橋本龍太郎の妾(2号)との間の娘和子の娘が敬宮愛子

 

大室寅之祐明治天皇問題を国会でとりあげてみませんか?

(明治維新真実情報公開法案の早期法案提出を)

2005年02月23日

大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう! 2005春

 

私、地家は大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫です。

国会中継をみていましたが橋本龍太郎は証人喚問に応じません。

なぜなら日本で一番権力をもった男がハシリュウだから。

(天皇陛下より権力をもってる)

なぜか。

彼(ハシリュウ)は

大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘

大室ヨネ橋本卯太郎との間に生れた橋本龍伍の長男だから。

僕の父とハシリュウはまたはと子の関係です。

橋本龍太郎と2号との間に生れた和子さんの娘が敬宮愛子です。

 

要するにマサコに2001年12月に押し付けて国民には内密に養子にした訳。

皇太子さまの父徳川恒孝恒孝さんの父は大室近祐。

岸信介昭和天皇が田布施コネクションの権力で美智子ヒロノミヤを押し付けた訳だ)

 

近祐の父は大室儀作。

儀作の父は大室庄吉。

庄吉の父は地家作蔵。

作蔵の父は海賊某。

 

アキヒト天皇の父は三笠宮崇仁。

崇仁の父は東久邇稔彦。

稔彦の父は中川宮朝彦。

朝彦の父は徳川斉昭。

 

今日、週刊誌 読んできたけど

皇位継承 1 位は浩宮に確実に決定していて

第 2 位を愛子にするか秋篠宮にするかが問題になってる。

 

まず、おさらい。

日本で一番権力をもってるのは橋本久美子

その次が橋本龍太郎(明治天皇のメイの孫)

2番目に権力もってるのは皇后様でその次が正田巌。

3番目に権力もってるのは曽野綾子

皇室に照らし合わせると橋本龍太郎の妾との間の娘和子の娘愛子が 1 番権力。

2番目の権力は今上陛下。

3番目の権力が皇太子様。(明治天皇の弟大室庄吉の玄孫)

政治家に当てはめると1番権力者がハシリュウ。

(橋本派)→女帝改正派。

2番目がポスト小泉の麻生太郎

(旧宮沢派)(今上陛下の実の父は三笠宮崇仁だから麻生太郎の妹寛仁殿下に嫁ぐ。

3番目が小泉、晋三の旧安倍派。→岸と昭和天皇の権力で裕仁のいと子曾孫を浩宮として皇室にねじ込むいわゆる右翼派。

(明治天皇の子昭和天皇派)

 

そこで女帝にするかそのまま放置していずれ秋篠宮が天皇にゴールするか。

僕は後者のほうだと思う。

小泉も愛子を女帝にしたくないから結果的に放置。→結果的に血は水より濃しで

アキヒトと美智子との間の子秋篠宮が次の次の天皇になるだろうし眞子さま佳子さまも美智子様の孫である。

 

女帝にするように必死なのは橋本派が必死だからで、

あと2年弱でハシリュウが引退して権力がなくなるからで愛子を女帝にしようと必死になって女帝改正しようとしている。

しかし小泉もポスト小泉の麻生も女帝改正に消極的。

皇太子様がなくなられたら2050年ころ秋篠宮が天皇になるかも知れないしあきしのは病弱だから早死にするかもしれない。

2050年頃は当然眞子佳子愛子も結婚してるから天皇家の後継者はゼロになる。

 

以下情報

「萩」へマンジュウつくりにいってくる

→饅頭作るとは死体の山を築くという意味

→つまり萩へ人切りしに行くという意味で、ようは高杉晋作が挙兵した功山寺挙兵にさんかしにいくという意味。

 

田布施町のタブー2005春

①大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について2003

2003年2月14日作成

一、発端

明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し6年経つが、

(裏切られた三人の天皇…明治維新の謎)

一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、この事は実に計り知れない衝撃であった。

2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。

自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。

残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。

 

