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シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕

2024/08/27 追記
元の記事タイトルは「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」でしたがいろんな人に怒られたのでたしかにこの書き方は失礼かもしれないしネガティブな感じで嫌だな…と反省しタイトルを変更しました。

2024/08/28 追記①
その後「シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについていい加減なことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事」でしたがまだ怒られそうな気がしたので再度タイトルを変えました。

2024/08/28 追記②
noteを通じて北村さんから本記事読者のコメント欄での誹謗中傷を主たる理由とする記事の削除要請が届いたので、元記事はコメントを含めて削除しました。こちらの記事は元記事を複製したものですが、より文意が汲みやすく誤解を減らすために適宜〔〕で追記した改訂版となります。再公開にあたり、不要と判断した引用記事の魚拓リンクを削除し、記事のタイトルを「シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の見解とは違うことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事」から再度再度変更しました。

なお、北村さんの削除要請理由には「「年間読書人」(※北村さんが誹謗中傷を訴えたユーザー)の誹謗中傷を止めず、それどころか助長するようなコメントを書いている」と記載されておりましたが、俺の「年間読書人」さんに対するコメントは下記の通りで、助長するどころかむしろ止めているので、これは事実無根の虚偽情報か、ものすごいフルスイングの誤読だと思われます。

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こんな記事をネットでたまたま読んだ。

ツイッターではわりと人気のある本業がシェイクスピア研究の批評家という人(詳しくは知らない)が実は観たことのない有名映画を観て率直な感想を述べるという企画のようで、今回は『ダーティハリー』の回。その『ダーティハリー』に対する評価は人の感想などさまざまなのでどうでもいいのだが、読んでいて「あれっ?」となる記述がいくつかあった。

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。

ニュー・シネマは多くの場合、アメリカ社会が正常に機能していないのだから暴力が発生するのだ、みたいな話になっています。

60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。

そのくせに、結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ。〔見方によっては、むしろ悪化している。〕

ニュー・シネマはまさに、ヘイズ・コードの規制が無効になったあとに生まれた潮流で、アメリカをリアルに描くことができるようになった……はずなのに、プレコード時代では見られた女性中心的な映画はあんまり作られなかったんです。

ニューシネマをあまり観たことのない人がどう思うのかはわからないが、一応それなりにニューシネマと呼ばれる作品群を観ている俺としては、一番最初の「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という時点でその認識はちょっと、いやだいぶ実際のアメリカン・ニューシネマからズレているんじゃないかと〔個人的に〕思った。ということでそれについてくどくどと書こう。

例の記事の何がおかしいのか

たしかにアメリカン・ニューシネマには直接的な暴力やセックスが出てくるものも少ないわけではないが、そんなことを言ったら1950年代のフィルム・ノワール(この時代のアメリカで量産された低予算のB級犯罪映画と思ってもらえればとりあえずいいです)だって暴力の嵐だし『拳銃魔』や『激怒』(フリッツ・ラング)のように後年の作と比較しても残忍と見える暴力演出もときにはあり、あるいはアメリカン・ニューシネマ後の作品を考えるとたとえば『ダイ・ハード』や『危険な情事』のようにこれはアメリカン・ニューシネマの作品群よりも遥かに暴力やセックスの描写が露骨だったりする。

現在の映画で一般的な暴力やセックスの描写の基準からすれば、アメリカン・ニューシネマはむしろその暴力性や性的な要素において全然大人しく慎ましいと言えるほどで、アメリカン・ニューシネマの幕開けとされる1967年の『俺たちに明日はない』が(これにしたって結局今の基準からすればまったく穏当な映画なのだが)公開時にその暴力性と性的な要素でセンセーショナルな話題を振りまいたとしても、それをニューシネマ全体の特徴として〔今の視点から見て〕語るのは、どうも相当な無理があるように俺には感じられる。そうした俺からすれば誤った認識の上で展開されるこの著者のニューシネマ論は、現実のニューシネマ作品群に対してまるでピントが合っていない〔ように俺には感じられる〕。

