■浄土真宗の仮面をかぶる富士門流執着軍団・日神(自称・拳骨和尚)の正体を暴く2

 

□「最低5年様子見ルール」で2007年から2012年までは『様子見期間』だった吉野日神(智応)

 

吉野日神(智応)なる人物が書いた日蓮正宗批判、創価学会批判なるものは、池田大作のことを「池田大作先生」とよび、大石寺67世日顕のことを「大石寺貫首上人」「御法主上人猊下」とよぶ、何ともお粗末なもの。

 

しかも「偽書」である「本尊七箇相承」や「御義口伝」「産湯相承事」を何と日蓮の真書と認定している他、かつての日蓮正宗寺院僧侶や住職を「辻説法」の中で絶賛するという、見苦しい姿を見せていました。

 

英昭彦としては、半ば呆れかえっていたのでしたが、こんなお粗末な日蓮正宗批判、創価学会批判でも、あの当時は、「mixi」の吉野日神(智応)の「辻説法」日記に、日蓮正宗の僧侶や信者らが乱入して、スパム書き込みをしていたから、こちらもまた笑えたものでした。

 

それで吉野日神(智応)本人は、そういうスパム書き込みがあったときも「哀れな人だ」と言って、ずいぶん虚勢を張って余裕のある所を見せようとしていました。

 

はたしてこの人物は、いかなる人物なのか。日蓮正宗批判、創価学会批判をする「アンチ」なのか。

 

それとも池田大作のことを「池田大作先生」とよび、大石寺67世日顕のことを「大石寺貫首上人」「御法主上人猊下」とよび、「偽書」である「本尊七箇相承」や「御義口伝」「産湯相承事」を日蓮の真書と認定する「疑惑の人物」なのか。ここは、しばらく様子を見る以外にない。

 

英昭彦は、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会を離脱したと称している人については、「日蓮正宗系」離檀・離宗・脱会確認後から起算して最低5年間は『様子見期間』とする方針でした。

 

□「『日蓮正宗系』離檀・離宗・脱会確認後、最低5年間は『様子見期間』とさせていただきます」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/43144396.html

 

この「最低5年様子見ルール」からすれば、2007年に吉野日神(智応)なる人物が、元創価学会員の大日蓮宗僧侶と判明しているので、最低でも2007年から2012年までは『様子見期間』ということになります。

 

「最低5年様子見ルール」というものは、もともとは、私が見聞ないしは取り組んだ「日蓮正宗系」を離檀・離宗・脱会した人は、心の中が激しく揺れ動く人が多く見受けられ、心の中が安定するまでかなり長い期間を要しており、「日蓮正宗系」を離檀・離宗・脱会した後に「安住の地」に落ち着くまで、最低でも5年はかかる、というのが、英昭彦の経験上から得た結論です。

 

もちろん、中には5年以上かかる人、7年かかる人、10年かかる人もいます。

 

そういう「最低5年様子見ルール」に基づいて、吉野日神(智応)の様子を見ていたのであったが、当初の予想通り、吉野日神(智応)の周辺からは、さまざまな疑問点や不審点が次々と露見してきたのであった。

 

 

□「辻説法」を読めば読むほど疑問・不審・謎が深まる自称「元大日蓮宗僧侶」吉野日神(智応)

 

 

当初のころ、吉野日神(智応)なる人物は、旧富士門流系の大日蓮宗僧侶、高山智正氏の弟子を名乗り、大阪府吹田市に「草庵」があるなどと自称していました。

 

実際は、この「草庵」と称する所は、吉野日神(智応)夫人の自宅マンション。しかも姫路・仏眼寺に住むようになってから、大阪府吹田市の自称「草庵」から「仏教宗学研究会」の電話に無言電話をかけたり、女性の声でニセ電話をかけてきている。

 

しかも当方から電話してもつながらないIP電話にする、念の入れよう。大日蓮宗の「草庵」どころか、無言電話やニセ電話の拠点と化している(?)とんだ「草庵」です。

 

吉野日神(智応)は、大日蓮宗僧侶で龍福寺住職・高山智正氏の元で出家得度したと「辻説法」で自称しているが、同じく「辻説法」の記述によれば、大日蓮宗で出家得度する以前から、曼荼羅書写をしていたことを認めています。

 

ということは、在家時代から曼荼羅書写をしていたことになるが、これでは順序がアベコベではないのか。なぜアベコベかというと、通常は出家得度して修行を積み重ねた後に、師匠から「免許」(?)されて曼荼羅書写をする。ところが吉野日神(智応)の場合は、在家時代から曼荼羅書写をして、その後に出家得度している。

 

日蓮宗寺院や富士門流寺院貫首も曼荼羅書写をした僧侶はたくさんいますが、在家時代から曼荼羅書写をしていた事例は、英昭彦は聞いたことがありません。

 

英昭彦自身は無宗教・無宗派なので、吉野日神(智応)が在家時代から曼荼羅書写をしようが、その後に出家得度しようが、それを咎める気は全くありません。

 

しかし、この人物が書く「辻説法」を読んでいると、僧侶として尊敬を集めたい意図がありありと窺えます。そうであれば、僧侶としての、ひととおりの手順を踏まなくてはならないはずだが、曼荼羅書写と出家得度の順序が逆になっているのは、どういうことなのか。疑問点は他にもたくさんありました。

 

吉野日神(智応)なる人物は、「元創価学会員」を自称しているが、なぜ創価学会員をやめたのか、について、「辻説法」の中では、一言も言及していません。

 

「元創価学会員」「元法華講員」「元顕正会員」は、大半の人は、「なぜ、やめたのか」という動機について、事細かに発表する人が多いが、吉野日神(智応)は、「なぜ創価学会員をやめたのか」について、「辻説法」では何も言及していない。これも実に不審なことです。

 

さらに「大日蓮宗僧侶」を自称しているが、この人物は、どこで僧侶としての修行をしてきたのか。

 

日蓮宗は、中山法華経寺の「百日大荒行」が有名だが、この人、「百日大荒行」を満願したのか。しかしそんなことは「辻説法」の中に、一言の言及もない。

 

どこで、どんな修行をしたのかについても、「辻説法」で一言も書いていない。

 

そもそも「大日蓮宗」という、潰れる一歩寸前の宗派で、僧侶の修行そのものが果たして可能なのか、という根本的な疑問があります。

 

さらに言うと、曼荼羅書写をするのはいいとしても、出家得度してから、この吉野日神(智応)という人物は、どうやって生活していたのか。

 

潰れる一歩寸前の宗派「大日蓮宗」に、数百世帯の檀家や信者がいたとは、全く聞いたことがないし、大日蓮宗僧侶、高山智正氏ですら、在家の仕事をしていると「辻説法」の中で書いています。

 

では吉野日神(智応)は、どうやって生活の糧を得ていたのか。吉野日神(智応)は、若いころは石屋をしていたらしいが、石屋をやりながら僧侶をしていたのか。石屋をやりながら、僧侶の修行が可能なのか。こういう僧侶としての肝心要な部分についても、「辻説法」では何ら言及していません。

 

吉野日神(智応)という人物は、「辻説法」を読めば読むほど、全く謎だらけな人物だということが、わかってくるのです。

 

吉野智応2


































 

 

(吉野日神(拳骨和尚)

 

猊下2















 

 

(大石寺67世日顕を「御法主上人猊下」とよぶ吉野日神(智応)の『辻説法』)

 

 

先生1















 

 

(池田大作を「池田大作先生」と読んでいる吉野日神(智応)の『辻説法』)