等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集
大滝 洸 / Hikaru Otaki

1997年、埼玉県生まれ。「たぶん生まれてからずっとある」という自分の名前や体に対する違和感を抱えながら、幼少期から思春期を過ごす。高校生のとき、トランスジェンダーの同級生に出会ったことで、自分もそうであると自認。17歳でジェンダークリニックを受診し、18歳で性同一性障害(性別違和/性別不合)の診断書を取得する。大学卒業後は住宅メーカーに就職。営業担当として働きながら、性別適合手術を受けないまま、転勤先の岩手県にて戸籍の性別変更を申し立て、盛岡家庭裁判所は2024年5月に性別の変更を認めた。

スーツを着て、一般企業で働いている姿を発信して、トランスジェンダーの就労に希望を。【前編】

背筋をスッと伸ばし、スーツをパリッと着こなして、大滝洸さんは待ち合わせ場所に現れた。家庭環境のせいか、口下手な性格のせいか、幼い頃はいつも周囲から浮いてしまっていたというが、現在は相手とのコミュニケーションを基本とする営業職に就いている。トランスジェンダーに関して、かつてネガティブな情報ばかりが目についたことから一念発起して、ひとりの社会人としてポジティブに生きている姿を見てほしいと発信を続ける。

Photo : Tomoki Suzuki
Text : Kei Yoshida
2024/08/16/Fri
目次
01 ちょっと変わった家の子
02 中学の美術部を再建
03 母の再婚はお金のため?
04 女子高に入学して一気に好転
05 “トランスジェンダー” との出会い
==================(後編)========================
06 高校に通いながらホルモン治療を開始
07 正々堂々と就職して営業マンになりたい
08 両親との絶縁
09 手術を受けずに性別変更を
10 積み上げていけば、きっと結果が

01ちょっと変わった家の子

画家である祖母と叔母の影響で

生まれは埼玉県浦和市。
一卵性双生児の妹と両親の4人家族だった。

「父方の祖母と叔母が画家なので、その影響で私たち双子も祖母の絵画教室で絵を習うようになって、子どもの頃は画家を目指す感じでしたね」

「絵を描くことは好きでした」

夢中になって、気がつくと日が暮れていることもあるほどだった。

絵画コンクールにも積極的に応募し、始業式ではいつも壇上に上がって、全校生徒の前で賞状を受け取っていた。

「家で絵を描いてばっかりだったので、友だちと遊ぶこともなかったし、流行っていたテレビ番組を観ることもなかったですね」

「周りともコミュニケーションがとれてなかったので、たぶん “ちょっと変わった家の子” だと思われてたと思います」

「学校に友だちはいませんでした」

しかし12歳のとき、両親の離婚をきっかけに絵画教室には行かなくなる。

「私と妹は、父と離れて母と暮らすことになって、やはり祖母と母は折り合いが悪くてなってしまって。自分たちが絵画教室に行くことで揉めるんだったら、もうやめますって感じになってしまいましたね・・・・・・」

両親の離婚と再婚、そしていじめ

この離婚がさらに “変わった家の子” という印象を強めたかもしれない。

「苗字が変わってしまったので、両親が離婚したことをみんな知ってるんですよ(苦笑)。その頃は、周りに離婚した家族なんてほとんどいなかったので、自分だけだっていう疎外感がありましたね」

「もう、“ふつう” の家庭ではなくなってしまったんだなぁって・・・・・・」

その疎外感は中学生になってさらに強まってしまう。

「当時、自分の名前がどうしても受け入れられなかったんです。愛里っていう、ものすごいかわいい名前なんですよ(苦笑)。だから自己紹介するのがつらいのもあって、中学で会った人たちとも会話ができなくて」