アメリカン・ニューシネマとは何か

では実際のアメリカン・ニューシネマとはどんなものだろうか。それを考えるためにはまずニューシネマとは何かという正確な定義から始めないといけないが、実は(なのか?)アメリカン・ニューシネマというのはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリーであり、映画製作者の側が主体的に提唱しその思想に則って作品を製作した「ヌーベルヴァーグ」(ゴダールとかトリュフォーとかのやつ)や「ドグマ’95」(ラース・フォン・トリアーが提唱したもの)のような映画運動ではない。

そのため概ね1960年代後半~1970年代にかけて製作されたアメリカ映画の中でなんらかの特徴を有するものをなんとなくニューシネマと呼んでいるわけだが、これはニューシネマでこれはニューシネマじゃないという明確な分類基準があるわけでもなく、人によって何をニューシネマとするかは異なってくる。その意味ではニューシネマを「現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」の作品とする著者の定義も不可能ではないのだが、俺からすればそれはむしろ逆なので、なぜニューシネマが「現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」の映画群という見解が的を外している〔ように俺には見える〕のか、具体的な作品を挙げて説明してみたいと思う。

ニューシネマの具体例

その具体的な作品だが、まずは翻訳でもなんでも駆使して英語版ウィキペディアの「ニュー・ハリウッド」作品リストをざっと見てもらいたい。

次に日本版ウィキペディアの「アメリカン・ニューシネマ」ページの作品リスト。

がんばって読みましたか?その顔は読んでないなお前ら。まぁいい、読んだ体で話を進めよう。「アメリカン・ニューシネマ」の作品リストに対して「ニュー・ハリウッド」の方はあまりに範囲が広くてちょっと面食らったんじゃないだろうか。なにせ「ニュー・ハリウッド」には『2001年宇宙の旅』や『E.T.』、1983年の『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』までも含まれているのだ。これは日本語で長年「アメリカン・ニューシネマ」に親しんできた映画好きには考えられないセレクトだろうし、こうした作品が含まれているのはおそらくそれぞれスタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスという1970年代に頭角を現したハリウッドの新鋭監督の作であるためだろうと思われるが、ここまで作品の範囲を広げてしまうとぶっちゃけあえて「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーで作品を括る批評的意味は全然ないんじゃないかと個人的には思う。

そのため「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」はここでは分けて考えたい。まず広義の「新しいハリウッド映画」として「ニュー・ハリウッド」のカテゴリーがあり、そのカテゴリーを更に細分化した一部が「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる作品群である〔ということにしよう〕。というのは、上にリンクを貼った英語版ウィキの「ニュー・ハリウッド」のリストと日本版ウィキの「アメリカン・ニューシネマ」のリストは大幅に異なるが、「アメリカン・ニューシネマ」のリストに載っている作品は「ニュー・ハリウッド」にも含まれているからだ(もちろんこれは「アメリカン・ニューシネマ」の全部ではなく、あくまでもウィキペディアの執筆者が文献を参考に主観的に選出した作品にすぎない)

二つのリストに共通する作品をいくつか挙げると、たとえばマイク・ニコルズの『卒業』、スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』、ジョン・シュレンジャーの『真夜中のカーボーイ』、デニス・ホッパー&ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』、ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て!』などがある。これらは日本でアメリカン・ニューシネマに言及される際の代表的作品なので、ニューシネマといえばこういうやつ、という映画好きな人は多いんじゃないかと思う。

これをパッと見てどう思っただろうか。いや、全部観たことがある人なら話は早いのだが、1本も観たことがないみたいな人に説明すると…実は上に挙げた作品はどれも「暴力やセックス」を主眼とした映画ではなく、『暴力脱獄』なんかいかにも荒っぽそうなタイトルなのだが、これはあくまでも邦題で、実際はその逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語。『卒業』は学生と人妻の不倫ものだが露骨なセックス描写は俺の記憶ではなかったはずで、暴力に関しては主演が内気な学生(ダスティン・ホフマン)なので最後の最後に教会で十字架を振り回す場面以外はゼロ、血とか怪我とかはまったくない映画だ。

