フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン(1837-1909)について、
wikiからの引用を中心に説明してみます。
ぜひ皆様もドイツ帝国史創作に手を出してください(懇願)
端的に言うと、ホルシュタインはドイツの外交官。
個人的には鬼畜眼鏡ポジションです。
(愛称はフリッツ・フォン・ホルシュタインだけどこの人を愛称で呼ぶ人とかいるの?
それくらい陰謀家で冷徹なイメージあります)
表に出ることはなかったが、1890年のビスマルク辞任から1906年に自身が失脚するまでの間、ドイツの外交政策に重大な影響力を持っていた。
そのことからジャーナリストのマクシミリアン・ハルデンに「黒幕(灰色の枢機卿、灰色殿下)」と称された。
(はい、ハルデン出てきました!
この人が皇帝の親友オイレンブルク伯爵の同性愛嗜好を雑誌で暴露した人です。)
ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で法学を修める。
度重なる欧州旅行によって流暢なフランス語とイタリア語を話すことができた。
司法官試補、司法修習生としてベルリンの地方裁判所で経験を積んだあと、1860年12月
に外交官としての道をたどり始め、オットー・フォン・ビスマルクとクルト・フォン・シュレツァーの下、ペテルブルクのドイツ公使館で専門担当官となる。
彼の外交官としての出世にはビスマルクの助力があった。彼の父はビスマルクと古い知り合いだった。
1863年から1867年まで、ホルシュタインはプロイセンの公使館書記官として次々とリオデジャネイロ、ロンドン、ワシントン、シュトゥットガルト、フィレンツェ、そして1867年からはコペンハーゲンで働いた。
1870年には外務省の政治局に従事し、1871年にはベルサイユに招聘された。
ここでホルシュタインは降伏文書の翻訳を担当した。
1871年11月に彼はパリで大使館第二書記官となり、1872年5月には公使館参事官に昇進した。
ホルシュタインはハリー・フォン・アルニム伯爵のパリ大使館におけるスキャンダルでセンセーションを巻き起こした。
野心的なアルニム外交官はビスマルクにとって目の上のたんこぶだった。
アルニムを失脚させるため、ホルシュタインはアルニムに不利な材料を宰相に提供した。このホルシュタインの陰謀は世間とアルニムの後ろにいたベルリンの貴族界隈に広がり、ホルシュタインの評判は悪くなった。
1876年4月、アルニムの失脚のあと、彼は外務省の政治局に戻った。1878年には公使館参事官、1880年には枢密の公使館参事官、1883年には外務省次官補代理、1891年3月31日ついに「閣下」の称号を持つ枢密卿となった。
彼はビスマルクと彼の息子ヘルベルトを親密に扱うことによって、外務省における重要な地位を得ていた。
彼は自分のポジションを人事問題への干渉によっても拡充した。
たとえば、彼は友人のハッツフェルト伯爵を外務次官に置いた。
1880年代にホルシュタインはだんだんとビスマルクとヘルベルトから距離を取った。
ホルシュタインは宰相の独露外交政策について批判し、イギリスも加えて三国同盟を強固な軍事同盟にすることを支持した。
再保障条約についても彼は拒絶の立場を取っていたし、地中海協定に対しても異議を唱えていた。
ホルシュタインはロシアをドイツ帝国に対する大きな脅威だと見ていたし、ロシア帝国に先制攻撃することを支持していた。
ビスマルクと息子ヘルベルトの退官(1890年3月)とともに、ホルシュタインはドイツ帝国のもっとも影響力ある外交官になった。
卓越した行政能力と長年の経験が役に立った。
皇帝の親友であるオイレンブルク、そしてビューローとの意思疎通のおかげで、彼は(間接的に)皇帝ヴィルヘルム2世の決定に影響を及ぼすことができた。
(しかし、オイレンブルクが作り上げたビューロー体制はホルシュタインを排除するような形でした。
オイレンブルクとビューローはカイザー大好きでしたがホルシュタインは議会を重要視するリアリストだった)
それから、ホルシュタインはビスマルクの同盟政策を解体した。
カプリヴィとヴィルヘルム2世が元々は延長したがっていたにもかかわらず、1890年の春にホルシュタインはロシアとの再保障条約の継続に反対した。
