愛は孤独に詰め込まれた。
父と母と、姉の家族と兄の家族と、私で、しゃぶしゃぶの食べ放題に行った。同じ血が流れているとは言えど、他人は他人、家族も他人。それぞれに人格があり、それぞれに人生がある。姉と兄は、家庭を築いたくらいだから、それなりに社会性がある。だが、父と母と私には、社会性がまったくないことが浮き彫りになった。原始人が突然文明社会に投げ出されたような、馴染めてなさ、滑稽さや、物悲しさがあった。
父は黙ってビールを飲み続け、時折、誰かの話に笑顔で相槌を打っていた。母は「ソフトクリームが止まらない!」とか言いながら、機械の前で四苦八苦していた。私を含めて、その場には十一人の人間がいた。だが、実際は、八人の人間と、三人の出来損ないがいたのだと思う。それくらい、父と母と私は浮いていた。人間になり損ねた者の悲哀を、強烈に感じた。私は、父と母の悲哀に慰められていることを感じた。人間になり損ねた者の悲哀が、人間以上のぬくもりを与えてくれることがあるのだと知った。
姉には社会性があり、器用に社会に溶け込む。兄はコミュ障だが、東大を出る程度の学歴はあるため、知識と経験を武器に社会に溶け込む。姉や、兄は、その社会性をこどもたちに継承するのだろう。だが、父と母には、悲しいくらいに、何もなかった。それは、私も同じだった。何もない父と母には、鎧もなかった。野生動物と一緒にいる時のような、落ち着きを感じた。落ち着きを感じながら「ああ、俺もこっち側なんだな」と思った。無意識の間に、私は、存在のノイズにやられていたのだなと思った。私の父と、私の母には、存在のノイズがなかった。
孤独だろうなと思った。そして、私は、父と母の孤独に慰められているのだろうなと思った。馴染めてなさや、滑稽さや、物悲しさだけではなく、高潔さを感じた。本人たちは、そんなことは意識もしていないだろう。だが、私には、彼らの孤独が高潔に見えた。何かに抗うような孤独でもなく、自分の正当性を主張するような孤独でもなく、高潔な孤独、透明な孤独、純粋な孤独だと思った。彼らの孤独が、私の孤独と共振をして、さみしさとなって噴き出した。神は、愛を孤独に詰めたのだと思う。孤独に詰め込まれた愛が、さみしさとなって噴き出した。
一人で生きることと、共に生きることは、矛盾しない。彼らの孤独に共振して、彼らの孤独と共に生きているのだと思った。愛することと、孤独であることは、矛盾しない。孤独の中に愛がある。悲しいくらいに何もない。だが、鎧もない。存在にノイズがない。野生動物と一緒にいる時のような落ち着きを感じさせてくれる人物に、私は、なかなか出会えていない。だが、父と母がそれだったことを知って、嬉しくなった。無用な言葉や音や映像に窒息しそうになっていた私に、父の存在や、母の存在は、空気を与えてくれた。空気を読めだなんて、彼らは言わない。彼らは、空気を作り出した。彼らの孤独が、空間を作り出した。愛は、孤独だった。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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