哲学
【ハイデガー】に対する死の問題〜【反論】
UPLIFTで広告なしで体験しましょう!快適な閲覧ライフをお約束します!
以下引用
──────
「死」の本質をハイデガーは「現存在の終わりとしての死は、没交渉的な、確実な、しかもそのようなものとしての無規定的な、追い越しえない可能性である(『存在と時間』本文より)」といった風に規定している。
──────
現存在の「終わりとしての」死、なら構わない。※ここが大事
しかしながら、死に対する不安は、自殺願望の場合、復活した経験を踏まえれば、怖くない場合がある。
自殺しても復活するなら、他者の攻撃によって命を失っても、復活する場合があるといえよう。
復活した現存在は、死を冷静に考えられる可能性もある。
死とは、さっきいなくなったあの瞬間にすぎない。
死んでも復活する場合があったのだ、と学ぶなら、次の死に対して準備できるのだろう。- コメントを投稿する
- 松浪の死の思索は読んだ
- ハイデガーは「死後の復活」による存在を考慮していたか
- 死を前にして、不安で、ないものに対して不安を感じる、という例もあるとおり、不安は対象をとらえない。
死を考えると不安になる、というのは、逆に言えば死を考えなければ死の不安を抱かない、となる。
死は、一度自殺してしまえば、わかる出来事だ。
しかしながら、次に自殺しても終わらない、としても、3度目の自殺はゲームオーバー(終わり)となるといった不安もあるだろう。
そんな不安は、ざっくり言えば、予言をしてみればその不安を抑えられる要素となるだろう。
あと百回しか復活できない、と予言してみれば、十回自殺してもまだ存在するな、となるはずです。 - 死は人間にとって必然だ。しかし死の自覚は人間にとって必然ではない。
ハイデガーのように頭のいい人にはそこまで想像が及ばなかったろうが。 - 現象学前提としての死なら問題は無い
- そこにある自覚あるシ
- 人は自分の生を内部からしか知り得ない。だから外部であろう死を知ることはできない。
あの世とか、神とかで死を知ろうとするが、人為的な仮定にすぎない。 - 死んだら驚いた!!、って知ってる?
現代は死後の世界を閉ざしてしまった感がある。
一度死んでも復活する場合はあったのさ。
あの世はあるさ。 - 人の生は、
「今」「今」「今」「今」「今」・・・
の自覚が永遠に続く・・とは断言できない。
人が断言できるのは、ひとつの「今」でしかない。
過去の「今」は記憶として残るが、実感ではない。
未来の「今」想像すらできない。 - 仮に、「あの世」があったとして、この「私」が続いているなら、
それは「この世」だ。
ただ環境が劇的に変わっただけだろう。 - あの世はあるだろうけども。
私の知り合いは三途の川で修行してると思ってる。
三途の川はあると言っていたよ😁 - 生きている者が、死を知る手段があるだろうか?
「ない」
よって死は、生きている人間の観察対象とはなり得ない。
これはよほど確実なことなのだが、にも関わらず、
死後を語る人々がいるのは、どういうことか? - 死を体験した人の中で、いわば復活をした人がいることは、語られなければならない。
- 死を体験した人々が、生には戻ったことは一度としてない。
だから誰も死後については知らない。
来世を語るイエスも、輪廻を語る釈迦も証拠を示していない。
臨死体験者は、まだ死んではいなかった。
前世を記憶していると主張する人々も、証拠は示していない。
誰でも死を体験するが、それをこの世で語れる人はいない。 - 何でこの世で語れるのはいないとかいうの
そんなこと言われてないじゃん
誰も死を知らないって異端的な発送だ - 「私」が死に、その「私」があの世に行き、
その「私」がこの世に戻ってくる。
そんな話は聞いたことはないし、そもそも、
それは「死」ではない。生きている人の変遷だ。 - 人々が知っているのは、生きている人が活動を失い、
ほっとけば腐ちてゆくし、たいていはその前に燃や
してしまうという事実だ。
死の内実は誰も知らない。 - キリスト教の失敗は、イエスを超人的な人、あるいは
神の子にしてしまったことだ。
彼は生き返り昇天する・・、嘘くさい。
釈迦はあくまで人だった。後世の人々は釈迦を超人的に