ホルシュタインはイギリスをドイツ帝国の理想的な同盟国として考えていた。
長年彼はこの島国との同盟を目指して働いていたが、成功しなかった。
イギリスはドイツの接近を拒否した。
ドイツの海外拡張をホルシュタインは歓迎しなかったが、ヴィルヘルム2世の帝国主義的政策に対して拒否権を発動することもしなかったので。
英仏協商が結ばれた1904年、ホルシュタインは彼の外交政策の残骸の前に立ち尽くしていた。
イギリスはドイツの宿敵となり、ロンドンをドイツの側に引き止めておくのは困難になった。さらに建艦競争が独英関係を損なわせていた。
ホルシュタインは続く年にフランスとイギリスの協調を脅かそうと計画した。
そのためのチャンスが第一次モロッコ危機と1906年のアルヘシラス会議だった。
ホルシュタインと帝国宰相ビューローの想定は、イギリスはフランスのモロッコにおける植民地政策を支持しないだろうということだった。
しかしこの2人は計算を見誤った。
ロンドンはアルヘシラスでフランス側につき、英仏協商は保たれた。
結局ホルシュタインは4月14日に辞任するという結末を招いた。宰相と皇帝はそれを承諾しないだろうという空しい望みを抱きながら。
フリードリヒ・フォン・ホルシュタインは外務省退官の3年後、1909年に亡くなった。
彼の卓越した知識、並外れた記憶力、そして人事における経験は、4人の帝国宰相―ビスマルク、カプリヴィ、ホーエンローエ、ビューローにとって、彼をなくてはならない存在にしていた。しかし彼は特別好かれるということがなかった。
ビスマルクは彼を「ハイエナの目をした男」だと言った。ヴィルヘルム2世は後に彼の回想録の中で、ホルシュタインの性質を「不気味」だと書いている。
ヴィルヘルム2世はビスマルクが息子のヘルベルトを除いて外務省の後継者を育てなかったのを嘆いていた。
ビスマルクは外務省に「庭の石」のようにのしかかっていた。それを押しのけようとすれば、「虫」が現れるのだ。
ホルシュタインを構成していたのは陰謀と、部分的に王権に基づく傾向だった。仕事上のパートナーに対するシンパシーが彼には欠けていた。
彼は明白に彼のやり方で復讐した。彼は注意深く外務省の同僚たちの仕事上のミス、プライベートでの過ちをノートにつけておいた。――ヴィルヘルム2世についても。
(ホルシュタインは皇帝自身の同性愛的な傾向についても知っていたと言われているので
そこらへんのことかなあと)
ビスマルクはホルシュタインのワシントンD.C.のプロイセン公使時代のスキャンダルについて証拠を持っていたと仮定される。
問題となった事件は、アメリカ上院議員であり有名な外交官だったチャールズ・サムナーと1866年結婚したが一年後に離婚したアリス・メイソン・フーパーに関してだ。
なぜなら彼女はホルシュタインのワシントンから呼び戻されたことに関して、責任があるように思われているから。
(つまり新妻と不倫してたってことなんでしょうね……
ちなみにホルシュタイン自身は生涯独身でした。)
マクシミリアン・ハルデンの、オイレンブルク伯爵を中心としたリーベンベルク円卓に対する攻撃は、おそらくホルシュタインからの情報に基づいていた。
(これがハルデン=オイレンブルク事件、
ハルデンは雑誌でオイレンブルクの同性愛傾向を暴露して失脚させた)
後にハルデンはホルシュタインをビスマルク辞任後のドイツ外交の失策の主原因であると公然と非難した。
(ハルデンの手のひら返し感)
ホルシュタインの住所は数十年間にわたってベルリン南西47のグロースベーレンシュトラーセ40番地だった。
ヴィクトリアパークにあるクロイツベルク滝から徒歩で数メートルのところにあったこの質素な家具調度の住まいから、彼はビスマルクの罷免後、「黒幕」としてドイツ帝国の外交に影響を及ぼし続けた。
彼は一生独身だった。レオ・カプリヴィのように、彼はベルリンのヴィルヘルム通りにある政治サロンを主催するヘレーネ・レビンと親しく付き合っていた。
彼は遺書を彼女に残していた。彼女はそれを絶対安全に保管し、亡くなる少し前に親しかった銀行家パウル・シュヴァーバッハに渡した。
()内は私が勝手につけたコメントですが、それ以外はほぼホルシュタインのドイツ語版wikiからの引用です。