣を作ったり、道具や他の生き物の生態を利用したり、美しい声や姿を持つように進化したり、体を綺麗に身軽に保つためにグルーミングをしたり、毛繕いをコミュニケーション化したり、毒のある生物や鳥のフンに擬態して身を守る賢さがあったり。
それぞれ表現の方法と生き方が違うだけで、「生き物である」という土台は同じなのだ。
恋をし、子孫を残す。食べ物や水を求める。
行動パターンも思考回路もほとんど同じだというのに、人間にだけ心や知能があって、他の生物にないなどということが有り得るだろうか。虫や魚が痛みを感じないと言える根拠はあるだろうか。
おそらく人間と生物の違いは……
生物は他種を根こそぎ排除しようとまではしておらず、多様性を受け入れ、時に他の生物を利用しつつ生存競争をしている程度だが、人間は多くの生物を根本から排除しようとすることだ。
命を奪うことに慣れ、生態系のバランスを壊し、その上「他の生物に知能や感情はない」とナメている。それだけだろう。
生物の個々の肉体は朽ちていくから、他の者の肉体をいただきつつ自分を補わねばならない。命尽きる前に子孫を残さねばならない。
親と子は違う個体であっても同じ種だから、「種族」または「命」自体は、何度でも再生する不死鳥と同じなのかもしれない。
私は恋をしたいと思えなかった。誰かの恋バナに合わせようとしつつ、何か違うと感じた。いつまで経っても「この世界の基本」を理解できなかった。
生物としての本能に見放されたのだろうか。思えば恋や愛や結婚のことに限らず、すべてのことから、私は取り残された。
恋の歌を、生物の生態を、素晴らしき命のドラマを……
「世界」を見るのがしんどい。現実が辛い。
私は生物じゃなかったのかもしれない。世界についていけなくなった。最初からついて行く気がなかった罰かもしれない。
恋の歌や恋の話を聞くと、自分が責められているように感じた。「恋をすることこそが生きる意味」という他人の持論に心を乱された。
生命の神秘を聞くのが辛くなってきた。すべてに自信が持てない。
生物にはオスとメスがあって、弱肉強食で、みんな本能にナビゲートされて生物としての道を生きているのに、私だけが落ちこぼれた。そう思った。
私は昔から落ちこぼれでいじめられっ子で世界になじめなかった。心の拠り所だと思った生き物の世界も、ふんわりとしたファンタジーではなかった。自由で穏やかで制限のない世界は、物語の中にしかなかった。
砂時計が個々のタイムリミットを握る世界の中で、みんなセミのように一生懸命歌っている。
長いも短いも関係ない。そんなものは存在しない。アリはアリの時間を、ゾウはゾウの時間を生きているのだ。
けれどどこまで行っても世界の根本は同じだ。
逃げられない。抜け出せない。迫ってくる。
私はどこへ行けばいいのだろう。
*
ここで最近、「アセクシュアル」や「アロマンティック」という言葉を知った。
この概念は、私にとっては知ったばかりだったが、既に世に浸透し始め知名度が上がっているらしかった。
もしかしたら私はこれなのかもしれない。
しかし私は今までにも「これかもしれない」と思っては「やっぱり違うかも」を繰り返してきた。
発達障害とか、エンパスとか、スターピープルとか、色々と「自分を示せる言葉」「仲間」を探して彷徨い歩いたが、波動の低い私を救ってくれそうな言葉は見つからなかった。一時「これかも!」と思うものに巡り会ったところで、結局私は鈍感で攻撃的な、ただの落ちこぼれなのだ。
しかし私に当てはまろうと当てはまらなかろうと、これらの言葉は人を救うだろう。
恋をできない苦しさや、「自分がおかしいのではないか」という感覚を抱えている人は多いはずだ。「恋や結婚こそがすべてである」という、無意識の発信も多いから。
「恋や結婚をすることが当たり前ではない」と思えたら。世界がそういう空気になったら。
楽になれる人がたくさんいるんじゃないだろうか。
言葉のあるところには人が集まり、情報が集まる。
仲間がいる。一人じゃない。きっとそれで救われる人がいる。
*
世界には心ない言葉や、悪気のない多数派の声、自分が間違っているのか相手が間違っているのか判別つかないような善悪論と常識論が溢れている。政治家は定期的に無神経な発言をするし、悪なのか正論なのか分からない「美学」が、右から左から、私を引きずり込もうとする。私の好きな創作の世界も、恋や戦闘で溢れている。
他生物を殺してまで生き、子孫を残す価値とは?
私のような落ちこぼれの生きる価値とは?
トゲのある言葉と持論が、私の中で渦を巻く。
他の人からしたら私の言葉の方が心なく、ひどいものなのだろう。
そもそも世界が弱肉強食でなく、生命の危機や寿命、老いなどがなければ繁殖も不要だった。今世界に存在する命を最大限大切にすれば良くて、年齢も性別も義務も生産性も、何もいらなかった。命を天秤に乗せて、価値を比べる必要などなかった。
どうして、生物には新しい肉体を生み出し、その肉体が育つことのできるエネルギーが存在するのに、個々の肉体を永遠に維持することができないのか?
「生命」自体は何十億年も維持してきたのに、体一つ維持できないのは妙ではないか。そしてそういうシステムになっているというのに、なぜ生物は死を恐れるのか?
今そんな空想を語ったところでしょうがないけれど。
とにかく繁殖する意味が納得できず、人と話が合わず、心が苦しい。そんなとき。
「アセクシュアル」や「アロマンティック」であれば、それだけで話が通じる。そういう人もいるのだと理解されれば、誰も恋や繁殖の話を押しつけてこなくなる。こちらも、トゲのある持論を用意して防衛のためにかます必要がなくなる。
アセクシュアルやアロマンティックという言葉が完全に浸透すれば、私のような「アセクシュアルやアロマンティックではないかもしれない者」も、結果的に助かる。「恋をすることが人としての成長であり価値である」とか、「繁殖が生物の目的」だとか、そんな概念の束縛から解放される。
だからいろんな言葉が浸透すればいい。
LGBTとか発達障害とか色々な言葉があるけれど、「完全には◯◯に当てはまらないけれどそれに近い」というゾーンの人もいっぱいいると思うのだ。色んな言葉ができて、みんなたくさん仲間が見つかればいい。それぞれ自分の居場所を見つけられればいい。
多数派に否定されたとしても、自分と同じ人も世にたくさんいるのだと思えるようになったら。これから色んな言葉や概念が現れるであろうことが楽しみになったら。精神的余裕が生まれ、追い詰められることがなくなり、自死する人が減るかもしれない。
色んな人が、多種多様な生物が、追いやられることなく残っていき、どんな命も「生きたい」と希望を持てるような……。
生きるのは簡単で、何歳になってもたくさんの可能性と選択肢があると思えるような……。
そんな世界になってほしい。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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「誰もがきっと少数派」
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