情報は大室天皇説と北朝説に大別される。

前者は、

「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」

であると言うもので、

後者は

「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」

と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)

中川宮朝彦系を北朝と称する事においては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。

 

これに橋本龍太郎の出自が加わった。

即ち「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。(橋本龍伍の戸籍)

大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。

論点は更に皇位継承問題に及んだ。

 

◆山口県田布施町の大室さん

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)(橋本龍伍の戸籍謄本より)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。

 

そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、

佐藤栄作岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが

「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。

始め意味が分からなかったが本質は、

1.寅之祐の大室家が本当に南朝光良親王から24代も続いているのか?

2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか?

と言う事であった。

その後、大室家(後の大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。

文政時代に初代大室家当主が死去。

だから、大室寅之祐の代で、後大室家4代目に当たる。

 

さて、大室寅之祐が地家作蔵の息子で行方知れずになる1864年頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉とらきち)である事も判った。

芸者連れて1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。

寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。(そう書かれた木簡が出てきた。)

(鹿島昇調べ)

 

大室近祐がワカルといってもせいぜい1863~1867年頃迄であろう。

だから大室家が光良親王(後醍醐天皇の玄孫)(1400~)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。

(500年以上も前の話等分かる訳無い)

 

これを踏まえて本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が結婚した年は

1846年5月頃でスヘ15歳の時である。

だから 1845年頃迄には父、興正寺昭顥(ショウコウ)坊(照景?)とスヘが田布施町麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。

(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)作蔵(1824年?~1887年5月頃?)と結婚し、1年後スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。

1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。

この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。

だから「地家」の地名を苗字にした。

(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)

 

1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。

1854年2月29日に三男朝平出産。(俺の高祖父)

 

>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。

長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、西円寺の実家へ戻る。

 大谷(興正寺)昭顥(照景?)の家。

(京都には帰ってないであろう)

 

1854年下旬(10月?頃)独身の大室弥兵衛(41)とスヘ再婚。

地家寅吉は大室寅吉に、地家庄吉は大室庄吉となる。

1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃~1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。

(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?)

その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時 40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。

文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。

つまり後南朝大室家の血統は地家作蔵の血統になった。

 

そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。

 1867年4月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知れずとなったのであろう。

(1867年3月ごろ麻郷村の人間が手分けして探した)

 

◆行方知れずになってから(1866年7月以後の大室寅吉)

 

情報 1.

(大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)

 

京都の上賀茂神社って知っているでしょ。

毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、

このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。

(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)

 

この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、

その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!

 

情報 2.

(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?(分家)が萩に在住しててその息子のこと。

 松蔭(来年の大河ドラマに関連!)は初め南朝光良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 

庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)

(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)

 

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。

沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。

 

下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、

「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」

とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」

(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。

 

その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。

(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助のこと。

庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。

なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊をとっくに卒業してたと言う。

 

こんなのあったよ!

 

大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。

(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、

佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 

こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。

この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 

不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。

この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。

油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。

木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。

現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。

 

慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。

推定3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。

 

木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。

此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。

計画された暗殺である。

同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。

帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。

伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。

しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。

伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。

これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。

藤堂平助ら3人が斬殺される。

藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。

この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。

 

情報 3.

(大室寅助とは行方知れずになってからの大室寅之祐(寅吉)のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室家の血統の寅助になりすましたわけ。)

(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だから。)

 

寅吉が注目を浴びだすのは1863年7月頃から。

高杉が奇兵隊を結成。

伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。

だから吉田松蔭(口封じの為、処刑される)と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉として浮上してきた。 

伊藤の玉が寅吉で

慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。

 

(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。

ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。

計算上は慶応3年という事になるが。

西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

 

>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

 

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。

延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。

ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。

出典は『後漢書』「王允伝」より。

 

そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってくるのである。

それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。

大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは

伊藤博文が林宇一林利助俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。

通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。

田布施町麻郷の高松八幡宮の話で

今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。 

午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。

 

その後、寅之祐は再度 上洛(薩長軍を率いて)。 

慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。

1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。

旧暦1868年1月10日の早朝睦仁を御所から追い出し、その後 睦仁は比叡山方面の寺に亡命し維新後も僧としてそこで生き延びた。

その後1月10日その日のうちに大室寅之祐が御所に入る。

御所の人事を一新し(維新)慶応4年1月15日大室寅之祐が明治天皇として即位する。

そこからの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

つまり1868年旧暦1月15日からの明治天皇の伝記は通史のとおり。

 

1.天皇すり替えに関しての疑問

天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、

と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。

だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。

 

2.解説

いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。

それがどうも違うみたいなのです。

と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 

案外庶民と言うものは馬鹿じゃないのですよ。

鹿島曻氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治天皇」として迎え入れられた訳です。

 

それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。

ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。

慶応3年(1867)年7月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇が存在しなかった事(空位)になります。

(多分半年間、中川宮と慶喜が京都御所を仕切っていたと思われる。)

 

慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を天皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、総理大臣になるつもりだった。

だから慶喜がをつかって坂本と相談し、坂本が慶喜をたすけるために木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。

つまり薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとしたが長州がこれに反対。

木戸西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。

慶喜の背後にフランス軍がついてたが薩長の背後のイギリスパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために

「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。

薩長にイギリスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見)勃発。

慶喜と中川宮は敗れ去った。

上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。

 

即位前(睦仁親王時代)

 

即位当初の少年京都明治天皇(写真)

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

 

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。

故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。

睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。

 

御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然 躾(しつけ)も厳しかった。

故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。

基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

 

この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。

(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。

つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

 

元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は「失神」した。

睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。

又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。

睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。

又、政務にも無関心であった。

即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。

つまり、馬には乗れなかった。

 

即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇

 

◇ 明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真)

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

 

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。

その結果、口の周りに「あばた」が残った。

その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。

又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。

明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

 

左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、

母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。

又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。

 

基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」)孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

 

この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。

国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。

 

明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。

体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。

明治天皇は、書が「達筆」であった。

又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。

 

大室寅之祐の東京明治天皇(写真)

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

 

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。

中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。

フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛

 

◆ その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報

 

興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。

 

Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭顥(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??

A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭顥ースヘ)

 

Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??

A.と言う事になりますな。結論から言えば。

 

Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??

A.そうです。

 

Q.大谷(興正寺)昭顥←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?

A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。

 

Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??

A.間違いではありません。

 

Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?

A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、

公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。 (恐らく謀殺)

これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。

なお万千代君の母親が長州藩の出身です。

 

(興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

 

新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。

 

幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、

「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」

等の申し出を行っている。

が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して

「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」

と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。

 

佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが

興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??

 

これでやっと謎が解けたね。

 

前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。

しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。

昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。

 

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。

実家で出産するのは当たり前だもんね。

一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。

そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。

そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。

スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。

こう言う経過なのだね。

 

◆ 作蔵について(人生何があるか分からない)

 

作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。

寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。

だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、41歳の独身、大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。

 

孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。

だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。

 

一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)

これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。

それより少し前、スヘも病死。

この時、寅之祐は5~6歳だった。

後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。

40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。

 

さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。

廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、

屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマン)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。

1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。

 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。

1849年以前は違う所に住んでいたみたい。

だから1849年以前の我が家の足取りは不明。

(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら)

 

「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。

だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。

「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。

西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。

明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。

(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。

だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。

明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。

帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。

刀で某女官を斬り殺した

京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。

こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。

興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。

最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」調べ)

 

大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、

「わしが12、3歳の頃、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。

石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。

このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。

 

孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。

そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。

彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介利輔俊輔などと名前を変えてきている。

大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。

 

大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、

東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。

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