【イカゲーム考察】ゲームが提供する「平等」は実在したのか?
遅ればせながら「イカゲーム」を視聴しました。初めて触れるデスゲームもの。
作中で印象に残ったことは数あれど、そのうちのひとつは「平等」というものについてです。
ゲームで提供された「平等」の正体
作中でも語られている通り、あのゲームに集められた参加者たちはみんな何らかの形で借金を背負い困窮している、いわば社会的弱者。
しかし彼らはゲームの中では「平等」であることが、スタッフたちに共有されている重要な概念です。
一方で、「本当にゲームの中でも平等か?」と首をかしげたくなる場面もたびたび。
ゲームの内容が腕力を必要とするものだったり、チーム分けにおいて女性と老人がお荷物のように扱われたり……。
ゲームの外では階級差、男女差、性暴力など、社会に存在する不均衡・不平等・搾取が嫌というほど存在しています。
そんな社会の中で「平等」を謳うなんて、いくら範囲の限られたゲームの中でも不可能なのではないか。
僕は、それは「平等の概念」に起因して生まれる疑問だと思いました。
平等には2種類あります。「形式的平等」と「実質的平等」と呼ばれるものです。「機会の平等」と「結果の平等」などと言い表されることもありますね。
イカゲームにおいて参加者に与えられていたのは、このうち「形式的平等」でした。つまりは大金を手に入れて、人生を挽回する「チャンス」がある、という平等です。
年齢・性別を考慮せずに同じ機会を与えること。それこそがあのゲームにおける「平等」。逆に言えば、だからこそギフンは生き残れたとも言えるでしょう。
参加者たちに与えられたのは平等な機会と、「ゲームをクリアする」という条件。
そこには「どのように」は定められていません。
だからこそギフンが舐めて型抜きをクリアしても、クリア扱い。
サンウが策略を巡らせてビー玉をすべて奪っても、クリア扱い。
彼らは提示された最低限のルールに従っていたからです。
参加者たちが背負うこれまでのバックグラウンドや借金をいちど平らにして、全員を同じスタートラインに並べて競わせる。
「機会の平等」にはそんな効果があったのではないでしょうか。
イカゲームに横たわる不平等
一方であの作品は、単純な「機会の平等を得た主人公たちが勝ち上がる物語」として語るのはあまりにも雑になってしまうメッセージも含まれています。
圧倒的な不平等です。
そもそも彼らがあのゲームに参加することを決意するに至ったのは、さまざまな理由で生活が立ち行かなくなったからでした。
そのなかには親や祖父母の代から続く構造的な貧困や、福祉の網から落ちてしまったこととか、受験の失敗とか……いろいろな要因が含まれていることでしょう。
これらは韓国(イカゲームが制作された国)のみならず、現在の人類社会に偏在する問題です。
借金を返済すれば、生活を立て直すだけの資金があれば。参加者たちはこれまでの暮らしを抜け出して、「まともな」あるいは「健康で文化的な最低限度の」生活が送れるところまで這い上がれるかもしれません。
多くの人が「普通の暮らし」として想定する、ほどよく豊かで気持ちの落ち着ける生活に。
不平等なのは、あの参加者たちがそれだけの慎ましい暮らしを手に入れるために、命さえ賭して他者と争う必要があったこと。
福祉という救済措置が用意された国家ならば、そのような最低限に豊かな暮らしは保障されていてしかるべきではないでしょうか。
しかし現状はそのようにはなっておらず、人生のスタートラインの差を埋める手段が国家からきちんと提供されていることはまれです。
また共産主義は全員にそのような暮らしを提供する、という「結果の平等」を志向したかもしれませんが、共産主義国家の中でも結局格差が生まれるという結果も生じました。
不平等な社会からやってきた人たちに平等な機会を与えたとしても、結局不平等から完全に逃れることはできないのです。
「自己責任」で終わらせてはいけない
ギフンは第一話から一貫して回避的な性格で、その場その場で気の向いた言動をするのが印象的でした。
ギフンに関していえば、自分も周囲も決してゆとりがあるとは言い難い地区に暮らしていたようですが、彼自信がもう少し計画的思考を持ち実行できる人間だったら、あそこまで困窮することはなかったのではないか……。と僕は思ってしまいました。
だからこそクライマックスで「全部俺のせい」と責任と引き受ける言葉が飛び出したシーンは印象的です。
人間、他人は変えられないが自分は変えられる、という言葉があります。
自分の身に降りかかることの責任を、ある程度「自分のものだ」と認めるところから、変化を起こすことが可能なこともあります。全部とはとても言えませんが。
ギフンは自分の行動で変えられる物事があることを、あそこで受け入れたのではないでしょうか。
確かに人のせい、運がないせいにしているのはラクだけど、それだと自分がなにをしても無駄に思えてしまうのです。
主人公であるギフンの反省は印象的に描かれます。しかし彼の言葉を受けて、参加者たち全員を「自己責任」という四文字でくくることはあまりに暴力的だとも思います。
彼らのバックグラウンドはさまざまで、その中には「自分のせいでしょ」と切り捨てるのは難しい人が多く含まれています。
だから言えるのは、ギフンにとっての学びが「自分の責任を受け入れる」ことに過ぎなかった、ということ。
他の人が背負っていたかもしれない、生まれた場所、必死の努力が報われなかったこと、社会の救済から外れてしまったこと、不寛容……等々は、危険な世界、教育の失敗、福祉の仕組みの失敗に起因するものです。
これらを「自己責任」として貧困に陥った人の非とするのは、いずれ自分の首さえしめかねない狭量な世界を作りあげてしまう可能性のある、危険な考え方だと思います。
あの映像ってとてもよくできていて。
画面越しにデスゲームを楽しむVIPたちは醜悪に描かれていますが、安全なところからエンタメとしてデスゲームを楽しむという姿勢は、視聴者とやっていること同じなんですよね。
あそこまで豪華で退廃的な生き方をしていなくても、あの作品を観た時点で視聴者は「非参加者」、つまりは富める者の側に置かれてしまっているのです。
参加者たちを「自分とは別の存在」と区別して眺めつづけるのか、彼らに降りかかった出来事たちを自分ごととして捉えて変化を考えはじめるのか。
それが画面のこちら側であのゲームを楽しんだ我々の役割といえるのではないでしょうか。
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