先日アップされた私が『ダーティハリー』を批評したこちらの太田出版のエントリについて、須藤にわかさんという方が反論をしていました。
簡単に説明すると、須藤にわかさんは私がアメリカンニューシネマ(1960年代末から70年代頃のハリウッド映画の新しい潮流をざっくり指す言葉)について嘘ばかり言っているとおっしゃっておられます。須藤さんがアメリカンニューシネマがお好きなのはわかりますが、これはまったく歴史的な経緯をふまえていない議論です。むしろ須藤さんのエントリのほうが、現在の映画批評で言われていることに比べるとだいぶ違うので、アメリカンニューシネマあるいはNew Hollywood(上記記事で触れているように、これは日本語と英語では微妙にズレた意味で使われることもあると思いますが)について大きな誤解を招く可能性があると思います。私は基本的に、先日のエントリではNew Hollywoodについてはそこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないことしか話していません。映画の歴史について、ひとりの人の個人的、かつ非常に特殊と思われる見解があたかも一般的な考え方であるかのような形で広がると困るので、おかしいところを指摘するエントリを出します。
- 1. New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
- 2. New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
- 3. 広く使われているジャンル用語を勝手に変更しない
- 結論
1. New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
須藤さんはまず、アメリカン・ニューシネマ、あるいはNew Hollywoodは別に暴力的でもセックス描写があからさまでもないと主張していますが、これは映画史的には相当におかしい…というか、それでは何かnewなのか全然わからないじゃないかという感じの不思議な主張です。以下が須藤さんの主張です。
現在の映画で一般的な暴力やセックスの描写の基準からすれば、アメリカン・ニューシネマはむしろその暴力性や性的な要素において全然大人しく慎ましいと言えるほどで、アメリカン・ニューシネマの幕開けとされる1967年の『俺たちに明日はない』が(これにしたって結局今の基準からすればまったく穏当な映画なのだが)公開時にその暴力性と性的な要素でセンセーショナルな話題を振りまいたとしても、それをニューシネマ全体の特徴として語るのは、どうも相当な無理があるように俺には感じられる。
ここでヘイズコード(プロダクションコード)の話が全く出ずに「一般的な暴力やセックスの描写の基準からすれば、アメリカン・ニューシネマはむしろその暴力性や性的な要素において全然大人しく慎ましいと言える」というのはビックリ…というか、そもそもなんで今の映画と比べるのかがわけがわかりません。それまでのハリウッドと比べてnewなんだから、その直前の時代を基準に考えないといけませんよね?なお、私は本職はシェイクスピア研究者ですが(とはいえ私はシェイクスピア映画について日本語と英語で査読論文を出していますし、この間もシェイクスピアと映画について学会発表したばかりなので、インフルエンサーではなく映画についての論文も書いている研究者です)、今のたいていの映画の暴力描写はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』や同時期に流行っていたイギリスの残虐な芝居に比べるとぬるいと思いますけれども、今のホラー映画の暴力描写は慎ましいとか言いませんよ。
いわゆるNew Hollywoodの映画は論者によって指す範囲や重視する特徴が異なるのでなかなかつかみにくいのですが、ざっくりまとめて考えた時によく言われる特徴のひとつが、それまでのヘイズコード(プロダクションコード)下にあった映画に比べてあからさまなセックスと暴力の描写である、というのは映画批評ではあたりまえの位置づけであって「相当な無理がある」というようなものでは全くありません(なお、New Hollywoodに関する有名な本であるEasy Riders Raging Bulls: How the Sex-Drugs-And Rock 'N Roll Generation Saved Hollywoodでは、ジョージ・ルーカスは明らかにNew Hollywood以降の映画作家なんだけどNew Hollywood特有のセックスや暴力、ペシミズムは観客を遠ざけるし自分も暗くなるのでやらないようになったようだ、みたいな分析があってちょっと面白いです)。ヘイズ・コードについては既に私が別記事で詳しく説明しているのでこちらを見てもらえればと思うのですが、それまでは性的描写や暴力描写に関するコードによる規制があったものの、1960年代末に緩和され、New Hollywoodでは描写の過激化が進んだというのは映画史における当たり前の議論です(この点については山ほど学術文献での指摘があります。たとえばこれとか)。
そもそも『俺たちに明日はない』が公開された時の『タイム』誌の表紙に書かれているのは「ニューシネマ…暴力…セックス…芸術」という有名なタグラインです(このタグラインは『世界大百科事典』オンライン版の「ニュー・シネマ」の項目でも触れられており、日本語文献でもよく見かける説明です)。New Hollywoodは始まった時から、それまではタブーとされていた暴力やセックスを、人生の現実の一部としてリアリティある芸術的なやり方で描こうとしたことが主要な特徴として認識されていました。