「小学生のときは私服でズボンをはいてたんですが、中学では制服のスカートをはいてました。校則だから、仕方なく」

「そしたら『あいつがスカートはいたぞ』ってからかわれるんですよ・・・・・・。そんなことから、どんどん自信が無くなっていっちゃって」

からかいは次第にエスカレートして、深刻ないじめとなる。

給食を運んでいるとき、同級生の男子生徒に足を引っ掛けられて転んでしまい、食器のほとんどが割れてしまうということもあった。

さらには中学2年生のときに母親が再婚し、苗字が変わる。

「また悪目立ちしてしまったんです」

「いじめは中学卒業まで続きました・・・・・・。妹は、私と違って “女子” って感じで、ニコニコしているタイプだし、なんとかやってましたね」

02中学の美術部を再建

部員を6人から43人に

絵画教室には行かなくなってしまったが、中学校では美術部に所属。
2年生の夏からは部長も務めた。

「美術部にいる時間は、いじめもなくて一番楽しい時間でした」

「特に、絵を描くことよりも、美術部をどれだけ大きくするかってところが、自分にとっては楽しかったですね」

入部した当初、6人ほどだった部員は、3年生で43人にまで増えた。

「部活として当たり前のことをやっただけなんです(笑)」

「コンクールに部員みんなで応募するとか、油絵の具セットなど最低限の道具を揃えるとか。そして、活動内容をほかの生徒にちゃんとPRすることです」

毎年4月になると、新入部員を募るために活動を発表する場が設けられる。

「そうした発表の場だけは謎の自信があって、やってましたね(笑)。やることをやれば反響があると信じてやっていたら、ちゃんと部員が増えました」

しかし、部活からクラスに戻ると依然としていじめがある。
中学では、卒業するまで部活以外では友だちはできなかった。

「Twitter(現・X)は13歳くらいからやってたんですが、当時は “ただの病んでる人” でした(笑)。『疲れた』くらいしかつぶやいてなかったと思います」

「いじめのことも書いていたかもしれないですね・・・・・・」

クラスでは授業に集中

小学校でも中学校でも、クラスで居場所を見つけることはできなかった。

無視されたり、からかわれたりしながら考えていたのは、クラスメイトたちと「違うかたちで会えていたらよかったのに」ということ。

「きっと、大人になって会っていたら、お互いに許容できる関係だったんじゃないかな、って思っていました」

「いじめに関しては、私にもなにかしら非があっただろうし、どうしたらいいのか考えるべきだったかもしれないけれど、当時はもう、ここでの関係は忘れるしかないかなって諦めていました(笑)」

それでも、いじめられることは精神的にとてもつらいものだった。

「学校へ行けなくなった時期もありました」

「家でTwitterばっかりやってたら、母が『早く学校に行きなさい!』ってパソコンの電源コードをペンチで切ったんですよ(笑)」

「こっちとしては、離婚がいじめの原因のひとつでもあるから、こんなふうに学校にいけないのは母のせいでもあるのに、って気持ちもありましたけど、そんなこと言っても始まらないので、『じゃ、勉強します!』って」

その代わり、偏差値が15上がったら新しいパソコンを買ってもらう、という約束を取り付けた。

「それで学校に行ったら、次の席替えのときに、教卓の前に席を固定してもらって、卒業までそのままで勉強をがんばりました」

「偏差値は上がりましたよ。いいパソコンを買ってもらいました。勉強に熱中しちゃって、ぜんぜん使わなかったですけど(笑)」

03母の再婚はお金のため?

あなたたちのために

私が学校でいじめにあっていることを、母は知っていた。
知ってはいたが、手助けをしようとはしなかった。

「母は『なにごとも自分で解決できないとダメ』という人で、親が子を助けるなんてことはしない。自分でなんとかしてこいって感じなので」

「私は、自分で担任に相談して、いじめた相手と担任と三者で話し合うことができましたが、そんなふうに、自分でなんとかでいない子だったら、しんどかっただろうな、と思います」

「事後報告として母に、三者で話し合いましたって言ったら、『本来なら当事者である二者で解決するもんだよ』くらい言われました(苦笑)」

離婚後は住宅ローンの支払いを抱えながら、子ども2人に財産を残したいという気持ちがあり、いつも仕事で忙しくしていて、親子で話す機会も少なかった。

だからこそ、そもそも母に悩みを打ち明けることさえ難しかった。

「母の再婚相手・・・・・・義理の父は、母の勤め先の経営者なんですよ」

「母より25歳上で、初めて会ったときから、私からしたらおじいちゃんって感じで、父親とは思えなかったし、なんで結婚したのかわかりません」

「でも、よく『あなたたちのために結婚したんだ』って言ってたので、お金のためというのが結婚した理由として一番大きいんだと思います」

再婚していきなり別居

母が再婚して再び4人家族という構成になっただが、義理の父も母も持ち家があったので、結婚して以来、母は2つの家を行き来するようになる。

「私と義理の父は、まったく性格が合わないんですよ。もう何度もケンカしてますし、同居なんてできる状況じゃないってことは母も気づいているし、向こうも私とは会いたくないという感じなので」

母は、一週間のうち月水金は自宅にいて、子どもたちのために食事を作って洗濯をして、残りの4日は向こうの家で過ごす。

つまり週4日は、家には子ども2人だけだった。

「再婚していきなり別居。家族全員が一日一緒にいたこともない。すごい奇妙な生活・・・・・・変わった家でしたね・・・・・・」

それでも、親には感謝している。

「いじめのせいで不登校になったときの、勉強の遅れを取り戻すために家庭教師をつけてほしいと言ったらつけてくれたし、高校受験のためにこの2科目は塾に行って勉強したいと言ったら、行かせてくれたし」

