弥助は侍になろうとしたのか?
- 2024/07/30
【目次】
「弥助は侍だったのか」論争
最初に断っておくが、日本の年号で記す月日は和暦、西暦年で記す月日は、ユリウス暦を示す。インターネットでは、戦国時代の日本にやってきた黒人の弥助が、侍だったかどうかで話題になった。
その結論はどうであったか? 話題はいつのまにか別方向の論争に移っていってしまい、この問題はほぼスルーされている。今回の記事では本題に立ち返り、弥助を侍と見ていいかどうかを検討していきたい。
内容は、弥助を侍とする有力な史料の再確認、弥助が短期間で侍になったとしてそこに男色が介在したのか、そして弥助は本当に侍だったのかを検討していく。
まずは信長と弥助の出会いを記す史料から見てみよう。『信長公記』巻十四 天正9年(1581)2月23日条の一文である。
【原文】
二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参候、年の齢廿六七と見し、惣の身の黒き事、牛の如く、彼男健やかに器量也、しかも強力十之人に勝たる由、
【現代語訳】
2月23日、キリシタンの国から黒い坊主(短髪だったのだろう)が参った。年齢は26〜7ぐらいらしく、全身は牛のように真っ黒で健康的だった。しかも力強さは人並み以上のようだった。
これは記主・太田牛一が自筆して姫路城主・池田輝政に献呈した通称「池田本」である(現、岡山大学附属図書館中央図書館蔵)。
続けて「弥助=侍」の有力な論拠とされる史料を引用しよう。こちらも『信長公記』で、先の一文に連なっている。
【原文】
然に、彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたされられ候
【現代語訳】
(信長は)この黒い坊主に御扶持(ごふち)なさり、弥助と名乗らせ、熨斗(のし)付の鞘巻(さやまき)と私宅まで手配させた。自分の御道具を持たせることもあった。
この記述を素直に受け止めれば、「弥助=侍」は成り立つだろう。だが、この史料の信憑性はどうだろうか?
ロックリー氏はこの記述を「太田牛一の『信長公記』自筆本の未発表記述部分」とするが、正確ではない。この一文は牛一の自筆本にあるではなく、マイナーな写本の独自記述である。
『信長公記』の自筆本と写本について
ここで説明しておこう。『信長公記』(全15+1冊)には太田牛一自筆本が2つある。どちらも有名な大名や神社に献呈されたものである(単巻本除く)。ほかに多数の写本があって、そのうちのひとつが先に引用した前田育徳会尊経閣文庫蔵『信長公記(『信長記』)』である。前田本とも通称される。
この前田本には、牛一の自筆本やほかの写本に見られない独自の記述があり、信長が黒坊主に「名をハ号弥助」と命名したというのもここだけの記述である。
前田本の奥書は、太田牛一没年の慶長一八年(一六一三)と記されているが、実態はどうであろうか。加賀藩の前田綱紀(1643〜1724)が保管して、現在に伝わることになったもので、その間の由緒が不明瞭である(なお、前田本は活字化はされていないので、原文を確認したかったら、自分の論文や書籍を所蔵者に提出して申請するか、東京大学史料編纂所に2週間以上前に予約して写真閲覧の申請をするといいだろう)。
ほかの自筆本・写本にない記述が目立つ点は、再検討の余地を残すように思われる。
そして信長が弥助を取り立てる一文が、なぜ牛一の自筆本では削除されているのか。ここになんらかの説明がつけられない限り、同書は写本の書き手による加筆と考える方が妥当であるように思われる。
したがってこの一文は精度を再検討できるまで、議論の俎上にあげない方がいいのかもしれない。つまり、現段階では保留するべきである。
弥助は男色で取り立てられた?