この認識は後の映画批評でも完全に引き継がれています。英語のNew Hollywood入門的な本の最初のほうにも書いてありますし、標準的な事典類にもそう書いてあります。たとえばオクスフォード映画事典(オンライン版)の"New Hollywood"の項目では、New Hollywoodの成立の一因として"the demise of the Production Code and the introduction of a rating system that permitted films to depict sex, violence, and drug use."「プロダクションコードの終焉と、映画がセックス、暴力、ドラッグの使用を描くことを可能にしたレイティングシステムの導入」をあげています。ブリタニカ百科事典(オンライン版)の"History of Film"の項目を見ると、60年代末から70年代初頭くらいNew Hollywoodの時代の映画の特徴として以下のようなことが書かれています。
The graphic representation of violence and sex, which had been pioneered with risk by Bonnie and Clyde, The Wild Bunch, and Midnight Cowboy in the late 1960s, was exploited for its sensational effect during the ’70s in such well-produced R-rated features ....[この後にR指定の映画の例が多数続く]
暴力とセックスのあからさまな表現は『俺たちに明日はない』、『ワイルドバンチ』、『真夜中のカーボーイ』が1960年代末に危険を冒して切り開いたものであり、70年代には巧みに作られたR指定の映画でセンセーショナルな効果を求めて活用された(訳は拙訳)
ここでは須藤にわかさんが「「暴力やセックス」を主眼とした映画ではない」とした『真夜中のカーボーイ』が性や暴力の描写を革新した映画の代表例としてあげられていますね。須藤さんは『イージー★ライダー』を「非暴力の映画」とおっしゃっておられますが、『日本大百科全書』オンライン版の『イージー★ライダー』の解説によると、この作品は「暴力的で反権威主義的な時代を象徴する作品」です。また、須藤さんは「『卒業』は学生と人妻の不倫ものだが露骨なセックス描写は俺の記憶ではなかったはず」と言っておられますが、『卒業』はHistory of Sex in American Filmでアメリカ映画における性と親密さの表現を革新した映画のうちの一本としてあげられているくらいは当時としては衝撃的にエロティックな映画でした(p. 60)。さらに須藤さんがNew Hollywoodはセックスや暴力が特徴ではないことの例としてあげた『ファイブ・イージー・ピーセス』もそれまでの映画とは違う性や男女間の親密さの表現が新しいとして評価されたことが批評で指摘されています。須藤さんの映画の暴力描写や性描写の理解は、たいていの百科事典やら歴史書やらとは大きくかけ離れているようにお見受けします(なお、私はこれらの作品を全部高校生くらいの時に見ていますが、『卒業』はとにかくロビンソン夫人の美脚がエロかったことしか覚えていませんでした。なお、脚のショットを見たい人はこれを見ていただけるといいのですが、17歳以上かどうか聞かれるので注意)。
最近いろいろ株を下げていますが、たぶんNew Hollywoodの映画に極めて詳しいのはたしかだと思われるクエンティン・タランティーノは著書Cinema Speculationにて、New Hollywoodの特徴について、シニシズムを代表的特質としつつ、こう述べています。
The darkness, the drug use, the embrace of sensation-the violence, the sex, and the sexual violence. (p. 106)
闇、ドラッグ使用、興奮を受け入れることー暴力、セックス、性暴力。(拙訳)
別にNew Hollywoodはセックスと暴力だけが特徴ではありませんが(私の批評でもセックスと暴力の前に反体制的なスタイルを特徴としてあげています)、ヘイズコードに縛られなくなったためにNew Hollywoodが発達したということが映画史的には大きいので、主要な特徴のひとつです。New Hollywoodを扱ったたいていの本にはそういうことが書いてありますし、一般向けの事典にもそう書いてあります。正直なところ、アメリカの映画史の本を読んだことがある人なら誰もこのあたりを疑問に思うことは無いと思うし、むしろそうした人生の話しにくい側面にきちんと芸術的に向き合うのがNew Hollywoodの魅力の一部なのだろうと思っていたので、そこを否定しながらNew Hollywoodの映画を楽しんでいた人がいるということが私には衝撃でした。
2. New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
1974年に初版が出たモリー・ハスケルの『崇拝からレイプヘ―映画の女性史』の頃から、New Hollywoodと呼ばれる映画の潮流が男性中心的であり、それまでのスタジオシステムで作られていた女優中心の映画に比べるとかえって女優の活動範囲が狭められたということを指摘しています。ハスケルは2019年にWhen the Movies Mattered: The New Hollywood Revisitedに寄稿した論文で、似た問題意識で当時の女性映画もとりあげつつ、さらにニュアンスのある分析を行っています。
