先日少し触れた「友人A」について書く。
書く目的として、読み終えたあなたに「Aはヤバい」という結論を植え付けたい。まあまず「書いてるお前のほうがヤバい」になっている事だろう
あと今回愛についても言及するが、ここで書かれる愛は私が今の気分かつこの記事の中だけで仮定した概念(ローカル変数)だからそこについては絶対に私にフィードバックしないでほしい
友人Aではわかりにくいので仮にトリコノドンとする
忙しそうなトリコノドンだ。保管してるものを読み返す時間はあるのだろうか?確かに、たまに読み返していればより記憶は捗るのかもしれない。
好きな文章とかなら私もそれなりに保存してるけど、昔のDMとかどうでもいいので気軽にさくさく消してしまう
私語りに移るが、私は記憶という作業が真剣に苦手なのだ。きらい。何ひとつ覚えてたくない。その瞬間目の前にいる知ってるのか知らないのか知らないあやふやな人とその時の熱量だけでどう転んだって知らないやりとりをしたい。はじめまして。
原因はわりとはっきりしていて、10代の終わりに失恋をして2年近く引きずった事実だ。私の骨や血肉は、過去を覚えている事の不毛さをじわじわと吸収し続けた。失恋から約2年後、最終形態と化した私は手紙とか交換日記とか北野異人館で撮り合ったアルバムとか、近藤を誘って坂町の海岸で全部焼いた。
「え、だいぶ記憶してんじゃん?」と疑問に思ったかもしれない。回答は「全部私の想像だから」である。
「え、どこまでが想像なの?」と疑問に思ったかもしれない。これはトリコノドンに指摘されて気付いた事だけれど、私は現在の感覚や
成果物を参照して過去を想像している。きっと私にはこういう過去があった。たぶんトリコノドンはこういう生き物だった。でも実際みんなそうじゃない?まあ私が今嘘を重ねていようが真実を書き連ねていようが、ここまで読んできたあなたにはどうだっていいのではないだろうか
私は提言したい。
トリコノドンは全員を愛している。
全員への愛を記憶で表明し続けている。
かような希少な存在がTwitterでふとスペースを開いて私しか聞いてないとかまじでウッてなる。
私が自分の記憶しない姿勢を否定しきれないのはそのせいだと思う
今後トリコノドンが幸せになる展開が起これば間違っていたのは私だったって明らかになるし、万一そうならなければ私は悲しむからどちらにしても私は負けてしまう
トリコノドンをウォッチし続けることは私にとって損しかない
それでもどうせずっとダラダラと絡み続けるのだろう 光と影が最後まで一緒にいるのと同じように