平安時代中期の朝廷において大きな権力をもっていた藤原氏。段田安則さん演じる藤原兼家、井浦新さん演じる藤原道隆、柄本佑さん演じる藤原道長らが政治を主導していきます。その権力を支えた政治体制が、天皇の外戚となって実権を握る「摂関政治」です。藤原氏の始まりからひもといていきましょう。
――藤原一族の成り立ち 祖・鎌足(かまたり)
藤原氏は、飛鳥時代の政治家で、大化の改新の功労者としても知られる中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖とする氏族です。鎌足の死に際して、天智天皇(てんちてんのう:中大兄皇子/なかのおおえのおうじ)からこれまでの功労をたたえられ、鎌足の出生地である大和国高市郡藤原(現在の奈良県高市郡)にちなんで、「藤原」の姓が与えられました。
【NHK for School】歴史にドキリ『中大兄皇子・中臣鎌足~大化の改新・天皇中心の国づくり~』
――天皇の外戚となった藤原不比等(ふじわらのふひと)
鎌足の次男である藤原不比等は、日本で最初の体系的な法律である『大宝律令』や、歴史書『日本書紀』の編纂(へんさん)に関わった人物としても知られる奈良時代の政治家です。不比等は実績を積み重ねて信頼を得て、娘・宮子を42代・文武天皇、光明子(こうみょうし/のちの光明皇后)を45代・聖武天皇に入内(※注1)させました。そして、生まれた皇子を次の天皇にすることで、母方の親戚である外戚として朝廷内に大きな影響力を及ぼしていきます。
【※注1】入内(じゅだい) … 天皇の后(きさき)として宮中に上がること。
――藤原不比等の4人の息子
不比等には4人の息子がおり、それぞれ「南家(なんけ)」「北家(ほっけ)」「式家(しきけ)」「京家(きょうけ)」を興しました。そして、この四兄弟は朝廷の重職に就き、政敵を排除するなどして政治の実権を握ります。
◆南家 … 不比等の長男・藤原武智麻呂(むちまろ)の系譜。
◆北家 … 不比等の次男・藤原房前(ふささき)の系譜
◆式家 … 不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の系譜
◆京家 … 不比等の四男・藤原麻呂(まろ)の系譜
しかし、天平9年(737)の天然痘の流行によって4人が相次いで病死。盤石と思われた体制は崩れ、藤原氏の影響力は低下することになりました。
――藤原北家の躍進
奈良から平安へと時代が移る中、朝廷で躍進していったのは藤原北家でした。9世紀半ば、藤原北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ)は妹を54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)に入内させると、二人の間に生まれた道康親王(みちやすしんのう:のちの55代・文徳天皇/もんとくてんのう)に娘を入内させます。そして娘が惟仁親王(これひとしんのう)を出産すると、9歳で56代・清和天皇として即位させ、良房は幼い天皇を補佐する摂政に人臣として初めて就任しました。摂関政治の始まりです。
――摂関政治とは
「摂政」は、天皇が幼いときには代理を務め、「関白」は、天皇が成人したのちは補佐をする役職です。藤原北家は、自分の娘を天皇に入内させ、その娘が産んだ皇子を天皇に即位させることで天皇の母方の祖父(外祖父)となり、継続的に絶大な権力を手中に収める政治体制を作り上げていきました。このような政治形態は、「摂政」「関白」から1文字ずつ取り「摂関政治」と呼ばれています。
――反藤原北家との争い
藤原北家に極度に権力が集中すれば、天皇であっても自ら政治を主導することが難しくなります。そこで59代・宇多天皇(うだてんのう)は、菅原道真を重用し、藤原北家の政権独占に対して一石を投じていました。しかし、60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の治世となると、右大臣まで昇進していた道真は、藤原北家の藤原時平(ふじわらのときひら)の策略によって謀反の疑いをかけられ、大宰府に左遷されてしまいます。昌泰4年(901)に起きた「昌泰の変」です。
また安和2年(969)には、醍醐天皇の皇子でもある左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が謀反の疑いをかけられ、道真と同様に大宰府に左遷される「安和の変」が起こりました。高明は藤原北家から妻を迎えて血縁関係にありましたが、次の天皇となる東宮を巡って藤原北家と対立していたため、政治の表舞台から排除されたのです。
――藤原北家の内部争い
藤原氏の中で摂政・関白といった最も高い地位にいた人物は「氏長者」(うじのちょうじゃ)と呼ばれ、藤原氏の代表者として藤原氏が所有する荘園や邸宅を受け継ぎ、また、「春日大社」(奈良県奈良市)や「興福寺」(奈良県奈良市)の管理を担うなど、大きな影響力を手にすることができました。菅原道真や源高明といった異なる氏族に対しては団結して抵抗した藤原北家ですが、以降は氏長者の座を巡り、藤原北家内で激しい争いが繰り広げられることになります。