しようと試みたが、人間釈迦の認識は今でも残る。 - あの世はある、これ否定したらぶっ飛ばすぞ
あの世はあるだろ。俺は知ってる。 - 「明日はある」に根拠はない。習慣的なものだ。
その延長として「あの世はある」も習慣的なものだ。
根拠はない。 - >>21
記憶の連続性を維持したままの「あの世」の定義は習慣的なものだが、知識としての記憶ではなく達成体験としての記憶(成功体験や失敗体験ではなく単なる結果)の維持を維持した「あの世」は存在していると思う。
でないと性質や気質が個体によって異なる説明ができない。 - あの世はあるなんてハイデガーはそんなに考慮してないだろう。
しかしそれがあの世という連続性が破綻されるわけではない。
あの世という連続性が、──それが万人たる万人にあるとは限らないとしても──たしかにあると、私は考える。 - 死んだ先の生なら死を思わないって無限遡及じゃん
- ハイデガーは自分自身をこの世界の一員として投企されたと考える。
そこで、いつまでゲームができるか、不安も兼ねて考えるのが、我々であるとする。
ハイデガーは、不安を繰り返しながら、自分の問題を気遣うこと、をテーマに置いた。
気遣うことがなければ、我々は問題を解決できない。というわけである。
不安もプラスの方向にシフトさせてしまう、ハイデガーは超楽観主義だったと思われる。 - まあ投げ出された存在だ
考えねえと世間に馴致せさられ頽落してしまうことを指摘した
TVなんかで現を抜かしてる場合じゃねえよみたいなことを言ってる - ハイデガーの死は不可逆的な生命の終わりを指しているのであって気を失った自殺未遂を死と見ていないと思うけどな
- 没交渉で確実で、追い越せないって言ってんだからよ
自殺未遂は確実に当て嵌まらない - 死を追い越せないと言う事は死そのものは体験的に学べないという事を指している
死を学んだと言うならそれは誤った認識と体験
つまり問いかけがすでに間違っている
ハイ論破 - あの世はある、という事実が大事だ。
仏教では、死は輪廻転生して、生となる、というふうな考え方だ。
生はあの世だったりすることもありえなくもない。
あの世があって、あの世に行って死を受け入れられることは、大きな学びとなるのであろうか。 - それは死は実際には「死」ではなかったという認識の共有だけど、ハイデガーのいう死というのは、死が物語でありながら現存在を包み込む実存のことだから、超越論と呼ばれているよね(( o´ェ`o)
- 存在と時間はプラグマティズムと直結する考えで
死を前提に死ぬまでに如何に行動をするかの問いかけ
死後の世界があるのなら人は自堕落に振り返りもせずに先延ばしして生きていく
自殺していて生き残ったかどうかは関係なく、存在の終わりを前提にどう生きるかを問うている - 基本は性善説を軸に良き人生を生きろと言っている
性悪説であるなら自分の幸福を追求すれば良い
どうせ死ぬならやらなきゃ損
輪廻転生でも自己の意識がリセットされるならそれは存在の喪失で死と同意義
カルマとやらの隠し設定で次の人生の不利有利なんて誰にわかるのか - ハイデガーは死の先を想定せず絶対と捉えた思想
死を超えた先は次世代のものであって良い世界を残すと言う考え
復活と言うものがあり倫理から解放されるならそれは自堕落な頽落した人生に倦む - 俺は死なないよ?
- 宗教は死後の世界を事細かに語れているから宗教は偉いんだ凄いんだ
ハイデガーなんかは大した事ないっつうなら
それはそれまでっうもんなんよ - ハイデガーは「存在と時間」という20世紀を代表する本を書いた。
また、これには賛否両論があるかもしれないが、20世紀最大の哲学者にハイデガーの名が挙がっていることは、ハイデガーが優秀過ぎたということで評価は高く、大したことないなどと煽るのは間違いであり、むしろハイデガーの業績が見直されることを切に願う次第であるが、死後に関する考慮、認識の甘さといったものは窺い知れないものではない。 - 私は永遠に生きる
- 問いとしての「永遠」を神の国に留保してないか
ないがしろにして生きていないかっていう存在の問いなんよ
打ち震えるほどの問いだぜ - 誰がいつ死ぬにしても、いまここに生き延びているのが私ですよ?
