太田牛一自筆の『信長公記』と弥助

 まずは皆さんご存知、織田信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』(原題『信長記』)から当たってみよう。同書には多数の写本があって、どれも微妙に文章が異なる。

 参考にするのは、そのうちでも今回なぜか注目されていない池田本(太田牛一が姫路城主・池田輝政に献呈したもの。岡山大学付属図書館池田家文庫蔵)である。『信長公記』は写本同士も違っているが、いうまでもなく牛一本人が書いたものを最重視するべきだ。

 写本の多くは、明智光秀後年の名字「維任」を「惟任」と書いている。だが牛一自筆本では「維任」と書いており、こうした違いを探っていくと意外な発見があったりするのだ。

 早速ながら弥助の箇所に目を向けてみよう。『信長公記』巻第14の天正9年(1581)2月23日条に、宣教師が信長に弥助に該当する黒人を紹介したときの記録がある。

『信長記』巻第14(天正9年2月23日条) 岡山大学附属図書館所蔵
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 そこでは写本・自筆本ともに弥助が「十之人」に優越する力があったと記されている。この一文から「弥助は10人分の腕力を誇った」と見られている。これは日本も海外も同じ認識のようである。

 周知のとおり、牛一は文章に誇張を挟まないタイプなので、書いたことは基本的に信用できそうだ。だが、10人相手に勝てるぐらいの力というのはいくらなんでも強すぎないだろうか?

 これが事実なら、ゲームで超人ヒーローにされてしまうのも納得だが、とりあえず池田本の原文から見てみよう。そこには写本にない情報が載っている。

二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参候、年の齢(ヨワイ)廿六七と見し、惣の身の黒き事、牛の如く、彼男健(スク)やかに器量也、しかも強力十之(ツヽノ)人に勝(スグレ)たる由、

(池田家本『信長記』巻十四 天正九年辛巳)

 弥助と思われる「黒坊主」は、「26〜7歳ぐらいで、牛のように全身が黒く、健康的であった」と記されている。そして「しかも力強さは『十之人』に勝る様子であった」とある。

 ここで注目したいのはルビである。

 牛一は、「十之人」に「ツヽノ」とルビを付している。十之人をどうやったらそう読めるのか不思議だと思ったが、友人の指摘でこれは「十」の音読みで、「つづ」と読むらしい。そうすると、『総見記』にはこの一文から派生しただろう同記事に「強力庸並ノ人」と書いてあるのにも納得がいく。

 こうして現代ではあまり使われない「十之人」は、「常の」と同義に解釈できる言葉で、今でいう「十人並みの」という意味であるとわかってくる。