法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

もしも北村紗衣氏の『ダーティハリー』感想におけるアメリカンニューシネマの説明がまちがっていたとしても、あまり感想の良し悪しとは関係がないし、ウソをついたことを意味しない

 未見の有名映画を北村氏*1が初鑑賞して気楽な感想から批評につながる要点をさぐっていくような企画で、『ダーティハリー』がとりあげられていた。
メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た – OHTABOOKSTAND

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。

 まず引用したように説明における「暴力やセックス」は「若者たちが」「反体制」などと併記しており、それが唯一の特徴と主張しているわけではない。
 くわえて『ダーティハリー』をニューシネマ作品と断定はしていない。あくまで影響下にあると思われるが分類しづらいことを指摘している*2

ダーティハリー』もこのニュー・シネマの影響下にある警察映画だと思うんですが……でもニュー・シネマ的なのかどうかがよくわかりませんでした。というのも、この映画は、アメリカで民主主義が機能していないためにハリーのような法を守らない刑事が活躍してしまう、みたいな話だと思うのですが、これを風刺として描いているのか、それともハリーのことをかっこいい警察だと肯定的に捉えているのか、いまいちよくわからなかったんです。


 上記の説明は特に引っかかるようなものではないと思っていたが、映画にわか氏*3が「暴力やセックス」はニューシネマの特徴ではないと主張するnote記事を書いて、注目をあつめた。
北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事|須藤にわか

ニューシネマをあまり観たことのない人がどう思うのかはわからないが、一応それなりにニューシネマと呼ばれる作品群を観ている俺としては、一番最初の「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という時点でその認識はちょっと、いやだいぶ実際のアメリカン・ニューシネマからズレているんじゃないかと思った。

 映画にわか氏はWikipediaの米国版と日本版からニューシネマに位置づけられる映画のリストを紹介し、それらが暴力やセックスを特徴としていないと主張した。

ja.wikipedia.org
がんばって読みましたか?その顔は読んでないなお前ら。まぁいい、読んだ体で話を進めよう。

 映画にわか氏は批判をうけて「シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の見解とは違うことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事」というタイトルに変更したが、最初は「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」というタイトルだった。
 映画にわか氏のnoteが公開されて注目された直後は、はてなブックマークや旧Twitterでは信用したり賛同するコメントがあつまり、北村氏がウソをついているかのような風潮がうまれていた。
[B! 北村紗衣] シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについていい加減なことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事|須藤にわか

id:Hige2323 "なんで知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難するんですか。批評家である以前になんらかの学に携わる者としてその態度はおかしいと思わないのか"げに

id:Unimmo 北村紗衣は映画批評の専門家ではない。もっとも専門的でないところは、あらゆる歴史や環境をことごとく無視して(おそらく根本的な無知による)あらかじめ準備した自分の結論に付会すること。

 しかしすぐに北村氏が詳細に反論するエントリをあげて、映画にわか氏も歴史としては北村氏がただしいことを認めて、論争としては終結したようだ。
須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について - Commentarius Saevus

私は基本的に、先日のエントリではNew Hollywoodについてはそこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないことしか話していません。映画の歴史について、ひとりの人の個人的、かつ非常に特殊と思われる見解があたかも一般的な考え方であるかのような形で広がると困るので、おかしいところを指摘するエントリを出します。

 そもそも『俺たちに明日はない』が公開された時の『タイム』誌の表紙に書かれているのは「ニューシネマ…暴力…セックス…芸術」という有名なタグラインです(このタグラインは『世界大百科事典』オンライン版の「ニュー・シネマ」の項目でも触れられており、日本語文献でもよく見かける説明です)。

 北村氏は以降の資料も提示して、『ダーティハリー』感想におけるニューシネマの説明が現在でも一般的なものだと指摘していった。


 引用にあるように、北村氏の説明はニューシネマというカテゴリが生まれた時のままだ。コトバンク平凡社の『世界大百科事典』を引いても確認できる。
ニューシネマとは? 意味や使い方 - コトバンク

この表現が初めて使われたのは,アーサー・ペン監督《俺たちに明日はない》(1967)を特集したアメリカの週刊誌《タイム》(1967年12月8日号)の,〈ニュー・シネマ,暴力,セックス,芸術! 自由にめざめたハリウッドの衝撃!〉というセンセーショナルな見出しのなかであった。不況時代のアメリカ中西部の銀行を荒らしまわった男と女の2人組のギャングの短く激烈な人生を描く,この〈アナーキーな暴力〉にみちた青春映画に次いで,やはり〈無法の青春〉を描いたデニス・ホッパー監督《イージー・ライダー》(1969)が,若い観客層を熱狂させて大ヒット。