『イージー・ライダー』はバイク乗りがアメリカの荒野を旅する物語なのでこれまた荒っぽそうなのだが、監督兼主演のデニス・ホッパーとピーター・フォンダはヒッピーなので争い事はせず、ドラッグで平和にラリってぶらぶらとバイクを走らせてばかりいたら粗野な田舎者から一方的に撃ち殺されてしまうという非暴力の映画である。これにもヌードぐらいはどっかにあったような気もするがセックス描写とかはなかったんじゃないだろうか。『明日に向かって撃て!』は西部劇なのでこれらの作品と比べれば暴力的な要素は強いが、同年1968年公開のサム・ペキンパーによる西部劇『ワイルドバンチ』に比べたらお子様ランチのようなもので、映画の主眼はやはり『イージー・ライダー』などと同じように自由を求める若者の心情や行動を描く点にあり、そのため演出も軽妙なミュージカルのようである。

ニューシネマは「暴力とセックス」の映画ではない

以上から言えるのは、いささか帰納的ではあるのだが、アメリカン・ニューシネマは先の記事の著者が言うように「暴力やセックス」を〔主な〕特徴とするものでは無いということだ〔と俺は思う〕。ニュー・ハリウッドにせよアメリカン・ニューシネマにせよ、それは文字通り「新しいアメリカの(ハリウッドの)映画」というに過ぎない。これまでのアメリカ映画にない描写、主題、物語、人物、音楽、哲学…そういった要素があれば、ニュー・ハリウッドやアメリカン・ニューシネマとしてカテゴライズされたわけである。暴力やセックスはその中の一つとしてあるに過ぎない。

その論拠としてもういくつかのニューシネマ作品を挙げよう。ボブ・ラフェルソンが監督したジャック・ニコルソンの初期の代表作『ファイブ・イージー・ピーセス』は今で言うところの(逆にもう言わないか)マンブルコア映画の元祖のような1本であり、行き場所も人生の目的もない若い男(ジャック・ニコルソン)が実家に帰って居心地の悪い思いをするという文学的な作品。

フランク・ペリーの『泳ぐひと』は海パン一丁の富裕層のような男(バート・ランカスター)が次から次へと金持ち屋敷のプールを渡り歩いて(泳いで?)住民とちょっと話したりするだけという風変わりな物語。男の正体や目的は語られず、彼が最後に辿り着いた廃墟のような家はどうやら彼の家のようなのだが、そこで彼は泣き崩れて映画は終わる。暴力もセックスもストーリーらしいストーリーもないこの映画は不条理演劇の映画版といえる。

ニューシネマの代表的監督の一人である巨匠ロバート・アルトマンは素っ頓狂な戦争コメディ『M★A★S★H』で注目を集めるが、その後は実験的な作品を連発し、つい先日亡くなったシェリー・デュバルとシシー・スペイセクの奇妙な関係をなんとも形容しがたい神話的ムードの中で描いた『三人の女』や、タモリや松田優作など日本にも影響を受けた人間の数多い脱力系ハードボイルド映画の傑作『ロング・グッドバイ』などがその中でもとくに有名。

ニューシネマは男中心?

ところでアルトマンは元軍人で見た目もゴツイのて一見タフガイっぽいのだが、そのフィルモグラフィーは女性を主人公としてその複雑な心理を描いたものも数多い。前述の『三人の女』もメイン登場人物が全員女性だし、精神の崩壊を経験する人妻の恐怖を描いた『イメージズ』や、女性だけの同窓会とその崩壊を描く隠れた秀作『わが心のジミー・ディーン』などがそれにあたる。

『ロング・グッドバイ』にしてもレイモンド・チャンドラーの原作『長いお別れ』のムードや人物造型から大きく逸脱したこの映画はアメリカ的なマチズモを強火で皮肉る内容となっており、群像劇の名手でもあるアルトマンの群像劇の代表作『ナッシュビル』は脚本のジョーン・テュークスベリー(女性)を舞台となるアメリカ南部ナッシュビルに数週間滞在させてその間にナッシュビルで実際に起きたことを記録して脚本化するという手法が取られるなど、コワモテのイメージとは裏腹にアメリカ社会の「男らしさ」を批判し続けたのがアルトマンだった。例の著者の言う「(ニューシネマでは)女性中心的な映画はあんまり作られなかった」という発言がいかに〔俺の目から見れば〕テキトーか、アルトマンのフィルモグラフィーを辿るだけでも一目瞭然ではないかと思う。

