母親の不幸は虐待になる。
情は支配。愛は解放。情は、愛についたゴミ。愛の顔をした情は「あなたのため」とか言いながら、愛を押し付ける。親の過剰な愛に窒息をして、グレたり、引きこもったり、自殺をした人の話を立て続けに聞いた。愛と情は別物だ。情を愛と勘違いすると、コントロールをコミュニケーションと勘違いするようになる。親としてはコミュニケーションを取っているつもりかもしれないが、こどもはコントロールをされていると受け取り、窒息の度合いを深めていく。
親から虐待を受けて育った女性A様にお会いした。シングルマザーのA様は、六歳の娘を育てている。親から「なんでお前はそんなに出来が悪いんだ。そんなお前はうちの子じゃない」と言われて育ったA様は、自分の娘にはそれをしたくないと思った。六歳の娘は、今、受験を控えている。だが、勉強ができない。A様は忍耐強く勉強を教えるが、なかなか頭に入らない。育児と仕事の疲れで余裕がなくなった時など、A様は娘を怒鳴る。娘は「私ってバカ!」と言って、自分の頭を殴る。母親に歯向かう代わりに、自分の頭をぶん殴る。そして、父親との面会の時間に「いつかあの人をぶん殴りたい」と愚痴を吐く。六歳の段階で、そう言っている。
A様は「こどもに選ばせているつもりだ」と言った。受験をすれば、今の友達と一緒にいられる。今の友達と別れてもいいなら、受験をしなくてもいい。さあ、どうする。A様は、このようなことを六歳の娘に聞くのだという。これをコミュニケーションと呼んでいた。だが、私にはコミュニケーションとは思えなかった。それは、コミュニケーションの仮面を被ったコントロールであって、選ばせているのではなくて、追い詰めているだけだと思った。こどものためではなく、自分がちゃんと母親をやっていることを証明するために、こどもを使っているように見えた。だから、抵抗されるのだと思った。
あなたがやっているのはコミュニケーションではない。自分にとって都合のいい方向に行かせようとするのは、コントロールだ。よかれと思ってレールを敷くのは、こどもを信頼していないからだ。心配は愛ではない。心配は脅迫だ。心配だからレールを敷く。レールの上を歩かなければ大変なことになるよと、相手を脅す。こどもは「信頼されていない」と思う。自分の話を聞いてもらえないから、自分のことをちゃんと見てもらえないから、心を閉ざす。そして、聞いてもらえそうな大人の前では「いつかあの人をぶん殴りたい」と思いを漏らす。親と子供の断絶は、こんな感じで生まれるのだと思う。
よかれと思っては本当に危ない。押し付けになる。親の愛に窒息して、追い詰められているこどもがたくさんいる。追い詰められているのはこどもだけではない。大人が追い詰められているから、こどもも追い詰められている。親は、こどものためと言いながら、生活費や教育費を稼ぐために家を離れて、嫌な仕事を嫌々やり、ストレスを溜めて家に帰り、こどもを殴る。こどもは、金なんて要らないから愛をくれ、一緒にいる時間を増やしてくれ、もっと自分のことを見てくれと訴える。その声を無視されたら、こどもたちは、自分のこどもにも「これはお前のためなんだよ」とか言いながら、愛という名の暴力を振るうようになる。負の連鎖を断ち切ってくれ。情は支配。愛は解放。愛は押し付けない。愛は追い詰めない。過保護と無関心は表裏一体。母親の不幸そうな顔は、それだけで虐待になる。母親が楽しそうに生きていてくれたら、それだけでこどもは安心する。無理をしてでも明るく振る舞えとは言わない。無理をするな。いい親になんかなろうとするな。もっと自分を許してくれ。自然に咲く花になってくれ。
おおまかな予定
8月27日(火)山梨県北杜市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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