- 終わりなき日常を生きる
- ハイデガーは、現存在の存在(人間という意味です、という意味)を人間という意味だと最近知ったらしい。
現存在という三文字では、人間という意味はない。
現存在の存在、と称してやっと大事な意味が見出だせる。 - 人間は常に日常に埋没して生きる生き物である
- 現存在が存在の世界に埋没する、みたいな発想はサルトルの観点で社会的批判が含まれるんだろうけど、ハイデガーとしては、あくまで特異なソンザイロンテキ構造の解明にあるんだよなー
- えぇ? 俺が死ぬ? 考えたこともねえ話だな。
- ハイデガーは死を克服したわけでもなく、むしろ死を考えていなかったと言っても過言でもない。
- 「人間」の超越が存在論を度外視した素描であるとして、宗教を例示するけど、これは禅宗の「在るを忘れる=求める」ことにも当てはまる
これは、素描の限度とするハイデガーのセンス - ハイデガーを解釈すると「信仰」との対峙というのが見えてくる
- 信仰とは全く対峙してない
そう見えるとしたら無知な日本人だから - 近代西洋哲学ってのは宗教を現代向けの言葉と理屈に置き換えているに過ぎない
特にハイデガーはその傾向が極めて強い
西洋哲学はヨーロッパの倫理を説いたものだ
そのヨーロッパの倫理とはキリスト教を差している
謂わば中世や近世の言葉を現代的な言葉に置き換える作業を行ったのがハイデガー
信仰を超えるとか対峙するとかじゃなく、寧ろドイツの民族性に信仰にたりえる科学的な根拠や思想を作ろうとしていた
それなのにハイデガーが真逆の信仰と対峙していたとかどう言う事よ
ハイデガーは近代の国家形成の主軸たるプロパガンダに耐え得る思想
民衆が信仰するに値するものを模索していた
だからナチにも共感したしドイツ的な農民の暮らしを体験していたんだろうに - 否定神学
- 日本人ってGHQに強制されて宗教的なルーツと歴史を教えること禁じられた結果として無宗教と言う意識を持つようになった
これって宗教を克服したんじゃなく、歴史教育を規制されて無知・無教養なまま育つ様になったに過ぎない
だから日本人が無宗教を誇るのは欧米からは自国の宗教や慣習の歴史も知らないってバカにされてんだよね - 要するに「頂きます」「ご馳走様」お辞儀とかね
こういった明らかに儒教や仏教由来の習慣をしていながら俺ら無宗教だからって無知丸出しで言ってる事が欧米人からは教養がないバカだと指摘されてる
お前ら日本人はいまだに宗教の影響強く受けているのにそれすらわかっていないマナー知らずの間抜けと嘲られてる
宗教団体とかに所属するしないんじゃねーんだよね
自分達の習慣や民族のルーツくらいは教養として抑えるのが文明人ってのが当たり前
日本も戦前まではちゃんと教育したわけでね
それが敗戦からのアメリカの圧力で政治と宗教を骨抜きされちまっただけ
植民政策に無自覚な事がヨーロッパからバカにされる - 俺は自分が死ぬとは思えないなぁ
- 死ぬとは思えないかあ、じゃあ僕のために死んで。ありがとう。
- クルド人も宗教の信者
素晴らしいことだよ - ワラビスタン
- お化けは死なない~ 病気もなんにもない♪
- 無宗教の日本人は劣った民族であり
信仰を有する民にひざまずくべきだ - >>59
「お宅のご宗旨はどちらで?」「菩提寺はどちらですか?」
と聞かれて「ありません。」と答える日本人は皆無に近い。
日本人は世界的に見ても非常に信心深い国民だよ。
ただその信心の在り方がユ・キ・イ教などと大きく異なっているだけだ。 - それでいながら無宗教と言って自慢する
だから日本人はバカ扱いされる - 信仰の在り方を強制された事に無自覚
それが植民地の原住民
ルーツ奪われ壊されて文化侵略を受けた事に無自覚である事を強要されているのにそれに気付かないように教育をコントロールされ、その状態が自然となるまで維持されてしまった
無自覚な奴隷 - >>60
正に君のその無自覚さが典型的なバカにされる日本人 - >>63
無自覚だったのはお前の方だろ、どう考えても? - バカがバカにされて切れる
その態度が君を馬鹿なままに止めるのを理解できていないのが惨めだね - などと馬鹿が申しております
- 乳首イキはイクと子宮口がグングン来るよね♡
男だけど - ハイデガーは復活を知ってない可能性があると思います。
死んでも復活すればきっと死を見つめられるはずなんです。
この方は私のために一念を込めて自殺されたのです。
ハイデガーは二度と現れないことでしょう。ハイデガーさん、どうかご無事で。 - ハイデガーは「死んでは終わるこの生」を構想していたことだろう。
死んだら終わり、と考える者は、昔から大量にいた。
しかしながら、奇跡の生還を遂げる者もいた。
それは、復活でもあった。復活とは生き返ること、でもあろう。
ハイデガーはまったく復活を考慮していなかった。
死んだあと、復活すると、死を遂げたのに生きている、となる。
私はこの復活劇が、嘘だと非難されることに痛切に悲しみを抱いている。
復活劇があるということは、「死んだら終わる生」という考え方が、
すべての者に当て嵌まるとは限らない、ということである。
言葉を強いるなら、「死んでも生はまた続く」という具合だ。
私たちは、人はいつか死ぬ、という言葉を慎重に扱わなければならない。
人はいつか死ぬ、というハイデガーの視線は、死=終わり、というものではなかったか。
現存在の存在を俯瞰してみよう。すると、いつか死んで終わる場合もたしかにあるが、
死んでも復活する場合もある、となるであろう。復活劇はたくさん起きているのである。
しかし復活しないで終わる者もいる。一回死んだら終わりの生がこれにあたる。 - 一回死んだら終わり、とハイデガーはよく言っていた。しかし、私は異論を唱える。
一回死んだら終わる場合と、一回死んでも復活する場合があるのだ。
ハイデガーは、死を「追い越しえない可能性」とするが、復活してしまうとすると、
死を追い越したことになるであろう。死んでも私はいる、ということも往々にあるはずなのだ。
ハイデガーは、死への考え方が甘かったのかもしれないが、私たちは彼の哲学に付け足していくしかないであろう。
↑今すぐ読める無料コミック大量配信中!↑