http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-41136365.html
こちらの記事の和訳です。
どう解釈すればいいのかわからずそのまま放り投げた部分が多々あります
「オイレンブルク事件ーー薄暗い手紙」
皇帝ヴィルヘルム2世はバイセクシュアルだったのか?1908年に同性愛の容疑で逮捕されたフィリップ・オイレンブルク侯爵との親密な友情は、少なくとも同性愛的な性質を持っていた。この事実がイギリスの歴史家ジョン・レールの公開したオイレンブルクの往復書簡によって、今明らかにされる。
皇帝は「愛しい人」、侯爵は「フィリー兄さん」、男爵は「かわいい人」、そして伯爵は「チュチュ」と呼ばれていた。彼らは互いに全員を愛し合っていたが、「愛しい人」が最も愛したのは「フィリー兄さん」だった。
皇帝ヴィルヘルム2世とフィリップ・ツー・オイレンブルク-ヘルテフェルト侯爵、そして「リーベンベルク円卓」-ブランデンブルク辺境地方にあるオイレンブルクの屋敷からそう名づけられた―の仲間たちとの友情については、多くが謎になっていた。オイレンブルクは1908年5月の逮捕まで、ヴィルヘルムの誇大妄想を支持するお世辞屋かつ陰謀家だったのか?それとも、彼はそれが悪化することを防いでいたのか?
リーベンベルクの、例の「秘密のカマリラ(皇帝に接近して利益を貪る奸臣の集団)」と「降霊術師たちの巣」は、オイレンブルクの敵対者たちが主張したように、ヴィルヘルム期の全ての不幸の始まりだったのだろうか?そして結局のところ、オイレンブルク――フィリーと呼ばれた――と彼の友人たち、カール・フォン・デルンベルク男爵(かわいい人)、皇帝の侍従武官だったクーノー・モルトケ伯爵(チュチュ)、その他の人々は、同性愛者か、あるいは悪意のない“男同士の友情と忠節“の信者だったのか?
オイレンブルクが1908年8月同性愛と偽証の容疑で逮捕されたとき、ヴィルヘルム期の帝国で最も大きなスキャンダルの一つが、彼のクライマックスとなった。20年間オイレンブルクはヴィルヘルム2世と「君」と呼び合う仲であり、最も近しい親友だった。皇帝の政治的判断は、ほとんどが親友からの助言に影響を受けていた。突然、今までの20年間のドイツ政治は、同性愛的な依存関係によって影響を受けていたのだという疑惑の中に陥った。ヴィルヘルムは親友を見捨てた。
1907年4月にベルリンのジャーナリスト、マクシミリアン・ハルデンは彼の雑誌「ツークンフト」の中で初めて、きわめて明確に、オイレンブルク侯爵とモルトケの病的な性癖について言及した。ハルデンの後ろには、オイレンブルクの力によって失脚した外務省枢密顧問官のフリードリヒ・フォン・ホルシュタインがいたと解釈されている。
ゆえにオイレンブルクは自身に対する検察の調査を申請した。1907年7月に検事は、証拠採取はオイレンブルクが175条の確実な違反をした「事実的証明にはならなかった」と侯爵に通知した。
さて今度は、オイレンブルクとモルトケが検察に要請してハルデンに攻撃を始めた。しかしあちらは釈明で以ってそれを拒否し、大衆の興味を引くことはなかった。同時に、帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューローが同様に同性愛的傾向の嫌疑をかけられた。その次の訴訟ではオイレンブルクは証人として宣誓し、全ての告発はまったく根拠がないものだと証言した。
1908年4月にハルデンは「ノイエン・フライエン・フォルクスツァイトゥング」の編集者アントン・シュテデーレに対してミュンヘンで訴訟を起こした。シュテデーレは侯爵に対する攻撃をやめるようにと、ハルデンはオイレンブルクから100万マルクを受け取ったのだと主張した。この訴訟では、オイレンブルクを知るシュタルンベルクの漁師、ヤコプ・エルンストが尋問された。エルンストは、オイレンブルクと性行為に及んだことがあると証言した。
この証言が侯爵の逮捕に繋がった。しかしながらオイレンブルクに対する訴訟は1908年7月、刑事被告人の被審理能力の欠如により停止された。翌年の訴訟手続きの再開によっても、オイレンブルクが短時間の後に倒れたため判決は出なかった。