別居状態だったこともあり、家族で旅行するどころか、一緒に過ごすこともほとんどなかったが、勉強に明け暮れた中学時代は気にすることもなかった。

04女子高に入学して一気に好転

知性的な生徒のなかで学生生活をリセット

「女子高に入ったのは、ただただ、せっかくがんばって勉強したので、自分の偏差値に合った高校を選んだだけのことでした」

女子高を選択しても共学を選択しても、女子生徒として通うことは変わらない、という諦めもあった。

「もしかしたら、深層心理としては『男子からいじめられたくない』とか考えてたのかもしれないですが。あと、『男子と自分を比較したくない』とか」

手を握ったり開いたりしながら、どうして自分の手の甲には男子のようにくっきりと血管が浮いてこないんだろう、と考えていた記憶がある。

「高校は妹とは別々になったので、双子だから目立つということもないし、絵を習っていたという履歴もなければ、両親が離婚したという履歴もない」

「すべてがやり直しできる環境だったのも、すごくよかったです」

入学してすぐに、ひとりで弁当を食べていたら、クラスメイトから「一緒に食べましょうよ」と声をかけられ、人生が好転していく感じがあった。

「仏教系の私立の中高一貫校で、知性的で理性的な生徒ばかりだなって思いました。先生が話しているときに私語をしている生徒はゼロって感じで」

「しかも寛容さもあって、すごく過ごしやすかったです」

弓道部での学びが実生活のマナーに

高校では弓道部に入った。
絵を描くことは辞め、なにかまったく新しいことを始めたかったのだ。

「コミュニケーションをとるのが苦手だけど、弓道は個人競技だし、筋トレをやらないらしいから部活自体もそんなにキツくないだろうし・・・・・・続けられそうだな、ってことで入部しました(笑)」

弓道では、さまざまな学びがあった。

「いろんな場面で決まった型があって、それが間違っていると失礼にあたるってことを学びました。人としてのマナーに近いものですね」

「たとえば、歩くときは摺り足で、とか、的から矢を抜くときはお尻を人に向けてはいけない、とか。ほんといろいろあるんですよ」

「学んでいくと、それが実生活のマナーにもつながっていく。テーブルに肘をつくのが失礼になる、とか。スポーツは、どれだけやっても極めるのは難しいですが、そういった作法を学ぶのはおもしろかったですね」

子どもの頃から周りとの会話が苦手だったぶん、言葉ではなく行動で誠意を示すことができるということを学べたのも大きかった。

スッと背筋を伸ばした姿勢も、弓道の経験が活かされているのかもしれない。

05トランスジェンダーとの出会い

男装状態だった自分も、きっとトランスジェンダー

「愛里」という名前を口にするのがためらわれて、自己紹介がイヤだった。

「なんでこんな名前なんだろうっていつも思ってました」

女の子っぽくて、かわいらしい名前。

「自分の名前とは思えなかったですね」

高校に入学してすぐ、自分のクラスの前で気になる人を見かけた。
どうやら、クラスの誰かを待っているらしい。

「その人は、女子高の生徒だから当然女性なんですが、スカートをはいている姿が女装している男子に見えたんですよ」

誰なんだろう。

気になって周りにきくと、その人はクラスの前で “彼女” を待っているのだということがわかった。

「話しかけたいとは思ったんですが、私は口下手すぎて無理なので、ツイッターでその人を探してみたんです。そしたらアカウントを見つけたんですよ」

アカウントから辿っていくと、その人のブログに行き当たり、そこではトランスジェンダーについて語られていた。

それを読んで改めて、「あ、そうか、自分もそうかもしれない」と思い、
ある日、その人に「私もトランスだと思います」と伝えた。

「自分の名前が受け入れられなかっただけではなく、中学からは制服でスカートははいてましたが、塾に行くときは服も髪型もボーイッシュで、ほとんどもう男装状態になっていて」

「その自分の状態を言葉でどう表現したらいいかわかっていなかったんですが、総合的に考えて、トランスジェンダーだと思う、って言いました」

トランスジェンダーはまともに就労できない?

トランスジェンダーだと公言していたその人とは、状況が似ている者同士、友だちのような関係になれる可能性もあっただろう。

しかし実際には、FTM(トランスジェンダー男性)同士とはいえ、治療や将来についての考え方がまるで異なり、仲良くなるのは難しかった。

「私は『営業マンをやりたい』って話をしたんですが、その人に『馬鹿げてる。できるはずがない』って言われて」

「その人は、トランスはまともに就労できないと悲観的で、トランスでも許容されるだろう就職先を彼なりに探したようです」

「でも、『できるはずがない』とか、そんなに否定しなくていいじゃんかって思って・・・・・・。それから一旦は縁が切れちゃいましたね」

営業マンになりたい。
そう思ったのは、自分に自信がなかったから。

特に、見た目のコンプレックスが大きかった。

そのコンプレックスを乗り越えるには、仕事で結果を出すしかないと思ったのが大きな理由のひとつだった。

「見た目にコンプレックスがあるからこそ、スーツを着て、見た目から相手に信頼されて、ものを売っていくという営業マンとして、結果が出せれば、きっと自分も満足できるだろうなって」

「あえて、自分のコンプレックスと向き合っていこうと思ったんです」

 

<<<後編 2024/08/23/Fri>>>

INDEX
06 高校に通いながらホルモン治療を開始
07 正々堂々と就職して営業マンになりたい
08 両親との絶縁
09 手術を受けずに性別変更を
10 積み上げていけば、きっと結果が