その「エモい記事」いりますか 苦悩する新聞への苦言と変化への提言
Re:Ron連載「西田亮介のN次元考」第7回
このところ、エピソード主体の「ナラティブで、エモい記事」を新聞の紙面で見かけることが少なくない。ナラティブとは物語や語りを意味する。要は、お涙ちょうだいの日常描写ものの記事のことである。朝日新聞だけではない。他の全国紙でも共通の現象だ。
こうした記事について筆者は昨年、委員をつとめる毎日新聞社の「開かれた新聞委員会」で、「世の中が複雑になり、エピソードは一つの例に過ぎないだけに、それを読むことにどれだけの意味や理由があるのかと感じる」と批判的に発言をした。朝日新聞のコメントプラスでも3月20日、その必要性について疑問を呈するコメントを出した。
「ナラティブで、エモい記事」とは、具体的に言うと、データや根拠を前面に出すことなく、なにかを明確に批判するのでも賛同するわけでもない、一意にかつ直ちに「読む意味」が定まらない、記者目線のエピソード重視、ナラティブ重視の記事のことだ。
実例を挙げるのははばかられるので控えるとして、たとえば、「わが町のちょっとイイ話」の類の記事であり、「地元で愛された店が閉店する」「学校教員の小話」「日々の記者の独白やエッセー」などを念頭においている。ただ、書かれたテキストをどう受け取るかは読者次第、そもそも好きに読めばいいし、厳密にカテゴライズするのも難しいので、批判もなかなか難しく、すこぶるタチが悪い。
それでもあえて本稿ではこれを批判的に取り上げ、なぜそう考えるのか、論を深めたい。現代のメディア環境における新聞の役割に関わる重大な問題だと思うからである。
PVなどの「数字」は出ても…
旧知の新聞社の知人によると、SNS上で、つまるところデジタル版において、この手のエピソード型、ナラティブ型の記事はよく「読まれる」らしい。よくクリックされ、PVなどの「数字」が出るというのだ。こうしたネット経由で読まれた記事は、事後的に紙面展開を模索したりすることもあるようだ。
多くの新聞社でデジタル化が進み、執筆した記者本人が「いま、どれだけネット上で読まれているか」を知ることができる時代である。どことは書かないが、なかにはそうしたデータが記者の評価と結び付けられている社もあると聞く。
記者にすれば、ネットの反応が気になって当然だし、それが「読まれる」記事を書くインセンティブになるのも分かる。とはいえ、新聞社の紙面とネットがシームレスにつながり過ぎている現状は、あまりに無批判過ぎるように見えて、好ましいあり方とは思えない。
新聞、そして新聞社は、クリック数を増やすために存在するのではないし、クリックが増えたところでそれほど経営改善に役に立たないことも、過去10年で明らかになった。新聞社にとって必要なのは存続のための「売上」なのであって、それはクリック数やPVと常に結びつくわけではない。
情報過剰の現代、ネットやSNSなどの発展により、社会には24時間、365日、大量の情報があふれている。加えて、いまやネットやSNSは若者だけのものではない。総務省の「令和5年版 情報通信白書」によれば、60歳未満の年齢階層別インターネット利用率は95%を超え、70歳未満層でも85%を超える。また、何らかのソーシャルメディアを利用している人の数は1億人を上回るという。老若男女、あらゆる人たちが、情報を過剰に浴びているのである。
そのような環境において、紙であろうがオンラインであろうが、決して安価とはいえないコストを払って新聞を読む意義はどこにあるのか。もっと言えば、新聞記事が、真偽不明の情報とお涙ちょうだいエピソードにあふれた通常のネットと同じであったなら、それだけのコストを払う意義を感じられるだろうか。
情報が少なかった時代には、信頼できる情報を中心に、できるだけ早くその量を増やすことが、なにより重要であった。ネットが普及するまで、新聞やテレビといったマスメディアにはそうした役割が期待されてきたし、「社会の木鐸(ぼくたく)」と言われるときにも、それが前提となっていた。
「機能のジャーナリズム」が求められる時代
しかし、速さの点でも量の面でも、ネットにはかなわないことが明らかになった今となっては、マスメディアはその役割を変えていく必要がある。メディア環境が変わるなか、新聞が従来と変わらなければ、「社会の木鐸」としての役割を果たすことはままならない。
真偽不明の情報が大量にある状態が標準だとするならば、こうした情報を分析、精査し、意味を析出させながら、意思決定に貢献できる妥当な中身、量にまとめて提示するのが、現代の信頼できるメディアの役割であり、「社会の木鐸」としての新聞記者の姿ではないか。
筆者は、情報が少なかった時代のジャーナリズムを、速報、取材、告発を重視する「規範のジャーナリズム」と呼んでいる。これに対し、ネットやSNS、さらにAIによって情報があふれた時代に求められているのは、整理、分析、啓蒙(けいもう)に貢献する「機能のジャーナリズム」だというのが筆者の見立てだ。10年ほど前からこのような主張を行っている。
「データ偏重、エビデンス偏重の時代」というような趣旨のオピニオンを朝日新聞でも見かけたことがあるが、筆者が見るところ、日本社会やメディアはデータ偏重、エビデンス偏重にはなっていない。新聞紙面に変化の兆しは感じるが、海外の新聞やメディアと比べると、データだらけ、エビデンスだらけというには程遠いように見える。それどころかまったく物足りない印象だ。