そうしてこのオイレンブルクのスキャンダルは四半世紀もの間、十分に解明されないままであった。今になってやっと、イギリスで教鞭を取っている歴史家ジョン・レールがオイレンブルクの政治的内容の手紙を公開し(最近第一巻が刊行された)、オイレンブルクの事件が想像と噂の薄明から取り出され得る。
勿論それには、レールによる探偵のような作業が必要だった。なぜなら、オイレンブルクは己の失脚の後、疑わしい手紙の全てを、一部は処分し、一部はリーベンベルクの機密書類保管所に隠してしまったからだ。
1907年には既に、ハルデンが「ツークンフト」の中でリーベンベルク円卓を攻撃した時、オイレンブルクとモルトケは、後に侯爵が彼の記録の中で認めたように、彼らの往復書簡の原本を処分していた。“かつて私とモルトケが書いたものに対する、踏み入ったまさしく悪魔のような歪曲を考慮に入れて。“
たしかにオイレンブルクは同一の記録の中で、12ページに渡って「モルトケと私がお互いに交わした手紙の原本に、まったく後ろ暗いところはない。それは皇帝についての知らせを書いてあるだけだ」と説明したが、レールが調査の中で明らかにしたように、それらの主張は打ち砕かれた。
オイレンブルクが彼の失脚のあと、彼のその他の往復書簡の公開を決心した時、彼は全ての自分宛の手紙と自分が描いた手紙の複製を調べて、それからその全て、あるいは一部を書き写させた。
そのようにしてできた原稿の1部を、侯爵は秘密裏に保管するようテュービンゲンの歴史家ヨハネス・ハラーに委ねた。2分の1は、リーベンベルクにオリジナルの書類とともに隠された。
「暗い夜に、地面に向かって走る緊迫した稲妻のようだった」ハラーは自分に委ねられた原稿を読んだときの印象を、オイレンブルクに宛てた手紙の中でそう叙述している。しかし彼もオイレンブルクも、書類の公開について決心することはできなかった。
決定的にハラーにとってオイレンブルクの手紙の刊行を断念させたのは、「データの信憑性」が証明されないということだった。というのも、ハラーは1924年―オイレンブルクの死の3年後―に、刊行されたオイレンブルクの伝記、原稿の中のいくつかの手紙を公開した。それによって彼は、オイレンブルクの友人ドーナとホッホベルクの家族たちから捏造の罪を着せられたのだ。
ハラーがそれに関してオイレンブルクの未亡人に相談し、彼女は書き写したものと原本との比較後、その不一致は「いくつかの書き間違い」に起因するだけのものではなく、彼女の夫の「抗いがたい改竄の欲求」にも起因していたと認めた。
ホルシュタイン研究者のヘルムート・ロッゲが、別件で写しの不正確さを証明した後、1935年にハラーは怒りながらオイレンブルクの原稿をリーベンベルクに送り返した。沸き起こった非難に際して、侯爵夫人は過去20年間既に、リーベンベルクに残っている原稿を調査し始めていた。
これらの修正された版をハンブルクのジャーナリスト、ゲスタ・フォン・ウエクスキュルが保管していた。彼はコブレンツの連邦公文書館がそのコピーを保持していると保証された後、第二次世界大戦が終わってから、オイレンブルクの親族に書類を委ねていた。
勿論、これらの修正された版はその信頼性をほとんど保障しない。レールもまた、原本を探さなければならなかった。しかしオイレンブルクの資料は、ロシア軍がリーベンベルクに進駐して以来行方不明になっていた。ロシア軍の兵士によって焼かれたのだとオイレンブルクの息子は書いている。
しかしレールは諦めなかった。ポツダムの国立文書館でリーベンベルクの資料の残りを発見し、メルゼブルクにあるホーエンツォレルン家のアーカイブで、レールはヴィルヘルム2世に宛てたオイレンブルクの手紙を見つけた。そして長い探索の末、レールは西ドイツの公文書保管所やフリードリヒスルーのビスマルク・アーカイブ、特にオイレンブルクの近しい友人であった外交官アクセル・フォン・ファルンビューラーの遺品が保管されているヴュルテンベルクのヘミンゲン城のアーカイブで鉱脈に突き当たった。
彼によって明るみに出された書類を眼前にして、レールは事細かな序論の中でオイレンブルクの同性愛傾向への疑問に対する答えを与えようとしている。もっとも、それは「皇帝の助言者の政治的活動の評価と比較して、オイレンブルクの同性愛的・心霊信仰的傾向に関する考察が細かすぎる」というフランクフルトの歴史家クラウス・ヒルデブラントからの非難をもたらした。