この短期間で外国出身の人物が、士分に取り立てられることなどあるのだろうか?草履取りからスタートする百姓より不利な点と、有利な点がある。不利な点は出身文化の違いである。日本の礼法や風習に馴染めていないところは少なからずあっただろう。日本語も完全ではない。有利な点は第一に、紹介者が信長が好意的に見ている宣教師たちだったことにあろう。そして、屈強な肉体。さらには不利な点にあげた覚束ない日本語話術である。「少しく日本語を解した」上に「少しの芸が出来た」ので、信長は弥助を気に入ったという(先述、ロレンソ書簡)。
信長は少なくとも、日本文化に疎い外国人を偏見の目で見ることはなかった。むしろ辿々しくも日本語を学んで話そうとする学習能力の意欲を高く評価したのではなかろうか。
ところで弥助が使う「少しの芸」がなんなのかは具体的基準がないため、不明である。
なお、弥助が信長に出会ってすぐに気に入られ、士分に取り立てられたとする説明に、想像されがちなのが「男色(なんしょく)」である。
ロックリー氏は、次のように記す。
弥助と信長が性的な関係にあったという学説がある。信長が小姓衆と性的な関係があったことは事実として知られている。もっとも有名な相手は森蘭丸だが、まちがいなくほかにも大勢いたことだろう。太田牛一自身も、信長が若いころに相手を務めたと言われている。
男色について私もある程度まで調べたことがあるが、信長と牛一が性的な関係にあったとする論考を見たことはない。この記述はなにかの記憶違いではなかろうか。
弥助と信長の性的な関係の「学説」も同じく、そのような言説を生みそうな史料や傍証は見覚えがない。
ロックリー氏はこの「学説」の参考文献を「Screech, The Black in Japanese Art.」(ティモン・スクリーチ「日本絵画における黒人」)と記している。だが、ロックリー氏によるとこの論考はまだ「Forthcoming」、つまり「近刊」の予定であるという。信長と弥助の「学説」は少なくとも日本国内に聞こえていないので、世界的通念を覆す冒険的な新説であるのだろう。そのような怪しい文献を、「学説」として紹介するのは、妥当とは言いがたい。
当時の男色について説明する。
戦国時代の男色は「少年愛」
戦国武士の男色は、仏教界から取り入れた。どちらの男色も、性差の薄い少年児童と関係を結ぶものである。数ある戦国史料の男色を追ってみても、成人男性が屈強な成人男性を抱く関係は全く検出できない(少年のうちに関係を結び、それが大人になってからも続くものはあった)。
日本の男色とは、古代ギリシャの「少年愛」と同義で、未成年の子供を愛玩するものだった。
有名な信長と前田利家の男色話も、史料の誤読から生じた勘違い逸話である。
もとの史料には、信長が「16歳に髻を取るまで、お前は私が寝る時も身辺をよく守ってくれる、とっておきの家臣だった」と利家を褒める内容となっているが、これを平成期の一般書が「(利家の髭を手に取り)若き頃、お前は我がそばに寝かせ、秘蔵したものであった」と紹介したことで有名になったものである。
余談ながら信長と森蘭丸の男色関係も、史料にない後世の空想である。詳しくは拙著『戦国武将と男色』を見てもらいたい。
もちろん信長が男色を好まなかったかというつもりはない。信長には「人の若衆(少年)を盗むよりしては、首を取らりよと覚悟しに」 (『犬徒然』)の小唄を好んで歌っていた伝承がある。「御若衆」として岩室長門という少年に情を寄せていた形跡もある。
信長が関心を持ったのは、異性と若い少年だけであった。これでもなお、性差がはっきりした「男」で、しかも「強力十之人に勝たる」弥助に性的魅力を覚えたとするなら、相応の説明を要するだろう。
弥助の男色説は、信長と出会ってすぐの弥助が士分に取り立てられた(とされる説の)理由として都合よく使われる便利な作り話であるが、現実味はどこにもない。
扶持は武士の証明にならない
同時代史料となる徳川家臣の『家忠日記』天正10年(1582)4月19日条には、次の記述がある。【原文】
四月小 十九日、未丁、雨降、上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介ト云、
【現代語訳】
4月19日、天気は雨。キリシタンから差し出され、織田信長様が扶持を与えている黒人の男を連れてきた。その身体は墨のように黒く、1.88メートルの身の丈を持つ。名前は弥介(弥助)という。
先の『信長公記』の記述から1年以上あとの出来事だが、ここで信長が扶持を与えていたとする一文は、先の『安土日記』と共通する。しかしこれだけでは士分の証明とはならない。扶持は、商人、僧侶、奉公人にも与えられる。例えば、江戸時代には二条城に出仕する「坊主十七人」に、「十六人現米十石二人扶持」「一人現米七石二人扶持」を与えていた記録がある(『吏徴付録』)。
このように『家忠日記』の説明は、信長に養われているという以上の意味を持たないので、弥助が士分だったとする証拠にはならない。
「Tono」にされると噂された弥助
当時の宣教師ロレンソ・メシアによる次の記述も重要である(『日本年報』1581年10月8日付ロレンソ書簡)。信長は大いに喜んでこれ(弥助)を庇護し、人を附けて市内を巡らせた。彼を殿Tonoとするであらうと言ふ者もある。
