今週は企業探求ということで、クリームパンやカレーで有名な新宿中村屋の生い立ちから現在までを、創設者の相馬ご夫妻の著書(「黙移(もくい)」、「一商人として」)を参考にしながら歩いてみたいと思います。
<田辺茂一 「わが町新宿」より> 2002年9月18日追加 新宿中村屋の丁度前にあった新宿紀伊国屋の創設者 田辺茂一氏が、大正から昭和初期の新宿中村屋について書いています。 「明治四十年、中村屋は本郷春木町から新宿に引越してきた。山之手方面に、パン食の文化人が多いからというネライであった。引越してきた当時は、私の家の真ん前であった。初代相馬愛蔵、黒光夫妻と店員としては、小僧二人であった。私も幼いときだったから、直接に見聞きしたわけではないが、その小僧さんの一人が、パンを買いにくる。通り一つ隔てて、こちらからみていると、可笑しなことになる。その買った袋を、小僧さんは路地の裏に行って空にする。買物客のサクラである。そんな苦労もあったのである。……大正時代の中村屋は、間口四間半ぐらいの低い木造二階建てであって、その間口も、向かって左の一間半は、人力車屋であった。昭和二年、その人力車屋を改造して、喫茶部を設けた。……喫茶部ができてから、暫くし、こんどは、印度風カレーライスを売り出した。たしか一円二十銭であった。それまで、中村屋に寄食していた、長女相馬俊子さんの愛宿印度の革命志士ボースさんの発案に相違なかった。カレーの味が違い、米も違っていた。さすがに、本場だと、巷間の好評を博した。」とあります。無駄を省き、商売一筋にはげまれていたのではないかとおもいます。なかなかおもしろく、当時の新宿中村屋の様子を書いています。
新宿中村屋の創設者は相馬愛蔵・黒光夫妻です。相馬愛蔵氏は長野安曇野の出身で、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、明治30年仙台藩の漢学者・星雄記の孫の黒光さんと結婚しています(愛蔵28歳、黒光22歳の時です)。彼女は本名を良といい、若い時から多感な少女で仙台の宮城女学校をストライキのため退学、上京して横浜フェリス女学院に転校、次に麹町の明治女学校(ここでは島崎藤村が英語の先生をしていて、講義はぜんせん面白くなかったそうです)に明治28年夏、転校し卒業しています。彼女の著書の「黙移」に「ロングフェローのスパニッツュスツーデソト第一幕二場の初めの方、チスバの台詞の中に、What does marry mean? It means to spin, to bear children, and to weep.結婚とは、妨ぐこと、生むこと、泣くことである、というのがあります。この句は私の夢を醒ますのに充分でした。」とあります。彼女の結婚観を少し現しているような気がします。また相馬家に嫁ぐ頃のことを「黙移」には「いよいよ学校も卒業になり、私は島貫さんに送られて、信濃の相馬家に嫁ぎました。私はここで思いにまかせて、自己中心の話しようを致しましたが、小説による失敗、男性との往来の難かしさ、世間の無理解、新聞の中傷記事、それらはこの時代において最も著しかったもので、幾多の才ある女性が文芸への道に志を抱きながら筆を折って隠れた裏には、おそらく一人の例外もなく、これに類する絶望と幻滅があったものと察して間違いなかろうと考えられるのであります。」とあります。この後、彼女は文芸への道をあきらめて長野安曇野の相馬家へ嫁いでいきます。しかしながら田園生活に彼女は馴染む事ができず、健康を害して仙台の実家へ戻ります。この後夫婦で相談して上京することになります。(この時代にしては愛蔵さんはものずごく理解ある夫ですね!) ★左の写真はお二人が上京して初めて住んだ所、駒込千駄木林町十八番地、団子坂坂上を右に曲がり、写真左に写っている文京保健所の右隣当たりです(この辺りは今は高級住宅街 です)。
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