イギリスで勤務する歴史家にとってこのような考察は勿論「特別な関心ゆえに」価値あるものだった、それらは「オイレンブルクとヴィルヘルム2世の友情を明らかに」できるものだったからだ。
1886年5月、27歳のヴィルヘルム皇子は狩猟に出掛けた際12歳年上のフィリップ・ツー・オイレンブルクと知り合った。劇作家、作曲家、詩人でもある素人外交官のオイレンブルクは当時ミュンヘンのプロイセン公使館書記官で、魅力的な話し上手の人間であり、協調的で、普段ヴィルヘルムを取り巻いている大ボラ吹きの将校たちとは真逆の人物だった。
「ヴィルヘルム王子は私の叙事詩と北欧神話に魅了されていた」オイレンブルクはこう妻に書き送っている。「殿下はいつも私の隣に立って譜めくりをしてくださる。我々は最良の関係にある」
王子と外交官のすばやく結ばれた友情の理由は、確実にオイレンブルクの同性愛的傾向に依拠している。なぜならレールが確信しているように、「たとえ、より正確な言葉の意味としては同性愛でないのなら……それは両性愛だ。」その証拠としてレールは何よりもまずヘミンゲン宮殿にあったファルンビューラーの遺品を見つけた。オイレンブルクやモルトケと違って、あまり入念には信用を落とす手紙を処分しなかった人物だ。
オイレンブルクの交友範囲の性的な性格は学生時代シュトラスブルクからファルンビューラーに宛てた手紙からも明らかになる。そこには「夜に私は暖炉の火の前にいた。フュルステンベルクとビューロー(アルフレート・フォン・ビューロー、後に帝国宰相となるベルンハルト・フォン・ビューローの弟)はグループになってソファに座り、デルンベルクと私はネグリジェを着て炭酸水を供した……ビールを飲んでいるザクセン・プロイセン人は遠くにいた」と書かれていた。
1891年2月「かわいい人(デルンベルク)」がペテルスブルクで亡くなった後、モルトケはファルンビューラーに宛ててこう書いている。「私はフィリー兄さんを恋しく思う……彼に会わなくては。我々の愛すべき仲間たちが感じた悲痛に際して、私たちはもっと深く、お互いに思い合わなければならない……」
ファルンビューラーからモルトケに宛てた手紙にも、これ以上ないほどの明瞭さがある。1899年の春にはモルトケが離婚した。モルトケの妻は、彼女の夫のオイレンブルクに対する同性愛的好意を非難した。「私の可愛い人、そして今-」ファルンビューラーは歓喜して、こう書いている。「君は自由になったのだから……今再び私の元へ、私の開かれた心に戻ってきておくれ。ずっと前から変わらず、それが全てなのだ。私が君を可能な限りさらに強く、愛しているということが。」
そのように情熱のこもった気持ちが、友人たちの無遠慮な皮肉を阻むことはなかった。ミュンヘンにいるオイレンブルクをモルトケが訪問する間、仲間たちは有名な霊を呼び、催眠術師の助力のもと、二人は未来を予言したそうだ。
集会の間、モルトケはファルンビューラーに宛ててこう報告している。「フィリーが我々の輪に歩み寄り、静かに質問をするため、手を催眠術師の元に置いた。するとすぐに霊が目覚めて、いくつかの涙が頬を伝った。それは非常に困難だった。まだ霊が泣いている間にも、催眠術師は霊に対して『フィリーが触れているのがわかるか?』と質問した。霊は答えて『直腸に痛みを感じる』と言った。」「私は笑い転げるかと思った」とモルトケは面白がっている。「しかし私は自分を押し殺して、秘密の儀式の邪魔はしなかった」
「オイレンブルクのために処分された手紙」をレールはヘミンゲンで発見した。1908年のスキャンダルの4年半後、ファルンビューラーはモルトケに宛てて「彼(オイレンブルク)は無実であるという虚構が彼の中にあるのだと、私はそう信じている……私はその虚構を信じていないが、私はその虚構を受け入れる」
それら全てにも関わらずヴィルヘルムはどのような役割を演じていたのか?もし彼がリーベンベルクの仲間たちの傾向を知っていたなら、彼自身、オイレンブルクとの友情の、疑う余地なく同性愛的な素地を自覚していたのだろうか?