この時期、信長が弥助を「殿」にするという噂が立っていたのである。ここでいう「殿」とは、複数の従者を従える上級武士のことを連想しそうになるが、「殿」は武家に限らず貴人一般への敬称であるから、容易には決めつけられない。
信長が弥助と出会ったのは同年4月頃である。
それから半年経過したにもかかわらず、弥助は苗字すら与えられていなかった。すると、「殿」になるという噂は特に根拠のない見通しと考えるのが適切である。
百姓が士分に取り立てるにも、その者の力量と人柄と意欲を見る猶予が必要である。それに戦国時代の武士は、江戸時代の武士と違って、まず殺人が出来なければ務めにならない。例えば、攻め落とした城兵の殺戮は、足軽雑兵ではなく、原則として大名の旗本がやる。
精鋭たるもの非武装にされた罪人を試し斬りすることもやって、普段から汚れ仕事に慣らされている。
だから、信長が外国出身の弥助をすぐに武士に取り立てることはない。汚れ仕事を泣いて嫌がったら、取り立てた信長自身が面目を失うからだ。
「もしお前は特別だから殺人はしなくてもいい」というなら、それは武士への侮辱である。信長がそんな下手を打つとは思えない。
仮に本人が「私ハ武士ニナリタイデス」などと申し出てきたなら、むしろこんな人物を取り立てるべきではない。人を殺してでも出世したいなどと言う人物を信用できるだろうか。まずは大名のそば近くに仕え、その実態を充分に観察した上で武士としてやっていく覚悟と技量があれば、声をかけることであろう。
弥助は武士ではなく、信長の召使い(奉公人)として取り立てられたと考えるのが妥当である。
本能寺の変における弥助
天正10年(1582)6月2日、惟任(もと明智)光秀が謀反を起こし、信長のいる京都本能寺を襲った。ローマのイエズス会総長に送った1582年11月5日付フロイス書簡に、弥助の同行が記されている。
ビジタドールが信長に贈つた黒奴(弥助)が、信長の死後世子(織田信忠)の邸に赴き、相当長い間戦つてゐたところ、明智(光秀)の家臣が彼に近づいて、恐るゝことなく其刀を差出せと言つたので之を渡した。家臣に此黒奴を如何に処分すべきか明智に尋ねた処、黒奴は動物で何も知らず、又日本人でもない故之を殺さず、印度のパードレの聖堂に置けと言つた。
弥助は信長の息子を守らんと戦った。並ならぬ肉体を持つ弥助のことだから、敵兵を何人か殺傷したことだろう。
本能寺から妙覚寺に移動していたのは、信長に戦いを志願して、「息子を助けよ」と妙覚寺へ急ぐよう命じられたためかもしれない。やがて弥助は光秀の兵に投降して、捕虜となった。
光秀は弥助を「動物で何も知らず」と言い放ち、すぐに解放させた。
もしも弥助が侍に取り立てられていたなら、光秀の兵が「刀を差出せ」と呼びかけること自体なかっただろう。非武装になれと言われて素直に従う侍など考えられない。弥助が事件に巻き込まれて、やむなくこちらと敵対した奉公人との判断あっての呼びかけである。
弥助が投降に応じたのも、自分を士分と自覚していなかったからだろう。光秀はこんな弥助を気の毒に思い、「動物」扱いすることで解放させた。このような表現が通じるのは、弥助が武士未満の存在だった証左に他ならない。武士ならば野放しにするのは危険であった。
弥助は織田家のため刀を手にして「相当長い間戦つてゐた」のであり、その時間は何よりも侍らしい勇姿を見せていたであろう。
弥助は士分ではないが侍とは認められる。
ここまで弥助が実際には士分であった証拠が何もないことを示してきた。史料に裏付けが得られないのである。だが、日本人は弥助を侍として見ることに抵抗がない。
理由のひとつは、本能寺の変に、刀を手に取り、織田方として奮闘した実績があるからであろう。そしてそれは必敗間違いなしの絶望的戦闘であった。
日本人は、侍らしい言動が残っていない士分の三浦按針(みうら あんじん)よりも、士分ではない弥助に侍を見ていよう。
これは日本の歴史ドラマや歴史ゲームが実証している。
NHKの大河ドラマで、弥助はいつも侍らしい勇壮さを誇っている。コーエーテクモゲームスの人気作品『信長の野望 新生』『戦国無双5』における弥助もまた、侍としてプレイ可能になっている。
侍という日本語には、単なる身分の意味だけでなく、美称の側面がある。日本人は、立派な覚悟ある人をサムライと呼ぶ。そして現代日本人の多くは、弥助を侍と認め続けてきた。
弥助が侍であったかどうかについて、私からの意見はここまでにしたい。異論や反論は自由にしてもらいたいが、本件にかかわる論者たちへの人格攻撃、抗議や非難は、思いとどまってもらいたい。
【参考文献】
- 呉座勇一「『アサシン クリード』弥助問題に関する私見」(「アゴラ言論プラットホーム」2024.07.22)
- 乃至政彦『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y、2013。[増補版]ちくま文庫、2024)
- 村上直次郎訳、イエズス会編『耶蘇会の日本年報』(拓文堂、1943)
- 和田裕弘『信長公記──戦国覇者の一級史料』(中公新書、2018)
- 不二淑子訳、ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(太田出版、2017)
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