ここで問題になるのはやはりそれ以前との比較の問題です。40年代頃までは女優中心の女性映画がハリウッドの主流コンテンツとしてかなりたくさん作られていたのですが、作家主義的な映画が増加したNew Hollywoodの時代には、監督(大部分が白人男性)が個人的なテーマを描く風潮もあいまって、女優中心の映画が退潮しました。映画に登場する女性の役が小さくなったり、男性に都合のいい役柄になることも増えました。ハスケルは70-80年代のアカデミー主演女優賞やアカデミー助演女優賞の候補の役柄がそれまでに比べるとぱっとしないことをこうした風潮の反映の一例としてあげていますが、もうひとつこうした風潮の反映としてあげられるのはたぶんマネー・メイキング・スター(ハリウッドで一番稼いだスター)のランキングでしょう。1967年までは女優がハリウッドで一番稼いだスターになった例が複数回あるのですが(ドリス・デイ、エリザベス・テイラー、ジュリー・アンドルーズなどがめっちゃ稼いでいた)、1968年から1998年までは全て男優が1位です。ドリス・デイみたいな女優にかわってよく1位になるようになったのはクリント・イーストウッドやロバート・レッドフォード、ポール・ニューマンといったNew Hollywoodの時代らしい男性スターが多いです。
もちろんNew Hollywoodの時代でも女性中心の映画は作られましたし、フェイ・ダナウェイとかジェーン・フォンダみたいなスター女優も生まれ、New Hollywoodの影響を受けた新しい女性の映画人も時間をかけて育っていくようにはなりましたが、それ以前に比べると女性がぱっとしない立場になりやすかったと言えます。1970年代末に活動し始めた女性監督の苦労に関するそのものずばり"New Hollywood, Old Sexism"(ニューハリウッド、古い性差別主義)なんて論文もあります。あくまでも全体的な傾向として、New Hollywoodは映画界の女性にいい影響はもたらしませんでした。例外的に女性を描くのが得意な監督がいたり、優秀な女性監督がいたということを持ち出しても、全体的な傾向に関する指摘の反論にはなり得ません。
なお、須藤さんのエントリで褒められている『カッコーの巣の上で』は、私はものすごく嫌いな映画です。嫌いな理由は性差別がひどいからで、詳しくはこちらを見て下さい。なお、この映画は公開当時は人種の描き方が革新的だったのだろうとは思いますが、今見るとアメリカ先住民の登場人物が白人の犠牲のせいで自分らしさを取り戻し…という展開じたいもちょっと微妙だと思います。
3. 広く使われているジャンル用語を勝手に変更しない
New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています(これとかこれとか)。須藤さんは「要するに例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っているのである」とおっしゃっておられますが、決めたのは私じゃなくて今までの批評家なので、文句があるなら『現代アメリカ映画研究入門』などの著者で最近お亡くなりになったトマス・エルセサー(The Last Great American Picture Showでバーバラ・ローデン以外のNew Hollywoodの作家は全員男性だと述べている)とかに言ってください。私は映画のジャンルについて広く受け入れられている定義を自分の独断で勝手に変更するような勇気はありません。
この点について須藤さんはちょっと意味のわからないことをおっしゃっておられます。私のことをこう批判しています。
そもそも「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
えーっと、「(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー」なんだから批判されて当然ですよね?須藤さんは「「ニュー・ハリウッド」や「アメリカン・ニューシネマ」に含めない合理的な理由はない。近年日本でリバイバル上映されて話題を呼んだバーバラ・ローデン監督・脚本・主演の『WANDA ワンダ』だってそうだ」とおっしゃってられますが、なんで白人男性監督を優遇するのが前提であるジャンルの議論にわざわざブラックスプロイテーションなどを入れてやらなきゃならないんでしょう?最近は同時代の潮流としてまとめてNew Hollywoodとそれにこれまであてはまらないとされてきた映画を論じて大きな傾向を抽出しよう、みたいな議論はもう既にありますが、少なくとも一般的な映画史の理解として、作家主義的な文脈で語られるNew Hollywoodというジャンルと、作家主義にとらわれない娯楽映画として受容されることが多いブラックスプロイテーション映画(『スウィート・スウィートバック』は特殊な映画だけど)を一緒にして何か意味があるのか非常に疑問です。作家主義的なNew Hollywoodは白人男性中心だと言われたくないばかりに、一緒に論じやすいとは思えないブラックスプロイテーションをとりこもうというなんだかみみっちい操作をしているようにしか見えません。
結論
結論として、須藤にわかさんがNew Hollywoodについておっしゃっておられることはこれまでの映画史に関する議論をまったくふまえておらず、New Hollywoodの映画に対する愛情が強すぎてどうしても自分の好きなことを守りたいという意識が先に出ておかしなことをおっしゃっておられるように思います。須藤にわかさんがNew Hollywoodについて言っていることは、現在アメリカ映画を議論する際に百科事典や最近の研究書が言っているようなこととは大きく異なります。
別に大きく異なることを主張したいのならそれいいのですが、須藤にわかさんの論の問題点は、「今までこういうことが言われているが自分は別の視点でこれを主張する」というのではなく、今まで言われてきたことをほとんど無視して、自分の(たぶんかなり特殊な)見解だけが正しいし、あたかも広く受け入れられているかのように喧伝し、さらには通り一遍の当たり障りのないことを言っている人間を「メチャクチャなことを書いていた」「ウソ」などと言っていることです。私はNew Hollywoodについて全て映画事典やら先行する批評やらに基づいた話をしており、ひとつも独創的なことを言っていません。須藤にわかさん、あなたがやるべきなのは「今までこういうことが言われているが自分は別の視点でこれを主張する」という論を立てることであって、他人をウソつきよばわりすることではありません。