 しかも、映画にわか氏のnote内でこそ言及がないが*4、リンクされているWikipediaをよく読むと、名前がつけられた経緯の説明として冒頭で言及がある*5
アメリカン・ニューシネマ - Wikipedia

1967年8月にアメリカで『俺たちに明日はない』が公開されたとき、辛口の映画評論家・ポーリン・ケイルが褒め、他の批評家もその流れになり、『TIME』で「ニューシネマ 暴力…セ〇クス…芸術!自由に目覚めたハリウッド映画」という見出しで特集が組まれた[1]。それが日本で「アメリカン・ニューシネマ」と紹介され、日本では「アメリカン・ニューシネマ」というネーミングで定着している[1]。

 もちろん百科事典などは十数年前の見解が改訂されていないこともありうるし、それゆえ必ずしも最新の語義をとらえられていないことはありうる。
 しかし現在までにアメリカンニューシネマの対象が変化したのだとしても、いったん暴力やセックス表現がアメリカンニューシネマの特徴とされた歴史は変わらない。
 つまりもし北村氏の説明がまちがっていたのだとしても、それは過去に定着した見解を更新できていないという問題であって、「メチャクチャ」ではなく歴史的な経緯があるし、他人を騙すような「ウソ」ではありえない。
 北村氏は過去に視聴した経験からニューシネマが好きではないことも感想で語っていたが、仮にニューシネマ作品をひとつも見ていなかったとしても一般的な説明をひいただけのことが「ウソ」になるわけではない。


 たしかに何も知らずに映画にわか氏のnoteだけを読めば、あたかも北村氏が『ダーティハリー』をきっかけにニューシネマについて独自の主張をおこなったように感じるかもしれない。実際には北村氏はニューシネマという定着した概念をつかって『ダーティハリー』の位置づけをこころみたという順序だ。
 反論へのはてなブックマークを見ると、誤解をまねいた責任が北村氏にあるかのようなコメントがあったが*6、北村氏はニューシネマについては既存の語義をそのまま引いているだけなので、あたりさわりが生まれるわけがない。
[B! 北村紗衣] 須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について - Commentarius Saevus

id:frothmouth 「あたりさわりのない」ことしか言わないと誤解を招く、というのは他の分野でもあること。真面目な人だと交渉して文字数を増やして貰ったり、詳しい記事に誘導したりするけど.../反論と再反論でやっと完成という感じ

 むしろ映画にわか氏こそが独自研究をおこなっていたわけであり、この場合に「ウソ」と批判するべき対象はひろく定着した映画用語そのものであって、引いただけの北村氏という個人ではないだろう。


はい。暴力やセックスの描写はニューシネマの最も顕著な特徴ですが、それが無いニューシネマもあるし、それがある非ニューシネマもあります。

 カテゴリの特徴とされる要素をすべて満たす作品が実際には存在しなかったり、存在してもきわめて例外的だったりすることは、さまざまなジャンルで見られることだ。
 たとえばアニメにも、平凡な少女に小動物のような存在が変身する能力をあたえる、魔法少女というカテゴリがある。しかし最初にその言葉を冠したと思われる作品『魔法少女ララベル』は魔法界から主人公がやってくるという設定で、最初に特徴を満たしたと考えられる『魔法少女プリティサミー』はアニメ愛好家向けのSFのキャラクターをつかったパロディ作品だった。

 北村氏が反論で下記のように指摘したように、ニューシネマについて探求すれば新しい見解にたどりつけるかもしれない。熱心な愛好家の執念が専門家の誤謬を発見したり、新たな見解を定着させることもないではない。

あなたがやるべきなのは「今までこういうことが言われているが自分は別の視点でこれを主張する」という論を立てることであって、他人をウソつきよばわりすることではありません。

 残念ながら現在の映画にわか氏のふるまいを見ると、自説の構築のために努力することよりも優先したいことがあるようだが。

bsky.app

bsky.app

 映画にわか氏は実在個人に対する発言をいったん抑制したほうがいいと心底から思う。


 ちなみに『ダーティハリー』の私的な感想を書いておくと、記憶では2000年すぎに初めて視聴したが、正直にいえば期待外れで刺激不足だった。Blu-rayBOXを購入したが2作目以降は視聴をさきのばしにしているくらい。

