川中紀行の
「日本でまだ誰も言っていないこと」4

カタチの乱用2  

前回「カタチの乱用1」で『「1位 ハッキネン、2位シューマッハ、3位クルサードというカタチになっています」なんてのは「カタチ話法」の初歩。』と述べた。これは、「順位 」という言葉の代わりに「カタチ」を使っている場合で、必要のない個所に「カタチ」を使う目障り・耳障りな事例よりは罪は軽いと論じた。しかし、日本語という言語の貧困を象徴するなら、むしろこの“カタチ話法の初歩”の方が問題かもしれない。 この使用法は、他に適した日本語があるのに「カタチ」で安易に済ませてしまうもので、昨今の「じゃないですか言葉」「語尾上げ話法」「媚び上げ話法(命名は私で、「なんですよぉ」と媚びを売るイントネーションを指す。えのきどいちろう氏も朝日新聞紙上で指摘している。)」などと同様、日本語の会話能力および語彙の貧困をはっきりと象徴している。実際の事例でまずご紹介しよう。 これは本年4月24日付「朝日新聞」のスポーツ欄の記事である。『「相手の一番得意な形で、自分がどれだけできるか試したかったのかな」と戸高。KOを狙って最初から飛ばしてくるヨックタイを、真正面 から受け止める形で防衛戦が幕を開けた。』ここでは、ほんの80字程度の文章中、「形」が2度も使われている。一つは選手のコメントだから仕方ないし、戸高選手の使い方には無理がないとも言える。ボクシングなら「形」の代わりに「スタイル」や「戦法」を使う方が適当だとは思うが、試合後のインタビューという状況を勘案すればまだ許せる。 問題は記者自身の書いた「真正面から受け止める形で」という個所だ。プロの文章家であるなら、まずこのような言葉のダブリに繊細に反応すべきだし、これだけで文章力のレベルは明らかなのだが、この「形」の用法は読んでいて気持ちが悪いし落ち着かない。「真正面 から受け止めながら防衛戦が幕を開けた。」と「形」を削除する書き方もあるが、ある一定の時間的な流れを説明している文章の内容上、やや表現力が薄まる感がある。であるなら、「形」による表現は適当なのか? いや、言葉のダブリを避けるという文章作法からいっても「形」で代用すべきではない。「真正面 から受け止める態勢(体勢)で」がこの場合の描写としては遙かにきめ細かいのではないか。この程度の努力を、この記者もプロならしてほしかった。 「カタチ (形)」という言葉に、あまりにも多くの意味を含ませてしまっている現在、“考えない書き手・話し手”にとってこれほど便利な言葉はない。しかし、加速度的に意味が曖昧化している「カタチ (形)」を使って表現するより、日本語にはもっと相応しい言葉が必ずあるのだ。といっても、日本語のレベルが著しく低下しつつある日本人にとって、「カタチ (形)」に頼らざるをえないのが実情なのかもしれない。記憶している限りで、一般 的な会話の中に登場してきた「カタチ (形)」の乱用についていくつか記してみたい。〈〉内は「カタチ (形)」の代わりに使うべきであった言葉の一例である。 「当店では商品はいつもこのようなカタチでディスプレイしています。」〈手法・やり方〉 「昔から受け継がれてきた筆さばきのカタチを、後世に伝えていきたい。」〈技法〉 「負債ごと受け入れるというカタチでこの合併は行われた。」〈合意の下〉 「得点王はカタチに残る実績。」〈歴史(に名が)〉 「文通 というカタチで両者の交流はスタートした。」〈(コミュニケーションの)方法を通 して〉 「いくつかの古式泳法のカタチが残されています。」〈流儀〉 「今回の選挙、郡部ではやや有利なカタチで推移しています。」〈形勢〉 「この国ならではの祭礼のカタチです。」〈様式〉 いかがだろう。これらを話し言葉で聞いていたら、恐らく殆どの日本人は気づかずに納得してしまうに違いない。もちろん「形」とは「・目で見、手で押さえることによって他の物と区別 して、それの範囲・大きさの感じられる物の全体の様子・物事の表に現れている様子/新明解国語辞典・第3版」と実に広範囲な概念を含むから、それこそ“カタチ”あるもの全て「カタチ (形)」を使って表現すればいいということになる。しかし、この・・の意味を表す無数の日本語を思い浮かべれば、それらを全て「カタチ (形)」で済ませてしまうことの安易さがいかに空虚であるか分かるであろう。しかも、昨今の「カタチ (形)」の乱用を見ていると、この言葉が肥大化し、“考えない書き手・話し手”の適度な安心感・信頼感の置き所と化していることに慄然とするのだ。要するに、前述の新明解国語辞典の記述で言うなら「他の物と区別 して、それの範囲・大きさの感じられる」「物事の表に現れている」という意味が持つ効果 を利用して、自らの言語能力の貧困を安直にカバーしてしまおうという意図が少なからず働いているのである。「カタチ (形)」を使えば、「何となく、対象を明確にして話せた(書けた)かな」という妙な安心感が得られる。そのような心理が最近の日本人にあると私は分析する。だからこそ「○○モデルという形の」(F1の実況より)のような、馬鹿げた言葉のダブリが生まれてしまうのだ。それは最早、「カタチの肥大化」というより“カタチの神格化”に近い。 このままの日本語教育や現代国語の“カタチ”が行われていくなら、将来、様子、状況、方法、内容などを表す日本語は「カタチ (形)」に席巻されてしまうに違いない。この恐ろしい“カタチ”について述べられた文章および談話に、私はまだ出会ったことがない。「カタチの乱用」は正に「日本でまだ誰も言っていないこと」なのである。
2000.8.18


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