ついでに書けば、「結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ」というのもまた〔俺の目から見れば〕テキトーである。アルトマンには『ビッグ・アメリカン』という白人によるネイティブ搾取をテーマとした西部劇もあるが、ネイティブ・アメリカンはニューシネマにおいてはその被搾取的な立場と、白人より劣った存在という価値観の誤りがむしろ強調され、『カッコーの巣の上で』や『ソルジャー・ブルー』といった作品はこうしたテーマや題材の代表作だ。とりわけ1970年の『ソルジャー・ブルー』は騎兵隊によるネイティブ・アメリカン集落の襲撃をベトナム戦争下1968年に起きたソンミ村の虐殺とおそらく重ねて描いた作品と考えられ、その強烈な虐殺描写によってアメリカの騎兵隊神話=白人正義を完膚なきまでに破壊する作品となっている。

ニューシネマは差別的なのか

それにしても「結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してない」という発言には呆れてしまう。それは上に挙げたようなニューシネマ史上の重要作をまるで無視しているっていうか〔非常に知名度の高い作品である〕『ダーティハリー』も観てなかったぐらいだから単に観たことがないであろうと思われる発言のためもあるが、そもそも「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難しているためでもある。

たとえばニューシネマと同時期のアメリカではブラックスプロイテーション映画というジャンルが興った。1971年の『スウィート・スウィートバック』を嚆矢とするこのジャンルは基本的には黒人ヒーローが悪徳白人をとっちめるジャンル映画であることが多いが(『黒いジャガー』や『コフィー』など)、黒人主人公が大活躍するジャンル映画という点で(シドニー・ポワチエのような先駆者もいるがポワチエはジャンル映画には出ていない)たしかに当時は新しかったこれらの作品を「ニュー・ハリウッド」や「アメリカン・ニューシネマ」に含めない合理的な理由はない。近年日本でリバイバル上映されて話題を呼んだバーバラ・ローデン監督・脚本・主演の『WANDA ワンダ』だってそうだ。

「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的なためであって、そこにブラックスプロイテーション映画や『WANDA』のような映画を含めるなら「主に白人男性が中心であることは問い直してない」とは言えないはずである。要するに例の著者は自分で〔映画史の本などを読んで〕決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っているのである。これはニューシネマの映画作家に失礼であるばかりでなく滑稽だし、だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。

ニューシネマのスターたち

ニューシネマの監督たちの名前はもうだいぶ出たと思うので、役者の方にも少し触れておきたい。ニューシネマの男性スターとしてはデニス・ホッパーやジャック・ニコルソン、エリオット・グールドや『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』『いちご白書』などで強烈な印象を残した童顔バッド・コートなどが挙げられると思うが、ポール・ニューマンのようなわかりやすい男前もまぁいるにはいるとしても、全体としてみればやはりわかりやすい男前ではない、その代わりに個性の強い役者が多いように思われる。

これは女性スターも同じで、シェリー・デュバルや『地獄の逃避行』のシシー・スペイセク、『イナゴの日』のカレン・ブラック(ブラックスプロイテーション映画をニューシネマに含めるならパム・グリアも!)など、見た目も演技の質もそれまでの「ハリウッド女優」と比べると相当に異質であり、ニューシネマの時代はこうした個性派女優がその個性を存分に生かすことのできた時代でもあった。あくまでも俺の目から見ればだが、それに比べれば美形女優しか主役級では活躍できていない今のハリウッドの方がよほど差別的ではなかろうかと思う。

まとめ:インフルエンサーがテキトーなことを言ってはいけない

見出しだけで言いたいことが終わってしまった。しかしもう少し書けば、素人ならまぁテキトーなことを言ってもある程度は許されるというか、知識がテキトーでも仕方が無いか、素人だし、となるが、批評家を名乗ってメシを食っている人間がテキトー〔と受け取られかねないこと〕を言うとそれが既成事実になってしまいかねないので、そういうことは恥ずべきことだと思ってください。

わからないならわからないと素直に言えばいいじゃないですか。なんで〔俺の目から見て〕知ったかぶりして、しかも〔俺の目から見て〕知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難する〔かのような記述をする〕んですか。批評家である以前になんらかの学に携わる者としてその態度はおかしいと思わないのかと中卒の俺は思いますよ。こっちはな、中卒だが映画だけはクソみたいな数観てるんだから大卒のしかも大学の先生をやっている人に俺の専門分野で〔俺の目から見て〕超テキトーなことを言われると「ハァ!?」ってなるんだよ…!