 序盤の街角における銃撃戦は悪くないが、評判で期待しすぎていたため地味に感じてしまった*7。つい最近に見た『ヒート』*8は、さまざまな最新映画の銃撃戦を見てもなお新鮮で、質も量もオリジンの魅力があったのに。
 凶悪犯のスコルピオも狡猾というより悪事のために悪事をはたらくようなキャラクターで、さまざまな映画の底知れない悪を見た後では、さほど突出したものとは思えなかった。オリジンがフォロワーに超えられるのはしかたないとしても、たとえば同年公開の『時計じかけのオレンジ』のアレックスとくらべても狂気を感じなかった。
 後半のスクールバスジャックが『仮面ライダー』のようだということは豆知識としてもっていたが*9、ハリーとスコルピオの決戦まで『仮面ライダー』のような安っぽい情景なことには悪い意味でおどろいた*10


 初見で良いと思えたところは少女の死体が見つかる場面くらい*11。この冷え冷えとしたショットだけは印象深く、これだけで視聴した価値はあると思えた。
 あくまで男性同士が戦う物語の踏み台として女性の被害が尊厳を傷つけるように映されているだけなので、それこそ現代のフェミニズム視点では批判されそうだが、空気感の生々しさや空間を大きくみせるカメラワークなどは今に見ても新しい。撮影所システムの崩壊にともない多用されるようになったロケ撮影のおかげだろう。
 実はコトバンクをつかって辞書的な説明をたしかめていくと、『大辞泉』などではスタジオシステム崩壊にともないロケーション撮影が中心になった変化がニューシネマの特徴とされている。

1970年前後アメリカに起こった、ハリウッドを離れ、ロケ中心のリアリティーを追う映画運動。「俺たちに明日はない」「イージーライダー」などがその代表作。アメリカンニューシネマ。

 その意味では『ダーティハリー』の物語は必ずしもニューシネマらしくなくても、序盤の銃撃戦もふくめてビジュアルの生々しいディテールはニューシネマと同じ背景がある、くらいのことはいえるかもしれない。

*1:はてなアカウントはid:saebou

*2:北村氏の反論後に「人文姫トーーク!」というタイトルのTogetterで北村氏への批判がまとめられている。映画にわか氏が「ウソ」と主張できるだけの根拠をもちあわせていなかったことを認められない「魚か@naakass」氏や「偽トノイケ☆ダイスケ@BIとJGPクラスタ捜査中@gannbattemasenn」氏は論外として、「魔色@IZSYqZn841rDbp4」氏の「アメリカン愛ニューシネマは主人公が若者で反体制側なのでダーティーハリーは真逆だろ。こんなアホな感想しか書けないのが批評家とか。」のような明らかに文章を読めていないツイートが少なくない。人文姫トーーク! - Togetter [トゥギャッター]

*3:@niwaka-movie.com on Bluesky

*4:noteに対するはてなブックマークコメントではid:runa_way氏が「"『タイム』は、「ニューシネマ 暴力…セックス…芸術! 自由に目覚めたハリウッド映画と評した"が今も語り継がれてるなら、それが最大公約的特徴とみなせる気もするが…(男性的暴力の果ての破滅を描いたとも思う)」と指摘している。

*5:映画にわか氏が自身でまとめたTogetterに対して、id:preciar氏は「北村はwikipediaがソースになると思ってるから、Wikipediaの自分の記事をロックするしその定義を論拠に話を進めるような事をするのよな/孫引きの言葉でしか語れない批評に何の意味が」とコメントしているが、そもそも今件で最初にWikipediaを自説の根拠としてもちいたのは映画にわか氏である。しかもそこで依拠した映画のリストに明確な選定基準がしめされているわけでもない。[B! 北村紗衣] 北村紗衣さんとツイッターでニューシネマのお話をしたのでまとめました(編集なしの完全版)

*6:frothmouth氏はnoteに対しては「嘘ではないが雑である “素人ならまぁテキトーなことを言ってもある程度は許されるというか、知識がテキトーでも仕方が無いか、素人だし、となるが、批評家を名乗ってメシを食っている人間がテキトーを言うと''」とコメントしている。

*7:12分以降。

*8:『ヒート』 - 法華狼の日記

*9:かつて特撮ヒーロー番組に対する揶揄として、世界征服をめざすような組織が意味もなく幼稚園バスをジャックするというクリシェがあった。実際には『ダーティハリー』の該当場面が評判になって東映がパク……パロディしたという順序であり、むしろ『ダーティハリー』の当時における衝撃を感じさせる要素ではある。

*10:採石場くらいしか情景に余計な文脈を出さずに危険撮影ができない日本とちがって、撮影につかいやすい荒野が多いだろう米国においては工夫された舞台だったのかもしれないが。

*11:1時間10分30秒以降。