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パレスチナとイスラエル、繰り返される戦争。アラビアのロレンスの後悔
2023年10月23日掲載
パレスチナ紛争は「世界で最も解決が難しい紛争」とも呼ばれています。
1948年から4回におよぶ中東戦争、その後にも幾度となく争いは続いてきました。
そのたびに新たな和平合意が結ばれ、さまざまな試みが行われてきましたが長くは続かず、パレスチナ人の憎悪は増大しているのかも知れません。
そして、問題を先送りし続けてきたつけがついに回ってきたのか、今回ハマスからのミサイルがあらたな紛争の端緒となってしまいました。
この「パレスチナ問題」の根幹ともいえる20世紀初頭のアラビアの情勢を理解できるのが、映画「アラビアのロレンス」です。
映画「アラビアのロレンス」
デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で1962年公開、アカデミー賞を7部門独占した3時間30分に及ぶ超大作です。
今から100年前に、実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いたアラブ反乱軍の、オスマン帝国からの独立闘争を描いた歴史映画。
20世紀初頭、オスマントルコが治めていた「アラビア半島・パレスチナ」で、イギリスがファイサル王子率いるアラブ民族のゲリラ活動を支援。イギリス陸軍の情報将校「トマス・エドワード・ロレンス」を派遣し、アラブゲリラを率いてオスマントルコ軍を打ち負かし、アラブ解放につなげた壮大なストーリーです。
この映画は、現実に起きたことを忠実に描き、全編ヨルダンで撮影され、そのリアリティに引き込まれます。
ストーリー
1935年イギリスで「トマス・エドワード・ロレンス」という男がバイクで事故死。彼はかって「アラビアのロレンス」と言われていました。
1916年、オスマントルコに支配されていたアラビアで、遊牧民の一民族が反乱を企て、イギリスはそれを支援するため考古学者でアラビア情勢に詳しい将校のロレンスを、単身で反乱軍の指導者ファイサル王子のもとに送り込みました。
反乱軍と合流したロレンスは、オスマントルコが支配する難攻不落のアカバ要塞を攻略。
ロレンスはその後もアラブ民族の先頭に立ち、ゲリラ戦法で次々と戦果を上げアラブの英雄に。いつしかロレンスが夢見るようになったアラブ民族独立も実現する日が来るように思えました。しかし本国イギリスは国の権益の拡大のみが目的で、アラブの独立を許す気は全くなく、またアラブ民族もそれぞれの利益のために...
やがてロレンスは母国イギリスとアラブの間で引き裂かれていく...
イギリスが犯してしまった罪
当時、イギリスはアラブ反乱に対して、「イギリスの三枚舌外交」ともいわれた「フサイン・マクマホン協定」「サイクス・ピコ協定」「バルフォア宣言」の三つの協定を締結していました。
この事が、現在のパレスチナ問題やクルド人問題などの原因となったといわれています。
その後ロレンスは、英雄としてイギリスにもどりましたが、「ナイト」の称号の授与も辞退。名前を替えるなどして再度空軍に入隊、その後1935年にオートバイ事故で46歳の生涯を閉じました。
「アラブ国家」をパレスチナの地に建国する夢をイギリスの三枚舌外交が裏切り、シオニズムが台頭、名門ロスチャイルドの後押しでパレスチナにユダヤ人の入植が進み、一度はイギリスの首相チェンバレンが移住者の数に制限をかけましたが、ナチスの台頭、第二次世界大戦が勃発、ユダヤ人のナチスからの迫害の経験から戦後、シオニズムが一層強まり、1948年パレスチナの地に「ユダヤ国家」イスラエルが建国されます。
その後の4度に及ぶ中東戦争、現在に至るまでパレスチナの地で2つの民族の融和は進んでいません。パレスチナ人の土地は徐々にユダヤ人のものとなり、75年間にわたり現在起きていることを繰り返してきました。
「歴史は韻を踏む」、「現在は過去からの連続性の上にある」ともいいます。双方が納得した結論を見つけない限り真の解決にはならないと考えます。
トマス・エドワード・ロレンスは、アラビアから戻った14年後、46歳でその生涯を閉じました。最後まで自身の行動に悔いをもったままだったといいます。
それから約100年、その悔は未だに晴れていません。
おそらくその後悔が100年後まで続いていくとは、想像だにしなかったでしょう。
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