8月18日、日刊スポーツ杯・鈴木保巳メモリアル最終日の前橋競輪場で、稲村成浩さん(52)の引退報告会を取材した。

稲村さんを初めて取材したのは1990年8月だった。アジアで初めて自転車競技の世界選手権が前橋で行われた。この大会に合わせ、当時1周400メートルの屋外バンクだった前橋競輪場は、333メートルのドームバンク(現在335メートル)に生まれ変わった。プロ・スプリントの松井英幸、坂本英一、神山雄一郎、プロ・ケイリンの俵信之、中野浩一ら国内の超トップ選手が海外の厚い壁に跳ね返され、日本勢のメダルは最終日の26日までゼロだった。この窮地を稲村さんと斎藤登志信の高校生ペアが救った。

中野さんのアドバイスもあり、成長力を買われてアマ・タンデムスプリントに抜てきされた。急造コンビながら2人の呼吸はぴったりで、世界の強豪に全く臆することがなかった。予選のタイムは6チーム中、最も悪かったが、準々決勝で4連覇を狙うフランス組を破る金星。敗者復活戦を勝ち上がったフランス組を準決でも2-1で下した。決勝こそイタリアチームに0-2で敗れたが、見事銀メダルを獲得した。意気消沈していた日本代表チームを高校生が救った。地元の前橋工業3年の稲村さんへの声援がすさまじかったことを覚えている。

稲村さんが90年世界選手権で銀メダルを獲得したことを報じる当時の紙面
稲村さんが90年世界選手権で銀メダルを獲得したことを報じる当時の紙面

競輪学校(現競輪選手養成所)69期を在校1位で卒業した。92年4月にプロデビューし、S級特昇、史上最速のG3優勝(一宮)を達成した。183センチの恵まれた体を生かした先行力で、あっという間にトップクラスに駆け上がった。94年3月の静岡ダービーで決勝に進出(9着)。続く6月高松宮杯決勝では後方からまくって、神山の2着に好走し、この年は全日本選抜、オールスターも決勝に進出した。タイトルは目前、誰もがそう思った。だが、ここからが長かった。

当時は神山、吉岡稔真の全盛期だった。山田裕仁、小嶋敬二ら年齢が近い先輩が立ちはだかる。自力型の神山とは連係できず、ライバルだった。壁を破れない稲村さんの悩みを聞いた。いつしか決勝から遠ざかり、タイトルは取れないのかと思い始めたころだった。

悲願はデビューからちょうど9年たった01年3月松戸のG1日本選手権(ダービー)だった。2角から豪快にまくって先頭で駆け抜けた。表彰式では「おやじ、やったぞ」と絶叫しうれし涙を流した。稲村さんの素質からG1タイトル1つ、G2を2度優勝は物足りないかもしれない。だが、高校生で銀メダリスト、記念優勝最短記録、父雅士さんとの史上2組目の親子G1制覇、シドニー五輪出場と記憶に残る名選手だった。

「本当は父と同じ59歳まで選手を続けたかった。5月に手術した腰は良くなったけど、左膝が急に駄目になり、ウエートトレーニング、自転車にも乗れなくなった。医師から『手術は駄目。QOLが下がるし、52歳だし、もうそろそろ(引退しても)いいんじゃないか』と言われ決意した」と引退までの経緯を聞いた。

稲村さん初めて会ってから34年がたった。ここ数年、取材現場に行くことはなく、直接会えたのは久しぶり。体形は変わらず、肌つやがいい表情は52歳とは思えない。前橋市出身で日刊スポーツの競輪評論家だった故鈴木保巳さんの冠大会で、稲村さんの引退報告会に立ち会え、取材できたことにも縁を感じる。長い間、本当にお疲れさまでした。【田中聖二】

同県同期の金子真也(右)は稲村成浩さんに花束を贈り、感謝の言葉を伝えた(撮影・24年8月18日)
同県同期の金子真也(右)は稲村成浩さんに花束を贈り、感謝の言葉を伝えた(撮影・24年8月18日)
ファンへのあいさつで稲村成浩さんは一瞬言葉に詰まり両手で顔を覆う(撮影・24年8月18日)
ファンへのあいさつで稲村成浩さんは一瞬言葉に詰まり両手で顔を覆う(撮影・24年8月18日)
斎藤登志信(右)がサプライズで登場すると場内のファンから歓声が上がる。稲村成浩さんに花束を贈る(撮影・24年8月18日)
斎藤登志信(右)がサプライズで登場すると場内のファンから歓声が上がる。稲村成浩さんに花束を贈る(撮影・24年8月18日)
斎藤登志信(左)と稲村成浩さんは並んでツーショットに収まる(撮影・24年8月18日)
斎藤登志信(左)と稲村成浩さんは並んでツーショットに収まる(撮影・24年8月18日)