追記:ニューシネマをよく知らない人に見てもらいたいニューシネマ

せっかくこれだけ書いたのに他人を批判するだけで終わってしまうのもなということで、ニューシネマをよく知らない人に俺がぜひとも観てもらいたい作品をいくつか挙げておこう。

俺はアルトマンが大好きなのでやはりアルトマン作品は外せない。すでに文中に何度も出てきているが、中でも『ナッシュビル』『三人の女』それから『雨に濡れた舗道』あたりはマスターピースだし、ニューシネマのイメージがガラリと変わる作品なんじゃないだろうか。個人的には『バード★シット』とか『ロング・グッドバイ』も激推しだが、このへんは確実に万人受けしないので、まぁ…ただ『ロング・グッドバイ』は松田優作のTV版『探偵物語』の元ネタになっていたり、タモリがアルバム『ラジカル・ヒステリー・ツアー』でパロディにしていたりと、これも前述だが日本の芸能界にも与えた影響は大きいので、面白いかどうかはともかく観ると「これが元ネタかー」となるかもしれない。

『ダーティハリー』が合わなかったという人は警官ものの『グライド・イン・ブルー』を観てみてはどうだろうか。白バイ警官に憧れる主人公がついに念願の白バイ警官となるも仕事をする中で警察の腐敗を知って幻滅し最後は…という哀しい映画なのだが、延々続く長回しで撮られたこの哀しくアメリカ社会への怒りというよりも悲鳴のようなものが映像を通してこだまするラストはあまりに素晴らしい。刑事ものならほかに『破壊!』も傑作だが、これは観るならぜひとも伊武雅刀と尾藤イサオのコンビによる味ありすぎ吹き替えで。

自殺ごっこと葬式出席が趣味というクセ強青年がアウトローな老婆と出会って恋愛関係になる(セックスもちゃんとする)『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』は奇抜な設定によりカルト作になったが、本質的には純愛映画。美形の常識人同士の恋愛ばかりが映画の中でもてはやされる昨今なので、人は外見ではないと軽やかに謳い上げるこの映画の提示する恋愛の形は今なお斬新、強烈な輝きを放っている。

ブラックスプロイテーション映画はサントラ盤が人気の作品が多い。『黒いジャガー』も「シャフト!」とシャウトするテーマ曲がヒットしたらしいが、ブラックスプロイテーションに分類できるかは怪しいも、黒人が主人公でサントラ盤が人気の『110番街交差点』も観ておきたい作品。黒人刑事ヤフェット・コットーが人種差別主義者の白人刑事アンソニー・クインとコンビを組んで反目しながらマフィア関連の事件捜査にあたり、少しだけお互いを理解するようになる展開は、さながら1970年代の『夜の大捜査線』。

あまり面白い映画ではないが『ファイブ・イージー・ピーセス』や『泳ぐひと』は観ると「反逆と暴力とセックス」というニューシネマへの偏見がおそらく無くなってくれる作品なので、観るとなんというか人間的に豊かになれる。ニューシネマはその名の通り新しい映画であり、そこではジャンルの枠や物語の定型に囚われない実にさまざまな映画が作られたということが、このへんの作品を観るとよくわかるんじゃないだろうか。

とまぁいくつか挙げた後でこう書くのもあれですが全部おもしろいからニューシネマと呼ばれてるやつは全部観たらいいとおもいます。面白い、といってもそれは王道のハリウッド映画の面白さとは全然違う。こんな物語もあるんだとか、こんな表現もあるんだとか、こんな人間もいるんだとか、そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるからじゃあないでしょうかとおもいます。みなさん映画を観まくりましょう。北村さんもね!

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コメント

須藤にわか
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