「イスラム教徒、やめました」礼拝を欠かさなかった30代イラン人男性が心変わり!その根深い事情とは
しかし、一人のムスリムが「コーランは神の言葉にあらず」という結論に達するまでには、われわれが想像する以上の時間と葛藤、そして勇気が必要なのだ。彼の表情はそのことを物語っていた。 タハ君は、今ではもうコーランを開くことはないし、礼拝や断食をすることもない。週末の彼のルーティンは、私のような友人を招いてワインやビールを飲み交わすことだ。 「宗教がなくても、僕たち一人ひとりが人間性を身につけて、清く正しく生きる努力を続けていけば、世の中はきっとよくなる。宗教側は、それじゃカネにならないから、絶対にそんなこと言わないけどね(笑)」 そう語るタハ君に、私はもう一つ気になっていた質問をぶつけてみる。それは、彼が神の存在を今も信じているかどうか、ということだ。彼は言う。 「もし神がいるとしたら、それは人間の心のなかにいるんじゃないかな。理性と感情の総体というか…。良心と言いかえてもいいかもしれない。いずれにしても、遠い宇宙の彼方から、僕たちにあれこれ命令してくるアッラーなんて神は存在しないよ」 ● 「同棲し、男性が女性に尽くす」イスラムの価値観とは逆の生活 そんなタハ君が、自宅のマンションで愛する彼女との同棲生活を始めて、もう10年になる。その暮らしを間近に見てきた私には、二人の関係が長続きする理由がよく分かる。 タハ君の優しさや気遣いもさることながら、いちばんの理由はズバリ、彼が料理以外の家事をすべてこなしていることだろう。同棲というライフスタイルも、女性のために尽くす男性像も、イスラムの価値観とは相容れない。むしろタハ君たちの生き方は、日本や欧米の若いカップルのそれと重なる。 イスラムを棄て、大切なパートナーを得たタハ君。新しい価値観のもとで営まれる二人の暮らしは、これからも試行錯誤を重ねながら続いてゆくに違いない。
● イラン人の「リア充アピール」は日本人の比ではない 一方、イスラムのより本質的な「欠陥」を指摘するのは、前回(https://diamond.jp/articles/-/348561)も紹介した30代の友人レイラさん(仮名)だ。 彼女の一族は、近現代イランの著名な政治家や文化人を多く輩出してきた名家である。レイラさん自身も、豊富な知識と鋭い洞察力をあわせ持った才女で、私がイランで彼女から学んだことは数知れない。 そんなレイラさんも、20代のころまでは、なかなか自分に自信を持つことができずにいたという。学校では、常に同級生との競争にさらされ、家に帰ってからも、親戚やほかの家庭の子どもたちと比較された。大学生になり、SNSが流行しはじめると、「競争と比較の原理」はレイラさんをさらに苦しめることになった。 このように書くと、「そんなの日本でもよくある話じゃん」と思われるかもしれない。確かにそのとおりである。 しかし、実はイラン人の「リア充アピール」は日本人の比ではない。現代のイラン社会で人物を評価する基準は、子どもならば学校の成績と習い事。大人になれば、学歴、収入、家、車、そして容姿と、相場が決まっている。SNSは、イラン人にとってそれらを見せびらかすための格好の場なのだ。 そんな社会では「目に見えるもの」がすべてなので、じわじわとにじみ出る人徳とか、ちょっとはみ出した個性なんかは、どうでもよいことだ。 そして、「嫉妬心から対抗意識を燃やすこと」を意味するペルシア語「チェシモ・ハム・チェシミー」ほど、イラン人の日常でよく使われる言葉はない。個人的には、この言葉こそイラン社会を理解するためのキーワードだと思っているくらいだが、これについては別項で詳述する。