「陛下はこの世のあらゆる人間よりもオイレンブルクを愛しておられる」ヘルベルト・フォン・ビスマルクは、1888年秋――オイレンブルクとヴィルヘルムの初めての出会いから2年半が経った頃――には、既に一人の宮内官からそう知らされていた。
それ以上に、当然リーベンベルクの仲間たちにとって「オイレンブルクと君主の関係の性質に……秘密はなかった」(レール)。1890年の夏にオイレンブルクがヴィルヘルム2世との二度目の北欧旅行から帰ったとき、ファルンビューラーはモルトケに宛てて、オイレンブルクが皇帝との写真を友人たちに見せたことに関して「半ば当惑したような喜びと感激」を手紙に書いている。
「君の愛すべき皇帝と彼(オイレンブルク)は常に最も親密な関係にある。皇帝陛下はデルンベルクが言ったように、残念ながらたいてい太って粗野に見える……しかし私はそれをフィリーに言う気持ちにはなれなかった。」
これはまるで、嫉妬深い妻が夫の女友達について言った辛辣なコメントのようだ。しかしながらファルンビューラーとモルトケも、「愛しい人」皇帝に対して親密な愛情を抱いていた。そのような訳でファルンビューラーはモルトケの離婚のあと、モルトケの状況を嘆いた。彼は「これら全ての惨めなもの」(同性愛)を「愛しい人」に対して今や「隠し通すことはできない」と。
しかし皇帝はそのような惨めなものに対して理解があったことを、オイレンブルクの兄弟であるフリードリヒが同性愛によって同様に離婚したときに証明している。オイレンブルクによって書かれた彼の兄弟のスキャンダルに際してのメモの中で、彼は「陛下が私に対して書かれた、優しく、言葉に表しつくせないほど好意的で自主的な行動」に対する「心からの謝意」を皇帝に表している。
それゆえ、ヴィルヘルムがリーベンベルクの友人たちの同性愛的傾向のことを何も知らなかったとは、彼の「よく知られた、人の心についての洞察の欠如にも関わらず」、「考えられない」ように見えるとレールは考える。ファルンビューラーも皇帝は全てを知っていたと確信していた。
モルトケに宛てたある手紙の中で、ファルンビューラーは1898年6月4日、「一昨日、ティアガルテンで『愛しい人』が私を呼び止めた」と報告している。ファルンビューラーは気取った調子でこうメモしている。「彼は私の黄色いブーツと乗馬服の色の調和を褒めてくださった後で、」皇帝はモルトケのことを尋ねた。会話の中で、ヴィルヘルムは「いくつかの繰り返すべきではない強い表現」を使ったので、ファルンビューラーには「彼(ヴィルヘルム)が完全に情報に通じていて、もはや幻想を抱いていないこと」が明らかになった。
皇帝が既にその頃「情報に通じていた」なら、オイレンブルクがモルトケの離婚訴訟の中で不名誉な役割を演じていたこと、すなわち離婚原因となっていたことを、彼も知っていたに違いなかった。それにもかかわらず彼はフィリップを1903年から彼の毎年の北方旅行に同伴していた。ホルシュタインが1906年の5月に手紙の中でオイレンブルクを交際すべきでない男だとみなした時、59歳の侯爵と69歳のホルシュタインとの闘いは苦労して防がれ、ヴィルヘルムはその後も侯爵の味方をした。
ハルデンがオイレンブルクの同性愛者であることを非難して一年が経った頃は、スキャンダルが避けられないものであることをヴィルヘルムは理解していたに違いない。彼は「君」と呼び合う友人との関係を断ち切った。しかし皇太子ヴィルヘルムが回想録の中で描いた「近しい友人の過ち」の知らせに接した父の反応のような、皇帝の「絶望して茫然自失した顔」は、むしろヴィルヘルムが、彼の息子が彼に同じ過ち――皇帝は勿論知っていたに違いない――の嫌疑をかけるかもしれないと恐れたことに起因しているのだろう。
オイレンブルクに対する訴訟が1908年7月に中断されたことで、知らせに接した皇帝の反応が、レールにとってはより一層不可解になった。「訴訟は続行されねばならない」と皇帝は帝国宰相のビューローに宛てて電報を打っている。ヴィルヘルムはどんな場合でもオイレンブルクが彼を守るだろうと信じていたのだろうか?そしてなぜ、オイレンブルクに関する多くの不都合を知っていたハルデンが、皇帝彼自身に関する都合の悪い情報は持っていないと確信していたのだろうか?
しかし実際には、ハルデンがオイレンブルクのヴィルヘルムに宛てた1888年の、皇帝にとって非常に信用落とす内容を含む手紙を知っていたという想定は十分にありうる。レールはその手紙をメルゼブルクで発見した。その中で、オイレンブルクはシュタルンベルク湖でのハイキングを回想した。「昨日私はシュタルンベルクで例の漁師ヤーコプと丘へ行ったのですが、1886年の我々の旅行を思い起こしました。ヤーコプはいまだに古い原理を信奉しています。」
この手紙のわざとらしいコメント、ヤーコプはいまだに「古い原理」を信奉しているとはどういう意味なのだろうか?この「原理」という言葉はおそらく、同性愛的従順という意味の用語であろう……そしてこの手紙は、皇帝もまたヤーコプと性行為に及んでいたということを推測させないだろうか?
ハルデンが、いざというときヴィルヘルムとその漁師が知り合っていたという事実を使う準備ができていたということは、ホルシュタインに宛てた手紙から判明している。ハルデンはこう書いている。「私たちは”最高位の人員交代”の痛ましい必要性を我々は受け入れなくてはならない、たとえ内密のうちに強い手段を使わなければならないとしても。私はこうも言うことができるだろう、『深刻さ』は作られなければならない、と。」