もちろん、ナラティブ型やエピソード型の記事のすべてが悪いわけではないし、それらを排除すべきだと言いたいわけでもない。結局のところ、バランスだ。ただ、そうした記事が「紙面やネットに載る意味」を踏まえて書かれてきたかどうか、問うてみてほしいと言いたいのである。
特に紙の新聞においては、掲載できる記事の総量に限りがあるだけに、読者がそのナラティブなりエピソードを読まなければならない理由を、デジタル以上にはっきりさせる必要がある。新聞のフロントとも言える1面となれば、なおさらだ。
重み増す記事の価値判断
ちなみに、筆者は複数の紙の新聞を購読している。朝日新聞も自腹で買って読んでいるが、一面にこの手の記事を見かけるたびに、「読者をヒマ人扱いしている」と感じてしまう。もっと読むべき、掘り下げるべき出来事が世界にはあふれていないだろうかと憤ると同時に、余計なお世話とはいえ、新聞社の経営資源を心配してしまう。
データのうえでは、近年、新聞業界は経営状態に窮していることになっている。発行部数は減少し、デジタル化も遅れ、新たなビジネスモデルを見つけられずにいる。支局や記者の数を減らし、コスト削減に邁進(まいしん)する一方、デジタル化で出稿量が増えるなか、記者の働き方改革も進めなければならずやりくりに苦悩している、とも。
新聞社に余力があるなら、ナラティブ型、エピソード型の記事があったとしても、“余興”として目をつぶることもできるかもしれない。だが、先述したように、現実はそうではない。ある記事が書かれていることで、潜在的にそのコストを投じることができた別の記事が「書かれていない」ということでもある。この点は、もっと意識されてよいのではないか。掲載する記事に果たしてそれだけの価値があるかということは、もっと考えられるべきだろう。
以上、論じてきたように、ナラティブやエピソード型記事の量産が抱える問題の根は案外深い。今なお、伝統的なメディアには、いや伝統的なメディアほど、規範強化の機能があるがゆえに、新聞が根拠にあまり基づかないあるナラティブを発信すると、そのナラティブが規範的な意味を持つ懸念もある。
だからこそ、今後も筆者は、おそらくは新聞社にとっても、その愛読者にとっても愉快ではないであろう警鐘を鳴らし続けてみたい。誰も望んでいないとしても。
もちろん、敏(さと)い読者諸兄姉はすでにお気づきであろうが、こうした記述も今のところもっぱら筆者の主観にとどまっている。杞憂(きゆう)ならよいが、そうでないなら、いま一度、現代のメディア環境における新聞の役割を考える契機としてほしいし、筆者も次はデータでアプローチしてみたい。(社会学者・西田亮介=寄稿)
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にしだ・りょうすけ 1983年生まれ。慶応義塾大学卒業。同大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。専門は情報社会論と公共政策。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。著書に『ネット選挙』(東洋経済新報社)、『メディアと自民党』(角川新書)、『マーケティング化する民主主義』(イースト新書)など。
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- 【視点】
西田先生のコメント(2024年3月20日18時20分投稿)も、この記事も勉強になる。 新聞は、断片的な現象のつながりを見いだしたり、そこに論理的な結びつきを見いだしたりして再構成して発信する役割を果たしてきた。そんな意義とともに、例えば、共感を広げるといった役割にも注目が集まっているような気がしている。メディアが多様化するなかで、新聞における記者と読者の関係性も多様化してきた。そのなかで、 “新聞にしかできないこと”も変わってきている。私個人は地域面や生活面の価値を重視する立場(重視しすぎる立場?)であることを再認識することになったが、西田先生のコメントとこの記事をきっかけに多様な立場の多様な声を掘り起こすことができそうだ。
…続きを読む - 【視点】
エモい記事の良し悪しは置いておくとして,データやエビデンスに基づくの記事が十分ではない,物足りないという意見に同意する. 2022年7月には「見て、使って、考えてもらう報道へ データジャーナリズムの可能性」という記事が掲載されているが,データジャーナリズムを十分に行っているとは思えない状況が続く中,2023年10月には「「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは」という記事が掲載されており,データやエビデンスをベースにした動きをする気があるのか甚だ疑問に感じている. なお,Googleで「朝日新聞 データジャーナリズム」で検索すると出てくる「データジャーナリズム事例集-未来メディアプロジェクト」のページを見ると,朝日新聞がどれだけの力を込めてデータジャーナリズムに挑もうとしているのかが伝わってくるのではないだろうか.
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