エンターテインメントは楽しむもの

 そうした発想から、弥助が活躍するゲームが製作されることは、歓迎するべき出来事だった。それなのに、その「正しさ」をめぐって、政治や歴史の問題を口論する展開など、誰が求めていただろうか?

 なかなか大変なことになったと思う。珍説を巧妙に広めた人々は罪深いが、これを無条件に持ち上げてしまった側はどうだろうか。そして、ここから取り返しのつかない溝が生まれたら、いったい誰が得をするというのだろうか。

 ならばここで溝を生まないところに得をさせてしまおう。

 戦国日本で弥助がカッコよく動いてくれるゲームを楽しみたいなら、ひとつの作品にこだわる必要などない。打ってつけの作品がある。歴史ゲーム会社の老舗コーエーテクモゲームスが提供する『戦国無双5』(2021)だ。

「戦国無双5」(Switch)ジャケットより

 これこそ弥助を可能な範囲でリスペクトした日本製の歴史ゲームであると私は思う。

 本作は従来のレギュラーキャラクターを一新したため、売れ行きは低調だったようだが、それでも無双ゲームとしての快適さはシリーズ随一といっていい。痛快アクション、気分のいい登場人物、味わいのあるストーリー、ここには全てが揃っている。

 そして何より弥助をプレイアブルキャラクターにした世界初の歴史ゲームでもある。ここでの弥助は、《無双乱舞》のときに「士」、《無双奥義》のときに「侍」の一文字が大きく浮かび上がっているように、武士の精神を重んじる扱いである。だが、武士らしい武装と衣装と所作は整っておらず、心は武士だが、身は謎の異民族という印象が強い。大方の日本人はこの弥助を見て、何を思うだろうか。黒人への不快感や差別感を抱いたりはしないはずだ。

身分としての侍と美称としての侍

 このゲームの弥助には、「身分としての侍」には似つかわしくないところもあるが、おのれを見失うことなく、信長や信忠に尽くす勇姿には、「精神としての侍」らしさが強く表されている。

 弥助の面白さは、ここにある。

 黒澤明監督の『七人の侍』や『用心棒』などでも「身分としての侍」と、「美称としての侍」が個別と概念として併存していた。これと同じように、見た目がそれらしくない弥助を、立派な「侍」として認めたくなるキャラクター造形がごく自然に噛み合っているのである。

 無双シリーズのコンセプトは、「一騎当千の爽快感」にある。弥助で睨み合う必要はない。11月に日本語版が発売されるまでコーエーテクモゲームスの『戦国無双5』を楽しんでみたらどうか。みんな弥助で笑顔になってしまおう。

 

【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。